When does Pomegranate ripen?

 

   

 朝日がまだ金色を含み、まだ外の空気も夜の冷たさを残す時間だというのに、重苦しい顔をした男性の視線を受けても皇帝は何も言わない。本人は真剣に悩んでいるらしいと分かってはいても、その無神経な発言は無視に値すると彼女が判断したからである。

「・・・・・君は、どう思う?」

「いくら養父でも開口一番にそれだとデリカシーがないとしか言えないわ」

 ぴしゃりと言い切るロゼの発言に、アンクロワイヤーは片手で頭を抱える。もう片方の手は、しっかりと羽ペンを持ち動かしていた。手伝うことが前提なので、ここで書類を裁く能率を下げてしまえば厳しい返答だけで終わりそうにはない。

 サインをし終わると、ロゼは背後に立つアシュレイから新しい書類の束を受け取る。

 帝国軍大元帥の敗退は既に諸外国に知れ渡っており、それによって皇国軍の勝機を見た中立国が取り入ろうとしたり、終戦前だからこそ起こる内乱など、現地の忙しさはともかく事務処理に関しても全く休む暇さえない有様だった。その上、皇国軍の有能な将たちは防衛のため動かせなかったり反乱したりと、上層部の人材不足は明らかである。しかも、もう一週間もすれば長く城を空けることになるのだから、帰って来れば溜まった書類は数倍に膨れ上がっていることだろう。そうならないためにも、今のうちにできる限り処理しておこう、というのがロゼの考えだった。それが焼け石に水となるのは目に見えているが、だからといって溜め込むのはよくない。

 アシュレイはざっと処理済みの書類を確認すると、帝国軍の元元帥に視線を投げかける。

「元帥殿はあまりこの手の仕事は慣れていないようだな」

 始めた時間は同じなのに、ようやくロゼが裁いた書類の半分ほどの量に到達した彼は、その嫌味とも単なる事実の指摘とも取れる、感情の感じられない声に軽く首を傾げた。

「いや…、奇を衒った戦略は得意ではないが、この手の業務はあちらでもよくやった。私から見れば、彼女の処理能力のほうが信じられない」

「手」

 褒めても飛んでくる鋭い言葉に、アンクロワイヤーは慌てて書類に視線を戻す。比較的裁決の取りやすい内容であったため、少し安心しながら彼は書類の最後にサインをする。

「・・・・それで、君はどう思う?」

「同じことを二回言えと?」

「いや、そうではなくて…!」

 書きながらも何と言えばいいかを真剣に悩んでいるアンクロワイヤーを見て、アシュレイはロゼよりも彼のほうが器用だと思った。実際、ロゼのほうは視線も姿勢も書類に集中しているが、彼は唸りながら手元は書類に書き込み、そして視線は彼女の方に控えめに向けている。拡散型というか、いくつもの種類が違う仕事を一度に引き受けて能率を良くしていた性格なのかもしれない。それこそ意外なことだ。本人の性格はどう見ても一点集中型――目隠し猪に近いというのに。

 考えがまとまったのか、アンクロワイヤーは何かを言いかけながら新たな書類を手に取り文書を読む。

「・・・・・私は、あり得るのかと問いたい。彼女はただの人間ではない。いや、血統としてはただの人間だが、それでも武人だ。理想的な体型維持は戦局が厳しいものになっていけば行くほど、気を配ることだ。なのに、彼女はそれを崩してしまった。しかも、私が一見しただけで分かるほど明らかに。理由もなくそんなことになるなんて、真面目な彼女からは考えもつかない」

「単なる理想の押し付けじゃないの?」

 再びぴしゃりと言い切られてしまう。そしてそう言われてしまうと、アンクロワイヤーはぐうの音も出なかった。再び頭を抱え込むが、やはり手は動いたままだ。それを見て、律儀過ぎるとアシュレイは内心呆れた。

「いや・・・・・・そうかもしれないが、何か、理由があるのではないかと思っているのだ、私は」

「ならあるんでしょう。なぜわたしに聞くの?」

 ようやくロゼに視線を返され――やはり彼女も手の動く速度が緩むことなどないが――、アンクロワイヤーは大きくため息をつく。

「君は女性だ。そして武人だ。彼女と似通ったところはあまりないが、それでも君が同じようなことになったらどういう原因が考えられるか、分かるのではないかと思い…」

「病気、過労、生理、生活バランスの崩れ」

 実に端的な返答に、老いて尚逞しさが感じられていた肩が落ちる。

「・・・・・・そうか。ありがとう」

「どう致しまして」

 これで雑談を打ち切りたいという態度の現われと取ったのだろう。実際にロゼはそう思っているようで、更に眼前の書類に神経を集中させているが、それではまだアンクロワイヤーは納得しなかった。

 慌てて軽く身を乗り出し――くどいようだが羽ペンを持った手は止まっていない――彼女の集中を遮ろうとする。

「いや、しかし…!」

 だが、ロゼは何故彼がそこまでかの女性将軍のことを引きずるのか、その理由が分からなかった。というよりも、正直に言えばそんなことを相談される理由が分からないし、仕事の邪魔だ。

 はっきりと眉をしかめ、戸惑った表情を見せていたアンクロワイヤーの体を一瞬ではあるが竦ませる。その眼光は誰しも子ども心に一度は心底怖いと思わされた、母親が子を叱るときの威圧的な恐怖を含んでいた。

「彼女についてはあなたのほうがわたしより詳しいはずでしょう。そんなに気になるのなら今すぐ出て行って彼女に直接聞きなさい」

「だが・・・・」

「これはあなたの善意の申し出で手伝ってもらっている事。嫌なら行ってもらってもこちらに支障はないの」

 実に真っ当なことを言われて、アンクロワイヤーは反論の余地もなく座り込む。手塩にかけた我が子のような女性を心配するあまり、他の人に迷惑をかけたのだと思い知ると、彼は至って大人しく業務を再開した。

 気まずいが状況的にはとても正しい沈黙が広がる。広く豪奢だが一見しただけではその贅沢さが分からない執務室には、紙にペンを走らせる音と紙をめくる音、アシュレイの足音ともいえないような静かな足音しか聞こえない。

 内心ため息をついてアシュレイはロゼを見るが、彼女の表情には依然変化というものがない。書類を裁くことに手一杯で、他者への気遣いなど完全に忘れ去っている。アンクロワイヤーのほうを見ると、非常に彼らしいというべきか、ロゼと同じくペンを走らせる速度は一定しているものの、目は観音開きの扉とロゼ、正反対の方向にある対象を交互に見ている。どうやら、本当に出て行こうかそれとも今日の分だけでも終わらせてからにしようかと迷っているようだった。

 しかし、そこでアシュレイが口を出してもいいことではなかろう。先に個人の用件を勧めれば否と言い、集中するように言えば頷くものの結局は出て行くことは予想が付く。ならば追い出すように言うことも手口ではあるが、落ち着きがなさそうなので結局仕事がはかどりそうにない。

 出来れば鶴の一声が飛び、それによりこのまま仕事を進めるか出て行くかのどちらかにしてほしいものだが、その鶴は一声鳴くことすらあるのかという迫力で書類の山をひたすらに崩している。いまだにどちらにも集中できないアンクロワイヤーと見事な対比であるが、それが美しいわけでも珍しいわけでも、ましてやそれを見て何か感動を与えられるということは全くない。

 見ているだけの彼ですら落ち着かない光景に、どうしたものかと自分が何も出来ないことを自覚しつつもアシュレイは静かにため息をつく。同時に、人間との仕事はこれほど疲れるものなのだろうかと考えた。

 

 ホルンはレイリアに肩を貸しながら、そっとその女性武将の顔を覗き見る。その顔は青白く、いつもは引き締められている口元も気分の悪さにむずむずと緩んでいる。目は吐き気のせいか、虚ろに近く辛そうだ。

「もうすぐですからね…」

 正気づけるためにそうホルンが囁くと、レイリアは吐き気の中にある正気の自分を取り戻したかのように頷く。

 魔皇城の空気が合わないのか、こちらに到着してからほぼ一週間ずっと体調が悪いらしく、レイリアは頻繁に吐いた。食も細くなり、時を構わずして気分が悪くなるらしく、だというのに体重は徐々に増えていった。増えたというより、その体は浮腫んでいるといったほうがよさそうでもあった。その奇妙な症状についてホルンは何度も元帥に進言しようとしたが、当の本人がそれを拒否する。

 元帥や男性陣はもとより、他の女性陣の前ですら吐き気を抑えて気丈であろうとする様は、ホルンには理解できなかった。確かにレイリアは弱みや女性らしさを極力見せまいと初対面のときから勤めているようだが、ここまで来ると無謀でしかない。行き過ぎた無謀がどうなるか、最もよく知っているはずなのにこのような状況を引きずるとは、冷静な彼女らしからぬ行動だった。

 昨日もまた兵の鍛錬のためと言っておいて、訓練所で倒れたところを兵がホルンを呼びに来た。以前から元帥やレイリアの軍の治癒や健康管理を担当してきたホルンは、またかと呆れながらも不安に思った。そしてまた予感を感じ訓練所を覗いてみれば、その予感は的中してしまったわけである。

 容態は日に日に悪化していく。最初は単に環境の変化に体が慣れないのだろうと思い、レイリアの異変に気づいても特にホルンは何も言わなかった。しかし、今ではこの有様だ。明日など、平気な顔をずっとしていられるかも分かりはしない。彼女が内密にするつもりでも、いつか彼女自身が公衆の面前で倒れることによりばらしてしまう恐れがある。

 そんなことになる前に、気丈な彼女をここまで苦しめてしまうものの正体を暴くべきだとホルンは決心した。そして、その病気が治癒できそうなものであれば早くにでも治すべきだとも。

 何せ再びワルアンス城に戻る日まで、あと一週間しかない。しかも今度はその城に仮の居住を行う者としてではなく、侵略者として侵攻するのだ。その侵攻も一週間や二週間で済めば楽なものだが、最低でも二ヶ月はかかると考えておくべきだろう。そうなるまでレイリアが持つとはとても思えない。

 本人は聞いているのかは分からないが、あと少しで到着する寝室に誘導しながらもホルンはその青い顔の女性に話しかける。

「今日は、お医者様を呼びましたからね」

 その声に、レイリアは一瞬頭を揺らした。必死に自分の力だけで立とうと、ふらつき誘導されるだけの足を止めようとする。

「・・・・やめろ」

「止めません。レイリア様が何を考えているかは分かりませんが、その調子では体に毒です。意地を張りたいのなら、誰にも迷惑をかけない程度のものだけにして下さい」

 断固とした声に、レイリアはそれがただの脅しではないと感じ取った。そうして後ろに寄りかかるように体重を錘にし、ホルンの歩みを止めさせる。

 レイリアの方が遥かに鍛えられ、重い体ではあったが、ホルンは顔に出ないように全体を力ませ彼女をまさしく引きずろうとする。ここですぐに後手に回ってしまえば、頑固なこの女性がたちまちいつもの調子を取り戻しかねない。弱っている今が絶好の機会なのだ。

「い、いい・・・・!」

 レイリアは本気で焦っているらしく、更に腰に体重をかけて引きずられまいとする。もとより立つのが苦しい現状では、座り込みそうになる体勢のほうが楽だったが、如何せん傍から見ると、その光景は異様であった。二十代もそこそこといった妙齢の女性が、まだ若く美しいエルフという母親役を相手に駄々をこねる子どものような抵抗をしているのだ。

 しかし、その格好はともかくレイリアがそんな調子になれば、ホルンは簡単に動けなくなってしまった。

 彼女らしくなく、顔を真っ赤にして唸り声を挙げ、歯を食いしばりながら引きずるという全力発揮の体勢でも、やはり向き不向きということか。動いたのはほんの少しだけで、彼女自身は息切れし、全体重を錘にしていた女性武将と同じように廊下に座り込みそうになった。

 この際、レイリアの意思を無視してでも助け舟を呼ぶべきだとホルンは思い、その腕をゆっくりと放す。歩くことですらこの調子なら、廊下で休ませておいてから自分の知っている医者の手を借りようと思ったのだ。しかし、それは間違いだった。

「くっ…!」

 レイリアは武人だ。いくら気分が悪かろうと、今までの養父の優しくも厳しい鍛錬に耐えた身でもある。体が放された瞬間に、気分が悪いことは十分承知だが、入るはずの力を振り絞るようにして走り出す。走るといっても千鳥足もいいところではあるが、それはホルンにとっては予想外の動きだった。

 魔皇城の広い廊下を突っ切ろうとするレイリアの動きは意外に早い。少し躊躇はしたが、この際構わないとホルンは慌ててペンダントを外そうとする。しかし、それより先に寝室に待機していたはずの医者がドアを開けて飛び出した。

「だめ、待って!」

 翻るたっぷりとした紫の三つ編みに一瞬唖然となったホルンではあるが、自分も阿呆のようにしている場合ではない。ほとんど引きちぎるようにしてペンダントを外すと、レイリアの背中を指差し、戦場に立つときよりもはっきりと昂然と、その言葉を告げた。

「行動を、制します!」

「・・・・卑怯なっ」

 苦々しいレイリアの声が聞こえてきたが、あんな調子でも逃げようとする人に卑怯と呼ばれる筋合いはない。撃たれた鳥の如く廊下に沈み込もうとするレイリアの体を、先ほど彼女を追いかけに飛び出した医者と呼ばれる女性が受け止める。

 女性的で柔らかな体だというのに硬い鎧を身に着けたレイリアを何とも言えず複雑そうな表情で見つめるその人に、追いついたホルンはそっと眉を寄せた。

「ごめんなさい、無理を言って」

「いいの。気にしないで」

 控えめに微笑むその女性に、ホルンは小さく安心の吐息をつく。

 動きを封じられたレイリアは案外に大人しかった。否、大人しくするしかなかったというべきだろう。全ての力を出し切ったのは明白で、更に顔を蒼白にして汗を浮かべている。吐き気を抑えることに精一杯であることは明白だった。

 その姿を見て、ホルンは苦々しい表情のままペンダントを着けなおす。

「レイリア様、降参して下さい。そこまで貴女がお医者様が苦手だとは思っていませんでしたが、そのくらいの我慢はして頂きませんと・・・・」

 言いかけてホルンはレイリアの片腕を取り、今度は完全に引きずるようにして寝室に運ぶ女性を手伝う。

 女性はレイリアをまじまじと見つめていたが、特にホルンの言葉を遮るつもりはないらしい。何か思いつめたような表情をしたものの、何も言わずに自分が待っていた部屋に患者を連れて戻っていく。

「・・・・・早く治しましょう。そんな調子では、帝国のお城に戻るときに、存分に働くことなどできません」

 しかし、それを聞いて、レイリアの片側を受け止めていた女性が怪訝な顔をした。ホルンを見つめ、その穏やかな目元からは考えられないくらいの厳しいものを宿して彼女を見る。

「・・・・・この人は、今から戦うの?」

「ええ。今ではなく、これからが肝心なの。だから、一刻も早く休んで、また元に戻ってもらわないと…」

「・・・・・・・・・そう」

 どうかしたのかとホルンは紫の髪の女性に目で問いかけるが、事情を察したらしい女性はその問いには答えようとしなかった。ただ、今でも苦しそうなレイリアに、憐れみの視線を向ける。

「だから、診られたくなかったのね」

 もうその声も聞こえないほど苦しんでいるレイリアに、女性は何かを決意したのか、勢いよく顔を上げホルンを強く見つめた。

 蚊帳の外に出されていたも同然のホルンは急に女性がこちらを向いたことに驚いたが、その強い眼差しに重大な事情を感じ取ったのか頷いて寝室のドアを開ける。

 ドアを閉め、豪華な個室の次の間にある寝台まで二人がレイリアを横にさせると、女性はゆっくりと長いため息をついた。

 お湯に浸したタオルでレイリアの脂汗を拭うと、ホルンにゆっくりと向かい直る。

「食事を持ってきてもらってもいいかしら」

 急にそんなことを言われて、ホルンは一瞬戸惑った。そんな、言ってみれば実に簡単なことを頼まれるような表情ではなかったからだ。

「・・・・食事?でも、レイリア様はさっき吐いてしまって・・・・」

「流動食でいいの。多分、ここのところずっとこの調子でしょうから、まずは抵抗なくお腹に収まるものを入れないと…」

 それを聞いて、ホルンは大きく頷いた。確かに無理をして他の健康な人たちと同じ食事を摂っていたのはいけなかった。これからは滋養をつけなければならないこともあり、食べ応えのあるものばかりだっただけに、レイリアはさぞかし辛かったに違いない。そして、そのときに彼女だけ違う食事では怪しまれることも考えてか、同じように流動食にしようという自分の提案をレイリアに無視されたことも思い出した。

 出来れば野菜が多めの優しい味のスープや、卵が入った粥を頼もうと立ち上がる。

「レイリア様をお願い」

「大丈夫」

 緊迫したようでもあるが彼女独特の慎ましさで微笑まれ、ホルンは少し安心する。

 それから侍女を呼びに寝室を出るホルンを見送ると、女性は大きくため息をついた。相変わらず辛そうな、普段ならばさぞかし凛々しかろう女性武将を楽な格好に着替えさせねばならない。

 無礼を承知で寝台の上に乗ると、そっとその鎧のベルトに手をかけた。

 

 それを見て、ロゼは執務室内にいるというのに珍しく口元を緩ませた。しかし、アシュレイはそんな彼女の態度を悪趣味と感じ取ったのか、窘めるように君主を見る。

「ロゼ、そのような態度は…」

「あら、アシュレイ。あなたはいつの間にわたしの教育係になったの?」

 そんな小憎たらしい先手を打たれては、アシュレイは何も言えない。ただ軽く肩を竦め、アンクロワイヤーを恐らく顎の部分で示した。

「・・・・あれを見て、気の毒に思うのは正常だが、それを笑うのは少々悪趣味だと思っただけだ」

「そうかもね。けどわたし、最近娯楽に飢えているから」

 言い訳にもならないような言い訳だ。確かにこの六年近くの間、公の席ではリーザの生存が判明したときほどしか表情が緩むことがなかったロゼではあるが、これは少々やり過ぎる。否、ロゼの指摘は至極真っ当なことではあるが、ここまで来るとアンクロワイヤーに同情するとしか言いようがない。

「・・・・・・・・・ロゼ」

「まだ何かあるの?」

「この男を君は恨んでいるのか?」

「まさか」

 軽やかに笑い飛ばして、ロゼはアンクロワイヤーに少々悪戯めいた視線を投げかける。恨んでいるにしては、その表情は活き活きしている。それどころか、普段よりもほんの少し妖艶に見えるほどだった。

 しかしそんな視線を受けながらも、アンクロワイヤーには全く表情の変化がない。だがロゼもマイペースで、絡みつく鞭のような色気と危険性を持った視線で石像の如き彼を見る。

「確かに、彼の教育がもう少し視野を広くさせるものであれば、アマリウスが命を落とすことも、リーザが行方不明になることも、彼らがわたしを裏切ることもなかったでしょうね」

「・・・・・・・そうか」

 少々は恨んでいるのだなとは、アシュレイはせめてもの情けとして言ってやらなかった。らしくないというべきか、アシュレイにしては実に情のこもった態度である。

 それからようやく息を吹き返したのか、アンクロワイヤーは血の気が戻ると、肩で肺の動きが分かるほど大きく息を吐き出した。

「有り得ない!!

 そうして出てきた言葉に、アシュレイはため息をそっと吐き、ロゼはいよいよ面白くなってきたとばかりに瞳を輝かせ、しかし当人は噛み付くことなく優雅な体勢でアンクロワイヤーの顔を覗き込む。

「どうしてかしら?彼女はもといた軍に恋人がいたと聞いたわ。あなたたちがワルアンス城を脱出してからこちらに到着するまで有に二ヶ月。別におかしいことではないと思うけど」

「だが・・・・・・いや!しかし、しかしだな!!

 アンクロワイヤーの混乱は目にも明らかだ。第二次大戦期に目立ったまだ若く率直過ぎるが故の未熟さはなく、現在は敗者の苦労を知り、落ち着いた風格ある人物のはずであった。しかし、その評判高きかの黒獅子は、今は悲しいほどに動揺している。

 その様子をこちらは聡明で優しく穏やかな性格であると世間一般に評されている皇女が、やはり悪趣味にも明らかに嬉しそうに眺めている。

 この光景を見ただけで、恐らく多くの帝国なり皇国の人々は、今まで自分の中で畏怖の対象であったはずの彼らをどう思うのか。予想ができるものの、半ば開き直りも入って興味が湧いたアシュレイではあるが、この調子のロゼであればその提案を本気にしそうな気がするので何も言わない。

「まさかあなた、彼女ほどの年齢の人が、手を繋ぐのが最大の譲歩だとでも思っているの?自分の経験が物を言うとは思うけど、そこまで頭が固いわけじゃないでしょう?」

 じわじわと追い詰めていくロゼに対し、まだ混乱の最中にあるらしいアンクロワイヤーは両手で頭を抱えて唸っている。ここまで体格が逆になっている弱いもの苛めも珍しいが、やはりアシュレイは止めようとしなかった。

「それともなに?あなたは彼女を一人前の女性としても認めていなかったということ?前日に『アンクロワイヤー様、これから私は一人の女として生きていきます』とでも告白すると思ったの?とんだ幻想ね。いつのお涙頂戴もの?」

 ロゼの言葉は少しずつアンクロワイヤーを更なる混乱に導いていく。否、むしろその事実を認めてしまえと言っているわけだが、やはり彼はなかなか納得できないらしい。獣のような、しかし全く迫力のない低い唸り声を漏らしながら、更に逞しい肩を縮めていく。

「・・・・・・ロゼ、もうそろそろその辺で止めないか」

 さすがにそこまでいくとこれからはずっと彼自身の悪口になりかねないと判断したアシュレイは、やんわりとした口調ながらもはっきりとそう彼女に告げる。

 ロゼはそれで満足したらしく、案外にもあっさりと頷いてアンクロワイヤーから身を引いた。

「そうね。もう止めないと色々と支障が出るわ」

 その支障が、補佐役の完璧なまでのオーバーヒートであるのか、それとも単に時間が制約されてしまうことを指しているのか、恐らく両方だろうと思いながらアシュレイは新たな書類を渡した。

「ありがとう」

 ストレスが幾分か解消されたらしく、穏やかな表情でロゼはそれを受け取るが、そのストレス解消方法に少々問題があるだけにそれを純粋な気持ちで受け入れられない。

 それはともかくとして、アンクロワイヤーの方にも新たな書類を渡そうとアシュレイが歩み寄った瞬間、頭を抱えたまま放心状態だと思われていたアンクロワイヤーが急に立ち上がった。

 そんな予感はしていただけに、アシュレイもロゼも特に止めようという気分にはなれない。しかしアンクロワイヤーは律儀なもので、俯いたままではあったがはっきりとした声を出して断った。

「ならば、確かめに行ってくる」

「そう。いってらっしゃい」

 彼の人生を懸けたかのような重みのある言葉とは逆に、ロゼの言葉は軽薄も甚だしい。だが、アンクロワイヤーはそんなことには気を留めず、しっかりと頷いて早歩きで執務室を出、礼儀正しくも観音開きの片方の扉だけを開けると衛兵に挨拶すらして出て行った。――姿が見えなくなってから聞こえる足音から察するに、あの老体で可能かと思うほど全速力で走っているらしいということは分かったが。

 その足音が聞こえなくなったところで、アシュレイは軽くため息をつく。

「ようやく静かになったな」

「物凄く賑やかでもなかった気がするけど」

 くすくすと意地が悪いが軽やかな笑い声を挙げるロゼに、アシュレイはアンクロワイヤーが倒していった椅子を直す。こういう部分が見えていないとなると、余裕などないも同然であることがよく分かる。

「しかし、君のやり方は少々卑怯だと思うが」

 その発言に、彼女は相変わらずの笑みを宿し、頬杖をつきながら書類にサインをする。その手首の動きは優雅で、書類に全神経を傾けるが如きの気迫を見せていたときと数時間しか経っていないのか不思議に思うほどの変化であった。

「そうかしら。わたしはただ、思い浮かんだことを素直に漏らしたまでよ?」

 それも疑わしい。アンクロワイヤーが鈍感に過ぎるということもあるが、彼女ほど頭が回る人物ならば、彼の話を聞いた直後から可能性を感じていたに違いない。

 悪戯っぽいものから少し物寂しげな笑みに変えると、ロゼは肩を竦ませた。

「まあ、自分が戦時中に出来た子どもみたいだから、過剰になったのかもしれないけど…」

 何も言わず、アシュレイは床に散らばった書類を集める。

 確かにあの時代ならば一次大戦も終わりに近づき、恐らく両親であろう人たちは子を育てる余裕などなかっただろう。一般市民ならまだしも、上に立つべき者たちは逆にそんな時間などない。

「いいことだと思うけど、彼は違うのかしらね」

「さあ。私はそのような立場に就いたことがないからな」

「わたしもよ」

 互いに同意し合うと、二人は中断していた作業を再開する。

 義理なりにも祖父になるであろう人間は、今日一日は執務室に帰ってきそうにないと判断したからである。

 

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