01:恋愛せよ

 【恋愛】―する 特定の異性に特別の愛情をいだいて、二人だけで一緒に居たい、出来るなら合体という気持ちを持ちながら、それが、常にはかなえられないで、ひどく心を苦しめる・(まれにかなえられて歓喜する)状態。「―結婚D・―関係D」
 確かそれは、現代国語の授業中。自分の授業を全く楽しんでいない生徒たちに、担当教諭が頭を抱えて生み出した方法のうちの一つ。辞書をもっと身近に、辞書をもっと楽しんで、という計らいから刷られたプリントに載っていた単語。確かにいつも使っている辞書と比べると特殊だったが、それでも自分には何の感動もなかった。きっと、それを見せられていた同じクラスの生徒たちもそうだろう。苛められている立場と苛めている立場の人間の感情が、珍しく唯一同じになる瞬間だった。
 けれど今その言葉を思い出すのは、当時何かの感情が、確かに自分にあったからだろう。でなければ、今こんな時に思い出すはずがない。
 薄く笑う彼女をどう思ったのか、息がかかるほど近くにいる彼女を睨む男性がいた。睨むと言っても、それはただ彼の目つきが生まれつき悪いだけで、彼女から見れば不思議そうに自分を見ているだけだ。
「何を笑っている」
 彼の言葉に、彼女は笑いを収める。軽いものだし、笑いが止まらないほど面白いことではないので、彼女はすんなりと答えることが出来た。
「あまり、意味はありません…ただの、思い出し笑い…」
 そうは言っても、それは思い出し笑いというものに該当するのかすら分からない理由。静かに、けれど何となく歪んだ、微妙な黒さを持つ理由。被害者と加害者が、客観的に持ち込まれたものに対し、同じ感情になる瞬間。とてもくだらない一体感。
 その空虚な笑いをどう思ったのか、彼は鼻を鳴らすと彼女の首筋に顔を突っ込んだ。
「きゃ…」
「俺が目の前にいると言うのに他の事を考える奴があるか」
 彼女の薄っすらと汗ばんだ淡い薔薇色の肌を嗅ぐように、彼は首筋に口付けた。彼の唇は案外に柔らかく、そして温かく、彼女はその刺激に肩を竦めようとする。それを見越しているのであろう彼は、彼女の肩を片手で包み込み、そのままの体勢を維持しようと体を動かした。
「・・・・ちょ、ちょっと、・・・・んっあ、ゆっ、揺れないでっ・・・・!」
 悩ましい抗議の声が、彼の耳に軽く触れた。無論、彼はそのつもりがなく、体勢を少し変えることに成功すると、くすくすと三日月のような笑いを残す。その態度に、彼女は彼が体勢を変えないことを悟ったのだろう。体の力を抜いて、頬を小さくだが膨らませた。
「・・・・なんでっ・・・・、そう意地悪なんです?」
「お前がそうさせているだけだ。俺の責任ではない」
 憎らしいことこの上ない返事に、彼女は抗議代わりに彼の肩に手をかける。脇を締め付けられるような体勢になった彼ではあるが、それでも彼女の二の腕は柔らかく、あまり力を感じさせない。心地よい圧迫感に身を委ねながら、彼女の声を聞いた。
「――思い出しただけです。昔の・・・・」
 柔らかく微笑んでいる彼女とは裏腹に、彼の目つきは次第に鋭くなる。
 彼女は何も言わないが、それでも彼は知っている。彼女がチキュウでどんな生活をしていたのか。詳しくは知らなくても、恐らく自分と同じような、孤独と空虚な気持ちを抱えていたことぐらいは分かる。
「ふん・・・・」
 彼の唇が彼女の肌を撫でる。
 何ともないという顔をしていた彼女が、くすぐったさに軽く笑う。まるで、果実酒がこぼれるような、甘く軽い響きを持つ笑い声。そして、絹のような白くただ美しいだけの無感情な顔が、一瞬にして少女とも妙齢の女ともつかぬ、可愛らしい笑みをもつ女性のものとなる。
 その表情を見て安心したのか、彼は彼女の丸い肩を軽く掴む。そしてそのつややかな肌に指先だけで軽く円を描くと、彼女は微かに揺れて笑い出した。
「ちょ、ちょっと…!…あ、だ、だめって、ばっ」
 彼はそんなことを聞きやしない。ただ単純に楽しそうに、小さな肩の感触を楽しんでいる。それをどう思ったのか、彼女は少し拗ねたような顔をすると、そのままなんとか話を続けた。
「・・・・・昔の、他愛もない思い出・・・・・。今みたいなときに思い出すの、変だなあって思って・・・・・」
「・・・・・・」
 しっとりと心地よい肌を軽く愛撫し続けながら、彼は彼女の言葉を聞き続ける。彼女の儚く華奢く可愛らしい声は、まるで彼の耳元を撫でているように感じた。
 声は彼女が、指は彼が、互いの緩やかな刺激となるように、互いを優しく愛している。
「・・・・当時は何の感動もなかったんです。けど、それでも今思い出したってことは、何かの思い入れみたいなものがあったってことなのかなあって」
 紫の爪が、軽く薄桃色の肌を叩く。それに、彼女は薄く笑った。
「それで、何となく思ったんです。今の状況に、似てるからかなって」
「状況?」
 鸚鵡返しに彼が尋ねて、それから自分達の現状を思い出す。
 そして彼女のその言葉を直接的な意味合いで受け取ったらしく、彼は呆れ半分好色半分といったような笑みを浮かべた。彼女の体のほうにしっかりと指を這わせながら。
「余程淫猥な思い出らしいな。お前がそういうことに感化されることは悪いことではないが…」
「ちがいますっ!」
「なら何だ」
 腕を解いて、狭い空間なりに彼に肘鉄を食らわせようとしていた彼女の動きが止まる。それから少し躊躇するように視線を彷徨わせると、少し怒っているように、そして少し照れるように彼を睨み付けた。
「何でもないです」
「そこまで言って何もないことはないだろうが。とっとと言え。誤解したままでいいんなら、それなりに想像してやるが」
「いやですっ!」
「なら言え。誤解されたくないんだろう?」
「・・・・・・・・」
 彼の言葉は端的で、同時に彼にしては正しい。しかし、彼女はその言葉に従うつもりはなかった。彼が武将として実に優秀なくせに、傍若無人で助平で変なところで幼稚だからこそ、彼女はその詳細について述べるつもりは全くなかった。
 自分が素直にその言葉を口にした時、きっと彼は意地が悪そうに笑うだろうから。その笑みを見ると、どうしようもなく恥ずかしくなってしまうから。
「・・・・・・おい」
 もう熱は冷め、薄桃色だった肌は今は淡い真珠色となっている。その彼女の細い肩を、彼の真っ白な手が軽く揺する。
 しかし、彼女は精一杯のしかめっ面でただ彼を睨みつけるだけで、彼の言葉に答える様子はない。その顔が本当に怖いのならともかく、眉根を寄せ、まるで子犬が大型犬に必死で喧嘩を売っているようにしか見えないその姿は、どうしようもなく可愛らしい。しかし、この顔にキスなり何なりしようものなら、頭痛がするほど叫ばれたり、鼻辺りを歯型がつくまで噛まれそうな雰囲気もしないでもない。
 結局どうすることもできず、無表情で彼は彼女を見つめ、そして彼女は必死に彼を睨みつける。
 それがいつまで続いたのか分からないが、彼が大きくため息をつき、いまだに体同士は密着しているにもかかわらず警戒している彼女を見据えて呟いた。
「スノー」
「・・・・・・」
「喰うぞ」
「いやです」
「喰う」
「だめ」
「お前が変に意地を張るからだろうが。喰う」
「だめです。ジャドウが意地悪だから」
「どういう繋がりだ。接点が見えんぞ」
「見えないふりしてるだけでしょう。とにかくだめです」
 それこそまるで子どものように頬を膨らませる彼女に、彼はまたも大きなため息をついた。確実に、呆れが入ったため息だが、それでも彼女は気にせず睨み続ける。
 ベッドの上、既に深夜も回り、恋人同士の男女が持つにしてはあまりにも不毛で虚しいほど緊張しているこの空気に収拾をつけようと、彼は自ら折れることにしたらしい。真っ直ぐに彼女を見据えて、静かに口を開いた。
「・・・・・・おい」
「・・・・・・・・」
 無反応。今まで拗ねる様子も可愛らしいと思っていたが、さすがにここまでくると小憎たらしい。本当にこの女がルネージュの、異界の魂と呼ばれる女王なのかと疑問に思ってきた彼である。
「愛してる」
 彼にとっては安い言葉。否、安くはないが、滅多に使わない上に使おうともしない言葉。思い入れのない、けれど彼女に抜群の効果を表す言葉。
「・・・・・・・・・・・・・」
 果たして、彼女の険しい顔は一瞬に蕩けた。そうなるまいと必死で踏ん張っているものの、頬は赤く、唇に隙が出来る。
「もぉぉぉ・・・・」
 そして漏れた言葉は、そんな悔しそうな苦々しそうな、恥ずかしそうな響きを持つ。
 やっと機嫌が直ったと確信した彼が、彼女の顎を軽く固定しながら優しく尋ねる。しかしその優しさは、毒牙と自らの勝利を物語っている。
「ジャドウ、ずるい・・・・・」
「それはすまんな」
 薄く笑ったままの彼が、赤面しながらも恨みがましく睨みつけてくる彼女の唇に、自分の唇を重ね合わせる。
 ベッドの上、既に深夜も回り、恋人同士の男女が持つに相応しい気だるさと甘さが、二人を包み込んでいった。


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