06:戯れよ

 ゆるゆると覚醒が促される。誰にでもなく、ただ自分が自分に起きるよう呼びかけるだけだが、それでもまだ眠気は頭の奥に薄ぼんやりと残っていた。
 ふと頭をもたげれば潮の香りがした。そんなにここは海が近いのだろうかと不思議に思うが、国境が海面に面していることは確かであるとその香りにも頷ける。そういえば、昨日の夜中に暑さを感じ、テラスの窓を開けたのだ。その証拠に、テラスのカーテンが揺れているのが分かった。
 脳は覚醒を促したものの、まだ瞼は重く、柔らかなベッドや枕に身を委ねるだけとなるのが心地よい。素肌に触れる冷たい空気は少し汗ばんだ体に心地よく、気持ちは春の日差しの中にいるようにまどろんでいる。しかし、実際は夏に近い季節なのだと思い出すと、こうしていられるのも今のうちだという、ささやかな幸せが尚更に愛しく感じられる。
 いくら気持ちが良くとも、裸のままではさすがに体が冷えてしまう。そう思うと、傍らで寝ているひとを起こさぬようにゆっくりと起き上がり、裸足のままでテラスの窓を閉めようとする。
 裸足どころか服も着ていない状態だったが、微かに寝汗を掻くほど熱くなった体に石張りの床は驚くほど冷たく、彼女はその予想外の冷たさに驚いた。辛うじて悲鳴を飲み込むと、彼女は爪先立ちのままテラスへと向かう。
 テラスの向こうは誰もいない。裸のままで外を覗き込むものではないが、それでも少し気になって首だけを外に出す。しかし、聞こえるのは鳥の声くらいなものだ。もしかしたら、少し早い時間に起きたのかもしれない。
 朝露の冷たさを含んだ緑の匂いのする風が入り込み、彼女はその冷たさに肩を竦ませ窓を閉める。裸のままのせいか、予想外の冷たさに肌に粟が生じたが、すぐに収まるだろうと踵を返す。
 それからまた寝台に戻ると、不意に甘えたくなった。
 空気に体を委ねるようにして、誰かと触れ合いたくなる。他愛もない話しをして笑ったり、子ども同士のするような口付けをしたくなる。けれど体はしっかり大人びているから、その後から崩れ落ちるが如く、激しいものに変わっていくのは容易に想像できた。
 けれど大した意味もなく、ただあるとするならば子犬のようにじゃれ合いたいだけの感情が、今の彼女には強かった。けれど、その思いを満たしてくれそうな恋人は、隣で静かに眠っている。
 彼の気の利かなさに少し腹立たしくなりながらも、自分の気持ちを彼に察しろというのは無謀に等しいことを思い出し、やりきれないため息を漏らす。仕方がないので、その寝顔を体に寄り添って見ることにした。
 静かな寝顔だった。いつもなら本当に一瞬しか見ることができないような穏やかな――けれど普段見ることができるものは静かと言ったほうがいいかもしれない――表情で、寝息を立てている。いつもは皮肉めいたものか、哀しくなるほど強い憎悪や怒りしか宿さない瞳が見えないせいか。いつもの目つきの悪さや眼光から感じられる鋭さは消え、案外にも目鼻立ちはあっさりとした美青年であることが分かる。薄く開いた口元の無防備さも、普段の隙が見えない姿から考えれば彼女にとってこれほど微笑ましいものはなかった。
 しかし、見ていればいつしか慣れてしまう。このときの彼女も欲していたものが彼の寝顔ではなかったので、飽きるのは早かった。視線でも感じて起きてくれればと願いながら彼を観察していたが、これで起きればまたいつもの通りになってしまうのは予想に易い。結局、彼がそんな気分になるのを待つしかないのだ。
 何をするでもなく、彼女はただタオルケット越しに静かに上下する彼の体を見る。寝つきは案外に良く、彼と共に寝ていても、蹴られる心配も寝台から追い出される心配もない。ただあるとするならば、彼女より彼が先に起きた場合、彼女が目が覚めたときに彼が覆い被さっているかもしれないということぐらいだ。
 当然のようにその体に無駄なものはない。筋肉然り、脂肪然り。むしろ、彼が彼たるべしとして最低限必要なものが詰められた、完璧な身体が現在横たわっているのであろうということは見るだけで分かった。分かるとはいっても、彼女は単純に、これより増えも減りもしない現状が、彼に最もよく似合うと思っただけである。
 穏やかな寝顔に、呼吸のためにしか微かに動かない身体。そんな、普段からすればとても贅沢なものを横にしても、退屈な時間はただ退屈なだけだ。
 ――ならばこの状態の彼で、少し遊ばせてもらうのはどうだろうか。
 急にそんな考えが浮かび上がり、彼女は一瞬鼓動の高鳴りを感じたが、否と自分の考えに首を振る。
 そんなことをしてしまって、それが彼にばれでもすれば自分の身がどうなるか分かったものではない。いや、大体の予想は付くが、そうなってしまえば現在の時間帯もあって普段以上に大変だと思われる。
 だが遊びたい。否、遊ぶのではなく、否、結局遊んでしまうことになるのだろうが楽しみたい。この穏やかな表情がどこまで刺激に耐えるのか知りたい。
 女王らしくないことは百も承知ではあるが、そんなことを考えるとあれこれと悪戯が思い浮かんでしまう。まずは刺激が緩く一瞬で終わるものから始め、次に別種の刺激を与えることに入るか、それとも更に鋭さを増した刺激を与えることにするか、それからまず迷ってしまい、選択肢は奇妙なバリエーションを持つ。さすがに血が出るようなことはしないが、肌に痕が残るくらいのことはやってみたい。いつもこちらが別のものの痕を体中に付けられてしまい、それを誤魔化す言い訳にどれほど苦労するか分かっていないのだから、このくらいの仕返しならまだいいだろうと彼女は自分を正当化する。
 寝台の中で枕に顔を埋め、だが目と頬を少女のように輝かせながら彼女は想像を膨らませる。その表情を見れば実に全うな精神を持つ人ならば大抵は頬の筋肉が緩むだろうが、その表情の裏にこめられた悪戯心を考えると、彼女が純粋にそれを楽しんでいるだけに微笑ましいで終わるかどうかも分からない。
 しかも相手はただの人間同士の恋人ではない。悪戯をする方が異界の魂と呼ばれる北国の女王というそれなりの肩書きではあるが、その悪戯の対象となるのは大陸を千年近く支配し、人間に恐怖の象徴として刻み込まれた大魔王その人の息子である。ある程度人柄と彼にまつわる逸話を知る者ならば、そんな考えなぞ浮かびもしないし、やったところで寿命が急激に短くなるだろうと予想が付くほどで終わるが、彼女はそうではない。瞬時に硬化する黒い魔手から物理的にも精神的にも逃れることのできる立場にいるわけである。
 想像だけでは我慢が出来なくなり、いよいよ彼女は頭を枕から離すと、彼のほうに体を傾けた。相変わらず穏やかな顔で眠っており、彼女が一人で身悶えしていようが全く気にならないらしい。しかし、これで自分がふしだらなことをすれば、たちまちに目覚めるのだろうなと彼女は確証がないが断固として決め付け、彼の顔にそっと手を伸ばす。
 その寝顔は、静かだった。いつもこんな表情をしていれば、それだけで彼の心も穏やかになるだろうに、何故そこまで敵に向かうように物を見据え、そして敵の中へと突き進むように生きていくことしか出来ないのか。血飛沫と男の悲鳴が、素晴らしく気持ちを高めてくれる香と激励の声になることなどどうやってもないのだ。なのに彼はそう思い続ける。屍の中でこそ、自分が生きていけると、彼の生の証であると思い続ける。
 ――そうではないと気付かせることは、自分に出来るのだろうか。そう、彼女は考え、その柔らかさをあまり感じない頬に手を置く。置き、瞬時にその頬をつねる。
「・・・・・んぐ」
 急に頬肉を摘まれたせいか、彼の軽く緩んでいた口の端が奇妙に釣りあがり、閉じられていた瞼が朱色の肉を見せる。唇の形が奇妙に歪んだせいで、その口から微かに漏れていた寝息が奇妙な声となって出た。穏やかな眉は軽くしかめられ、顔に異物の刺激を感じた彼は軽く首を振る。
 さすがにずっとつねり続けるのは危険と察し、彼女はすぐに手を離したが、その表情は恍惚に近い。頬をつねるという行為が彼に対し達成できたことよりも、彼が実に素直な反応を示したことが嬉しいらしい。感嘆の吐息を長々と漏らし、刺激が消えてまた素直に穏やかな寝顔に戻った彼を見た。
 彼女はその顔を愛しそうに見守る。しかし、同時に寂しさを覚える。
 自分にですらこれほどまで穏やかな表情を見せてくれないということは、つまり自分にも本当に心を開いているわけではないのかもしれないという仮定が出てくる。それを否定することは簡単だが、否定の証拠となるものなどどこにもない。自分が心を読んでいないと言っていても、彼は疑うような皮肉な笑みを宿すことだって何度もあった。――彼は結局、一人で計画を練り、一人で戦い、そして一人で死んでいくつもりなのだろう。
 そんなことはないのに。そこまで自分を信じられないのか。そこまで自分は頼りないのか。そこまで自分は、否、彼は、他者に対し自惚れることなど、もう既に封じてしまったのだろうか。
 悲しくなる。切なくなる。体を重ね合わせることは、彼にとって簡単だろう。けれど自分にとってはそうではなかった。その差が憎い。だが、そうやって長い間生きてきて、そうやってあらゆるものから逃げてきた彼には、何の罪もない。
「・・・・・・ばか」
 そっと彼の耳に体を近付けて囁く。そのついでに、長く息を吹いた。
「っくぅ」
 びくりと彼の全身が震え、今度は軽く肩を竦めて耳元の刺激に対し順応に反応する。彼らしくなく、だが実に自然に。
 女王らしさというものはこのときの彼女には既になくなり、それこそ企むような笑みをじんわりと浮かべた。彼女は第二段目の悪戯の成功に両の手を握り拳にして作って喜びを表現し、次には何をしようかと本格的に考え出す。
 このままくすぐりに移行しても全くおかしくはないが、それこそばれたときの彼の怒りは想像できない。
 大体、彼は笑うといっても皮肉な笑みか品性を感じられない笑みが多い。分かりやすく言うと自分に似合うイメージを崩されたくない、更に率直に言えば格好をつけるのが好きらしいので、鳥の羽で、腋や脇腹や足をくすぐったりして普通に笑わせようものなら今までのイメージに大きな亀裂が生じる。今までのイメージといっても別に誰かに対し格好をつけるのではなく、単に本人のために格好をつけるらしいので、とりあえず馬鹿笑いでもさせようものなら確実に逆鱗に触れる。そうなれば、彼女の体は知りうる限りの悲惨な目に遭うことになる。それは是非ともお断りしたい。
 その前に、腋や脇腹などに手を近付けたところで、それに反応して起きた彼が彼女の体を捕食するかの如く引きずり込むのは想像に容易いのでそれらは彼女から見てもしていいことではないだろう。――なのに自分にはよくしてくるくせに、と彼女は小さく悪態を吐く。
 では痛みに対し彼の反応の極限を見極めるか。それもあまりいいこととは思えない。くすぐりは屈辱的だが体に害はないが、痛みは不快にしかならない。それに彼女は彼に対し、痛めつけたいとは思わなかった。爪で肌に型をつけるのは楽しいといえば楽しいが、あまりにも地味すぎる。否、それこそ今までやってきたことも十分地味ではあるが、時間がかかる上に地味で、しかも見つかれば怒られそうというのは救いようがないし、カタルシスに繋がるというよりも達成感がものを言う。
 彼女は彼の反対側に寝返りを打ち、体を丸めて腕を組む。本人が寝ている間に考えうる悪戯は簡単に思いつき、簡単にできるものならやった。では今度は難易度を上げねばならないわけだが、それがなかなか思いつかない。
 本人はかなり敏感と警戒しておいたほうがいいので、さすがに大胆なことはできない。これで普段は彼が彼女に望むようなポージングを、敢えて彼が寝ている間に取ろうものなら、第六感から目覚める可能性だってある。むしろ、そう考えておいたほうがいい。その辺りのことに関しては妙に敏感なのだ。
 では間接的な悪戯になるが、彼には持ち物がない。あるとすれば装束だが、その装束に何か仕込もうとしてもさすがに無理が生じる。理由は簡単だ。彼の肩当てには生き物が寄生している。彼らを懐柔できるほど彼女は触手というものに良い印象を持っていないし、また繋がりも薄い。大体触手と仲良くしようものなら、それを見た彼がどんな行動に出るかは頭痛がするほど想像し易い。
 故に、彼唯一の所持品に手をつけるのは不可能となる。となると、やはり彼の体に戻ることとなる。
 再び彼女は寝返りを打ち、反対側にいる彼を見る。見れば見るほど気持ち良さそうに眠っているようで、彼女が唸りながら悩んでいるためか、憎たらしくも見えてきた。
 もう一度頬をつねってやろうかと思った瞬間、彼女は勢いよく起き上がる。
 寝ている人に対する悪戯といえばこれ、という王道をようやく思い出し、彼女はそれに気がつかなかった自分を大いに悔やんだ。悔やむのも当然といえば当然で、そんな悪戯をしかけることのできる相手にも、状況にも、彼女は短いなりに人生の中で一度も経験したことがなかったのだ。
 自身の人生経験の乏しさに悔しがりながら、彼女は再び寝台から音が出ないよう這い出る。窓を閉めに行くほど短い距離ではなかったので、再び裸という状況は少し恥ずかしいし、何より心もとないが仕方がない。これで強引にタオルケットかシーツを剥いで体に巻きつけようものなら、彼が完全に目覚めてしまう。そうなったら一巻の終わりだ。
 その悪戯を最初に考え付いた人は天才かもしれないと思いながら、彼女は寝台から降り、辺りを見回す。
 寝台の足元の部分には、彼の脱ぎ捨てた肩当てと相変わらず素材の分からない黒い繋ぎが脱ぎ捨てられている。その傍には彼女の寝巻きと繊細な下着が、彼のもの以上に無造作に落ちている。それらを見て昨日の晩の出来事を思い出してしまい、彼女は頬が赤くなったが、恥ずかしがっている場合ではない。寝室とはいえ書き物道具がないはずはないし、使った覚えがあるので探さなくてはならない。
 彼女は、彼の額に落書きをするつもりでいた。
 これはなかなか考えてみれば画期的な悪戯で、ペン先は大体丸く太いし、与えられる刺激は痛すぎない。こちらが我慢さえすれば、悪戯をされた側は鏡を見なければ分からない。ばれれば確かに怒られるだろうが、くすぐるよりはまだ彼のプライドは保てるはずだ。まあこれで、額に「馬鹿」だの「唐変木」だのを書こうものなら怒るだろうが、怒られないようなものを書けばなんとかなるはずだと彼女は自分に説得する。
 なら何を書こうかと彼女は裸のままで立ち止まる。ちらと見れば彼の肩当ての触手たちも眠っているらしく、目には不気味な黄色の輝きはなく、白く淀んでいた。
 本人のことを考えれば「邪」ほど似合う言葉はないが、それでは面白味がない。かと言って、怒られないために「愛してる」と書くつもりもないし、個人的な満足のために「肉」だの「米」だのも書く気はない。大体それらを書いて、笑いを堪える自信がない。似たような理由で下品な悪戯書きも却下され、しかし対照的に意味を成さない丸だの三角だのを描くのは危険性を考えると割に合わない。
 なるべく単純な形で、しかしこちらが見ていて楽しい記号や言葉で、しかも彼の逆鱗に触れない程度のもの。そうなるとかなり限られてくるので、彼女は本気で唸りながら彼の額に描くに相応しいものを模索する。
 寝台からかなり離れたところで、ようやく机の上にインクとペン立てを発見した。が、書くものが決まっていないのでそう安心もできない。
 ため息をつきながらインク瓶と羽ペンを持ち、寝台に帰ろうとするが、そこで一瞬目にした模様に閃きを覚えた。インク瓶にも描かれているコリーア教のシンボルでもある太陽と月のマークを描けばいい。否、コリーア教のシンボルを描けばさすがに人間と神を憎む彼は本気で怒るだろう。となれば、月のマークだけならどうだろう。それならばこちらとしては面白いが、彼にばれても些細な悪戯で終わるはずである。ついでに描くのは実に簡単だし、短時間で終わる。
 描くものが決まり喜び勇んで回れ右をした瞬間、彼女は何か硬いものに頭をぶつけた。
「痛っ」
 小さく悲鳴を上げる彼女が、何にぶつかったのかと見上げると、それはにやりと企むような笑みで彼女を見た。
「これはこれは女王陛下」
 子どもが泣いて怖がるようでもあり、それから粘りつくような好色さを浮かべたようでもある笑みを湛え、男は敢えて悠然とした仕草で丁寧な礼をする。しかし、跪くこともなければ屈み込むわけでもないので、彼女にとってその接近は危険そのものである。
 素早くインク瓶と羽ペンを机の上に置くと、彼女は同じくらい丁寧に、しかし男から得たものとは全く逆の印象を持つ、美しくも人を和ませるような笑みで彼に挨拶をした。口元が少々歪んでいても、全く気にならないほど輝かしい笑顔だった。
「・・・・おはようございます、ジャドウ」
「何をしていた」
 単刀直入に尋ねる彼に、彼女は内心ため息を吐く。相手のペースに合わせたつもりでも当人がそのペースを崩してくるのだから、これほどたちの悪い交渉相手もなかなかいない。それで社交術が鍛えられれば甘いものなのか、それとも授業料を考えれば採算が合わないかということは、今の彼女に考える余裕などない。
 相変わらずの虫も殺さないような笑みを見せながら、彼女は小首を傾げて彼を見る。
「何がですか?」
「何故、女王ともあろう者がわざわざ裸で立ち歩く?」
 そう問いながらも一歩彼女に近付く彼に、彼女は笑みを絶やさず一歩横に下がる。先ほどの背後には机があるため、すぐに行き止まりになってしまうが、横に行けば逃げることは可能となる。逃げるとはいっても、蛇の口から朝食となる鳥の卵が少しずれるような些細なものだが。
「あなたを起こすのは忍びないと思いましたから」
 その発言に彼は鼻で笑い、彼女が背中にしていた机の上の羽ペンを手に取ってまじまじと見る。その行動に、彼女はうなじに暗い靄を宿すような嫌な予感を感じた。未来視をしなくても確実に予想が可能なヴィジョンが、彼が羽ペンを手にしたときから彼女の中にはっきりと浮かび上がる。
「用件次第では寝台から叩き出す奴がか?」
「それはあなたがその用件に大きく関わっているからでしょう?」
 そう彼女が答えた瞬間、彼が大きく歩みを進める。それは歩みというよりもほんの短い跳躍とも取れるほど素早く、それにとうとう捕まえられた彼女は小さく悲鳴を上げた。
「ってもう!」
 悲鳴というより苦情に近い声を無視して、彼はしっかりと逃がさぬよう柔らかな腰に腕を絡め、その流れを汲んだまま顎を持ち上げる。
「それにしても寒そうな格好だな」
 顎を固定しても頑固に目をそらし続ける彼女に、彼は敢えて暢気な言葉を投げかけ薄く笑う。
 実際、彼女は一糸纏わぬ姿ではあるが、それは彼も同じである。彼女がほんの数分前に見たときにはただ呼吸をするためにしか動かなかった体が、今はその俊敏性に飛んだ身体能力を十分に発揮し、本来の威力を見せている。尤も、それが本来十分に駆使すべき彼の身体能力であるわけではないのだが、彼女を捕らえるためだけにその能力が余すところなく使われていることは事実であった。
 梳かされていない髪を耳にかけながら、彼女は更に目をそらしたまま言い返す。このままでは自分が悪戯をされる側になってしまうのは目に見えている。というか、それが日常であるため、彼女としては非常に面白くない事態だった。
「あなたに言われたくはありませんっ」
 だが、そんなことは彼の知ったことではない。彼女が何かを企んでいたことと、妙に不機嫌であることは事実であるようだが、言ってみればそれだけだ。こんなやり取りはいつもと何ら変わりがない。
「俺はいい。今から熱くしてやろう」
「結構ですっ、ちょっ、もっ・・・・」
 首筋を舌でなぞるように触れられ、肩を竦めるのもほんの一瞬の出来事だった。
 今度は二人で寝台に戻ることになった彼女は、いつもと変わらず彼に組み敷かれる自分の非力さに眉をしかめながら、彼の悪戯めいた表情を見て少し納得する。
 意味は違えど、彼の気持ちが少しの間味わえたことに、何故彼がここまで自分との睦みに積極的であるかの理由の一つを発見した気がしたからだ。


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