Durst Polka

ぼや


 血を撒き散らして手の内に戻ってくるスダルサナを再び軽く力を籠めて放てば、マンドラゴラの花と頭を綺麗に両断する。あっさりと植物型モンスターの命を刈り取った円陣の刃の勢いは衰えず、後ろのデスキラービーの胴体をも切り裂くとようやく半回転してデューザの手に帰る。しかし彼はやはりその手を休める暇なく洞穴の中にブレイカーを放った。
 休む暇などありはしない。意のままにスダルサナを動かし、モンスターを一度に数体は確実に屠っているデューザですら、敵の全体の状態を確認する余裕などない。それでも自分はまだ周囲を見れる冷静さは残されていると、彼は理解しているが。
 そも冥界王によって創られたヒトゲノムとしてデューザに与えられたのは冷徹な判断力だ。他の原種よりも確実に生き延びるため、そしてつがいを守るため、彼は授かった能力を使いその通り生き延びてきた。仲間であったはずの原種を裏切り、その手で傷付けることがあっても、罪悪感さえ覚えずに淡々と。ランデロールでつがいと再会を果たした際にですら、彼の生き残ることに特化した思考は感情に揺らぎながらも正常に働いた。
 この乱戦の場であってもその能力は遺憾なく発揮された。最初こそは今まで長らく請負人として死地に赴いたデューザであっても見たこともないほどのモンスターの密度に半ば判断力が揺らいだが、それも数分もすればいつも通りに治まって淡々と効率良く敵を屠るだけの思考に切り替わった。しかし彼がそうなれたのは、本当に彼だけの能力なのかと問われれば当人でさえ疑問を覚える。
 理由は二人の仲間――便宜上だが――の存在だ。前世紀の亡霊、冥界の冷たい土に抱かれて長らく眠っていた黴臭い故人でしかない者たちが、デューザに判断力を取り戻させたのではないかと怪しませる。それが事実であろうがなかろうが、彼はどうとも思わないし、彼らもどうせ気にしないだろうが。
 二人の力量は知っている。デューザ以外の仲間でさえ、この二人を敵に回して生き延びるのは難しいと判断する力の持ち主であることは疑いようがないだろう。彼の場合は個の才能としてだけではなく、立ち回りの点でもその辺りを今、痛感していた。
 戦い慣れ過ぎているのだ。仲間の誰よりもこの二人は圧倒的不利な環境を耐える経験を持ち、しかもそれに混乱しないだけの場数を踏んでいる。自分に声を掛けることもなく余裕を取り戻させる二人の姿を見て、デューザはそれを痛感した。
 仲間の一人、魔族の男はさながら血を振り撒く暴風だ。デューザがモンスターの群れの密度に怯んだその瞬間でさえ男は真っ先に敵陣に飛び込んで、デスキラービーの胴を毟り、ブラッディビーストの目を抉り、マンドラゴラの頭から踏み割って鉄魔人の兜を砕いた。自らが通った跡からどれほど血が吹き出していようとも、彼は呵々と笑って次々目に入るものの体の一部を素手で抉って壊していく。十数分経つ今も、その勢いは衰えない。手当たり次第どころか目に入り次第、モンスターが一つ所に固まっていればそこに跳躍し、散々黒い魔手の餌食にしてまた別のところに軽やかに移動する。
 世が世ならば、大魔王として多くの魔族に崇め奉られる人物の動きではない。それとも、こんなものを魔族は原初の破壊だと崇めるのだろうか。獲物を食い散らかす獣どころか、豚のように肥えた大食いが繰り広げるような醜い食事の風景が広がっていると言うのに。
 唾液もソースも肉でさえも鮮やかに過ぎる鮮血の色をしていたが、それさえ男は気にする様子はなく本能のままに敵を黒い手で貪り尽くす。骨を生きたまま引き抜く感触は干し肉の歯応えに似ているのか。臓物を直に崩す感触は柔らかな菓子を舌で崩す食感に似ているのか。粘つくタールの如き汁が彼の頬に引っかかる、その温かさは凍えた胃に染み渡るスープのようか。洞窟の冷たい土の匂いと生き物の吐く生温かい臭い息と、皮を剥がれ肉を裂かれ腸を抉り潰されたものたちの醸し出す芳香は、鼻腔をくすぐる肉やチーズの焼ける匂いか。自分の喉に自分の牙を刺し貫かれたモンスターが、血の塊と共に吐き出す凄惨な悲鳴は食事に花を添える音楽なのか。けれどそれらの惨劇さえも、恐らく彼にとっては一食(一暴れ)分の快楽でさえないのだろう。実際に食していない彼の口元は、流行遅れな食事に出会った美食家が浮かべるそれに似た嘲りを含んで消えることはない。
 それでも男は貪り続ける。外套も肌も青白いままで、黒いスラックスをより一層黒く染め、甲冑の触手どもを好き放題に暴れさせ、自らもまた気ままにモンスターを食い散らし、はたまた遊び散らすのを止めはしない。血飛沫を浴びる暇も無く次々とモンスターを毟っていく彼の瞳だけが、薄闇の中、まるで血そのもののように爛々と輝く。対峙する憐れなるものたちは、理性があるなら思うかもしれない。あの瞳の輝きの養分となるために、自分たちは悲鳴を上げ恐怖を感じ痛みを訴えるのだろうと。
 臓物を半端に抉られ、絶命するにはあと幾つか傷の深さが足りないモンスターどもが生み出す生き地獄めいた光景に、しかし救いの手はあった。幸か不幸か、すぐそばに。
 暗い洞窟内においても何処からか光を受けて静かに輝く白銀の髪が風もないのに微かに揺らめく。美しい髪の持ち主の女は、人形めいた造りの瞼を伏せて微動だにしないでいたが眠っている訳ではないらしい。現に彼女に触れようとしたラフレシアの一匹は、指先とは言わず全身に七色の火花を散らした。だが不思議なことに苦痛はない。意識が薄れていくだけの穏やかな心持ちで、モンスターはその身を灰に変えていく。そしてそれに、周囲のモンスターは不可解にも気付かない。ただ何かあると、膨れ上がった魔力を肌に感じて警戒を示すばかりだ。
 女の目が薄く開く。恐ろしくも深い青い瞳が白い瞼と白銀の睫毛の隙間から覗くが視線の先には何があるのか、この場にいる誰一人としてわかりはしない。長く付き合った者であればそんなものを推理するだけ無駄だと知っているし、そうでない者はそも目を開いたことに何の意味があるのか知らないし興味がない。つまるところ、彼女の邪魔をする者は誰一人としていないと言うこと。
 金とも銀とも木ともつかぬ材質の、淡い黄金色に輝く月の賢者を模した杖を女は声もなく地面に突き刺す。するとそこから白い光が滲んだ。隕石のような光の雨粒が降り注ぐと予想していたらしいモンスターたちは、肩透かしを喰らって戸惑う。当然、素早く思考を切り替えてその細身に襲い掛かろうと距離を詰めるものもいる。
 光は湧き水のようにじわりと杖の先から流れ出て、まずは女に果敢にも近付いて来る地面に這うものたちにそっと触れる。毒の粉を撒き散らそうと勇んでいたラフレシアの小さな二本足や、獲物に飢えたブラッディビーストの四肢がその輝きに触れると、そこから月光石めいた淡い輝きがするりと彼らを覆ってゆく。贈り物のラッピングを掛けられるようなスムーズさと正確さで彼らは尻尾の先や葉先まで綺麗に覆われると、それきり彼らの全身の力が抜け、眠ったように倒れ伏す。
 この光景を目撃したモンスターたちは動揺する。強力な眠りの魔術か痺れの魔術か。どちらにせよ強い魔術は厄介だ。地を這うものは距離を取り、空を浮くものは我こそはと躍り出る。しかしそれは罠だ。水のような光はか細い帯、と言うよりリボンのように細やかに空を舞い始め、やはり水が流れるような早さでデスキラービーの針からその身を絡め取り、同じく鉄魔人の全身を滑るように光で薄い覆う。
 こうなれば高低差など関係ない。白光は女の意識下にあるのかそれとも自動的なのか、近付くあらゆるものを綺麗に飲み込んで、そのまま眠らせてゆく。当然、それしきの魔術な訳はないけれど。
「……ごめんなさい」
 女の周囲のモンスターが全て意識を失ったその瞬間、今の今まで沈黙を貫いた彼女がようよう声を出し、洞窟の暗さが一変する。彼女の杖の先から生まれ、水のように滲み出て空気に何かを描いた白光はいつの間にか立体の魔方陣としてその複雑な線を描いていたらしい。陣の完成後それは今までとは違う、凶暴なまでの眩い光と全てを焼き切る魔力を放ち、眠るように倒れていたモンスターだけでなく、それを見ていたものどもでさえも包み込む。
 白光が洞窟内を満たしていたのは十秒にも満たなかったのだろう。光が霧散し視界が元の暗がりにそのときには、倒れ伏していたモンスターなど影も形もなかった。同時にそれまでデューザやジャドウが生み出した屍も、更には黒い魔手によって瀕死を迎えていながらもいまだ事切れることも出来ず死の恐怖と苦痛を味わっていたモンスターもまた、姿を消した。
 狭いはずの洞窟が急に広さを持つ。その事実に戦慄したモンスターどもはしかし、デューザのスダルサナか黒い魔手で眉間を割られ、貫かれ、痛みを覚えて絶命した。絶命出来ぬものは、今度は短く杖を振り女が生み出した光弾に貫かれて塵と消えるだけだ。
 こうなれば逃げようとするものも当然出る。しかし、人の姿をした純粋な人間ではないものたちがそれを見逃すはずもない。魔族の男は仲間の隙間から逃げようとするモンスターを一層惨たらしく殺し、ヒトゲノムの男は彼らの死角に隠れて逃げようとするモンスターの隙を突いて屠る。人間でありながら人間ではない女は、視界にいようがいまいが逃げようとするモンスターがいるとまるで事前に察知したかのようにそこを丁寧に狙って滅し。
 最早圧倒的、と言う言葉さえ生温い。虐殺され、処理され、消滅されるモンスターたちは、今まで骨の髄まで貪ったヒトを喰らうどころか触れることすら敵わずに、その命を終えた。この洞窟に住み着いた人喰いモンスターどもは国を築くかの如き勢いで増殖していたはずなのに、それがたったの三人によって秒刻みでその数を減らされていく。
 人の理性を持っていれば、彼らはこの事態を悔やみ恐れ天罰であると受け入れたものもいるかもしれない。だがそんな知性が備わっていれば、人を喰うことで人に駆除される可能性に気付けたはずだ。それに気付けなかったが故に彼らは今こうして、駆逐される報いを受けている。尤も駆逐する側も彼らに直接的な恨みなど抱いていないし、天罰を与える身の上として驕ってもいないが。
 三人の狙いは、この歪んだ王国に住まう民草ではない。国民であり兵士でもあるモンスターどもに人の血肉を覚えさせた原初のモンスターこそが、彼らが何らかの感情を込めて討つべき存在であると理解している。理解していることを、恐らく相手も理解しているのだろう。なかなかどうしてその誰かは、尻尾を出す気配がない。
 そうなればそれでいい。洞窟内のモンスターを殺し尽くせばいずれ遭遇する――と、ジャドウは大雑把に判断した。モンスターの世界は実に単純で、図体が大きく力が強い個体がピラミッドの上位に座する。となれば自然、鉄魔人を配下に置いたこの洞窟の親玉はそれより強く巨大と判断するのが無難だろう。そんなものが逃げ道なんぞ人間臭い姑息なものを造るとは思えないし、ここまで多くの雑兵を侍らせている以上はそれ相応の支配力があるものでなければいけない。それこそ今、彼が気紛れに屠るモンスターどもが全滅しても平然と、巣の奥で獲物を待ち構えているような阿呆でありながら獰猛でなければ。
 恋人が奇妙な方向に期待を持っていることに、スノーは気付いたらしい。それまで無表情でモンスターを灰に変えていたのだが、薄く唇が開いてか細いため息を吐き出した。恐ろしいことに、たったそれだけの反応でも相手は見過ごさない。一瞬で彼女の傍にまで詰め寄ると、彼女を囲うモンスターを次々と魔手の餌食にしながら話しかけて来る。
「何だ、飽きたか?」
「あなたと一緒にしないで下さい」
 言い放ったスノーに、しかしジャドウはほうと面白そうな声を出す。出しながらも次々と呆気ないほどの勢いで死体を造る。
「俺は飽きてなどいない。お前は図星だったようだが」
 ジャドウが生み出す屍を一挙に消すと、スノーは背中を預ける人物の肩からスカートへ伸びる触手を軽く手で払う。この乱戦時に何をしでかすかと思えばこれなのだから、今の彼は悪い方向に行くほど調子に乗り過ぎていると行動でも知らされて彼女は呆れた。
「図星ではありません。あなたの笑顔に嫌な予感を覚えただけです」
「生憎と俺はこんな笑い方しか出来ん」
「知っていますよ、それくらい」
 本人は気付いていないようだが、多少穏やかな笑みくらいは浮かべられるとスノーは指摘したい気持ちを綺麗に飲み込んで杖を振る。ジャドウの神経が昂ぶった今それを言おうものなら、落ち着いたときに何をされるか。想像するだけで怖気が走る。
「ただ、時と場所を選んで欲しいと思っただけです」
 震えかけた自分に気付かれぬよう、スノーは前を見据える。会話をしている二人はモンスターの目にも随分余裕があるよう写ったのだろう。なんとかして隙を突こうと、殺気立ちながら彼らの周囲を取り囲んでくる。
「はん。……成る程、貴様はこう言いたい訳か」
 お前、ではなく貴様、になる。この切り替わりにスノーは嫌な予感を覚えながら、じりじりと距離を詰め寄ってくるモンスターを待ち構える。下手に動いて集中力を乱す真似は、彼女にとって良い戦法ではないのだ。背後の恋人は、当然そんなことを気にしないが。
「こいつらを挑発はするな。面倒ごとを増やすな、と」
 高らかに、眼前のモンスターたちへの宣言するかのように告げるジャドウの顔を、スノーは見ることが出来ない。けれどどうせその顔は攻撃的な笑みを浮かべているのだろうと予想して、彼女は杖を握り直す。眼前のモンスターたちがどうにか持ち得ていた冷静さを失い、襲い掛かってくる瞬間はすぐそこに迫っていると悟ったからだ。
「そうは言うがなスノー、雑魚は所詮雑魚でしかない。どれほど束になろうが、俺に届くはずもない」
 来る――冷静にタイミングを見極めたスノーの目が窄まる瞬間を、ジャドウもまた悟っていたのか。男の白い手が瞬時に細腰に絡み付き、その違和感に彼女が気付いたときにはもう彼の両腕に抱え上げられていた。それと同時に怒涛の如くモンスターが二人に向かって押し寄せる。
「……なっ!?」
 だがジャドウが体当たりなんぞを食らうはずもない。溜めもなく洞窟の天井に頭が掠る程にまで跳躍した彼は、鉄魔人の兜とデスキラービー何匹かを踏んで地を這うモンスターたちを見下し哂う。
「悪くはないな。この手の視界も」
「何を、するんですジャドウ!?」
「いいからとっとと撃て。貴様を抱えているせいで手が塞がって足しか使えん」
 自ら手を塞いだのはジャドウの意思だろうに。どうして自分が尻拭いをせねばならないのだと思いつつ、スノーは不安定な地盤のもと珍しく半ば荒々しい勢いでもって杖を振る。
「……ああ、もう!」
 それだけの動作でしかないのに、突如として空中に生まれた白光は滾る太陽の如き魔力を孕み、モンスターたちにその光を認識させた途端に世界を白く染め上げる。当然光が止めば、モンスターがすし詰めだったはずの地面が一部綺麗に抉り取られていたためジャドウはそこに着地した。
「ふん。貴様、やはり今まで敢えて威力を弱めていたか」
 碌に集中できる時間もなかった割りにこの破壊力を見せ付けられれば、多くの魔術師が杖を手放しかねない。そんなジャドウの指摘にスノーは首を横に振る。
「制御していたと言って下さい。対象を限定するのは大変なんです」
 末恐ろしい話だ。油断すればこの洞窟ごと砂塵と変えてしまうと話しているようなものなのに、スノー自身はまるでそんなことを言っていない顔をしている。だが、――だからこそともジャドウは思うわけだ。そうでなければ面白くない、と。儚い冬の花より美しく、新雪のように華奢な外観だけではなく。本人にその気さえあれば世界を制することも出来る力を持っているのに、ただ細く白い手で受け止めるには多過ぎる人々の平穏に奔走していた生真面目な性格と、最後の最後に私情を出して、それまで自らの時間を長らく捧げた人々を手放してしまう詰めの甘さが、彼にとってはどうしようもなくいとおしい。
 こうして人を喰ってしまったモンスターどもを屠り続けている今も、スノーが矢鱈と魔術を放たないのは正しく痛みも与えず一瞬で彼らを消すことに重きを置いているからだとジャドウは理解している。おかしな話だ。そもここのモンスターたちが豊富な土地にあって敢えて人間を恐怖に陥らせた上で喰ってしまったからこそ、彼らは歪んだ生態系を持つ彼らを根絶やしにする勢いで戦っていると言うのに。痛みと死の恐怖を自分より弱い生き物に与えたからこそ、痛みと死の恐怖を自分より強い生き物に味合わされるのは因果であろう。なのに彼女は対峙する連中に、痛みも死の恐怖もなるべく与えまいとしている。半端な女だ、覚悟のない女だ。だと言うのに彼の胸のうちには、腕に納まった女への熱い感情がじわりと湧き上がる。
「スノー。どう思う」
 だからジャドウはいまだスノーを手放しもせず、下から近付くものどもを蹴り付け、上から近付くものどもを肩の触手に任せながらその耳元に囁きかける。彼女の方はと言うと、当然ながら窮屈な姿勢で応戦していたがその表情は僅かに硬い。
「この地に惹かれた魔力を持たない四足どもの肉にも飽いて、古く朽ちた蛆虫の這う腐肉に飽いて、生きた新鮮な人間の肉に手を出す気分はどんなものか」
「…………っ」
 詠うようにジャドウの唇がスノーの耳と心をくすぐる。否、引っ掻いていると表現した方がより正確か。その柔らかな肌に爪を浅く立て、しかし抵抗されない程度の力を篭めて彼は彼女の心を愛撫する。痛みは薄い。あくまで、今は。
「飽食の果ての行動だと、貴様も言っていたな。人の死肉を漁る我が身の傲慢さなどに気付かぬまま、むしろ傲慢であろうとするかの如く奴らは人間を襲ったのだろう」
 ジャドウの唇は止まらない。脚を使って敵をいなしながら、口元を三日月のように吊り上げて、白い耳に蠱惑な息を吹きかけた。その心根を、怒りと血に浸す毒で満たそうと。
「人間はどんな奴か、貴様はわかるか? 女か男か、老いか若きか。どちらにせよ初めは肝心だ、一人のときを狙ったのだろうよ。足早に闇夜を歩くその人間を。頼りない灯りを一つ手にしただけの、帰りを待つ誰かのためと、彷徨う自分の心細さに焦った人間のその足に――」
 言って、ジャドウはブラッディビーストの鼻面に踵を振り下ろし抉る。足蹴を受けた黒い獣は鼻からぐしゃりと潰されて、鮮やかな桃色の肉と何本か折れた黄色い歯とそれよりは白い骨を見せ付け、鮮血を吹き出しながら身悶えする。
「否、それとも背中か?」
 言って、ジャドウの触手が鉄魔人の腹を貫く。その奥に潜むかの甲冑の化物の心臓部をも貫いて、更には背中にまで届く。破片が派手に舞い散って、周囲のモンスターの目を潰した。
「流石に頭からはないか!」
 逃げようとするラフレシアを足で拘束し、爪先に軽く力を入れる。それだけで植物の割に弾力のある丸い胴体は、棒で叩かれた西瓜のようにぐしゃりと淡黄色の液体を吹き出して二つに割れた。夏場に雑草を刈った際の咽るような青臭さと、生々しい血が入り交じったかのような匂いが彼らの鼻腔を刺す。
「……結局のところ、こいつらは殺した訳だ。人間一人に襲い掛かって、もがき苦しむ獲物の涙も鼻水さえも血と一緒に舐め取って、臓物の苦さは毒を好むものに任せ、骨に纏わる肉の旨さに歓喜して、果ては互いに奪い合ってでさえ貪ったのだろうよ!」
 ジャドウの哄笑は狭い洞窟内に反響して、腕の中のスノーの耳を通り越し、その奥の心にさえも波を立たせる。それに彼女は歯を食いしばって、杖を振るいながら耐え忍ぶ。自分の矛盾を解放しようとする男の、悪趣味にして実に嫌らしい『手助け』に抗うことは苦痛を伴う。更に今の自分の矛盾が剥き出しになる。偽善者だと、既にわかっていたことを改めて思い知らされる。だが彼女は。
「それでもわたしは、彼らに……痛みも恐怖も与えません」
「何故だ」
 眼前のモンスターがスノーの魔力によって塵に変えられていくのを見届けながら、ジャドウは尋ねる。腕の中で、茨に抱かれたような顔をしている女に向かって。
「……わたしに、彼らに怒る資格はない。多くを殺して苦しめ、絶望させたわたしには」
 あらゆる方向で苛む感情に、スノーは耐えるように眉根を寄せて呟く。その言葉に、ジャドウは笑った。その苦しむ顔が、力強くも自らの罪を償おうと前を見据える殉教者のそれとして美しく見えたから。そしてその気高くも凛々しい女が、血塗れた自分に抱かれているこの皮肉が堪らなく可笑しくて。
「だが、貴様は俺を愛している。殺し尽くして罪を感じぬ、それどころか殺しに愉楽を覚えるこの俺を」
「ええ」
 とうに吹っ切れた顔で、スノーは頷く。頷きながら、デューザの周囲のモンスターを、悲鳴を漏らす暇も与えず白い光で焼き尽くす。
「けれどあなたは、わたしを愛している。あなたが最も嫌うはずの、偽善と醜い自己欺瞞に満ちたこのわたしを」
「ああ」
 成る程確かにその通り、とジャドウはややも感心した顔で頷く。頷きながら、やはり殺す。罪の意識も持ち得ることなく、呆気無いほど簡単に。それから男は自分の周りを彼なりに片付けると、腕を揺すぶりスノーに示した。返答に満足したが故に、その身と心に立てた爪を開放してやろう、と。
 スノーは何も言わずに地面に降り立ち、スカートの皺を手で軽く払い終える。そのときだ、地響きが人の姿をした三人の耳に確かに届き、周囲のモンスターの士気が一気に高まるのを感じたのは。
「……あれは」
「来たか!」
「ええ、そうです」
 三者三様の反応が、一挙に三人の視線の先に集う。この闇において尚暗いところにいたらしい、淀んだ悪臭を伴う何かは浅い闇にのろりと近付き、頭を上げた。
 刺々しい鶏冠と、巨体を浮かすには小さすぎる羽がまず闇の中から浮かび上がる。それから棘がついた丸太よりも大きな尻尾と、洞窟の隙間を埋め尽くさんばかりにでっぷりと肥えた腹を淡く紫色に輝く黒い鱗が近衛兵のように守っている。頭部は確かに蜥蜴めいてはいるが、眼光と口から見える歯並びが鰐さえも一飲みする獰猛さで輝いた。この空間に入るのが異常なほどの圧迫感と存在感を醸す、それは確かにモンスターの王者として名高き竜そのもの。
「ダークドラゴン……」
 ここにいるにしては危険過ぎるほどの存在を前にして、デューザがより一層の隙を見せずにスダルサナを構え直す。彼に付いた傷を瞬く間に治癒すると、スノーが小さく目付きを強めた。
「確かにここなら、彼にとっては理想の王国に成り得ましょう。けれど何故、こんなところに……」
「どうせこいつは逃げたのだろうよ。同種の縄張り争いか、種を研ぎ澄ます生存競争そのものに」
 挑発めいた口調でジャドウが決め付けると、否定の意味合いを込めたいのか、ダークドラゴンが空気を揺るがす咆哮を放つ。しかし、たかだかそれだけで三人の心の臓が震えることなどない。むしろ聞くに耐えない雄叫びは、彼らの心身に程良い緊張感を持たせる。
「さて」
 自らが生み出した屍を蹴り避けて、ジャドウがダークドラゴンの眼前に堂々と立つ。小山のような巨体に比べればちっぽけに過ぎる彼の細身は、しかし全く弱さなど感じさせない不適な笑みとそれに見合った威圧感を放った。
「本番だ。精々楽しませろ、黒蜥蜴?」
 耳をつんざく咆哮を再び放つと、ダークドラゴンはその体型の予想を裏切る素早さで、ジャドウに迫った。


「ぜっろっ、すぅう〜!」
 背中に誰かが飛び込んでくる。パーティーの女どもは奇襲しか出来ないのかと思いながら、ゼロスは苦い顔で獣のような体毛に覆われた手足を持つ誰かに抱きつかれた。
「どけ」
「なぁんだよぅ!? ひどいよ、それすっごいひどい!」
 ゼロスの脇と腰にそれぞれがっちり手足を絡めるシオラの息は、顔を乗り出していないにも関わらず明らかに酒臭い。彼がこの天幕に顔を出したときから出来上がっているらしいとは知っていたが、ここまでとなると害悪でしかない。
「うちのハグが邪魔だって言うのゼロスぅう!?」
「邪魔だ」
 さらりと言ってのけ、ゼロスは麦酒を口に含む。幸い、シオラは邪魔してこなかった。先までぴんと立っていた耳を、悲しいくらいに萎れさせて涙で彼の背中を濡らしていたかだ。
「うう……うち、邪魔かぁ……。邪魔、なのかぁ……」
 ゼロスの眉間にはっきりとした皺が寄る。今の彼の正直な心情を言葉にすると、面倒臭いの一言に限る。抱きつき魔に泣き上戸なんて、絡まれた者にとっては事実面倒以外に言葉がない酒癖だ。
 その上、リディアやブリジッテと会話していたとき以上に周囲からの視線が強い。彼の近くに座った赤の他人たちはともかく、通路を行き交う人々もまたこちらをちらちら見て、明らかな反応を示してくる。当然、原因はシオラだ。
 ゼロスが天幕に入ってきたときからどんちゃん騒ぎの中心であったシオラが、こんなところで男に抱き付いているのだから無駄に注目を受けるのは仕方ない。だが、彼女だけで単独行動と言う点が今の彼にはやや気になった。
「お前、あの取り巻きどもはどうした。俺の代わりにあいつらに抱き付きにいきゃいいじゃねえか」
「こ、コルゼたちはもう潰れちゃったんだもんっ。寝てる人に抱きついてもつまんないんだよぉ〜!」
「うるせえ知るか」
 割と本気で吐き捨て、ゼロスは胴体にしがみつく手足に力を入れられながら皿の中身を空にしようとフォークを動かす。いくら自分が奇妙な注目を受けていても彼はその手の居心地の悪さなどまるで感じていないため、背中に当たる胸の柔らかな感覚さえも綺麗に無視出来ていた。
「……なにそれぇ」
「食うか」
 それどころかサラミと麦酒で腹が膨れ気味だったゼロスは、渡りに船とばかりにフォークに芋団子を突き刺し子泣き爺の如くくっ付いた娘相手に軽く掲げて見せる。あれだけ飲んでこれほど酔っていても、シオラに食欲はまだあるらしい。彼の顔の真横から顔を乗り出して、酒臭いままあざとい仕草で首を傾げる。
「おいち?」
「食えねえことはねえ」
 ちょっとやそっとの色気なぞ悉く通じないゼロスは平気な顔で応えると、シオラの顔の辺りにフォークを持っていく。酔っ払いもまた自分の媚びた仕草が通じずともさして気に留めていないらしい。差し出されたフォークに、喜び勇んで齧り付いた。
「んむ……! んー……、冷たい!」
「だろうな」
 頷くゼロスは平気な顔でフォークを戻して自分もまた芋団子を食す。改めて味に集中すれば、確かにソースも団子も少しずつ冷めていたせいで、味は出来立ての頃と比べるべくもないほど劣っていた。サラミくらいに温度を気にしないものが出てきてくれた方が助かったのだが、今それを誰かに指摘してまた別の料理が出てくるのはそれはそれで困る。
「ゼロスぅ、麦酒も炭酸抜けてきてなーい?」
「腹膨れてんだよ」
 シオラの指摘通り、ジョッキグラスに張り付く炭酸はもう薄い。しかし中身の方は四割近くは残っており、ゼロスのペースの遅さを暗に示していた。否、彼自身は下戸ではないし小食でもない。単にシオラも含んだ食事の邪魔が異様に多いだけだ。
「じゃ、そっちもうちにちょーだい!」
「ならまず降りろ」
 そりゃご尤も、と頷いたシオラは腰から脚を、続いて胸から手を離して無事にゼロスから離れる。それから彼の体温に名残惜しそうな素振りも見せず麦酒に飛びつき、ジョッキを両手で持って一気に傾けた。
 五秒もしないうちにゼロスが残した麦酒がシオラの喉の向こうに消えてゆき、その早さに成る程これは囃し立てられると彼は内心納得した。ついでにそれは周囲も同じ思いであるらしく、薄らとおお、と歓声が聞こえた。
「ぷあー! 気抜けててもんまーい!」
「そりゃ結構なこった」
 投げやりなゼロスの相槌さえも気にしたふうもなく、シオラは満足げな笑みを見せる。一見すれば和やかな光景かもしれない。しかしそれは、スイッチが入った瞬間でもあった。
「んふふふふ〜……。やっぱりお酒は美味しいなぁ〜」
「そうかよ」
「だよ〜やっはりお酒はいっっっぱい飲む価値があるもんだよ〜」
 奇妙な響きを持っていると、そこでゼロスは思い当たり。ようやく意識した上でシオラの顔を見上げると、そこには頬を瑞々しく上気させ、目元を潤ませ焦点の合っていない目で妖艶に笑いかける、可愛らしくも健康的な色香を振り撒く赤茶色の衣装に身を包んだ獣人の少女の姿があった。
 しかし、ゼロスはそんなものに惑わされない。シオラが放つ女の官能を彷彿とさせる空気にも流されず瞬時に意識を切り替えて、彼女の奇妙にだらりと垂れた腕に注視する。
 薄く紫掛かった桃色の体毛に包まれたシオラの腕は、一見何の力も入っていないようには見える。だが実際にそうならばどうして彼女の手が猫科の獣のように、指を折り畳んだ形状に見えるのか。足元が、跳躍のために弾みを付けるように軽く折り曲げられているのか。先に比べて距離が、僅かに開いているのか。
 椅子が一脚ずつ設置されていたのであればこのまま立ち上がって距離を取ることも可能だったろうが、今座っているのは馬鹿に長いベンチなのでこれ以上距離を取るのは難しい。周囲の客の多くは能天気にこちらを見るだけで距離を開けるための手伝いもしないから戦闘に類する身動きも取り辛い。視線を今のシオラから一瞬でも外すなど愚の骨頂であるから尚更に。となれば、上半身で防御の姿勢を取るしか出来ない。
 具体的なイメージは湧かないものの、現状では本能から予測される危険な展開に抗うのは難しいと長らくの戦闘経験から冷静に判断してしまい、ゼロスは盛大に舌を打った。
「……てめえ」
「じゃ、ゼーロスぅ〜!」
 とびきり明るくも可愛らしい声を張り上げるも、シオラの目の奥が獰猛な獣の宿すものに変わった瞬間、誰かが。
「――あら」
「ふなぁああ!?」
 シオラの胸を掴んだ。それはもうしっかりと、見間違いようがないほどきっちりと。性犯罪者として取り締まられても誤魔化せないほど堂々と。おまけに掴んだだけではなく、胸を揉んでいた。少なくともゼロスの客観的な目にはそう映ったのだから、これはもう確実と言ってもいい。
「シオラさんたら、こんなところにおられましたの?」
「にゃっ……んなっ、ぁ、……ふぁっ、ふぁいるぅ、ひゃぁっ!?」
「ええ、ええ。その通りですわ。あなたの大切なお仲間であって、とても大切なお友だちです」
 いつもよりも艶っぽい微笑を浮かべて、ファイルーザはひたすらにシオラの胸を捏ね繰り回したり揉み潰したりと活発に手先を動かす。それらの動きには妙に慣れが見え、触れる面積はころころと変わり、揉み方も一つとして単純な動作を繰り返さない。表情からして酒が入っているのは彼女も同じらしいが、どうにも欲望に濡れた瞳や唇から、ここで展開されるには不味い方向を連想させた。
「ちょ、ちょっとまっ、んぁ、あ、あんっ、なぁあう!?」
 対するシオラは完全に油断していたのが後を引いているらしい。抵抗はしたいようだがさしたることも出来ず耳を小刻みにぴくぴくと揺らして、その表情は嫌悪感どころか蕩けたように恍惚としており、ここが収穫祭の会場でなければ、完全に同性愛者の秘め事の最中と錯覚してしまうほどだ。現実は違うので、彼女達は周囲の人々から好奇と嫌悪と戸惑いの視線を容赦なく浴びるのだが。
「ふふっ、シオラさんたら可愛い声……」
 ファイルーザは全く気にする素振りさえ見せず、シオラの反応に夢中になっているようだった。犠牲者には憐れなことだが、ゼロスにとっては有り難い流れだ。何より、獣人の娘がもうジョッキを空にした後だと言うのが実に有り難い。これでもう、彼がここに長居する理由はほぼなくなったも同然なのだから。
 ゼロスは黙々と芋団子を掻き込み、味も気にせず早々に天幕から出て行くための努力をする。喉の奥に流し入れるには幾らか水分が必要だと思わせる粘度の食事ではあったが、またあの馬鹿にでかいジョッキを持ってこさせるのはうんざりするので咥内のものだけで喉の奥に流し入れようとした。しかし、そうは問屋が卸さない。
「随分と静かですわねえ、ゼロスさん?」
 シオラの胸を揉みそちらに視線をやったまま、ファイルーザはいつもの調子でゼロスに話しかける。予感はしていたものの呆気なく目的を阻止されて、彼は咀嚼したまま鼻から吐息をつく。まあそんなに上手く行く世の中ではないと散々思い知っているから、降参は早い。
「ふぁんだよ、……今忙しいんだ、見りゃわかんだろ」
「お食事をなさっているようですわね。けれど、それももうすぐ終わるのではなくて?」
 欲望に濡れた瞳をちらと向け、ファイルーザがゼロスに笑いかける。相変わらず匂わんばかりの色気と美貌を兼ね備えた表情だが、笑みとはもとは牙を剥く行為だとの豆知識を思い立たせるような危険性も垣間見える。彼女の両手の中のシオラが、憐れなほどに捕食された獲物めいているだけに。
「それがどうした」
「終わられましたら、出来ればお付き合いして頂きたいところがありますの。シオラさんと一緒に、ね……?」
「んぁ、ふっ、ぇ、ぅう?」
 シオラの肩がぴくりと強張る。芯から酔いと快感の回った頭であっても、本能からの嫌な予感はきちんと覚えるらしい。だが、今の彼女に美貌の獣を振り払える力があるかどうかについては甚だ疑問が残る。何せ相手の方があらゆる意味で有利だろう。
 しかしゼロスはシオラを助ける気などさして湧かず、自分の身の安全を最優先することにした。この世の荒波を無事に掻い潜るのは、時としてこうした残酷な切り捨ても必要であると彼は重々学んでいるが故に。
「断る。……いい加減、モンスター相手に暴れ回りてえんでな」
「あら、残念ですわ。単純に汗を流したいと仰るのならばお手伝いしたいところですけれど」
 ちらりとファイルーザが舌を出して、シオラの頬に軽く触れる。再び獲物たる娘が嬌声を漏らし、捕食者はその反応を恍惚と眺めている。彼女の性格を知らぬ者が見ても、蛇のそれを連想させることだろう。呆れてゼロスが肩を竦める。これで最後の一欠片まで飲み込めた、ような気がした。
「喰われるのは嫌いなんでな。遠慮しとく」
「でしたら、喰う方ならば構いませんの?」
「そんな気分じゃねえよ」
 言い捨ててゼロスは立ち上がると、ファイルーザの両手がシオラで塞がっているのをこれ幸いと彼女達を避けて人波の中に突っ込んでいく。
 手を広げるだけでは捕まらない距離を取られた上に、慎重を重ねて彼女達をちらと見もしないのだからすぐさま黒髪の長身は人混みに紛れ込んでしまい、蜘蛛なる女性は舌を打った。
「……んもう! こんなことなら、最初から麻痺させておくべきでしたわ」
 物騒な発言がゼロスの耳に入っていないのは、幸か不幸か。どちらもファイルーザの手のうちに収められたシオラにとっては、さして変化のない事柄ではあった。
 さて、見事ファイルーザの魔の手から逃げ仰せたゼロスの方はと言うと、更なる混雑を見せてきた天幕にうんざりしつつも人波に流されていた。しかし彼はアリアやゼレナほど人の多さに不慣れではないので、ある程度計算して流されている。
 移動距離を考えれば人垣を掻き分ける方が早いし、そちらの方が得意ではあるのだが、密度次第でそれも変わる。水流の一滴であれば遮るのは簡単だが、滝の流れを遮るのは難しいのと同じ理屈だ。
「……コアなんざ使う場でもねえしな」
 ある意味ではコアを使ってもこの人波をかき分けるのは難しかろう。顔見知りの女性陣に絡まれ続けたが幸いにもいまだ酔っ払いや赤の他人には絡まれていない今日のゼロスが、今から力任せに移動すればあらゆる方面で喧嘩を売られる可能性がある。それはいかな彼とて勘弁願いたい。精神的に妙な疲れが残る今は特にそうだった。
 故にゼロスは彼としてはごく当たり前に、けれど彼の仲間にとっては意外にも大人しく、不特定の人々が生み出す流れに沿って黙々と歩く。
 計算した上で人混みに入り込んだためだろう。出入り口は割合とすぐにゼロスの視界にちらついて、ようやく外に出られると安心した彼の背中に、またしても誰かの声が掛かった。
「あら、ゼロスじゃない」
 くいと袖を引っ張られて、ゼロスは無視出来ず、けれど無言でそちらを睨む。睨まれた相手はあからさまな態度に怒ることなく、むしろ軽く笑ってから袖を離した。
「そこまで嫌そうな顔しないでよ。アタシ、まだあなたに悪いことしていないはずだと思うけど?」
 ゼロスにとって話が通じやすい頭を持っているのは仲間内でも数少ないが、特にこんな言い回しをするのはリーザくらいなものだ。
 牙を隠して茶目っ気のある表情を見せる赤と黒の民族衣装を身に着けたお下げの娘に、ゼロスは肩を竦めて見せる。
「まだ、かよ」
「ええ、まだ、になるわね。基本的に悪気はな……あ、こっち来た方がいいわね」
 立ち話をして彼らの周りの流れが滞っていると気付いたのだろう。周囲に対して気配りをする割に対面する相手のことを考えないリーザに再び袖を引っ張られて、ゼロスは軽く逆流する。
 とは言えリーザはまだ社会性も良識もある方だから、連れて行かれた先は近くのテーブルの、酔っ払いどもが眠っているスペースだった。酒臭いものの周囲の人々は寛容で、彼らを寝かしたっきり人が隙間に詰めていないから、立ち話には丁度いい。おまけに出入り口は少し遠のいたものの、爪先立ちすればまだそちらは見えた。
「で、どうしてここにいるのよ? ここにアリアを連れて行ったって話は聞いてるんだけど」
 聞いている、と言うことはリーザは誰かと会ったのだろう。イサクとナイヅがいたから、恐らくは後者に会いに行った可能性がある。だが敢えて彼女の事情には触れずにゼロスは問われたことだけに答えた。
「礼がしたいとか何とか言って無理に奢られたんだよ。ご丁寧に飯付きでな」
「なんだ、そうだったの。シオラ辺りに絡み酒食らってると思ってたわ」
 ゼロスが普段以上の仏頂面で押し黙る。リーザの冗談めかした発言にもう喰らった、とは言い難いからだ。否、言っても別段構わないのだろうが何となく気分上の問題で。
「ふうん。けどご飯と麦酒奢られて、あなた断らなかったのね」
「んだよ……。テメエも変わったとか抜かすのか」
「あら、ばれた?」
 またこの返しだ。ここまでこんな反応を貰うと、他者の視線など気にしないゼロスでさえも流石にうんざりさせられる。彼の表情にいつもと違ったものを感じ取ったのだろう。リーザは少しだけ、彼の顔色を気遣っているように眉根を寄せる。
「……どうかした?」
「なんもねえ。……てめえら揃いも揃って同じ台詞吐きやがって。そんなに変かよ、胸糞悪ぃ」
 珍しいゼロスの愚痴に、リーザは何度か目を瞬いたものの次の瞬間にはころころと笑い出す。何がおかしいのか理解出来ないでいる彼にとっては、逆に不快で仕方ない。むしろ自分が道化として見られていると受け止めてしまうくらいだ。
「ご、ごめんなさい……。けど、だって、ねえ……」
「んだよ。言いたいことあんならさっさと言え」
 完全に喧嘩を買う姿勢を取るゼロスに反して、リーザは脳天気な笑みを浮かべたまま息を整え、何でもないふうに告げた。
「別にいいじゃない。あなたが優しくなって、みんな嬉しいのよ」
 ゼロスにとっては違和感しかない言葉だった。思わず目を剥いて、意味としては理解出来たものの頭の中にまで馴染めない発言を反芻してしまう。
「……優しい!?」
「ん?」
「嬉しい!?」
 口に出してわかるのは、やはりとんでもない違和感だけだ。似合わない。やはり猛烈に似合わない。背筋どころか尻まで痒くなりそうなリーザの発言に、ゼロスは盛大に顔を顰めて硬直する。
 だがリーザとしてはごく真っ当な指摘の自信があるらしい。小振りな胸と頭を張って、平気な顔で頷いた。
「つんけんしてたあなたがここまで人付き合いが良くなったんだもの。喜ぶくらいは普通でしょ」
「んな奴なんざいねえぞ」
 断言するゼロスに、しかしリーザはまるで今までここに来てからの彼を見てきたような真剣さでそれを否定する。
「いるわよ。あなたに優しいって指摘してきた子たちは多分、笑っていたと思うけど、それはあなたがおかしいから笑ったんじゃないの」
 一呼吸分の沈黙を置くと、リーザは瞳に悪戯っぽい煌めきを宿して、明らかに戸惑っているゼロスに笑いかける。他の仲間に笑いかけるのと同じくらい、自然に。
「あなたが変わったことが、嬉しいから笑ったのよ」
 丁寧に、先の発言を繰り返されて、ゼロスの口元が今度こそ引き攣った。理由は彼にはわからない。ただ、先と同じように猛烈な勢いで居心地が悪くなって、この場から逃げ出してしまいたくなる。何故か頭がふらついて、まともな言葉も言い出せそうにない。
 けれど、やはり何か一言でも、どこぞの白銀色の女のように何でもわかっていると言いたげな態度のリーザに一矢報いたい気持ちはあるから、ゼロスはもつれる舌をどうにか動かす。
「……馬鹿言え!」
 それから硬直していた手足を気力で動かす。暴力によってリーザを黙らせるためではない。彼女は恐らくにふざけたりからかうつもりなどなくあんなことを言ったのだろうから、彼にはそんな権利などない。では何をするかと問われれば単純に、歩き出すだけだった。
「あら、もう帰るの?」
 口元に含み笑いを張り付けたリーザが『逃げる』とは言わずでいてくれることにゼロスは気付かない。気付かないまま、彼女から背を向けて再び人混みの中へと紛れていく。
「当たり前だ! やることはやったんだ、後はそれしかねえだろ!」
 乱暴に告げると、ゼロスは先程とは裏腹に人垣を掻き分けるようにして歩みを進める。今夜は二度ともうここに帰ってくるつもりがない乱暴さで出て行こうとしているのに、ああ、とやはり脳天気なリーザの声が背後で響いた。
「アタシたち、ここで飲んでるから! 気が向いたら顔、出してよね!」
「知るか!」
 禄に振り向きもせず吐き捨てるも、ゼロスはなかなか先に進めない。冷静なときであればわかっていたはずだが、無理に人波に割って入ろうとするから当然ながら足取りが鈍る。おまけにたちまち歩みを遮られた人々からの刺すような視線を受けて、彼は小さく舌打ちした。
 しかし不思議なことに、喧嘩を売る人々はなかなか現れない。理由はゼロスにわからない。ただ彼らは彼の顔を恨みがましく凝視したかと思うと、次の瞬間には笑みを耐えるように口元をひくつかせて大きく視線を逸らすばかりだ。それほど今の自分は滑稽なのだろう。腹立たしいことこの上ない。
 ゼロスの怒りを察してくれたのか、何故か赤の他人である人々は多少に彼が割って入っても何も言わず通してくれてそれが続くこと数分。
 やはり一歩ずつ進んでいくごとに人を掻き分けるのはゼロスであっても疲れる動作で、ようやく出入り口に辿り着いた彼は出るのではなく傍の柱にまず体を預けた。妙に顔が涼しいのは、天幕内の空気が人の熱気で暖かいためか、それとも別の理由があるのか。
 後者についてゼロスは薄々勘付いてはいたが、そこで無理くり思考を停止することにした。何があるわけではないけれど、そのほうがいいと思ったから。これも勘による抑止であるのは、多少に矛盾を感じなくはない。
 そもそもこんな気分になったのは――そう、アリアのせいだ。彼女がゼロスに奢るなどと頑なな態度で言ってこなければ、きっとこうも居たたまれない気分にならなかったはずだった。
 だからゼロスは声をかける。丁度それらしい、澄んだ湖面の色をした髪と、赤い瞳を持つ大人しそうな顔の少女が通りかかったから。
「おい」
「え?」
「てめえのせいだぞ、アリア」
 何故か声をかけられた、空のジョッキを山ほど抱えた少女はゼロスの方を振り向くと、眉を八の字にして首を傾げる。
「……あれ、あの、ゼロスさん? ワタシ、何か悪いことでもしました?」
 事実少女はアリアだったものだから、ゼロスはこの幸運なんだか不運なんだかわからない偶然に頭を抱えた。しかしここまで来たのだから、後はもう帰るだけだから気が緩んでしまったのだろう。言い逃げも無視もすることなく、付き合ってしまった。
「……なんもね」
「そう、ですか。……けど凄いです、ゼロスさん。こんな人混みの中でもよくワタシがわかりましたね」
 リーザの笑みを脳天気だと思ったゼロスだが、今でこそあの表現は撤回すべきだと瞬時に悟った。あのときの彼女の笑顔なんぞまだ芯がある方だ。そのくらい、アリアの笑顔は見ていて気が抜ける。
 諸悪の根元たる少女に思い切り毒気を抜かれ、ゼロスは責める気持ちをため息に乗せて思い切り吐き出すと肩を下ろす。
「もう飲んだし食ったから帰んぞ」
「もうですか? あれ、けどお顔赤いから……他の方に、沢山奢られたりしました?」
「そんなもんだ」
 実際には違うのだが、詳しい説明はするまい。詳細を語ればアリアは平気な顔でリーザの言を肯定するだろうし、そうなればますますゼロスは違和感から逃げられなくなってしまう。
「そうでしたか……。あの、けどゼロスさん。もう一杯くらい、奢らせていただきませんか?」
「はあ!?」
 押しの弱い――否、芯はあるから完全に弱い訳ではないが――アリアにまでそんなことを言われて、今度こそゼロスは珍妙な声を挙げた。彼女の方はそこまで過剰に反応されると思っていなかったのか、小さな悲鳴を漏らすと、戸惑った様子で彼を見上げてくる。
「あの、駄目、ですか? そんなにもう、お酒飲んじゃいました?」
「……飲んでねえよ」
 飲んではいない。いないがここにはもう長居したくない。そんなゼロスの心境を、つい先程会ったばかりのアリアが理解出来るはずもない。
 それでも女の勘とはげに恐ろしいもので、暫く深刻な表情で何やら考えごとをしていたアリアははっと顔を上げると真剣な表情で彼に詰め寄った。
「もしかして、他の方に何か、ゼロスさんが嫌な思いをするようなことをされたりしました!?」
 ゼロスの顔とは言わず、全身が軋む。
 見ていたのか。リーザもそうだがどうしてこうも悪い方向に自分の触れて欲しくないところに突っ込んでくるのだと詰りたい気持ちが一気に沸き上がったが、当然それをしてしまうとゼロスは墓穴を掘ることになる。故に何も言わないようにしたのだが、硬直する彼の反応を眼前で捉えてしまっているアリアがそれを見逃すはずがない。
 ゼロスにとっては最悪なことに、アリアは大いに動揺を示して彼に詰め寄った。
「そうなんですか、ゼロスさん!?」
「…………」
 違う、と断言出来ればどんなにいいか。何とも言えない顔で黙りこくったゼロスに、アリアが不安そうな表情で見上げてくるが、次第に落ち着き始めたその瞳には彼への気遣いと同じく疑問の色も強い。
「ええと、……ゼロスさん?」
 そして、不可解そうに瞬いた。
 アリアも薄々勘付いているのだろう。ゼロスは不快な発言や挑発を受けた程度では逃げ帰りたがるような男ではない。逆にそれらを受け流すか、余裕があれば喧嘩を買うような人柄だ。なのに今こうして、不快な思いを抱えたまま持ち場に戻ろうとしているのだから、彼女としては心配であると同時に不思議にも思うだろう。
 心配から強い疑問に転じた視線を受けて、ゼロスは何も言われていないし言っていないはずなのにやはり居心地が悪くなる。今となっては後の祭りだが、アリアとまともに会話すべきではなかったとさえ思う。だが彼にも、最後の最後に選ぶべき道は残されていた。
「酔った。帰る」
「え……?」
 短く告げて、ゼロスはアリアの追求を振り切ろうと天幕の外に出て行こうとする。誰がどう見ても、本人ですら自覚のある逃走となったが、今の彼はそれを気にする精神的な余裕さえなかった。
「待って下さい、ゼロスさん!」
 慌てたアリアは空のジョッキを持ったまま、ゼロスの背を追おうとするがそれは流石に仕事中の給仕娘の行動ではない。今度は無視するはずのゼロスが我が目を疑う番となった。
「てめえは仕事しろ!」
「そ、そうですけど! 今はゼロスさんが心配ですし!」
 だからと言って勝手な離脱が許される訳ではないだろう。その点はゼロスも重々弁えているが、普段の彼ならば焦ることもないから必要以上に声を荒げることもなかった。なのに今の彼は余裕なんてまるでないから、喉から出るのは感情的な命令ばかり。
「いいからとっとと戻れ!」
「ですけど、ゼロスさん!」
「だあもう、俺に構う……!」
 置いてけぼりを食らった子どもさながらの表情で近付いてくるアリアに、ゼロスが厳しく言い放ちかけたそのとき。
 空が、光った。

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