Please

 

 ――私の話? 一体どこから? 全部? 私の覚えている限り、気の済むまで?

 それは……矛盾しているな。私の気の済むまでなら、たった一言で終わる。しかし、それではあなたは満足しないのだろう?

 わかった、それなら初めからにしよう。一番初め、私が覚えているときから。

 

 恐らく私の中で一番古い記憶は、エミリア、孤児の私を拾ってくれた家の義妹の泣き顔かな。もう、何度となく見たものだ。

 エミリアは、義母が病気で無理ができなくなってからはいつも私の後についてきた。まだ小さかったし、甘えたい気持ちは誤魔化せなかったんだろう。けれど私も義母の病気は衝撃を受けて、心細くて、エミリアのことに構ってやれなかった。

 私は、暇があったら義母を看病して、けれどエミリアは私を独占したくて邪魔してきて、それで何度も喧嘩した。エミリアは駄々をこねてわあわあ泣いて、うるさくて仕方なかった。

 そのたびに、義母が起き上がって、私が叱られた。――今思えば、老い先短い自分を構うより、娘たちで支えあってほしかったのかもしれない。けれど私は当時、そんなことも考えられないくらい未熟だったから、実の娘のエミリアを贔屓しているんだ、拾った子どもの自分なんかどうでもいいんだ、なんて、勝手に傷ついたりもした。

 けど義母さんが亡くなって……本当に、エミリアが独りになって。虚ろな目で、義母のそばを離れようともせず泣き続けるエミリアを見て、ようやく気付いた。我慢してたんだなって。この子は私よりも、本当は義母さんに甘えたかったんだなって。

 だからかな。義母が亡くなってからは、私たちはお互い何も言わずに支えあった。わがままも邪魔もせず、ひたすら寂しい気持ちを埋め合わせようとして、けど相手に嫌われたくないから気味が悪いくらいいい子ぶって、そうして淡々と生き抜いた。あのままずっと二人で生きていけば、多分、エミリアがおばあさんになるまでそうしていたかもしれない。

 しかし義母の体の弱さはエミリアにも受け継がれていたから、そうはいかなかった。エミリアは――あの子は、一度倒れてからもう、ちょっとした力仕事さえ無理になって。

 少し無理をすれば、反動が何倍にもなって体に現れる。エミリアが無理をして得た稼ぎより、薬代の方が多くて……それを知ると、まるで命綱一つで谷底に放り出されたみたいな、――見ているこっちが辛い、顔をしていた。それ以降はいつも怯えていて、前以上に従順になって。足を引っ張ったら捨てられる、そう自分に言い聞かせているみたいだった。

 実際、私は最低限の二人の生活費を稼ぐ以外に、エミリアの薬代も稼がなければいけなかったから、あの子に構う余裕はなくなった。

 稼ぎがいいのを理由に遠くの街まで機織りに行って、朝から晩まで働いて。その間、ずっと家で独りぼっちのエミリアを、顧みる暇はなかった。

 あの子は、寂しかったんだろう。けどそれを押し殺して、私の前ではいい子でいて……そんな生き方をしていたら、あの子はいずれ心まで病魔に犯されていたかもしれない。その気持ちを吐露してくれれば、私も考え方を変えたのかもしれない。そうすれば、…………いや、よそう。

 今でも思うときがある。私の罪は、あのときから始まったんだろうな、と。義妹のためと言いながら、義妹の気持ちを顧みなかった。だからエミリアは死んだ。本当に奴らが狙っていたのは私なのに、何の罪もない幼いあの子を死なせてしまった。

 けれど奴らが悪かったから、ああいや、私以上に奴らが悪いと思わなければ狂ってしまいそうだったから、怒りの矛先を奴らに向けた。八つ当たりではないけれど……今でも、真っ当な怒りの自覚はない、かな。――そうか、私怨とは、そんなものか。

 それからは、反乱軍をまとめ上げ、ヘルハンプールの城を占拠し、魔皇軍を設立した。とんとん拍子だ。

 いいや、私はそれまでその手の教育は一つも受けていない。だからその辺りは全て、アシュレイから教わった。

 私が種族差別を意識させられたのは、あの事件が最初なんだ。それまでは人間でも優しい人はいたし、魔族でも恐ろしい人はいたから、……種族にこだわる人は苦手だと、思う程度だった。けれど今思い返せば、傷つくことが怖くて話しかけてくれる人に必死で媚びていたのかもしれないな。

 それで……ああ、そうだ。アシュレイからは、剣の手ほどきを得た。戦術も、人心の掌握術も、政の何たるかも、全て彼から教わった。文字の読み書きは一通り出来たからな。戦い方以外は本を読めば何とかなるし、人の扱い方においてはアドバイスを得て、反乱の準備を進めていけば自然こなれてくる。

 苦労か? しなかったかな。知識の吸収は何であれ楽しいものだ。強いて言うなら……人を殺すのが、たまらなく嫌だった。今でも初めての相手は覚えている――人を舐めきった態度の兵士だった。嬲り者にしてやると脅されたから、必死で……。けど相手は私よりずっと弱くて、手応えのなさとさっきまでの態度が一致しなくて、とても複雑な気分になった。優越感なんて覚える暇はなかったよ。

 ……さあ。慣れたとも慣れないとも言い切れない。ただ、なるべく殺さずに終わるのならばそれでいいと思っていたし、今でも思っているよ。

 それで、アシュレイの話か。

 はは、そんなものは彼に不要なものだ。

 アシュレイにとっては総て無価値だ。私以外、彼には何の意味も為さない。そう言うものとして、彼は生まれてきたのだから。

 私の器が成熟すれば、すぐさま我が身を――その身を構成する魔力を全て使って、ようやく完璧な魔王の後継者がこの世に生まれいでるのだと、アシュレイは信じていた。結局、私がその目論見を阻害したのだがな。

 血統など、過度に重視するものでもないだろう。実力ある者が全て伝統ある血統の生まれなら、この世ももう少し単純なはずだ。

 ……なるほど。確かに、血統が良ければ人格まで良いことにはならないな。その台詞を純血主義者どもに聞かせたかった。

 脱線したな。どこまで話した? ああ、そこか。

 ……先ほどの話に戻ってしまうようでもあるが、少なくとも私は血統など気にしない。惹かれるのは人柄と、実力だ。理屈は後から付いてくる。そうだ、私にとって血統は理屈の一つに過ぎない。

 だから私はイフを、バイアードを、エティエルを受け入れた。彼らは確かに伝統ある血族だろうが、それ以上に自分の意志で私の傘下に加わってくれた。それはとても私にとって貴重で、……嬉しいことだと思う。

 敵で? やはり、――アンクロワイヤーだろう。彼には悪いことをしたと思っている。彼自身に罪はないけれどシンバ帝国を解体せねば、二次大戦を、あの忌まわしい支配階級を終わらせることはできなかった。尤も、そう思っているのは私たちだけで、他国はそれで私たちが満足したと思っていたようだが。

 かと言って、シンバ帝国と同じような侵略は嫌だったんだ。一国一国に自国の兵を入れ、直接搾取するなんて……それなら監視役か代表を送り込めばいい。抑止力として常に睨みを利かせていれば、余程の馬鹿でなければ大人しくする。内心なんと思おうが、私はそれで満足だ。国々に鎖と重石を着けて無理矢理頭を垂れさせるような真似を望むのが支配者なら、私は支配者と呼ばれなくても構わない。今も、そう思っている。

 ……勿論だとも。あの戦争が起こった直接の原因は別にあっても、そんな隙を作ってしまった私にも責任はある。言い訳などしようとも思わない。

 けれど、彼らは……知っているのかな? 知らないのだろうな。一国が、大陸の王者として君臨することがどれだけ難しいのかを。

 ……そうかもしれない。『支配者』なら。ああ、そうかもな。

 けれど、私はやはり嫌なんだ。自分の目の届く範囲だけ平和で美しいなんて、詭弁だ。その裏に、誰か……声も出せない、否定もできない、否定する選択さえ与えられない誰かがいるなんて、耐えられない。だから私は、私の考えが部下に否定されても、反乱を起こされても、その方がいいんだ。それが、意思を持つと言うことだから。

 口喧嘩なら得意な方だ。何せ、それで諸国を脅しまとめたようなものだからな。机上の空論を語るのならば、現実を教え込んでやる。都合のいい奇跡を旗印に挙げるのならば、最低な悪夢を掲げてやる。……ふふ、悪趣味かな?

 ……うん、そうかもしれない。確かに、私の方が余程夢見がちだ。支配を嫌って、半端に自由を許すから内乱を引き起こさせてしまう君主なんて、部下が見限っても致し方なし。

 それで更に不必要に誰かを傷つけてしまうんだから、ああ、今更ながらシーグライドの誘いにこいつらが乗った理由がわかったような気がするよ。できればこの手の話は、悪夢でさえも見てもらいたくないが。

 ……そうか? なら良かった。

 私もわかっているんだ。こいつらがあのときの裏切りを今でも引きずっていることを。共に過ごすべき家族や思い出の場所を捨て、私と共にあり、忠誠を尽くすのが贖罪だと、信じてる。

 わからない。そもそも、私はあれに傷ついていたのかな。それさえも、わからないんだ……。

 薄情なのかな。うん、悲しかったのは事実だ。けれど、ずっと一人に対し忠誠を尽くすのは、難しいことだと思う。そいつのやることが上手くいっていないなら尚更だ。見限るのも、反発するのも、当然だ。だから彼らを、簡単に否定するなんてできない。

 ……よくそんなこと知っているな。けれど私には少し荷が重い。大魔王と比較されるほどの器ではないよ。

 ああそうだ。そんなことは意味がない。言ったろう、私は血統を嫌うと。

 また脱線した。なるべく手短にすませようとしたのに……。いや、大丈夫だ。寒くはない。私だって魔力の使い方くらい知っている。

 七年戦争、か。うん、そこは私も覚えがある。

 ……ファルオン家の忘れ形見が大元帥だと聞いたときは、やはり後悔した。二次大戦のときに、アンクロワイヤーたちを探し出せていれば、少なくともこうはならなかっただろうと思うとな……。

 それに、帝国軍の存在には嫌でも実感ざせられたよ。私たちは――シンバ帝国を破壊しただけに過ぎないと。種族差別などないと思っているのは私たちだけで、彼らにとっては人間が政治の中では無視されている。そう、思っているのだと。

 うん、まあ、そうかもしれない。けど、やっぱり皇国に名前を変える前にでも、名の知れた帝国側の人間の将がいれば多少は違っていたのだろう。ライノルズやアマリウスを、軽んじる気はないのだがな。

 あの後? ふふ、そうだな。大変だった。それはもう、死ぬほど。

 アンクロワイヤーとようやく協力できたのは嬉しく思ったし、共和制にすることでようやく人魔共存を祖にした国家になれたのはいい。しかし、その後はちょっとした地獄だった。

 我々は、権力を持たない一介の武装組織に負けた。そこに到るまでたとえどんな理由があろうと、事実は覆せない。その事実は周辺国と民草にとって、我々の信頼を失わせ、野心を持たせるには十分だ。

 何度も反乱を起こされたよ。第二の解放軍になろうとする烏合の衆もあったし、国単位でも反乱を起こされた。大人しくしていると思ったら、こちらからの申請に難癖をつけたり嫌味を言われたりもした。協力してくれたのは、七年戦争に直接参加し、それ相応の知名度を持つ将がいる国々程度なものだ。それでも、彼らの国とて一筋縄ではいかない。まとめ上げてくれた彼らの功績をこちらで称えても、売国奴と陰口を叩かれるし……とても、難しかったよ。あのときは、あらゆることに頭を悩ませていたように思う。

 けれど解放軍の諸君はご自慢の腕っ節に物を言わせてモンスター討伐で大忙し、ついでに大陸中に株を高めて充実した様子だったが……うん、少しばかり、恨めしくも思った。彼女たちは『後片づけ』をしようとしないんだから。

 まあ、あのとき大変だったのは、一から国を造り上げようとせず、反乱と侵略で領土を広げて満足していた今までのつけと思うことにしたよ。そうでもなければ、ヒロに八つ当たりする可能性もあった。

 ああ、そうだ。彼女とは、七年戦争で。当初は利害の一致で雇い入れたが、今にして思えばあれで魔族対人間を更に強めてしまった感があるな。それからはたまに二人で酒を……仲は、良かったのかな。わからない。朗らかな会話などした覚えはないんだ。それでも、私の部下にはいないひとだから、新鮮だった。

 ここは、その彼女に教えてもらった。他者に行うしか手段がないはずの封印を、自分一人で行ったあのひとに。あのひとも、あなたが封印したのだろう。……やはりか。

 身構えずともいい。それだけあなたが膨大な魔力の持ち主であることは一目見てわかったし、イフとバイアードを封印すれば疑うまでもない。

 ……うん? ああ、そのことか。

 そうだな、先ほどの話に少し戻るが、ヒロとな、話したときに、そう言う話題になったんだ。

 どうして、彼女は大魔王の後継者として生まれ育っていながら、大戦が終わるとすぐに封印の眠りについたのか。

 歴史書を読めば、その理由の材料だって山ほど出てくる。けれど、どれも推測でしかない。だから、本人に直接聞いてみたかったんだ。ふと、そう言う気分になって。

 ……彼女は、あのひとは、適当な人で。その辺の本に書いてあることが正解だからそれで納得しろ、と言い出した。私は追求できるほど親しくなかったから、一応はそれで引き下がった。けど、それで話題が終わるのも何だか惜しいと思ったから、冗談めかして言ったんだ。

 ――怖くなったんですかって。

 そしたらあのひと、顔色一つ変えず、真剣な顔でああそうだと言って。

 最初こそは自分も、大戦で出会った仲間や敵のことを受け入れて、生きていこうと思ったんだ、と。けれど戦争が終わって、これでもう失うものはないはずだと思っていたのに、非道な現実はまだ続いていて、戦いの最中で失わずに済んだ仲間や顔見知りが、平和な今になって次第にいなくなって……出会ったときと変わっていって、それを予想していなかったのだと。愚かなことだ、私にだってわかることなのに。

 けれど当時の彼女はそんなことなど想定していなかった。厳しく辛い現実は全て戦時中だからこそと思えば乗り越えられたのに、免罪符である『戦時中』がなくなっても尚、現実は試練のような出来事ばかりで……。そのとき、気付いたんだそうだ。自分が強くなったのは、成長したと思えたのは、総てその異常時である戦時中あってのことだと。

 だから、平和なんて耐えられなかったと。平和なのに辛い思いをしなくちゃならないなんて、酷いと思ったらしい。

 聞かされたとき? ふふ、大魔王の娘だと、思ったよ。辛い思いは全て争いが原因だと思えば解消出来たなんて、ある意味特殊な環境だ。けどそれも、その時代に生まれたからこその発想なのだろう。

 人は大魔王さえ死ねば平和になると信じ、魔族は自分たちに歯向かう者さえ死ねば平和になると信じられたからこそ、団結出来たと聞いている。皮肉なものだ。その障害を取り払っても、人々は、互いを意識し、比較し、羨み、憎み――争って自分たちが所属したところが勝つ機会を虎視眈々と狙っている。勝ったとしても仲間内で優劣を付けたがる。際限なんてないことを、あのひとは知らずにいたんだ。

 私は、理解できない。そんな考えを持てるほど、最初から世間は甘くなかった。けれどあのひとの知る『世間』は甘かった……戦争以外は、全て。

 その点は、もう理解しているさ。言っていたよ、さっきの私のと似たような意味の言葉を。けれど封印を受ける以前に、親しいひとも頼れるひとも失っていたから、傷付いた心のままだったから、そんな考えになったんだろう。それと平和に、戦争がない事態に、憧れを持ち過ぎていたんだろうな。

 羨ましいなんて思いやしないさ。戦争は別離を加速させる。辛い思いは人を成長させるものだけれど、それも過ぎれば毒となる。あのひとは毒に侵されたんだ。だから、毒抜きが……封印と言う名の隔離が必要だった。そう、私は認識している。

 それから? それから……何を、言えばいいだろう。聞きたいことはあるか?

 ……それか。わかった、ああ、大丈夫だ。平気さ。本来あなたが聞きたかったのは、それだろう。脱線してすまなかったな。

 あなたが謝るな。……そうか、うん。気遣いは感謝する。わかっているさ。

 そうだな、最初に意識したのは、やはりアンクロワイヤーが亡くなったときだ。

 色々あってようやく同胞として手を組めたからかな。それまでも何度か同じような死別は経験したはずなのに、何だか酷く重く、心に残って。不意で言えば四世のときのほうが、もっと急で、しかも彼はまだ若かった。人間でも働き盛りの年齢だから、惜しいとさえ思ったし、まだその息子も幼かったし、とても動揺したのに。

 けれど、どうしてか――アンクロワイヤーの葬儀を終えた後でも、ずっと、何だか、違和感が胸の奥に残って……。

 辛い、うん。辛かった。けど、やはりそれだけじゃないんだ。何、だろうな。おかしいと、思ったんだ。

 葬儀が終わってから、一人で自室に戻っても、ずっとそんな気持ちが残っていた。四世のときもアマリウスのときもライノルズのときも、悲しかった。けれど涙を流せば、いつしか疲れてしまえば、多少は気持ちが切り替わった。

 なのに、なのにアンクロワイヤーの死に、私は涙も出なくて、彼と最期に言葉を交わして以降、全く悲しいと思えなくて、おかしいなと思った。壊れたのかと思った。もう仲間の死に直面し過ぎて、私は涙を流せなくなったんだろうかって。

 そんな自分にさえも涙が出なくて、私は自分に呆れた。失望したよ。それから、これはいけないと思った。仲間の死を悼むことさえできない者が、正常な判断など下せるはずがない。もう、引退すべきだと悟った。

 そう。だから、アシュレイに相談した。こんな調子ではいつ魔王として悪政を振るうかわからない。アンクロワイヤーが、死んで、この国が共和国となった切欠である七年戦争を知る人間の執政官がいなくなった。再び皇国軍の体制になると危惧されるよりは先に、自分は身を引こうと思う、と。

 彼は――反対しなかった。わからない。嬉しかったのか、悲しかったのかもわからない。引き止めて欲しかったとしたら、私は一体何に執着していたのだろう。大切な仲間の死にも、もう涙を流せなくなったのに。

 それから、……思い出した。お墓参り、行ってなかったなって。エミリアの。フォルティアも、リュンベルクも。ケイ氏も。レヴィも。ライノルズも。ラーデゥイ氏も。ノーラも。四世も。……みんな、みんなまた挨拶に行くって決めたはずなのに、してなくて。

 だから、もうこの際だから、やってしまおうと思った。そうしたら、アシュレイが、まるで……まるでこの世からいなくなるつもりのようだなって。

 自殺なんてそれまで考えなかった、馬鹿馬鹿しいもの。けれど、そのときは、ああそうかもって思って。

 だったら、だったら一層のこと、もうそうしたかった。けどそんなことしたら、色んな人に迷惑がかかる。為政者が引退後でも自殺なんてしたら、それだけでまた共和国の基盤が不安定になる。それだけは駄目。それだけは……死んでもアンクロワイヤーの行いを、共に戦ってくれた、皆の努力を、わたしが潰すわけにはいかない!

 ……なら、封印かなって。死んでしまう訳じゃない。世間に絶望した訳でも、未来が怖くなったわけでもない。ただこちらに関われないだけで、次の世代の為政者たちを怯えさせることもない。人々に期待を持たせず、けれどいつか復活すると思えば独裁や反乱への抑止力にもなる。そんな、誰にとっても警戒し過ぎることもなく、期待し過ぎることもない存在になってしまえるのならば、封印の眠りがとても魅力的なものに感じられた。

 だから。わたしはここに来ようと、決めた。

 その日のうちに皆を集めて、自分の考えを告白した。――残った全員が魔族だから、惰性でここに残ってしまう可能性が怖くて、決めた以上は早く出て行きたかった。

 皆は動揺していたけれど、わたしが七年戦争のことを持ち出さなくても意識はしているみたいだった。イフとバイアードはわたしについて行くとすぐに言ってきて、シーグライドは返事を保留にしてくれと。……おかしな話。わたしは、あなたたちはどうする、なんて一言も訊いていないのに。

 ……そうすべきかすべきでないかを、正直に言って欲しかった。けれど、彼らがそう捉えたと言うことは、わたしの意思は硬いと受け止められたのかな。あんな、突発的な考えが生み出した行動なのに。もうずっと前から思っていたみたいに捉えて…………。

 その場は一旦解散して、わたしは引き継ぎのために奔走した。事前に人間も魔族も含めた後継者は育成していたから、あまり焦る必要はなかったけれど、彼ら後継者たちなりに、何かを感じ取っていたのかもしれない。出て行く直前までの彼らは本当に従順で、そんな性格ではない者まで大人しくって、ちょっと、笑った。

 けどそれは別に、全員に悟られていた訳でもないみたいで。誰かはアンクロワイヤーのことを引きずっているなら、もう少しお休みなさった方が、とか気を利かせて。彼女の頭の中では、わたしと彼は恋仲だったのかな。その方が……わたしとしても、もっと泣きやすかったのかも、しれない。

 アシュレイに、人の使い方について教えてもらったときからかな。誰かを使うことに対し、線を引くように割り切るのが楽になって、それ以来ずっとそうだった。仲間だったらここまで許せる、この部下だったらここまで頼める、彼だったらここまで任せられる……そんな感じで、常々人との関係を築いてきた。

 だからかな。わたしと色んな関係を持ったひとには、どう接していいのかわからない部分がある。憎むべき敵から始まり、次に思想の点から許容すべき人で、また敵になって、ようやく仲間として迎えられたアンクロワイヤーなんかは、まあ、その典型だ。他には誰がいるかな……アシュレイも、ヒロもそうかな。

 バイアードやイフ? ……あいつらは、ちょっと、事情が違う。ふふ。

 そんな調子で、曖昧な関係のひとと接するのは、慎重になりがちだった。色んな関係を持つひとといると、そのひとがそれだけで、わたしの中で特別になってしまう気がして。

 ……怖いさ。怖いよ。特別な誰かなんて、そう何人も簡単に作るべきじゃない。少なくともわたしはそう思う。

 簡単だよ。そんなことで特別と決めつけるなんて、簡単すぎる。……わたしは為政者なのに、そんなことで揺らいでしまうのはいけない。特別な誰かのために何かをしようとするなんて駄目だ。特別な誰かを生きる糧にするなんて、駄目なんだ。

 けど……今ではちょっと後悔している。恋人の一人でも作れば、わたしはここまで冷酷にならなかったんじゃないかって思うと、少しだけ……。

 もし、アンクロワイヤーが恋人であれば、わたしには誰よりも嘆き悲しむ権利があったろうし、それですっぱり辞めるとも言えた訳だろう。そうすれば誰だって、自分だって綺麗に納得して、引き止める者もいなかったはずだ。

 けれど現実には……わたしは泣けない自分に失望して、思い出したから皆の墓参りに行くと決めて、逃げるように政治の場から去っていって。――けど、そんなことのために彼がわたしの恋人になるのは、彼の侮辱になるからな。結局は、このままで良かった。彼を、穢さずに済んだんだ。未練を遺させることもなく、安らかに逝ったんだから、やっぱりこれでいいんだ。

 ……わかった、それ以降か。

 墓参りは、……どうだろう。辛かった、のかな。やっぱり、これは場所にも故人にもよるものがあるかな。

 どれだけ良くしてくれた人でも、墓が手入れされていないと辛かったし、憎んでいた相手でも墓が手入れされていればそれなりの人物なのかと思い返した。

 遺族に石を投げつけられたり、罵声を受けたり、こちらが立ち去ってから、もしくは表立って泣かれたり……けどその辺りのことは覚悟していたから、想像したよりは辛くなかった。……墓石に寄り添うように遺体が覆い被さっていたり、墓を暴かれていた方が、もっとずっと辛い。

 けれど悪くはなかったよ。故人の思い出話を聞かせてくれる人もいたし、彼らの子どもや曾孫にも会った。傷付いた分だけ慰められた、なんて思いやしないけれど、思っていたよりもずっと、世間は強い人が多かった。

 皆、……わたしがエミリアを失って以降とは大違いで。そっちにまず驚いたよ。故人は、彼らにとっても大切な人で、わたしが殺したようなものなのに、明るくて、強くて、前向きで――行く前は、わたしのような者ばかりと向きあうと思っていたのに、そんなのはもっとずっと少なかった。

 時代……そう、なのかな。確かに、第二次大戦とフーリュンの怪事では差があるし、七年戦争も随分前になってしまった。心の傷も、あのときよりは癒えて……ん? そうじゃないって、それならどう言う……。

 ……そんなことはない。まだ飢えた人はいるし、不幸な人も沢山いる。戦争に参加できたような人たちは皆働き盛りだったから、それぞれの家庭は彼らが死ぬ前より苦しくなった。それでも遺された家族が生きるため助け合っている姿に、わたしが勝手に救われているだけだ。

 そんな……こと、ない。

 家族だろう、彼らにとっては何よりも大切な存在だ。……違う。違う!

 いや……すまない、取り乱した。

 ……あなたのときは、確かにそうだったかもしれない。あなたの言う通り、新たな恋人や家庭を築く人もいた。誰からも忘れられたような墓もあった。けれど……けれど、人はそんなに薄情じゃない。どれだけ気丈に振舞っていても、心の奥底ではずっと、あのときの哀しみが、こびり付いているものだ。だから彼らは、そんな、あなたの言うほど……。

 どうして。どうしてそんなことを言える?

 あなたはそれだけの裏切りにあったかもしれない。けれど、人はもっと……。違う、そんなこと!

 忘れるなんて、出来るはずがないだろう。大切な人を喪ったその瞬間を、思い出せないはずなんかない。ましてやその人のことを、そんな、都合良く、……都合のいい話じゃないか!

 幸せ? そうだろうとも、彼らは幸せになるべきだった。けれどそれは、わたしが! このわたしが、それを滅茶苦茶にしたから! それだけの責任を、罪を、償わなければならないから……!

 ……知ったような口を利くな! 誰からそんな話を聞いた!? 誰が言ったか、詳しく教えてみろ!

 言えないか? 言えないのか!

 はは、そうだよな……言えるはずがない。そんなものは想像だ。お前の想像に過ぎない。だから…………違う。わたしが、思ったんじゃない!

 ……い、言える訳ないだろう。面と向かって他人に心情を吐露する人など、いるはずもない。だから、だから彼らは……違う、違う!

 有り得ないだろう。どうして死者を忘れるなんて出来る? どうして自分だけのうのうと幸せになろうと思える? どうして、そんな、故人の意思を知りもしないで、勝手に、都合のいいように解釈できる?

 大切な人を喪えば、死なないようにするだけで――生きていくので、やっとじゃないか。もうこれ以上、こんな辛い思いをしたくないと思うのが普通だろう。思い出を糧に生きることだけが、生者に唯一遺された……。

 人はそれほど醜くない……お前は間違っている。

 醜いさ! それを、醜いと言わずして…………いや……。違う、違うんだ!

 やめろ……やめろ、やめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろやめろ!!!

 ちがう、そんな、そんなことわたしは言ってない……! そうじゃない、そうじゃ、なくて……違うんだ……ちが、う……。

 ……いや…………いや、やめて…………ちが、……違うの……だから、お願い…………もう……!

 …………………………あ、あ……。あ、……ぐ……んぅう、くっ……ひっ、ぐ……く、……は、はぁ、あ、ぁ、あ……!

 く、あ、あ、ああああぁああああああああああ……!

 

 

 

 ええ。もう、大丈夫……落ち着いた。

 …………けど…………どうして、……どうして今になって、そんなこと……。

 わたしは、もう、わたしは無理なのに……ずっとこのまま生きてきたのに……なんで……、どうして、そんなこと……?

 ……もしあなたの言う通りだとしても、……わたしには、もう、無理だもの……。

 大切な半身はわたしの中に融け……人間の同胞はもう皆死んで……魔族に、したって、もう、封印の眠りについて……行方知れずで……。

 何も残ってやしないのに、そんな機会は全部捨ててきたのに、どうして今になって言うの…‥? どうしてわたしが幸せになる権利があるだなんて言うの……?

 …………は、はは。はははははっ……。

 なに、それ……そんな、こと、そんなことを理由に、あなたはわたしを……?

 く……ふふふっ、……ふ……。

 そんな台詞、……面と向かって言う人なんて、初めて見たわ……。百年近く生きてきたのに、……どうしてかしらね。

 わたしが、何も、言わなかったから……? それとも、みんな……わたしには、必要のない言葉だと……思ったのかな……。

 ……そう。だったら、嬉しい……。そうも、何の根拠もないけれど…………それでも、嬉しい。

 ふふ、おかしな話……。何十年も一緒にいる仲間に本音を言わず、言われずに……この場で会った幽霊とも精霊ともつかないものに、こんなに…………。

 そう、ね。そう。そうだった……あなたが望んだからであって、……みんな、悪くない。あなたの傲慢が、わたしの欲を引きずり出しただけ……。そういう、こと……。

 ……運が、良かったのかな? 最悪とも言えるけれど……知らないままで、眠るよりは……。

 ……おかしな話。

 直前なのに。もう、眠るだけしかないはずなのに。……未練が……。

 ……そうね。なれるかもしれない。……だったら、いいなぁ……。

 うん……エミリアの、分も……みんなの、分も……。幸せ、に…………。

 ――――ありがとう。

 それじゃあ。おやすみなさい。


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