A transitory person

 

 むせ返るほどの異臭に、思わず眉を寄せた。そして、次に驚いた。

 自分の部屋が、起きたときとは一変して、酒樽や酒瓶で埋まっているのだ。こんなことは自分が王という身分にいる上で、絶対にないはずである。

 いつだったか、気が動転して、あるひとに部屋のそこらじゅうのものを投げつけて、後で恥ずかしくなるほど部屋をめちゃめちゃにしたことがあったが、その日の夜には何事もなかったように掃除されていた。その経験がある以上、と言うかむしろその逆となっている現状を見た今、驚かないわけがない。

 その上、寝台の上に横たわっている、この部屋を酒の臭いで充満させた張本人を見て、更に驚いた。

 酒に潰されているのを初めて見たかもしれない。珍しく、広い寝台の上に大の字にばったりと倒れこんでいる彼がいた。自分が初めて遠慮せずにものを投げつけた――正確には、この世界では異形、人間とは敵対する存在の――魔族である。

 寝ているのだろうか、と、ゆっくりと寝台に近付き、それから彼の顔を覗き込んだ。

「・・・・どうしたんです?」

 それに、彼はゆっくりと反応した。目をゆっくりと開け、いくらか定まっていない、ぼんやりとした光を宿す目つきだった。やはり酔っているらしく、いつもの彼と違い、やけに無駄な時間が感じられる。

「・・・・・・・あ?」

 酒臭い。

 漏れる息の悪臭に、思わず顔をしかめた彼女だったが、彼は何も気にしていないように、また近くの酒瓶を手に取る。

「・・・・・・・・なんだ、もう来たのか」

「何言ってるんですかっ!!ここはわたしの部屋なんですよ!?」

 彼女の剣幕を気にもせず、彼はふん、と笑う。それでも、いつもの皮肉めいた笑みよりも力がなく、同時にどこかうすら寂しそうだった。

「そうか・・・・・なら、俺の部屋で呑み直すか」

 そして、重そうに上体を起こす。手にはしっかりと酒瓶を持って、だ。

 それに、少し彼女は慌てて彼の外套を掴んだ。

「ま、まってくださいっ!!」

 すると、そのまま彼女の持つ力の方向にぱったりと倒れこんだ。今までの彼からは考えられないことだ。その上、倒れたまま体を動かそうとしない。

 相当酔っているのかと青くなりかけたが、もともと人間にとって顔色の悪く見える魔族である。頬もいつもより血色がよく見えているわけではないし、どれほど酔っているのか分かりにくかった。

 それに、珍しくも彼がこんなことになってしまっているとしたら、珍しく――それはもう、かなり珍しく――精神的に参っているかもしれない。お節介かもしれない。

 なんと言って彼を引きとめようかと迷っている彼女に、やはりそのままの体勢で動こうとしない彼が、鼻で笑った。

「・・・・・命日なんでな」

 ふいに、彼女が頭を上げる。

 彼が気にかける存在は、今のところ一人だけ――しかも、その人物が死人ならば、尚更特定できる。彼にとって、ほんの短い間に一緒に暮らした、唯一の人間。彼にとって、人間も魔族も神も、憎悪の対象になったきっかけを与えた存在。

 まだ会ったことのない、彼の心の中にしか感じることの出来ない、白雪の瞳をした女性だった。彼女にとって、決して手の届かない羨望の人物である。

 ゆっくりと彼の外套を掴んでいた指をほどき、困惑しながら、そっと、彼を見た。

「・・・・・そう、でしたか」

「まあ、本当のところはいつだか知らんが・・・・・」

 きょとんとした彼女は、一瞬、騙されたのかと思った。怒りで頬を赤く染めて叫ぼうとすると、その前に彼がゆっくりと起き上がってきた。

「空気が同じだ。・・・・やけにぬるい冬の・・・・」

 その言葉に、本当なんだと口をつぐむ。しかし、彼はそんな彼女の変化など気にもせずに呑む。酒の味も味わっていないのはどう見ても分かることだった。酒瓶ごと仰ぐと、彼はまた一息ついた。

「・・・・・・無性に腹が立った・・・・・・雪まで降ってやがる・・・・・」

 確かに、今朝は冬の真っ只中であるというのに、雪が少し融けているほど暖かかった。しかし、そんな日は雪の国の民たちにとって喜ばしいことではない。そんな日の夜や次の日から、また厳しい寒さに――それどころか、更なる寒さが襲ってくるのだ。

 そしてその読みは当たり、夜の闇には音も立てない雪たちが休むこともなく降り続けている。

 それをちらと見た彼は憎々しげに呟くが、それに彼女の胸が締め付けられないわけがない。

 震えるようにため息をつくと、彼女はゆっくりと彼の隣に座った。酒の臭いは、まだ強く鼻につくが、それさえも彼女にとって、彼の悲しい足掻きの名残に感じられる。

「・・・・・・・・ジャドウ・・・・・・・・」

 銀の睫毛がか細く震える。

 唯一家族として愛した人を亡くした思いなど、彼女には分かりはしない。それも、自分の責任で、迫害されて、自分だけ生き残ったなんて思いはしたくない。

 しかし、彼はしてしまったし、それは取り戻しのつかないことだし、何より一生、彼の心の傷となって存在するだろう。

 母のぬくもりも、今身をゆだねているものよりも遥かに硬い寝台の感触も、優しい風の匂いも、食べたものの味も、笑顔も、秘密の場所にひっそりと咲く花も。楽しかったこと、感動したこと、辛かったことのすべては、彼の心の錘となって、そこにある。

 手を伸ばさなくても触れることができるほど近くにいるのに、彼の心の方は、自分がどれだけ頑張っても、きっと届かない。

 身体は何度も繋がったことがあるのに、心の方は、一度も無い。

 歯痒かった、そんな自分が。

「・・・・・いただけますか?」

「これをか?」

 彼はまた、口元だけで薄く笑う。たぷんと揺れる薄茶色の酒瓶を彼女の前で振ってみせると、そのまま彼はぐいと中のものを呑む。それからまた一息。

「やめておけ・・・・おまえが飲めるような酒ではない」

「でも・・・・・」

「・・・・・いい。勝手に飲め。どうなっても知らんがな」

 おずおずと、彼が持っている酒瓶を取り、自分も一気に仰いでみた。それからむせた。

 酒は、彼女が今まで経験した中で、最も粗悪で強烈な味わいだった。恐らく、酒蔵で大量にある酒を勝手に持ってきたのだろう。酔えるものなら何でもいいと思ったのかもしれない。

 彼女がいつも寝酒として飲む、上等の冷えた果実酒の類いではない。城下の男たちが、辛いことを忘れ、酔うために呑むような酒だった。

 火の塊のような強烈なその酒が、彼女に飲めないのは当然である。

 それでも彼女はもう一度飲んだ。自分のこの気持ちを、薄っぺらい同情なんかにしたくなかったから。

 ごくり、と音を立てて、やっと一口だけ飲みきれた彼女から瓶を受け取り、また彼はもう一二口呑む。こんな酒を何本も呑み続ければ、いくら酒に強い彼であっても酔うだろう。

 現に、彼の態度や呂律の回っていない様子が、それを証明していた。

「・・・・・・・どういうつもりだ?」

 またも後ろへ倒れながら、彼はぽつりと呟いた。

 あまりに強烈な酒を呑んだせいか、気分が悪くなってきた彼女だが、無視して彼を振り返る。

「なにがですか?」

「俺はおまえに付き合えなどと言っていない」

「そうですね」

「ならなんで付き合おうとする」

 それに、彼女はちょっと怒ったように顔をしかめた。

「わたしの勝手ですよ。あなたがわたしの部屋でお酒飲んでるのと同じ」

 それに、彼は皮肉に笑うでもなく、ただ、少しだるそうに目を伏せた。

「・・・・・のものだからな」

「なんです?」

「おまえは俺のものだからな・・・・・俺の決定権がある。だから放っておけ」

 話の繋がりが見えるようで見えないものの言い方である。どうやら、頭の方にも酔いが回ってきたらしい。

 しかし、彼女はゆっくりと首を振った。

「・・・・やですよ。わたしはあなたのものなんかじゃありません」

「何だと・・・・・?」

「わたしはあなたのことが好きだから・・・・・ちょっとは、あなたに優しくしてあげたいって・・・・・そう思ってるだけです」

「いらん節介だな」

 彼らしい言葉である。

 しかし、彼女はなんとなく分かっていた。まだ、確信も自信もないけれど。

「・・・・嘘」

 ひっそりと呟く。

 しかし、その言葉をまるで無視するように、彼は押し黙り、身じろいだ。もう、ここでこの状態のまま、寝るつもりらしい。

 しかし、彼女も彼のその態度を気にすることなく、彼の眉間に軽く唇で触れた。

「・・・・・・あなたはただ知ってるだけ。ずっと望んでいたものを手に入れて、安心して、もうこれは永遠に続くんだと思ったら、すぐにそれが離れていっちゃうのを。…それは人だったり、ものだったり、見えないものだったりするけど・・・・・欲しかったものは、すぐになくなるんだもの・・・・・」

 彼女の中にも、そういう経験はあった。それは家族の絆であったり、友だちであったり、信頼してくれる誰かだった。しかし、みんな、手に入らなかった。否、手に入ったと思った瞬間、なくなっていた。

 家を新築する時に、設計に関して、いつもは仕事で忙しい両親が向かい合って話をしている姿に、これからの期待を持てて嬉しくなった。やっと、家族で楽しめる時が来たんだと思った。

 小学生の時、面と向かって「一緒に友だちになりませんか」と話し掛けた子がいる。その子はすんなりと了承してくれて、これから一緒にこの子と遊べるんだと思うと、わくわくした。

 高校に入って、中学の自分を知っている人はいなくなり、また一から人間関係をやり直せると思っていた。これから、対等に話し合える人がいる。そう思った。

 すべては、儚いことだった。

 けれど、彼が経験した裏切りに比べて、自分のものはなんと小さなことなのか。

 自分にとって大きなことだから、むしろ情けをかけてほしいとは思わない。自分より不幸な人は、どこにだっているのだ。そして、それでも尚、自分より強い人は、それこそどこにでもいる。

 現に、今彼女が唇で撫でている彼も、その一人だった。

 唇と唇を重ね合わせると、彼のだらりとした手が力を取り戻し、彼女の肩をしっかりと抱いた。

 彼の舌から逃れると、彼女はそのまま呟き続ける。

「だからあなたはそんなこと言って、わたしをモノとして思うんでしょう?そうでもしないと、わたしを信用出来ないから・・・・・わたしはあなたじゃないもの。あなたをずっと愛せないと思って」

 また、彼は彼女の唇をむさぼる。しかし、彼女はその猛攻が一瞬でも止むと、囁き続けた。

「けどね、それはわたしにとって、とても失礼な話なの。だって、わたしはあなたが好きなのに、あなたはわたしを信頼してくれていないんだもの・・」

 口付けは止まない。彼女が囁き続ける以上、止むことはない。それは彼にも彼女にも分かっていることだった。しかし、彼女が囁きを止めないのも、お互いに分かっていることだった。

「・・・・・・今だけじゃあだめ?今だけ、何年後かは分からないけど、今だけは・・・・・絶対に、分かってるの・・・・・愛してるの、だめ?」

 ふと、彼は笑った。濃密な口付けのせいか、彼から臭う酒の臭いは、彼女の口にまで移っている。

「・・・・・駄目だな。おまえは俺のものにならねばならん・・・・・永遠に、俺だけのものにならねばならん」

 彼女はそっと吐息をついた。

 彼が望むのは自分。貸すのでもなく、許すのでもなく、ただ自分という存在を、彼自身の所有にすること。

 彼女の寝巻きが強引に剥がされ、白い体に男の手と唇が介入する。

 たちまち、酒で熱を持っていた身体が、また別の感情により熱く燃え上がる。

 彼に優しく、烈しく求められながら、彼女は静かに涙を流していた。

 どうしようもなく切なくなる。

 自分を人間として信頼できない彼に。

 彼のものになるしかない自分に。

 そんな彼を作り出してしまった、この不条理な美しい世界に。

 

RETURN

 

アトガキ

 すみませんこれ過去に書いたものです。一部の人は知ってます。多分。・・・・・多分。

 現在製作中の裏ページも過去書いた話載せそうだなあ…。手抜きじゃないけど手抜きに感じたらごめんなさい。ショボン。