Specific

 
 真っ先に気付いたのは彼だった。

 一騎当千の活躍を見せ、一人で何百の群集を全滅させた経験も珍しくない彼にとって、第六感と敵意の察知はその場にいる誰も敵うものではない。かと言って、周囲の誰もが油断していたつもりもない。

 今の敵は得体の知れない武具を駆使し、奇天烈な鋼鉄の甲冑に包まれた兵士だ。三合戦っても甲冑の奥には本当に人間がいるのかどうかさえ怪しい、声も出さねば肌も見せぬ、不気味な「ドウム兵」と言う名の兵器に、幾多の戦いを乗り越えた騎士や骸骨兵たちもまた警戒心を露わにしていた。それは当然、陣営にも言えること。

 だがそれだけに隙があり、本調子とは言えなかったのだろう。ルネージュ公国本陣の天幕で、戦いの様子に目を細めていた女王に向けて、小雨のような雫が――

「っ……!?」

「ジャドウ……?」

 雨も降っていないのに突如として降り注いできた雫を振り払った彼の腕が、小さな煙を上げた。

 その異変と彼の反応に気付いた女王が、訝しがるとほぼ同時に、彼女目がけて降る小雨が、雨へと変貌を遂げる。

「……がッ!!」

 しかし不自然な雨が女王に触れるより先に、彼が彼女に覆い被さる。尋常ではない彼の反応に、彼女とその隣に付き添っていた小姓のような少年が頭上を見る。天井に、小山のような影と大きな穴。どう考えてもただの液体ではない。

「曲者!」

 少年が弓を引き絞り、天幕に空いた穴に向かって矢を放つ。それとほぼ同時に灰褐色の蛇のようなものが天へと延びて、すぐさま硝子が割れるような音がした。続いて悲鳴と重いものが落ちる音。

「敵襲! この裏に敵がいる!」

 高い声でそう叫ぶ少年に反応して、兵士たちが素早く裏に回っていく。またそのうちの何名かが、天幕の中に飛び込んできた。

「陛下、ご無事で!?」

「わたしは平気です。それよりも……!」

 彼女を庇うように抱いていたはずの魔族が、彼女が一歩引いた途端、倒れるように屈み込んだ。彼の背後から、か細い煙と鼻を刺すような刺激臭が漂う。

「……ぁ……ぐ、くっ……!」

 そして彼のその顔は痛みに大きく歪み脂汗さえ浮かべていて、いつもの余裕の欠片もない様子に、兵士たちは小さく動揺する。だが突っ立って見ている場合ではない。少年もそちらを気にしつつ、弓を携えながら呆然としている兵士たちに声をかけた。

「あなたたちは裏手の応援、君は陛下の保護を! 僕は救護班を呼んできます!」

「はっ!」

「はいっ!」

 我に返った兵士たちは、慌てるように各々動き出す。天幕の裏からは敵味方入り混じったような悲鳴と爆音が聞こえてきて、ここから離れる必要があることを示唆していた。女王を守り通さなければ、公国に忠誠を誓った意味はない。

 途端騒がしくなった本陣の天幕の中で、兵士の一人に促された女王は、しかし彼らに視線を寄越すしかできずにいるように、蹲る魔族の傍から離れようとしなかった。

 

 

 

 結果として、ドウムの奇襲兵は全滅した。怒りに狂った兵士たちの暴走ではない。敵兵は全員自爆することで自らの口を封じたのだ。お陰で公国側は更なる犠牲者を出し、野戦で上々の成績を上げたはずの武将たちは揃いも揃って不機嫌だった。

「奴ら、そこまでなりふり構っていられなくなったか。畜生にも劣る精神の持ち主だな」

 忌々しげにヒロが言うと、フラットがまあまあと手を上げて諌める。

「そんな手使うくらい切羽詰ってるってことと捉えようぜ。ついでに方法の汚さから考えると、同盟・服従はない宣言みたいなもんだし、手間は省けた」

「このような姑息な手を使う連中など、命乞いをする権利さえありますまい。同盟諸国への処罰検討は不要かと」

「同感だな」

 苦い顔で言い放つバグバットに、ヒロは剣呑に笑い、フラットは更に多くの冷や汗を浮かべる。

「あんたたちはもうちょっと冷静になってくれよ? この件に関してどう結論付けるのかは女王様が決めるんだし、前みたいに勝手なことされちゃ余計な仕事が増えるんだから!」

 その言葉を聞いたルークは、半年前にもエレジタットの戦後処理を同盟諸国に報告せず一部の将が執り行った過去を思い出した。君主が悪名高いこともあり、諸国も嫌味や苦笑や文句が籠もった手紙のみで今後の注意を促すだけだったが、また次も同じようなことをすればさすがに独断的過ぎると言われる。

「仕事が増えるのはいいことだろう。民も士官も働くのなら、それだけ金が回る」

「同感ですな」

 しかし二人は知ったことではないと言いたげにそう返す。何の役職も背負っていない、ただ野戦で暴れ回るだけの彼らにとってはそんなものなのだろう。

 となれば、内政官として彼らの独断の尻拭いを散々させられたフラットが出来る最高の手段は一つだけだ。

「……よく分かったよ。んじゃ、明日はあんたがたが女王様にそう進言しといてくれ。お説教喰らおうが俺、知ったこっちゃないし」

 ジョーカーの役割を担う最高責任者に問題児を丸投げし、ひらりと手を振って退出しようとするフラットに、ルークが声を掛ける。

「そういや、陛下はどこにいらっしゃるんですか?」

「え、知らないの?」

 呆れたような一声に、純朴な精神の持ち主の少年ルークはこくりと頷いた。

「僕、敵の自爆に巻き込まれた人たちの対処に忙しくて……」

「ああ……んなら、仕方ないかな」

 ぽりぽり頭を掻くと、フラットはほんの少し考えたように宙を見て、それからゆっくり呟いた。

「此度の英雄を治療中」

「……、ああ」

 間接的な表現に、少年は少し呆けていたようだが、それでもよく分かったらしく何度も頷いた。その頬がほんのり赤いのを見て、フラットは最近の子はませてるなあ、と思ったそうである。

 

 

 その此度の英雄の天幕の周囲は、恐ろしく静かだった。もともと陣営の中でも静かなところに設置されているのだが、今夜は月もない夜であるためか、夜闇に溶け込んで不気味なほどだ。

 更にエイクスは動物も少ないらしく、野営となればよく聞くはずの鳥の声や虫の羽音さえも微かで、人気以上に生き物の出す音さえもはっきり響くほどに静かだった。

 しかしその方が今は好都合なのかもしれないと、彼女は瓶の蓋を取りながら考えた。中身は半透明の軟膏で、鼻を近づけても刺激臭はしない。その方が、今の彼にはよかろうと彼女自らが選んだものだ。

「……っ」

「なるべくすぐ、終わらせますから……」

 包帯を自ら巻き取る男の白く、男性の中では細い背にそう声をかけるが、返事らしい返事はない。抉られたような傷跡は血こそ止まったもののいまだ生々しく赤黒い肉を見せ、男の微かな呼吸と共に小さく脈動している。その部分だけでも別の生き物として見れるような惨い状態に、知らず彼女は眉をしかめた。

 だが彼女は痛ましい傷口を眺めに来たのではない。そう思考を切り替えると、彼女は軟膏を塗った指を傷口にそっと当てる。なるべく刺激にならないように、負担にならないように。

「ぐぅっ……!」

 だが男の声と体が、彼の感じた痛みと衝撃を顕著に表す。彼女の細い指先が、気を使いながら傷口に触れても、彼は我慢することもできずに声を漏らした。

「……かっ……は……! ぅうう……!」

「ごめん、なさい……」

 治療しているはずの彼女が思わず謝ってしまうほどに、男が漏らす声は苦しげでのたうつような痛みを訴えていた。そうしないのは彼のプライドの高さ故か、それとも動けばそれだけ痛むと冷静に判断できたからなのか。どちらにせよ、ひたすら激しい痛みに耐える彼の手は、見るものにもその感覚を明確に伝えていた。

 今まで彼の傷を見てきた経験の中でも初めてのことに、彼女は普段以上に辛い心持ちで、軟膏越しに彼の傷に触れる。

「……くっ、づぅっ……! がっ、かッ……!」

 しかし配慮の気持ちが強い彼女の指ですら、今の彼には治療ではなく拷問の一つに近い痛みを与えてくる。

「……あと、……もう、少しだから……!」

 その痛覚でさえ自分の心に流れ込んできそうで、彼女はいつしか自らも耐えるように呼吸を止めながら、慎重に慎重に傷口に軟膏を塗る。

 そして赤黒い傷が全体的に人工的な輝きを纏う頃、ようやくその苦痛は終わりを見せた。

「……深い部分は、もうこれで終わりましたから……」

「…………」

 ほっとした表情でそう告げた彼女に、彼は肩で息をするだけで何も言おうとしない。ただ小さく頷いたように見えたのは、彼女の気のせいかもしれないが。

 襟足に輝く脂汗をしっかりと拭き取ってやると、彼は再び大きく息を吐き出した。今度はしっかりとした、しかし僅かに掠れた声が聞こえてくる。

「……忌々しい。奴らのアレは、回復さえ遅らせるのか」

 これからまだ傷の浅い、皮膚がめくれただけの部分に軟膏を塗ろうとしていた彼女は、その手を止めて眉を顰める。

「魔力の干渉を受けない、『酸』を使っているのでしょう……」

 当然のように、そのカガクの力は回復魔法でさえその効果を完全に発揮させなかった。だからこそ、彼女でさえこのような原始的な治療方法に頼ったのだが。

「危険なものか」

「劇薬です。金属を容易に溶かす液体です」

「…………はん」

 呆れたような声が漏れて、彼女は目を瞬いた。その顔を覗き込むのは、包帯を巻き終えてからだと決めていたのでできなかった。

「……そんなものを、お前の頭上に垂れ流そうとしたのか、連中は」

 彼の静かな怒りに満ちた声を聞いて、彼女は肩を強ばらせる。確かにドウム兵たちはそれが目的だったのだろう。彼が気配に過敏であったため阻止されたものの、その彼が負った傷は酷く深い。

 急襲を受けた直後、脱ぎ捨てられた彼の甲冑の背面が無惨に変形していたことを思い出すと、彼女は我が身がそうなった場合を省みる。ーー頑丈な鎧も身に付けず、薄着に等しい彼女が酸の雨を受ければ、恐らく彼以上におぞましい傷が出来たことだろう。その容姿が人気の一部分を担っている彼女にとっては致命的であり、最悪の場合、生きていなかったかもしれない。

 細く長い吐息をつくと、彼女は彼に深々と頭を下げる。相手はいまだ、彼女に背を向けたままだが。

「……ありがとうございます。あなに命を助けられたのは、もう、何度目になるか分からないけれど」

「礼を求めているのではない。スノー、エイクスに対して同盟・従属交渉の手配を取り下げろ」

 淡々とした口調ながら怒りを感じさせる彼の口調に、彼女は一瞬きょとんとする。

「あの男に俺以上の苦痛と、お前を狙ったことへの後悔と絶望を与えねば気が、収まら……っ!」

 痛みに声が途切れたものの、彼はこの卑劣なやり方への怒りを治めるつもりはないらしい。一応は彼女の部下として長年生きてきた彼にとって、いみじくも彼と険悪な妹や石頭の騎士と同じく、この出来事は戦略として割り切れないほどに許し難いのだろう。

 だが狙われた彼女は存外冷静に、首を横に振って彼の怒気を諫めようとする。

「……こんな、外観を重要視した攻撃方法を思いつくのは、少なくとも信念を持つ男性ではないでしょう。同盟・従属で国が生き延びる方法を取る気がない過激派の……もしくはガイザンに不満がある派閥に属する女性の作戦だと、わたしは思います」

 その予想に彼は鼻で笑おうとするが、それも痛みでままならず、眉を大きく顰めるだけに終わる。

「……女の見目の重要性は、女の方がよく分かっているか」

「そして、それを台無しにする方法も……ですね。どちらにせよ、自爆した兵士たちの所属や身分を示すものが遺体に残っているか、それから潜伏地や彼らが使ったルートを調べる手配は済ませました。それが詳細になるまではいつも通り、交渉の準備は継続します」

「……そうか」

 彼女の事後処理に納得したらしい。彼は小さく頷くと、そのまま黙り込む。

 彼女はその沈黙を、軟膏を塗っても構わないのだと受け止めると、今度は指二本に軟膏をたっぷり掬って、見慣れた色合いの傷口に静かに這わせていく。

「…………っ」

 彼もそちらの痛みはまだ声を出すほど感じないらしく、その体が強ばるのも、痛みを想像させるように震えるのも、先ほどに比べればほんの僅かな間だけだった。

 同時に彼女の指先は、先ほどよりも伸びやかに速やかに動いていく。だがそれに配慮を感じないわけではなく、傷が深い場所に近付くと慎重に動き、そこになるべく触れないように気を使っているのが分かる。

 彼は痛みよりも彼女の気遣いを感じながら、その治療を黙って受け入れる。

 指先の圧力は不快ではなく、むしろ心地よいと言ってもいい。そして自分の背中を、癒すために這い回る二本の白く華奢な指の動きを想像すると、彼の心の奥底からほの温かいものが湧き上がる。その温かさは彼にとって馴染みのある感覚だが、よもや痛みに悶えていた今日中にそうなるとは思っていなかった。

 傷が深くなければ、恐らく彼はいたずら心を引き起こしてたのだろうが、今はそう言う訳にもいかない。いつ痛みを感じない程度に治るかは分からないが、あの傷を治す方が先だ。

 ふと感じただけに過ぎない感覚を、馬鹿正直に示す下半身がむず痒い。だが彼は嘆息して、己の欲望を無視しようとする。しかし、ここにいるのは彼だけではないのだ。

「……あの」

 彼女の声が彼の肩に掛かると同時に、彼女の指先が止まる。背後に視線だけを寄越すものの、俯いた彼女の顔は彼からは見えなかった。

「だい、じょうぶですか……? 痛んだり、しません?」

「……ああ」

 気遣いの声が恥ずかしそうに聞こえたのは、彼の間違いではない。

 事実、彼女はほんの少し、彼の背中に指を這わせることに快さを感じていた。ほんの少しと思うのは、相手は深い傷を負っているのに、普段滅多に見せないほどの苦痛に苛まれていたのに、自分がそんな気持ちではいけないと言う自制心が働いたからだが。

 けれど意外なことに彼らにとって、今までこんな経験はなかったのだ。彼女が彼の背後に手を回し、爪を立てることは何度もあったが、しかし今度のように傷を癒すために彼女が彼の背に指を這わせるのは初めてのことだった。

「そうですか。……よかった」

「…………ああ」

 二人とも、互いの触れ、触れられる箇所に意識を集中させているからか。自らの感情を誤魔化すための会話は、当然ぎこちない。

 彼女の瑞々しい指先が、彼の冷たくなめらかな背に触れる。攻撃的でも情熱的でもなく、むしろ慎重に緩慢な動きで、彼の無防備な箇所を自由に這う。

 触れられる側は、背中から温かさと心地よい圧力と何より彼女の心遣いを感じ取って、頭の奥底が軽く熱を帯びる。触れる側は、指先から伝わってくる逞しさと冷たさと相手が自分が触れることを許してくれていることに胸が軽く締め付けられていた。

 けれどそれは逆も言える。背中で彼女の指に触れ、彼の背中を指先に触れさせられる一組の男女は、たったそれだけで何故か普段の交わりと、さして変わりない感覚に危うく陥りかける。

「……はい、もう終わりました。包帯、巻きますね」

 しかしこれは治療のための触れ合いなのだから。彼女は恍惚を受け入れかけた自分を叱咤し、包帯を巻こうと傍らに置いた箱の中身を探る。

 中身に積めた道具は少ないためすぐに目当てのものは見つかって、先ほどまで引きずっていた体の熱を無視しようと彼女は彼に微笑みかける。

「これが終わったら、すぐに寝てください」

「……分かった」

 珍しく殊勝に頷く彼の違和感に、気づこうともせず彼女は包帯を適量取って、まずは彼の腹に巻き付けようと彼に包帯の端を手渡す。もし彼女のどこかが傷の深い箇所に触れてしまえば、幾分かましになったはずの彼の痛みがまたぶり返すだろうから。

 彼もその気遣いを把握しているから、黙って受け取り、自分の腹に何度か包帯を巻き付ける。そして微かに肩と背中が動く度に、彼は小さなうめき声を上げる。だが手を止めようともしない彼を、彼女は不安そうに見守るしかできなかった。

「…………」

「はい、預かります」

 大きく息を吐いた彼の手から包帯を受け取ると、彼女はガーゼを取り出し、傷口を覆い隠すように軽く貼り付けてから包帯を巻く。今度は脇腹から肩に向かって、又は肩から脇腹に向かって、機を織るように何度も何度も同じ動作を繰り返す。

 軽くではあるものの、包帯による締め付けはそれだけでも痛みを覚えるらしい。微かな声が聞こえてきて、彼女は眉を顰めたものの手を休めなかった。今の彼にとって一番ありがたいのは、この外部からの刺激による痛みが一刻も早く終わることだろうから。

「……終わりました」

 背を斜めに覆うように包帯で巻き終わると、今度は彼女が腹に包帯を何度か巻き付け、端を小さなピンで留める。

 その言葉を聞いて、彼は大きく深く息を吐き出した。

「久しいな……ここまで痛みに煩わされたのは」

 痛みに眉を歪めながらの感想に、彼女は苦笑を浮かべて応対する。

「普段からそのくらい傷が痛むものと認識してくれれば、もう少し慎重になってくれるのかしら」

「さて。カガク兵器が常々あれほどの威力であれば、さすがに俺も敵陣に突っ込む真似はしないだろうが」

 では彼が慎重になる可能性は今後あまりなさそうだ、と彼女は静かに首を振る。酸は他の武器に比べて威力が凄まじいものの、安全性に欠ける。敵味方が入り交じるような合戦の場では、特に使用できる代物ではない。

 彼女の笑みの意味を読み取った彼は、それは重畳と三日月のような笑みを見せる。

「であれば、早々に治さねばな。奴らを血祭りに上げる権利を、愚妹どもに取られてたまるか」

「それは真相が明らかになってからにして下さい。……血気の多さは本当に兄弟揃ってよく似ていますね」

 呆れた声音を無視して、彼は眉根を寄せながら彼女の発言に異議を申し立てる。

「あれは暴れるだけが取り柄の単細胞だ。俺の正当な怒りと同一視するな」

「わたしにとっては同じです。さあ、早く寝……」

 寝て下さい、と言いかけるも、彼女はいつの間に自分のが手首を掴まれていることに気付いて目を丸くする。掴んでいるのは当然ながら、背中に包帯を巻いたばかりの男だ。

「……どうか、しました?」

 緩く手前へと引っ張るが、彼女の細い手首を掴んだ手はそのまま離しそうにない。視線を戻せば、そこにいるのは当然ながら今日の彼女にとっては命の恩人と言っても過言ではない魔族がいた。しかし、彼の瞳は特に何の感情も映していない。獲物相手に舌なめずりする肉食動物さながらの獣欲も、敵陣が内部から崩壊していくさまを楽しむ策略家が見せるような理性的な愉楽も。

 鮮やかなだけではなく生々しいものを感じさせる赤い瞳は、凪いだ海のように静かで表情を読み辛く、彼女は少し混乱する。自分の退出を阻止する理由があるとするなら、彼はもう少し挑発的な視線を送るはずなのに。

「あの……」

 だからと言って安易に心を読むことは憚られ、彼女は慎重に声をかける。けれどどうあっても無反応だから、彼女はとうとう彼の方へと体を向けた。

「ジャドウ、もうそろそろ失礼したいんですけど……」

「何故」

「何故って……あなたのお休みを邪魔したくないから」

「お前はせんだろうが」

 当たり前のように告げる彼に、彼女は小さく吐息をつく。つまり、ここで添い寝しろと言っているのだろう。

「駄目です。傷に障ります」

「寝るだけでか」

「寝るだけでもです。正確に言えば、寝ようとしても一悶着あって、それがあなたの傷に障ることが容易に想像できるからです」

 いやに具体的な想定に、彼は痛みではない感情から眉を顰める。だが、彼はそれでも諦めなかった。

「ここにいろ」

「嫌です。あなたの傷を広げたくありません」

「決まっているように言うな」

「決まっているからです。あなたがわたしの隣にいて、ただ本当に寝るだけだったことは、過去に一度もありません」

「…………」

 はっきりと断言されてしまうと、さすがの彼も押し黙る。だが彼女の腕を放す気はないらしい辺りに、意志の強さが見て取れる。

 何度か彼女が振り解こうともがくが、彼の手はびくともしない。しかし当人の素直な片眉は、響く痛みに軽く吊り上る。たかだか軟膏と包帯だけで、酸にやられた傷がすぐに癒えるはずがないので当然だが。

「……無理をしないで下さい」

「していない」

「してるでしょうが」

「正確にはお前がさせている」

「……わたしのせいにしないで下さい……」

 頑固な上に厚かましい彼の態度に、彼女は自由な方の手で軽く頭を抱える。こうなっては振り解こうとする方が、彼の傷を悪化させそうだ。とは言っても、添い寝して結果的に彼の傷を悪化させてしまうと思えば、やはり簡単に彼のわがままを聞く気にならない。

 長考の結果、彼女は条件付きで降参することにした。

「……わかりました。あなたが寝たのを確認したら、わたしも寝ます」

「…………」

 提案を聞いた彼からあからさまに不満げな沈黙と視線が放たれるが、彼女はそれを無視して立ち上がりかけた膝を戻し、今度は少し崩して座る。

 膝枕を誘導する姿勢であったが、それも今の彼には気に食わないらしい。彼女の白い腿を一瞥するだけで、腕の拘束はいまだ解けなかった。

「……これでもまだご不満ですか?」

「当然だ」

 それでは何が、と彼女が視線で問いかける。それに応じるように、彼がゆっくりと膝を使って彼女にすり寄る。最初からすり寄る必要もないほど、近くにいたにも関わらず。それはつまり。

「あ、ちょっ……!」

 包帯に包まれた青白い肩が、彼女の胸を押すように被さって、不意の重みにそのまま彼女は後ろに倒れる。

 幸いにも、天幕の床は絨毯が二重に敷かれ、更に彼の周辺にはシーツと毛布も敷かれていたため、衝撃はなかった。衝撃がないだけで、他の部分――特に自分を組み敷いた人物には問題があったのだが。

「……ぐっ……」

「傷に響くくらいならそんな無理をしないでくださいもう!」

 情け深さから抵抗はしない彼女ではあるが、一応今の心境は伝えておく。痛みに身悶えしている青銀の髪の男が、ちゃんとそれを聞いているのかどうかは不明だが。

 そして痛みが何とか治まったらしい、そもそも治す気があるのか不明の彼は細く長い息を吐き出すと、彼女を下敷きにしたままの体勢でしかめ面を作った。

「大声を出すな。傷に響く……」

「あなたのその体勢の方が傷に響くと思いますけど……っ」

 太股に引き締まった男の腕が入り込む。その圧迫感とむず痒さに身を捩りながら、彼女は的確な意見を申し立てた。しかし、男はいけしゃあしゃあとした態度を崩さず、安定感を得ようと自分の体の位置を慎重に探っていく。

「背中に傷があるなら、腹這いになって寝るのが正しかろう」

「じゃあどうして、わたしを下に敷く必要があるんです?」

 世にも珍しい、ルネージュ公国女王陛下の睥睨を受けると、彼は少しだけ目を見開いたが、続いて考え込むように顎を引いた。

「……そうだな」

 だがその問いかけに答える前に、彼の体は安定した箇所を見つけたように止まった。引き締まった腕が、そろそろと下降を始める。

「柔らかい」

 彼女の肩がぴくりと強ばる。彼女の意思はそれを受け入れる準備さえできていないのに、白く円い身体は平然と硬質な肌を受け入れる。否、まるで己から男の肌を求め吸い付くようにと言った方が適切かもしれない。

「温かい」

 彼女の視線が微かに揺れる。ドレス越しにでも触れる面積が広がっていくにつれ、男の肌の冷たさを知り、思わず声を上げてしまいそうになる。それが恍惚の声でないようにと一瞬でも思ってしまうのは、一体誰のせいなのか。

「芳しい」

 男の鼻先が彼女の布越しの胸に埋まる。そんな艶かしいようでそうでないような接触に彼女は数秒だけだが硬直し、うろたえるように視線を泳がせてしまう。彼がそれを直接見ていないであろうことだけが唯一の救いだ。

 しかし彼は下敷きにした彼女の反応を気にも留めないらしく、心底落ち着いたように深く長い息を吐いた。

「良く効く痛み止めだ」

「……わたしは薬か何かですか」

 抱き枕扱いされるよりはましかもしれないと思いつつ、彼女は小さく口を尖らせた。当然、と男は意地悪く笑みを浮かべる。互いが互いの顔を見れなくても、声の調子でおおよそ相手の表情は手に取るように分かった。

「これは俺だけの妙薬よ。尤も他の連中にも同じような効果を持つかどうかなど、調べる必要もないが」

「当たり前です!」

 全身をその華奢で柔らかく美しい妙薬に預けながら、彼が喉の奥で笑う。妙薬呼ばわりされた彼女は、その笑い声にますます不機嫌そうに唇を尖らせた。

「……あまり油断しない方がいいですよ。その妙薬とやらはあなたの傷を広げる可能性もありますし」

「確かにな。だが、その妙薬の気質は甘い。故に……」

 硬質な肉体が、更に彼女の身体に圧し掛かる。呼吸は苦しくないものの、その重みに思わずバランスを崩さないよう相手の肩を手で支えてしまった彼女は、我に返ると目線を下にやり彼の顔を見る。そこにあったのは、上を向くにんまりとした三日月型の笑み。

「信じてしまえばこっちのものだ」

「…………」

 勝利宣言を受けた彼女は、吐息でもって降参の意思を示す。確かにそこを先に突かれてしまえば、彼女は突き放すことなどできやしない。

 満足したように笑んだ彼は、絹の肌触りを持つ双つの小山の窪みに顔を埋めた体勢のまま目を瞑った。背中の傷はいまだに癒えず、動かしていない今であっても痛みはしつこく残っている。だがこの手と全身にある感触と香りと温かさは、この痛みと引き換えにしても失ってはいけないものだ。

「スノー」

「……はい?」

 だから彼はその想いを籠め、一言だけ呟いた。

「誰にも傷付けはさせん」

「……はい……」

 そっと頭を撫でられながら、彼は自分でも驚くほど穏やかで静かな呼吸を始める。普段の熱気が篭るような触れ合いも悪くないが、微温湯のようなこの触れ合いも悪くない。ゆるゆると眠りの世界に陥っていく意識の中で、彼はそんなことを考えた。

 珍しくも微笑ましい穏やかな彼の寝顔を見て、彼女はその頭をゆっくりと撫で続ける。しかしその胸中は己の中に篭った情火をどう沈めたものか途方に暮れ、また普段とは正反対な心中の自分たちに苦笑さえ浮かべていた。

RETURN

 

アトガキ
 ジャドウさんが背面怪我してその部分に軟膏塗ってあうはうなっちゃう嫁が書きたかっただけです。
 久々にまだ全年齢対象っぽい雰囲気だと思う思いたい思っていよう。