Offer Lillie

 

  薪が爆ぜる音を聞いて、不意に顔を上げた。

「どうした?」

 隣の傭兵が片目だけで自分を見る。瞑想の邪魔をしてしまったらしいと察して、彼は慌てながらも謝った。

「いや、すまない。……個人的な、……その、感傷だ。気にしないでくれ」

「ほう。こんな状態で感傷に浸れるとは、元帥様は随分と余裕だな」

 無精髭の傭兵の茶化すような物言いに、苦笑を浮かべる。

 確かに現状を顧みれば、感傷に浸るなど油断も同然。大元帥を裏切るような形式でワルアンス城を出奔した彼らは、帝国からの追っ手を振り払いながら進軍している。帝国でも特に若く優秀な兵を保有するレイリア将軍の隊が彼の投降に付き添っているとは言え、追っ手の多さと苛烈さには逃げるだけで手一杯だ。すぐに体力の限界が訪れ、被害は最小限に留められても移動速度はすぐに衰えた。

 結局、見張りを交代しながら休むことになったが、朝まで無事に眠っていられるとは誰しも思っていない。夜が明けぬうち、もしかしたら数刻も経たないうちに、再び追っ手が来る可能性に怯えながら、今はひと時の眠りを貪っている。

 交代の時間になってテントから出た彼を、やはり疲れが見える顔で出迎えた傭兵と交わす言葉は普段以上に少なく、そのためか物思いに耽ってしまった自分を叱咤するように、彼は頭を下げた。

「……すまない。傭兵のお前まで、巻き込むことはなかったのだが……」

「今更言うことか? それに、あんたは俺の雇い主だ。あそこに残ったって、まともにオレの雇い主になってくれるような奴はいないね」

「お前が大人しくしていれば、雇う者もいるだろう」

「そりゃますます無理な話だ」

 お互いなんとなく予想していた通りの会話に、二人して笑いあう。逃亡中はたった一日二日の間のことでも、普段以上に張り詰めていたせいか、そんなやり取りが妙に懐かしく、楽しく感じられた。

 微かに声を漏らして笑いあうと、不意に彼は先ほど考えていたことを思い出す。傭兵に聞かれたときは正直に答えるのは憚られたが、今なら言ってもいい気がした。恐らくこんなことを告白することは、誰にも何度もあるものだとは思わなかったから。

「……私は卑怯な人間だ」

 呟きに、傭兵の表情が引き締まる。隻眼のため睨んでいるように見えるが、本当は驚いているのだと彼は今までの付き合いで分かった。そしてこの男と付き合って――戦争が始まって、五年近くになることにも気付かされる。

「私は、若い頃はシンバ帝国の差別をなくすために奮闘した。自分が任務を成功させることで、自分が大きな権力を使う、――権力を使う方に助言できる立場に近付くことができれば、きっと今以上の差別はなくなり、平和が訪れるだろうと思っていた」

「……シンバ帝国最強のハイランダーにして、あのケイ・ファルオンが直々に選んだ後継者の『黒獅子』。旧帝国軍の中じゃ一番の期待の星だったな」

 幼い頃を懐かしむような傭兵の言葉に、当時の自分を思い出す彼は緩く首を振る。

「そんな大仰な言葉は意味がなかった。……私はあの時も、自分の考えに理解を得てもらうため強引に傭兵を雇い入れ、彼らとは完全に和解できないまま魔皇軍に完敗した。言ってしまえば、彼らは私の自己満足に振り回されただけだ」

 傭兵は何も言わず笑みを浮かべる。それが皮肉めいたものに見えて、知らず彼は視線を逸らした。

「そうしてあのときの夢を簡単に諦めることもできず、アウル様を育て、仰ぎ、従ってきた。今になるまで……私は私の自己満足に気がつかなかったのだ」

 傭兵は近くにあった枯れ木を手に取り、ぱきんと音を立ててそれを割る。一年を通して気候の差がさほど激しくないゴルデンとあっても、二月となればやはり寒い。自分も手伝おうと思ったが、彼の近くにはそれらしい枯れ枝はなかった。

「アウル様が奪った多くの魔族の命は、アウル様の罪だけではない。そう導き、機会を与えた私の罪でもある。けれど私は、その罪を償うことを恐れるように、今は皇国に向かっている……」

「……あの女皇帝は、そんな誤魔化しが利くほど頭が緩いのかい?」

 傭兵はネバーランド皇帝と直に言葉を交わしたことがない。だが、肖像画を見た印象や噂に聞く中では、そこまで無責任で能天気な性格ではないと思えた。

 その考えを肯定するように、彼は頭を振る。

「聡明で堅実なひとだ。――だが、いいやだからこそ、彼女は私を断罪しないだろう。皇国軍の消耗も激しい最中で、私が無抵抗で投降すればそれだけの戦力が手に入ることになる。扱い如何によっては、皇国の支持者も増える」

 隻眼の男は黙ったまま、枯れ枝を割って火の中に放り込む。火は追っ手に見つかり難いような小さなものだったが、周囲のテントをおぼろげに照らしていた。

「……私は多くの兵を引き連れて帝国から逃れている。彼らは仲間ではあるが、私にとって帝国への盾となり、皇国の戦力になるだろう。皇国にとって私は人質として見られるかもしれないが、私にとってはお前たちこそが人質なのだ」

 言い終ると、彼は自嘲の笑みを浮かべる。謹厳実直を絵に描いたような男が浮かべるにしては、違和感がなかった。

 それを流し見て、傭兵は不敵な表情を浮かべたまま次々と枯れ木を火にくべる。湿気がないためか火の勢いは衰えず、淡々と薪を取り込み続ける。

「保身なんて、誰でも考えるもんだろう。清廉潔白に生きるなんてのは、世間を知れば知るほど無理な話だ」

 傭兵の呟きも淡々としていたが、そんな言葉に救われるはずもないように彼は笑う。

「私は戦犯だ。金銭を不当に搾取する役人よりも、罪を隠しきれると自負している賊よりも重い罪を背負っている。そして、その罪から逃れようとしている」

 傭兵は何も言わない。ただ自分がくべた火を見ているだけだ。

「この戦いに生き延びたところで、私は……」

 

 

 

 

 

 

 

「……安らかに死ぬことも許されまい」

 魔導世紀千百年八月某日。

 ネバーランド共和国総統アンクロワイヤーは、前日の意識不明から覚醒した際、そんな言葉を残した。

 

 

 

 

 

 

 

 

「……あれか」

「だな」

 早足で駆けてくる踵が高そうな靴の足音に、室内にいた男たちは誰が来たのか確信を持って椅子から腰を離す。名も知らぬ看護婦以外は男しかいないこの場で、非常時にそんな格好で駆けつけて来られる女性とくればただ一人しかいない。

 ちょうど全員が立ち上がったところで、乱暴な音を立てて扉が開いた。

「アンクロワイヤーは!?」

 赤い外套と薔薇色に輝く黄金の髪を乱した麗しき共和国総統の登場と同時に、たっぷりとした赤髭に魔獣の毛皮を纏う男と、金髪の青い目の端正な騎士が深々と会釈をする。

「お久しぶりです、ロゼ総統閣下」

「ロゼ閣下はお元気なご様子で、不謹慎ながらも安心致しました」

 胸を激しく上下させる総統は、自分の問いに返答がないことよりも人間二人との思わぬ再会に目を見開く。

「カン殿、ギュフィ……。お二人とも、いつこちらに?」

「つい、今しがた。アンクロワイヤー閣下が意識不明と聞き、いてもたってもいられず……」

「私情からの暴挙であることは重々承知。どのような処罰も受ける所存ですが、どうか御方と最期の言葉を交わす暇だけは頂きたい」

 硬い表情の二人の気持ちを慮り、彼女はまだ息を切らせながら、軽く眉間に皺を寄せて首を振る。

「……私には貴方がたを断罪する権限などありません。人を、特に王家を制するはアンクロワイヤー閣下のお言葉あってこそ。まずは私ではなく、閣下に赦しを請いなさい」

 ほのかに苦い表情を称えて一歩下がる二人と交代するように、彼女にとっては普段から見慣れた男たちが彼女の問いに答えた。

「まだ生きている。奴さんの粘り強さは、こういうときにはありがたいな」

「……おい」

 普段と変わらぬ軽口を叩くのは夜闇色の装束に不釣合いな明るさを持つヴァンパイア王だが、その表情は案外に暗く硬い。場にそぐわぬ冗談を嗜めようとする半魔の青年も、その視線は明らかに奥の扉を気にしている。

 しかし彼女は二人のやり取りにある程度の落ち着きを取り戻したらしく、深く静かに息を吸い込むと、強張らせていた顔に僅かな柔和さを見せた。

「……そう。アシュレイが随分急かすから、間に合わないのかと思った」

「奴さんも、前の失態を気にしてるんだろう。いくつになっても成長を忘れないってのはいいことだ」

 ヴァンパイア王自身は全くの無意識でそんなことを言ったのだろうが、その言葉に何人かが部屋の隅にいる白い外套の男を盗み見る。――人魔共存に最も否定的であり、今もその思想を完全に放棄していないはずの魔族は、共和国設立間際まで敵であった人間の臨終に立ち会う程度の情を持っているらしい、と確認して。

 何かしら居心地の悪いものを感じたらしい金髪の将は、大きな咳払いで視線を散らすと敢えて気付かぬような調子で声を上げた。

「そのアシュレイはどうしましたか、閣下。まさか奴があなたの公務代理を全て務めるわけにはいきますまい」

「そのうち来るでしょう。わたしとて信頼できる部下を持っていなければ、ここには来れないもの」

 あまりにも堂々とした言葉に、ギュフィ五世が苦笑を浮かべる。

「閣下の公を重んずる姿勢、世辞を抜きに致しましても感服します。……何もかも手放して駆けつけた自分の女々しさを思い知る」

「それどころか、この中じゃロゼ閣下が一番男らしい」

 誰かが入れた茶々を、しかし否定する者は誰もいなかった。仮にも大陸内では頂点に君臨する女性であると言うのに、庇う言葉も思いつかないらしい。

 しかし、そんな扱いを受ける総統も呆れこそすれ、怒る気にはなれないでいた。その手の冗談やからかいは昔から慣れていたし、それを気にするような性格でもないからだが、気にするものはいつになっても気にする。特に、彼女の『影』などは――

「ここにいる全員に、不敬罪を適用したいのだが。構わないかね、ロゼ」

 彼女が現れて以降、扉が開いていないのに、室内にいる誰のものでもない声が響く。

 そんな事態に慣れていないらしい二人の人間は思わず辺りを見回すが、その不意打ちの登場には慣れきっている魔族やヴァンパイアは驚く様子もなく、声のするほうを見た。彼女はその上、皮肉めいた視線と言葉も付け足して。

「急かしたあなたが、わたしの仕事を増やすつもり?」

「それとこれとは話が別だ」

 軽口で返すのは全身を鎧で覆った長身の男性らしき人物だが、それに人の気配は限りなく感じず、更に鎧から漏れる声も生身の人のそれではない。しかし、いつ現れたのかも分からない上に、いかにも怪しいその人物の姿を見止めたギュフィ五世とカン・ヨン・ハンは、総統と対峙する際よりも緊張を帯びた声音で会釈をした。

「お久しぶりです、アシュレイ・ロフ殿」

「正式な手筈を踏まえずこの場にいること、どうかお許し頂きたい」

「この非常時だ、気になされるな。しかし誠に久しいな。人権宣言以来か」

 本来ならばその声には懐かしさや感嘆が篭っていそうなものだが、鎧の人物の声はどこまでも無機質に響く。魔族の血を引く総統に、誰よりも深く強く忠誠を誓っている人物と知っていても、彼らには多少の強張りが解けず、また鎧の人物も彼らの緊張を解く気はないらしい。

 双方がそうなる理由を理解できるため、彼女は敢えてそのぎこちなさに気付かないふりをして半身たる長身の鎧に話しかける。

「アシュレイ、緊急事態とは言え、ちゃんと扉から入って頂けないかしら」

「君の部屋に入る際には気をつけるが、ここは男の部屋だ。そこまで気にするようなことではあるまい」

「それでも寝室よ」

「男の寝室なんざ、窓から入っても賊と思われこそすれ、説教は受けんさ。奴さんがこれで回復すれば骨折り損で終わるしな」

「バイアードも!」

 緊急で駆けつけた割りには皆、礼を尽くす気はないらしいと知り、彼女は軽い頭痛を覚える。こんなところで誰かに注意をするつもりなどなかったのだが、揃いも揃って相変わらずの無神経とは。――それでも、この集まりが無駄になると思いたいのは分からなくはない。

 齢九十となった人間が、半日以上続いた意識不明から復帰したところで、また忙殺される日々を送れる可能性は奇跡に等しい。それでも、彼らはその奇跡を当たり前のように待っている。何故なら意識をなくした人物は、選ばれた彼らの中であってもなお、奇跡のような存在だと思わせるからだ。

 だから彼らは思う。あんなにしぶとく、なのに清廉潔白な男が、こんなにあっさりと死ぬものかと。

 声を荒げた総統相手にも飄々としていた男たちは、しかし奥の扉が開いた瞬間にその表情を引き締めた。

 現れたのは、多少痩せてはいるが精気のある目つきの、彼らの仲間にして共和国のもう一人の総統――ではなく、白衣を着た中肉中背の男と、その助手らしい白衣の女性だった。

 静々と現れた医者と看護婦は、集まった面々の豪華さに怯えているのか、それとも扉の向こうの人物の容態を伝えることに絶望を抱いているのか、神妙な表情をする。その顔と纏う雰囲気に、待たされる彼らは同じ予感を覚えた。

「……アンクロワイヤー閣下は、先ほど意識を取り戻されました。ですが……」

 その後の言葉に続く内容が、彼らの危惧を取り除くはずはない。そんな彼らの気持ちを裏付けるよう、医者が俯いたままで続ける。

「助命措置を拒否され、ありのまま天寿を全うするおつもりだとの告白をお受けしました。……しかし、皆様のご判断如何によっては考えを改める、と……」

 医師の説明を聞き終えた後、全員が、縋った奇跡が叶わぬことを思い知る。

 助命措置と言っても、本当に助かる訳ではない。あくまで寿命をほんの少し延ばすだけのものだ。その方法は様々あるが、最も手軽に効果的に行われる助命措置と呼ばれるものは、カガクによって開発された薬を使ってのそれだった。

 カガクの非軍事使用によって今まで死病と呼ばれてきたものは多く救われたが、命そのものに対しては治癒魔術と大差ない。痛みを和らげ、死の苦痛をなくすことしかできずにいる。寿命を少しだけ延ばすことができると言っても、それだけにリスクも大きい。人によっては効果も数時間から数日、更には反作用もまちまちで、助命措置に頼って満足した遺族の声など聞いたこともない――否、彼らが満足するわけがない。薬に頼ろうが頼るまいが、愛する者はやはりすぐに死んでいくのだから。

 そしてその選択を任されたところで、彼らの気持ちが安らぐはずもなかった。

 普段は屈託なく笑うバイアードが、あからさまな皮肉交じりにその言伝を笑い飛ばす。

「そいつは、いい口説き文句を思いついたら試してくれってことか? 相変わらず人の慰め方が下手だな」

 乱暴な言葉は、今にも逝こうとする男の能天気さに呆れているようだった。――どうせ誰が泣こうが喚こうが、すまないと困ったように笑うだけのくせに。どうせ不器用な慰めの言葉で、自分の死を誰にとっても軽いものにしたがるくせに。

「鈍感な男だな、本当に」

 吐き捨てるようなイフは、その言葉通りに苛立っているようだった。その瞳の奥に見える揺れ以外は、本気で怒っているとしか見えないように眉を吊り上げる。

「潔い方です。……本当に、勿体無いほど」

 苦笑を浮かべるギュフィ五世だが、その笑みは自然なものには見えない。唇が更に何かを言いかけ、そして震えながらもゆっくりと何かを形作る。声も出さず、言葉に出せるような感情が見当たらないように、ふるりと首を振って。

「……ロゼ」

 アシュレイ・ロフは重々しく、自分に背を向けている女性に声をかける。

 この中の誰よりも本心を隠すことに長けた彼の半身は、顔を見せずにアシュレイのほうを軽く向いた。腰まで伸ばした髪が、細やかに揺れる。

「なに?」

 声には気持ちなど読み取れない。普段通りだ。当たり前のような声だ。けれど、彼は知っている。何より彼の存在そのものが、彼女の心の乱れに反応している。

「……君は、どうしたい」

 そんなことを言ってもどうせ無駄だと知りながら、しかし彼はそう言わずにはいられない。その問いかけができることならば、彼女の分厚く頑丈な仮面を取り壊す切欠になることを願いながら。

 けれど、彼女は頭を振る。

「彼の心のままに」

 擦れもしない彼女の発言は、殉教者の祈りの言葉に似ていた。

 そしてこの中で最も権力を持ち、この中で最も死に往く男の理解者である女の意思が伝えられたことで、聞き手たちはそれに従うほかにない。

「……全く、嫌になる」

 シーグライドが苦々しげに悪態を漏らす。決定してしまった以上、それに歯向かうつもりはないし、歯向かったところでどうせ無意味と知りながらも、そうには呟かずにはいられない。誰とて同じ気分だった。それでも、そう呟くだけで終わるのならばどんなにいいか。

「あいつはまだ会話はできるか? 文句の一つや二つは言っておきたいんだが」

 バイアードの問いに医者は頷き、看護婦が扉をそっと開ける。

「アンクロワイヤー閣下からも、皆様へ最期にご挨拶をしたいと……。どうぞ、奥へ」

 扉の向こうには、カーテンから夕暮れの光が漏れてほのかに明るい、落ち着いた色合いの寝台が見えた。見るだけならば平凡な景色のはずなのに、戦場で味わうものではない、緩やかな死と老いの匂いが冷たく鼻孔を刺激して、彼らの肌を粟立たせる。

 それでも、覚悟はしなければならない。幾多の戦場で散っていった仲間を持ち、また幾多の戦場で敵を葬り去った彼らが背負う責任は、たった一人の人間の死から逃げられるほど軽いものではないのだから。

 ゆっくりと全員が寝室に入ると、寝台の奥で看護婦に助けられながら、髭の老人が半身を何とか持ち上げる。

 たった数ヶ月前、近しい者ならたった数日前に見たはずの枕にもたれているその男は、彼らが驚くほどに老けていた。金茶の髪や髭は半分以上が斑に白く、肩は小さく丸く、何よりその穏やか過ぎる、弛緩していると言ってもいいほどの表情が――臨終間際の老人だと、否が応にも思い知らされる。

「やあ、久しぶりだな」

 挨拶は、呑気だった。一日持つか持たないか、わからないくらいの時間しか残されていないのに、男は表情とは裏腹にはっきりとした口調で話しかける。

「君たちの貴重な時間を、私事で不意にしてしまい、実に残念に思う。しかし反面、皆が私のためにここに来てくれたことに、喜びを隠しきれない」

 まるで演説のような口調だ。自分たちに助命措置を委ねていた際、考えていたのだろうかと思わせるような内容に、ある者は内心ますます呆れ、またある者は内心ますます怒る。

「私はこれから死ぬ。こうして喋っているだけでも酷く疲れる。正直なところ、早く寝てしまいたいが……そうすれば、多分それきり君たちと見えることも、話すこともできなくなるだろう。だから、ここで言いたいことを言っておく」

 彼らしい端的な言葉で、彼らしく単純な内容に、幾人かは思わず薄く笑った。自分たちは瀕死の者にこの場の音頭を取られているのだと実感すると、ますます裏返り気味の笑いが漏れそうになる。情けなさと、悔しさで。

「ウルク・ハン。貴殿にはフーリュンの怪事では大変世話になった。改めて礼を言おう。周辺国の民の混乱をいち早く治め、また調査団の派遣を真っ先に提示してくれた貴殿のお陰で、我々は原住民との争いを最小限に抑えることができた」

 呼ばれた巨躯の男は、胸の前で拳とそれを包んだ手の平を握り締めながら、深い一礼をする。

 それを見て、老人が一瞬だけ寂しそうな顔を見せる。また眠そうな顔に戻ってしまうのは、やはり表情を変えるだけでも疲れてしまうということなのか。

「……あの子たちには、すまないと伝えてほしい。私は一度も、そちらに遊びに行けなかったと」

「そのことを責める孫には育てておりません。ご安心下さい」

「そうか……」

 小さな声だったが、頭を下げたままの男の耳にも、その安堵の囁きは聞こえた。

 ウルクは唇を噛む。言いたいことは多々あった。平静を保つことが優れた武道家だと長く厳しく教えられ、また自らも息子や孫にはそう教えてきたのに、今ここでは感情を爆発させてしまおうかと狂おしいまでに迷っている。

 けれど赤髭の男は、それは己の領分ではないと判断し、頭を下げたまま一言呟いた。

「……欲を申せば、あなたには」

「うん?」

「私より、長く生きてほしかった」

 はは、と乾いた笑いが転がった。

「無理は言うものじゃない。しかし、君も……」

 ウルクは頭を上げる。視線がかち合う。寝台の上の、逞しいはずの体に蜘蛛の糸のような生気を残した男と。

「健やかに、できれば長く生きてくれ」

「は」

 再び深々と礼をしたウルクに笑みを送り、老人は隣に立つ金髪の紳士を見る。

 その面立ちは彼の祖父に似ているのに、今の彼はあまりにも弱々しい表情を見せていた。先代が没した際は幼いながらに毅然とした表情を保っていたのに、今では親に叱られて涙を堪える子どものような顔だ。

「ギュフィ五世。貴殿は……」

「結構です。人民宣言のときのことを仰るおつもりですね」

 遮るギュフィの声は、妙に鼻にかかっていた。対して老人は、深くゆっくりと頷く。

「ああ、そうだ。あのときは本当に、よくやってくれた……」

「私には何の賛辞を受け取るに値しません。あなたを始めとする八賢人の方々に支えられ、あの場で教えられた通りに宣言しただけのこと。そうやって民に認められた私があなたがたに感謝こそすれ、感謝される必要など……!」

 目から溢れる熱いものに気付き、ギュフィは自らを恥じるように睫に溜まった水滴を軽く払う。しかしその姿を見ても、老人は困った気持ちにはならなかった。逆にそんな姿にすら、我が子を見るような慈しみが心に湧き上がる。

「そう、自らを卑下するものではない。無力と思い込むのではない」

 歩くことさえできれば俯いたままの彼の手を取って優しく顔を覗きこみたいのだが、そこまでしてしまえば外の面々との会話ができないほど疲れてしまう。肩を震わせるギュフィの気持ちが落ち着くように願いを込めて、老人は自分の掠れた声も気にせず続けた。

「私にとって、君は共和国の象徴なのだ……。私のよく知る新たな世代であり、私の自慢の後継者だ。君になら、君が信じ期待できる者たちになら、この大陸は任せられると」

 ギュフィが涙を振り払う勢いで顔を上げる。四十も半ばの男のその表情に、いつか少年だった頃の彼を思い出し、老人は彼の父に内心謝りながらも自らの父性をありったけ篭めて告げた。

「私はそう、信じている」

 二粒三粒と、青い瞳から大粒の涙が零れる。けれど今度は泣かず、ぎこちない笑みを浮かべて、ギュフィは敬礼と共に一歩下がった。

 我が子に等しい男に笑みを取り戻すことができ、心なしか満足した老人ではいたが、視線を転じれば人間たちとは逆に、先ほどから普段以上に険しい顔の魔族たちがいる。どうしてそこまで難しい顔をしているのかと、不思議そうにバイアードと目を合わせた老人は、予想外の言葉を投げかけられた。

「お前さんは馬鹿だな」

 不意すぎる言葉に、老人は軽く目を丸くする。

「そうか?」

「ああ、俺の知る限り最たる馬鹿者だ。お前さんより多少長く生きてきたが、後にも先にもお前さんほど馬鹿なヤツは見たことがない。馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、ここまで馬鹿だとは思っていなかった。予想外に馬鹿で想像以上の馬鹿だ」

「そうだな。おまけに天才的なまでに鈍い。反省って言葉の意味を知らない。意気地がない。あと趣味が酷い。流行と関係なくそれはないと断言できるスタイルで、しかもそれがいいと思ってるんだから余計にタチが悪い」

 イフも援護してのけんもほろろな言いように、老人はただ黙り込むしかない。そこまで言われるようなことをしただろうかと、鈍くなった実感がある頭で思い出そうとするが、それをバイアードの声が遮った。

「なんで幸せになろうとしなかった?」

「うん?」

「俺が言いたいのはそれだけだ。さて呑むか」

 さも清々したと言わんばかりの表情で、バイアードは踵を返し、無遠慮な足音を立てて寝室から出て行く。それを見届けると、こちらはいつもの表情に険しさを三割り増しにしたイフがひらりと手を振り、やはり踵を返す。

「あの世で後悔し続けるんだな、唐変朴。好きなようにすれば多少は未練もなかっただろう」

 言い捨ててイフもやはり寝室から出ようとするが、先に出て行ったはずのバイアードが同じくらい険しい顔で寝室に戻ってきた。

「シーグライド! お前もぼさっとしてないで来い!」

「はっ!?」

 急に呼ばれて目を剥いた金髪の魔族を、ヴァンパイア王は首を引っこ抜くようにして強引に連れて行く。

「お前もこの後仕事する気にならんだろ? だったらそれらしく時間を潰すのが道理だ」

「待て! 私はまだ何も……」

 抵抗するシーグライドにバイアードは目を見開くが、その仕草はどことなくわざとらしい。

「ほーお……お前さん、こいつとそんなに仲が良かったのか」

「そんな訳はないが、一応形式というものがあってだな……!」

 ――臨終間際の相手にそんな素直すぎることを言うのだから、敢えて傍若無人に振る舞っている自分よりも更に酷い。バイアードはため息と共にそんな気持ちを吐き出して、あからさまに苛立ちを顔に出す。

「ならとっとと一言言ってやれ。その後は夜通し飲むぞ」

「拒否させてもら……」

「なら鼻からでも飲ませてやる」

 シーグライドが一気に肩を落とす。酒瓶片手に鼻の穴を狙ってくるヴァンパイアと、それに自分が死に物狂いで抵抗している光景を想像して、ただ三人で明け方まで酒を飲むだけの光景と比較する。どちらがあらゆる意味で真っ当か、確認のために比べてもやはり意味がないほど明確だった。

 それでもこのマイペースな男に振り回されるのは嬉しくないらしく、口をへの字にしたまま唸るシーグライドだが、バイアードはそんな男の表情など気にも止めない。軽い蹴りで急かすその乱暴な動作に、金髪の魔族はとうとう口を開かされた。これ以上待たせれば、何をされるか分かったものではないと言いたげに。

「……黒獅子よ、貴公とは一度全力で剣を交えてみたかったが、それができぬことに、多少の悔しさを覚えている」

 相変わらずの喧嘩馬鹿か、と半眼で扉の方からイフがシーグライドを見るも、彼はそれに気付かないらしい。寝台の上の老いた騎士に、珍しく少しの後悔が混じったような視線を送る。

「しかし戦えなかったからこそ今の世があるのだと考えれば、多少は私の飢えも慰められる。……いつかは分からぬが、私も冥界で貴公と見えれば、その時こそ剣のお相手を願いたい」

「……ああ、覚えておこう」

 黒獅子と呼ばれた老人は懐かしげに微笑んで、今もまだ自分を騎士として見てくれている魔族に仄かな感謝の念を篭める。それをシーグライドは不敵な笑みで受け取り、二人の騎士は最期の挨拶を笑みで終わらせた。

「よし! 今度こそ呑むぞ」

 空気ごと切り替えるような大声で宣言したバイアードは、白い外套の魔族を引きずるように寝室から出て行き、ついでに寝室に残っている人間二人にも軽く視線を流す。それを受けると、さすがにその人間たちもヴァンパイア王の思うところが分かったらしく、残る二人の魔族たちに退出の挨拶を告げて出て行った。

 そして残る二人の中で、全身を鈍色の鎧に包んだ魔族のほうが先に口火を切る。

「私もそろそろ失礼しよう。悪いとは思うが、私はアンクロワイヤー殿とは懇意ではない。別れの言葉など、告げる気にもならない」

 人間の総統の寝室に入ってから、ずっと無言だった魔族の総統が苦笑を浮かべる。

「バイアードと言いイフと言いあなたと言い……何故、そう素直にならないのかしら」

「私たちは素直だとも。ただ君ほど潤いのある思い出などないだけだ」

「そう」

 何を言ってもこんな調子の返事しか得られないだろうと察し、彼女はそのまま宰相の退出を許す。

 そうしてゆっくりと寝室の扉が閉まるのを見届けると、彼女は吐息をついて寝台の老人に声をかけた。

「ごめんなさいね、皆してひねくれ者で」

 この日、初めて視線を交わした二人の総統は、同じタイミングで苦笑を浮かべた。

「いいや、わかっているよ。彼らが本気でそう言っているわけではないことは。しかし、本音はどうも分かり辛い……」

「慣れればすぐ分かるわ。本当は分かって欲しくてああして捻くれた物言いをしているんだから、本音を煙に撒くつもりはないの」

 ほう、と老人が声を漏らす。

「さすがに、私より付き合いが長いだけはあるな」

「あなたも長いはずでしょう。ただ敵か味方かの違いがあるだけで」

 また懐かしい話を持ち出すものだと、男性は含み笑いを漏らす。確かに彼がまだ自らの方法に大きな迷いがない頃、今は仲間だった魔族たちは敵だった。無論、眼前の女性もその一人。

「……しかし、彼らは単純明快な戦法を特に好んでいたよ」

「その通りよ。だから、ひねくれようとしても分かりやすいの。あっちへ行ってって言いながら、本当は一緒にいて欲しい年頃の女の子みたいにね」

 何もかも見透かしているような女性の言葉に、老人はため息をつく。

「今更だが、彼らが君に頭が上がらない理由がよく分かる。君は優しいが、強かだ」

 単純な褒め言葉だけではない評価に、女性は軽く目を見開くが、次の瞬間には悪戯っぽい笑みを浮かべながら大仰な身振りで会釈をする。

「アンクロワイヤー総統閣下から『強か』なるお言葉を戴けるとは、恐悦至極」

「からかわないでくれ」

 くすぐったそうに笑う男性だが、その笑みも疲れですぐに掻き消えてしまう。

 今の彼の体は、痛みよりも疲れに押し潰されそうなのだろう。苦しみで顔を歪めるよりも、痛みで我を忘れるよりもましだとは言え、やはり女性は視線を逸らしてしまう。敵として戦い、味方として共に奮闘した大切なひとを、今しも失おうとしていることを痛感して。

「……側に行っていい?」

 だからこそ、まだ彼が生きていることを実感したかったのだろう。彼女にしては珍しく、そんな甘えるような言葉を囁くのは。

 少なくとも彼女はそう思ってこんな行動を取る自分に納得し、尋ねられた老人は特に何も考えず頷いた。

「構わないよ。しかし、椅子を持ってこなければ……」

 言いかけて、老人は目を瞬かせた。薄暗く、半分以上は瞼に覆われた赤い瞳がほんの一瞬だけ見えて、若返ったと女性は笑う。寝台の下に跪き、まるで枕元の祖父からお話を聞く孫娘のように、寝台に肘をつきながら。

「本当に、おじいさんになったものね」

 しみじみと言われて、老人は困った笑いを浮かべる。

「仕方ない。私は人間なのだから、すぐにおじいさんにもなるものだよ」

「本当になればよかったのに」

 女性の視線は、言葉の軽さとは裏腹に真剣だ。それを上手く誤魔化せる機転のよさも軽さも持ち合わせていない老人は、到って真剣に答える。

「年寄りと寝所を共にするなど、どんな女性でも断るだろう。私の自己満足に、一人の女性を付き合わせるのは心苦しい」

「今じゃなくて、もっと以前からチャンスはあったはずよ?」

 相手が武勇に名高く騎士道精神の手本のような殿方であり、更にアンクロワイヤーと名乗る騎士とくれば、多少適齢期を過ぎた女性なら誰しも彼と直接言葉を交わす以前に妻になりたがるだろうに。

 見合い相手を手配しても構わなかったとぼやく女性に、黒獅子はしかし頑として首を縦に振らなかった。それどころか、逆に難しい顔で宣言する。

「苦しむ民を眼前に、自分だけは幸せな家庭を築くことなど出来ない」

 そんな返答を共和国設立当初にも聞いたような気がしたのか、女性は呆れながらも尋ねる。

「普通なら、苦しむ民を自分と同じくらい幸せにしようと頑張るものじゃないかしら」

「そう考えられなかったから、結婚などできなかったんだよ」 

「なるほどね」

 納得してしまうのは、きっと彼の性分を理解しているからなのだろうと彼女は思う。思いながら、その皺だらけの指先に触れる。分厚く堅く浅黒く、優しい手に。

「君なら、まだ間に合うだろう?」

 絹の長手袋の感触と、その奥にあるふっくらとした女の指の瑞々しさを感じて、老人はくすぐったそうに目を細める。 

「残念ながら、その気がないの」

 事実、彼女が人間でも適齢期と呼ばれる年頃から、その手の誘いは中立者から敵からはたまた味方から、多方面に舞い込んできた。当然ながら彼女は全て丁寧に断り、今に到るまで闇の皇女の生まれたままの姿を見た男は誰一人としていない。

 そこまで彼女の身持ちが堅いのは、覇道を長く歩く中で民を導く責任を感じているからこそなのだろうが、けれど彼女に母性や恋愛に憧れない心がないはずがない。その点を鑑みれば、自分より余程頑固だと老人は吐息をつく。

「……君は私を堅物と呼ぶが、君にその資格はないように思うよ」

「わたしはあなたより柔軟よ、何にも対して」

「いいや。君こそ、自分の幸せを築こうともしないじゃないか」

「幸せ?」

 鸚鵡返しの呟きが寝室に広がりきった僅かな沈黙の後、短い笑い声が漏れた。一瞬のうちに空気が変わる。

「幸せ、ねえ」

 声の主は、老人の手を玩具のように弄び続ける。緩慢で小さな動きは妙に艶やかで、残酷に見えた。弄ぶものが人骨であっても違和感がないだろうと思えるほどに。

「私は、機会があれば結婚していたかもしれない。独り身の辛さを感じたことはあるし、君たちにそう漏らした覚えもある。大抵は、弱音のようなものだったけれどね」

 しかし老人は女性の鋭い視線を意に介さない。それは天性から来る神経の太さだと思っていたが、女性はここに来て、本当はそういうものさえ敢えて無視する性格なのだろうかと疑いを抱く。だとすればこの男こそ、随分と強かではないか。 

「けれど君は、そうじゃない」

 軽く包まれていた手が否定を示すように揺れる。促されるように女性は手の主を見て、また老人も女性をひたと見つめる。思いのほか強い意志を感じさせるその瞳は、これらが今にも死に行く老人の、虚言ではないと宣言していた。

「君は、愛することを恐れているように見える。異性であれ、同性であれ、誰を相手にしても一線を引き続ける。誰にも心を委ねようとしない」

「……そんなに冷たく見える?」

 老人は首を振る。

「これまでもこれからも、君ほど慈悲深く、公平に判断を下す女王はいないだろう。しかしそれは、民衆という不特定多数に対する優しさや愛だ。誰か一人を、何かを犠牲にしてまで守り続けようとは……思っていないね?」

 女性はまた笑う。けれど今度の笑みは獰猛とは言えず、単刀直入な質問に呆れたようだった。

 そして深く長く息を吐くと、女性は口元だけの笑みを作る。なんでもないと言うように。

「ええ、よくご存知ね」

「長い、付き合いだからね。私が気付くくらいだから、皆知っているのだろう」

「どうかしら」

 彼らが知っていようがいまいが、彼女の心は揺らがないらしい。つまらなさそうに老人の指の付け根を一本ずつ摘んでいく。

「……エミリア、かい」

「ええ」

 慎重な人間の問いかけに、何でもないような顔で魔族は答える。

 大きく分厚い爪を撫でながら、女性は淡々と付け足した。

「今度エミリアのときのようなことが起きたら、わたしは暴君に成り果てるでしょう。それだけは絶対に、あってはならない」

「させるものか。君の周囲が、君を止められないわけがない」

 力強い老人の言葉に、女性は再び視線を落として哂う。

「アンクロワイヤー。あなた、自分の存在に自惚れている自覚はない?」

 素っ気無く皮肉めいた質問に、しかし老人は驚きもせず深く頷く。

「ああ、……今もあるよ。更に言えば、私はずっと自惚れていたかった」

 少し、意外な言葉だと思ったのだろう。軽く女性が目を見張ったが、その視線はまだ太い指に注がれたままだった。

「私が、君にその原罪を忘れさせることができると思っていた。私だけでは無理かもしれない。八賢人と呼ばれるあの愛しい仲間たちが、末永く君を支えていけば、君はいつか君だけの生を謳歌できると……」

「無理よ。それは、無理」

 老人の言葉を遮った女性の表情は、やはり平淡で何の感情も浮かべていない。しかし口調には、焦りか、そう自らに言い聞かせるかのような響きがあった。

「だってわたしはエミリアを亡くしたから今がある。あの子の死を切欠に挙兵したわたしが、どうしてあの子を忘れられるの? あの子の死を都合よく美化できると思うの?」

「だが……」

「あなたはわたしは民衆に対する愛しか持たないと言ったけど、ええその通り、わたしにとって民衆とはエミリアなのよ。あの子のように無力で脆弱で今を生きることしか考えられない存在を、忘れればわたしはわたしでなくなってしまう」

「だからと言って……っ」

 搾り出すような老人の声は、最早大声で彼女の言葉を止められる余力がない自らに対する悔しさを交えていた。しかし彼女はその思いには気付かなかったらしい。慌てた様子で眉根を寄せる老人の顔を覗きこんだ。

「……疲れたの? もう、喋るのも辛い?」

 結果的に我に返ってくれたことを感謝しながら、けれど結局この方法は彼女の気遣いに対する甘えに他ならないことに苦々しさを覚えながら、老人は無理に笑みを浮かべる。

「いや……平気だよ。……まだ、君には言っていないことがあるんだ」

「無理をされて労われる言葉なんて、受け取りたくないわ」

 彼女らしい物言いだと、乾いた笑いが漏れる。聞こえてくる声は、自分でも驚くほど弱々しかった。――もうそろそろ、そのときが近いのかもしれない。

 ならば尚のこと、彼女に自分の本当の言葉を伝えなくてはならないと老人は思う。けれど、口は思うように回ってくれない。思考が、思うように巡らない。

「……ロゼ、私は、ね」

「焦らないで、アンクロワイヤー。落ち着いて」

 君のほうが余程焦っているよ、と言いたいけれど、それも我慢して口を開く。自分でも落ち着こうと深呼吸をするが、何故か口元が震えている。瞼が重い。今まで経験したことがないくらい疲れている。

「私は君が、幸せになるのを、見たかった。そうすれば、私も幸せになれると……」

「今までだって充分幸せだったのよ、わたしは! あなたが死のうとする今までは!」

 嬉しいことを言ってくれる。その声が鼻声でさえなければ、更に嬉しいのだが。

「もっと、君は、幸せになれたはずだ。君が予想するより、幸せになれば、私は……」

 もう一度深呼吸する。慎重に、この言葉だけははっきり伝えないといけないと、自らに言い聞かせて。

「君に赦してもらえると、思っていたんだ」

 ようやく言えた浅ましい自分の言葉を、しかし自分の耳で聞いて思わず老人は自嘲の笑みを浮かべる。急にそんなことを言われても、彼女は一体何のことだろうと驚いているに違いない。

 けれど未だ老人の手を強く握り続けている女性は、上ずった声で応えた。

「赦すわ。あなたの罪を、全て」

 老人は驚くが、瞼はぴくりとしか動かない。そこにあるのが彼女の泣き顔でないことを願いながら、見えなくなった視界に彼女の姿を思い描く。美しい、一目見たときから誰とも違うと思わせた、儚くも気丈な意思を持った魔族の女性を。初めて彼女と戦場で出会った、あのときのことを。

「どうせあなたのことだもの……きっと、あちらでも謝り続けるんでしょう。仲間だった人たちに、裏切って申し訳ないとか、責めるなら自分を責めてくれとか、助けられなくて申し訳なかったとか」

 その通りだ。そして、冥界の王に彼らと言葉も交わせないような罪を背負わされたら、それこそどうしようもないという恐れもある。

 けれどそんな不安を振り払うように、女性の華奢な手が彼の手を強く握り締めた。

「だったらわたしが、わたしだけでもあなたの罪を赦すわ。あなたの味方になる。あなたの後悔を一つでもなくしてあげる。あなたがどれだけ周囲に絶望しても、わたしだけは変わらずあなたを受け入れ続ける」

 ありがとう、と言いたいけれど、喉に力が入らない。体は呼吸だけで手一杯らしく、そこまで衰えた自分に老人は悲しいどころか驚いてしまう。

 その上、よくよく考えればまるで愛の告白さながらの台詞ではないか。そんな言葉を自分に贈るものではないよと笑いかけたくなるが、頬はぴくりとさえ動かない。

「ねえ、だから……安心して。そんなに自分を責めないで。少しはあなたの周りを、信じてよ」

 君にそれを言われるとは思っていなかった。そう言いたい彼の気持ちを察するように、女性の声が裏返る。笑っているのだと、少しの間で理解した。

「……あなたも、わたしを見て、こういう気持ちをずっと持っていたのかしら」

 そうかもしれないな。老人の穏やかな気持ちを汲み取るように、女性の笑い声が響く。

「似たもの同士なのかもしれないわね、わたしたち」

 かもしれないね。そうだとすると私は――そう思う老人の額に、水のような何かが掛かった。

 触れた瞬間は熱いのに、いつの間にか冷たくなっていたその液体の正体を、老人はついぞ知ることもなかった。

「……おやすみなさい」

 老いた瞼に口付ける。皺の多い額に零れた涙を拭う気にもなれず、女性はまだ温かいその体から身を離す。

 手を祈りの形に組み合わせてやり、外で待機しているはずの医師を呼ぼうと立ち上がろうとする。けれど体は、もう一度寝台のほうを振り返った。

 安らかに、本当に眠っているように意識を失った男の相貌は、意外に幼くて彼女は思わず笑ってしまう。笑いを浮かべれば、また目尻にじわりと熱いものが浮かび上がってくるが、唇を噛んでその気持ちを堪える。

 けれど、彼女もまた最期に彼に言うべきことを言っていないと気付いて、唇を噛み締めていた歯をすぐに離した。

「……ありがとう、アンクロワイヤー」

 彼のことだから、律儀にどう致しましてと返事をするに違いない。

 また笑いが込み上げそうになって、彼女は今度こそ扉のほうに体を向ける。

 そんな彼女の背中を見届けるように、八賢人最後の人間の魂は冥界に旅立った。

 

RETURN