07:遠出せよ
子どもの足がひたすらに動く。大地を踏みしめるような瞬間すらないような足取りに、思わず女性は笑いそうになる。
しかし相手は何の冗談も入れるつもりはなく、何とか走らずに女性の前を歩こうとしていることは確かだった。その必死さが、女性には手に取るように分かるから、尚更笑いたくなってしまうのだ。
だが、その感情は表に出してしまっていいものではない。今も女性が肩を震わせまいと笑いを噛み締めているのは、そんな子どもの精一杯の意地を尊重するためだからだ。
実際、ただの意地っ張りな子どもが、女性に追いつこうと早歩きを貫くだけであれば微笑ましい光景だろう。しかし二人とも真剣に、この関係を崩すまいと意識していた。
理由は明確。この二人の関係は永遠に続くものではなく、いつしか終わるものだと確信しているから。しかし、その二人にも、いつこの関係が終わるのかは分からない。ただ終わるときがやって来る、それだけしか確かなものはない。
だから今現在のこれは、正しい二人のかたちに戻るまでの間のこと――仮初めの、いつしか終わり、馴染んではいけないもの。
女性はふと立ち止まる。
女性を追い抜こうと必死だった子どもは、女性の足にぶつかりそうになって驚き、思わず女性を仰ぎ見た。
「ちょっと、休憩しましょうか」
特に感情を感じない、気まぐれめいたその一言が、子どもには逆に癪に障ったらしい。頭からすっぽり被った外套が、大きく揺れた。
「いらん。そんな時間もないだろう」
子どもにしてはやけに大人びた発言だが、それも気にせず女性は苦笑する。少し寂しげでもあり、子どもを純粋に心配するようでもある。
「小さな時間を気にしていても仕方ありませんよ。それより、無理をしてあなたが体調を崩すほうが問題ですもの」
「無理などしていない」
そんな反応が返ってくるだろうと予想できただけに、女性は小さく肩を落とす。
この調子では意地でも疲れを見せるつもりはないらしい。では、こちらが譲るだけだ。
女性はそう判断すると、道を外れて木の根元に腰を下ろす。その動作に、子どもはぽかんと口をあけた。
「…何をしている。遅れるぞ」
「構いませんよ、遅れても」
のんびりとした口調で返されると、子どもは何とも言えなさそうな唸り声を挙げた。多分、女性の強引な思いやりが痛いほど伝わったのだろう。つまり、自分が休むまでこの女は粘り続ける、と。
そうなればどちらが時間を無駄にしないかは考えるまでもない。面白くなさそうに口を捻じ曲げ女性の近くまで歩いていくと、子どもはその身体を背もたれにするように座り込んだ。
ぽすん、と音を立てて自分の身体に身を預ける子どもの軽さに、女性は少し戸惑い、同時に折れてくれた彼に微笑む。
「気持ちいいですね…」
木陰の下、春先の穏やかな陽光と、吹き抜ける風の甘さに、女性は目を細めながらそう呟く。
子どものほうが敏感に季節を感じ取りそうなものだが、あいにくこの子どもは世間一般で言うところの子どもではない。鼻を鳴らして女性の顔を覗き込む。
「悠長なことだな。貴様の意欲次第で俺の復帰は年単位で伸縮すると言うのに」
「そうは言っても、例の薬自体、材料が貴重すぎて精製に難しいんですよ。それに、本当にそれだけであなたが完全に復帰するかどうかも分からないし」
女性の言葉は、子どもにとって手痛い指摘だったらしい。外套の奥にある可愛げのない目元が、一気に不機嫌そうに顰められた。
「…それでものろのろとこれが解けるのを待つのも癪に障る」
「それはよく分かりますけど…。他の方法を探った方がいいと思いません?」
「例えば?」
子どもにそう問われても、女性は簡単には言葉を返せないらしい。それも当然で、女性は子どもの次に、子どもの現状についてよく理解しているからだ。
ついでに言えば、女性はそんじょそこらの魔導師や魔術師たちとは比較にならないほど豊富な知識を持っている。本人はそれを余すところなく活用する気がないだけの話だが。
「…それは呪いではないんですよね。だから多くある『祓い』の儀式では解決できないし、そもそもコリーア教による剥奪系の術は前例がないし……。かと言って、魔術の一種かと言われれば呪文、魔力の使用は見られなかったからそうでもない。吸収ではなく、ただ対象から力を奪うだけ………」
「前例があることにはあるが、全くの同一とは思えん。これは俺の勘だがな」
「勘でも信頼に値すべき情報だと思います。あなたの言葉なら、尚更」
子どもは複雑そうに肩をすくめ、そうであることを祈ると付け足した。
子どもが祈りを捧げる姿を想像したのか、女性は目を丸くして子どもを見返す。しかし、子どもはその可笑しさに気づいていないのか、逆に何が面白いと言わんばかりに女性をねめつけた。
「ところで、さっきの前例の話ですけど…」
咳払い一つで話を強引に逸らした女性を、呆れたように子どもが見る。しかし女性の表情が、それまで穏やかでのんびりとした態度だったのに対し、まるで子どもを過度に心配する親のようなものに変化して、子どもは瞬時に嫌な予感を胸に覚えた。
「止せ」
「けど、気になるんです」
「しかし」
「あのままわたしが何もしなかったら…」
「俺が死んでいたかもしれない」
「けど、もっと解決方法が見出せたかもしれませ…」
「必要ない!」
子どもの悲鳴に似た否定に、何を感じ取ったのか。
穏やかな春風に弄ばれる草木の乾いた音を聞くように、女性は黙り込んだ。
「さて、もうそろそろ休んだことですし…行きましょうか」
誤魔化すように立ち上がる女性に、子どもも仕方なく立ち上がる。
歩き出すと同時に、進行方向からやってくる馬車が見えた。駅馬車へは子どもの不安通り、間に合わなかったらしい。
女性はすまなさそうに、いっちゃいましたねと笑ったが、子どもの気持ちはそんなものでは晴れそうになかった。
結局、二人が当日の目標地点であった街についたのは、夜も更けた頃だった。
駅馬車の御者にこの街の宿屋兼食堂を幾つか教えてもらうと、二人はその中の一つの宿屋に泊まり、味も見栄えもぱっとしない食事を摂った。それでもないよりはましで、遅い夕食を摂った一見親子に見える二人に、宿屋の女将はサービスとして果物をつけてくれた。
快く感謝の言葉を捧げる母親に対し、最初から最後まで一言も口を利こうとしない子どもに、女将と亭主は母親に似ない息子だ、父親が碌な人間じゃなかったんだろう、と好き勝手に言い合った。
それが聞こえているかいないかはともかくとして、やっと個室に戻った子どもは、ドアが閉まった途端に大きなため息を吐いた。
彼にしては珍しい行動だ思い目を丸くする女性を無視し、子どもは勢いよく外套を脱ぎ捨てる。
薄暗い灯篭に晒されたのは、くすんだ青銀の髪に鮮血色の瞳、そして人間では不気味なほどの青白い肌と尖った耳を持つ、魔族の少年だった。
「お疲れ様でした、ジャドウ」
女性は苦笑しながらそう言うと、自らの外套も脱いで椅子にかける。
現れ出たのは清らかなる新雪のような白銀の髪に、それに見合った海とも空ともつかぬ美しい青い瞳。乙女のような柔らかく白い肌と慈愛を感じるその顔は、コリーア教国家のひとつである聖地プラティセルバの統治者、奇跡の体現者、リトル・スノーだ。
そして子どもの名は、危険な思想を持ちながら、各国の君主たちから最も有能な武将と知られる大魔王の息子と同一だが、果たして世に知られる闇の貴公子とは、いまだ年齢が二桁にも達していないような子どもではなかった。
「自分の体がこうなっても予想できる範囲の疲労は仕方ないがな……あれは好かん」
好かん、とは彼にしては控えめな表現だが、その様子から、彼女はかなり苦手だということを見取った。何が苦手かと言うと、先ほどの不必要な人間からのお節介や会話の強制である。人間を憎む彼からすれば、相手が自分に易々と近付いてきて声をかける今の姿の、もっとも不愉快な部分がそれだった。
「今までの旅は基本的に人目を忍んでいましたからね…。怪しまれなくなったのは嬉しいですけど、今度から、食事は部屋に持ってきてもらうように言いましょうか」
「そうしろ」
寝台につっぷした子どもの姿に苦笑しながら、彼女は洗面器に張った水で軽く顔を洗う。案の定、水は見事に土埃色に濁っていた。
「ほら、あなたも顔くらいは洗った方がいいですよ。少しは清潔な気分になりますし」
「清潔な気分になりたいのならお前だけでも湯浴みなり沐浴なりするがいい。俺は気にならん」
「気にしてくださいってば」
人間と構造上大差ない魔族なら、垢も付くし鼻水も出るだろうに、彼はとかくそういったことには無頓着らしい。
ならば仕方あるまいと思い、彼女は清潔な水をタオルに含ませると、子どもの頭をそっと撫でる。
「ジャドウ」
「何だ」
「拭きますから、顔を上げてください」
そう言われて、子どもは素直に顔を上げた。
その目は彼のものにしては迫力がなく、またとろんとだらしなく濁ったような印象もある。つまり単純に眠いのだ。
彼がそんな表情を見せることを面映く思いながら、けれど彼女はそんな素振りは全く見せずに子どもの顔をタオルで拭ってやる。
なすがままになって眼を瞑っている子どもの表情は可愛らしくて微笑ましくて、何より愛しかったが、同時に寂しさと罪悪感も覚えた。――こんなことを楽しんではいけないと思いながらも、今は気楽な旅を続ける以外、彼が元に戻る方法がない。彼がこうなってしまった原因は、直接的に自分にはなくとも、間接的になら大いにある。
子どもの顔を拭い終えると、彼女に負けず劣らず埃塗れだったことが発覚して、見せびらかすようにタオルを広げて見せた。
「ほら、やっぱり汚れてたじゃないですか」
「うるさい」
指摘されても子どもは悪びれた様子もない。相変わらず眠そうな顔で、彼女の一挙一動を見ている。
それに気づいて、彼女は少し微笑んだ。まるで我が子の無理を心配する母親のように。
「…お話しても、大丈夫ですか?」
「好きにしろ」
じゃあ、と彼女は笑い、自分の記憶と比べては小さすぎ頬を撫でる。
「…昼間の続きのことなんですけど」
その言葉を聞いた瞬間、子どもの頭が浮き上がった。正確には寝台に顔を埋めていた子どもが、その頭を持ち上げただけだが、その表情からは眠気などという怠惰なものは吹き飛んでいる。代わりにあるのは、彼を知る者からすれば考えられないほどの真剣さだった。
「安心してください。あのときのようなことにはなりませんから」
彼女の表情もまた、真剣そのものだった。彼女の性格を考えれば、自分の過去のことを気軽に持ち出すほど無神経な女ではないことは確かだから、当たり前のことと言える。しかし、それでも彼は慎重だった。彼女がどれだけ自分のことを大切に思うかではなく、彼女の自己犠牲が恐ろしくて。
「あのときとは? どのことだ」
「あなたが、以前に力の剥奪を受けたときのようなことには…」
「………」
「…その、スノー・ホワイトのようなことには、なりません」
慎重そうなその言葉を聞いても尚、彼は警戒を解こうとしなかった。それどころか、鼻で笑って問いかける。
「それは、自分がそう仕組むような真似はしないという意味か? それとも、貴様の未来視の結果、そのような偶然が起こっても自分が仕組んだことではないと今のうちに弁明したいのか?」
彼の問いに、彼女は細く長い吐息で答える。
「…そんなことを見れたのなら、わたしはずっとここにいると思いますよ」
「奇遇だな、そんなことを知れば俺も貴様を帰らせるだろうよ」
それが出来ればの話だが、と自嘲的な笑みを浮かべる彼ではあるが、やはり警戒心は保ったままだ。反して、彼女は寂しげにうな垂れた。
「…信用して、もらえませんか?」
「出来ん。お前の自己満足の自己犠牲には振り回されたくない」
命を捨てて自分を守るような母性愛には反吐が出る――過去の記憶がある今ならば尚更に。そんな気持ちが裏付けられた拒絶に、彼女は否定的に首を振る。
「わたしは、責任を取っているだけです。あなたをそうしてしまった、わたしなりの責任を…!」
「ならば命まで投げ出そうなどとは考えてほしくないところだ。無論貞操もな」
子どもにしては品のない含み笑いを浮かべる子どもに、しかし彼女は何も言わなかった。
代わりに子どもの背中に腕を回し、今度は彼女の方が子どもであるかのように、静かに震えながら、すがりつくように抱きしめる。
「………」
「……ごめんなさい……」
解けて消えそうな言葉の端は、篭って聞こえた。恐らく、泣いているのだろう。
子どもはその姿を見て、小さく吐息をついた。この世界に来て、戸惑いが消えてからは芯の強い女だと思っていたし、事実彼女は強い女だった。でなければ、国を失い軍を失い、追っ手からの逃亡と共に最愛の男を元に戻す旅など出れるはずもない。
けれど女は同時に、ひどく優しい女でもあるのだ。破れ果てる自軍の姿に、痛み悶える自軍の兵の姿に自らの感情を重ね、唇の中で何度謝罪の言葉を繰り返したか。気を失いそうになりながらも、兵の痛みを自らにも感じさせ、倒れそうになりながらも必死になって回復魔法を兵にかけ続けていた。感情に走るなと何度自分が言っても、結局彼女は感情に走ったのだ。――そのお陰で、自分が一命をとり止めた部分もあるのだが。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……。わたしのせいで…、わたしが臆病だったから…!」
「気にするな」
嗚咽が漏れるその背中を、届かない腕を目一杯伸ばしながら、子どもはそう答える。
臆病なら、どうして自分を助けに来るのだ。
聖神に与えられた潤沢な力を使い、神にも等しい力を見せた法王が、自分を屈辱の果てに殺そうとしたその瞬間に。力を奪われ無力な子どもに成り下がった自分と法王の間に、更に巨大な力を見せて割って入ったのはどこの誰だ。
そう言葉にもせず、子どもは肩を震わせる女性に優しく心の中で囁く。
「けど……けど、わたしは間に合わなかった! あなたを見捨てるのも嫌で、彼らを見捨てるのも嫌で…、けどどちらも不完全に失って!」
力を失い、記憶さえ失うところだった彼を救った彼女が、元いた場所に戻ってみると。
そこには女王という柱を失い捕虜として降伏の道を選んだ軍――否、既に烏合の衆と成り果てた人々がいただけだった。
それでも、そんな彼女を彼は責められなかった。自分の命が助かっただけでも拾い物だし、この女が無傷なだけでも幸運と言えた。だから、絶望するつもりも失望するつもりもなく、此度は逆襲のための旅とも言えた。
「……それでも、ヒロたちは保護してくれました……。本当の安全を思うなら、わたしたちはただ彼女の好意に甘えていればよかったんです…」
同盟国の新生魔王軍は、事実生き延びて門戸を叩いた彼らを受け入れた。それは彼らがコリーア教国家同士の潰し合いの被害者であるからか、それとも彼らが軍に有益な存在となりうるからか。真偽は明確には分からないものの、やはり二人にはただ安穏と食客として甘える日々は長く続かなかった。
彼らの望みは、ただ一つ。それは、他の誰をも交えず彼らだけで解決したい一つの願い。
「しかし、お前は選んだ。俺と共に元に戻る道を探すことを」
「……だって、だってそれはわたしのせいで……」
「そう思いたければそう思っておけ。そして、責任を感じる以上は忘れるな」
――俺の望みはお前が死なず、お前が狂わず、お前が傷つかずに俺の傍に在ることだ。
そう、言葉にせず胸のうちだけで告げると、嗚咽はひときわ大きくなった。もう既に、号泣と言ってもいいほどの声量が、狭い室内に響き渡る。
いつも静かに声も殺して、誰も気づかれないように泣いていたはずの彼女は、このとき自分の腕の中にいる子どもを、まるで宝物のように抱きしめて泣き続けた。
大人しく胸に抱かれた子どもは、まるで幼子のように泣きじゃくる彼女に愛しさを感じながらも、その身体を抱きかかえることも蕩けるような口付けを与えてやることもできない自分を、歯痒く感じ瞼を閉じた。
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