05:勝負せよ

「・・・・・・・・ジャドウ」
「何だ」
「ここのポーン何とかしてください」
「嫌だな」
 吐き捨てるように答える彼に、彼女は軽く頬を膨らませた。目の前に広がる妙に豪華なチェス盤を凝視する彼女に、彼は呆れたような目を向ける。彼にとって、そこまで熱中するようなものではないからだ。
 しかし、彼女にとってそれはなかなか必死になれるらしい。うんうんと唸りながら、黒のポーンと白のナイトが対峙している局面から他へ目を移した。
 もう既に深夜を回っている。彼が彼女の寝室に姿を見せたのがまず夜の少し遅い時間だったため、そうなってしまうのは当然とも言える。しかし、彼はそんなことを当然のことだと思うような気分ではない。
 では何故このようなことになったかと言うと、数日前に起きた小さな事件が発端となる。
 前公爵がルネージュを治めていた時に、ほとんど装飾品として注文したチェス盤と駒一式がようやく完成したという知らせを、数日前に職人から受け取った。それを見て女官長はもういらないものだと思い、そちらで売るようにとの手紙を出したらしいが、生憎職人はそこまで柔軟ではなかった。ルネージュ公爵のために作ったものなのだからと頑として譲らず、終いにはトータスブルグからルネージュへ、自分一人で持っていくとまで言い出した。むこうはかなりの老体だと聞くのに、そんなことをされてもしものことがあれば後味が悪い。女官長は一人でどうしたものかと頭を抱えていたらしいが、それを古参の侍女の一人に漏らしたことで急速に事態が終結に向かっていった。当然のように現ルネージュ君主である彼女にもその話が耳に届き、彼女の鶴の一声でそのチェスセットを元々の契約通りに、受け取ることになったのである。それが今日の昼、やっと届いたのだ。
 期待通りと言うべきか、むしろ当然というべきか。職人に頼んだそれは、実に豪華なチェスセットであった。
 まず盤は漆黒の黒曜石と仄かにばら色を帯びた大理石を使用し、縁は黒檀で仄かに香の香りがしていた。それから次に駒は、土台はやはり黒曜石と大理石だが、それぞれの駒の頭部の装飾は違う石を使っていた。黒曜石には深い濃紺に白い星を散りばめたようなラピスラズリを、大理石には淡いピンク色掛かった瑪瑙を使用している。しかし、それだけでは少し物足りなさを感じたのだろう。違う石同士を重ね合わせるためなのか、それとも単に装飾の一部としてなのか、額代わりに細い唐草の金が輝いていた。その金の細工も美しく細やかで、よく見ると花の花弁や水の流れをモティーフにしているのが分かった。その上、その額が黒白はともかく駒ごとに違うのだ。駒の裏は盤が傷付かないように真紅の絹の小さなクッションが張られており、銀の絹糸でルネージュ王の月の杖が縫い込まれている。そこまで手間をかけ、苦労をかけているというのに、あっさりと他に売れといわれれば確かに辛いものがある。
 彼女は単純にその出来栄えに驚き、同時に喜んだ。なんでも、彼女にとってチェスはなかなか思い入れがあるらしく、その上素晴らしい細工が施されたそれは、眺めるだけでも充分な目の保養になったらしい。相変わらず、王だと言うのに妙に庶民的な感性を持っていると苦笑しながら、女官長は彼女の言う通り、寝室に飾り置くことにした。
 当然ながら、彼女は飾るために寝室に置いたのではない。遊んでもらう相手が遊んでもらえそうな時間には寝室にしか来ないような人物だからである。
 彼女の予測済みではあったが、彼は少し呆れたような表情で無駄に豪華なそれを見た。そして、彼女が早速それで相手をしてほしいと言われて、更に呆れた。ほんの少し、好色そうな笑みを浮かべて。
「・・・・こんなものを入れてほしいのか?物好きになったものだ」
「あなたの取った意味とは違います!対戦しましょうって、言ってるんです」
 彼女の実に素直な誘いに、彼は軽蔑と言っていいほどの苦々しい表情をし、鼻で嘲り笑う。
「それをしたところでどうなることもなかろうが。時間の無駄だ。とっとと脱げ」
 その言葉に、今度は彼女が呆れたようなため息をつく番となる。彼の誘いに色気はあまり求めてはいけないものだとはつくづく承知していたが、そこまで実直に求められるとむしろ気が削がれる。
「・・・・じゃあ、ジャドウ。賭けにしましょう」
「何をだ」
「これに勝ったら、今晩はあなたの好きにして下さっても構いません。けど、わたしが勝ったら、もう一回勝負してもらって、その際の勝ち負けは気にせず、ジャドウには帰ってもらいます」
 それを聞いて、一瞬食指が動いた彼ではあったが、すぐに反論の余地を見出す。
「不公平だろうが。お前が最初に勝てば俺はもう一勝負付き合って、その際に俺が勝ったとしても俺の好きには出来んと言うのか?」
「はい。けどあなたが最初に勝ったらあなたの好きにしてもらってもいいんです。つまり、実質は一回勝負だと取ってくれればいいんです」
 こっくりと頷く彼女に、彼は一瞬唸った。別に自分はボードゲームが苦手である訳ではないし、ルールを知らないわけではないが、とにかく興味がない。その上、相手がどれほどの実力を持っているのかも分からない状態でこの勝負を受けるのは如何なものか――それに、そんなことをするよりは、今ここで有無を言わせずに襲った方がいいのではないのか。
 そういう煩悩の入り混じった悩みを彼女はしっかりと感知してしまったのだろう。頬を赤く染めながら同時に栗鼠のように頬を膨らませて彼を睨みつける。しかし、当然のように彼はそ知らぬ顔で深く考える体勢を取った。
「――待て。好きにする、の範囲はどこからどこまでだ」
「だから言ってるじゃないですか。好きになさってくださいって」
 別に大した意味も含めずに返事をした彼女の言葉を、彼はしっかりと自分のいい方向に受け止めた。いい方向とは勿論、どんなことでも彼女は悦んで受けるという意味合いで取ったのである。
「――よし分かった。ならばその勝負受けてやろう。その代わり、泣くなよ?」
 既に自分の勝利を確信しているかのような言い方に、彼女は少しむっとしたが、相手の実力が分かっていない現状で反論をしても意味はない。喧嘩を買う勢いで、彼の視線を真っ向から受けた。
「はい。けど、恨みっこなしですよ」
 彼もその言葉に頷きながら、二人とも、奇妙な情熱を持ちながら、互いに華美なチェス盤を挟んで座ったのである。

 そして今に至るが、彼女の唸り声は更に長く大きくなっていった。
 先ほどから白の彼女には苦しい状況が続いていたが、更に彼女の敗北の色は濃くなってきている。ポーンを取られるのは仕方ないとして、ビジョップとナイトが一つずつ取られているのはかなりの戦力を削がれる現状となっている。まだ何とかクイーンは生きてはいるものの、迫り来るまさしく暴れ馬のような黒のナイト達の撃退のため、キングの守りがポーンのみとなっているのが現状である。
 どうやらシュミレートしているらしく、黒のナイトと自分のルークをちらちらと見比べている。そんな彼女を見て、彼は薄く笑った。
「お前が犠牲になるものを決めないからそうなるんだろうが。潔く切り捨てるものは切り捨てろ」
「駄目です。必要じゃないものはどこにもないんですから」
 チェス盤を睨みつけながらそう答える彼女に、彼は再び呆れたため息をつく。
「勿論だ。犠牲になる駒はそれらしく振舞えばいい。その上で勝利が成り立つのが現実だ」
「わたしはそういう意味で言ったんじゃありません」
 やっといい手が見つかったのか、早々とルークを黒のルークの斜め一歩手前まで持っていく。引っかかってなるものかと思いながら、彼はごくあっさりとクイーンを白のルークの列に持っていくと、更に彼女が深く考え込んだ。
「・・・・・・・・・ジャドウ、強いんですね」
 しみじみとした呟きに、彼はしかめっ面で返す。
「弱いからやりたがらないと言う安直な思考は止めろ」
「違います。やる気がないみたいだから弱いと思ったんです」
 意味はほとんど一緒だろうが。そう睨みつけるも、彼女はチェス盤を睨みつけるのに必死である。とりあえず、そっと慎重にもう一つのルークを黒のナイトの隣に配置する。それに対し、彼は犠牲も構わず自分のナイトを白のナイトの懐――隣にはクイーンがいたが――へと飛び込んでいった。
 それに、犠牲を見越していたのだろう彼女が、当然黒のナイトをクイーンで潰しながら怒った。
「ジャドウ、自分の駒ぐらい大切に扱ってください」
「くどい。そんなことで勝利が得られるか。それにこれはゲームだ。愛着なんぞ持っていられん」
 と言いながら、全く先ほどの攻防とは無関係な位置にあるポーンを一つ進める。
「それはそうかもしれないですけど…!」
 彼女もとうとう思い切ったのか、先ほど両クイーンの守りがなくなっていたところにずいと自分のクイーンを進めて黒のクイーンを取る。それを見て、彼はにやりと笑った。
「しかしそう言う割にはお前も豪気だな。最も強いものは奥の手として使うべきだぞ。こんなところで相打ちのために使うところではない」
 そう、少し笑いながら白のクイーンをポーンで取る。とうとう彼女の最大の駒がなくなってしまったわけだが、それは先ほどの彼とて同じである。しかし、それをクイーンで取るかポーンで取るかが少し引っかかったのであろう。ちらりと彼女の方を見ると、彼女は何ともいえない顔で取られたクイーンを見た。
「・・・・いいんです。女王はそういうものだっていうのが、わたしの認識なんですから」
 彼にじっと見られているのが気にかかったのか、あまり考える様子もなく奥に引っ込んでいたビジョップを前列にいるルークの隣に持ってくる。それを見て、彼はすぐさまナイトを後列の白のルークの斜め後ろに移動させる。それに、彼女もまるで対抗するように最後列にいた黒のルークを捕らえた。
「阿呆が。自分とゲームとを一緒にするな。大体感情移入するならキングにしろキングに」
「確かに一番無力なのはキングかもしれませんけど…」
「本気で阿呆か貴様は」
 話をそらしたがっているとは取らなかったらしい。しかめっ面で彼がそう告げると、彼女は少し彼を見るだけで、チェス盤のほうに視線を落としていた。それは単に集中したいのではなく、彼の視線から逃れたいためであろう。
「・・・・早く、次、ジャドウの番ですよ」
 そう、ぶっきらぼうに急かすと、彼は望み通り、迷いもなく先ほど動かしたナイトを白のキングを守るポーンの近くにやる。怒りは未だに収まらないらしく、彼女を睨んだままである。
「・・・・・大体、有能なものを犠牲にするのは俺の意義に反する」
「けど、圧倒的に強いものが圧倒的に弱いものを蹴散らすのは卑怯じゃないですか」
「その場に居合わせた奴の運が悪いだけだ。常に同じ力量のもの同士が戦い続けるのは不自然だろうが」
「けど結局犠牲が出るんなら、同じ力量のもの同士が、同じくらい一生懸命に戦うほうがいいと思うんですわたしは!」
 キングをポーンの隣にやると、息を荒げるように彼を睨む。それを見受けて、彼は後列のルークをナイトでなぎ払った。
「それは単なるお前の理想だろうが。どんな戦でも、そうはなるまい」
「・・・・・そう、ですけど」
 白のビジョップをまだ動かしていないポーンで倒す。しかしそうする指先ですら、痛々しい印象で、丁寧に敵のポーンを取った。
「理解をしているならいい。それで自分と同じくらいの力を持っていないからといって退却するような奴ではないことはありがたいがな」
 ルーク一つを後衛につけての状況で、彼はキングを白のビジョップの真正面に置く。それを見て、彼女は丁寧にそのビジョップをやはり一度も動かしていないポーンで押した。
「・・・・そこまでするつもりはありません。君主が退却すれば、それは即ち自国への裏切りになります。自国の民を守ると誓った自分へも裏切ることになります。――難しいんです」
「お前が考えすぎるからだろうが」
 そうきっぱりと割り切ると、ナイトを後ろに下がらせる。それを受けて彼女はルークをキングの前にまで持っていくが、彼は冷静にキングをルークの斜めにやった。
「あなたは考えなさ過ぎるんです。戦い慣れてるし、自分が滅多な相手でないと負けない自信があるからなんでしょうけど」
 と言いながら、ルークでポーンを潰し、着々と彼のキングの守りを薄くする彼女。それを見て、とうとう彼が眉間に皺を寄せた。
「お前、自分で言ったことと矛盾しているとは思わんのか」
「だからそこが難しいんですってば」
 丁寧に自分の傍に黒のポーンを置くと、彼女はそう拗ねるように答えた。
「問題は、自分の犠牲か相手の犠牲か、ということです。ジャドウの言う通り、戦いってそういうものでしょう?犠牲を少なくするためには、わたしたちの世界では同盟ぐらいしかない。けどゲームの世界は勝ち負けだけのシンプルなものだから、少なくとも犠牲は出さなきゃいけない…」
「その理屈がわかっている割に、相手にもっと駒を大切にしろと言い、自分のクイーンは相打ちにして捨てるのはどういう見解だ?」
「・・・・・ゲームの世界では、理想を言うぐらいは、許されないんでしょうか」
「いいだろうが、言われる俺の方は不愉快だ。ゲームであれ現実であれ、相手を防戦に追い込むことも、一方的に暴れまわることも、最初はいいが、すぐ飽きる」
 その言葉を聞いて、彼女はきょとんと目を丸くし、今夜で初めて吹き出すように笑った。
「・・・・・あなたらしいですね、それって」
「気を使ってやるだけだ。ありがたいと思え」
「はい」
 くすくすと笑いながら、彼女は先ほどより幾つか進展があった中で、ビジョップであと一歩でプロモート寸前のポーンを防ぐ。
 彼の方はそれに対して気にする様子もなく、ルークでそのビジョップを追い払う。それを見て、やはり彼女が少し寂しそうに笑った。
「気を使ってくれるんなら、どうしてわざと負けてくれないんです?」
「気を使ってやっても侮辱はしてやりたくないからな。全力で臨むのが当然だと思うが?」
「それは嬉しいです。ああ、そういう意味でなら――」
 彼女はにこりと、彼の方を見て笑う。その笑みは、何の悪意もなく、何の裏に含むものもなかったのだろう。事実、それは彼女にとっても珍しく屈託のない笑みだった。
「わたしはジャドウに感謝するべきなんですね。あなたはわたしの理想に、一つだけでも答えてくれているんですから」
「確かに」
 その笑みに、彼はつられるわけではないが、返すように少し口の端を吊り上げる。彼女も満足そうに頷くと、彼は今度は妙な企みを含むような笑みを見せる。
「――チェック…」
「陛下?いらっしゃいますか?陛下?」
 急な呼びかけに、二人して一瞬驚きはしたが、突然の夜の訪問は以前によくあったので、行動は早い。更に、今までの経験に基づいて月明かりだけでゲームを行っていたのが功を奏した。すぐさま寝台に潜り込むと、彼女が今さっき起きたところだと言わんばかりに眠そうな声でドアに声をかけた。
「――入っていいわ。なにか、あったの?」
 それを聞くと、早駆けの使者と侍女が二人、少し戸惑った様子で寝室に入ってくる。
「ご就寝のところ失礼致します、陛下…」
「実は、つい先ほど、リーガルリリー様の報告書が届きまして…早急にと仰せつかりましたので、このような時間に」
「ありがとう」
 そう言いながら、寝台の上で報告書を受け取る。それにざっと目を通すと、小さく吐息をついて、二人を見た。
「――分かったわ。これのことに関しては明日、皆に言いましょう。明日から忙しくなりそうだから、貴方たちも休みなさい」
「畏まりました」
「失礼致します」
 そう短く返事をすると、彼らは恭しく頭を下げて、静かにドアを閉める。それからもう一つ控えの間のドアも閉めたらしい音が聞こえると、彼が彼女の真横から亀の如く顔を出してきた。どうやら暗闇と彼女が急いでいたことに乗じて一緒に寝台に潜り込むことに成功したらしい。しかし、そのような情けない体勢であっても、二人の表情は朗らかとは言い難い。
「――どういう手紙だ」
「エレジタットの動向の件です。本格的な動きがあって、エルフ軍も今はその準備に忙しいらしくて…」
「援護か。まあよかろう。変態に負けるほど奴らも油断するつもりはないだろうしな。これで負ければ姫巫女は自分の立場どころか処女すら怪しくなる」
「そういう下品なことは言わないで下さい。――で」
「何だ」
 彼が彼女の腰にそっと顔を近づける。それに、彼女は大きく飛び上がった。
「早くそこから出てくださいっ!まだ勝負がついてないのに手を出すのはルール違反ですよ!」
 彼女が急いで彼から距離を取ろうとするも、彼の方が行動は一足早い。否、一手と言うべきか、亀のようにうつ伏せの体勢のまま、彼女の腰にしっかりと手を回していた。
「抜かせ。あれは俺の勝ちだ。確認したいんなら朝にでも見ればいい」
「って、そう言って誤魔化すつもりじゃないんですか!?やっ、ちょ、もぉおっ、どこに手を入れてるんですかぁあ・・・・・!!」
 何か下半身からの刺激を感じたらしく、顔を上に向け肩を竦めて、妙に背筋を伸ばして何かに耐えているらしい彼女に、彼は愉快そうに笑う。
「言ってほしいのか?耳元で言ってやっても俺は全く構わんが、お前はどうなるかは見ものだな」
 そんな言葉を相変わらずうつ伏せになって、ほとんどシーツがかかった状態のまま言うのである。滑稽と言ってもいい格好だが、悲しいかな彼女にはそれを指摘する余裕などない。
 彼の言葉のみに反応するのがやっとである。
「あ、やっ、だめです!言っちゃだめですから!離れてくださいぃ!」
「それは断る。俺の好きにしていいんだろう?」
 言い終わると、彼は急に体を起こして自分の指先に翻弄されていたらしい彼女に襲いかかった。彼女の抗議の悲鳴と喘ぎが混ざり合ったような声を聞くと、彼は笑いながらその口に自分の舌を入れる。
 彼女の甘い香りと激しい抵抗を感じながら、彼は喉の奥で笑った。
 ――どうやって攻略し、次なる勝利を得ようかと、企むように。


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