Offer Lillie

 

 人は問うた。すべてを欲しいままにできるほどに尊く、魔族の血のため不老にして、膨大な魔力を持つ、賢く美しい女に。

 自由になったら何をすると。

 女は答えた。

「お墓参りに行くわね」

 

 

 

 

 

 見上げた空はまだ深い紺色でも、東の縁は淡い紫に染まりつつある刻だった。八月も終わりに差し掛かったワルアンス城、その城壁をも抜けた先の暗い雑木林で、一組の男女が歩を進めていく。

 一人は白い外套に、獅子の鬣のような金髪の魔族の軍人。その先を行くもう一人は目深に法衣を被ってはいるものの、その奥に花のかんばせを持つ魔族の女。

 一見すれば法衣の娘が軍人をどこかに案内するように見える光景だが、その二人の顔を知っているこの大陸の民ならば驚愕の後に戸惑うだろう。

 軍人は八賢人の一人シーグライド、法衣を着た娘は同じく八賢人の一人にして共和国初代大総統の一翼ロゼ。現時点で、権力の頂点と断言できるほどの大物だ。しかし二人は気軽に、供も着けずに歩いていた。

「……何故あなたは、七年戦争で裏切った我々を今まで手元に置いたのですか」

 急な背後からの問いかけに女は軽く目を見開いたが、その足取りは止まる様子もない。男もそれに従い、返答まで黙して歩き続ける。恐らくは目的地に着くまで、このまま無言なのだろうと想定しながら。

 だが予想に反して、沈黙はすぐに破られた。

「新しい顔ぶれにしたところで、その人たちが裏切らない保障はどこにもない。だったら元裏切り者でも顔見知りの方がいいわ」

 簡潔な言葉に、男は危うく納得しそうになって立ち止まり、慌てて首を横に振る。それから深刻そうに眉間に皺を寄せたまま、前を歩く女に続けて問うた。

「……いや、しかし。顔見知りに拘る理由はどこにあります」

「その人への理解がある方が、その人の得意な仕事を宛がい易いから」

「だが、また裏切る可能性が……」

「次は容赦しなければいいだけの話じゃない。それにあなたたちの反乱は、あなたたちが何を望んだかを明確に示した証拠。ならその目的に関するものから遠ざければいいでしょう? 金銭の横領や知的財産の占領、又は復讐を企てる者を知らず手元に置いて、それを許してしまう地位を与えるよりも安全だわ」

 男は思わず立ち止まって続いて天を仰いだ。馬鹿でも分かると断言できるほど分かり易く、しかも納得してしまったのがどうも頂けないらしい。

「……合理的ですな」

「ええ、そのつもりよ。……とは言っても、あなただから納得させられたのかもしれないけれど?」

 こちらを振り向き口元に笑みを作る女に、男はむっとしたように睨みつける。それから開いた距離を縮ませるため早足で歩き始めるが、その所作は動揺を隠そうとする彼の心情と合致しているように見えたのだろう。油断したように彼女が吹き出した。

 年頃の娘のように軽やかな忍び笑いを聞くと、男は嫌味の一つも言いたくなったらしい。眉根を寄せたまま、呟くように問いかけた。

「……随分と明るく笑われる。共和国大総統の身分は、それほどまでに重いものでしたか」

 男の言葉に、女は笑いをぴたりと止めて顎に手を添える。暫くの沈黙の後、彼女は小さく息を吐いた。

「分からないわ。無数の命を支える身分だから当然軽くはないけれど、今のわたしが身軽かと言えばそうも言えないでしょう?」

「………………」

 冷静にして正しい認識に、男は眉間の皺を更に深く刻む。

 否と言えれば、男もそれほど女に対して複雑な感情を抱かなかっただろう。けれど彼は知ってしまった。目の前にいる女性は、自分よりも、自分が好敵手と認めた男たちよりも、いまだ将として生きていることを。

「――今更ですが、苦言を呈しても宜しいですかな」

「構わないわ」

 男が立ち止まると、前を歩いていた女はつられるように足を止める。一瞬の迷いのような空白の後、彼の口が動いた。

「今からあなたが行おうとしている行動は無意味だ。一線を退いたあなたが、そこまでする必要はない」

「そう」

 男の制止を願う言葉に、しかし女は動じる様子もない。そんな反応が返ってくることくらい予想できたはずなのに、彼は一瞬口を噤んだ。だが、あっさり引き下がるつもりはない。

「隠居をする者は、大抵がそれまでの功績に甘んじ、社会を荒さぬ程度に振舞うことが許される。あなたのそれが、隠居の振る舞いだとは到底思えません」

「耄碌するまで前線に立つよりは、不毛じゃないと思うわ」

「いいや不毛だ。墓参りなど――我々が経験した戦争の死者相手の墓参りなど、不毛以外の何物でもない」

 第二次大戦と七年戦争、これら戦いの戦死者など正確な数を把握するだけでも大仕事と言えるのに、女は一人残さず弔問すると宣言した。

 八賢人最後の純人間アンクロワイヤーの国葬を行った夜、八賢人の生き残りたちにそう告げた女の表情を――それが当然だと心底思っている鮮やかで静かな目を、男はいまだに忘れられない。

 そして部下から断言を受けてもなお動じる様子も見せない女は、やはり至って気軽に唇を動かす。

「二次大戦が始まったとき、自分の身がどうあれ戦争が終わり次第エミリアに報告しようと思った。それから帝国を解体したとき、犠牲者となった帝国の将たちに詫びと決意を告げようと思った。戦争が終わったら、それまで犠牲になった仲間の兵たちに感謝の言葉を捧げたくなった……」

 さくりと前から草を踏む音が聞こえて、男もそれに倣おうと自動的に足を動かす。もう夜明けが近付いているのだ。突っ立って長話をしている暇はない。しかし同時に、彼は女から目を離せなかった。

「思い出したの。アンクロワイヤーが亡くなって、あの時々に思ったことを一つもこなしていない自分に。……だからこのままの流れで眠るよりも、したいことをやってから眠った方がすっきりできだろうからやるだけ」

 そう迷いなく告げる女の後姿を見て、男は知らず呼吸を止める。

 義務として他者に押し付けるようであれば、墓参りが封印の眠りに就くための対価として考えているのならば、止める言葉が見つかったかもしれない。けれど女は、その荊の道を自己満足だと言い切った。それに衝撃を受けるのは、戦場に生きた者ならば当然のことだろう。

「……後悔をしない、自信でもおありですか」

「ないわ。けど、やらない後悔よりやった後悔には価値がある」

「傷付かない自信は?」

「死者と向かい合って傷付かないほうがおかしいでしょう」

「それでも行くと仰いますか」

「ええ。わたしがやり残したのは、それだけだもの」

 迷いのない言葉を聞き、男は吐息をつく。優しいが覚悟のない女だと思っていたのに、力の使い方を知らぬ半端者だと苛立っていたのに、自分が求める完璧な王ではないと確信していたのに。

 思いもよらないその行動は、強い覚悟を感じさせる。その強さは、自分が王に求めた力強さとは全く違った、けれど王に求めていた条件の根底にある。

 認めるしかなかった。男は盲目だったのだ。千の雑兵を殺す力にばかり惹かれていて、千の雑兵を弔う強さを軽視していたことに、今の今まで気付かなかった。

 女がまた、男のほうを振り向いた。困ったような笑顔は、当然ながら若々しい。そして――

「我ながら、暗いわね」

 夜の帳を打ち破る黄金の輝きが、女の輪郭を覆う。

「……いえ」

 ――むしろ眩しいほどです、と。

 知る限りでは、誰よりも自然で高潔な信念を持った人物に、男は最初で最後の笑みを投げかけた。

 

 

 

「あれ」

 小落下を体に感じて、彼女は知らず瞼を開ける。それまで瞼を閉じていた――つまり眠っていたらしいことに気がついて、大きな欠伸とのびをする。ぽきりと肩から背中の骨が鳴って、窮屈な姿勢で眠ってしまったらしいとも知った。

 ワルアンス城を出た日、別れ際に実に珍しいものを見たのは事実だが、まさかそれを夢で思い返すとは予想外だった。しかも、全ての墓参りが終わったその日に。

「……プレッシャーだったのかしら」

 そんなつもりはなかったし、旅の最中にあの会話など思い出しもしなかったのだが、夢に見たのだから完全に否定はできない。一応目的は完遂できたのだから、あれをプレッシャーと感じていたのかどうかなんて、今となってはどうでもいい話だが。

 辺りを見回せば、ここが簡素な家具が置かれた宿の一室だと分かる。窓の外はまだ暗いから、日付は変わっていないはずだ。それとももう墓参りが終わったのは『昨日』になってしまったのだろうか。

「……アシュレイ?」

「どうした」

 寝台の横のソファに納まった、大きなローブがゆらりと動く。こちらを向いたローブの奥には、彼女にとって見慣れた兜がある。それを見とめると、彼女は一瞬落ち着くが同時に呆れも覚えた。

「いい加減、それ脱がないの?」

「脱いだ所で君が想像するような開放感は感じんよ」

「……前にもそんな返事を聞いた覚えがあるわ」

「私もこんな返事をした覚えがあるな」

 短い会話を終わらせると、彼女は呻き声を上げながら半身を起こす。すると今度はローブを被った鎧の人物が話しかけてきた。

「君はもう少し休んでおけ。うたた寝程度で疲れは取れまい」

「近々長く眠れるんだから、別にこの程度の疲れなんて何ともないわ」

 肩をすくめる彼女に、カレは兜の奥でそっと吐息をつく。

「……封印の眠りと睡眠は違うと、前にも言ったはずだが」

「そうだった?」

 とぼけた彼女の頬を、無骨な籠手がするりと撫でる。表情の読めない兜から紡がれる言葉も、その所作同様にどことなく穏やかだった。

「今の君の体は魔力に浸り過ぎた。おかげで長期間、疲れも空腹もなく動き回れたが……」

「ええ。もともとそんな術がない限り、お墓参りなんて無理だったでしょうね」

 言いながら彼女は微笑を浮かべた。それからうんと腕を天に伸ばし、長くのびをする体勢のまま体を左右に大きく捩る。

「魔力の過剰使用は好きじゃないけど、つまらないプライドを貫いて半端に終わるのはもっと嫌だもの。これでよかったと思ってるわ」

「……そうか」

 浮かぶ笑みは形ばかりにしか見えないのだが、カレはそれに触れる立場にいない。彼女の要望から休息を不要にする強化魔術を教え、カレも空間転移の術を惜しまず使ったのだ。彼女の本音を引き出すにしても遅い上に、教授した自身が説教など矛盾も甚だしい。だからカレは何とも思っていないように話題を変えた。

「しかし、今それは不要なはずだ。その上、封印の際は平時の状態にまで戻しておく必要がある」

「戻し方は?」

「ただ何もせず休んでおけ」

 そう言われてしまえば、他にすることもない。彼女は降参の意思を示すように細く長い息を吐くと、勢いよく横に倒れる。

 彼女の態度を好しとしたカレは、再び彼女の小ぶりな額を静かに撫でる。まるで日向ぼっこ中の猫を甘やかすような所作に、彼女はついつい心地よさに目を細めた。

「……そうね。この状態も便利だけど、やっぱり不自然でいやかも」

「ならば体が元に戻るまでしっかり休め。約束より数日延びても構わんさ」

「酷いわ、アシュレイ」

「何とでも言えばいい。封印の主役たる君が万全の状態でなくては意味がない」

 そう言われてしまうと反論もできないらしい。眉根を軽く寄せながら、彼女は瞼を閉じる。

「……だったら温泉地にでも泊まればよかったかも。その方が疲れも取れるだろうし」

「今更だな。それとも変更するかね」

 ゆっくりと首を振る。カレには冗談が通じない。もし頷こうものなら、彼女の知らぬ間にその通りに事を運ぶだろう。休むためだけにそんな労力を使うのは馬鹿げていた。何より。

「あなたも、魔力の浪費を抑えるべきなんじゃないの?」

「さて、な」

 ぎしりと音を立てて肩をすくめた鎧は、立ち上がって目を瞑ったままの彼女の額に親指で円を描く。その冷たい刺激に相手がぼんやりとした笑みを宿すのを見て、カレもまた兜の奥で笑みを浮かべた。

「……今、聞いておくべきかな」

「達成した感想?」

「ああ」

 頷かれると、彼女はまるで先程のカレの仕草を真似るように肩をすくめる。何とも表現し難そうな苦笑を宿しながら、遠くを見るように目を細めた。

「……分からない、なんて言うと、あのひとたちに失礼かしら」

「さてな。私より君のほうが想像力豊かだろう」

「あなたは考えることを放棄してるだけだと思うけれど?」

「………………」

 矛先が自分に向かうと思っていなかったらしいカレは、黙り込んでやり過ごそうとする。しかし、ここにいるのはたった二人きりなのだから意味はない。

 彼女は相棒の浅見に声を出して笑うと、ごろりと転がって枕に顔を埋める。

「……公平に祈りを捧げたつもりだけど、やっぱり相手によって違ってたんでしょうね」

「違って当然だ」

「そうなんでしょうけど、やっぱりそこが少し……」

「未練かね?」

 枕に埋まったままの頭が、小さく頷いた。

 この理想の高さが何とも言えず彼女らしいと感じながら、カレはその頭を慰めるように撫でる。

「……落ち着いてきたら、色んなことを思い出すようになると思うわ。けど今は無理。それしか頭に残っていない」

「ならば眠っておけ。思い出したときに教えてくれればそれでいい」

「ありがとう」

 体を反転させて仰向けの体勢になると、彼女はベッドのカバーも外さず瞼を閉じる。本人の自覚以上に、体と精神は眠りを求めているらしい。

「おやすみ、アシュレイ」

「ああ。おやすみ」

 ――我が、魂の花嫁。

 声に出さず、唇の動きだけでそう呟いたなんて、彼女は知りもしない。ただ飽和状態を通り越し、麻痺した己が体と心を落ち着かせるために再び眠りの世界に落ちていく。

 けれどそれでいいとカレは思う。彼女にとって自分が未練の化身だと悟られないのならば、それで十分だった。

 

 

 再び彼女がその瞼を開いたのは、眠りに入ってから四日後のことだった。それでも二ヶ月以上は不眠不休で死者に祈りを捧げ続けてきたのだから、短い方だとカレは思う。

 再び彼女がその口を食事に使ったのは、四日間の眠りから覚めた一時間後のことだった。三時間以上食事に専念していた彼女の姿を、しかし二ヶ月以上は絶食状態だったのだから仕方ないとカレは思う。

 だが、彼女のほうはそう思わないらしく、いかにも衝撃を受けたような顔をして夜道を歩く。

「……ここまで寝て、ここまで食べたのってきっと人生では初めての経験ね」

 心なしぽこんと膨れた腹部を手で押さえながらの呟きに、鎧の上に外套を羽織ったいかにも怪しい人物は、首だけそちらに向けて尋ねた。

「そこまで驚くようなものかね?」

「わたしにとってはね。ここまで睡眠と食事に貪欲になったのは初めて」

 言われてふむ、とカレもそれまでの記憶を振り返る。成る程、確かに彼女の言う通りだが、それも理由があると知っているカレにはさほど驚く要素にはならない。

「今の君の肉体は、魔力による過剰な強化を失ったからな。その反動もある」

「でしょうね。おかげで目覚めた瞬間が異様に気持ちいいし、食事が美味しいしで……」

 彼女はそこで言葉を切り、少し困ったふうに笑う。

「少し……封印をもう少し引き伸ばそうかな、なんて考えちゃった」

「そうか」

 別にそれでも構わないとカレは思う。彼女を個人的に知る多くの人々も、今くらいなら好きに寝て好きに食べて、好きなことをすればいいと勧めるだろう。

 けれどたったそれだけでも魂さえ堕落してしまうと思っているのか、焦るように彼女は顔を上げた。

「でもね、それはそれで危険だと思うの。好きなことを好きなだけできても、それに飽きてしまったり刺激に慣れてしまうのは勿体無いじゃない。だからしないわ、安心して」

 気軽な口調は、却ってカレには重く感じられた。彼女が自らに戒めた鎖はいかにも重く頑丈で、こんなときくらい好きに生きようとさえしない。まるでその戒めから放たれることに恐怖を抱いているようだ。

 そして常人ならば、その戒めを解こうとするのだろう。自由になることが罪ではないと、彼女に切々と説くのだろう。その予想通りの行動を見せるであろう男の顔が何人か浮かんだが、けれどカレは常人ではない。少なくとも、ヒトでさえない。

「そうか。君がそう言うのならば、その言葉を信じよう」

「ええ、信じて」

 深く頷く彼女の瞳が、カレの言葉を聞いた途端に燐とした輝きを持つ。それを見受けると、カレの心は恐らく彼女と同じように心地よい緊張感と責任感に満たされる。

 彼女と言葉を交わした世の男たちは、生のままの彼女を求めるのだろう。傷付きやすく繊細で、いかにも脆い女の顔を持つ彼女を、優しく包み込んで微笑みながら生きてほしいと願うのだろう。けれどカレは知っている。それは単なる男側からのエゴでしかなく、そんな彼女を求めるときはもう随分昔に過ぎ去ったと。

「……随分髪が伸びたな」

「今更なに?」

 驚きと呆れを半分ずつ混ぜた視線を向ける彼女に、何もないとカレは首を振る。

「昔のことを思い出した。君がまだ、髪を切る前のことを」

「嫌な思い出」

 ぽつりと彼女は呟くものの、その顔はしかめ面でもなければ悲しそうでもない。彼女自身が彼女の傷に触れたときのように、落ち着いた表情だった。

 そして彼女自身でもあるカレは、特に気にすることもないように話を掘り下げる。

「嫌ではないだろう。あのときと今の君は変わらず幸せだが、そう感じる根拠が違うだけだ。当時の君には、今の君の幸せなど想像できなかったろうがね」

 カレの言い方に、彼女は少し救われたように口元だけの笑みを作った。

「そうね。確かに昔は、普通の女の子らしい幸せを夢見てた。今じゃ、それほど羨ましいとは思えないけど」

「ああ。誰かの妻となって、子を産み育てる君は確実に幸せだろうが、想像はできない」

「わたしもよ」

 心地よい笑い声が夜闇に響き、カレも何年ぶりか便乗するように笑いたくなる。

 これでいい――これこそが今の彼女なのだから、全て肯定することこそが彼女にとって最善なのだ。頑丈な鎖も鎧も剥ぐのではなく、それすら受け入れることこそ彼女が何より求める許容。

 彼女と言葉でしかやり取りの経験がない者たちは、恐らくそんなことにも気付かない。彼女の心の機微を体全体で感じ、彼女の孤独を誰よりも知るカレだからこそ、言葉に偽りなく彼女の幸せを肯定できる。だからきっと。

「――ロゼ」

「なあに?」

 小さく跳ねるように階段を下がる彼女が、何でもないようにカレの方を向く。夜空の下にあっても尚、鮮やかに輝く瞳は紅玉よりも真紅の薔薇よりも美しい。

 その美しさに感嘆の息を吐くように、カレは続けた。

「今夜だ」

 瞳が大きく見開かれる。それもやはり美しくて、カレは彼女の瞳を見つめたままもう一度告げる。

「今夜、君は完全な姿になる」

 先程まで生き生きと夜の街を歩いていたはずの彼女が、カレの言葉を聞いた途端、まるで人形のように硬直する。

 逆にそれまで操り人形のような動きを見せていたカレが、滑るように影のように彼女に近付く。背の高い鎧が、音も立てずに彼女の手をそっと握り、彼女に呪文のような言葉を囁いた。

「交換条件だ。最後に、私を幸せにしておくれ」

 

 

 

 夜空よりも暗い室内で、それは佇んでいた。

 影のように物音一つ立てず、生気を感じさせるもの一つたりとも見せない鎧が、灯りも点けずにソファに座ったまま微動だに動かない。もしこの光景を泥棒が見れば、不気味な置物とさえ思うだろう。けれどその中には確かに無形の誰かがいて、ただ隣の物音を聞くだけの存在になる。

 隣から時折聞こえてくる水音は無闇に大きく、己の存在をかき消すのではないかと時折真剣に思うほどで、そんな自分をカレは嘲笑う。発想の幼稚さにではなく、自らの存在感の希薄さを今更実感したことがなんとも滑稽だった。

 カレは窓のほうを見る。月は高い位置にいるらしくこちらからは見えないが、月光に照らされた空はほんのりと明るい。外からは何の音も聞こえず、街全体が寝静まっている。

 悪くない、いい夜だ。こんな夜に消えれるなんて、本物の魂を持つものたちとてなかなかない経験だろうと思うと、カレは少しだけ自分の運命を誇らしく思う。尤も、カレは自分の運命を悲観した経験など、一度たりともありはしないのだが。

 カレは、彼女となるために生まれたものだった。

 その使命は言うなれば生き物の持つ本能に近い。遺伝子に刻まれるそれに近いものがあるかどうかは不明だが、カレが求めることはただ一つ、彼女と同化することその一点のみ。他は空虚な、人の心や思考を模した、単なる魔力の塊に過ぎない。だから悲観もしないし、存在意義についてヒトほど迷走した考えを一時でさえも持つことはない。

 それは反面、それだけ生の楽しみを放棄した存在なのかもしれない。けれど彼女との同化以上の悦びも存在意義もいらないのだから、それでも構わないとカレは思う。

 しかし、彼女はそれに不服らしい。彼女の魔力としてのカレではなく、一個人としてカレに生きてほしかったらしいことは、今まで彼女と交わした会話の中で何度も汲み取れた。けれどそれこそが偽りの生き方なのだと、彼女は分かっているのだろうか。恐らくは否。

「上がったわ」

 声のしたほうを振り向くと、カレは半ば呆れながら腰を上げる。

 そこにいたのは確かに彼女で、全身からは湯上りらしい蒸気が仄かに見える。そこまでは当然だろう。問題なのは、ろくにタオルで水滴を拭った様子がないらしい上に全裸なことだった。

 カレはすぐさまタオルを籠手越しに取ると、そのまま彼女の頭にすっぽりと被せる。頭に軽く指を立ててある程度水気を拭おうとするが、濡れ鼠同然の彼女の髪は想像以上にたっぷりの湯を含んでいた。

 冬が近付いている季節だと言うのに、ずぶ濡れではすぐに体が冷えてしまう。事実、粗方髪の水分を取ったと言うところで、既に彼女と水滴は湯でなく水となっていた。

「……封印を間近に控えた今、このような無謀な真似は止めてほしいものだ」

「………………」

 丁寧な口調ながら、言葉尻には厳しさを滲ませたカレの発言に、しかし棒立ちの彼女は何の反応も見せない。

「ロゼ?」

 濡れて見えなくなった瞳を覗き込むようにカレが屈み込もうとしたそのときに、唇が薄い笑みを宿した。自嘲めいた、投げやりな笑い声と共に。

「ずっと考えてたの。でも思いつかなかった」

「何をだ」

 小さく頭が動く。濡れた前髪を掻き分けて、彼女は眼前の鎧を赤い瞳で見つめる。心なしその周囲も赤く腫れているように思うのは、きっとカレの気のせいだろう。

「あなたの幸せとわたしの幸せが、どうすれば両立するのかって」

「…………確かに、難しい問題だな」

 だがカレはそんなこと一度たりとも考えたことがない。しかしその鎧の奥の不定形体は純粋なヒトどころか生き物でもないのだから、互いの幸せについての思考放棄について恥も浅ましさも感じなかった。

 それを彼女も恐らくは理解しているのだろう。気の抜けた笑みを作って、胸甲に頭を埋めようとする。当然埋まることはないが、額に当たるひんやりとした金属は心地よかった。

「……なんでそこまで、固執するの?」

 愚痴に近い言葉だと受け止めて、カレは迷いなく宣言する。

「それが私の存在意義だからだ」

「わたしに吸収されることが? 一つになることが? わたしを完全にすることが?」

「ああ、そうだとも。逆に聞くが、それらは君にとって無意味なことかね」

「あなたを失うことに比べれば」

 断言され、カレは緩く首を振る。やはり長く待ちすぎてしまったのは裏目に出たらしい。多くの裏切りに遭った情け深い彼女にとって、絶対的な忠誠を誓いながらも妄信はしないカレの存在は、何とも誰とも代え難いものになっていったのだろう。

 けれどカレは、他の誰でもない彼女に個人として、アシュレイ・ロフとして認められることを望んではいない。

「……ロゼ。それだけはいけない」

「それって何よ。わたしはまだ何も言っていないじゃない」

 半ば嘲笑うかのような彼女の声色に、カレは敢えて淡々と説明を付け足す。

「私を個人として見てはいけない。私を個人として愛そうとしてはいけない。私にとってそれは君を裏切ったも同然だ」

「随分と自意識過剰ね、アシュレイ。そんな言い方だとわたしが完全にそう思っているみたいじゃない」

「出来れば杞憂であってほしいからな。私の思い違いであるならば一時の恥で済む」

「なぜ?」

 水滴を飛ばして彼女が顔を上げる。その瞳の奥に宿る感情は、嘲るような言葉では隠しきれない本心が覗いていた。カレにもそれはじわりと伝わってくる、流れ込んでくる。けれどカレは情に流されはしない。甘やかすような言葉さえ選ばない。

「私はヒトではない。生き物ですらない。君を補うために零れ出た魔力に過ぎない」

 柔らかな女の頬に触れながら告げるカレに、苛立つ彼女が激しく首を振る。

「けれど会話できるじゃない。意思がある、好き嫌いがある、心がある……あなたが生き物じゃないなんて、誰も思わない!」

「では、それが私に備わった理由が分かるかね?」

「分かるわけないでしょ!」

「魂を喰ったからだよ」

 再び彼女が顔を上げる。けれど先程とは違い、視線は強い疑問を投げかけている。疑問と言うより、不可解と言ったほうがより正確かもしれない。

 カレはがちゃりと音を立てながら、その視線を迎えるように俯く。

「もう一度言おう。魂を喰った――否、取り込んだ、かな。どちらでもいい。とにかく私は意思を持つため、一人の命を犠牲にした」

「……そう……」

 弱々しい相槌を漏らしたのも一瞬。また彼女が視線を上げたとき、自棄に似た言葉が返ってきた。

「けど今更でしょう。わたしたちは二度も大戦に参加した。……もうヒトを十分すぎるくらい殺してきたわたしが、あなたの個を否定できるほど清いわけがない」

「いいやそれでも、私は個として君に認められるわけにはいかない」

「どうして!?」

 彼女の激昂を受けても尚、カレは乱れる様子もない。いっそ憎らしいほど普段通りに見える。けれどそれは、見えるだけだった。

 小さな沈黙の後、兜の向こうが震えながらも唇を開く。悲しみからの震えでもなくば、歓喜や苛立ちからの震えでもない。それは単純にして暴虐な感情。

「私が喰ったヒトの名はアシュレイ・ロフ――君と君の両親を裏切り、弄ぼうとした重罪人だ」

 偽りの心の中に眠るありったけの怒りを籠めて、アシュレイ・ロフと生涯名乗り続けてきたカレは、そう告白した。

 

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