04:叱咤せよ

 彼の怒りは『逆鱗』と言ってもいい。公式的な立場上は彼女の方が上だが、彼の言葉は彼女を竦みあがらせる。
 だから、彼女は彼にあまりいい思いを抱いていなかった時代があった。ほんの数年前のことだ。会うたびに彼に脅されるか怒られるかのどちらかの反応しか貰えなくて、とにかく城内で一番彼が苦手だと思っていた。
 けれど、いつのことだったろう。彼が本格的に動き出す前、前ルネージュ公に仕えていたと聞く沢山の将や内政官と意見を交わすうちに、妙な違和感を覚えた。
 ―――この人は、本当に自分を好意的に感じているのだろうかと。
 確かに、彼らは彼女に対し、とても丁寧に受け答えをし、よく働き、優しく接してくれた。けれどそれは上辺のことであると、なんとなく気が付いてきた。彼らの立場からすれば当然だ。生まれも育ちもよく、自分よりも更に素晴らしい人に仕え、同時に更なる贅沢な生活をして目指してきた彼らが、どこの馬の骨とも知らぬ小娘一人に頭を下げ続けねばならなくなったのだ。いくら魔力があり、政治の才能があっても、本来ならば彼らとは口も利けない立場にあった娘ではないのかと、心の中では蔑んでいる。
 そんな複雑といえば複雑な、しかし結局言ってみれば欲にまみれた思いを垣間見れるようになると、彼女は彼らと話すことも苦手になってきた。
 それに比べれば、彼と二人でいる時は、その妙な他人行儀と上辺の付き合いがなくなって、恐ろしい反面、変に気が楽になっていた。今でも問題がないことはないが、彼が甘えを許さないひとだと分かれば、頷ける範囲のことである。だからあの時、自分は新しい環境の変化に対して無意識に甘えていたことを、彼に見透かされていたのだろう。
 そう考えれば、なんとなく、あの時の恐怖しか感じなかった彼ですら尊敬に値するものに感じてしまう。いつもはそうは感じないのに、いいことずくめだ。
 けれど、今は、彼には何の責任もないかもしれないが、半分は自分の責任かもしれないが、とりあえず思いをぶつけねば――怒っておかねばならない。
 何より、彼女にも意地がある。いくら彼と裸で向かい合ったことがあろうとも、だからと言って、あっさりとこの事態を見過ごすつもりはなかった。
「・・・・・何を見てるんですかあなたは!」
 ほとんど語尾は叫んでいると言ってもいい勢いで、彼女はテラスの窓を開け放った。無論と言うべきか、そこにいる彼はテラスの手すりに腰掛けて、腕を組みまじまじと彼女の姿を見ていた。
「お前が執務室にいないからこちらに様子を見に来ただけだ。気にするな」
 堂々とそう言う彼の視線の先には、当然と言うべきか、彼女の白い姿態がある。室内で着替えていた時からそれほど無防備な格好はしていなかったが、彼女は胸元をしっかりと手に持っていたシーツで隠しながら、彼を更に睨み付けた。
「だからと言って覗きはよくないことでしょう。大体、様子を見に来ただけなら、ほんの一分ほどで済むと思いますけど!?」
「別に様子を見に来ただけだからな。事を急かすような真似は下手にするまいと思って見届けていただけだ」
 相変わらずの減らず口である。しかし、これで彼女もああそうですかなどと折れるわけには行かない。いくら消極的な彼女にも、いくら彼が彼女の生まれたままの姿を見たことがあると言っても、譲れないものはあるのだ。
 淡い青のレースが縫いこまれたコルセットに、どうやら彼に投げつけるつもりだったらしいリネンのシーツを巻きつけると、彼女は彼のほうへと一歩踏み出す。普段の服装が、肩や背中どころか脚まで剥き出しのものであるせいで、がっしりと胴体を包まれた下着を身に付けると、それだけでもかなり露出が大人しくなったように感じなくもない。
 今の彼女の心のように、体のほうも強固な守りに入った姿勢を見せつけると、彼女はいつもの穏やかさを感じさせないような鋭い目つきで彼を見た。
「見届ける必要はどこにあるんです?昼間のこのお城のこの部屋に、急に賊が現れるかもしれないとでも?」
 珍しく彼女が怒っているのを分かっていながら、当然彼は謝るつもりなどないらしい。生真面目に大きく頷いた。
「確かにその可能性はないとは言えんな。血気盛んなどこぞの衛兵だの将だのが襲ってくる可能性も考えられなくはない」
「そこまで盛んな人はあなたぐらいしか考えられません」
「・・・・・・・・」
 きっぱりと言われ、彼は深く眉間に皺を寄せた。とりあえず、反抗できる範囲のことを彼女に示唆する。
「女王がそのような下衆なことを言うのはあまりよくないことだと思うぞ、スノー」
「魔王の息子が覗きなどと言う下衆なことをしているのはあまりよくないことだと思いますけど?ジャドウ」
 しかし、彼女は守りを崩すことなくぴしゃりと言い返す。長年政治を行っていくうちに、どうやら舌の動きに関する能力は上がったらしいと、彼は心の中で浅く頷いた。それを、自分の身をもってして体感するなどとは、思いもしなかったが。
「・・・・・大体、なんでお前は昼間から一人で着替えている。侍女の一人でも付ければ俺とて一目見るだけにする」
 彼女が珍しく怒っていると言うよりは、猛烈に怒っていると取った方がいいと判断したのだろう。それが遅いか早いかはともかく、彼が自分がしていた行為を認めると、彼女は少し不思議そうになった。彼がその心当たりがないことが、よっぽど意外なことだったらしい。
「・・・・・聞いてないんですか?」
「何がだ」
「ヒロからお誘いが来たんです。理由は少し物騒ですけど、夜から始まる祝賀会の招待状を頂いて…」
「・・・・・・・衣装合わせか?」
 妹の名前を聞いて、途端にあからさまに不機嫌になる彼に、否と彼女は首を横に振った。
「ナハリに直接向かうから、お昼から下に着るものだけでも準備しないと間に合わないんです。それに、あなたに覗かれて無駄に時間をかけたくないし…」
 髪はまとめ直すらしく、纏めている髪帯が少し緩み、首を動かしただけで数本の髪が青い布から零れ落ちる。それを掬い上げながら、彼女は再び彼を睨みつけるが、彼はそんな視線も気にせず再び彼女の全体を見直す。
 いつもはしっかりと身なりを整えているか、一糸纏わぬ無防備な姿のどちらかが多いため、髪留めが少し緩い程度にも関わらず、その姿が妙に新鮮に見える。その上、いくら露出が高くても胸元はしっかり隠すデザインの普段のドレスと比べると、胴体全体を矯正すべしと張り切っているように見えるコルセットは、彼女の意外にも豊かな体つきを普段より更に強調する。特に胸元からくびれ、そして腰にかけてのラインなど、彼女の持つ印象とは正反対と言ってもいいほどの艶かしさすらあった。コルセットから半分見える胸も少し窮屈な印象があるが、その分彼女の胸部が案外豊かであることを思わされる。
 どういう外出着かは興味があるのは確かだが、そこまで彼は芸術的なものをただ愛でるだけの、上品な嗜好の持ち主ではない。触れたいと思い、同時に自分のものにしたいと思う。それは彼にとって、ごく自然な欲求であった。
 そしてそういう欲求を素直に行動に示すタイプでもあった、今までテラスに腰掛けて一歩も動かなかった彼が、ゆっくりと手すりから降りる。
 それに、彼女は彼がどういった行動に出るのか、今までの経験からすぐに推理できたのだろう。慌ててテラスに開け放った窓を閉めようと奥に引っ込んだが、生憎彼はそこまで大人しくない。こんなところで発揮しなくてもいいはずの瞬発力を発揮し、彼女の柔らかい手首を掴んだ。
「それで、何故お前は一人で着替えているのかは訊いていないが?」
「当然です。子どもじゃないんだから、一人で着替えるぐらいのことはできるからと、断りました。それだけです」
 彼がそのなめらかな肌をゆっくりと指の腹で円を描くようになぞっていても、彼女の態度は変わらない。どうやら本気で彼の行為に怒っているらしいが、彼も表情を崩さなかった。夜に彼女と会うような、艶然としていながらも物騒な輝きを持つ眼で彼女を見る。
「それだけか?」
「はい。別にあなたに覗いてほしかった訳ではありません」
 彼が言うであろう言葉を先に使って、彼女は更に拒絶の態度に出る。彼女にしては珍しく強固な態度に、さすがの彼も少々困ったが――当然、彼女がそれに付けあがることを防ぐため、ポーカーフェイスを装っていたが――、それでは、何故彼女がそこまで怒るのかと言うことを考えてみた。
 そして、彼女らしい、且つ自分が関わってくるような、むしろ自分がどういう行動に出れば彼女が喜びそうなのかを考える。それは彼にとっては理解出来ないことであったが、簡単に予想がついた。
「――なら、俺にお前の晴れ姿でも見てほしかったと?」
「――――なっ!」
 今までむらがありはしたが、石畳のような頑固さを見せていた彼女の表情が崩れる。それを見て、彼は満足そうに頷いた。成る程、それならば彼女が自分の行いに対し、いつも以上に怒るのは頷ける。そう思うと同時に、彼の表情は彼の勝利の笑みを浮かべたようになった。
「それはそれは失礼したな。お前の理想を壊すような真似をして。――しかし、これもいいとは思わんか?」
「思いません!時間がないんですから早くあっちに行ってください!」
 付け入る隙を見せてしまった彼女のほうは、顔を真っ赤にして急いでドアを閉めようとする。しかし、ドアを閉めるのなら彼も室内に入るまでだ。珍しく舌打ちする彼女を無視して室内に入ると、成る程、彼女の言葉に偽りがないように、白い箪笥の上には細かいレースの靴下やペチコートが置いてある。ドレスや装飾品は今の段階では必要ではないと先ほども言っていたようだし、これからいつも以上に地味な――彼にとっては適度な露出がないことは華やかさがないことに繋がるらしい――外出着に着替えるつもりなのだろう。
 それに、今日一日のスケジュールを考えると、彼女と出来るのは今日では今ぐらいしかない。夜の遅くに帰ってきて、強引にしたところで、結局彼女が行為中に寝てしまう可能性すらある。それは、彼にとって非常に嘆くべき事態である。
 そう思うと彼は自らに物騒なまでに気合を入れ、逆に微笑を浮かべてそっと彼女の体を壁際に寄せる。力ずくでやれば逆に彼女が力を篭めた瞬間に身を剥がそうとするものだが、優しくリードされるとどうも大人しく従ってしまうらしい。
 一瞬律儀にも彼の促し通りに従いそうになった自分に気がつくと、彼女は慌てて自分の体を彼から離そうとした。
「って、何をするつもりですか!!」
「分かっている上で聞くとは、なかなかお前もいい趣味だな」
「そういう意味で聞いたんじゃありません!」
 必死に彼に掴まれている腕を解こうとしているものの、既に彼女に逃げ場はない。ただ彼と壁とに挟まれて、無駄な抵抗を試みるだけである。真っ赤になって叫ぶ彼女の首筋に、彼はそっと息を吹きかける。
「そうは言うがな、スノー。結局、お前は俺に見てほしかったんだろう?」
「・・・・知りません」
 彼のあまり体温を感じない唇が、彼女の白い首に触れるか触れないかというところで動く。その人を敏感にさせる刺激のせいか、それとも彼の淫視とも言っていいほどの妖しい視線を意識したのか、彼女は耳まで赤くなったが、先ほどと比べると元気がない。
 自分でも、彼の罠のような誘惑を突っぱねるべきだと分かっていても、なかなか全身に力が入らない。いつもそうだ。まるで幻惑でも見せられているように、彼の言葉の一つ一つが自分の対抗心を奪っていく。いつもこんな風に、彼に身を委ねてしまうことに安心する自分がいる。
「・・・・・何故知らない?」
「知らないから知らないんですっ」
 強引な言葉は、まったくもって先ほどの彼女とは天と地ほどの差がある。しかし、彼にはどちらかと言うとこの彼女のほうが自分に馴染みのある態度と言うか表情なので、ますます彼の誘いが勢いづいてくるだけであった。
「知らないのなら教えてやろう。お前は俺に見てほしかった。しかし、結局お前の晴れ姿を見たところで、俺もお前も、外野の目がある以上は下手な真似は出来ん」
「・・・・・したら鼻噛みますよ。舌でもいいけど」
「それは遠慮する」
 きっぱりと断ると、彼は口元に三日月ような微笑を見せる。彼の持つ雰囲気もあって、物騒で下品だが目が離せない、抜き身の刀身のような危うい魅力のある笑みに、彼女は更に身を小さくさせた。
 手は塞がれているから肩を竦めて彼の刺激に構えるが、首が駄目なら堂々と正面から突っ込めばいい。そう考えた彼は、堂々と彼女のコルセットに指をかけた。
「ちょ!」
「――下手な真似が出来ないんなら、ここでするしかないと思うが。なあ?」
 言い終わるや否や、コルセットの結び紐を少し緩める。律儀に全て解こうとしない辺りが、彼が既に我慢ができそうにない状態であることを示している。否、それほど理性が持たない訳ではないが、かと言ってあまり余裕を持って彼女を口説き落とすつもりはないらしい。
「――って、ちょっ、ジャドウ!?」
 そっと、彼の人差し指が彼女の谷間に埋め込まれる。それを見て、彼女は手首を拘束されているとは知りながらも、手首を捩り捻り、彼の拘束から必死になって逃れようとするしかなかった。と言うか、それしか彼女に出来そうな抵抗がないのだが。
 無駄な抵抗を試み続けると、急に彼が今まで手枷のように彼女の動きを封じていた手を離す。確かに、既に手を拘束したところで意味がないと思えるほど、彼と彼女の体は密着していた。密着というより既に傍から見ればじゃれ合っているようにしか感じられない体勢である。事実、彼は人差し指で彼女のコルセットを引き剥がそうとしているのか、それとも単なる性的な悪戯なのか、彼女の谷間に挟み入れた人差し指を、コルセットの内側に引っ掛けるように指を折り曲げる。もう一方の手は分厚いコルセットの影響を受けていない腰の辺りを慈しむように撫でている。
「・・・・やっ」
 どう考えてもその気らしい彼に、彼女は必死になって、今度は足で抵抗しようとするが、彼のほうがその点ではまさしく一足早い。フレアスカートのようなペチコートを、膝をピン代わりに使って留めるように壁際に押し付け、彼女の脚を固定していた。
「って、本気ですかあなたはぁー!」
 屈辱的とはまだ言えないものの、四面楚歌と言ってもいい状態で彼女がそう叫ぶ。それに対し、勝利の笑みを浮かべた彼が彼女の肩を、腰にやっていた手で軽く包み込んだ。
「お前に対しやる気のない態度を取ったことが、俺にあるとでも?」
 ――指し示すところが全く違う!
 そう言いたかった彼女だが、彼がそう言い終わると同時に口の中に舌を入れられてしまった。相変わらずこちらがいくら踏ん張ったところで易々とその守りを崩していく。
「・・・・・んっ、ふ・・・・」
 舌を強引に入れるだけではなく、彼女の機嫌を宥めるように、優しく甘く、口の中を刺激していく。止め処なく溢れ出る唾液を丁寧に飲み干され、舌を不快でない程度に絡ませられてしまう。コルセットを剥がすための指はしっかりと胸に当たっているが、腰やら肩やらにまわっていた手はいつの間にか彼女の頬を優しく包んでいる。彼女が少し嬉しくなってしまうほど、繊細な触れ方で。
「・・・・あ、は、んうぅっ・・・・」
 悩ましい声が唇から漏れる。それにますます調子を上げたらしい彼は、彼女の顎を軽く持ち上げ、彼女にも自分の唾液を飲むようにと舌で急かす。先ほどまで穏やかで優しい舌の侵食が、激しく自分を欲するものへと変わっていく。
 しかし、いくら彼の指摘が正しかろうと、自分が図星を指されていようと――彼のただのわがままのためだけに、今こんなところで折れてしまうわけにはいかないのだ。
 彼女はそう自分を励ますと、既に蕩けてしまいそうな心地よさの中、必死になって壁の方へ手を伸ばす。もう自分の半分以上は、このまま彼の舌に任してしまいたいと思っているが、そうやって何事も彼が考える方向に物事を進めたくないと、意地になっている自分がいる。
 そして、彼女はやっと、何か硬いものを掴んだ。彼女の手の大きさでも十分掴むことが出来る、少し重いが何とか彼と自分とを引き剥がせそうなもの。
 自分が快楽への道を辿ってしまうのはあとほんの数秒であることぐらいは分かる。彼が必死になって抵抗する自分がいじらしく思い、好きなだけ抵抗させてやっているに過ぎないのは分かっている。
 ――ならば、その通りに抵抗してやるまでだ。
 彼女はその重い何かを持ち上げると、軽く金属音がしたことに気づいたが、だからと言ってまた他のものを探すつもりはなかった。とりあえず、振り回せば彼が一瞬でも離れてしまいそうなものであればよかったのだ。
「んぅうー!」
 だから、彼女は切羽詰っていることもあって、その重い何かを思いっきり彼のほうへと投げた。
 その直後、妙に鈍い音と、妙に情けない悲鳴が聞こえた。

 前から君主が今日は出かけると聞いていたので、マユラは書類を裁き終わり、他の仕事の言いつけがないため、その日は暇だった。
 だからいつも通り、少し好奇的な目で見られていることは重々承知で、城の中を歩いてまわっていた。城は規模としては少し小ぶりではあるが、コリーア教の聖地としても名高いだけのことはある。この白亜の建物が何で出来ているかは知らないが、凝った彫刻やバラ窓のステンドグラスがあって、見るだけでも楽しめた。
 しかし、その白亜の清浄な廊下に、何だか妙に物騒な代物を見つけた。物騒、と言うのは、単にそれが禍々しい形をしているとかそういう意味ではなく、それ自体がとても物騒な印象を与えるものであり、実際にそれ自体が物騒であるという意味である。
「・・・・・何だ?」
 よく状況がつかめない彼女がそう尋ねると、その廊下の隅に倒れこんでいた生き物はむくりと起き上がって、辺りを見回した。
「・・・・・・・くっ。奴め、刺したな・・・・・」
 何やら物騒なことを言うと、頭から勢いよく血を流しているそれは、マユラを見て眉間に皺を寄せた。
「スノーはどうした」
「もう出て行ったと聞いたが。お前は一体ここで何をしていたんだ?」
 本心からそう訊ねるマユラに、しかしその魔族の男は舌打ちして憎々しげに呟いた。
「帰ってきたら折檻せねばならんな…」
「何をしていた」
 彼女はそれなりにマイペースなので、相手が自分の一言を無視しても別段気にしないらしい。もう一度そう訊ねると、彼は苛立ったように彼女の方を見た。
「何だ」
「何でお前は頭から血を吹いて人通りの少ない廊下で倒れていたのかと訊いている」
「スノーがやった」
 その一言に、珍しくもポーカーフェイスの彼女が目を見開く。それから自分の雇い主がそんなことをするのには彼に何らかの落ち度があったと見たのだろう。また次に訊ねた。
「何故そうなる?」
「俺が迫ったら奴め、燭台を人の頭に刺しやがった…。血は寝てる間に止まったらしいが――お陰で血が足りん」
「自分で自分の血でも舐めておけ。――で、なんで廊下で寝ていたんだ?」
 自分の計画が失敗したことがそんなに悔しかったのか、それとも彼女が燭台で自分の頭を刺したことがそれほどショックだったのか――まあどちらもあるだろうが、彼は苛立たしそうに首を振る。血が止まっていることを確かめているのかもしれない。
「刺し傷は浅く済んだらしいが、刺した後にかなり殴られた。銀製の燭台だぞ?いくら俺でも痛いわ」
「それで気を失ったと?そこまで追い詰めるお前が悪いんだろうが。――そうなると、あれか。介抱もせず廊下に放置されたのか」
「らしいな」
 本当に自分の頭から出ていた血を指で拭って舐め始めた彼に、マユラは隠しもせず大きなため息をつく。
 いくら大魔王の息子とは言え、ここまでくると威厳も何もあったものではない。女にこてんばんにされて、そのまま傷の手当てもされずに廊下に捨てられたなどと、人間でもかなり情けない男の部類に入る。
「・・・・・・・・何をしたんだ?そこまで怒るなんてことは滅多にないと思うが」
 実際、滅多なことでも感情を乱さない彼女が、ここまで彼を冷酷に扱うなどとは珍しい。冷酷と言うか、情けなくと言うか、尊厳を失わせるような扱いと言うか。
 それに対し彼はあまり気にもしない様子で、少しふらついてはいるものの早足で廊下を歩き出す。どうやら今は留守になっている彼女の部屋にでも行くつもりなのか、同じく早歩きでマユラも後に続く。
「当然だな。俺ぐらいなものだろう。奴をここまで怒らせるのは」
「惚気るな」
 しかも惚気ても全くあてられたつもりにもならない惚気である。むしろそんなところで自慢をするなと思って情けなくなる。
「奴の理想を裏切って、奴の意地に火をつけたまでだ。この先俺以外の誰がそこまで奴に意地を張らせることが出来るものか」
 まだ惚気ている彼を完全な呆れの眼差しで見ると、再びマユラは大きくため息をついた。
 確かに、彼女を真剣に怒らせることが出来るのは、この男ぐらいしかいないのだろうなと納得しながら。


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