Offer Lillie

 

 アシュレイ・ロフなる人物はもとは一介の騎士であったとカレは語った。

 騎士はさる貴人の護衛として選ばれたが、その貴人に対し彼は当初、強い反発を抱いた。理由はと聞かれれば、当時の価値観――としか言えない。言い換えれば先入観、人種差別。しかしそれらは往々にして氷解していくものでもある。

 この場合もそれに倣うように、立場に相応しい心根を持つ貴人の態度に騎士も少しずつ、自らの価値観に疑問を持つようになっていった。だがそこで完全なる和解には繋がらない。何故なら貴人は妊婦で、彼が誰よりも忠誠を誓った相手は貴人をそうさせた張本人だから。

 赤子の靴下を編む貴人を見て、騎士はどう思ったのか。愛する者と東屋で語り合う貴人を見て、騎士はどんな心境だったのか。

 それに明確な答えを見出せたならば、騎士はそれほど苦しまなかったのかもしれない。だが彼は、答えを見出した先にある初めての苦しみのほうが怖かった。答えを見出しそうになっては、自ら酷い言いがかりをつけそれを否定し心を掻き乱した。

 そうしていくうちにも時は過ぎる。貴人の腹が次第に大きくなっていくさまを見て、その腹を慈しむ貴人を見て、何より幸せの絶頂にある貴人の笑顔を見て、騎士の心は千々に乱れた。無表情の仮面を被りながら、内では今までの生を後悔さえした。

 そして貴人が出産し、玉のような女の子を産んだとき―― 異物が共に現れた。成人の握り拳くらいはあろう、禍々しい影を纏った紫色の宝玉。

 貴人はそれの正体を知っていた。何度捨ててもいつの間にか赤子の傍らに戻ってくる、時には赤子の体内に入ろうとするその不気味な宝玉を、憐れみさえしていた。

 ついに、貴人は騎士に頼んだ。貴人が故郷に帰る前日に、この宝玉――我が子の溢れ出た魔力の結晶――を、厳重に保管してほしいと。どうか愛する人には内密に。焦るあのひとは、これを悪用する危険さえあるのだから、と説明しながら。

 その瞬間から騎士の心と、貴人へ抱く感情の方針が決定付けられた。真実の想いは消え去り、彼自身が歪め取り繕った言い訳が現実になった。子を生むほどに愛する男を危惧する貴人を二枚舌と内心激しくなじりながら、自分が悪用する可能性に気付いていない貴人の愚かしさをせせら笑い、宝玉を手に取り眺める日々が続いた。

 裏切りは容易い。だがどんな方法で裏切れば、あの貴人の心を自分と同じかそれ以上に苦しめることができるのだろうか。無表情の仮面の下で、次に騎士はそんなことばかりを考えるようになった。事実、宝玉とその正体を知るのは騎士と貴人二人だけなのだから。貴人もその娘も、騎士に完全な掌握権があると言えた。

 けれど時間は、騎士にのうのうと考える隙を与えない。彼が忠誠を誓った軍は敗北の色濃くなり、ついには――貴人の愛する男が、どうなったかが知らされた。

 それを聞かされたとき、騎士は喜ぶよりも悲しむよりも先に動いた。混乱に包まれる残党軍をいち早く抜け、馬を駆け、赤子がいるはずの館に向かった。男の血を引く赤子が、敵に発見されれば彼の計画は水の泡と消える。それだけはならないのだから、ようやく邪魔者が消えたのだから、ようやく復讐できるのだから、ようやく独占できるのだから、だから絶対に赤子だけは隠さねばならない。

 騎士は馬上で笑う。まるで生まれたばかりの赤子が、自らの生に歓喜の声を挙げるが如く。

 騎士は馬上で泣く。まるで今しも寿命が尽きようとする老人が、自らの死に足掻くが如く。

 その声に影響を受けたのか。それとも単なる偶然なのか。そのとき騎士が肌身離さず持っていた、唯一彼が貴人に自ずから手渡され頼まれた宝玉が、水のように大きく波打った。

 宝玉は最初どうやってそのかたちになったのか、最終的にどうなったのか。騎士は何も知らないまま、腰に吊るした皮袋ごと貫かれ、その勢いで馬から落下し、暴れた馬に肩を踏まれ、皮膜のような黒いものに覆い被さられ、そこで意識と命を失った。

 騎士の遺体を包み込んだ宝玉であったものは、まるで生き物が捕食するかの如く、騎士の皮膚からその内部へと侵入し、その肉を、骨を、あらゆる体液を自らの暗闇の中へと放り投げ、自らのものに組み替えていった。

 それは事実、捕食と言えたろう。けれど実際に捕食しているはずの宝玉は、こんなものなど吸収する必要さえなかった。本体である赤子が宝玉を体内に納めれば、それで済むはずの話だ。

 けれど宝玉は捕食をやめない。騎士の内面に常に触れていたそれは、本体である赤子への危機感から無理にでも邪まな思考を廻らせる騎士を排除せねばならないと判断したのだから、確実に騎士を殺す必要があった。意思も感情もないそれの行為は、赤子の防衛本能と言い換えられるかもしれない。

 そうして――遂に宝玉が騎士の脳を捕食しきった頃、この方法は間違いだったとそれは気付いた。そして自己もどきが芽生え、思考もどきをしている自分に気付いたとき、「カレ」、宝玉であった赤子の魔力の結晶体は、危険視していた存在と融合している自身の愚かさを呪った。

 けれどいくら嘆いても仕方がない。死のうと騎士が所有していた武器で肉体を斬っても、突き刺しても、抉っても、カレは死ななかった。痛覚さえ感じなかった。剣に映るその顔はまさしく騎士のもので、憎らしくて何度も頭をかち割った。それでもやはり無理だった。そもそも皮を裂いた先に臓物がなかったから、この身は魔力のみで機能した、真っ当な生命ではないものだとおぼろげながらに理解し始めた。

 そうなれば、死ぬわけにもいかない。この身にしてこの偽りの命の素である魔力は、赤子に捧げねばならないのだから。漏れるものかすら分からないけれど、皮から魔力を漏らさぬようにしながら、騎士の本来の勤め先に戻り――幸か不幸か、思考は宝玉であっても、知識は騎士の所有するものだった――、混乱の中で自身の魔力を漏らさない、頑丈な器を探した。

 そしてそれが見つかったとき、騎士の皮の上にその鎧を身に着けたとき、カレは。

「今のアシュレイ・ロフになった。それが、私だ」

 胸に手を当てて告げるカレを、彼女は虚ろな目で見つめていた。反してカレは、全てを語り終わったためか、妙に晴れ晴れとした印象を受ける。それとも自棄になり、投げやりな気持ちでいるのだろうか。彼女には分からない。

「……アシュレイ」

「何だ」

「その手の奥に、心臓はないのね」

「ああ、ない」

 深く頷くカレは、やはり普段に比べ堂々として見える。何故だかそれが、彼女にとって奇妙なまでに羨ましくなった。おかしな話だ。羨ましがられるべき本体は、赤子は彼女だと言うのに。

「あなたは、……アシュレイって呼ばれるのはいやだった?」

「ああ。私にとって『アシュレイ・ロフ』は最初の脅威だ。……そして、早計にも奴と融合してしまった自分を、今でも悔やんでいる」 

 カレの無機質な声が、アシュレイ・ロフと呼び、奴と呼ぶ部分だけ人間の声のような生々しい感情を表す。憎悪のみを声に示すカレを痛々しく感じて、彼女は眉根を寄せながら首を振る。

「……けど、分からないわ。それでも分からない、分かりたくない」

「何がだね」

 優しく問いかけるカレの口調が、優しいからこそ彼女のやり場のない虚しさと苛立ちを増長させる。その思いを吐き出すように、彼女はもつれる舌を必死に動かした。

「そこまでアシュレイ・ロフを嫌うなら、なぜあなたはその名を捨てないの? そこまで憎んでいるの? 過去に犠牲にしてしまった人を忘れてしまえば、あなたはあなたとして生きることが……!」

「君がエミリアを忘れられない理由は、何だね?」

 静かな問いに、彼女は頭を上げた。同じなのかとカレを見ると、鎧はその視線を受け止めるようにゆっくりと頷く。

「……今の君があの少女の死から始まったのと同じく、私はあの男の死から始まった。感情の方向は違えど、責任は同じだ。そして不幸なことに、奴は私の中でまだ息衝いている」

「………………なに、それ?」

 理解できない言葉を耳にして、彼女は怪訝に眉を寄せる。対するカレの声は相変わらず静かだが、その心の中まではそうとは思えない。

「奴はまだ私の中で生きている。君の溢れた魔力の欠片である私を逆に乗っ取ろうと、そのときこそ自分の復讐を完遂させようと、暗い情念を燃やしながら私の、どことも知らぬ奥底で蠢いている」

「なん、で。死んだんでしょう、その人は?」

「一度は死んだが……私は魔力でしかない存在だ。人の魂を喰らったが、魂までは得られない。そして魂は、君と私が思う以上に強いものなのだよ」

「だったら……」

 身を乗り出し、彼女はカレの籠手を掴む。その奥にある感触は人肌に似ていたが、確かに人の持つ温かさなど宿していない。

 けれどその奥に、痛がるかもしれない誰かの存在を恐れるように、彼女は兜の奥を覗き込んだ。

「……あなたはまだ、その人でもあるの? 母を恨み、わたしを手に入れようとする騎士の復讐心も持っているの?」

「そうだ」

 平然と、カレは彼女の怖れを肯定した。

「だが安心したまえ。私の意識は常に私の支配下にある。あれの執着心は凄まじいが、私の魔力そのものまでは乗っ取れない。しかし、あれは本物の魂を持っている」

 それだけがまるで相手にとって最大の切り札であるように、カレは声を震わせる。恐怖を感じているのか、それとも怒りを感じているのか。やはり彼女には分からない。

「私には命を模した君の魔力と、君の魔力として存在する意義しかない。……それはとても脆いものだ。君がそれを完全に否定してしまえば、私の意義は失われ、ただの魔力になる。そうなれば……奴の勝利だ」

 無機質な声音が、今までにない絶望の色を浮かべたように感じて、彼女は知らず肩を強張らせる。それに気付かないらしいカレは、頭を振って戦慄いた。

「完全な一個人となった『アシュレイ・ロフ』は、君の寵愛を受けほくそ笑むだろう。君の信頼を一身に受ける我が身に歓喜を振るわせるだろう。そしていつか君を貶めるために裏切るかもしれない。否それとも、裏切らずに一生君に愛されることで満足かもしれない。だが、その『アシュレイ・ロフ』は私ではない……!」

 声が暗い室内に響く。憤りを滲ませるカレの声は確かに生きているモノ特有の力強さを持ち、到底紛い物だなんて言葉は信じられない。

「私は君を完全にするため意思を持ったのだ! 君を裏切るためにここまで来たのではない! 君を陥れるために奴を殺したのではない! 私が真に望むのは君の糧となることであり、私が君を踏み躙ることではない……!」

 血を吐くような切望の声を、けれど虚ろで人のものには聞こえないその不可思議な声を、彼女は生まれて初めて耳にした。きっとそんな声自体、彼女以外に耳にする者などありはしないのだろうけれど。

「頼む、ロゼ! どうか奴の復讐を……望みを叶えるような真似だけはしてくれるな! 君の慈愛を受ける資格もないあの男を、愛することは君の両親と君への裏切りに等しい! もしそうなれば、私が意思を失ったとしても、偽りの魂が芥となって消え果てたとしても、私はそれを悔い続ける! 私の今までの全てが無意味だと、君に証明されたも等しいのだから!」

 狭く暗い部屋に呪いのような言葉をまき散らしながら、床に膝をつけ慟哭する黒い鎧。やはりその兜の奥からは、流れてもいいはずの涙など見えもしない。こんなにも――カレはこんなにも、今までになく人のように怯え、恐れ、嘆いているはずなのに。

 カレの感情的な姿を見ていた彼女は暫く唖然としていたが、数度瞬きをしたのち、勇気を振り絞るようにその手を取る。

「……アシュレイ、アシュレイ・ロフ。わたしの知るアシュレイ。わたしの欠片だと、わたしを完全にするために生まれたと言うあなた。教えて頂戴」

 呼ばれたカレは兜を上げる。窓から入り込む僅かな月光の下でさえ美しく、気高い顔立ちだとはっきり分かる女性を崇めるように。

「なぜ、今までそのことを教えてくれなかったの」

「……得体の知れない存在が、自分の欠片だと言い出せば君はどう思う。更にそれを疑わしく思う頃、復讐心を持つ魂が混ざっていると言い出せば、君は私を当時以上に信じないはずだ」

 先に比べ冷静さを取り戻したカレの声が自嘲混じりに聞こえたのは、恐らくは彼女の気のせいなのだろう。けれど彼女は気にしない。

「……あの戦争が終わった頃から、わたしはあなたをあなたが思う以上に信頼していたつもりよ」

「だが私が君の欠片であることを、君は肯定し、信じ、意識していたか? 信頼できる一部下としてしか、見ていなかったはずだ」

 それを言われるとどうしようもない。口元だけの笑みを作って、彼女は頷いた。

「ええ……。あなたの望みなんて、どうでもよかったわ。わたしにとって、あなたはわたしのかけがえのない一人であってほしかったから。今だってそう。わたしが封印の眠りに就いても、あなたさえ残ってくれればきっと平和になると思っている」

「……そうだろうな」

 彼女が触れたカレの手が、自分の内部を押さえこむように一瞬強ばる。けれど彼女は、それを感じ取っているはずなのに表情を変えない。

「ええ。わたしにとってこの世で一番恐ろしいことは、頼れるものがいなくなることだから。だからあなたの願いなんて有耶無耶のままにすればいいと、罪悪感もなく思っていた。あなたの願いはそれこそ、いつか、叶えればいいと思っていた。他人事みたいに。けど――」

 白く華奢な手が動く。カレの兜に触れるため、ゆっくりと上を目指す。

「けど、それはあなたの――いいえ、『わたし』の幸せじゃないから。わたしが感じないだけの、『わたし』を無視した方法だから。だから『わたし』が幸せになるために、わたしはあなたを受け入れる」

 彼女の言葉はカレの全身に凛と響き渡る。長きに渡り待ち望んだその言葉は、何と幸福なことか、カレが誰よりも大切な彼女の、眩しい微笑みと共に贈られた。

「おお、おお……!」

 歓喜に全身を震わせながら、カレは兜に触れるその手をしっかりと掴む。籠手に伝わるは夢ではなく、幻でもないその温かさ。カレがどうあっても手に入れられないそれは、涙が出ないのが不思議なくらい、空虚な内部に染み渡る。

「……教えてくれてありがとう。あなたが告白をしてくれなければ、わたしはずっとあなたの意思を無視して、苦しめてきた。そんなはずないなんて……、わたしさえ満足すれば、あなたも勝手に満足してくれるなんて思っていたけれど、そうじゃないのね」

 彼女の言葉は、最早カレの耳に入っていなかった。百年近い渇望が、完全な一人でさえないことの虚しさが、もうあとほんの数分で霧散するのだ。それがどれほどの救いであるか。恐らくヒトの身では一生味わえない幸福に、カレはただただ感嘆の声を発するしかできずにいた。

「……嗚呼。ロゼ、ロゼ、ロゼ! 本当に、本当にこの私を君だと認めてくれるのか!」

「認めるわ、あなたがわたしの欠片であると。受け止める、あなたの想いも力も全て」

 その言葉に、カレは更に声を挙げる。咽び泣けるならばそうしたのだろうが、生憎カレの体は涙も出せない。だがそれを虚しいとは思わなかった。今この場で彼女に受け入れると公言されることよりも、誇らしく喜ばしいことなどないのだから。

 けれど彼女にはその喜びなど伝わらない。ただ見たこともないほど感情を露にするカレを、眩しそうに愛しげに見つめるだけだ。

「さあ教えて、『わたし』。あなたを『わたし』にするための方法を」

 優しく問いかける声を聞いて、カレは思い出したように顔を上げ、兜を取る。現れるのは、彼女と瓜二つの顔。その表情は、今までにないほど晴れやかだ。

「……方法は。到って簡単だ」

 まるで先の、カレが『彼女』だと認めたときの彼女のような穏やかな表情で、カレは彼女をひたと見つめる。自分に触れる白く美しい手を、愛しげに握り返しながら。

「君が私に触れながら、思うだけでいい。私が『ロゼ』であると、その欠片であると思えばいい。それだけで私は、人になれる。命になれる。君になれる……!」

 カレは泣きそうに顔を歪ませるが、その濁った瞳孔は涙を流さない。しかしそれさえも愛しげに見つめると、彼女はその頬に手を添える。自分の体温を奪うように冷たく、滑らかだが無機質な自分と同じ顔を。

「……ロゼ」

「今まで、本当にありがとう」

 腰を落とし、膝立ちのままのカレの額に己の額を触れ合わせ、彼女は微笑んだ。その笑みに、救われたようにカレも微笑む。彼女に比べれば随分とぎこちない笑みではあるが、そのぎこちなさが彼女にとって微笑ましいのだろう。涙をニ三粒零しながら、瞼を閉じる。

 カレの体に未知の浮遊感が生まれる。自らの存在が希薄になり、自らの意識そのものが削り取られるように薄れていく。不思議な感覚だった。気を失う直前とはこんな感覚なのだろうかと、やけに明確な頭で考える。嗚呼、頭などなかったか――そもそも真っ当な肉体さえ持っていないのに、滑稽な話だ。

 だがカレは気にならない。今このときはそんなことよりも、眼前の美しい、この世にある何よりも大切な彼女を見ていたかった。彼女に取り込まれる最後の瞬間まで、彼女を見つめていたかった。

 けれど、けれど。その視界すら、削り取られる。白く霞んで輪郭さえも、色彩さえも刻一刻と朧気になっていく。こんなことはカレにとって初めてで、けれどそんなことだけで彼女を不安がらせたくないから、カレは何も言わなかった。

 否、一つ。たった一言だけ、彼女に言うことがある。どこかに力を入れるため、どこからか声を出すために、カレは最後の力を振り絞る。

「……ろ……ぜ……」

 幸いにも、まだ声は出せた。その声が何と言っているのかさえ、カレにはもう聞こなくなりつつあるけれど。

「……しあ……、せ……に……」

 その言葉で正しいのかどうかすら、今のカレにはわからないけれど。カレは伝えたかった。今の自分がどれだけ幸福であるかを。今までの自分がどれほど幸せだったかを。

 そして今度は、彼女がそうなってほしくて。

「大丈夫……。わたしも、あなたに会えて幸せだったし、あなたと共にあることで、幸せになる……」

 見えたのだろうか。聞こえたのだろうか。カレが何より誰より自分より大切な彼女が、涙を流しながら声を掠れさせながら、カレの籠手を強く握りしめそう呟いていることに。

「だって、あなたがそうなんだから……!」

 最後の言葉さえ聞こえたのか。それは誰にもわからない。当人でさえわからないのだ。もうその意識は完全に消え果てて、彼女の魔力として一粒残さず吸収されてしまったのだから。

 額に触れる冷たい誰かの肌がもうないと知った彼女は、壁にもたれかかるような姿勢の鎧の脇に落ちていた兜を持ち、鎧の奥を覗き込みながらそっと被せる。金属音は微かながらに長く響き、この中にはもう誰もいなくなってしまったことを示していた。

 それを実感し、物言わぬただのがらくたと化した鎧を見て、彼女は静かに泣く。けれどその表情は穏やかに、まるで眠っているようで、閉じられた瞼から止めどなく溢れる涙だけが、彼女の感情を唯一表しているに過ぎない。

 いつまでそうしていたのか。随分長いようでいながら、反面たったの数分間だけの静寂であったのかもしれない。そして再び瞼を開けたとき。彼女は彼女にとって誰よりも何よりも大切だったはずの人物がいた鎧の心臓部分に。

 レイピアを突き刺した。

 

 

 

 

 濡れた頬を腕で拭うと、彼女は前を見据える。まるでその目は今まで立ち向かってきた数多の敵を相手にするようで、恐らくこの光景を見た誰かがいたならば多少に困惑するだろう。

 けれどそれでも構わない。彼女は少し鼻をすすりながら、これもまた鎧の中にいた相棒と同じくらいの年月を共に過ごした愛刀の柄を握り、貫通させようとするように少しずつ力を込めて奥へと突く。そうして剣先が捉えたのは、分厚い金属の壁のようだ。

 つまり手応えは、ない。

「……こっちじゃないのね」

 ぽつりと呟き引き抜くと、今度は脚に、今度は籠手に、今度は頭部に、今度は喉に。淡々とレイピアを鎧に突き刺していく。けれど手応えは感じないから、彼女は淡々とまた突く場所を変える。深く、この世にいる誰よりも愛したカレの姿が、穴だらけになっても尚。

 それをまるで見かねたように、どこからか声が聞こえてきた。

「……乱暴ナ姫ダナ……」

 見窄らしい姿となった鎧から聞こえてきた、カレよりも更に人ならぬものの声に、彼女の表情が小さく変わる。

「お前がそうなの?」

 しかし、彼女のレイピアは止まらない。それどころか、凶暴性を増したように勢いづく。そしてそれは、彼女の表情も同じく。

「答えなさい、アシュレイ・ロフ。わたしの実親を裏切って、わたしの『アシュレイ』に喰われた男」

 眼光は静かに。けれどそれ以上の冷酷さを感じさせて、彼女は淡々と告げる。その間もレイピアは巧みに動き、鎧を傷付けていく。まるで声の主の在り処を探ろうとするように。

「……サテ。ソレニシテモアナタハ、アノヨウナ急ナ告白ヲ、信ジテイルノカ……?」

 声は真っ当な人の声帯から発するものではないのに、嘲るような感情をありありと表している。まるで正反対だ。先程この鎧に宿っていたものは、人の声帯から出ているはずなのに無機質な、感情を真に表しきれない、作り物めいた声だったのに。

「当たり前じゃない、信じるわ。わたしの『アシュレイ』は、ただの一度もわたしに嘘を吐かなかった」

 けれどそれさえ気にしないように、彼女はレイピアを振るい続ける。

「カレは嘘を吐かない代わりに、何も言わないのよ。お前はそんなことも知らなかったの?」

 彼女の声はその眼光と同じくらい冷酷なのに、鎧のどこかにいる誰かは余裕のある笑い声を漏らす。

「……アア、確カニソウダッタ。アレニハ嘘ナドツケル頭ハナイ。騙シサエスレバ、話モ随分早ク済ンダロウニ」

「ご尤もね。けれど、だからこそ彼は今まで、わたしがその気になるまで待つしかできなかった……」

 ぎり、と唇を噛みしめて彼女は再びレイピアの柄を握り直す。

「化け物を内に飼ってしまっていても……彼はそれから逃げられなかった」

 もう消えてしまったカレの心の内を想うような呟きは、だが同じ姿のどこからともなく聞こえる笑い声によって掻き消される。

「ハハハハハハ! ……化ケ物ダト、コノ私ガ!?」

 恐らくその何も見えない兜の眼簾の奥に目があれば、ぎょろりと彼女をねめつけていただろう。そんな底知れぬ不気味さを湛えた笑い声を聞いても、彼女は冷めた目で動かぬ鎧を見つめていた。

「姫ヨ、同情シテイルノダロウガ、私ニトッテハ奴コソ化ケ物!! 私ノ命ト肉体ヲ奪イ、魂ヲ持ッタフリヲシナガラ、私ヲ乗ッ取ッタダケノ許シ難キ、オゾマシイ寄生物!」

「分かっているわ、そんなこと」

 レイピアが横一線を描くと同時に、かんと音を立ててカレの胸甲板に傷が生まれた。それでもまだ、その奥にいるであろう何かは見えてこない。

「けれど、わたしにとってはそんなことどうでもいいの。……大切なのは、お前は彼を蔑んでいて、わたしはお前が大嫌いと言うこと」

 彼女は微笑みを浮かべながらそう言うと、今度は鋭く脇腹部分を突く。分厚い甲冑を貫いたレイピアの先はそれでも、虚空を突くような感触しかなかった。

「お前が彼に愛着を持っているようなら、見逃してやるつもりだったけれど……そうじゃないらしいわね」

「無論。私ヲ殺シタ物ニ、愛着ナド持テルモノカ」

「自分の行いを棚に上げて、よくもまあ図々しい……」

 吐き捨てるように呟きながらも、彼女は攻撃の手を緩めない。甚振るようでいながらその表情は、そんな遊び心など持っていない。

「お前の言うところの寄生物は、お前より余程真剣にわたしの身を案じ、わたしを愛してくれた。お前当人がわたしを支えても、そのときのわたしは今のわたしほど満ち足りてはいなかったでしょうに」

「姫ノ自己愛ト比ベテホシクハナイナ」

 呆れたような声に被さるように、一際大きな金属音が響く。兜の頭蓋部分が、レイピアによって粉砕されたのだ。

「……彼のあれがわたしの自己愛なら、お前の執着は何なのかしら、ねえ?」

 ぎろりと輝く鮮血のような赤い瞳に見抜かれても、鎧の奥は動じる様子はない。それ以前に鎧の奥にいるものは、今の今まで一度たりとも動いていないのだ。脆弱なのか、力を隠しているのか。どちらにせよ、彼女は容赦するつもりなどなかった。

「……彼には。わたしの『アシュレイ』には感謝しているわ。こんな身近に隠れ潜んでいた、わたしの愛するひとを苦しめる存在を、わたしの手で討つ機会を与えてくれたのだから」

「陳腐ダ……。マルデ正義ノ味方気取リダナ」

「何とでも言いなさい!」

 激情的な一撃を受けても、しかし鎧は何も言わない、反応しない。それでも彼女は焦らないし、油断もしない。ただ怒りのままに剣を振るう。

「お前はどうなの、『アシュレイ・ロフ』! 勝手に横恋慕して失恋して、身勝手な復讐まで企てた愚かな男!」

 声高らかに告げながら、攻撃は止まらず勢いを増す。

「孤高気取って勝手に苦しんで、客観的に自分を見れないまま死んで、死後も反省しやしない! 死んで百年近く経ってるくせに、今も死んだ原因を苛める、怖がらせるしか脳のない馬鹿男!」

 胸当てに開いた穴が、更に大きくなる。肩甲の破片が散る。膝当てに入った皹が一面に広がって、次の一撃で遂に大破する。けれどそれでも彼女は止まない。止められない。

「お前なんか、魂まで完全に『アシュレイ』のものになってしまえばよかった! 『アシュレイ・ロフ』、お前の魂ではなく名前だけが残っていればよかった!」

 叫び続ける彼女の姿は、賢者であり皇女として称えられた気品も優雅さも冷静さもない。ごくありきたりな女が取り乱すように、彼女もまたヒステリックな声を上げていた。

「……そうなら彼は……個人だったのに! わたしを、一人として愛してくれたかもしれないのに!」

 彼女の叫びを聞いた鎧の奥は、また不気味に笑う。先よりもずっと大声で、実に愉快そうに。

「ホウ、ホウ、ホウ! 奴ヲ自己トシテ認メ吸収シタバカリノアナタガ、今ソレヲ言ウノカ!」

「当たり前じゃない愛してたわよ、ええこの世にいる中では誰よりも信じて、愛してた! けどお前を愛したくないから、『彼』を愛してたから、……彼に幸せになってほしかったから、だから彼の言葉に従った!!」

 その顔が、いつしか冷酷さを脱ぎ捨て激情をも通り越して、まるで子どものように涙を堪えていることに、彼女は気付いていなかった。けれど気付いたところで恥じるつもりもないだろう。眼前の、自分の気持ちを阻んだ原因が嘲笑っていようとも、心の奥底に眠っていた感情は止まらないのだから。

「わたしは、お前じゃないもの……! お前のように身勝手な想いを成就させようとは思わない! 愛する人が幸せになるなら、その人の自殺だって手伝う!」

「先ノアレハ、ソノ言葉通リダッタワケカ……?」

 変わらない嘲笑混じりの声に、彼女は今度は鼻で笑って返す。

「ええ。……そう言う意味じゃ、お前に感謝しているわね。一歩間違えれば、わたしもお前と同類になるところだった」

 だからこそ、彼女はカレとの同化を決意したのだろう――とでも思っているのか。短い沈黙の後、先ほどまでの声音と違った人外の声がぽつりと呟いた。

「……私ハ姫ニ、余程嫌ワレテイルヨウダナ」

「ええ、嫌い。大嫌い」

「ソレハ残念ダ。取リ付ク島モナイノデアレバ、復讐モデキナイ」

「わたしとしては有り難い話ね」

「アア。誠ニ残念デハアルガ……君ノ、勝チダ」

 姫、ではなく君と呼ぶ。まるでカレのように。

 どう言う意図かと眉を顰めてレイピアを構える彼女の眼前、鎧の丁度左側の腰骨の辺り――カレが騎士を一番最初に貫いた箇所――から、ゆらりと夜闇と同じ色の小さな炎が浮かび上がった。

「セメテ君ガ、アノヒトノヨウデアレバ、私モ未練ガマシイ執着ヲ見セタカモシレンガ……。君ハ、アノヒトデハナイ」

「当たり前じゃない」

 これが目に見える魂のかたちなのか、と頭の隅で思いながら、しかし彼女は油断するつもりもなく呟く。

「ツマリ、私ノ今マデハ無意味ダッタトイウコトダ。……アノヒトモイナイ、アノヒトノ面影モナイ娘ナド手ニ入レタトコロデ、我ガ復讐ガ完遂スルハズモナイ」

「ああ、そう」

「アア。ダカラコノ――私ノ魂、君ガ好キニスルトイイ」

 鎧の腰付近を漂う黒い炎は、風もないのに一瞬ゆるりと揺れ動く。さあどうぞ、と言っているような輝きに、けれど彼女の怒りは収まらなかった。

「それはどうも。けど、そんなことで好きにならないわよ」

「私ガ求メテイタノハ、アノヒトノ娘ト分カル娘デアリ、今ノ君デハナイ。見当外レナノダヨ」

 よく分かった、と吐き捨てると彼女は今度こそレイピアの柄を強く握る。

「……消えなさい、未練の奴隷『アシュレイ・ロフ』」

 そして彼女の意図通り。またはその黒い炎の願い通り。

 鎧の腰当てが、彼女の愛刀による渾身の一撃によって粉砕される。その風を受けて、その細い刀身に籠められた魔力を受けて黒い炎は大きく、まるで蝋燭の最後の輝きのように派手に揺れる。

「……サラバダ。我ガ魂ノ花嫁デアッタヒト『ロゼ』」

 カレのように声を掠れさせもせず、カレのように万感の想いを籠めもせず。人外の声はそっけない物言いで消え去った。

「……そう……」

 そして彼女も。カレのときのように涙の一粒も見せず、カレに向けたような慈しみを含んだ視線もくれてやらず。ただあの炎の言葉に納得したような、小さな声を出しただけ。

 再びの静寂が室内に広がる。今度こそ、彼女しか生きているものがいない部屋の中、彼女はそのまま数分立ち尽くし、それから月が輝く窓の外をちらと見て。

「……嗚呼、もう本当に……」

 向き直る。今度こそがらくたとなった、むしろそれよりも酷い姿となった鎧へと。当然その鎧であったがらくたからは、人の気配もなければ魔力も一切関知できない。

「……独り、ぼっちに、……なっちゃった……」

 呟くと、彼女はそれまで凛々しくあった顔をくしゃりと歪め、大粒の涙を目尻に浮かべる。そこから先は言うまでもない。ただただ彼女はその心のままに、誰にも見せない、見せられない自分の気持ちを虚空に向かって表すだけで。

「……ばか、馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿っっ、アシュレイの馬鹿!」

 まるで子どものように泣く。天を仰いでひたすらに。今まで泣けなかった場面を頭の隅で思い出しながら。

「きらいよあなたなんて! だいっきらい、本当にきらい!」

 袖で涙を拭い、垂れる鼻をすすり、喉が枯れても、それでも彼女は泣き叫ぶのを止めない。彼女はこんな風に、泣き叫んでもいいと思った場面に遭遇したことがないから。だから今くらい、本当に誰も見ていない、本当に愛していた人たちがいなくなってしまった今なら、許されると思って。

「……きらい……ばか、アシュレイ、なんか……!」

 しかし、彼女の脳裏に蘇るのは鎧姿のカレだけではない。他にも数多くの、愛しく大切だった人々の笑顔が浮かび上がる。笑顔。それも憎らしいほどの。

「……アンクロ、ワイヤーも、きらい! ギュフィも、エミリアも、フォルティアも、他にも、みんなみんな……!!」

 ひたすらに彼女は泣く。今まで泣けなかった分の涙を流せるのは、ここしかないと思ったから。

 ひたすらに彼女は叫ぶ。愛していたのよと言いたい気持ちを、罵倒の言葉に置き換えながら。ひたすらにひたすらに、その心に秘めた思いが治まるまで――。

 

 

 

 小さな街に陽が昇る。鳥の鳴き声と市場に向かう人々の足音や声が、いまだ完全な青に染まっていない空に微かに響く。

 ああもうそんな時間かと、重い瞼を擦りながら起き上がった少女は、そのまま洗面所に直行し、身支度を整えて玄関を開けに向かう。

 調理場を覗けば普段通り両親はもう起きていて、お客のための朝食作りに忙しい。まあうちのは結構美味しいものね、なんて思いながら少女は箒を取り出して掃除を始めた。

 帳簿を覗けば分かることだが、今日も宿泊客は結構いた。悪いことではないのだが、手抜きができないのはちょっと辛い。

 それでも掃除をしっかりした方が朝食が美味しい気がするから、少女は強く握り拳を作って自分に気合を入れる。

「よーし、頑張るぞー!」

「うん、頑張っておくれ」

「ひゃあ!?」

 急に聞こえた声に飛び上がると、頭から外套をすっぽり被った女性がくすくす笑っていた。ここ数日泊まってくれていた、珍しい、綺麗な桃色掛かった金髪の魔族の女性だ。

「ああ、びっくりした。……お客さん、もう行かれるんですか?」

「今までのんびりし過ぎていたからね。早く出ないと、予定に遅れてしまう」

 少女はその物言いに少し違和感を覚える。露骨ではないにしろ、このお客はこんなに男っぽい喋り方をしていた人だったろうか、と。けれど女性は自分の口調を気にしたふうでもなく、少女の頭をぽんと撫でて通り過ぎる。

「女将さんもご主人も今は忙しいみたいだし、金はカウンターに置いたよ。釣りはいらないから、好きにしておくれ」

 しかし口調はあくまで柔らかく優しげで、少女はますます混乱する。けれどけれど、ぽかんとする暇があるならお声をかけるのが客商売だと普段から口酸っぱく両親に言われていたから、少女は何とか舌を動かす。

「あ……ありがとうございました!」

「うん、世話になった」

 颯爽と歩き出す外套の女性を見送る中、少女はまたも違和感の正体に気が付いた。いつも隣にいた、背の高い鎧の人はどうしたのだろう。

 そんなことを考えた少女の頭の中を覗き見たように、女性が絶好のタイミングで振り返る。

「ああ、そうそう」

「は、はいっ!?」

「私が泊まっていた部屋に、金属片が散っているかもしれない。粗方、片付けたつもりなんだけどね。掃除は念入りに頼む」

「は、はあ……どうも」

 その金属片とやらは一体何なのか。聞きたい気持ちはあったが、お客の理由に首を突っ込んじゃいけないとこれもまた口酸っぱく両親に言われていたので、少女は何も尋ねなかった。それから気付く。最後に挨拶が抜けていることに。

「あの、またのご利用を!」

 女性は口元に苦笑のようなものを浮かべ、何も言わずにひらひら手を振る。同じように手を振り返すと、相手の返事が聞こえないことも気にせず少女は再び気合を入れ直した。

 それが、ネバーランド共和国初代大総統ロゼが庶民と交わす最後の会話だと知らずに。

 

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