斉藤さんと斎条さんと六道さん

 

  

 雀のさえずりが聞こえて、俺は少し唸りながら窓のほうを見た。

 紺とクリーム色のストライプのカーテンの下の方から、白い光が漏れている。――これで昼間とか夕方だったら笑えるけど、そんなことには絶対あのひとがさせないだろうなと思いながら、枕元を探る。

 目覚まし時計は六時半を三分ぐらい前にして、規則正しく秒針が動いていた。あと三分、ベッドの中でまどろんでたところで、多分眠さは今と変わりはない。

 だったら、今起きた方がましだと思って、俺は下手な腕立て伏せをするみたいに布団を握っていた腕を伸ばして起き上がる。そのついでに、目覚まし時計のベルは止めておく。仰向けになって寝たはずなのに、起きたらうつ伏せになってる自分の寝相の謎にはもう慣れた。

 むくのフローリングの床は冷たくて、ちょっとざらついてるのが気持ちいい。まだ涼しいと思ってたのに少し熱い足の裏にはちょうど良かった。

 ドアを開けると、階段の下から小さな音が聞こえてくる。顔を洗って階段を一段ずつ下がると、スリッパを履いた軽い足取りで、キッチンの中を忙しそうに動いてるあのひとの姿が想像できて、ちょっと口の端が緩んでしまいそうになる。

 けど、そんなのは俺のイメージに合わない。なるべく顔をこわばらない程度にひきしめて、一階に下り立った。

「おはようございます」

 俺がそう挨拶をすると、今まで忙しそうにしていたそのひとは、不意にこっちに振り向いてにこっと笑った。

「おはよう。今日はちょっと早かったのね」

 キッチンの窓から溢れる朝日と、そのひとの白いシャツと笑顔が眩しく感じて、俺は少し目を細めながら頷く。

 このひとは小雪さん。俺の父方のいとこで、五つか六つぐらい年上。別に俺の家がいとこと暮らすほど大家族と言うわけじゃなく、単に俺が小雪さんの家に居候させてもらってるだけだ。

 けどこの家には、伯父さんや伯母さんはいない。更に詳しく言えば、小雪さんとその一家の新居に、俺は居候させてもらってることになる。詳しい事情は、――まあ、色々ある。

 薄い灰色のエプロンがひらりと舞って、小雪さんは再び朝食の準備に取り掛かる。今日は落ち着いた緑のスカートで、普段より活発な印象が強くなっている。それを見て、俺はダイニングテーブルに置いてある、少し暖かい新聞を手に取りながら答えた。暖かいのは、小雪さんが新聞に一度アイロンを滑らせた証拠だ。そうするとインクの汚れが手に付かない上に、読みやすくなるらしい。実家のときはろくに新聞なんて読まなかったけど、この家の人たちはテレビよりも何か読むほうが好きらしく、俺もそれに少し感化されている。

「最近、日が昇るの早くなったみたいですから…」

「ああ…そうね。明くん、東寄りにベッドがあるから、そうなっちゃうわね…」

 少し考えるような言い方に、俺は少し焦って新聞から顔を出した。

「あ、別に、俺は今のままでいいですよ。模様替えとかしなくてもいいですから」

「そう?」

 小鉢から菜ばしで何かを取りながらそう訊ねる小雪さんに、俺は必死で頷く。このひとは全く妥協を知らないひとで、毎日の三食はともかく、どんなものでも自分が補える範囲の欠点があれば、どんなことだって改善しようとする。俺がこの家に引っ越してきたときだって、わざわざ空いてる部屋の家具を全部、一人で他のところに移したぐらいだ。主婦業は時間が余ってるから、と笑って小雪さんは言うが、そんなことをしてたら俺の母親は主婦失格になる。それに――そんな細い体で、何でも背負い込むのは、見ててはらはらする。

「それに、もう俺、配置覚えて生活してますから。ベッドがあるって思って、壁とか机に背中から突っ込んだら嫌じゃないですか」

「そうねえ…」

 くすくすと笑いながら、けど全然手は止めずに小雪さんは朝食と弁当の準備をしている。当然のように全部手作りで、物凄く手間がかかっているように見える。本人からすればどうってことないんだろうけど、母親の手抜き弁当を中学時代からずっと味わってきた俺にとっては驚愕の代物だった。

「明くん、わさび大丈夫だったかしら」

「はい。大丈夫です」

 あらかた新聞を読み終わると――というか、高校生の俺に経済面だの政治面だのに興味が湧く訳はなく、もっぱら三面記事とかスポーツ面とかテレビ欄にしか目が行かない――、小雪さんはそう、と頷き手際よく皿に何か盛っていく。

 それを、俺は別に何をする訳でもなく見ている。最初の頃は着替えに上に行ったこともあるけど、それだと制服が毎日出てくる汁もので汚れる可能性があるのであんまりいいものじゃない。それに、この家に来てからは、寝るよりも起きてたほうが、何かと俺自身には得なのだ。――気分の、問題だけど。

「もう少し待っててね…」

 小雪さんの声がまるで合図になってるみたいに、さっきからしているだし巻きの甘い香りや、そのままご飯のおかずにして食べれそうな味噌の匂いがダイニングにまで届いてきて、休んでいたはずの胃がどんどん落ち着きなくなっていく。けど、その我慢ももうあと少しで終わる。

「ん…もうそろそろのはずだけど」

 小雪さんがぽつりと呟いて、リビングの時計を見る。何がもうそろそろなのか、俺は嫌と言うほどよく分かる。と言うか、俺はその時間が来るのをちょっと恐れている。理由は簡単でもあるし、複雑でもある。

 小雪さんは少し慌しく時計と作業がほぼ終わったキッチンを見比べると、少し困ったような顔をしたまま俺の横を通り過ぎていく。朝の空気によく似合う、きびきびとしてはいるけど、何となく優しい動きが見ていて気持ちいい。

「ごめんね、あのひと起こしに行くから」

「はい」

 俺は快く頷くが、内心複雑だった。別に起こしにいくぐらいならあんまり問題はないが、起こすまでの経緯がどんなものか、ちょっと分かる俺にはあんまり嬉しいことじゃない。

 と言うか、その人は多分、いや絶対に小雪さんに甘えてそんなことを、週に二度三度もしているんだと思う。小雪さんのほうがずっと大変で、朝から晩まで働いてるのにその人はそんな小雪さんに甘えきっている。いい年こいた大人がそんなことをしてたんじゃ、いつか見限られるんじゃないか。

 そんなことを悶々と考えている内に、上の方から悲鳴に近い声がした。勿論、小雪さんの声だけど、俺は別に何があったのか見に行かない。何となく、予想が付くからだ。そりゃあ、最初の頃は何があったのか心配になって、恐る恐る見に行ってみたこともあるけど、結局そのあとは見るんじゃなかったと物凄く後悔した。理由は――やっぱり、色々あるからだ。

 小雪さんが何か言っている声が聞こえる。ほとんど叫んでいるような、怒ってるような声だけど、別に小雪さんは癇癪持ちでもないし、下に降りてくる頃には落ち着いてると思う。そういう些細な、小雪さんにとってよくある日常的な怒りなんだろうけど、小雪さんはそれに対してあんまり慣れないらしい。当然だ。俺だってそんな光景を想像して腹が立たない訳がない。

 それから声が静まると、少し騒がしく、小雪さんが一人連れて階段を降りてくる。

 シャツと綿のパンツ姿で、まだ眠そうな顔をした、目つきの悪い男だ。その人は俺を見ることもなく、俺の斜め前の椅子に乱暴に座った。それでも、一応俺は居候として律儀に頭を下げる。

「・・・・おはようございます」

「ん」

 その人は当然、俺のことを見ようともしないで新聞を開く。そんな態度は、そりゃあ最初は腹が立ったけど、最近は慣れてきた。と言うか、ほとんど諦めたと言ってもいい。多分、この人がまともな反応をする人間は、物凄く限られてるんだってことを、俺はなんとなく日々の生活で悟ってきたからだ。

 小雪さんはてきぱきと朝食のおかずを俺たちの前に並べながら、あんまり新聞に集中する人を気にするふうでもなく訊ねてきた。

「明くん、コーヒー?それともお茶?」

「お茶でいいです」

「あなたは?」

 目も合わせないのに、とても優しくそう訊ねる小雪さんに、その人はようやく口をあけてまともな声を出す。

「コーヒー」

「はい」

 浅く頷いて、小雪さんがまたキッチンに戻る。俺たちの周りに並べられた、わさびが入ったとろろの上に刻み海苔が乗った器や、こってりした色の煮豆ときゅうりとわかめの酢の物、だし巻き卵に半透明になりかけた大根の漬物、軽く焼いた明太子が、もうすぐ朝食であることを表している。

 キッチンを椅子に座ったまま覗き込むと、小雪さんは真剣な顔で具沢山の味噌汁を器に盛っている。出来れば三つ葉と湯葉が入ってればありがたいとか、そんなことを思いながら待っていると、ぼそりと近くから声が聞こえた。

「飯盛ってる女がそんなに珍しいか」

 確かに、小雪さんは味噌汁を盛り終わると、次は少し急ぎながらご飯を盛り出した。けど、その小ばかにしたような物言いは、俺はあんまり好きになれないし、多分誰だって好きになれそうにない。

 なんでこんな奴と小雪さんは結婚したんだろうと思いながら、俺は答えた。

「別に。他に見るものがないんで見てるだけです」

「うちは飯の最中にテレビ付けても怒らんぞ。動くもの見たきゃ見とけ」

「いいですよ。つまらないんで」

 相槌とも返事とも取れる、新聞をめくる音が大きく聞こえる。それから、また沈黙。

 俺は正直に言って、この人が嫌いだし、苦手だった。まず、ずっとこんな物言いだし、あと性格もよくない。小雪さんと比べたら、天と地の差があるぐらいよくない。けど、多分、性格も態度も人当たりがよくっても、俺はこの人のことを好きになれるかと言われたら、かなり迷う。

 理由はたった一つ。小雪さんの旦那さんだからだ。

 詳しくは知らないけど、物凄く有能でエリート証券マンらしいし、色々人脈を持ってるし、実家もでかい会社を経営しているらしい。そんなだから、伯父伯母夫婦は結婚を許したらしいけど、それにしたって俺は許すべきじゃないと思う。何せ、そういう大人の利益を差し引いても、この人の性格は酷い。

 どれくらい酷いかって言うと、さっきから俺に対する態度でもそうだけど、とにかく小雪さん以外の奴には凄く厳しい。特に、何もしてないのに常に見下してくる感じが凄く嫌だ。あと口も悪いし、さっき言ったように態度も当然悪い。これで誰にでも優しい人なら、小雪さんを優しくしてやれよとか、小雪さんをもっとずっと大切にしてやれよとか思ってしまうだろう。そういう注文をしてしまうと、結局今のこういう性格や態度に落ち着いてしまうのかもしれない。だとしたら、それはそれで複雑だ。

 とにかく、俺はこの人が嫌いだった。多分この人も俺のことを嫌いだから、それでいいと思う。

「はい。どうぞ」

 小雪さんの白い手が、俺の目の前に軽く湯気の出ている茶碗と、漆塗りの汁茶碗を置く。汁茶碗の、朱と白味噌の靄のようなコントラストがきれいだった。具は三つ葉と絹豆腐とほうれん草と大根。生成り色のテーブルクロスとよく合っていて、そういうところにも小雪さんのセンスを感じてしまう。

 俺は手を合わせると、一言呟く。

「いただきます」

 斜め向かいに座る旦那さんも、新聞を一旦折り畳んでぼそりと何か言うが、あいにく俺には聞き取れない。けれど小雪さんには伝わったらしく、にこりと笑ってはいどうぞ、と答えてくれる。ちなみに、小雪さんの席は俺の隣で、旦那さんの向かいだ。けど二人とも、ろくに目を合わせようとせず、けど全然冷たい空気も漂わせないで個々に食事を進めていく。

 味噌汁を一口すすると、いかにも小雪さんが作ったらしい、繊細な味がする。煮干と鰹節のだしらしいけど、俺は昆布とそれの違いすらよく分からない。それを一度口にして、鈍い舌だと旦那さんに鼻で笑われたことを思い出した。

 少しむかついて、だし巻き卵を口にする。ほんのり甘くて、けど薄くだしの風味がして、上品な味だった。

 小雪さんのほうを盗み見ると、黙々と漬物とご飯を一緒に口に含んで噛んでいる。小雪さんの口は小さいので、日常的なよくある動作一つにしても、なんとなく上品で柔らかい余韻が残る。小雪さんの食べ方はまずベースにご飯ありきらしく、とろろを少し掬うと、慌てるようにご飯も一緒に口にする。丁寧だけど、律儀に自分の食事のありかたを守っている辺りが、何となく可愛くもある。

 俺はなるべくポーカーフェイスを装って、味噌汁をもう一口啜る。だしの味が細い大根にしみていて美味い。

 それから明太子とご飯を好きなだけ食べようと箸を伸ばしたとき、不意に二階の方から甲高い泣き声がした。

「あ」

 小雪さんがそう呟いてふと立ち上がる。慌てた様子で二階に上がる姿を見届けると、上からする泣き声はますます大きくなってきた。

「・・・・・」

 俺は少し心配になって、二階へと続く階段を見る。こんな時間に泣き出すのは、実際珍しいことだからだ。

「気にしてる暇があるなら口を動かしておけ。後で巻き込まれても知らんぞ」

 旦那さんの妙に余裕のある物言いに、俺は一瞬むっとするが、それは確かに言えることだ。もしあの子がこれで起きてきて、それで目の前で早めに朝食を食べられでもしたら――折角の小雪さんの朝食を、楽しむ暇がなくなる。

 焦って明太子をほこほこのご飯の上にのせ、そのままご飯と一緒に口にする。軽く焼いただけの明太子だから、火を通してプチプチした食感と生の食感の滑らかさが混ざり合っていて、まろやかな苦さに、それでいてちょっと辛いのが入ってるのがまた美味い。

 起きられたら困るということもあり、箸のスピードを早める俺とは違い、旦那さんは相変わらずのマイペースを貫いていた。とは言っても、俺よりも元々箸の進め具合が早い旦那さんは、既に半分は平らげている。おかずも何品か、もうなくなっているものすらある。

 小雪さんのあやすような声が聞こえて、泣き声が少しずつ収まっていく。けれど、やっぱり子どもの高い声はよく通るらしく、ぐずついてしゃっくりをあげる声もこっちにまでよく届く。

 ますます危機感を感じてきた俺は、一気にぬるくなったお茶を飲み干す。

 それから明太子を食べきると、今度は酢の物をとにかく食べた。かきこむのは旦那さんの目の前だと出来ないので――何も言われないけど、鼻で笑われるのは物凄く癪に触る――、とりあえず自分でもうんざりするぐらい律儀に箸で一掴みずつして。

 上の泣き声の嗚咽が完璧に止まる。ぐずついた子どもの声が何か言っているのが聞こえたが、生憎遠いのでよくは分からない。小雪さんの声も優しく何かを言っているようだが、それもやっぱり何を言っているのか分からない。

 それから小雪さんの分の味噌汁の湯気がなくなった頃、ようやく小雪さんは降りてきた。旦那さんと目が合ったらしく、苦笑しながらキッチンに向かう。

「相変わらずあの子が泣くと食べるの早いのね」

「隣で騒がれたらかなわん」

 すっかり冷めたお茶を一口飲みながら、旦那さんがそう答える。それもそうかしら、と小雪さんが頷いて、まだ手がつけられていない小雪さんの味噌汁をもう一度温めなおす。

 そのついでに、食後のコーヒーの準備をしているらしい。色々と忙しなくキッチンを動き回るが、それでも無駄な動きはないし、洗練されているように見える。

「明君ももう食べちゃったの?早いわねえ」

 くすくすと笑われながら、最後の一口をよく噛み締める。小雪さんが一人で朝食を取る姿を想像すると、寂しそうな気がする。こんなことなら、もう少しゆっくり食べるんだったと、俺は言われた直後に後悔した。

「食器、こっちに持ってきて。わたしが食べ終わった後に洗うから」

 真鍮のエスプレッソメーカーをコンロにセットしながら、小雪さんがそう言うと、旦那さんが食べ終わった食器を持っていく。その様子も、似合ってはいないが手馴れていた。

「明君も、落ち着いたらお願いね」

「はい」

 俺は頷くと、急須のお茶をもう一口飲んで、口の中を軽くすすぐ。高級なお茶かどうかは分からないけど、しっかりとした手順で淹れているらしく、風味があってほんのり甘い。

 こうやって落ち着いていられるのも、実家のときはなかったことだ。自分でもちょっとわざとらしいというか、格好つけてるとは思うけど、学生の時代からゆったりした時間を朝から過ごせるのはありがたい経験だと思う。

「それで、結局ガキは寝てるのか」

「ええ。怖い夢見たんですって。今は泣き疲れて二度寝中。すぐ起きるかもしれないけどね」

「派手に泣くからだ」

 ぼーっと、庭から漏れた朝日がカーテンを白くしている様子を俺が見ていると、そんな会話が聞こえてきた。

 ピーっとか細い音がして、コーヒーが出来たらしい。小雪さんがコンロの火を止めて、慣れた手つきで白いコーヒーカップに湯気の立つコーヒーを注いでいく。こっちにまで、コーヒーのいい匂いが漂ってきた。

 それからコーヒーカップを手渡すと、そのまま旦那さんはリビングの方に移動していった。あそこで楽な体勢のまま、今度は英字新聞を読むのが旦那さんの日課らしい。知りたくもないけど。

 小雪さんは温めなおした味噌汁を持って食卓に戻ると、また朝食を再開する。ご飯は冷めてるせいで、少し食べ辛そうだ。

 俺はそんな様子をなるべく視線が集中しないように、食器を持ってシンクに置く。木製のサラダ用に使うようなボウルの中には、既に旦那さんが置いていった食器が水に浸されている。

 その中に慎重に、なるべく水が最低限出ないように食器を入れていくと、俺は一旦手を洗い、小雪さんに礼をしてそのまま階段で二階に行く。

 二階に着いて歯を磨こうと洗面所に行く前に、ある部屋のドアが開いていた。

 中は立派な一人部屋だが、そこはかとなくメルヘンチックと言うか、可愛らしいもので統一されている。ちらっと覗いただけでも、壁紙はココア色とうすピンクのストライプで、不思議の国のアリスとかの、イギリス系の童話の雰囲気がある。中も何度か覗いたことはあるが、やっぱり徹底していて、アンティークものっぽい雰囲気のスズラン型のランプみたいな電灯に、おもちゃ箱はがっしりした木製の、中は布張りで金の装飾つきのでかい宝箱そのものだ。洋服掛けも金属製で、掛ける部分にバラの彫刻入り。ベッドやタンスは木製の深い飴色で、取っ手部分は全部落ち着いた金色。猫足とでも言うのか、脚の部分は優雅な線を持っていて、まるで人形の家でも見てるみたいな気分になる。

 そして開いたドアの中に、またもう一つのドアの役割をしている柵の内側からひょっこりと、小さいのが顔を出して、俺は一瞬驚いた。小雪さんというよりも、どちらかというと旦那さん似らしいけど、目元が少し腫れてるせいで今はよく分からない。うすピンクのワンピースタイプのパジャマを着ている。勿論、あの二人の子どもだ。名前は野ばら。当然、あの薔薇の野ばらだ。

 俺と目が合うと、顔をくしゃくしゃにして、柵を叩きながらこっちに近づきたがっていた。俺は少し慌てて柵を外してやると、そいつはこちらによたよた近づいてくる。

「あーちゃぁん・・」

「・・・・・お前な」

 俺は自分の呼ばれ方に一瞬頭痛がしたが、とりあえずその近づいてくる足取りのまま、屈みこんで小さい体を受け止めてやる。一歳七ヶ月にして一人部屋を持つようになった子どもを抱きかかえると、俺はその小さくて柔らかい髪に包まれている頭を撫でてやる。泣いたせいなのか、それとも寝起きなのか、仄かに汗ばんだ頭は、こっちが思わず慎重になってしまうほど柔らかく感じた。

「こあいこあいの…のーたんこあいこあい」

 一歳半にしてはよく喋って頭の成長が早いらしい野ばらでも、甘え盛りのわがまま盛りなのは年相応らしく、俺の髪を遠慮なく引っ張りながら何かぐずぐず言っている。機嫌がいいときならともかく、そんな調子なら、俺が出来ることなんて限れられている。

「下降りるぞ。小雪さんとこ行こうな」

「まーま…?」

「そう。ママ」

 最初に一歳半前後の子どもがいると聞かされたとき、居候を後悔したものの、野ばらは案外想像していたよりもましだった。どこが普通思う一歳半よりまし、と言われても、あんまり文句を思いつかない点がましなんだろう。実家の妹が一歳半のときの記憶は俺にはないが、他の人からしても、全体的に暴れたりかんしゃくを起こしたりしないというのが、野ばらの評判だった。けどその分、母親にべったりで、小雪さんの後をどこまでもついていきたがる。当然、留守番できる年頃じゃないが、俺が過去、小雪さんに子守を任されたときは、泣くか、泣き疲れて寝るか、泣き疲れて食べるかの三つしかしなかった。

 慎重に、片手で子どもを抱きかかえながら、もう一方はバランスを取るために壁に手をやりながら、一歩ずつ階段を下りていく。

 それから降りると、小雪さんがちょっと驚いた表情でこっちを見た。やっと朝食が済んだらしく、キッチンに食器を運びに立っていたつもりが、俺の前まで急いでくる。

「まま〜」

 野ばらが小雪さんの方に手を伸ばすと、小雪さんは穏やかな優しい表情で野ばらごと受け取る。それからふかふかのリビングのソファに座らせると、向かい合うようにして眉をひそめた。少し離れた位置にいる旦那さんが、眉をしかめてコーヒーカップを移動させている。軽い避難のつもりらしい。

「ままぁ、ままっ…」

「どうしたの?のばら。怖い夢、思い出しちゃったかな」

「ままぁ〜」

 野ばらは何も言わず、ただぐすぐす泣いて小雪さんのシャツを掴んで離そうとしない。もみじのような手が小雪さんの胸元を求めるように、力を込めて第一ボタンを外したシャツの襟を引っ張る様は、見てるこっちがなんだか少し、うんまあほんの少し、危ない気分になってしまう。子どもは当然力加減なんて利かないし、自分の周囲がどんな状況下もよく分かっていない。だから、あんまり引っ張りすぎると下着が見えるかもしれないし、そうじゃなくても胸元がちょっとやばいところまで見えてしまうなんてことは、全然考えていない。

 これ以上集中して見てたら、旦那さんの絶対零度の視線が俺に降りかかってきそうだと思うと、視線をそらしてしまいたい。けど、やっぱり好奇心もあって、野ばらのせいなんだからまあ見れて役得…と思って、まだじっと見てしまう自分もいる。

 小雪さんはどう思ったのか、とても優しく微笑んでやると、野ばらに何か表現させるのを放棄したらしい。茹でたての卵かパンのたねみたいな頬っぺたに軽くキスをして、そのまま野ばらを胸元に抱きしめる。野ばらは小雪さんの柔らかいところに顔を埋めてまだしゃっくりをあげているが、それが落ち着いて寝息に変わるのも時間の問題だろう。

 小雪さんは胸元にしっかりと野ばらを抱きしめて頭を軽く撫でたまま、俺の方を見た。俺は少し遠目からでも見える野ばらの状況に目が離せないでいたけど、急にその原因の張本人がこっちを見たから少し驚いた。

「ごめんね。明君、準備あったのに」

「いや…いいです。別に、急ぐほど余裕ないわけじゃなかったし」

「ああ、そうね。朝ごはん、いつもより早く食べたものね…。それで、この子、何か言ってた?」

「怖い怖いって、何が怖いのかは分からないけど、何度も言われました。俺、一人で寝かしつけるのは無理だと思ったから、こっちに連れて来たんですけど…よかったですか?」

 小雪さんは笑いもせずに頷いて、少し複雑そうな表情をして、柔らかそうな胸の中で小さな嗚咽をあげている荊を見る。

「ええ、ありがとう・・・・・そう。やっぱり、一人で寝かせるのはまだ早いかもしれないわね・・・・・」

 後の言葉は旦那さんに持ちかけているのだろう。旦那さんは英字新聞から顔を覗かせると、ため息を一つ吐いて答える。

「寝付くのは簡単だがな。…起きたときにお前が傍にいれば何とかなるが、起きて一人の状態が続くと不安がるかもしれん」

「それだと、寝たがらないでしょう…けどもうベビーベットだと越えようとしちゃうし、かと言ってまたわたし達の部屋だと…」

 それを言っただけで、旦那さんの不快度指数が上がったらしい。更に眉がつり上がった。

「休みの日に顔踏まれるのはもういいぞ」

 それを想像して、俺は思わず吹き出しそうになる。けど、吹き出したら旦那さんに刺すような視線を投げられるのでぐっと堪える。

 小雪さんは苦笑しながら、もうすっかり大人しくなった野ばらの頭を優しく撫でた。野ばらの反応はないが、まだ未練がましくしっかりシャツは握り締められたままだ。

「それじゃあ、わたしはもう一度この子寝かしつけに行くから…ちゃんと出かける準備は一人でしておいてね」

 一人で、を強調する小雪さんに、旦那さんは軽く頷く。時計をちらっと見ると、旦那さんは新聞とコーヒーを手に取りながらソファから腰を上げた。出勤の準備をするらしい。

「明君も、お弁当はもうキッチンに用意してるから。遅れないように注意してね」

「はい」

 何も俺は小雪さんに着替えの準備を手伝ってもらっているわけではないが、一応頷く。小雪さんの腕の中をちらっと見ると、子どもの背中が規則正しく動いていた。どうやら、やっと寝たらしい。

 小雪さんの胸の中なら寝れるなんて、贅沢どころかわがままだと思うと、小雪さんはくすりと笑う。何となく、考えが読まれた気がして、俺は気恥ずかしくなった。

 階段を上って、今度こそちゃんと歯を磨く。うちと違って、この家は歯ブラシだけじゃなく、コップまで個別に専用のものがある。共通だったら、旦那さんと小雪さんの間接キスがごっちゃになるわけだから、俺としてはそっちのほうが精神的にありがたい。俺のは、青りんご色のコップに、透明の緑の歯ブラシ。例によって小雪さんが用意してくれた。実家から持ってきた歯ブラシは取っておいてはいるけど、小雪さんが選んでくれたものなら、そっちのほうが大切に使える。

 歯を磨き終わると部屋に戻って着替える。今日は部活があるから、一応汗をかいたときのためのシャツもスポーツバックに入れる。五月になると、過ごしやすい分、汗をかいてもすぐ放置するから、臭いが付くらしい。小雪さんはそんなこと言わないけど、野ばらはすぐに反応して、汗臭いらしい俺をことごとく拒絶した覚えがあるからだ。――別に野ばらがロリコンになるほど好きな訳じゃないが、懐かれないよりは懐かれた方が少し有利だと思うと嬉しい。誰にっていうのは、そりゃあまあ、この際野暮だから言わないことにするけど。

 ネクタイを締め終わると、学生鞄とスポーツバックを持って部屋から出る前に、部屋の中を確認する。何かおかしなものはないか、小雪さんに見つかったらヤバそうなものはないか、ざっと見渡す。この部屋が自分の城だと思ったことは一度たりともない。というか、この家はどうも基本的にオープンが標準らしく、小雪さんは遠慮することなくまめに俺の部屋も掃除するので、何か隠したりするときはかなり神経質になる。ベッドの下なんて掃除機や床拭きのときに絶対見つかるし、マットレスとベッドの間だとマットレス干しのときに見つかる可能性が高い。結局、家から持ち出した教科書とか、ろくに使わない分厚い国語辞典や英和辞典や、ちょっと格好つけて持ってきた世界地図の本なんかに挟んだりして隠しておく。それより大きいものは、仕方ないから堂々と紙袋やダンボールに入れたりして、黙認してもらう。

 中途半端な隠し事は、つまりこの家だと通用しない。一人は確実に悪意があるけど――まあ、俺なんか眼中になくて、たまたまドアが開いてて見つけるぐらいだろうけど、もう一人は善意からの行動で見つけてしまったりして、ばつの悪い思いをさせたくないからだ。

 見回って何もないことを何度も確認すると、強く頷いてドアを閉めた。

 階段を下りると旦那さんが一足先に出かけるところらしい。玄関先のほうで、小雪さんの優しい声と、旦那さんの声が聞こえてきた。内容はおぼろげにしか分からないけど、どうやら野ばらのことで話をしているらしい。旦那さんはともかく、小雪さんは真面目だから今日みたいなことがままあることだったとしても放っておけないのだろう。

 俺はキッチンに置いてある藍色の弁当包みと軽く凍らしてホルダーに入れたペットボトルを取ると、それをスポーツバックに仕舞い込む。それから玄関に行く前に用を足そうとしたところで、ガチャリと玄関の扉が重く閉まる音がした。すぐに、小雪さんがこっちに戻ってくる。

「今日は全体的にタイムテーブルが少し早いみたいね」

「そうですね」

 小雪さんは驚きもせず、そう微笑みかけてくる。俺は急なことだったから、ただちょっと曖昧に笑って平凡な受け答えをするだけだ。

 小雪さんは俺の横を通り過ぎると、淡々と野ばらの朝食の準備を始める。当然、小雪さんのタイムテーブルは順調で、いつも狂うことなく進められる。たまに特別な日があるみたいだけど、俺が引っ越してきてからはあんまりそういうのはない。週末になると、少しのんびりした様子の小雪さんを見れるけど、平日はいつも忙しない。けど、唯一の救いは、それを小雪さんが退屈そうな表情や、辛そうな表情を見せず、それどころか満たされたような、楽しげな表情で働いていることだ。けど、その満たされたような顔に、俺は少し、胸が苦しくなる。この人の世界には、俺が必要じゃないかもしれないと思うと、――俺なんかが身近にいなくても、きっとこの人は幸せなままなんだと思うと、少し、辛い。

 とりあえず、用を足しに廊下を歩く。なんだか惨めな気分になるけど、俺が勝手に惨めに思っているだけだ。小雪さん自身に罪はない。今から学校に行くっていうのに、不幸ヅラしてたら知り合いの奴に根掘り葉掘り聞かれることは間違いない。

 そう思うと、思わず寒気がする。それと同時に、その寒気が一気に身を引き締めた。

 用を足し終わり、手を洗って廊下に出る。ドアの前に置いておいた鞄一式はいつの間にかなくなってたけど、理由は大体想像が付く。小雪さんの仕業だ。

 玄関に行ってみると、当然のように小雪さんがそこにいた。小雪さんからすれば俺も家族の一員だから、送り出すのは当然だと思ってるらしいけど、こっちとしては妙に緊張する。と言うか、こうやって待たれてるのを見ると、正直言って、浮かれてしまう。

 口元がにやつかないように注意しながら、学生鞄とスポーツバックを持つ。それから靴を履いて小雪さんと向かい合うと、気恥ずかしいのをこらえながら軽く挨拶をする。

「それじゃあ、いってきます」

「はい。いってらっしゃい」

 小雪さんは相変わらずの笑顔で丁寧に挨拶を返してくれる。それを見て、俺は少し気持ちがむず痒くなりながら、玄関のドアを閉めた。

 

 小雪さんの家から俺の行ってる高校は、歩いて二十分弱で着く。

 進学校と言えばそうなるけど、公立だし、学区内だと全体的な賢さも中の上ぐらいで、部活も特に何が有名というわけでもない。ただ平均的に成績が良くて、部活の施設もそれなりに揃っている。俺は中学の頃からの剣道をやっていて、その実力も自慢出来るぐらいいい方だ。そして中学の受験のとき、成績と部活の剣道部の施設が整っている学校ということで、今通っている高校に受験することになった。

 当然、俺が居候することになった理由はこの高校にあるわけだけど、それもこの際詳しいことは省く。

「明のけちー!」

 急にそんなことを言われて、情けなくビクッと反応してしまう。けど、その声で現状に気がついた。

 俺の目の前で、くりっとした目に、妙に長いもみあげだけ残してざっくり切ったショートカット頭の女子生徒が怒っている。名前は東小路茜。俺より一年後輩だ。人の弁当箱を凝視している。

「仕方なかろう。彼奴は屋外部。お主は屋内部。以降の運動量が違えば、一品たりとて無駄には出来まい」

 そう言ってきちんとした正座で揚げたパセリを口に運ぶのは、同級生の双家瑠璃。たっぷりしたきれいな髪と、家がお寺だと言われて納得したきびきびした仕草は、うちのちょっと野暮ったいセーラー付きの制服にはミスマッチ気味だ。けど、一見すれば似合ってないこともない。

「けどさー、一口分ぐらいならくれてもどうってことないじゃん」

 口を尖らせる茜に、俺は茜から少し離れたところに避難する。こいつが俺の弁当のおかずを欲しがるのは結構あることで、特に唐揚げ類だとその情熱が凄まじい。

「俺はどうってことある。お前と違って、放課後とか休みにお菓子バリバリ食う暇なんかないんだよ」

「うわっ偏見!」

「事実のときもあるじゃろうが」

 ぴしゃりと言い放つ双家に、茜はぶーと頬を膨らませる。

 ちなみに俺たち三人は、至って普通の弁当を一緒に食うレベルの友だちだ。茜と双家は友だちと言うよりも、幼馴染に程近く、昔から付き合いがあるらしい。

 元々、双家のさばさばした性格が、普通に俺には好印象だったので、一年の頃からよく喋るようにはなっていた。それから二年になって、今度は別のクラスになったけど、双家の幼馴染が入学してくるって言うんで、双家が入っている茶道部の部室で一緒に飯を食うことになった。ちなみに、茜もほとんど双家に引っ張られるような形で茶道部に入ったらしい。

 実際、茜はどちらかと言うと色気より食い気気味で、小雪さんの手作り弁当をことごとく狙ってくる。働き盛りの旦那さんと、育ち盛りの俺の弁当なので、小雪さんの作ったおかずは肉類と野菜類のバランスがしっかり取れて、しかも当然のように美味い。まあ、茜が狙ってくる以前は、同じクラスのやっぱり食い気がある奴らに狙われてたので、被害とそれに打ち克つプレッシャーが、こっちのほうがましだ。

 今日の弁当は、一口サイズのつくねの照り焼き、ブロッコリーとアスパラの固ゆで、五目豆、さわらの味噌煮に、大根の漬物と海苔にちょっと醤油をかけたご飯。こってりしたように感じる献立だけど、小雪さんの作る料理はどちらかと言うとさっぱりしている。

 どれを食べてもはずれがないことの素晴らしさに、俺は思わず頬が緩んだんだろう。茜が鼻で笑ってきた。

「あんたってお手軽な奴だよね〜。お弁当だけで幸せそーな顔してられるなんてさ」

 茜の弁当だってまずくはなさそうだが、生憎俺のところほど肉っ気がないらしい。それを俺はちゃんと知っているので、余裕の表情で笑い返してやる。

「そりゃあ幸せだからな。毎日食うものにハズレがないのは凄くいいことだ」

 まるでキーッ!と言いながらハンカチを噛みそうな顔で、茜が俺を睨みつける。そんなもの、旦那さんの完璧な、温度というものを全く感じさせない視線に比べればまだまだだ。まあ、茜があのクラスになったらかなり厄介だけど、そうなることはここ数年だけでは絶対にないだろうし。

 双家はそんな俺たちを見て、口元に優雅な笑みを浮かべながらお茶を啜る。

「良き哉良き哉。食事を大切にしていられるのは実に良い。昨今は悪食が目立つ以上、そういう思想がもう少し他の者にも広まればいいが…」

 そうしみじみと言われると、俺としては少し後ろめたいものがある。何せ、小雪さんが毎日ちゃんと献立を考えて作ってくれるということが、俺には何よりものスパイスになるからだ。

「それほど凄いことじゃないだろ、俺の場合は。と言うか、俺より小雪さんが凄いと思うぞ。毎日飽きさせずに、栄養考えて、ちゃんと美味しく作ってくれてるんだから、こっちも残さず食おうって気になる」

「そうかもしれんが、作り手の想いを受け取めるお主の態度もあるからこそ、そう言える。近年で手作りが喜ばれるものは非常に少ない。否、一種の銘柄の一つとしてしか利用させず、作り手の想いが篭っているかどうかも分からぬものが氾濫しておる。…実に嘆かわしい。八百万の神々もさぞかし憂いておられるじゃろう」

 何だか大規模な話になってきたけど、やっぱりこれも双家の会話の特徴だ。本人としてはその気がないらしいが、どうも大げさな方向に進んでいっているように感じる。というか、そんなことばっかり言ってるから、家が寺の娘はこういう性格なんだと俺の中で偏見が出来上がってしまう。

「・・・・密教は八百万認めるのか?釈迦とか如来とか、そっち系だろ」

「八百万の神々を認めることに何の弊害がある。元より日本は宗教性が強い。クリスマスもバレンチヌスも盆も正月も復活祭も祝う種族ぞ。それに、お釈迦さまは元々印度からのもの。既に外国からの輸入品じゃ」

「けど、双家もクリスマスは休むだろ。・・・・まあ、学校が休めって言ってるようなもんだから休むけどさ。それに、去年のバレンタインもチョコくれたし」

「確かに生きる楽しみなどは宗教には無縁ではあるがな、生憎この身はまだ尼になると決まっている訳ではない。若いうちに少々他の神々に浮気したところで、大日如来さまも目を瞑って下さろう。何より、周囲の習慣に流されたところで、それが真の信仰であるとは誰も思うまい?」

 何か言い訳臭い気もするが、そこまで堂々とした態度で言われると、上手く言いくるめられた気持ちになる。て言うか、そういうのは当の本人の気持ち次第であって、第三者をどう見るかとかそういう問題じゃないと思うけど――、ここで議論してても仕方ない問題かもしれない。

「・・・・・・そういうもんか」

「そういうものじゃ」

 今までつまらなそうに俺たちの話を聞いていた茜が、箸の先をかじりながら呟く。

「あと五分で予鈴なるけど、まだ食べないつもり?二人とも」

 それを聞いて、俺は一瞬携帯の時計を見る。茜の言ったことは嘘じゃないらしい。慌ててがっつく俺とは違い、双家は既にほとんど食べ終わっているせいか、茜を見てしかめっ面をする。

「茜、何度言ったらその癖を直すつもりじゃ」

「あーはいはい。ごめんごめん」

 物凄く投げやりな返答で、箸を口から離す茜。

 ああもう、大体お前のせいで小雪さんの弁当をしっかり味わう暇がなくなったんだろ、とか、色々言いたいことがある。けど、それはこの際全部後回しだ。必死に口を動かしながら、それども未練がましく何とか味わおうとする俺を見て、茜がにやりと笑う。あ、なんか、次の言葉が予想できる。

「あーきーら。食べるの大変なら、手伝ってあげてもいいよ?」

「断る!」

 ペットボトルの歯にしみるほど冷たいお茶を一気に飲み干すと、俺はそうばっさりと切り返す。それを見てまた頬を膨らませる茜に、双家が目元だけで笑った。

 

 午後の授業が終わり、掃除が終われば後は帰宅――と言うわけじゃなく、勿論しっかり、今日も部活はある。

 別に部活が嫌いなわけじゃないし、むしろ緊迫した空気とか、汗臭い防具を脱いだ後の気持ちいい風とか、色々充実した気分にさせてくれるものがあるから好きだ。けどまあ、頭の隅で小雪さんの顔を思い浮かべてしまうと、それも霞んでしまう。

 サボるべきか、それとも裏表なく疲れて小雪さんの料理で出迎えてもらうか、どっちにしようかかなり真剣に迷いながら昇降口まで行く俺に、同じ剣道部の佐藤――かなり平凡な名前だが、俺とタイマン張れるぐらい強くて、向こうの方が俺よりちょっと上だ――が声をかけてきた。

「六道、今日部活ないんだってよ」

「え?」

 俺はびっくりして、思わず佐藤の方を振り返る。

「マッチー先生今日急に出張で、しかも代理、誰も頼んでなかったんだってよ。それに、女バレもうじき練習試合近くて、ヒメ先生直々に剣道部に頼み込んできたらしい」

「今日ぐらいは体育館貸切にしろってか?」

「いや、今週。けど、うちも先輩たち結構変なとこ頑固だろ?だから、顧問いない内ならいいって条件付けたらしい」

 その言い方に、俺は何か予感がして訊ねてみた。

「・・・・もしかして、明日も先生休みか?」

「らしい。三国が言ってた」

 三国は、やっぱり同じ剣道部員だ。三人ともクラスは違うけど。

「ふーん…。まあ、ありがとうな佐藤」

「おう」

 佐藤は裏口の方から帰るけど、俺は正面口から帰る。ちゃっ、と手刀を切るみたいな挨拶をする佐藤に同じような挨拶をすると、俺はスポーツバックが無意味だったことを少し残念に思いながら、けど予想外に早く帰れることを密かに喜びながら早歩きで帰りの道を行く。

 うちの高校はまあ普通の高校だから、普通に住宅地の中にある。小雪さんの家に帰るには、大きめの通りを越えないと無理だが、その大きめの通りを越えた先は実は、高級住宅地の一角らしい。最初にこっちに引っ越してきたときは、学校の近くとはまたえらく雰囲気が違うなあとか暢気なことを思っていたが、実際俺は暢気だったようだ。

 小雪さんの家にはないが、小雪さんの家に行くまでの道のりの中に、クリスマスにしか使わないようなどでかい木が庭にある家、外車が三台も並んだ駐車場のある家があったり、窓からシャンデリアが見える家や、演出じゃなくて本当に蔦が石煉瓦に絡まっているアーチ型の門がある家など、色々見ていて飽きない。そしてそんな家々が建ち並ぶ中に、小雪さんの家があると知ると、なんだかどのくらい金持ちなのか想像してしまって恐縮になる。

 けど、小雪さんの家はごくシンプルなほうだ。よくある家の記号みたいな形が、全体的に少し横に伸びた形をしている。それだけじゃ面白みがないので、窓が少し工夫されてはいるけど、他の家ほど目立っていない。玄関口の門は結構近代的なデザインだが、小雪さんが注文したらしく落ち着いた薄いオレンジ色の煉瓦で造られている。

 緩やかな坂道を登っていく中で、見知った背中があった。

 白い七分袖のシャツと、タイトスカートは柿の葉みたいな渋い緑。それにあの髪型と、華奢そうな肩は間違いない。小雪さんだ。

「小雪さん」

 俺が声をかけると、小雪さんとちょっと驚いたような顔で振り返って、それから俺を見て笑ってくれた。

 俺は小雪さんに追いつくと、小雪さんの両方の手を塞いでいる買い物袋を一つ持とうとする。けど、小雪さんは笑って首を横に振った。

「いいの。明くんのほうがずっと重そうに見えるし」

「もう慣れましたよ、こんなの。それに見た目より軽いですから」

 自分でもちょっと強引かもしれないと思いながら、買い物袋をふんだくる。布製の、買い物籠からそのまま出し口を紐で包んだら出来上がりってタイプのやつだ。中身は野菜か何かだろう。袋が大きくなってる割に軽い。

 小雪さんはちょっと困ったように笑ったが、本格的な困り顔じゃない。

 それから二人で、歩く速度を少し遅くしながら帰った。

「野ばらはどうしたんですか?」

「お昼寝中だったから、こっそり抜け出してきたの」

「うわ、冒険ですね」

 俺の反応にふふ、と小雪さんは笑う。多分、もう何度か経験済みなのかもしれない。

「今日は部活はなかったの?」

「あると思ったんですけど、急になくなったぽくで…あと、明日もないみたいです」

 小雪さんはそう、と頷く。

 小雪さんとの会話は、双家や佐藤たちとのものとは全然違う。所々に沈黙があって、けど全然息苦しくないし居たたまれない沈黙じゃない。なんて言うか、無駄な言葉を省いた感じがする。だからと言って実務的な会話でもないし、用件だけをずばっと言っておしまいって訳でもない。二人の間に流れる空気とか、周囲の景色とかを一緒に味わう感じだ。

 俺はそういう雰囲気が気に入っていた。それに、そういうのは小雪さんの独特のものだと思う。誰にでもと言うわけじゃないけど、小雪さんは親しい誰かと会話するとき、そういう小さな沈黙がよくある。野ばらはまだ分かる年頃じゃないけど、旦那さんとの会話とかにもそういうものが感じられる。何となく、お互い甘えているのが分かって恥ずかしいけど、まあ新婚なんだから目を瞑ろう。

 小雪さんが俺の横を歩く。ゆっくりと、まるでちょっとした自分のルールの中で遊んでいるように。靴底の薄い布のスニーカーは、小雪さんの格好には少し似合わないかもしれないけど、またびしっと決めてヒールとか皮靴とか履かないところが小雪さんらしい。買い物に出ただけっぽいから、そんなにめかし込む必要はないんだろうけど。

「今日は、何ですか?」

 俺はふと気になって、自分の持っている買い物袋の中を覗き込もうとする。けど、口は紐で縛られているから勿論見えない。

「いんげんの胡麻和えと、お豆腐に…そうねえ、新玉ねぎはマリネがいい?それとも焼いたほうがいい?」

 俺は少し考える。玉ねぎは生のものはあんまり好きじゃないが、新玉ねぎならあんまり臭みがないので食べれないことはない。まあ、小雪さんが丁寧に下ごしらえしてくれるから、普通の玉ねぎでもほとんど臭みはないんだけど。

「他に、何かと付け合せるの考えてますか?」

「付け合せねえ…新じゃがもトマトもあるし、トマトソースの新じゃが丸ごとのグラタンになるのかしら。お豆腐にトマトの薄切りと玉ねぎのソース乗せたのにもしようかと思ってたんだけど…」

「あ、なら、そっちにしてください。この前の玉ねぎのソース、かなり美味かったんで」

「そう。分かったわ。じゃあ、新じゃがの方はにんにくの目と一緒に、お肉と煮つめようかな。お醤油とみりんとおだし、それから豆板醤少し入れて。お吸い物は…」

 色々と、まるで言葉遊びやままごとのような気軽さでメニューを組み立てていく小雪さん。料理がかなり好きって訳でもなさそうなのに、その表情はとても楽しそうだ。いや、かなり好きな方なのかな。色々と凝り性っぽいから料理も凝るんだと思ってたけど、こと料理になると全体的に動きが軽やかだし。

 そうこうしている内に、小雪さんの家に付く。小雪さんは鍵を開けると、ただいまーと一言。

 その声で丁度野ばらの目が覚めたらしく、リビングの方からんんー、と声が聞こえてきた。その反応に、小雪さんは少し笑う。

「それじゃあ、明くん着替えてきたら、野ばらの相手してくれる?」

「あ、はい。いいですよ」

 買い物袋を持ってキッチンに向かう小雪さん。いつの間にか、俺の持っていた方の買い物袋も小雪さんの手の中にあって、俺はちょっと驚いた。

 俺は言われるままに手を洗ってうがいをして――そういう時期じゃなくても、まだ小さな子どもがいるからなるべき清潔にしてほしいと、過去に小雪さんに言われた――、それから私服に着替えると、空の弁当箱とペットボトルを持って下に降りる。早速夕飯の準備をする小雪さんにそれを一式渡すと、起きたままの惰性で絵本を見ているらしい野ばらの方へと向かう。

 野ばらは多分、旦那さんの影響を受けたらしく、ふんぞり返ったような体勢でふかふかのソファを占領しようとしていた。けど、当然俺の方が体が大きいので、絵本を掴んでいる野ばらごと持ち上げて、野ばらを俺の膝の上に座らせる。野ばらは急に俺が自分の位置を横取りしてきたのを怒ったらしく、絵本からぱっと手を離して俺の方を指差す。

「めー!」

「悪い。けどお前がそんな偉そうに座ったら、俺の場所なくなるだろ」

 俺の言ってることが分かるのか、それとも俺が下手に出ていることが分かったのか、野ばらはぷくっと頬を膨らませてぷいっとあさっての方を向く。

 そんな子憎たらしい態度に呆れる俺とは対照的に、小雪さんのほうを盗み見るとくすくすと笑っていた。

 

 旦那さんが帰ってくる頃に合せて、小雪さんは夕食の準備をする。だから、俺が少しずつ空腹感を覚えて、もうじき出来るのを心待ちにしながら食器を並べる手伝いをしていると、旦那さんが帰ってくる。

 旦那さんが空の弁当箱を食卓に置いて二階に上がり、スーツを脱いでラフな格好で降りてくる頃には夕飯が完成している。

 専用の椅子に腰かけさせ、このときばかりは野ばらも一緒に食べる。旦那さんの横より小雪さんの横がいいんじゃないのかと思うけど、俺と旦那さんが並ぶよりはマシだと、小雪さんは思っているようだ。その気遣いには俺自身、物凄く感謝している。

 それに、この時期の子どもは、どうやら我慢強く自分から食べるようになるのを待つのが一番の得策らしい。さすがに野ばらもその辺りはしっかり躾けられたらしく、食べ物で遊ぶような真似はしないが、遊んでるのか食べてるのか分からないような真似ならいくらでもする。

 当然、見ているこっちははらはらする。しかも俺の場合は真正面だ。小雪さんがわざわざ食べやすいようにと小さく切った新じゃがの甘辛煮――しかも野ばらの分は全部幼児食用に、薄味にしたものを別に取り、それから鍋の中の分を大人向けの味付けにするらしい――をマッシュポテトにでもするつもりなのか、フォークでひたすら潰そうとしている。トマトとタマネギソースのかかった豆腐なんて既にきれいな部分はほとんどなく、白和え直前の状態だ。それでもスムーズなときは見事にスプーンを口に含み、もごもごと食べる。そして、小雪さんに報告するように、にっこりと笑う。小雪さんは自分の分を食べながら野ばらの様子もしっかり見ているので、その笑みに対し、拍手で褒めて返す。

 隣にいる旦那さんは手助けするつもりもないらしい。と言うか、見るべきものではないと言わんばかりの気迫があるようにも感じる。まあ、その意見は確かに俺も同じだが、どうしたことか、ついつい見てしまい、自分の箸がろくに動かなくなってしまうのだ。

 そんな訳で、大体一番食べるのが早いのはやっぱり旦那さんだ。夕食は時間に余裕が出来るからか、各自自分の分の食器は自分で洗う。デザートは一応あるけど、旦那さんは甘いものがあんまり好きじゃないのと、小雪さんが食べ終わってデザートを作る頃まで待つのが面倒らしく、風呂に入りに二階へ上がる。

 俺は次に食べ終わるけど、さすがに旦那さんと同じ行動パターンにはならない。というか、同じ行動を取ったら俺の命があるかどうかも謎だ。

 とりあえず、小雪さんが食べ終わってデザートが来るまでリビングに行き、下らないテレビ番組を見る。液晶で適度に見やすい大きさのサイズだが、生憎番組のほうはあんまりいいものをやっているとは思えない。

 テレビ全体に興味がないなんて枯れてきたのかなあと不安になった俺とは別に、小雪さんが動き出す。どうやら食べ終わったらしい。それを見て、デザートが出るのを知っている野ばらが派手な貧乏ゆすりをするように騒ぐが、小雪さんはただ冷静に叱るだけだ。

「こーら。ちゃんと食べた後じゃないとだめ」

 小雪さんの声は優しいが、頑として譲らないことも分かる。野ばらにもその点は分かっているらしく、一旦大人しくなるが、今度はまた別の意味で騒がしくなった。…まあ、簡単に言うと、早く食べようと焦っているんだけど、結局無理でかんしゃくを起こしたり、わめいたりする訳だが。

 当然、そんなに騒がれたら小雪さんがのんびりデザートを作ってる暇なんかなくなってしまう。野ばらのもとまで行って、丁寧に処置していく。小雪さんの手と同じか、それよりほんの少し大きいくらいの背中をゆっくりさすってあげていた。

「のばらが食べ終わったら、ちゃんとのばらの分作るから…独り占めしたりしない。うん、大丈夫…」

 そんな声が聞こえてきて、なんか子どもってその存在だけで役得なんだなあと、つくづく思ってしまう。

 野ばらが大人しくなると、今度こそ小雪さんはデザート作りを再会する。今日は何の果実なのかを期待しながら待っていると、何か軽い作業音がする。冷蔵庫の中を開け閉めしたり、何かをスプーンで掬ったり、フタを開けたり、何かビニールのジッパーを閉じたり、そういう音だ。

 野ばらがようやく食べ終わる頃には、小雪さんのデザートも出来ていた。今日は火を使うデザートじゃないらしく、どことなくお手軽な印象だ。まあ、俺からすれば、食後のデザートを毎日作るってだけでも凄いんだが。

「はい。よくできました」

 小雪さんが野ばらを褒める声がする。野ばらの自慢気な声も聞こえてきたが、何と言っているのかは分からない。えへへーとか、そんな感じだろう。

 小雪さんは野ばらを抱えてリビングの方に移動してきた。野ばらの食器を片付けるついでに、こうやって野ばらの視界からデザートを見えないようにしておいて、それからデザートを取り出して喜ばせるという演出方法らしい。

 野ばらは口の辺りを、小雪さんに完食して褒めてもらったときに拭いてもらったらしい。顔だけきれいな状態で、行儀よくソファに座っていた。

 そして野ばらの食べ終わった後の食器やテーブルの汚れをざっと片付けたらしく、ゆっくりと小雪さんがリビングまでデザートを運んでくる。

 黒いそば猪口みたいな陶器の器に、ヨーグルトとバニラアイス、その上には宝石みたいに光る赤い苺ジャムが輝いていた。野ばらの分は砂糖をまぶし、俺と小雪さんと旦那さんの分は焙ったアーモンドとミントがちょこんと飾られている。

 デザート一つにも彩りを求め、手を抜かない小雪さんのセンスに嘆息しながら、俺はその一つを受け取る。当然、苺ジャムは小雪さんのお手製だ。市販のジャムとは全然違う。

 一口食べると、さっぱりした甘みと酸味が口の中で一体化する。野ばらは食べるのに集中しているのか、全然遊ぼうとしないで器をしっかり持って黙々と食べる。

「こんなときだけお行儀がいいのね」

 小雪さんもそう思ったのか、くすくす笑いながら同じように一口ずつ味わう。小雪さんはやっぱりそういう、デザートとかの可愛らしいもののほうが似合っていて、銀のスプーンをくわえる仕草が色っぽい。

 見惚れないように俺もちみちみ食べていくと、旦那さんが少し遅く階段を下がってきた。朝着ていた寝巻き姿で、湯上りの時には特徴的な頭のボリュームは抑えられている。それよりも、社会人でろくに運動していないはずなのに、全体的に細身だけど無駄のない筋肉がついていることがちょっとムカつく。

「いたのか」

 旦那さんは小雪さんの隣に立ち、必死に食べ続けている野ばらを見て大げさに目を見張る。旦那さんでさえ、夕食時の野ばらの騒ぎぶりをからかってそんなことを言っているのに、野ばらはそんなからかいも気にしないらしく、ちらっと旦那さんのほうを見るだけで、またすぐアイスとヨーグルトを頬張る。

 旦那さんは何も言わず、少し溶けてしまったデザートを受け取ると、食事よりも義務的に食べる。甘いものが好きじゃないが、食べれないことはないらしい。というか、こんなに食事に関して何も言わない夫を持って、小雪さんは食事の作り甲斐があるように感じているのか不安になってしまう。

 ものの数十秒で旦那さんがデザートを平らげると、背中を向けてまた二階へ戻ろうとする。

「はい、おそまつさま」

 旦那さんが持っていたそば猪口をまたお盆に丁寧に戻しながら、小雪さんがそう口にした。それを見て、旦那さんが背を向けたまま急に言った。

「あれ予約したぞ。グラナダ」

「はい?」

 小雪さんも急に言われて、何がなんだか分かっていない様子だったが、次にふと思いつくものがあったらしい。急に目を見開いて立ち上がった。

「・・・・・って何買ってるんですか!あれ幾らだと思ってるんです!」

「八万」

 さらりと旦那さんが答える。いきなり八万円もする何を買ったんだと思って俺も一瞬目を剥いたが、小雪さんの怒りはそれどころじゃない。絶句して旦那さんを見ていると思ったら、急に大声を出した。

「――ってもう馬鹿言わないで下さい!大体あれはうちに全部ビデオで撮ってあるって言ったでしょう!いちいち買わなくても別によかったのに!」

「ビデオはかさばる上に品質が長く持たん。中古は俺の主義に反する。この際ビデオの一本でも紛失する買っておいた」

「あなたは観ないんでしょう!?だったら別にいいじゃないですか。明日すぐに予約を取り消して下さい!!

 どうやら、何か凄い大作ドラマのDVDボックスでも出るみたいだ。二人の会話から察するに、小雪さんが一時期ハマってたみたいで、それを旦那さんに言ったことがあるっぽい。それでその話題を振った小雪さんに他意はないつもりなのに、旦那さんは予約してしまったってところか…?

 どこまでも本気で怒っている小雪さんに、俺と野ばらはとにかく無言で通す。同居して初めて分かったことだが、小雪さんは感情的になればなるほど、言葉が変に丁寧になるらしい。その分、怒られると有無を言わせない迫力があるように思うが、旦那さんは全然参っていないらしく、少し考えた後、にやりとこっちを振り返って笑った。

「なら観る。俺が観たい。だから買う」

「なっ…」

「休みの日にでも通して観るからお前も付き合え。退屈なら別に寝ても構わん。好きにしとけ」

 そう言うと、旦那さんはいつもと変わらない足取りでまた二階に戻っていく。ああ見えても、ちゃんと家で仕事の残りや明日の仕事の準備をするらしい。

 残された小雪さんは、何も言わずただ目元を潤ませただけで旦那さんの背中を睨みつけている。その頬は赤くなって、潤んだ目は悔し涙とか怒りのあまりの涙じゃない。興奮で喜んで素直に嬉しいと言いたいのに、タイミングと自分の意地と旦那さんにうまく言いくるめられたせいでそれが表現できなくなったみたいな顔だ。

 ここは、あんまり俺が長居しちゃだめなのかもしれない。

 慌てて食べ終わったデザートの器をお盆に置くと、一言言ってすぐに二階へ走った。

「風呂入ってきます!」

 小雪さんがこっくり頷くのが見えて、俺は二段飛ばしをする勢いで階段を上がり、自分の部屋に行く。それから下着と寝巻きを取り出すと、そのまま風呂に直行した。まあ、どんな言い訳でもよかったけど、実際今ぐらいに風呂に入らなきゃ、他に入るときなんてないし、小雪さんがいつ入るかも分からないから今のうちに入ったほうがいいんだけど。

 と言うより、小雪さんが入った後の風呂なんか、自動的に想像するかもしれないし、そうなると風呂どころじゃなくなる。緊張して妄想してのぼせ上がって、それでその原因の張本人なんかに心配されるとなると、――精神的苦痛は計り知れない。

 洗濯機の中にジーンズ以外の脱いだものを全部入れると、そのまま風呂に入る。そして風呂に入りながら、さっきの出来事を考える。

 二人とも、あんまり会話してないように感じるけど、やっぱり二人っきりだと会話が進むんだろうなとか、て言うかやっぱり二人っきりってことは寝る前とか寝室とかそういうことなのかとか、ああいうテクニックと態度が自然に取れるから旦那さんのイメージが「女たらし」なんだとか、色々考えてしまう。何より少し意外だったのが、小雪さんが素直に喜ばないことだ。

 小さいものだったり、千円代のものなら、小雪さんも素直に喜ぶかもしれない。けど今回は、なんたって八万円もするものを自分に内緒で、自分のために買われたら――そりゃあ、小雪さんの態度も頷ける。けど、あのとき素直にお礼を言わなかったってことは、やっぱり二人っきりになったときに言うのかもしれない。…二人っきりのときに。

「・・・・ああもう、やめやめ!」

 なんだか自分の思考が、やましい方向へ働いている。そりゃあ夫婦だから二人っきりのときぐらいはあるだろうし、新婚二年目なら尚更だ。二人とも落ち着いて見えるけど、それが普通なんだと自分に言い聞かせた。

 体を洗って、頭を洗って、リンスもしてから洗い流す。収納スペースの小雪さん専用のコーナーには、シャンプーとリンスと石鹸の他に、体を洗うスポンジもある。いつものことだとは言え、それが視界に入るとそわそわしてしまう。それから視線が外せないまま、また湯船に浸かって、ほんの数分で上がる。最初に入ったときに考え事に熱中し過ぎて、今でもちょっとのぼせ気味だ。

 寝巻きに着替えて一階に下りる。牛乳を飲むためだ。ちなみに一階には既に、小雪さんはいなかった。野ばらの部屋は見てなかったから、きっとそっちで野ばらの相手をしているんだろう。

「明くん?」

 牛乳を飲みながらそんなことを考えていると、急に小雪さんの声がして驚いた。けどリビングにはいなかったし、どこにいるのかと思ったら――リビングの右隣、ダイニングの奥にある、小さめのテラスにいた。その腕にはしっかり野ばらが抱きかかえられている。

 小雪さんの髪は、夜だとよく目立つ。それどころか、夜だと神秘的に感じて、ちょっと雰囲気が色っぽくなったようにも見えてしまう。

「どうかしたんですか」

 俺はグラスを持ちながら、テラスの方へと移動する。小雪さんの家は上から見るとコの字型の家のため、テラスから上を見ると夜空が見えた。当然、東京の空で星が明るいなんてことはありえない。ただ、繁華街の光をどこからか受けていて、夜空が黒じゃなく、薄い藍色に見えるだけだ。

 小雪さんはただ少し笑って、空を見上げている。野ばらも小雪さんに見習ってそうしているらしいが、すぐ飽きて、小雪さんに抱きついたり、降りようとぐずったりしている。

「明るいなあと思って」

 小雪さんはテラスの椅子に腰掛けながら、そう笑う。明るい笑顔じゃない。夜空みたいに、静かで穏やかな笑顔だ。

「そうですね。こんな夜空だと、野ばらも全然怖くなさそうですね」

 俺がまだ子どもだった頃は、何とか夜空は夜空らしく暗かったと思う。けど、今の夜空は明るすぎる。実際、野ばらは夜空に何の興味も示しておらず、ただ小雪さんの膝に腰掛けて、足をぶらぶらさせている。

「うん。・・・・そうね」

 小雪さんはひっそり笑う。まるで夜空みたいに。

「だめね…なんだか学生時代に戻ったみたいな気分になる」

 野ばらの頭を撫でながらそんなことを言う小雪さんに、思わず俺は目を丸くする。学生時代って言っても、小雪さんは学生時代を終えてすぐ結婚した人だ。その早さは、親戚一同が集会を開いたぐらいの早さで、小雪さんの歴史は学生時代と結婚後ぐらいしかない。

「慣れてたはずだけどね…相変わらず、あのひとってああいうことしちゃうのよねえ」

 苦笑しながら呟く小雪さんの言っていることは、何となく理解できる。さっきの旦那さんのことだろう。

「嫌になるわ…」

 ため息のような呟きに、今まで黙っていた俺は、思わず訊ねてしまう。それでも、何となく胸に迫ってくる思いを無視して、なるべく静かに。

「・・・・・何がですか?」

「んー?そうねえ…」

 小雪さんは空を仰ぎ見る。夜風がどこからともなく吹いてきて、その風が小雪さんの髪をもてあそんでいる。小雪さんはそのままの体勢で考えると、それからちょっと、俺に寂しそうに笑った。

「まだ内緒。もう少し明くんが大人になったときか…」

 大きなあくびをする野ばらをあやしながら、小雪さんはすっと俺の横を通る。まるで夜風そのものみたいに。

「そうね。わたしが弱ってるときに、言うかもしれない」

 いつもの小雪さんの笑顔を見せて、おいでおいでをする。腕の中の野ばらは、もう既に舟を漕ぎかけている。今から寝かしつけるから、俺も中に入ったほうがいいってことなんだろう。

 けど俺は、静かに首を横に振る。なんだか、今この瞬間だけでも、一人でいたい気分だった。

 小雪さんは少し不安そうな顔をするが、それでも意図を汲んでくれたのだろう。

「湯冷めしないようにね」

 そう微笑んで、俺が頷くのを見ると、テラスの窓を閉めてくれた。

 小雪さんの姿が見えなくなると、俺も小雪さんと同じように夜空を見上げる。感慨深くなるような、きれいな夜空でもない。ただ高級住宅地らしい冷たい静けさがあるだけだ。

 牛乳を飲んだ後のグラスは、白い牛乳のあとがまだ残っている。薄暗い空の中、その薄い白は案外目立たない。それをじっと見ていると、何か、さっきまで上手く隠し通せるはずだった色んな感情が湧き出てきそうになる。

 鼻の先がむずむずして、瞼の奥が熱くなって、頬が妙に温かい。

 ああくそ。何だよ。仲間はずれにされたわけじゃないんだってば。ただ小雪さんの気持ちが、まだ頑張れるってだけじゃないか。最近になってようやく久々に顔を合わせて、それからほんの数ヶ月ぐらい居候してるだけだ。まだ、完全に打ち解けられないのは当然なんだ。なのに一体なんでこんな、惨めな気持ちでいなきゃならないんだよ。なんでそんなことで、裏切られたとか思い込むんだよ俺は。そうじゃないだろ馬鹿。

「・・・・・・・あーカッコ悪い」

 自分で呟くと、更に目の奥がじわっとなる。

 けど、口に出して言うことで、混乱しかけていた頭が少しずつ冷静になっていく。

「馬鹿野郎」

 多分、今度は旦那さんに向かって言った言葉。そう言い切ると、胸の辺りが気持ち軽くなって、俺はもう一度鼻をすする。

 もうこのまま、勢いに任せて寝ようと、立ち上がってグラスを持ってテラスの窓を開ける。それからグラスをキッチンで軽く洗うと、そのまま二階へ上がった。

 あんまり長い時間いたつもりはないけど、それでも結構な時間、俺は外にいたらしく、もう十一時が近づいていた。そういえば、風呂上りのままで来たから、体が冷えている。

 電気を消したら布団を被って目を瞑る。

 軽く泣いて疲れたから、瞼はじんわりと重くなって、よく眠れそうな気がした。胸のつかえも、一時的とは分かってるけど軽くなっている。

 虚勢を張り続けてもいいから、明日も今日と同じ態度で。一人のときは泣こうが妄想しようが好きにしてもいいから、明日も小雪さんには笑顔を向けろ。

 もう既に、他人のものになってしまったときに惚れてしまった自分の馬鹿さ加減を堪えながら、俺は更にきつく目を瞑る。

 瞼は重いくせに、なかなか寝付ける気分じゃない。

 けど、まだ泣くほど気持ちをひきずってる訳じゃない。

 いつまで経っても中途半端なんだなあ俺、と呆れたように一息つくと、今度こそ、ちゃんと寝れる気分になって、俺は肩の力を抜いた。

 

RETURN

 

アトガキ

 ちょっとぶつ切り&描写足らずのくせに色々盛り込んでしまって自分でも読み辛いとは思いますが、一応アキラの一日を通しで書くのが目的なので勘弁してください。

 というか描写が細かかったら一人称の意味あんまりないなとか思ってしまうのはダメですかそうですか。

 つーか一周年がマジこんなもので本気でごめんなさいマジでごめんなさいorz