Offer Lillie

 

 

 ようやくワルアンス城下からの出棺が終わり、弔問客も水路を巡る棺の後を追うため式場を出て行き始める。人々の故人への感情が僅かながら霧散し、緊張感が式場から薄くなっていくことを実感すると、男は大きく伸びをした。

 個人的に堅苦しい儀式は遠ざけたいものだが、国葬となれば――八人の中で最後の人間の葬儀となれば――、よほどの理由でない限り、荒波を立てずに辞退することは難しい。何より、周囲がそうさせてはくれなかった。否、周囲が喧しいのはいつものことだし、そんなものに影響されるほど馴れ合いを好む性格ではない。

 誤解を恐れずに言えば、たった一人の女のために。

 自分と同じく人間と魔族の血を持ち、両種族から虐げられた復讐者のはずなのに、すぐに復讐心を馬鹿らしいと放り投げた女。優しいのに冷静な、希望を捨てきれない合理主義者。その気になれば恐怖で世を制する魔王にもなれるくせに、人を殺すことを厭う。そんな長い付き合いの彼女が気がかりで、今まで大人しくしていた、と言うべきだろうか。

「年かね、俺も……」

 漏らした発言自体がとてつもなく年寄りめいて感じ、荘厳な花祭壇に生まれた棺型の空間を前に未だ佇む女を見る。棺を載せたゴンドラはもう既に水路に運び出され、そのゴンドラもこちらからは見えないのに、彼女はそこから動こうとしていなかった。

 あの男との思い出に浸っているのだろうと思うと、いささか声を掛け辛い。それは他の弔問客も同じのようで、珍しく誰も彼女に近寄らなかった。衛兵さえ、かなりの距離を置いて総領の横顔を見守っている。

 そうやって同じように彼女を見つめる自分も、何千と言う弔問客も、皆黒く華美とは言い難い装束に身を固めている。当然彼女も喪服姿のはずなのに、違和感があった。

 普段は流したままにしている鮮やかな薄紅色を纏った金髪は、優美な曲線を持ちながらも重く堅く結われ、更にヴェールで覆われていた。胸元から足の爪先までを覆う細身の黒いドレスはその型だけ見れば大胆かもしれないが、首から肩、そして指先に到るまで黒のレースがその肌を包み隠し、女性の内面をも黒く覆う。しかしそこまで黒一面でいると、帽子の百合と真珠のネックレスの白い輝きは、彼女の流した涙のように見えないこともない。

 そのためか魔族の大総統は、普段以上に簡素ではあるが美しく、しかしそれ以上に儚さを漂わせていた。

「ロゼ様のお姿、見たか?」

 近くを通る誰かの声に、思わず耳を側立てる。男の付近に座っていのであれば、貴族の身分に等しい筈だ。盗み聞きの趣味はないが、彼女の姿に不謹慎な感覚を覚えた自分を誤魔化したかった。

「ああ……普段に比べると随分しおらしい。あの方も、賢人である以前に女性なのだな。献花の手つきは特にそそる」

「いやまったく。四世様の葬儀はそう思わなんだのに、今日に至っては妙に艶かしい。まるで未亡人……いや、黒衣の花嫁だな」

 そんな会話をする二人の男性は、確かに貴族特有の香油の匂いと絹の喪服に身を包んでいる。しかしその口から漏れる言葉は、どこぞの酒場の男たちと大差がない。シンバ帝国でもネバーランド皇国でもなく、ネバーランド共和国の領主だと言うのに。

「………はん?」

 呆気に取られた男のことなど知りもせず、弔問客たちは煙草を飲んでいる最中のような能天気さで話を続けた。

「嫁ぎ先は冥界かね? なるほど、ならばロゼ様が結婚なされないのもよく分かる。人間と魔族の秘めたる悲恋と言うわけかい」

「時折、男よりも雄々しく激しいお方ではあるからな。一晩過ごせば、老人の精など吸い尽くしてしまうだろうよ」

「ならばアンクロワイヤー様の死因はそちらかね? いやはや、憧れる死に様ではあるなあ」

「憧れはするが、死んでしまえば冗談にもならんよ。それがアンクロワイヤー様のご要望なら、自業自得ではあるが……」

 続く笑い声を聞かされて、彼はようやく腹立たしくなった。

 これ以上そんな与太話を聞くつもりはないし、死した仲間を侮辱させ続けるつもりはない。何より彼女に聞かせるつもりもない。そう思い、二人の並んだ背中に声をかけようと立ち上がった瞬間、別の方から妙に明るい声が聞こえてきた。

「あらまあまあ、リトニハット領主オラス様に、ネイポス領主カマルグ様じゃありませんか! わたくし、コスダリオ新聞社に勤めております……」

 慇懃なほど腰の低い言葉遣いで、ひらりと二人の前に現れたのは、名刺を持ちながらやはり慇懃なほどに腰の低い魔族の女記者だ。

 彼にとって見覚えのある萌黄色の短い髪を強引に後ろで一括りにし、化粧気のない顔に紅い口紅と金の瞳を輝かせ、黒いスーツ姿に百合のコサージュを着けたその女は、喪服に身を包む新聞記者と言うよりも、男装の女優のような印象を受ける。

 総統の噂をしていたはずの男たちも同じような印象を受けたのだろう。自分たちとて充分不愉快な話題に花を咲かせていたにも関わらず、汚らわしいものを見る目つきで記者に手を振った。

「取材は受け付けんよ。私たちはこれから忙しいんだ」

「暇なら八賢人のどなたかに伺えばいいだろう。貴様のような者ならすぐに式場からつまみ出されるだろうがな」

 鼻で笑って女を受け流そうとする二人に、記者は軽く目を瞬かせて、次に猫のように笑った。

「まあ、丁度良かったですわ。領主様がたが先ほどお話していた件、八賢人さまにお伺いしようかと思っていたところでして……」

「なっ……!?」

 表情を一転させ二人は魔族の女を見るが、当人は全く気にしていない顔で続ける。

「領主様ともあろう方が、下々の者のような根も葉もない噂などするはずがないでしょう? となると、やはり根拠となる何かがあったはずですわよね。その辺りのこと、是非詳しくお伺いしようと思っておりまして……」

「ばっ、馬鹿を言え! その程度の話をわざわざ八賢人にするなど……無礼であるぞ!」

 そう反論されて、女記者は些か大げさな素振りで驚いてみせる。続いて、軽く振り向いてくる弔問客たちの視線を気にするように声を潜めた。

「領主様とあろうお方がそのような声を出されますと、いらぬ噂を立てられますわ……。どうぞ落ち着きになって下さいませ」

「きさっ、貴様のせいだろうが……!」

 まだ女記者の慇懃無礼に腹が立っているが、言っていることには納得したのだろう。先程よりは幾分か声を潜めて記者を睨む。

 人の目を気にしなければ貴族でも安穏と生きていけないと理解しているらしいことは、彼らの数少ない美点であり、貴族思想の進歩かもしれない。自分たちの努力は無駄ではなかったと、男はやや投げやりな気持ちで腰を上げる。場を混乱させるためではなく、混乱をあの女記者に引き起こされる前に事態を速やかに収拾するため。

「し、しかしねえ、キミ……。真偽がどうあれ、そんなことを八賢人の方々に伺ったところで、やはり無礼であると追い出されてしまうのは目に見えている」

「う……うむ。我々の証言を持ち出す前に、君らの会社の悪い印象を、御方々に植え付けるだけに終わるだろう。それに今はアンクロワイヤー様のご葬儀が終わった直後。気が沈んでいらっしゃる大総統閣下が、新聞社の相手をする余裕がおありとは思えん」

 ――数分前までその大総統閣下について下品な妄言を吐いていた人間の言う台詞か。思わず男は眉を釣り上がらせるが、それらを決して言葉尻には出さないように声を張る。

「騒がしいな、場を弁えろ」

 自分に似つかわしくない台詞だと思いながら不遜な態度を強調してそう告げると、領主たちは慌てて畏まった。記者はにやりと笑いながら、会釈する。

「此度は大変……」

「まあ、イフ様ではございませんか。お久しぶりでございます」

 一介の新聞記者などに挨拶を遮られるはずのない領主の一人が、思わず女魔族を睨みつける。しかしそれを敢えて無視して、男もまた平然とその挨拶に付き合った。

「ああ、何年ぶりだったか忘れるほどにな。お前の仲間はどうした。一緒じゃないのか」

「人間が多いものですから、ここに来るのは随分と骨が折れるようです。わたくしの友の中では、誰もアンクロワイヤー様ほどお年を召しても元気な者はおりませんもの……」

「成る程。それでもその親族とやらは来ているらしいが、付き合いはないのか」

「会わないのが気遣いにもなります。特に人間の子は、あっと言う間に成長するでしょう? 自分が老けても憧れの人はそのままの姿だなんて、可哀想なお話ですわ」

「それもそうだな。特にお前が初恋などと、後に知れば自殺したくなるだろう」

「ま、失礼!」

 さっと眉をひそめる女の抗議を、男は鼻で笑って受け流す。

 そのやり取りを見ていたはずの領主たちは、男の笑みに同調することなどできず、それどころか表情筋が凍ったのかと思うくらいに目を剥いたまま硬直していた。その理由は、この生意気でいけ好かない女記者が、自分たちでさえ口を利くのも難しい八賢人の一人と世間話をする仲であると明確なまでに示しているからだ。

 彼らの反応を視線だけで確認した女魔族は、口元に侮蔑の笑みを一瞬見せるが、それもころりと隠して深い悲しみの表情で男に話しかける。

「ご挨拶が遅れました。……ご愁傷様でございましたわ。アンクロワイヤー様なれば、ご立派な最期を迎えられたと信じております」

「……ああ、急だったが、それでも本人は落ち着いたものだった。最期まで迷惑にならないか気にしていたのは奴らしい」

 男も同じく口の端に侘しげな笑みを宿して故人をそう振り返る。言っていることも、その気持ちも何ら嘘偽りはない。ただ、彼らのやり取りを絶句しながら見るしかない愚かな男二人に、見せつけようとする意思があるため、多少に白々しくなってしまうのは仕方なかった。

 不意に記者が顔を上げる。悲痛な悲しみを、無理に明るい方向に持っていこうとするが、悲しみを隠しきれないような笑みを見せて。

「積もる話もございますし、どこかでお話できませんでしょうか。落ち着かれましたらば――ロゼ様も交えて」

 びくりと、領主たちの肩が震える。それを見ないように、男も笑った。

「そうだな。特にこんなところじゃ昔話もし辛い。……あいつが少し落ち着くまで、他の奴を誘うか」

 周囲を軽く見回し、わざとらしいまでに知り合いを探す。

 当然、男が酒を酌み交わせるような知り合いなどここにいるわけがない。ヴァンパイアの王は棺のゴンドラに付き添っているし、頭の固い騎士は警備本部に留まっている。死んだ人間が関わった未知種族からの襲撃を配慮したわけでもなく、両者ともそれが自分の仕事だと思っているのだ。

 いないことを確認してから肩を竦めると、最早男は領主たちなど視界に入っていないように振舞った。

「仕方ない。一足先に思い出話に花を咲かせるとするか。こっちだ」

「はい」

 親しみのある言葉で先導する男は、しかし背後の女魔族の顔など見る気も起きなかった。けれどあの女がどんな顔をして、青い顔をしてこちらを見ているであろうあの愚かな領主たちを見たのかははっきりと分かる。何故ならば、式場から聞こえるにしては多少違和感のある、中年男性二人の呻くような嘆くようなこの世の終わりのような声が、彼の耳に嫌でも聞こえてきたからだ。

 

 

 時代錯誤の城門のような分厚い観音扉の向こうに通されて、女は軽く唇を尖らせた。――自分のようなものを通すならば、もう少し華やかな応接間に案内するのが常識だろうに、やはり戦で身を立てた男はこんなものなのか。

 新聞記者にしては随分と傲慢な考え方であることを自覚しつつ、それは女の性に本能から刷り込まれた選り好みというやつだから仕方ないなどと誤魔化しながら扉を潜った。その先にあるもう一つの更に頑丈そうな金属製の扉に再びうんざりするが、それも文句を言わず澄ました顔で開けて、室内に迸る男臭い趣味の喫煙室やスタンドバー付きの応接間を予想する。しかし、予想を裏切る光景に彼女は思わず声を挙げた。

 大砲さえも打ち破れないような鋼鉄の扉の向こうには、森が広がっていた。

 城内であれば中庭と呼ばれるべきその空間は、初めて見たはずなのにどこか懐かしい、樹齢百年以上であろう大樹を中心に、広さも把握できないほどの木々が密集していた。白い石畳など一箇所たりとも見当たらず、また東屋やベンチや噴水ならまだしも、刈られた低木や華美なアーチなど中庭を連想させるものすらなかった。

 木々だけで生み出された濃淡明暗様々な葉の緑と幹の茶が視界を埋め尽くし、聞こえる音は風に煽られた木々のざわめきしかない。空気もそれに相応しく、肌に涼しげな湿気と瑞々しい水と土の匂いが濃厚なまでに伝わってた。古代の森そのものをゴルデンに持って来たような静謐なりし空間を前に、彼女は知らず呼吸を止めていた。

 背後でどしんと音がして、振り返れば男が扉を閉めている。重厚なものなので、やたらとその行動が気張って見えるが恐らくそれは気のせいだと女は自分に言い聞かせた。

 扉を閉め終わったらしい男が振り返り、そのまま扉に背をもたれさせてこちらを見る。目と表情がうんざりしたように感じたのは間違いではないと思うと、彼女は半笑いを浮かべながら今の今まで被っていた猫を投げ捨てた。

「はいどうも、お疲れさん」

「相変わらず口も身も軽いな、お前は」

 無愛想な表情で皮肉っぽく言われるが、女はにやりと笑って返す。

「全体的に軽くなきゃ第一線の記者なんてやってらんないの。抱き上げてみたらそれをもっと実感できるかもよ?」

「おまけに尻も軽い」

 今度は吐き捨てるように言われるが、やはり女は気にしない。困った顔を作って腰に手を当てる。

「いい相手がいなくてさ。ばりばり働いて稼ぐ女ってのは、やっぱり急進的すぎるのかね」

「随分と古い急進的だな」

「そりゃ『皇帝陛下』が身近にいればね。下々はそれを実感できないもんなのよ」

 胸ポケットに手を入れると、紙の箱を取り出す。その中から紙巻煙草を一本取り出すと、口に咥えて男相手に首を傾げた。動作と視線に篭めた意味は――吸っていい?

「好きにしろ。ただし火事は起こすな」

「あいよ」

 咥えたまま返事をすると、彼女は片手をもう片方の手で覆い、覆ったほうの指先をじっと見つめる。爪の形を気にしているのではなく、神経を集中させているのだ。彼女が指先に魔力を籠めていることを感じ取ると、男は呆れた視線を向ける。

 果たして数秒も経たない内に、女記者の中指から、小さな火が生まれ出た。その指先は焦げていないし、熱を感じているようでもない。けれど彼女が煙草を近づけると、じわりと火が燃え移り、赤い輝きがそこに宿った。それを見届けると、彼女は指を擦り合わせるような仕草の後に魔術の火種を消してから、男と並ぶように扉に背を預ける。

 随分と贅沢な魔力の使い方だが、ここまで来ると贅沢と言うより捨て鉢に感じられて、男はますます苦々しい表情をした。

「……ガキが無理をするな」

「大人ぶりたい年頃なんでね」

 紫煙を吐き出しきると、女はさらりと言い返す。

 けれど男がガキと呼び、女が大人ぶると言うほど、彼女の姿は子どもではなかった。むしろ妙齢と言うべきであり、彼と同年代に見えるはずだが、彼らはその不一致を気にしない。

 男が気になる点があるとするならば、女の見た目と同じく、衰えを感じさせる彼女の魔力の保有量だ。

「お前が高位魔族の生まれでなくとも、そこまで消耗は早くないはずだ。何があった」

 男は気遣いや優しさを感じさせない淡々とした口調で問うたが、女はふざけるような笑みを見せる。

「あら、八賢人サマに気にかけてもらえるなんて嬉しい。やっぱり成熟したオンナじゃないと異性として認識してもらえなかった?」

「お前らのような小生意気な蓮っ葉には興味がない」

 切り捨てるように好意を拒絶されて、女は小さく唇を尖られる。男にとっては彼女の第一印象など好意的とは言い難く、円熟した肉体を持つ今も好みとはかけ離れていた。――まあそれも当然か、と彼女は煙草を一旦口から離す。

「別にどうもしやしないわよ。ただ友だちが人間ばっかりだと、やっぱり自分もとっとと老けたいじゃない。だから、ね」

 随分と軽い口調で後ろ向きなことを言う女を、男は反射的に睨んでしまう。

 だがそれを軽く流すこともなく、女はまるで叱られた子どものように視線を逸らして再び煙草に口をつける。いかにもいたたまれない、といった態度だが、そんな台詞を漏らすからこちらもそれ相応の態度を取っているので、彼は無視してやる恩情などまるでなかった。

「あれ。あの、大きな木はなに?」

 あからさまなまでの誤魔化しに、男は更に眼光を強くする。しかし女はその視線にそれほど怯むことはなく、それどころか睨まれる理由が分かっていないらしい戸惑いさえ見せるので、彼は少しの情けをかけてやることにした。

「なに、とは何だ」

「見たことあんのよね。ううん、それに近いものかもしれないけど……」

 女は唇に親指を当て、普段の癖で下に煙草の灰を落とす。思わず下を見たが、ここの土はたっぷりと湿度を含んでいるらしく、灰は何処ともなく消えている。が、それでもさすがに無礼だと思ったらしく、彼女は懐から小さな吸殻入れを取り出して、そこに改めて灰を落とした。

 男はそれを視界の端に入れながら、いつか聞いた話を思い出す。

「ここを造った庭園設計士は過去、ヴァラノワールの建設にも携わったらしい。お前が懐かしがるとしたらそれのことだろう」

「……そ」

 端的な説明に、女は浅く頷いて納得の姿勢を取る。庭園設計士、と言う単語とこの中庭の規模に違和感を覚えたらしいが、それは言わないようだ。

 それからまた紫煙を唇の隙間から勢いを持って吐き出すが、何となしに眩しそうな表情なのは気のせいではあるまい。恐らく、彼女の第二の故郷とも言うべきかの学園の思い出がその胸に蘇っているのだろうが、それにとっぷりと浸るほどの夢想家ではないだろうと彼は判断する。

「そして――あれは墓だ。プリエスタから輸入したらしいが、詳しい話は俺も知らん」

 軽々しく男が顎で指し示す先は、例の大樹。どう見てもこの空間にもとからあったと思わせるほど、大きな根をこちらに見せるほど張り周囲の木々を圧倒しているそれが、移植されたものだとは誰しも、到底信じられまい。だがそれよりも、女は気になる単語を見出したらしい。

「墓? あの樹が?」

「ああ」

「誰の?」

「四世」

 目を見張る女に視線もくれず、男は更に名を羅列する。

「それからアマリウス、トレヴァゼン、ニコライデス、ボートワン、ライノルズ、ロレンス……」

 いずれも七年戦争で有名になった旧皇国旧帝国の既に没した武将たちである。戦死者もいるが、その人物以外は現体制に変革した以降も国に従事していた面々だ。幾人かは女が直接葬儀に出向いたこともあるし、直接対面したこともあるはずだった。

「……アンクロワイヤー……」

 最後の名前を噛み締めるように言い終わると、男は苦笑を浮かべる。

「……本当に奴が最後の人間になったな。全く、あの馬鹿は」

 吐息と共に漏れる呟きは、男にしては珍しく寂しげな色を含んでいるが、女はそれを気に留めるほど情に流される性格ではない。葬儀会場に流れた情報や過去自分で調べた情報を頭の中から引き出して、感慨に耽る彼の袖を引っ張った。

「ちょっと、そんなはずないでしょ。アンクロワイヤー様のご遺体はワルアンス城下街を一周した後、生家の近くに埋葬されるって話だし……それに他の面々も」

「躯は血縁者に譲る。俺たちがここに埋葬しているのは、奴らの遺品だ」

 地面を指差す男に、女の顔が小さく歪む。納得したようで、それでも何を言っているのか分かっていない視線を受けて、彼は説明を続けた。その目には、もう先に見せた寂しさは宿っていない。

「アマリウスの時から始まったこっちの伝統だ。それにアンクロワイヤーが同調して、共和国になった今では元帝国の奴らの遺品も一緒くたになってる」

 乱雑な物言いに、女は軽く眉をしかめて男を見る。彼女にしては珍しく、非難するような目つきだった。

「それ、がらくた置き場とどう違うの?」

「遺品一つずつを旗で包んで綿を敷いた棺ごとに収めている。がらくた置き場が羨ましがるくらいには丁寧な対処だ」

 最初からそう言ってよね、と女の声が聞こえたような気がしたが、男は無視して大樹に視線を送り続ける。

「……遺品ね。普通は分配して使うもんじゃない」

「渡った先が魔族かエルフなら壊れるまで使うだろうが、人間なら遺品より使う奴が先にくたばる可能性がある。その子孫に渡ったところで、その思い出までは継承されない」

「……理屈はあるんだ。ま、そっか」

 しかしそんな理由を聞かされても、遺品の処理方法として正しいと女は思えなかった。遺品を渡された人間がくたばれば、その人間と遺品を棺に入れればいいと思うし、その子孫に渡っても別段構わないはずだ。そんな彼女の思考が別におかしいものではないと思うからきっと、そのような方法で遺品による墓を造る彼ら八賢人は――。

「素直じゃないなあ、みんな揃って」

「何がだ」

 笑うような女の物言いが気に障ったらしい。紙巻煙草の灰を落とす女に向けられた無遠慮な視線は、軽く睨むようだった。

「できれば自分の近くにいてほしいけど、遺体ごと自分で独占するのはどうかなって思ってんでしょ。だからそんな、変な方法でお墓作っちゃってさ」

 図星だったのか単純に否定したいのか、男の目つきはますます鋭くなる。だが何も言わず睨まれるだけでは、女の口は止まらない。

「それで満足するならこっちもやいのやいの言えないし。遺族との関係を考えればまあいい判断かね」

 言い終わり煙草を飲み始める女に、男は視線を逸らした後ぽつりと呟いた。

「……肉体も、いわばモノだ。朽ち果てるだけの」

「けどそのモノは、その人の魂を容れていたたった一つの器じゃない。遺品と重要性は比べ物になんないわよ」

「だから生家に譲る。奴らが生まれた土のもとで、同じく奴らが朽ちるのが世の道理だ」

「その道理を分かってるから、こんなの建てたわけ?」

 男は緩く首を振る。この中庭と墓を造った、今日の葬儀の喪主である美しいひとを思い出しながら。

「……故人の魂は既に冥界にあり、残されたものは肉体であれ故人の愛用品であれ、結局モノでしかない。俺たちが親しみ、死したことを惜しむ存在は、どうあっても俺たちの手元に置けない」

 その言葉に、女も視線を逸らす。死ぬとはそういうことだから、何を当たり前のことをと言えるはずだったのに。

 男の端的な言葉は彼女の記憶を刺激する。初めてともに戦った仲間が死したとき、葬儀の席で声を震わせるほど泣いたはずなのに、その人の遺品を譲り受けてもあまり嬉しくなかったときのことを。その遺品は今は彼女の乱雑な部屋のどこかに、埋まっているんだろうなと思う程度でしかないことを。

「遺体も遺品の一つでしかない。逆を言えば遺品も遺体の一部だ。なら、丁重に弔ってやるさ。持ち主が死んだ時点で、道具もその生を終わらせてやる。死を、完全にしてやる」

 女は眉根に浅い皺を作って、何も言わずに紫煙を吐き出した。死したものを惜しむために分配される遺品を、そんなふうに扱うのは別段間違いでもないなと納得してしまう自分に気付いて。それらを屁理屈だとも思うのに、言えるほど自分の考えに自信を持っていないから。

「完全な死を迎えれば、俺たち残された者から悲しみは薄れていく。故人が『過去』になれば、俺たちは奴らを喪った傷を癒すことができる」

「……思い出は人を詩人にする、だっけ。ま、わからなくはないかな」

 紙巻煙草の火を灰で消して、女は同時に彼ら八賢人の立場を思い出す。二度の戦争経験者である彼らは、共に戦った仲間を自分たちの倍近く喪っている。ならば弔い方とて、彼らなりの哲学を持っていてもおかしくはない。独特の、他者から見ればおかしいと思えるくらいの文化が芽生えている可能性は高い。

 であれば――と、彼女は苦笑を浮かべる。自分たちは彼らにとって余所者で、それから自分たちの間ではそんな文化も哲学も、発展する時間がなかったのだなと気がついたから。

「……あたしたちはさ、永遠に友だちでいられると思ってたのよね」

「子どもはそういうものだ」

 潔いまでに言い切られるとまあね、と笑ってしまうしかない。男の表情を盗み見ても、いきなり何を言い出したと思っているらしい戸惑いがどこにもなくて、安心しながら女は言葉を続けた。

「戦争が終わったら故郷に戻ったり、あたしたちが一番輝いていた場所に留まって、それぞれ人生歩んだりしてさ。そうなってもまだあたしたちは友だちだと思ってた。離れ離れになっても距離は関係ないって。うん、関係なかったよ。あの頃は」

 あの頃、などと言う単語を使う割りに若々しい彼女は、また新しい紙巻煙草を取り出す。先程と同じように魔力を使ってその先に火を点ける。

「けど、あの件が終わってから、あっと言う間にこっちもぎすぎすしちゃってさ。……あたしたちは悪くない、けど相手は完全に被害者で、あそこはずっとあそこじゃいられなくなった。……じゃあ、やっぱりあたしたちが悪いのかなって? そう思い始めてから、本当にすぐ」

 内面で当時の混乱を思い出したらしく、女の表情に翳りが生まれる。

 その話は、男も小耳に挟んだ覚えがあった。

 女がいた学園の生徒がフーリュンの原住民を殺害した事件と、その責任を学園が負わされた件から、学園は十余年の歳月をかけて名称と体制を変える。当然、学園の宣伝役を担っていた彼女とその友人たちも、学園に関わる全てのことから手を引いた。それが責任だと学園長から言われて、自慢の息子を亡くした族長の、哀しみや怒りを通り越した澄んだ視線に逆らえなくて。

 男は彼女たちの仲間ではないから、当然その内実や荒れ具合など知る由もない。けれど学園の解体が決定したと同時に、彼女たちが疎遠になっていることは知っている。誰が愚痴を零していたかは忘れたが、ほぼ全員が喧嘩別れに近い状態で刺々しく別離したと言っていた。もしかしたら愚痴を零したのは眼前の女かもしれないが、今の彼には追及する必要性のないことだ。

「……こんな仕事してるから、風の噂はよく聞くしね。ノートリオンにいるのは懐古主義の流れに乗れなくて、今や政界で癌細胞扱い。双子は思想と関係ないから普通に神官やれてる。ハイレインとエルフ集は、喧嘩嫌って森から出てこないけど、あっちはまだ当分死なない。あいつは海賊団の用心棒……だけど年が年だし、もうそろそろ引退の話もあるみたい」

 男に言っても特定できるほど親しくないはずなのに、女の唇は止まらない。遺跡荒しの知り合いたちの賞金額がいくらになっただの、シリニーグの誰は復縁しないうちに事故死しただの、学園都市にいた仲間たちのその後を、淡々と語り続ける。

 けれどそれだけ把握しているということは、仲間たちを気にかけている証拠だ。人権宣言と学園解体が決定してから二十年が経ち、七年戦争時に活躍した彼らも六十代半ばになった。もう既に、仲間割れを気にするような年齢でもないはずだ。

 最後の一人らしい人物のその後を語り終えるのを待つと、男は腕を組んだまま正直な感想を告げる。

「そこまで気にしてるならとっとと復縁しろ。死んだ奴がいるなら尚更だ。残りもの同士で真っ当にならんでどうする」

「まあそうなんだけど。裏返せば、ヴァラノワールがなくなったのなんてたったの四年だし。まだ、あそこが完全になくなってからじゃないと無理」

 それもまた無理な話だ。学園は解体されたが、取り壊されたのは軍事目的とされる施設だけで、校舎を始めとする多くの施設は残っている。それら全てを改築するほど、共和国は学園都市に対して神経質ではない。

「ロゼに会ったら一度説得してみろ。すぐに見積書を持って改築の利益と採算を取る方法を尋ねてくるだろうがな」

「ああ、それじゃそっちの線は諦めないとね」

 冗談めかして肩を落とす。だがその物言いに、男は復縁そのものを諦めているわけではないと知る。

 けれど俯いた女は、男の予想を裏切るような言葉を漏らした。

「……うん、だから、とっとと死にたい。あたしが死んで、その財産でうちの会社の一面どーんと買ってさ。それでまだ残ってる仲間に集まってもらって、仲直りして弔ってもらいたい」

 独りよがりな願望に、男は思い切り眉をしかめる。だが彼は吐き捨てることもなく、嘲笑うこともなく、不快さを示した顔のままで尋ねた。

「お前はそれで満足か」

「そんなわけないじゃん。……けどあたしの死を有効活用するとなるとさ、そういうことぐらいしか思い浮かばないわけ」

「最低の発想だな」

「わかってるよ」

 自虐めいた軽く笑みを見せる。唇だけを動かした微笑は、納得した上でその提案を却下できないらしい女の覚悟を感じさせていた。

 それが歪ながらも美しく見えるものだから、ますます男の癪に障る。

「馬鹿だな。それから間抜けだ。おまけに意気地もないしタチが悪い。お前のはた迷惑な自己満足に振り回される仲間とやらが憐れで仕方がない」

 美しく感じてしまった自分の感性そのものを否定するように、男は矢継ぎ早に罵声を浴びせる。相手の気持ちを変えられないなら、それを痛いほど自覚させてやればいいとも思って。

 ――そういえば、似たような罵声を近々誰かに投げかけたような覚えがある。あのときも、大体今と同じような気持ちだったと気付く前に、女が本当の苦笑を浮かべて頷いた。

「あーはいはいそうですねそうでございますね。けどそこまで言うこっちゃなくない?」

「お前はお前の自覚以上に馬鹿だからな」

「わかってるってば」

「その態度で分かっているはずがない」

 一切態度を和らげてやろうとしない男に、女は珍しく弱々しい苦笑を貼り付けたまま押し黙る。言うんじゃなかったとぼやきが聞こえた気がしたが、彼はそれも無視する。

「死んだ時のことをわざわざ考えるくらいなら、今のうちに死ぬ気で行動を起こせ。七年戦争の勝者が聞いて呆れる」

「……ん」

 煙草を口から放すと、女は大きく伸びをする。俯き気味だった自分の気持ちを、強引に前に向かせるような動作だった。けれど口から出てくる言葉は、まだ弱気の色が濃い。

「けどさあ、あたしらって大きい喧嘩なんてしたことなかったんだよ。それに三十四十で喧嘩なんて滅多にしないじゃない。……子どもみたいに仲直りなんて、簡単にできるもんだとは思えないんだわ」

「簡単にできると思っているほうがおかしい。俺は五十で仲間を裏切ったぞ。今もそれを引きずって生きている」

 男の発言に、女は目を瞬かせた。言われてみれば彼は一度君主を裏切った身の上だが、今はその負い目を感じさせないほど堂々としている。尤も裏切りは内々に処理された話だから、民衆にもその話が広まっていれば今頃、彼は八賢人ではない可能性も高いが。

「そういや、なんで裏切ったの?」

「理由は多い。多くなければ裏切ろうなんて考えないが……。ロゼを必要以上に……過信していた。お前らと同じだ」

 自虐めいた笑みを見せられ、女も同調するように哂う。

 確かに学園都市、解放軍、自分たちの絆、それら全てを彼女と仲間たちは過信していた。同じように、男も主君、魔皇軍、何より自軍が大陸を統一したという実績を過信していた。

「甘え、とも言える。あいつがいれば、俺たちは勝てると信じ込んでいた。……勝手に期待して勝手に失望して、それから勝手に裏切った」

 聞けば聞くほど耳に痛いらしい。これ以上浮かべようがない女の苦笑が更に凝固されていく。

「そっか……。何度かそれで成功しちゃってたから、想像する努力を放棄して。甘えか、そっかぁ……」

 であれば、と女は姿勢を正す。紙巻煙草の火を消して、体ごと男の方へと向き直し、水鳥のように勢い良く頭を下げた。

「先輩、ご教授下さい。裏切っちゃった人からの信頼回復は、やっぱり誠意を見せるしかないんでしょーか?」

「分かっているなら聞くな」

 自分の調子に合わせることもなく言ってのける男に、女もあっさりと頭を上げる。

「けど、回復したと思ってないんでしょ?」

「ああ」

 本当にそうだとは思えないほど男の態度は揺るぎない。どうしてそう思うのか、と女から受ける視線に疑問の色を感じ取り、彼は皮肉めいた笑みを口の端に浮かべた。

「回復なんて温いもんじゃない。俺たちがやっていることは、割れた卵を元に戻そうとしているようなもんだ」

 女の視線が更なる疑問と強さを帯びる。けれど男はそこまで赤裸々に語れるほど、彼女に心を許したわけではない。

 だから全てを説明する気にならず、真正面を見る。近々大樹の下にその魂の一部が埋められる、彼が敵として仲間としてよく知った愚直な男に、羨望と嫉妬と喧嘩を売るような気持ちを持って。

「だが戻す。――お前の尻拭いだろうが何だろうが構うものか」

 記憶の中の喪服姿の女は、美しいが寂しげで、何よりこの上なく脆く見えて、誰かが肩を支えてやるべきだと思わせた。けれど男は手を伸ばせず、その肩に声をかけることもできなかった。きっと今日、土に還る男ならばそれも簡単にできたはずなのに。

 その時点で負けていると言っても過言ではないけれど、かと言って彼は、死したる唐変木に彼女の心を占領させるつもりはない。何よりそれではあの寂しい女が、死した者たちに囚われるばかりになってしまうから。この大陸で最も誉れ高く、感情を殺し世の平和に奔走し続けた女性が孤独であり続けるなんて、そんな馬鹿な話などあってはならない。

「どんな手を使ってでも、あいつに心の底から幸せだと思わせてやる」

 たとえそれにより我が身が滅ぶとしても。たとえそれにより我が身が死ぬよりも凄惨な苦痛に苛まれることになっても。

 一度つまらない感情に惑わされ彼女を更なる孤独に追い込んでしまった以上、それが真っ当で唯一の、彼女への贖罪だと男は信じている。尤も彼女のことだから、誰かの犠牲の上で成り立つ幸せなど一蹴して自らも犠牲となろうとするのだろう。その義務を厭わず自然と受け入れてしまうからこそ、今の彼女は孤独に見えて、同時にどうしようもなく幸せにしたくなるのだが。

 想像して密かに苦笑を浮かべる男に気付かないらしい。彼の宣言を聞いた女は、ごく軽い口調で呟いた。

「なんかそれって、プロポーズみたい」

「……は?」

 この場の空気に相応しくない、頭の悪そうな単語を聞いて男は思わず女の方を向く。それも気にせず、彼女は紙巻煙草を咥えながら首を傾げた。

「いや、素直に質問なんだけど。やっぱりみんな、惚れてたの? ああ大丈夫、記事にはしないから」

 ちゃっかりした言葉も今の男の耳には入ってこない。ご神体を一山いくらのがらくたと同じに扱われた教徒の気分で尋ねる。

「誰に」

「ロゼ……大総統? 皇帝陛下? に」

 はん、と笑う。これだから低俗な女は、と嘲りの気持ちを隠しもしないで。

 否、この奇妙な会談が出来上がった原因である領主たちも通俗だったか。惚れた腫れただの、分かり易い夢見がちな感情で人の関係を勝手に誤解しようとする。そんな気持ちが誰かにあったのならば、今頃泥沼の愛憎劇が繰り広げられ、八賢人は八賢人として成り立たなかっただろうに、それも想像できないらしい。

「馬鹿を言うな。あいつにそんな気持ちを抱くつもりはない」

「けど幸せにしようとは思うわけでしょ」

「ああ」

 けれどそれは罪を清算するためだ。ただの私情であの総てを背負おうとする女を幸せにしようなんて、おこがましいとしか言いようがない。そしてそのおこがましい考えを持っていそうな男は、彼女を幸せにできずに死んでしまった。否、その男が死ぬことで彼女が不幸になってしまった。だから自分が今度こそ幸せにするのだと、彼は強く心に誓う。

 じゃあ、と言いかける女に異様な鬱陶しさを感じて、男は眉を盛大にしかめつつ彼女の発言を遮った。

「俺があいつと結ばれることで幸せするつもりはない。あいつが幸せになる要素を全て、俺が集めると言っている」

 完璧な、女を納得させることができるはずの言葉に、しかし女は盛大に眉をしかめた。言っていることの半分も理解できないような顔に、男はあからさまなため息を吐く。

「お前は、本気で馬鹿らしい」

「馬鹿はどっちよ」

 言い返されて、男はきょとんと目を瞬かせる。

 けれど、彼は自分の言葉に何一つとして間違っていないと誓えるほど、自らの気持ちに正直だった。それを世の中が恋愛感情だと告げても、彼は違うと否定できるほど頑固に。もしこの意志が恋愛と呼ばれるものだとしても、言葉に囚われず、ひたすらに彼女が幸せになるための手助けをしてこうと思えるほどに尊く。

 

 

 

 寝酒は飲まないと決めたはずだった。まだ日が浅い今に酒を嗜めば、あのときが否応なしに思い出されてしまうだろうから。

 溺れるほどに他人の所持する酒を飲み、正午でもないのにワルアンス城の鐘が鳴る日に男たちで交わした乾杯の苦さを、不意に舌が再現したように感じて男は緩く首を振る。

 それでも酒を求めるような気持ちになってしまうのは、多分に疲れたのだろう。億劫な気持ちで酒瓶とグラスを目で漁りながら、肴を持ってこさせるかどうか暫く考える。だがそんな思考もすぐに疲れのために放棄した。後悔と過去が肴なんて、珍しく悪趣味な自分を発見したが、それも疲れで気にならない。

 酒瓶を手に取り、爪でコルク押し上げるともう片手にあるグラスを注ごうと瓶を斜めに傾ける。そこで誰かの気配を感じ取って、男は反射的に顔を上げた。

 扉を開けることもなく男の寝室に現れたその人物は、彼の沈んだ気持ちを察するはずもなく警戒心を与えるほどに不安定で禍々しい魔力を放っている。だがそれを気にせず、彼は酒を注ぐのを止めた。

「珍しいこともあるもんだな。どうした」

 多忙な八賢人の一人である男でさえ休める時間帯にも関わらず、突拍子もなく現れた眼前の魔族は鎧を着けたままだ。それ自体は特におかしなことはないが、その鎧の魔族が自室に入り込んでくるような事態を、彼はいまいち想像できない。

「……ロゼが呼んでいる。共に来てもらおうか」

 鎧の奥から聞こえた声に、男は顔を不可解に歪める。長身の、存在感が薄いのに魔力の塊のような存在の相手が、妙に聞き覚えのある人物の声と同じだったから。

 しかし鎧の魔族は相手の反応を無視したまま彼の腕を掴む。分厚い金属で編まれた篭手の向こうは、確かに男性的な力強さを感じるのに、やはりその声は瑞々しく凛とした――

「お前たちに、頼みがある」

 その声を持つはずの女の名を、男の唇が声も挙げず形作る。瞬間、鎧の魔族の足下に生じていた影が彼を包み、黒い水面に音もなく飲み込まれた。抵抗する間もない早業に、彼は目を見開くだけの反応しかできなかった。

 飲み込まれた先は、漆黒の空間でも禍々しい異空間でもなく、女の部屋だった。鮮やかな紅色と金の意匠が美しく、上品で華やかで、けれど硬質な印象も感じさせるのは部屋の持ち主の性格が反映されているのか。

 数えるほどしかこの部屋を訪れたことのない男は、円卓の最奥に陣取る女を見る。影に飲み込まれたはずなのに、浮遊感も圧迫感も感じなかったが、あいつなら何でもやってのけるだろう、と神出鬼没のあの魔族を常々評価していたため、それを今更不思議がる気はなかった。

「よう」

「ごめんなさいね、急に呼び出して」

 困った顔でワイン片手に微笑む女は、夜も更けているのにきちんとした部屋着でいる。その姿に己の姿を見直した男は、羽織っただけのシャツのボタンを四つほど閉めて、彼女の隣の椅子に腰掛けた。

「気にするな、後は寝るだけだ」

 円卓に置かれた、空のグラスを手に取りワインを適量注ぐ。余った三杯のグラスを見て、後から誰と誰と誰が来るのか、凡そ予想がついた。

「……お?」

 予想通り、男がワインに口を着けるより前に、忽然と鮮やかな緑の髪をした逞しい体つきの男が現れる。席に着いた男女は驚きもせず、目を瞬かせるヴァンパイアに笑いかけた。

「今晩は、バイアード」

「何だ、お前さんの仮装じゃなかったのか」

 心当たりのある言葉に、やはりあの声は聞き間違いではないと確信して男は無言でワインを口に含む。なかなかに芳醇で濃厚―― 一歩間違えれば渋いとも言えるのに、丁度その一歩手前の段階で留まっているような――なのに、喉を通り過ぎると不思議と爽やかに甘い風味を持っていた。癖は強くともそれ以上に美味いが、彼はワインに造詣が深くないのでどこ産だの何年物だのの推測などするつもりはなかった。

 だが今、女の部屋に呼ばれたばかりの男はそうではないらしい。瓶を一瞥するとおお、と喜色を浮かべて席に着いた。

「パズマ産とはまた渋いところを持ってきたな。どれどれ、こいつは……」

 すん、と瓶に鼻を近付けると、目を見開く。匂いだけで何年代のものなのか分かったらしい男は穏やかな笑みを浮かべ続ける女に、悪戯っぽい笑みを返した。

「……おい、ロゼ。こんな懐かしいもん、どこに隠し持ってやがった?」

「秘密」

 くすくすと声を漏らす女と、犬歯を見せてけれど茶目っ気たっぷりに笑う男を、取り残された男は交互に見る。だが二人の笑みに、知識のない彼でも件のワインが何年代に造られたものであるかの予想はついた。

「よし、まずは三人で乾杯しよう」

「アシュレイ、一体……!」

 意気揚々と男がグラスにワインを注ぐと同時に、うろたえる金髪の魔族が現れる。その傍らには、アシュレイと呼ばれた長身の鎧が当たり前のように立っていた。

「なんだ、お前も呼ばれたのか」

「なんだとは何だ……」

 能天気なヴァンパイアの態度に、警戒心を抜かれた魔族が改めて他の二人を見る。三人ともくつろいだ格好なのに、彼だけは昼間と変わらぬ鎧姿であることに少し戸惑っているらしい。居心地が悪そうに咳払いをして、そのままの位置で会釈をした。

「……大総統閣下。早速で悪いが、急に我々を呼んだ理由を教えて頂けますかな」

「本当にお前って奴は情緒がないな。久々に個人的な会合だぞ。まずは乾杯するのが先だろう」

 急に連れて来られて情緒も何もあるか、と忌々しげにヴァンパイアを睨む魔族に、閣下と呼ばれたこの場で唯一の女性は澄ました顔を見せる。

「バイアードの言う通り。まずは乾杯と言う名の挨拶がなければ礼儀を正しようもないでしょう。それともあなたは、わたしが選んだお酒なんて飲めないのかしら」

 盛大に眉間に皺を寄せる騎士ではあったが、隣にいた鎧が迷いも同情も見せず着席するのを見て、渋々彼も残った椅子を引く。乱暴に座り込んだ彼は俯いたまま、隣から受け取るであろう瓶を受け取ろうと手を出す。

 静かな室内でとぷとぷ、と小さな音を立てて誰かがグラスにワインを注ぐと、男も適量をグラスに空けて瓶を置く。その動作は少し乱雑だったが、今この部屋で礼儀作法を気にする者などいない。それどころか、彼らしい不本意を露わにした態度に苦笑を浮かべる。

「さて、では乾杯しましょう」

 グラスを掲げ、女が告げる。その笑みは晴れやかだが、悲しみを越えた清々しさのように感じ、男たちは少し強張った表情でグラスを掲げた。

 しかしその中で、グラスを掲げない者がいる。だがその人物は乾杯を拒絶するつもりはない。ただ乾杯をするのに邪魔なそれを、外そうとしているらしかった。

 首の辺りでかちりと音を立て、ようやく頭部の締め付けが緩和するが、その人物は吐息をつくこともなくゆっくりと兜を持ち上げる。

 そして現れるその相貌に、男たちが目を剥き、息を止め、小さな声を挙げる。

 薄い薔薇色を帯びた金髪を鎧の中に収め、かたちのよい顎と尖った小さな鼻を持ち、引き締まった柔らかな唇に笑みを浮かべ、意志の強さを感じさせる紅玉色の瞳をグラスを掲げた女に向ける、彼女と瓜二つの人物は、兜を脱ぐと他の仲間たちに追従するようにグラスを掲げた。

 全員が揃ったところで、女は自分と同じ顔をした人物と目を合わせながら唇を開く。

「この大陸の安寧が世々に続くことを祈って」

「乾杯」

 その声までも瓜二つ。

 鏡合わせのようにグラスを煽り、飲み干して、グラスをテーブルに置いたふたりは、いまだワインに口をつけようとしていない仲間たちを見渡して告げた。

「では、始めましょう」

「我々と、共和国の未来の話を」

 

 

RETURN