02:嫉妬せよ

 その指先は美しい。
 ふっくらとした指の腹は絹のように触り心地が良い。爪は磨いてもいないのに淡く桜貝のように輝き、角のない小さな長方形のような形のそれは、見ているだけで面白い。
 何故そんなものを面白がるようになったのかは分からないが、自分はこれを見ていて飽きることはなかった。
 何故なのか。
 牝と言う生き物を飽きるほど抱き、そして牝自体に飽きるのはそう遠いことではなかった時代があるのに。
「何を、見てるんです?」
 耳に入るのは柔らかい声。硝子の百合のような、繊細で、触れれば折れてしまいそうな声。何か不快なものにすぐ掻き消されてしまいそうな細い声。そのくせ、妙に耳に心地よく、聞いていると気持ちいい。
「ジャドウ?」
 自分を呼ぶ声の持ち主が、そっと青い瞳を向けてくる。その瞳を見ると、情欲が煽られるのがよく分かる。そういうものをまったく表していない、清浄で楚々とした、空の色とも海の色とも付かない、けれどそれらに似ていて美しい青だと言うのに。
 恐らく、この瞳を持つ者のせいなのだ。断片的に視界に映り、耳に入るそれらに、自分がどうしようもない感情を抱いてしまうのは。
 それらを持つのは――全体的に華奢く、そして儚い印象の強い、少女と言ってもいいほどの若さを持つ女性だった。
 昼の陽光を背中に受け、青い瞳とよく似合う白銀の髪が更に眩しく輝いている。まるで、光源がその少女であるかのように。白い輝きが、少女を淡く、優しく包む。
「――そうですか」
 白い瞼が瞬く。目はそれなりに大きいが、瞼を被せると異様に大人しく小さく見える。見苦しくない程度に目元を縁取っている白銀の睫毛も、手で軽く潰してしまえるほど脆く見える。
 まあ、人間の頭蓋骨をある程度力を篭めれば潰せる自分が思うには、説得力がない喩えであるが。
「おつかれさまです」
 少女の微笑みが、自分の心という砂漠に落ちる水滴となる。それは一瞬砂の海に触れると同時に、深い大地にすぐに吸い込まれていってしまう。明るいとは言えないが、それども一瞬見惚れてしまうだけのことはある、控えめで無防備な笑み。
「・・・・・・ジャドウ?」
 微笑が驚きに変わる。何も考えておらず、何処にも力を篭めていない、ただ自分の行動を不思議に思っているだけ。――そう、それだけ。
 自分は何人も人間を殺してきたのに。何人も同胞――そう言われるだけで、自分自身は心の底からそう思ったことなどない――を殺してきたのに。少女と同じくらいの娘を殺し、犯してきたのに。
 何故そんなにも無防備でいられるのか。何故そんなにも自分を易々と信じるのか。何故そんなにも自分を愛せるのか。
 その理由はもう聞いた。それでも理解出来ない。当然だ、あんな言葉など理解してたまるか。
 血に塗れ、もう洗い流すことすらできない自分が――洗い流すつもりさえない自分が、純白の百合のような娘の思考など、理解できる筈もない。否、理解してはいけないのだ。
「・・・・・・ジャドウってば」
 易々と自分に近付き、その顔を覗き込もうと見上げてくる。その仕草、その視線さえ、理性をくすぐる。抱きしめたいと思う。その唇を自分のそれで塞ぎ、その細い腕を軽く掴んで柔らかい感触を確かめたい。
 けれど、ふと気付くのは自分の感情。妙に冷静なくせに、何かに苛立つ自分の感情。
 目の前の少女を大切にしたいと思い、けれど、それとはまったく逆の感情が膨れ上がる。
 理性を失うほど犯してやりたい。自分に寄せられた信頼を破壊し尽くしたい。少女の完全な絶望の表情を見たい。壊れそうなその笑顔を、壊れそうなその体を、本当に壊してしまいたい。
 しかしその欲望は当然であり自然。もとより、魔族はそのような生き物。その一生に信頼など、愛など、信仰など必要なし。ただ力のみを求め、ただ破壊し尽くすことこそが本能。
 しかし、ゆるりと心地よいこの感情は理性ではない。無駄なじゃれ合いを欲する感情は、しかし理性から来るものではない。自然に頭の奥底から、浮かび上がってくるものだ。あの感情と同じように。
 自分は二つの本能を持っているのだろうか。理性は一つ、しかし本能は二つ。一つで二つのものを抑えるなどと、なかなか無理なことを強いる。しかしどちらかの欲望を放棄してしまえばいいというものではない。否、いいはずだったのだ。この少女が現れるまでは。
「・・・・・あの」
 そう、自分にとって、女はそういう生き物であるはずだった。たまに表面上に出てくる面倒な『性欲』という鎖のもと、妙にしなを作る女を抱かねばならないのは、一種の苦痛だった。それに比べ、人間を殺し役に立たない魔族を殺すのは、何も考えずに心地よかった。
 なのに今は、女を、少女を抱くことをとても心地よく思う。抱くだけではなく、ただこの少女を見ているだけで、昼寝のような心地よさが生まれる。
 何故だ?
「どうか、したんですか?」
 何故自分がそのようになったのか。まるで少女と出会う前と比べれば正反対だ。会ってたったの二年しか経っていないのに、何故そこまで自分が変わってしまうのか。見苦しく、情けなく、狂わしく、意地汚く、人間の、まるで子どものように幼稚に。
 それに比べて、目の前の少女は初めて会った時よりも、ただ更に優しく、しかしきな臭さのない清らかさと可愛らしさを含みながら、輝くばかりの美しさを持っている。――それは、成長というものだと、彼はよく知っていた。
 ならば自分は退化だろうか。自らのこの愚かな感情から来る欲望は――そして思考は、一体何なのだろうか。
 醜く、泥の中を這い回るような心地。堕ちることに喜びを見出す馬鹿者でも愚か者でもない彼にとって、それは屈辱と言ってもいいほどの劣等感。
 けれど汚らしくこの大地を這いまわるのは、本来ならば自分達が正しいのだと思い込む人間たちのはず。自分はそのような人間ではない。この大陸を統べるに相応しい、魔族のはず。それも大魔王の血のみを受け継いだ、魔力があるというだけの人間や天界人の血など混じってもいない、純粋に魔王になるものとして生まれた魔族のはず。
 ――なのに何故だ?この醜い感情は。遥か高みにいる生き物を、見上げる思いは。劣等感としか言いようのない、しかしこの少女に抱くにしては妙に暗い気持ちは。
「・・・・・・・ジャドウ?」
 また、声がする。
 視線を少し上に上げれば、相変わらず見飽きない深く美しい青の瞳を持つ少女が、とても不安そうに自分を見つめていた。
「何か、気分でも悪くなったんですか?」
 その瞳から感じられる感情は、純粋な不安。心配。自分に何があったのだろうと、心の底から心配している。
 そして、やっと気が付いた。
「・・・・・いや」
 少し笑ってそう答えると、華奢な手首を軽く握った。
「少し楽しませろ」
 そう呟き、その白い手に柔らかく口付ける。すると、少女はその口付けがくすぐったく感じられたのか、一瞬目を細める。しかし、態度は抵抗的だ。
「ちょ・・・・・ちょっと、ジャドウ!?」
 非難めいた声など気にも止めず、机を跨いで少女の近くに体を寄せると、その首筋にそっと舌を付ける。
「んっ…!じゃ、ジャドウ!?今まだお昼にもなってないんですからね!怒りますよ!」
「時間は関係ないだろうが…怒る前に気持ちよくしてやる。感謝しておけ」
 そして挙がる少女の盛大な文句にまったく耳を傾けず、鎖骨を甘噛みしながら背中に手を回した。
 急にそんなことをし出した自分をどう思ったのか、彼女は甘い刺激に体を縮こまらせながら、彼の首に腕を回し、囁いた。
「・・・・ばか」
 幼く甘く、とろけるような一言に、またしても小さく口を歪める。
 ――ああそうだ。自分が嫉妬するほど
「・・・・・・ばか・・・・・・」
 そう、自分が嫉妬するほど、彼女が愛しいだけの話なのだ。


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