Offer Lillie

 

 目が眩むほど深く濃い青空が次第に柔らかさを帯び、薔薇の美しさを引き立たせる化粧師に変貌を遂げる。秋になったのだと知らされる美しい光景に、女は口元に笑みを浮かべ朝の庭へと向かう。

 幸い、まだ寒さは感じないので薄着でいられた。しかしそれもほんの数週間だ。数週間もすればこの花の盛りもすぐに色褪せ、代わりに種をそこらじゅうに見せる。食べられる種類のものは花よりもその成果にやきもきしてしまうから、女はあまりそれらを好まなかった。

 庭に入ると今日活ける花を探す。出来の良し悪しに関わらず、見せる相手がいなくなってもそれだけは変わらない。時折自室に入ってくる人の反応から、こちらが満足を得ればいいだけの話。それでも感想を貰いたくて寂しくなるときがあるが、誰しがもあの声とあの率直さを持ち合わせているわけではない。何より下々の者に感想を強請ったところで、当たり障りのない反応しか返ってこないのだ。

 だがそれでも女は日課を止めようとは思わない。評価してもらう喜びと同じくらい、活ける花や花瓶を選ぶこと、花の目利きや活花の技術を磨くことが楽しいから。

 今日は庭に出る前から白薔薇を主役に活けようと思ったから、一番立派なものを目で探しながら、頭の中でどの花瓶を使うか思案する。大きすぎるのは花瓶が目立つし、かと言って小さく低めのものは正面を下方にしてしまうのでまたよくない。考慮の結果、無地で磁器に近い材質の、なるべく硬派なゴルデン様式のものにしようと考えた。色は添える花と同色にならないよう、ごく薄い黄色か緑が良い。

 白薔薇を引き立たせる脇役たちは、黄色の薔薇と青い小花。丁度良い蕾も幾つか見繕って、違う種類の葉も多めに手折る。芝の隅に咲くクローバーも仲間に入れて、長年使っている籠が溢れそうになった辺りで頃合と見てテラスに引き返す。今日のもう一人の主役は秋空だと決めたから、室内より外で活けたかった。

 しかし帰りの小道から、無人のはずのテラスで動く人影を見止めて、女は淑女の皮をかなぐり捨てる。

 息を潜め、身を棘の多い薔薇のアーチに静かに隠し、籠の底に入れた短剣を物音も立てず手中に収めた。ここは完全な彼女のテリトリーだから、館にいる庭師ですら気ままに入れる場所ではない。入室を許可した従者も数が知れているし、人影の持つ魔力と匂いは誰のものとも一致しない。

 侵入者が一人であること、自分の見知った体格ではないことを確認するまで女は微動だにしなかったのに、人影は女に気付いたらしい。庭に続くアーチの方を向いて、手を挙げた。

「よう!」

 到って気軽なその声に、聞き覚えがないはずがない。アーチの隙間から見えた砂色の外套を頭から被った奥には、人懐こい血の色の瞳と、豪快で女にとって我が子と比べられないほど愛しい笑顔があった。

「閣下!?」

 思わず花篭を放り投げて男のもとへと走り寄る。女にとって最愛の夫であり、人生最初の主君であるその人物は、戸惑う妻に楽しそうに手を伸ばした。

「おいおい、どこから出てくるかと思ったら……。選定中だったか?」

 二人の距離が互いの手が届くほどにまで縮まると、男は女の顎を優しく掴む。一見すれば気障たらしい動作だが、自分の顔が棘で傷付いていないか見ているのだと分かっている女は、戸惑いを引きずりながら尋ねる。

「いいえ。それより閣下、いつこちらに戻られました? 帰還のご連絡は……」

「すまん。忘れた」

 ごくあっさりと言われると、説教のしようがない。女は呆れた目を向けるが、それもすぐに苦笑に変わった。

「今度からお忘れなく。これで何度目だとお思いですか?」

「帰るといつもお前を驚かせたくなるんでな。……迷惑だったか?」

「ええ。私も女ですから、せめても閣下の前では着飾ってお出迎えしたい欲があります」

 そう言われてしまうとぐうの根も出ないらしい。男はきまりが悪そうに鼻の脇を掻いて口の中で何か言うが、女の耳には下手な言い訳など聞こえはしない。執務中には想像もできないほど可愛らしい夫の振る舞いを堪能した後、彼女は自ら話を逸らしてやることにした。

「閣下、今度はどのくらいこちらにいらっしゃるんです?」

 とは言っても大体の予想は付く。何せ男は多忙だから、ひょっこりやって来ればひょっこり去っていくのだろう。だが、男は晴れやかな表情でそれに見合った返答をした。

「一ヶ月はのんびりできる」

「……随分と、大見得を切られましたね」

 しかしそれはあくまで予定で、急用と言う名の領主同士のいざこざや過激思想者の反乱鎮圧が起きればすぐにでも男はゴルデンに招集されるだろう。女はその点をよく弁えているから、そんなことを言った夫に微笑むだけの反応を見せた。

「……お前も随分と落ち着いているな。嬉しくないか?」

「いいえ、嬉しいですとも。それが本当であれば」

 現実的な妻の態度が物足りないらしい男は、拗ねるように唇を尖らせる。しかし次の瞬間、何か思いついたらしく、いたずら小僧のような笑みを浮かべた。

「よし、そこまで言うなら賭けをしよう。一ヶ月、共和国からの呼び出しがなければ俺の勝ち、あればお前の勝ちだ」

 突発的な思いつきに、男とは最も長い付き合いを自負する女は微笑みながら頷いた。

「結構ですよ。そんな勝負でしたら、喜んで受けて立ちましょう」

「何だ。まだあの時を根に持ってるのか?」

「当たり前です。私はあれで初めて、ロゼ……大総統から大目玉を頂戴したんですよ。もう本当に、断頭台に立つかと思ったのはあれが初めてです」

 甦った過去の記憶にぶるりと大きく肩を振るわせる女とは対照的に、男は何でもないような顔で首を傾げる。

「そこまでだったかな? あいつのお叱りは確かに恐ろしいが、まあ季節の嵐のようなもんだ。さっぱり綺麗に流れて終わる」

「少しは反省なさって下さい!」

 女の叫びに男は笑う。豪快な、けれど少年のような屈託のない笑顔を見せて。

 その笑顔を見て笑い声を聞いてしまうと、女の怒りもそう長くは続かない。胸がじわりと温かくなる感覚に頬が緩みながら、彼女はその逞しい肩のひとに笑いかけた。

「バイアード様」

「うん?」

「おかえりなさい」

 男も笑う。愛しい女に向かって、秋空のように清々しく。

「ただいま、エティエル」

 

 

 

 結果として、賭けは男の勝ちだった。しかしその理由を聞かされて、女は不満げに口先を尖らせる。

 それもそのはず。何故ならば、男は既に共和国に仕える身分ではなくなっていたのだ。正確に言えば辞任だが、まだ民間人には知らされていない。共和国の新たな柱となる人材が、八賢人の面々の穴を埋めてから――ということになっている、一応。

 だが女は八賢人の一人の妻であり、また他の八賢人とも顔見知りであるため、民間人とは言い難い。そして男が辞任したところで、生活に生じる陰りは皆無と言えた。

「ま、この館は俺たちの私財だし、金を無闇にばら撒く趣味でもない。このまま暮らしていけるだろう」

「……分かっています、そんなことくらい」

「それなら、なんでまだ機嫌を直そうとしない?」

 男の問いかけに、女はわざとらしい吐息をつく。本当に、そんなことで機嫌が直るとでも思っているのだろうかと疑わしい視線を夫に送りながら。

「ああ、まあ、辞任した話をお前に真っ先に言わなかったのは悪く思っている。だがなあ、あの時もう少し素直に喜んでくれれば、俺もあんな幼稚な……」

「賭けについて、怒っているのではありません」

 静かな怒りが篭った口調に、男は叱られた子どものように肩をすくめる。その動作に再び女は鋭く声を掛けた。

「動かないで下さい。……最悪、丸刈りになりますよ」

「それは勘弁して欲しいな」

 ならば黙って下さいと、言わんばかりに女は男の頭を掴んで固定する。振り回された側は、笑いを噛み殺すように口元をまごつかせた。

 庭を駆ける秋風はいよいよ冷たさを増し、草木も色を落ち着かせつつある。一ヶ月もしないうちに冬の気配は本格化するだろう。過ごしやすい季節というものは、あっという間に過ぎ去ってしまうのだから仕方ないことではあるのだが。

 二人とも一ヶ月前より着込んではいたが、風の冷たさに肩をすくめず、室内に入ろうと立ち上がりもせず、ベランダに二人でいた。

 二人きりの空間を求め、敢えて外にいるのではない。賭けの勝者が敗者に命じたのだ。

「……散髪なんて、本当に久しぶりですから、変な髪形になっても恨まないでくださいね」

「おいおい、さすがに責任くらいは取ってくれ」

 男はケープの内部を動かして、苦い顔で自分の切られた髪を一摘みする。もともと量の多い上、長年散髪などしていなかった彼は、先程まで自らの一部だった髪の量の多さに慄いているようだった。

 だがそれは自分のせいではないと、その反応を見届けた女は唇を尖らせる。

「閣下は長い間、腰に届くまで伸ばしていらっしゃったでしょう。それを今、急に肩に届くくらいでいいなんて仰るからこうなっているんであって……」

「ようやく激務から解放されたんだ。さっぱりしたくなるのは普通だろう?」

「ならその声を何とかして下さい。私は閣下に頼まれてここまで短く切っているのであって、私の独断ではこうしている訳ではないんですから」

 分かっていると返事が女の耳に届いたが、本当に分かっているのか驚くような呻き声は止まりそうになかった。

 女は呆れたような吐息をついたが、それでも悪戯心で本当にうんと短く切ってやろうとする気は起きない。それは男への愛情や忠誠心が抑止力になっている部分もあるが、それ以上に彼女の誇りがそんな下らないことをするまいと制している部分が強い。

 女は自分を完璧主義者だと思ったことはない。悪戯心のない真面目な性格だと思ったこともない。けれどこれだけは、鋏を入れる一摘み一摘みを不真面目な気持ちで行いたくなかった。恐らくこれが、男への最期の奉仕となるだろうから。

「……封印、なんて。私たちの世代であることとは思っていませんでした」

 男はこの後、自らを封印するための旅に出る。共和国大総統が引退後、その身の置き方について残りの八賢人に述べたとき、彼も大総統の眠りに付き添うと立候補して。

 それを聞かされた直後、女の頭は真っ白にも真っ黒にもならなかった。ただ薄ぼんやりとした絶望と哀しみと、これから待つのが無意味になると言う事実に恐怖を感じるだけで、取り乱すほどの感情に振り回されるようなことにはならなかった。そうなってしまったほうが気が楽だろうに、精神的に激しくも幼稚にもなれない自分をほんの少し恨んだ。

 男を恨むなんて真似はできなくて、――恨んだところで意味がないと知っているから、付き従うことが彼らしいと思ってしまうから――むしろ微笑ましく感じてしまった。不思議なものだ、妻より仲間を取るだなんて、妻の立場としては侮辱に等しいはずなのに。

「俺もだ。だがまあ、大魔王の娘ヒロとて親兄弟を封印した後、自らも封印の眠りに就いた。そう遠い話ではない」

 そう易々と言われると、女は二の句を封じられる気分になる。大魔王の娘であるヒロは、自分たちにとって遠い存在のはずだったのに、男は身近に思うのかと知ると尚更に。

 男と、共に封印の眠りに就く人々にとっては身近で、自分にとっては相変わらず遠い存在で――つまり彼らは、自分とって身近と思っていた人達は、知らぬ間に遠い存在になってしまったのだと気付かされる。目覚めるのは何年先か、見当もつかないはずなのに。もしかしたら、眠りに就いたまま目覚めないかもしれないのに。

「ロゼ……様たちとは、どこでお会いするのですか?」

「あいつはどう呼んでも気を悪くするような奴じゃないだろ」

 気軽に笑うと男は女の質問に応じる。

「現地集合を予定している。なに、無理があってもアシュレイなら上手くやる」

「あまりアシュレイ殿に面倒を押し付けるのは……」

「本人がそう言ってるんだ。好意に甘えないと逆に悪い」

 奇妙な気の遣い方に口元を緩ませながら、女は櫛を挟んでさくさくと髪を切っていく。長さについては注文通りになったから、今度はある程度その長さを揃えるために鋏を入れる。だが長さを全体的に統一させると奇妙な髪型になってしまうので、やり過ぎないように自制する。

「にしても、とうとうリーザは帰ってこずか。親子水入らずの計画は泡と消えたな」

「あの子も忙しいみたいですし。もう五十ですもの。上に立つものとして、無責任に暇を取るわけにもいかないんでしょう」

 女はそう宥めるが、実際には男の方が愛娘の働きに関しては詳しかろうと予想していた。二人とも職場は近いし、今でこそ娘の勤める組織には共和国との表立った繋がりはないものの、信頼とパイプラインは今まで通り健在している。組織もただオーナーが替わっただけで、娘のやっていることが一から変わるわけではない。

 母親としては、できれば我が子には、どんな任務であれ完璧にこなす諜報員としてその界隈で名を馳せるよりも、気の合う異性と緩やかに楽しく生きてほしいのだが。

「リーザったら、このまま一生独身で過ごすつもりなのかしら……」

 女はつい最近来た手紙の内容を思い返し、独り言のつもりで呟いたが、独り言にしてはいささか声が大きすぎた。顔を見なくても眉をしかめていると分かるほど重々しい声が、髪の向こうから聞こえてくる。

「それでいい。焦って適当な馬の骨と結婚するより、そっちの方が建設的だ」

「建設的も何も……孫の顔は見たくないんですか?」

 呆れた女の問いかけに、多少の沈黙が広がる。腕を組んで唸り声を上げそうなくらい深刻に考えていると分かる彼女は、平静に髪を切り続けていた。

 やがて、首と肩が軽く動く。

「……ない!」

「あら、そうなんですか」

 からかうように言ってやると、男は取り繕うように咳払いを一つした。

「いや、あいつが心底惚れた男と結婚すると言うならそれはそれでいい。周囲からどんな評価を受ける男だろうと、リーザの目を信じよう。だがな、あいつが周囲に流されるのは頂けない。軽い気持ちで人生の伴侶を決めるのも頂けない。断じてだ。分かるな?」

「はいはい、よく分かっていますとも」

「本当か?」

「疑うんですか?」

「いや……」

 とは言ってもまだその気持ちは引きずっているらしい。男の口から言葉にならないような言葉が聞こえたが、女も敢えてそこに触れず、忍び笑いで聞き流す。

 女の笑い声を聞いたためか、男は肩の力を抜く。

「……久しぶりだな、お前に髪を切ってもらうのも」

「ええ、本当に。……前髪はよくお切りしましたけれど、後ろ髪をここまで切るのは私も初めてです」

 魔族にとって髪は魔力の源だ。代謝が人間ほど激しくない彼らは、そのため髪も人間ほどすぐに伸びることがない。眷属であるヴァンパイヤも同じく代謝は緩やかだが、魔族のように髪と魔力が密接な関係を持っているわけではない。

「いつだったかな。ネウガードかヘルハンプールにいた頃、誰かに散髪の話をしたら随分驚かれたもんだ。奴らにとっちゃ、自傷行為の類らしい」

「実際、自傷行為のような認識でしたよ。髪形を変えるなんて魔族の友人に言ったら、思い切り心配されました」

 はは、と逞しい笑い声が耳に入る。おまけに肩まで震わされて、女は一旦鋏を離して男を睨みつけた。

「動かないでくださいと、さっき言ったはずですよ」

「いや、すまんすまん」

 それでも男は肩を震わせたままだ。笑い上戸であるわけでもないのに、ここまで長く笑う彼が珍しくて女は目を見張らせるが、不意にその目が潤んだ。

 ――もう、こうやって会話することも少なくなる。多分これが、最後の。

「閣下……?」

「うん?」

 女の声が少し上ずっていることに気が付いたのか、何気なく呼ばれた男はわざわざ背後を振り向いた。そして常に堂々とした笑みを湛えていたはずの唇が、困ったような笑みを漏らす。

「どうした?」

「いえ……何も」

 困らせているのは自分だと思うと、女は情けなさに泣きたくなる。否、もう目元は不自然なまでにぼやけてしまっているから、きっと泣いてしまっているのだろう。けれど涙を零すまでは泣いていることにはなるまいと、喉の奥から漏れそうになる嗚咽を堪えようと笑顔を作る。

「すみません、少し目に……」

 しかし。

「……エティエル」

 するりと頭を抱えられ、逞しい胸に顔を埋めさせられる。そうなってしまえば、我慢などできるはずもなかった。

 大粒の雫が見る間に視界を覆い隠し、胸の奥から熱いものが溢れ出る。けれどそれは喉を通ってしまうと、どうしても何かに突っかかり、醜く彼女の呼吸を止める。みっともなく震える唇が、ようやく動いても言葉らしきものは何も出なかった。出るとすればやはり醜く、言葉にもなっていないような裏返った呻き声。

「う……あ……ああ、っく、あぁあ……っ!」

 女の指先から鋏が落ちる。櫛が落ちる。次第に男の腕が強く強く、その細い身体を抱きしめる。まるで自分の身体の中に閉じ込めようとするように。

 その温かさと逞しさが女の胸のうちを、殊更に掻き毟る。抱きしめてくれるひとへの愛しさを感じているはずなのに、涙も嗚咽も止まらない。

「っかっ……! 閣下、閣下閣下閣下閣下閣下かっか!」

 女は叫んだ。それしかできなくて、できない自分がもどかしくて、ひたすらに名を呼び続ける。自分だけにのみ許された、自分だけがそう呼ぶ人へと向かってひたすらに。

「エティエル。……エティエル、エティエル、エティエル、エティエル……!」

 男が囁く。もどかしそうに泣く女の耳元でひたすらに。腕の中で咽び泣く女が、胸を張って最愛と言えるのだと確かめるように。その気持ちが、彼女に伝わるように。

「かっか、かっかぁ……っア、あ、あ、ぁ、ぁ、あ、ぁ、ああぁああ……!!」

 細い喉が、外気を吸い込むように、けれど感情を外に吐き出すようにひくりと動く。それからまた再び、男の名をひたすらに呼ぶ。叫ぶ。

 男も呼ぶ。女の名を。女の叫びに応えるように、あらゆる謝罪の言葉と感謝の言葉と、万感の想いを籠めてひたすらに。今、封印の地に向かう仲間たちに盟約を翻すことはできないから、選んでしまった自分を恨んでくれてもいいと思いながら。けれど愛してくれてほしいと、みっともない自分を曝け出して。

 いつしか男の声も涙に濡れていた。けれど女の声は気付かない。ひたすらに、ただただ男の名を呼んで、男の身体を抱きしめて、あらゆる想いを愛するひとへと投げかける。

 男は泣いている自分に気付いたけれど、そんなことでちっぽけな意地など起き上がるはずがない。いつも冷静で穏やかな妻の、子どものようにくしゃくしゃになった泣き顔に、引きずられるように想いをぶつける。

 今このときが、本当にふたりだけで、ふたりきりで、別れを嘆くときだと分かるから。

 

 

 

 蝙蝠の羽を模した外套に、男はおおと声を挙げる。首元の金の装飾も気に入ったらしく、音を立てようと敢えて鎖に指を入れたりする。

 子どもっぽい動作に呆れもせず、女は用意した装束が気に入ってもらえたようで何よりと笑みを浮かべる。用意と言っても、昔あったものを少々手直ししただけだが。

「しかしまあ、随分と懐かしいものを持ってきたな……」

「お気づきでしたか?」

「当たり前だ。誰が自分の婚儀を忘れる?」

 やはり見破られてしまったと知り、女は照れたように笑う。手元にある男の装束で特に立派なものをとなると、自分たちの婚儀の際の衣装が一番だったのだが、これから封印の眠りに就くひとにそれを着させるのはどうかと尻込みしていたのだ。

 だが当人は全く気にしないらしく、体格が当時から変わっていないだのよく改変しただの披露宴での思い出話だの、鏡の前で一人で盛り上がっている。微笑ましいことだ。

「……うん、なかなかいいぞエティエル。気に入った」

「ありがとうございます」

 互いに笑顔で言葉を交わす。その笑みには、それぞれ哀しみや苦しみの陰りはない。もう発散しきったのだから、あんな気持ちを引きずるものではないと二人とも弁えている。

「よし。では他の連中にも見せびらかしに行って来る」

 意気揚々と部屋を出ようとする男に、驚き呆れて女はその背中を制する。

「閣下、アシュレイ殿が来られるんでしょう!? そんなふらふらしていたら……」

「心配しないで、エティエル。そうなると思って早く来たわ」

 急に聞こえた女の声と泥のような暗く重い魔力に、女は思わず身体を硬くする。いつの間にか背後にいるのも、暴力的なほどの魔力も身に覚えがある。けれど、その声と口調を持つ人物は、そんなことはしないはずだった。

 振り返った男が、女の胸の不安を拭うように、もしくは不安を煽るように、彼女の背後にいる人物に向かって手を挙げる。

「よう、ロゼ」

「お久しぶり、バイアード……エティエルも」

 声をかけられ、女は慎重に振り返る。そこにいたのは、確かに彼女がよく知る共和国大総統だった。男と同じように私服でも公務用の礼服でもない装束を身に着けていたが、それよりも目を引くところがある。刺繍の美しい紅の外套よりも目に付く華奢な羽と髪は、彼女の呼吸を止めて鼓動を早めるだけのものを持っていた。

「……お久しぶりです、ロゼ」

 それでも何とか微笑みを浮かべたのは、女の意地に近いだろう。口元がひきつっていやしないだろうかと危ぶみながらの挨拶だったが。

 代謝がほぼ止まった状態に近い魔族とて、髪が伸びることはある。しかしそれは代謝だけの問題ではなく、純粋な魔力の成長の証であり、もともとポテンシャルの高い魔族の場合、長髪は暴走の危険にも繋がる。

 そして短い時代でさえ魔力の保有量は随一と言っても良かった今の大総統は、大胆にもその髪を太股に届くまで伸ばしていた。その効果は恐ろしいもので、暴走の一歩手前と言えるほど凶暴で荒々しく、単純な暴力として用いられる魔力が彼女の全身から放たれていた。

「ん……どうした、その羽? 飛べるように作ったのか?」

 首を傾げて大総統に易々と近付いていく男に、女は内心焦りを感じながら視線で追う。

 大総統の姿を視界に納めるだけで、女の胸のざわめきはむかつきに進化を遂げ、嘔吐感が喉の奥から込み上げる。それは悔しさや悲しさや怒りからくるものではなく、単純な恐怖から発現するものだ。しかしそれを、彼女はおくびにも出す気はない。出したが最後、この見送りを台無しにしてしまう上に長らく苦楽を共にした仲間の心を傷つけるような真似は、何としてでも阻止したかった。

 そんな女の心境を、察するような素振りを見せていないはずなのに、大総統は小さく笑うと一歩か二歩分、彼女から離れる。

「飛べはしないわよ。ただ身体の方に納まらないから、はみ出ただけ」

「邪魔にならんのか?」

「ええ。触れないから、重みも感じないわ」

 自然にベランダに向かっていく二人を見ながら、女は密かに息を吐く。大総統が離れれば離れるだけ身体の圧迫感が薄れていく自分が情けないが、次第に冷静になっていく頭はその移動が別離のカウントダウンだと示していた。

 大総統の背中を改めて見てみると、男の言う通り、薄く灰色掛かった炎のように揺らめく翼が見える。けれどそれが真っ当な、少なくとも人に危害を与えぬものであるはずがない。少なくとも、彼女の身体が竦んでしまうくらいの魔力を秘めている。

 だがそれを前にしても、男は平然としていた。女は否が応にも実感させられる。夫もまた、大総統と同じく自分とは違う存在になってしまったことを。

「……エティエル」

「は、はい!」

 呼ばれて女が顔を上げると、もうベランダに出ている二人の姿があった。穏やかな陽の光を浴び、すっかり冷たくなった風に外套の裾を弄ばれて笑う二人は、揃って庭でも散策するかのような調子だが、そうではないことくらい彼女にだって分かる。

 覚悟していたはずの光景は、しかし意外にも明るくて清々しくて、本当に今生の別れには感じなかった。否、今生の別れにならない可能性だってあるにはあるのだが、その方が想像できない。

「もう少し離れたほうがいい?」

 気遣うような大総統の問いかけに、女が返事するよりも先に男が苦笑しながら頷いた。そう、と返事をすると彼女は背を向けて庭の奥へと歩いていく。しかし、その背中が見えなくなることはない。

 何とか女が一歩ずつ彼らの方へ近付くより先に、男が室内へと戻ってくる。けれど背後の大総統を気にしてか、その腕が彼女に触れることはなかった。

「……閣下」

 けれどそれで良いと、女は思う。抱擁や口付けをしてしまえば、きっと哀しみがぶり返してずるずると別離のときを引き延ばしてしまうだろう。だからなるべくしゃんと背を伸ばして、安心させようと言葉を紡ぐ。

「私は、なにがあってもあなたの妻として、第一の部下として、誇り高く生きて参ります」

 その言葉は男にとって予想外だったのか。軽く目を見張った彼は、眉間に小さな皺を作って重々しく口を開いた。

「俺が、お前に求めることは一つきりだ」

「伺います」

 それが最後のご命令ですから、と。声に出さずに女は男を見る。

「後悔を、してくれるな」

 女にとってもその言葉は予想外で、今度は彼女が小さな驚きを顔に出すことになる。しかし男は彼女の反応も無視して言葉を続けた。

「……互いの最期を看取れぬ身でこんなことを言うのは厚かましいかもしれん。だが逝くその瞬間まで、後悔を覚えるような生き方だけはするな」

 懇願とも言える命令に、女は深々と頭を下げる。そこには確かに、男からの愛と気遣いを感じたから、それだけで彼女は満足だった。

 頭を上げた女は今度こそ笑みを見せる。泣き顔で見送る真似だけはすまいと誓っていたが、それは拍子抜けするほど上手くできた。

「では、バイアードさま」

「ああ」

「行ってらっしゃいませ」

「うん」

 男もいつものひょうきんな顔で、ひらりと男も手を振ってまたテラスへと向かう。その逞しく愛しい背中を見送りながらも、女は窓へと近付いていく。

 待っていた大総統は、男に声を掛けられるとそちらを振り向く。窓に寄りかかる女を見る薔薇色の目は少し悲しそうだった。申し訳ない、とでも思っているのか。あれだけの魔力を有しているのに、相変わらず優しいひとだ。

 二人の足元から、あの華奢な翼と同じ色の魔法陣が浮かび上がる。空間転移の魔術なんて、前大戦時の高位魔族しか扱えないと聞いたのに、今の大総統は表情一つ変えずそれを使うのか。

 女は消えていく二人の姿を見ながら息を呑む。大総統の魔術に恐れているのか、それとも別離の瞬間を噛み締めているのか、本人も分からないくらい食い入るように、次第に存在感が希薄になっていく男女を見つめていた。

 そんな女をじっと見ていたはずの男が、不意に動いた。腕を高らかに上げて、はっとするような大声で言う。

「愛しているぞ、エティエル!」

 その声に、応えようと女が顔を上げる。もう数秒もしないうちに、男はここから完全にいなくなるだろうと思うと、舌がもつれた。けれど。

「私も、私も愛しています!」

 精一杯にそう叫ぶ。今まで大声に出したことのない言葉を、虚像となっていく人に向かって。

 男の笑顔が見れるか否かのところで、丁度その姿が掻き消えた。

 残された女は一人、自分の叫びが微かに木霊しているテラスで立ち尽くす。しかしその胸に虚しさや悔恨は一つもない。

 公然と頭を上げて、秋空を見やる。晴れたそこは、女の心と同化したように穏やかだった。

 

RETURN