ゆるく覚醒が促され、同時に誰かが玉座に近付いているらしいことが分かった。 静かに瞼を開き、近付いてくる影を見る。それがバンパイヤの王と知ると、彼はゆっくりと顔を上げた。 「陛下」 逞しい体躯に、不自然なまでに青白い肌の人物が軽く跪きながら彼に声をかける。それに対する返事など、その男性に当てた視線だけで十分それに為り得た。 「ご報告に参りました。ムロマチ軍はジグロードを制圧、また同盟を結んだエルフ軍の働きにより、オーグルを経由して大陸南西部に対しても侵略を開始致しました」 彼は何も言わない。いつものことだと分かっているため、背の高い男性は特に何も考えずに再び報告書に目を落とす。 「それにより南西部にはルドーラを、東部へはガイザーを配置致しました。各自三万の兵を持たせましたが、宜しいでしょうか」 「構わん」 呟くと、彼はゆっくりと立ち上がる。しかし、不動を意味する返事とは逆に行動を起こされた男性は訝しげに彼を見た。何か問題でもあったろうかと口を出そうとした瞬間、彼は淡く手の甲に刻み込まれた文様を輝かせ外套を翻す。 「暫く出る」 「は」 男性が頷いた瞬間には、玉座には彼の影すらも残っていなかった。そして取り残された男性は、彼の転移魔法を魔方陣も描かず発動させるその技量よりも、猫のような気まぐれを起こすその精神にため息を吐く。 ――行き先は言わずとも知れている。そこが彼にとっての唯一の安息地であることも知っている。だが、それが長く続くわけではない。 少しずつ衰退していく、否、人間たちの勢いに飲まれていく自軍の現状に軽く眉をしかめるも、何も考えないように自らに言い聞かせる。同胞にとって辛い未来を見たくない。そしてそれ以上に、それではいけないと思いつつも、必死に自分たちが築き上げてきたものが新しいものに呆気なく破壊されることに、どうしようもない寂しさを覚える。 感じる不安は苦渋ではなく、哀愁に近いものを含み、目にも留まらぬ早さで近付いてくる。それは大きな一つのこと、魔王軍崩壊と縫いつけた旗を持ちながら。――長きに渡り続いた魔族の栄華が、この戦いで滅びてしまうのだと知らせながら。 離宮へと向かう途中、自分の足音の中に枯れ葉独特の乾いた音が聞こえてきて、ようやく寒期が近づいてきたのだと彼は気付く。 ネウガードの暑月は短い。そのため、彼女と再び合間見えたのも、今日と同じような寒期だった。しかし暦は正反対で、寒さが日に日に厳しくなっていく現在とは逆に、日々を追うごとに暖かくなっていく雪解けの季節だった。 陽に晒された名残り雪と同じ肌の、まだ若い容姿ながらに甘えなど見せもしない女性の言葉を思い出す。 ――あなたが否と言うなら、ただそれだけです。わたしはわたしだけで、この子を産みます。 そこに厳かなものが存在するというかのように、彼女は軽く胎の上に自らの手を置きながらそう告げた。互いに再び合間見えるときは死ぬときだろうと覚悟していた逢瀬とその別れから、ほんの数ヶ月ほど後のことだった。 子など興味がなかった。しかし、自分の側に彼女を置けることは魅力的だった。その上、考えてみればその子どもとやらは魔王と異界の魂の血を引いているわけである。手元で育てれば妹や姉以上の戦力となることは確実。育つまでに時間は長くかかるが、それでも悪い駒ではあるまい。上手く行けば十分な見返りをもたらす。 故にその白い手を再び取った。子が胎にいる以上、抱くことを控えねばならない点は面倒だと思ったし、日に日に膨らんでいく彼女の胎には確かに違和感を覚えた。が、そんなことは、彼女と長く共にいられることを既に見放した彼にとっては贅沢な苦痛だった。 会いたいときに彼女がいて、彼女もまた彼を受け入れる。子を生してしまったからこそ共にいられる、他者から見れば事故とその責任を負うための義務は、彼らにとって砂漠の雨に等しい。 しかし、幸か不幸か順調にそれは生まれ出てしまった。両親の魔力の負担を気にもせず、十月十日の日を持って、肉の塊から一つの意思を持つ生命へと変貌を遂げた小さな生き物は、まるでこの世の終わりのような泣き声を上げて外界の空気を吸ったのだ。 子が生まれた喜びなど、当然のようになかった。ただ、青い瞳を潤ませ、紅潮した頬に弱々しい体を見せた彼女が、自分と会っても久しく見せなかった幸せそうな顔をしたことに、少し驚いた。 子どもの名前をどうするのかと義務的に尋ねると、彼女は何の苦労も重圧も知らない頃のような笑顔で、あなたの目の色と同じと答えた。血の色かと薄く笑う自分に、彼女はほんの少し考えたように眉をしかめ、なら混ぜましょうと呟いた。何を混ぜる、と再び彼が問うと、彼女は小首を傾げて目を瞑る。 「・・・・・薔薇?」 そう、と彼女は頷いた。わたしの髪の色と、あなたの目の色を混ぜれば、薔薇色になるでしょう、と。 華やか過ぎるその名に彼は軽く眉を寄せたが、好きにすればいいと答えた。その言葉を彼女が聞くと同時に、自国の民を相手にすら見せない明るい笑みは掻き消えた。 その後に出た彼女の言葉を思い出すと、彼の身体が怒りを宿し熱くなる。それは怒りではないかもしれない。だが悲しみたくなくて誰かに憎悪と怒りを抱き続けた彼にとって、それは実に自然な怒り。 時は迫った。子を生すために自分の下にいた彼女の目的は達成された。これ以上、魔王城に留まる理由などない。 それはあの三年間と同じ。あのときとてそうだった。ただ立場が逆となっただけのこと。五魔将の一部を冥界から呼び戻し、新生魔王軍を壊滅させた彼の目的は達成された。だからこそ、彼がルネージュに留まる理由などなかった。 そして、あのときと殆ど同じように、彼女は彼が差し出した手を振り払う。だから一緒にいてはいけないのだと、憤りしか湧いてこないような、痛々しくも優しげな涙を見せて。 いくら彼が彼女に対し変則を許しても、彼女は彼の変則を許容しない。人間の撲滅に対し人魔の共存を。愛など存在せぬと告げても、彼女は自らを見るよう促す。いつだってそうだ。自分の主張と正反対の存在が、わたしがいるからと傲慢に応えてくる。それを羽虫の如く潰せるのならば、どれだけ楽なことだろう。 古めかしい蔦が絡んだ石畳の外壁の中に骸骨の兵が守る扉を見つけると、軽く押してそれを開く。夏期には眩しいほど鮮やかに咲き誇っていた花々は、今は大人しく淀んだ色を見せていた。 小ぢんまりとした屋敷の玄関には、硬い表情の老女がいた。しっかりと髪を結い、服にも皺一つなく、若い娘たちのような瑞々しさや朗らかさはないが、魔王城の厳格さと老巧さを感じさせる。 彼が近付いて来ると深々と礼をし、ゆっくりと扉を開く。そしてそのまま彼が屋敷へ足を踏み入れると、扉を閉めた老女はやはり無言で先導する。彼がこの離宮に訪れる目的など一つしかないため、要件を聞くことなど不要であった。それならば取り次ぎも不要ではないのかというと、こちらは格式を重んずる老女が譲らない。そしてそれに対し、彼も彼女も特に影響があるとは思わなかった。 彼が寝室に到着したときには、既に彼女は白い細身のドレスの姿に着替えていた。 老女が扉を閉めると同時に、その姿を見止めた彼は別れのときが刻一刻と迫っていることを乱暴に思い知らされる。 「手伝ってやってもよかったが」 一人掛けのソファにかけられた黒いサテンと絹の部屋着の感触を、彼は指で確かめる。当然のように、その部屋着はこちらで彼女のためにと用意させた。白は確かに彼女によく似合うが、それだけでは面白みがない。女王として過ごすときとは逆に、華やかな刺繍がふんだんに使われた、漆黒の装束を着せてみたくなった。それを脱ぐということは、即ちもうここにいるつもりはないということ。 「それには及びません。あちらではいつも、一人でやっていましたから」 「だろうな」 手伝うとしても、彼女に付いた侍女ぐらいで、彼女の肌を見る男性などルネージュ国内では一人も存在しない。また、彼も彼女もその存在を許すつもりもなかった。 白く美しく、簡素な服装をした彼女に、彼は懐かしさと共に、迫るときの早さにため息を吐く。 「足は用意している。気になるならば俺が直接送る」 それは空間転移であるのか、それとも飛行であるのか。それについての決定権は彼が持っていたが、彼女は躊躇もせず頷いた。 「お願いします」 その決断の早さに、彼は思わず笑った。 「そのまま放さん可能性があるが?」 「それでも、いつかはあなたも放さなくてはいけないから」 「確かに」 大真面目に返されても、彼は不快にならなかった。それと同時に思い知らされる。決定権は自分にあっても、結局彼女が動くことが主体なのだと。彼女にとって自分は単なる羅針盤の針に過ぎず、彼女の意思そのものになることは決してないのだと。 もう既に、自分は彼女を容認しているというのに。彼女のために自分の中での異常を見過ごせるのに。最も忌まわしく思いながらも、その存在なくしては自分を構築する要素がなくなってしまうというのに。彼女は逆に自身の思想の中に自分を取り組んでいく。それは彼女の考えに相反するのではなく、異常でもなく、忌まわしくもない。 それが悔しい。しかし、そのために彼は彼女に救われた。否、彼女にとっては救いなのかもしれないが、彼にとっては泥沼に突き落とされたも同然の行為。それさえなければ、もっと身軽に、簡単に動けたはずなのに。もっと早く、人間を完全に見捨てることができるのに。 不意に赤ん坊の泣き声がして、俯いていた二人が同時に顔を上げる。しかし男性のほうは何事かと泣き声のする方向を見るのとは違い、女性は思い当たるものを口にした。 「ロゼ…!」 不安げなその響きに、彼は小さな嫉妬を覚える。一言で彼女の感情を乱すという特権を、彼だけではなくあの小さな猿顔も持っているということに。 不快な声が次第に大きくなっていく。それから寝室の扉がノックされると、少し慌てた様子で老女が赤ん坊を抱いて入ってきた。何も隔てるものがなくなって聞こえる泣き声に、思わず彼は眉をしかめた。 「失礼致します、陛下。…姫様が、お腹を空かせていらっしゃるようで…」 「分かったわ。こちらに…」 まだ泣き喚く赤ん坊を受け取ると、彼女は素早く胸の留め金を外す。そして露わとなった白い柔肌に、まだ身じろぎも精一杯というはずの赤ん坊が吸い付いた。 その勢いの良さに彼女は微笑を浮かべるが、その目はひどく悲しげだった。それも当然で、これが最後の実母の授乳となるのだ。再会の機会など、彼らの逢瀬よりも絶望的な可能性でしかない。 「乳母は用意している」 「・・・・わかりました」 丸い線を持つ乳房を、丸い頭が覆っている。それを漠然と見ながら、彼は寝台に座り込む。彼女も立ったままでは不自然と思ったのか、近くの椅子に座り込んで赤ん坊に乳を与える。それに実際、座った方が赤ん坊の体を安定して抱きかかえることが出来た。 屋敷にいる全員が集まっても、その中の誰一人として言葉を発することはない。ただ赤ん坊だけが無邪気に、または必死になって唯一の食料を貪る。 赤ん坊は満足したのか、口を離して首を振る。それを女性二人が見届けると、老いた女性は赤ん坊を受け取り、若い女性は服を直す。無駄のない連携作業に、二人の絆に似たようなものを唯一の男性は感じ取ったが、何も言わないでいた。出るとしても幼稚な嫉妬の言葉だろうし、女同士の連帯感など分かるはずもない。 弱々しいおくびの音を聞くと、彼女は立ち上がって老女の腕の中の赤ん坊を撫でる。指で触れては壊れてしまうとでも思っているのか、爪でそのふっくらとした頬をなぞると、赤ん坊はくすぐったそうに体を揺すった。 その反応を見届けると、彼女は微笑み、その額に口付ける。 「元気でね、ロゼ」 母子の今生の別れは、そんなありふれた言葉だった。そして子はその言葉の意味が分かっていないらしく、兎のような赤い眼を母に向け、それから笑っているのか眠いのか分からないように目を閉じた。 「・・・・では、失礼致します」 老女は表情を押し隠そうとするかのように早口で礼をし、退室する。彼女に対し同情でもしているのだろう。彼にとってはつまらない感情だった。 彼女は感情を切り替えるためか、大きく深呼吸をしてから彼を見る。その目には既に同情も悲しみもない。ただ、虚ろに近い明るさがあった。 「あの子のこと、お願いしますね」 「分かっている」 それは産む前から決めたことだった。ルネージュの彼女の腹心の部下に暇を出させ、育児に専念させることは難しい。それは偏に彼女が聖女のような絶対的な存在として国民に信頼されているからである。絶対であるが故に形式上は独身でなければならないし、だからこそ子どもを公表するどころか、国内に住まわせ、その所在を知る者を作るなど以てのほかだった。知る者が出れば噂は広がり、本当に女王の子なのかと騒ぎ立てられ、穏やかに育てられることはまずない。それどころか、魔族の血が入っていることで場合によれば物心付くまでに生きているかどうかも予想が付かない。 それよりも、確かに立場上は危険であっても、ネウガードで保護するほうが生き延びる可能性は高くなる。魔王城はその規模だけではなく、他のあらゆる面においても他国の王宮とは桁が違う。当然、ごく一部の者にしか知られていない隠し通路も他とは比にもならない。魔王軍敗北後、対人間となれば無事に逃げおおせることが可能となるし、もし赤ん坊の正体を知ればすぐに殺すようなことはしないはずだ。魔族の首に鎖を着けるつもりならば尚更、魔王の娘は人間にとって貴重な捕虜となる。それを殺してしまうなど愚の骨頂。それが噂としてでも洩れてしまえば、魔族の人間への反感はますます強くなっていくからである。 当然、彼女は知っていた。魔王軍の未来が壊滅という終わりを迎えることも、彼が魔族支配の崩壊の象徴であるかのように死んでしまうことも。それを運命なのだと受け止めることが出来るほど、彼女の心は超然としてはいなかった。だからこそ、名目は子を産むためとして彼と連絡を取った。実際、彼が手配したこの離宮と人材は、彼女に全くの負担を感じさせないものだったため、結局はネウガードで産むという判断は間違いではなかった。 「スノー」 「…はい?」 不自然に揺れる青い瞳に、彼の赤い瞳が映り込む。しかし彼女の目は彼の色までは明確に映さず、ただの黒い双眸を彼に見せていた。 そしてそれを見受けながら、彼はあくまで緩く彼女の顎を掴み、そして唇が重なり合う。 不意を突かれながらも彼女に抵抗はなく、自然に彼の舌を受け入れる。だが、それはただ彼を愛しているからではなく、最後のわがままを聞くだけのためとも感じられた。故にそこに甘さはなく、むしろ不感症者との触れ合いに近い虚空感。 脆い糸を引きながら唇を離すと、彼女はやはり悲しげに微笑む。 「いつもみたいに、このまま抱かないの?」 「今のお前に意味はあるまい」 「・・・・そうかも」 それどころか、それは今の彼とて意味を持たない。ただの恋人たちの、未来を恐れての刹那的なじゃれ合いですらなくなってしまった交合に、何の意味があるだろうか。 自らの魔力を一転に集中させ、彼は思考を切り替える。空間転移の法を使う相手は、神を超える魔力の持ち主。彼さえその限度を知らぬ膨大な魔力を持つ相手を転移させるなど、なかなかにない経験だった。だからこそ、片手間に構築できる代物ではない。 彼女の細い肩を抱き寄せ、魔力と集中を手から伝わる温もりの持ち主へと向かわせる。転移を彼女に教えたことはあったが、あまり得意ではないらしい。だからこそ、土台は彼が用意してやらねばならない。彼が外套で包んだ彼女の足元が、少しずつ淡い紫の光を帯びていく。 大人しく抱かれたままの彼女が、不意に顔を彼のほうへと向ける。その視線を受けながらも、応えることができない状態であった彼ではあるが、辛うじて口を開く。 「・・・・何だ」 「いつかまた・・・・」 ――死ぬときに会いましょう、と。 脆く崩れる硝子のように微笑みながら、彼女は愛しい男の胸の中で囁いた。 彼女の細やかな表情は彼の目には入っていなかったが、その響きの中に込められた、そのいつかがそう遠くはないことに、彼は薄く笑う。それはつまり、自分の死期となる場なのかと。 「抜かせ」 彼女の足元の光が強さを増していく中、再び鼻で笑う。死など恐れるつもりもないし、死に近しい状態ならば既に経験した。数え切れないほど人間も魔族も殺した身の上で、何を今更感傷的になる必要があるのかと。 ただ、恐れることがあるのなら、それはただ一つきり。 「貴様とは二度と会わん」 彼女の視線が強くなり、その中に秘められていたはずの悲しみが他の感情に押し潰される。それは彼の強固な姿勢に対する苛立ちか、憤りか。 決して狭くはないはずの寝室に、光が増していく。その光を受けて透明度の高くなった青い目と視線を合わせてやりながら、彼は皮肉めいた笑みを彼女に向ける。 「見くびるな。貴様は後悔し続けろ。唯一の人間となっても俺の前に姿を現すな」 その言葉に込められたものに、彼女は目じりに輝くものを浮かべながら、けれど口元には笑みを湛えて首を振る。 「・・・・・・・・いやです」 「強情な女だ」 吐き捨てた彼の言葉に、彼女は浅く頷き、それから彼の頬に手を伸ばす。 その指が触れるか否かのところで、発光は更に眩さを増す。二人の間にあった影すら掻き消え、その感触が確かか幻かも分からない状態のまま、彼女の姿は光の中に消えていった。 暴力的な発光が収まり、一人になった彼は、小さくため息を吐いて寝台に腰を下ろす。 我ながららしくもないことだと鼻で笑い、最後に彼女が触れた頬に手を置く。 冷たいものなど流れはしない。たかが女と別れただけで、子どものような真似はすまい。そう自らに言い聞かせ、だがそこから立ち上がろうとしない自分に、彼は声を出して笑う。 だから愛など信じられないのだ――そう、何にともなく結論付けて。 |
アトガキ
誰でしょう、このヘタレ。ヘタレヘタレと罵ってたら本当にヘタレ化しちゃいました。ということで強気ジャドウさん好きな方々ごめんなさい。
そんなわけでクロニクル終了記念。とは言う割りに、認められない部分は色々変えてますガイザーとか。