予定外の

 

  

 禁断とは即ち、蜜を更に甘露にするスパイスである。

 そのような考えを持つが故に、五魔将の中では良識派との評判で通っている男の私生活は案外にだらしない。部下を自分の合った性格の者で固めることはどんな武将とて行う人選だが、それに加えて体の相性の良し悪しも含んだ人選を行うのは、間違いなく好色な部類に入る。そして男はその部類に入っていた。

 その日もそんな調子で、美しいがほんのりと可愛らしさの残る顔立ちに、肉感的な造形を持つ部下の一人をからかっていた。部下も自分の性癖を分かっているため、抵抗しながらもついつい男の言葉通りに動いてしまう。魔王城に勤める身の上ながら、こんな不埒なことを昼間からしていいのだろうか、という戸惑いを見せて。

 そんないじらしい態度にますます加虐心を煽られながら、いよいよ息に熱が帯びるかといったところで、突然の来客が入った。

 男は大戦に加わっていないものの、五魔将の一人として名を馳せた人物である。そんじょそこらの高位魔族が胡麻を摺りに訪れたところで、追い出しても批難を受けない権威を持つ。しかし、今回はそうはいかなかった。

 衣服の乱れを軽く直した部下が、蒼白の面持ちでその来訪者たちの名を男に告げると、男は少し意外に思いながらも深く長いため息をつく。

 丁重に持て成すように伝えると、男も未練を引きずりながら、不自然な皺を取り除くように服を軽く払った。――部下の言葉では予想もつかないが、できれば穏便に、かつ簡単に終わってほしいと、虚しい願いを心に秘めて。

 

 それが無理らしいと思い知ったのは、男の執務室の隣にある応接間に移動した直後のことであった。

 廊下から応接間へ直接やって来たらしい一行からは、非常に険悪、かつ緊迫した空気が放たれており、男の趣味が伺える穏やかな室内も、今や死屍累々が積み上げられた戦場の一場面を髣髴とさせている。

 そしてその中央にいるのは、当然ながら魔王であり、その魔王の娘であり大戦を終わらせた異界の魂の娘である少女であった。

 向かい合って座る二人の間からは、小動物でも放てば放心するか絶命するほどの険悪な空気が流れている。正確に言えば、意識せずとも圧倒的な魔力の波動を感じさせる魔王と、魔力を制御できないが故に感情のまま魔王への憎悪、即ち攻撃的な魔力を放っている魔王の娘が向かい合っているため、そのような空気が生まれているのだろうが。

 彼らの後から付いて来たのか、連れて来られたらしい三人の騎士は、憐れなほどに動揺を押さえつけながら起立している。特に男は何度か見覚えがあるものの、一二回ほどしか魔王に謁見したことがない若い二人の騎士は、波動に中てられたのか異常に冷や汗を掻いている。

 直接の部下ではないにしろ彼らを憐れに思った男は、早々とこの来訪者たちの問題を解消させようと自分に言い聞かせ、自らも席に着いた。

 しかし、それでもやはり気になるものは気になるので、ごく真っ当にこの状況について訊ねてみる。

「急においでなさるとは驚きました。何ゆえ、陛下と姫様が一緒にいらっしゃるのです? 私は姫様が落ち着き、姫様の謁見の準備が整い次第、陛下にお知らせするものと思っていたのですが」

 男の言葉に我へと返ったのか、それとも本人たちとしてはただ軽く睨み合っていただけだったのか、場の空気が一気に霧散する。

「奇遇だな、俺もだ」

 いつも通り偉そうな態度を取る上司を一端無視して、男は着飾った少女を見る。

 部屋を案内して以来会っていなかったのだが、どことなく痩せたように見える少女は、しかしこの通り父親に噛みかんばかりに元気そうだった。女として着飾られた姿は凛々しく美しいが、何分その魔力と言動が与える印象の激しさのせいで色気が感じないのが辛いところではある。

「この男が勝手に人の話に割り込んできただけ。しかも呼んでないのに勝手に来て……覗き見された」

 この場に来て初めての発言もそんな調子であれば、十分元気と受け止めていいだろう。

 そしてその苛立たしげな少女の言葉を確認するため、男は直立したままの老騎士に目をやる。発言を許された老騎士は、何とも複雑そうに俯いた。

「陛下が急に我らの前に現れたことは事実です。……姫様が陛下への思うところを素直に仰いますと、その、我が腹心の一人がそのお言葉に腹を立てまして……」

 その腹心の一人らしい金髪の魔族も、複雑そうな顔で老騎士の言葉を聞いている。自分は悪いことをしていない、と言いたげだが、それでも相手が魔王の娘であるだけに処分の可能性も恐れているようだ。

「……恐れながら申し上げますのは、そのとき、我らには姫様が陛下の御子であると知らされていなかったのです。そのため、姫様のお言葉は身内の方でしか許されぬお言葉でしたため、陛下に心酔しているその者は、姫様を陛下の名を汚す無礼者だと考え、その………手を上げようと………」

 掻き消えそうな声に、男は深くため息をついて次の言葉を遮った。それは同時に、大体の事態を飲み込んだという意思表示でもある。

「大方のことは分かりました。であれば姫様、陛下を批難するのはお止め下さい。方法には確かに問題がありますが、それも姫様の安全を思ってこそです」

「その方法が気に喰わないんだけど」

 父親に似た頑固さで礼を言おうとしない少女に、男も遂に呆れた調子を隠せなかった。

「それではお父上と同じ道を辿ることになりますよ」

「……とりあえず感謝するわ」

 表情にはまだ渋々といった様子が残るが、その身代わりの早さに、男は少女の手綱を握るための最終兵器が見えた気がした。この一言で済めばいいが、と心底不安に思いながら。

「陛下も、できれば今後、そのような行いはお止め下さい。ますます姫様の反抗心が育つだけですので」

「貴様は自分の庭で自分の好きなように動くことを禁ずる気か?」

「可愛い小鳥の我がまま程度、聞いてやっても支障が出るとは思えませんが」

 小鳥に喩えられた少女はあまり気持ちが良くないらしいが、男に魔王の思考は読めている。軽く考える仕草の後、ふむ、と一言漏れると、それが了承の合図らしい。否、了承だと男は強引に受け止めると、少女に優雅な笑みを浮かべた。

「陛下にとって姫様は唯一の肉親です。何分、いきすぎた言動もありましょうが、まともに親子関係を知らぬ方ですので、今度からは多少に甘く見てくださいませんか」

 大の男に下手に出られれば、いかな彼女と言えど大きな態度に出るのは失礼と思う節があるらしい。強引に話を進めた部下を睨む父親と交互に見ると、脱力したように頷いた。

「プライベートが守られればそれでいいわ。ちゃんと人を通して来るのなら、わたしもここまで嫌がるつもりはないから」

「だそうです、陛下。彼女は最愛の方とはまた違いますから、好き勝手はなさらぬよう」

「分かっている。大体、この娘への用件とあいつへの用件は全く違うだろうが」

 それは当然ながら好色の混じったものか、そうでないかの差ではあるのだが、男は一応釘を刺そうかと考えた。

「…陛下が、御方へのご用件と同じものを姫様に求めるような外道ではないと信じたいものですが」

「求めるか、阿呆」

 心の底から嫌そうな顔を向けられて、男は安心し、少女も嫌そうな顔になった。そう仮定されるだけでもこの親子は不快になるらしいから、この調子なら安心だ。

 というわけで安心して本題に移ろうと、男は全員を大きく見回した。

「それで、私に何の御用ですか?」

「別に貴様が必要になって来たのではない。冷静な仲介役が必要と思いここまで足を運んだだけだ」

「その役目を仰せ仕るのは、城内に今のところ私だけだと思いますが」

 特にこの二人が相手ならば尚更だろう、と男は冷静に判断した。それは魔王も同意するらしく、軽く頷き少女を顎で指す。

「しかし、これはそう思っていない。諌めたあれらには明日からでも十分な休みを与えてやれ」

「御意のままに。――しかし、そうすれば我らの計画に支障が出ますが」

「計画?」

 自分に関わることと思ったらしい少女の視線に、説明してもいいものか、と男が魔王に目で問いかけると鷹揚な頷きが返ってきた。

「姫様の教養に関しての計画です。陛下は姫様を呼び出した以上、かの異界の魂と同じく、将としてこの世界に生きることを期待しております故」

「……なに、どうして?」

 やはり突然のことに驚いたらしいが、思った以上に動揺した様子ではない。

 少女は知っているからだろう。自分の母が、どうしてこの世界に呼ばれたのかを。それと同じ理由で、恐らく自分が呼ばれたということも。

「貴様の疑問が『何故、平和な世で将として生きねばならぬのか』であれば教えてやろう。また戦いを始めるためだ」

 簡潔な魔王の言葉に、その場にいた全員の表情が引き締まる。特に扉近くに控えた若い魔族たちは、その発言に何らかの感動でも持ったのか、互いに何か囁きあった。

 しかし、少女はその言葉に感動はしない。それどころか非難めいた視線を魔王に送る。

「この世界の平和は母さんによって創られたのに、それをまた壊すと言うの? よりにもよって、あなたが」

 よりにもよって、という言葉に籠められた感情に、魔王も何らかの感慨を覚えたのだろう。不敵な笑みが珍しく、ほのかに苦いものを交えた。

「言っておくが、俺の思い通りの世界ではないから壊す訳ではない。あいつが望んだ世界ではないから壊す。それだけだ」

「……修復は可能ではない、ということ? 戦いは避けられないの?」

「現状であれば、無論」

 短い肯定に、少女は更に眉をしかめる。

「あいつは見事に、奴の理想に適った世界の土台を作り上げることまでは行った。しかし俺も愚妹も、奴の意志を受け継ぐには現状の自分に適していないと判断し、一端は退場した」

「………つまり、その間、不純物が根を張ったってこと?」

「そうなる。しかも、奴らにとってあいつが創った土台は居心地がいいらしい。故に、それらだけを潰せば済む規模ではなくなってしまった。言わばその不純物とやらが生まれた責任は俺たちが持たねばならない。だからこそ、俺がそれを排除する」

 ――今度こそ、彼女が本当に望んだ世界を創るために。

 魔王の目は、魔族にとっても人間にとっても、直視するには危険なものだ。確実な力と意志を感じさせるだけに、平均的な意志と魔力の持ち主であれば、自分の脆弱さを思い知らされる。

 だが少女はそんなことさえ気にしないように、同胞さえ避ける強い血色の眼光をひたと受け止めた。

「それは、――その不純物は、人間よね?」

「人間だな。連中は、あいつの思想を私利私欲のため捻じ曲げた。形だけは人魔共存を謳いあげながら、魔族は人間に全てを譲るべし、と言い出して。魔族は人間よりも体力面で勝っているのだから、それを労働力に使えば人間のそれよりも遥かに成果が出る。では、人間の行っていた労働は全て魔族に譲ろうではないか、となった訳だ」

「……それはつまり、魔族の奴隷化?」

 思い当たる節でもあったのか、少女の瞳が暗く揺れる。その揺らぎを強引に失わせるように、更に魔王の眼光は鋭さを増した。

「そうだ。『人間は魔族よりも脆弱な存在なれば、人間が幸福となった瞬間こそが、この大陸に住まう総ての者が幸福になったと捉えるに価する』…。笑わせるな? 何故我ら魔族が一握りの貪欲な人間どもの歯車になってやらねばならんのだ?」

「……富める者はますます富み、貧しい者は更に貧しく……。それはただ、貧富の格差を広げる政策に過ぎない……」

 母の言葉でも思い出すかのような少女の呟きに、魔王の言葉は甘く、しかし刃物のように物騒に滑り込む。

「奴らが行う政は、更なる犠牲を増やしながら、肥えた奴らを更に肥やすだけのもの。人間のために他の種族が犠牲になるなど、あいつが望んだことではない」

 魔王は椅子に深く身を沈めながら、その鮮血色の目で見てきた数々の光景を思い出すように薄く笑った。

「今の政府が本当に貧しい人間に労働力として魔族を宛がう訳もない。今更宛がったところで、その魔族は家畜扱いをする人間に対してどう思うのだろうな? そして人間は、反抗的な上に自分並に食う魔族を相手にどう考える? 広まるのは貧富の差だけではない、種族の溝も、更に深まる」

 その言葉の重さを、一応なりとも少女は感じたのだろう。深く長いため息の後、複雑そうな光を宿した瞳を見せてくれた。

「いいわ、あなたたちが戦争を起こそうとする理由は理解した。けれど、どうしてわたしが呼ばれるの?」

 最初の問いとよく似た響きの、しかし意味合いはまた別の方向性を持つその言葉に、男は浅く目を閉じる。

「俺があいつの意志を掲げ挙兵したところで、集まるのはせいぜい虐げられた魔族に過ぎん。そして魔族支配を恐れる人間どもは得た権力を酷使し武装する。また人間の民衆も、現状がいくら厳しくとも、同じ人間の支配で平和ならばその方を選ぶ。それではどう考えても負け戦となる」

「………!」

 魔王がそんなことを言い出すとは思いもしなかったのか、起立していた三騎士がその言葉に動揺したらしい。

 しかし五魔将の一人として上司の性格をよく知る男は、その判断に感心したし、少女は物語のイメージがあるので、そのくらいの冷静さは持って当然のことだと過信していた。

「本人が来れば最良だったのだがな。一働きさせることには違いないが、そうすればさすがに戦争を起こす必要はなかった。いくら連中が優等生ぶろうと、世論はまずあいつの味方になるだろう。しかし、奴は現れなかった」

 当然だ。そう呟くように、少女は視線を落とす。

「ならば、貴様自身が旗印となって呼びかけるしかあるまいよ。あいつが望んだ世界を求める同胞とやらを集めるために」

「ああ、やっぱりあなたは自分では『創れ』ないって分かってるわけ」

 軽い指摘の言葉の影には、多少の優越感も感じられた。それと同時に、完全な第三者として、それに気付いてしまった後ろめたさも。

「当然。俺は破壊専門だ。しかしあいつの血を引き、その意志を知る貴様ならば、望んだ世界も分かる。私欲のために働くこともなければ、権力に溺れることもない。血と意志を受け継いだ、正統な奴の後継者としての働きが期待できる」

 だからこそ、少女は不純物を正当に廃するための戦争に参加しなければならない。

 母がそうしたように、彼女も自ら戦地に降り立ち、兵を鼓舞し、自らの手を血に染め罪悪感に囚われながらも、理想の道を自ら築かねばならない。破壊の痛みと虚しさを知らぬ者が創りあげる世界など、平和への重みがあるのかどうかも分からないから。

「……どうしてわたしが戦わなければいけないのかは納得したわ。けど…」

 しかし、彼女はそれでも何か突っかかるところはあるらしい。魔王もそれは予想していなかったらしく、片方の眉が軽く吊り上がった。

「あなたが本当に、母さんの求める世界を望むようには思えない」

 その言葉に、魔王が哂った。男も笑った。起立したままの騎士三人が目を見開いた。

 魔王は過去、人間たちを震え上がらせた笑みを持って、満足げに娘に頷いてみせる。

「そうかそうか……確かにそれはありうるな。事実、俺もそのような奇麗事のためだけに自分の労力を使う気はせん」

「わたしを直接呼んだってことは、わたしはあなたの傘下の将になるのよね? それで大陸が統一されたところで、あなたはわたしに政権を譲るとは思えない。いいえ、わたしは魔王の所有物の一つでしかないんじゃないの?」

 それは結局のところ、魔族優位の国家が生まれるだけ、つまり大戦前と何ら変わりのない世界が訪れる可能性を予期する。否、もしかしたら前大戦時よりも規制は多少取れているのかもしれない。しかし、それでは結局、魔王を人々が畏れ、今とは正反対の人魔共存が生まれるに過ぎない。

 その可能性の推測に、魔王は満足したらしい。青白い指先が、自らの笑みを隠すように持ち上げられた。

「母親を持ってくれば大人しく従うと思ったがな。案外、考える余裕はあるらしい」

「あんたが母さんを持ち出して懐柔しようとしたところで、今のわたしには意味はないわよ」

 その場にいた当事者たち以外には分からないやり取りであったが、それでも親子と共に座っていた男は何となく理解した。彼女は、魔王に母の名を使ってこてんぱんに痛めつけられたらしいと。

 魔王はそれを特に気にするつもりはないが、何分、彼も妙に細かいところを気にする性質を持つ。理解不能とばかりに口をへの字に曲げた。

「先ほどまでと多少口調が違うのはどういうことだ」

「『あなた』は母さんから教えられた、残酷で野心もそれに見合う能力もある大魔王の息子相手に使ってるつもりだけど」

 そして『あんた』は彼女が母から伏せられた、異界の魂と愛し合った現魔王に向けての物言いらしい。

 彼女に対して何事からでも優位な位置にあると自負する男は、呆れたように吐息をついた。

「まだ引きずるつもりか。いい加減認めろ」

「あんたの所有物になるのは真っ平御免だし、あんたの娘として戦うのも断るわ」

「客観的に見れば利点が多いと思うがな」

「客観的視点は主観あってこそでしょう? わたしは戦うのなら、母さんの娘として戦う」

「ほう」

 彼女の断固とした発言に、一瞬、魔王の目が細くなった。

「つまり戦うことに異議はない、と」

 それだけでも満足だと言うように、魔族の頂点に立っている男は頷く。

「ならば異界の魂、リトル・スノーの娘御よ。どこぞの魔族の血を引いていることは差し引いて、俺が召喚したには違いない。であればその意志、俺が全力を尽くして補おう。貴様の望むがままに兵を配し、力を与え、帝国に楯突くだけの地位を与えよう」

 まるで儀式の誓約のような魔王の言に、少女もたじろぐ様子もなく、その鋭く紅い視線をひたと受ける。血の赤と花の赤は、揺るぎのない強い力を宿していた。

「感謝するわ、魔王殿。しかしその恩義に長々と甘えるつもりはありませんので、悪しからず。わたしはわたしの意志でわたしの母と同じ道を行く。――その先にあなたが障害となろうと、容赦するつもりは欠片もありません」

 昂然と胸を張り告げられた大胆な発言に全員が一瞬呆気に取られ、ついに騎士の一人が声を荒げた。

「…きさっ…! そのようなことを陛下の眼前で言うとは……!」

「シーグライド、控えよ」

 しかし、魔王はそうは思わない。優雅な笑みすら浮かべるが、それは羊の皮を被った獣が見せる獰猛さを感じさせる笑みだった。

「それはそれは頼もしい。雲隠れした異界の魂に、是非聞かせたい一言だ。尤も、奴がそんなことを知れば苦行のような説教が返ってくるだろうが」

「それについては異論ないわね。母さんてば身内には甘いけど厳しいから」

 どこか矛盾した言葉ではあるが、魔王もそれには納得したらしい。軽く頷き、それから先ほどまで起立したままの騎士たちに目をやった。

「そういうことだ、分かったな」

 先ほどまで動揺しきりだった騎士三人が、魔王の視線を浴びるだけで操り人形のように畏まる。

 それからそのうちの年長者であり、この中では唯一座ることを許されたはずの老騎士――とは言っても、魔王とその娘と五魔将の一人相手ではやはり起立するしかない――がゆっくりと頭を下げた。

「我らは陛下の道具であり、手足であります。御身の意のままに、我らをお使い下さることこそが我らの望み」

「よかろう」

 問題が一段落したと見て、仲介役に選ばれた男も軽く脱力した。

 思った以上に落ち着いて話が進んでいたし、自分の必要をいまいち感じない話し合いだったからである。

「ここまで落ち着いた意思疎通ができるのであれば、何もわざわざここでなくても良かったでしょうに…」

「それは俺も思ったがな、こいつが部屋に入れたがらない」

 やや緩んだ空気を感じ取ったのか、お茶一式を持って男の可愛い部下がゆっくりと現れた。彼女からカップを受け取り、お茶を一気に飲み干すと、少女は父親によく似た鋭い目つきを男性二人に向ける。

「当たり前でしょう。こんなけだものを自室に入れたら、あの子たちが卒倒するし、わたしもそんな部屋で過ごしたくなくなるし…」

 思春期の子どものような毛嫌いようだが、先ほどの静かだがはっきりとした態度を見るとその反応も妙に説得力を持つ。とすれば、と男は上司のほうを見た。

「陛下の私室にもあるはずですが…?」

「結界を解くのが面倒だ。寝室以外は女どもに好きにさせているしな」

 女ども、とは当然ながら魔王に抱かれるためだけに馳せ参じる女たちのことだ。使い捨てに等しい頻度で入れ代わり立ち代わるため、愛妾として確固たる地位を持った女性がいないのが現状である。

 ちなみにそれらの女性たちは伽専門であり、将を兼ねている者は一人もいない。公私混同を避けるためであり、魔王の寵愛を公私共に授かるのは、白銀の髪を持つ異界の魂ただ一人という、魔王の意思表示の現れから来ている。

 男としては魔王自ら女性のことについて話すとは思いもしなかったが、それをどう思っているのかと少女の方を見てみると、彼女は案外無反応に茶を啜っていた。

「…姫様は、陛下の女性観についてはどうも思われないので?」

「別に。とりあえずわたしに付いてくれてる子たちに手出ししなかったらどうでもいいわ」

 随分淡白な反応である。そのほうが身内としては都合がいいのだろうが。

「奴なら一晩と言わず、常に傍に置くのだがな。なかなか思い通りにはならんものだ」

 少女の態度を面白くないと魔王が思ったのか。そんな露骨な挑発をするべきではないと、男が諌めるようとしても既に遅い。絶対零度と言ってもいいほど冷ややかな視線と魔力が、少女から魔王へと放たれた。

「へーえ。よかった、呼ばれたのがわたしで。こんなけだものが母さんを呼んだりしたらどうなるのか、考えただけでも寒気がするわ」

 現在冷気を放っているのは間違いなく少女なのだが、それについて男たちは言及しようとは思わなかった。まだまだ挑発しようとする人物はいたのだが。

「安心しろ。実の弟か妹が増えるだけだ」

「認めてないって言ったのが聞こえてなかったのこの変態」

「俺は認めている。普通ならば、地位ある父親に何とか取り入ろうと、憐れな子どもがすがり付いてくるものだ」

「なら逆でもいいんじゃない? 今ある地位以外のものを取り込もうと、子どもを勝手に連れ出して自分が親だと説得よろしく洗脳するのが現状だものね」

「なるほど、そうとも考えられるか」

「わたしはそうとしか考えてなかったけど?」

 冷ややか過ぎる皮肉の応酬に、再び別の意味で場の空気が緊張を帯びる。

 その空気を何とか退けようと、男は何度目かの頭痛を感じながら仕方なく発言した。

「………お二人とも、真っ当な親子のように親密になって頂きたいなどとは申すつもりもありませんが、私としてはとかく険悪になって頂きたくはないのです。この調子であれば今回のように、物事の順番が万事狂う恐れもありますし」

 その諌め言葉で何やら思い出したらしい。更に不快な様子で、少女が軽く首を振った。

「思い出したけどね、わたしがこの人について悪く言ったのは、そういう勘違いをされたからよ。そもそもそんなこと言われなきゃ、この人が出てくることもなかったでしょ」

 そうは言われても、男としてはどうしようもない。勘違いした者が悪いのだが、何の事情も知らされていない者たちに、『陛下の大切なお客様』としか伝えていなければ、そのように誤解されるのも当然ありうる話だからだ。しかも魔王の顔をよく覚えているほど見たこともない地位の者たちなら、彼らが親子であるなどと予想もすまい。

「姫様がご自分のお父上をお認めになれば、それを城内で公表できましょう。しかし、いまだ姫様は自らの血の半身を否定なさっていらっしゃいますので、公表が出来るはずもありません。故に、そのような誤解を受けても仕方のないことなのです」

 その言葉に、少女はますます嫌そうな顔になり、魔王は少し機嫌が直ったらしい。

 魔王寄りとは言え、大体の状況を把握しており、客観的な視点を持つ男の言葉は、少女にも魔王にもそこそこの説得力を持つ。それが男にとって嬉しいのか重いだけなのかはまた別にして。

「わたしが認めているほうのことを公表しても無理なの?」

「それでしたら尚一層のこと、姫様と陛下の関係について誤解が生じるかと。陛下は異界に戻った恋人の娘を手元に置いて、今度こそ自分のものとするらしい――などと噂が立っても、事情を知らぬ者は信じてしまうでしょう」

 そんな噂が立つと想像しただけで、少女は怖気を感じたらしい。どうすればここまで嫌わせられるのか、と呆れながら魔王のほうを見ていると、特に興味もないらしく茶を啜っていた。相も変わらず繊細な磁器が似合わない男である。

「別にその方が好都合だとは思うがな。小娘の部屋を近くに変えれば、俺が頻繁に足を運んでもおかしくない。その実、戦略を練っていようが遊ぼうが周囲は勝手に納得する。こいつの将としての育成にいくら人材を注いでも、同じ理由で周囲からは怪しまれずに済む。帝国の監視員どもだけではなく、城の連中の多くの目を誤魔化せればそれでいい」

「わたしは嫌よ。他人の想像でもあんたといちゃついてるなんて、考えただけでも真っ平」

 それでは仕方ない、と男は肩を竦める。

「ではやはり、姫様の正体を公表しましょう。いくら姫様がお認めにならずとも、そのほうが姫様にとって住み良いのですから」

「……………………」

 それはそれでやはり嫌らしい。複雑な娘心である。

 しかし、大人たちはそんな繊細さなど気にする暇もない。少女の沈黙が続く中、魔族の頂点に立つ二人による会議が淡々と行われた。

「公表するにしてもその時期は計りたい。現状で国内、城内に発表では帝国の人間どもが何を言い出すか分からんからな」

「それは私も考えました。いっそのこと、姫様の育成に関わる者だけには口外禁止の上公表し、他の者には『陛下の大切な客人』で通しておく、というのは如何です?」

「構わん。帝国の連中にもそれで通せ。……あいつの半魔が救いだな。人間どもには人間の血の入りなど分かるまい」

「帝国側が対面を望んだ際にはどう致しましょう。魔王の籠姫となれば、敵になるか味方になるかの見極めくらいは求めるでしょうし…」

「俺を盾に断れ。披露目はそうだな……帝国からの定例会議に従者として見せる。それまでに礼儀を叩き込め」

「些か派手だとは思いますが…畏まりました。それ以降は通すように、を前提で計画を立てます」

「よかろう。それとな、演出は過剰なくらいが丁度いい。その方法で、あいつに石頭の部下を取り込ませた俺が言うのだから間違いない」

「…部下にもよりますよ。それから公表は、定例会議から何月か後で…?」

「城内がこいつの立場を固定し、俺の愛妾として慣れた辺りで出すのが妥当だな。それまでなら見聞を広めるためと称して抵当に外出させるのも構わん」

「畏まりました。ではその方針で」

 かくして、本人を全く交えないままに、少女の正体の公表時期、そしてその他諸々の予定は決定された。

 ふて腐れる暇もなく話を進められた少女は、急に男二人に視線を注がれ返答を求められる。物騒でもなければ懇願するようでもない視線に対し、しかし許される言動はただ一つしかない。

「……分かった。いいよわそれで」

 諦めに等しい返答ではあるが、男たちはそんな少女の複雑な心中をやはり無視して席を立った。

 慌てて魔王の帰休まで付き従おうとする三人の騎士を、少女は据わった目で眺める。

 それを見て、少女の母が初めて彼女に仕える部下たちと対面したときのことを思い出すと、ふと魔王は思いついたように顔を上げた。

「おい、小娘」

「……何よ」

 形式上は納得したはずではあるものの、やはり嫌そうな顔の娘は、全く似ていないはずなのにどこか、愛しい女を思い出す。あのときは確か、縋りつくように自分の助けを求めていた。当時は何とも思っていなかったくせに、まだあのときのことを思い出せる自分はやはり、あのときからあの異界の少女を特別視していたのだろう。

 その思い出に乗じる自分をくすぐったく思いながら、やはり最愛の女に甘い男は微笑を浮かべた。

「お前にこの世界で暮らす者としての名を与えてやろう。母に呼ばれた名で呼ばれたくないのなら、ロゼとでも名乗るがいい」

「はぁ…!?

 急に何を言い出すのか、と言わんばかりの少女の動揺が楽しくて、男は笑いながら廊下に面した扉に向かって歩き出す。

「ちょっと、なに勝手に人の名前決めてるのよ!! 大体、それじゃ人の名前を勝手に言い方変えただけ意味なら本名と大差ないじゃない!?

「貴様の母親も意味を変えず名称が変わっただけだ。親子共々俺が名づけ役になったのだから感謝しろ」

「は……!?

 呆気に取られた娘の顔を、心底魔王は愉快そうに笑う。

 最愛の女は帰らず、満たされた日々は遠ざかった。しかし今得たその忘れ形見は、自分の退屈を取り除くだけの力はあるらしい、と。

 

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