Hypocritical homicide

 

 差し出された一枚の葉は、青と緑のグラデーションを持っていた。癒し草である。そしてその癒し草を持っていたのは、回復と攻撃の補助を受け持つル・フェイだった。

「…なんだよ」

 今まで呆然としていたことを悟られたくないアキラは敢えて煩わしげに眉根を寄せる。しかしそんな厳しい視線を向けられても、彼女は微動だにしなかった。

「呆然としておったからな。麻痺か眠らされたか、どちらかと思うたのじゃが……」

「悪かったな」

 一言詫びて、剣を構え直す。眼前の敵は光の精。つるりとした硝子のような球体の奥が、敵意を見せるように輝いた。

「気をつけよ」

「分かってる」

 短く言葉を交わし、ル・フェイは囁くように呪文の詠唱を始める。その間、アキラは時間稼ぎを兼ねてその球体に突撃。

 向かってくるアキラを見止めたのか、硝子球が風もなく高々と浮き上がり、異界の剣士の剛一線に見える攻撃を避けようとする。

 それこそ甘い。

 アキラの太刀は自然と、しかし素早く左上に曲がり、その切っ先にいる光の精に衝撃を与える。

「……!! ……!」

 手ごたえはそこそこ。悲鳴とも言えない悲鳴を響かせながら、光の精は地面のほうへと力なく下降する。そのひび割れた球体が地に触れようとした瞬間、地を這う氷柱が、まるで鰐のように光の精を飲み込んだ。

「アヴァ・ランチ」

 ル・フェイの真言に沿うように、氷柱が体内の光の精を噛み砕く。ように見えたが、実際のところは氷柱の密度が増しただけだ。それでも全方面から圧迫された光の精は、遂にその歪な命を終えるように消えた。

 それを見届け、アキラは剣を鞘に戻し、ル・フェイはため息を吐きつつフォースロッドを見る。その態度に、アキラはやや落胆する。

「…まだ無理そうなのか?」

「うむ、まだ抽出できる様子ではない」

「……面倒だな」

 脱力したように地面に屈み込むアキラを、麗しの女神神官は無表情で見る。

「どうかしたか」

「別に……」

 俯いて面白くなさそうな顔のアキラに、ふむとル・フェイは喉の奥で呟き他の仲間のほうを見る。フィーゴとスタイン、そしてシエルとニヴァがこちらに気づいたように手を振っていた。どうやら、あちらのほうもモンスターを殲滅できたらしい。

「まだ抽出できてないんだから、もう一ヶ所回っておくんだよな…」

「そうじゃ」

 ル・フェイは頷き、フォースロッドの土埃を払う。ここには、主にこの杖に付属するスキルを抽出するためにやって来たのだ。他の武器のスキルがいくら抽出可能になろうと意味がない。仕方ないとアキラは重い腰を上げて、フィールドの更なる奥地へと向かうが、その後姿はどう見ても覇気がない。否、もともとアキラは戦うことに慣れはしても積極的な楽しみなど見出さない性格なのだが、ここ最近の無気力ぶりはあからさまだった。

「つい最近まで戦いたがっていたように思うたが、近頃は逆に宿に帰りたがるようになっておるな」

 ル・フェイは自然にそう言うが、アキラは自覚がなかったのか。露骨な驚愕の表情を見せてくれた。

「…は?」

「どうした。そこまで驚くようなことか」

 逆にアキラの過剰な反応ぶりに驚いたル・フェイは、軽く眼を見張る。それでも、アキラの態度は彼女からすれば珍しいものだ。普段から無関心を装って、なるべく自分の本当の感情を見せまいとしているのに、今は妙に気が抜けている。まるで戦うのに手一杯で、体裁を保つ余裕もないような。

 アキラがこうなってしまう心当たりといえば――最近のことであればないこともない。しかし、あの女王に対しては、それまでこんな姿勢ではなかった。何も聞きたくない、見たくない、そんな頑なな自己防衛的なものだったのに。今は女王の話題が出たところで、居心地が悪そうだがどこか聞こえない場所に行くことはない。

「女王と、何かあったか」

 単刀直入に尋ねると、アキラの表情は一瞬動揺の色を見せるが、それを押さえ込むように目をそらした。

「……別に」

「その顔は、別に、とは思うておらんように見えるが」

 リトル・スノーに質問をした結果、アキラが怒って部屋を出て行ってしまった一連の流れは、まだ彼女の記憶に残っている。ミュウと喧嘩した原因も彼女がらみだと聞き、その結果、仲間のほとんどが、アキラとリトル・スノーは同列で語らないほうがいいと思ったし、アキラがリトル・スノーの話題に敏感なことを知っているが、今の彼は、敏感は敏感でも拒絶的なものではない。

 ル・フェイはアキラの視線が逃れぬよう、少年の顔を覗き込む。相変わらず無愛想で楽しくなさそうな顔だったが、それ以上に今は戸惑っているように見えた。まだ仲間が少なくて、ただ自分の感情だけで道を選んだときも、よくそんな顔をしていたものだ。

「なんだよ。そんなじろじろ見てどうにかなるもんでもないだろ」

「…そうか」

 どうにかなるのではと期待を込めて見つめていたわけだから、ル・フェイは軽く落胆して視線を離した。

「ならば、行くとするか」

「ああ……」

 無遠慮な視線から開放されたアキラは小さく吐息を吐き、それからここ数日頭の中で彼の思考の多くを占めている問題を思い出す。問題と言っても、自分のことではないし、自分がどうにかできる問題でもない。けれど、それを受け流すことなどできなかった。

 あの夜、自分がそれまで必死に拒絶していた『完璧な異界の魂リトル・スノー』は、この一ヶ月の滞在を贖罪だと語った。その方法は生きたまま腐っていくこと。それがどんなに辛い罰かはわからないが、それでも自分がいたチキュウにも似たような病気はあったし、それには痛みを伴い、見るもおぞましいそれは誰の看病も受けられまいと思ったものだ。そしてそんな辛さを、彼女のせいで死んだ人々の回数くらいは繰り返さねばいけないらしい。

 生きながら腐ることを繰り返すなんて。死ぬまで、あの寄生虫が宿っているような状態に蝕まれると思うと、考えただけでもぞっとする。

 と同時に、そんな罰を受けたリトル・スノーを妬み憎む気持ちは、薄くなっていた。薄くなっただけなので、まだあることはある。けれどそれ以上に、今のアキラの心には、可哀想だとか、ああはなりたくないだとか、そんな安っぽい同情心が多くを締めるのだ。けれど、そんな安っぽい同情を向けることはリトル・スノーに迷惑なんじゃないかとも思う。自分がそうだったから。

 仲間の誰かに自分のことを気にされるのは苦痛しかない。友だちや家族と離れ離れになって可哀想だとか、この世界の右も左もわからないのによく戦っているだとか――環境に恵まれていない自分に対して、そんな慰めの言葉をかける者が何人もいる。その言葉で満たされるのは同情している側だけであり、自分は踏み台に使われただけの憐れな道具でしかないと感じてしまう。

 だから、安っぽい同情はしたくなかった。同じ異界の魂に親近感が芽生えたのではなく、ただ自分を内心嘲笑っているんじゃないかと思わせた仲間たちのようになりたくないから。

 けれど、だからと言って本気で同情するような気持ちにもなれないでいる。何せ相手は歴史に名を残す『異界の魂』であり、自分がこの世界に来ることになった元凶。そんな相手に、慰めの言葉をかけたり励ますような気持ちなど湧いてこない。それに結局、彼女は――

「どうせ、死ぬんだろ」

 誰にともなく呟いて、アキラはそう割り切ろうとする。けれど彼は、そう言葉に出した自分の声を信じられないでいた。自分が今まで聞いたこともないほど、安っぽい同情をかけてくるどんな相手をも拒絶するより冷たい言葉を発した自覚があるだけに。

「ん〜? アキラ、なにか言ったの〜?」

 愕然とするアキラのすぐ上に、シエルの能天気な声と羽音が響く。その声に我に返り、アキラは誤魔化すように吐息をついた。

「何もない。ちょっと疲れただけだ」

「けどまだ入り口に入ったところなの。アキラ、おじいさんみたいなの〜」

 失礼な物言いだとアキラは睨むが、そんなこと昼行灯の天使は気づきもしない。それどころかいかにも純粋そうな瞳で彼を見返して、結局アキラはその視線から逃れるように俯いた。

 その一連のやり取りを見届けていたらしいニヴァが、背後から挨拶代わりのような軽い笑い声を挙げる。

「アキラって、相変わらず天然には弱いよね」

「余計なお世話だ」

 苦々しく返答するが、ニヴァもマイペースな性分であるためか顔色一つ変えずに刺々しい視線を受け流す。

「けど、色々耐性付けておいたほうが人生で色々役立つときもあると思うけど? 柔軟性は苦手なものを遠ざける大切な要素なんだからさ」

「……そうだな。天然のかわし方とか、お節介を受けない方法とか覚えたら、色々役立つだろうな」

 皮肉っぽい言い方に、ニヴァは肩をすくめて吐息をつく。

「なかなか言うようになったわね…。けど、皮肉覚えるよりあんたの言う通り、角の立たない人付き合い覚えたほうがいいんじゃない?」

「そんなの覚えられるんならここまで苦労してない」

「ま、わかってるけどね。そういう性分だっていうのはさ。アキラが簡単に物分かりよくなったらそれこそ苦労しないもん」

 仏頂面のアキラに対し、諦めてると言わんばかりにひらひらと手を振るニヴァ。その態度に、アキラは大きく息を吐く。

「ニヴァなんかより先輩の異界の魂に、上手い世渡りの方法を教えてもらったほうが手っ取り早そうだな」

 相手が軽く拗ねることを見越した冗談のつもりなのに、アキラの意思に反してニヴァは硬直した。それも当然で、今までリトル・スノーの話題がアキラの口から上ったことなど一度もないのだ。それどころか彼の前では話題にすまいと自制している仲間もいるのに、その張本人が冗談でもそんなことを言うなど、気楽な性分のニヴァでも自分の耳を疑った。

「……なんだよ。そんなに珍しいことか?」

 アキラも硬直される理由がなんとなく分かって、けれどそこまで真剣かつ大げさな反応が返ってくるとは思えなくて、戸惑い半分でニヴァを睨む。彼女は、いつものアキラらしい表情に、ようやく反応らしい反応を見せた。

「…いや、うん、冗談……よね。ごめんごめん、ちょっとお姉さんびっくりしちゃった」

 今度は急に大げさな仕草で謝るニヴァに、アキラは更に恥ずかしさが込み上げてきた。確かに自分が『完全な異界の魂リトル・スノー』に敏感なのは事実だ。けれどそれは、自分個人の感情によるものだから、仲間たちに気を遣わせているつもりなんて全くなかった。

 しかし、今のニヴァの反応を見ればそれが間違いであることは明らかだ。自分の中だけで完結していたなんて格好を付けたものではなく、自分のことしか見えていなくて、仲間たちに気を遣ってもらっていることにすら気づかなかったのが真相なのだと思い知る。

「……なんだよ……それ……」

 情けない――アキラは本気でそう自分を恥じ、自分を責める。ミュウに真正面から言われてから、リトル・スノーの話題に気を遣っているのはミュウたちだけだと愚直に思っていた。そんなことはない。あれは言わば総意に過ぎず、本当はマックスだってアルフリードだってゲイルだって、自分がリトル・スノーを意識し過ぎているせいで戦いに行きたがっていたことを知っていたのだろう。けれどそれは言わずにいた。それを知れば自分が、また卑屈になることが分かるから。

 アキラはなんでもない振りをして自分の顔色を伺っているニヴァを睨みつける。彼女には何の罪もないけれど、そうでもしなければ情けなさに涙腺が緩みそうになった。

「あのな、ニヴァ」

「ん?」

「もう、気を遣わなくていい」

 言い放つと、アキラはそのまま返事も待たずに歩き出す。その後ろでは、急にそんなことを言われて目を瞬かせているニヴァがいたが、今の彼には気づきもしない。

 そして宿に帰れば、アキラはきっとリトル・スノーのことを許容できているであろう自分を夢想する。それが安っぽい同情心であれ何であれ、仲間たちにいらぬ気遣いをさせる必要がないと知らしめることができると思い込んでいた。

 

 

 無事にフォースロッドの抽出を終え、疲れ果てて宿に帰る。そうしてロビーにはいつも通り、リトル・スノーが鎮座していた。周囲には主に魔法を使う少年少女たちが集っている。

「あ、アキラちゃんだー」

「お疲れ様でした、アキラさん」

「ねえねえ、エクスプロージョンも抽出したの?」

 口々に話しかけられて、アキラはそれになんとか答える。それでもリトル・スノーの近くにはまだ何名か残っていて、真剣な表情で何かのアドバイスをもらっているらしかった。恐らく、魔術の効率や集中の高め方に関するアドバイスだろう。彼らは一応、実地訓練としてこの一行の中にいるのだから、のんびり遊び呆けている暇などないのだ。

 けれどアキラの目には、相変わらずリトル・スノーが無条件に愛され信頼されているように見える。冷静に考えてみればアキラがお門違いの魔術師に適切な助言などできるはずもないが、やはりリトル・スノーのほうが話を聞くに値する相手なのだと思い知らされているように感じる。

 だから、遠出中にできるだろうと思っていた挨拶も、交わすどころか相変わらず無視したような状態のまま、アキラはリトル・スノーの傍を素通りするつもりだった。

「こんばんは」

 けれど、リトル・スノーは無視する気にはならないらしい。微笑みながらアキラの背中にそう声をかける。いつも通りのことだ。そしてそれは、アキラが仲間たちに余裕があると知らしめる機会でもあるはずだった。

「…………」

 しかしアキラは一瞬喉まで出たはずの挨拶を、やはり飲み込んでしまっていた。理由があるとすれば、それがいつものことだから――としか言いようがない。今すぐに変わる必要はない、まだ半月も残されていると言い訳する。

 後ろめたさと自虐と嫉妬を胸に去っていくアキラの背中を見届けると、チョコが眉根を寄せた。

「……アキラさん、やっぱりお返事してくれませんでしたね」

「そうね」

 無視されても動じないリトル・スノーを見ると、チョコは逆に不安になる。この女性にとって、アキラがどんな存在なのかまるで見当がつかなくて。

 できれば同じ異界の魂として自分たちでは埋められない孤独を、女王に救済してほしいと思っているが、当のアキラがあの調子ではそれも無理なのは明確だ。

「…あの、スノーさまは、アキラさんのこと、どう思っていらっしゃるんですか?」

 やや期待を込めつつ訊ねたチョコの質問に、リトル・スノーは悠然とした笑みを浮かべる。

「彼次第、……というのはちょっと意地悪な言葉かしら」

 追求を封じられたような答えだと思い、チョコは曖昧に笑った。

 

 勿論、それをアキラが聞けるはずもない。けれど彼の頭の中のリトル・スノーはチョコが畏れたもの以上の、有無を言わせぬ圧迫感を感じさせる高慢な笑みを宿していた。自分を視界に入れていないくせに自分を見下しているような、そんないつもの被害妄想が彼の疲れてささくれ立った脳に漂う。

 それで余裕など生まれるはずもない。疲れが悪い方向に作用し、いつも以上につっけんどんな態度で他の仲間たちと軽いやり取りを交わすと、アキラは黙々と食事を口に運んだ。

 遠くからニヴァが真剣な表情でマックスやリューンエルバとアキラのほうを垣間見ながら何か話しているようだが、それを見ても彼は何の感慨も抱かない。どうせ自分の遠出中の言動について言い触らされているのだろうと思い、そんなに自分のことを大げさに取り扱う彼らに嫌気が差した。あの女と違って信頼されていないんだな――といつも通りの劣等感が生まれてしまう。

 手早く夕食を掻き込むと、そのまま汗を洗い流しに行く。下着の替えは取りに行くのが面倒だから、部屋に戻ってからにしようと決めた。

 それも済ませると、ようやくアキラが待ち侘びる就寝となる。実際のところは寝ていなくても、自室に篭って誰の顔も見ずに済むのは精神的に楽だった。そう計画立ててようやく気づいた。――これじゃあ以前と変わっていない、と。

 けれどそれがどうした、とアキラは反省を促そうとする自分を一蹴する。リトル・スノーがもうすぐ死ぬらしいが、それは自分に何の関係もない。口止めもされずにいたから、気が晴れるならば言い触らせばいいだろうし――尤も、そんな自分が悪役になりそうなことをアキラが行えるわけがないが――、女性側から協力を要請されたわけでもない。だから何も変わらないのは当たり前だし、事情を知って優しくなってやるだなんて浅ましいと結論付けて、アキラは濡れた髪を乱暴にタオルで掻く。

 そうして二階の自室に戻ろうと、軽く覚悟を決めつつロビーを突っ切り階段を上がろうとしたところで、人垣を見かけた。人垣と言っても三人ほどが集まっているだけだが、階段が狭いのでどうしても封じられてしまう。しかも後姿から察するに全員非力な魔術師の少女たちのようで、アキラは仕方なく声をかけた。

「どうしたんだ?」

「あ、アキラさん……」

 ホルンとシエルが困ったような顔をアキラに見せる。どうやら誰かが壁際にもたれかかっているらしいが、その横にいるネージュが病人に密着して呼びかけているようなのでよく見えない。

「急に気分が悪くなったらしいの〜。とっても辛そうだけど……」

 うろたえる二人が一段下がり、心配そうに屈み込んで、座り込むまいと必死になっている人物を見る。ネージュの紫の髪が際立つような純白のドレスを着た女性が見えて、アキラは一瞬息を呑んだ。リトル・スノーに違いない。

 この女の背中を見るのはこれが初めてかもしれないと、そんなことに軽く驚きを覚えながら、アキラはその横を通り過ぎようとする。

 とっととこの場から退散したいところではあるが、足音を響かせては少女たちから非難めいた視線が飛んでくるかもしれないと思い、なるべくゆっくりと、病人に気遣っているように階段を一歩ずつ上る。

 すぐ横から聞こえてくる声は両人とも切羽詰っていて、軽く押し問答になっているらしかった。

「本当に、すぐに治まるから……」

「八半刻も経っているのにまだ辛そうですよ? …本当に、何かの病気なら…」

「だいじょうぶ、一晩寝れば平気…」

 リトル・スノーの、必死で痛みを押し殺すような声色は、確かに無視するほうがおかしいようなものを持っていた。けれどアキラは一応なりともその原因を知っている。彼女自身の口から聞いた、生きながら腐りゆく罰を味わっているところなのだろうと納得し、階段を上りきるところだった。

「…っ、スノーさま、血が……!」

 息を呑むようなネージュの声に、不意にアキラは振り返る。シエルとホルンも血が滲んだリトル・スノーの体を気遣うべく、表情を大きく変えていた。

 そうしてアキラは見てしまった。自分とは違う『完全な異界の魂』が、苦痛に喘ぎ苦しむ姿を。青白い顔に玉の汗を浮かべ、必死に何かに耐えているそのか細い肩を。そしてドレスの純白を汚す、鮮やかな血の色を。

 腐っていく最中なのだろうと思うと、アキラの心臓が浅く締め付けられる。けれどそれだけでは、まだアキラの足を引き返させるような力は持っていない。見過ごすだけで、済むはずだった。

「わたし、お医者さんを連れてきます!」

「大人の人たち呼んでくるのー!」

 動揺した少女たちが、散り散りに宿を走り出そうとした瞬間、リトル・スノーの相貌に大きな拒絶の色が浮かび上がった。痛みも加わり、今しも泣き出しそうなその表情は、まるで孤独に押し潰されそうな頼りない少女のそれだ。そう思った瞬間、アキラの足が動いた。

「立て」

 リトル・スノーの二の腕を掴み、強引に歩かせる。慎重な態度でいた少女たちが、その乱暴な行動に目を剥いた。

「アキラさん!?

「スノーさまは動くのも辛そうなんですよ、そんなことしたら…!」

 少女たちの非難の言葉に心が痛みながら、けれど自分は正しいことをしているはずだと言い聞かせリトル・スノーのほうを見る。

「これはいつものことなんだよな」

 リトル・スノーは痛みで虚ろな目を向けながら、ゆっくり頷く。手から伝わってくるか細い震えは痛みから来ているのだろう。確かに、少女たちが動かすのをためらうほど、女性の痛みは酷いものらしい。

「こいつは、いつものことだから大事にはしてほしくないって言ってる。すぐに寝たら治るって本人が言ってるんだから、それを信じろよ」

 それでも少女たちの非難めいた視線はまだ残っている。それに若干の戸惑いがありはしたが、あの辛そうなリトル・スノーを間近で十数分近く見ていたのならそうなるのも仕方ない。リトル・スノーの二の腕をきつく掴みながらも、アキラの胸には後悔が湧き上がりつつあった。自分に対しても特に気遣いを見せてくれていた少女たちから、非難するような視線を受ける辛さは、予想よりも遥かに重い。

 そんなアキラの心変わりに近いものを見越したのか、リトル・スノーが虚ろな表情に精一杯の笑顔を作り、少女たちに投げかけた。

「心配、しないで…。彼の言う、とおりだから……」

 傍にいたアキラでさえ、掻き消えそうだと思わせる声だった。けれどそう言われてしまうと、少女たちはアキラを非難する気を失ったらしく、戸惑うようにお互いを見返した。

 アキラは念を押そうか一瞬迷ったが、リトル・スノーがアキラのほうに向きを返す。その目許は痛みで潤み、必死だった。何か言う暇などないと悟り、引きずるような乱暴な体勢なのは承知の上で、宿屋の一番奥の部屋に連れて行く。

「…お、おい!」

 部屋に入ったその瞬間、リトル・スノーの足下が崩れた。埃っぽい床に倒れこみ、体は痛みでこんな反応を示せるものかと思うほど震えている。確かにこれでは触れるのにも憚れる。

 けれどこうなったのは自分のせいではないと言い聞かせ、アキラはなんとかベッドにその体を横たえらせた。

 本来ならば柔らかな肌は痛みを必死に抑えこむように硬直し、乳白色の肌は死体のように青白い。血の色にさえ見えない唇はか細く震え、痛い痛い痛い痛いと呟き続ける。表情は虚ろで、見開かれた目は鮮やかさを増し、暗闇の中で爛々と輝く。――普段のリトル・スノーとはかけ離れた姿がそこにはあった。

「……あ、あ゛、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛……!」

 痛みが増したのか、喉から搾り出されるように出る悲鳴が、常人が痛みを訴えるものから変化した。悲鳴は暗い室内を満たしているのに、喉の奥の掠れている音まで聞こえてくる。

 痛みで全身に力が入らないながらも、身を捩りながらリトル・スノーは体勢を変えようとする。けれど痛みに全ての神経を奪われているから、膝を折ろうとする動きすら緩慢で、恐ろしくだらしない。

 視点はせわしなく動き回り、華奢な首と胸が酸素を求めて激しく動く。口はもどかしげに動き、舌の動きさえ見えてしまっている。額と頬に張り付いた髪は、まるで血管のようにリトル・スノーの表情を不気味に装飾する。

 まるで狂人のようだと、アキラは目が離せないながらも思った。と同時に、何故自分がここにいるのかと疑問と後悔が浮かんでくる。

 一時の情に流されて、運んだ結果がこれだ。こんなものを見るために自分はリトル・スノーを助けたんじゃない。見返りが欲しかったわけでもないが、あの時助けようと思った気持ちはこの光景に押し潰され、もう思い出すこともできないでいた。

 もう自分にできることはしたのだからと頭の隅で言い訳し、出て行こうとドアノブを握ろうとした瞬間、外の声に気づいた。考えるまでもない、リトル・スノーが心配な少女たちが他の連中を呼んだのだろう。

 このまま自分が出て行けば、リトル・スノーの醜態は彼らの目に映る。ヒロは親友で、ミュウもあの少女たちも、自分の同年代の連中は一概にリトル・スノーに好意を持っていることをアキラは知っている。しかし、彼らはきっと知らない。アキラの背後で痛みに喘ぐ女の姿を。女王の威厳も、完璧な異界の魂の超然とした態度もない、嫉妬を抱くアキラさえ目を逸らしたくなるようなリトル・スノーの醜い姿を。――そんな姿を、自分が見せてしまってもいいのか。

「……リトル・スノー女王陛下?」

 ノックの音とイグリアスの声に、アキラは不意に我に帰る。と同時に、ドアが開かれないように思わずドアノブを両手で握った。

「な、なんだよ」

 リトル・スノーの掠れた呻きが聞こえる。否、それはもう呻きにさえなっていない。痛みが次第に増してきて、声さえ出ない有様なのだろう。掠れた声に、啜り泣きのような痛々しいものが混じっていた。

 その声がドアの向こうに聞こえていないよう願いながら、アキラは軽い驚愕を篭めた沈黙が破られるのを待つ。

「お前本当にいたのか、アキラ?」

 今度の声はマックスだ。他にも何人かの声が聞こえてきたが、誰なのかは特定し辛い。

「ああ、そうだけど……そんなにおかしいか?」

「いや…まあ、ちょっと驚いたな」

 昼間のニヴァの反応を顧みれば、ちょっとどころではないのだろうなとアキラは思いながら、適当な相槌を打つ。黙っていたら、背後の唸り声に気付かれるかもしれないと思いながら。

「そうか。それで、マックスたちは驚きに来ただけなのか?」

「いいや、女王様を見に来たんだよ。さっき、ホルンたちから呼ばれてな」

「一応、医者を呼ぶのは彼女の立場上好ましくないでしょうから思い止まらせたのだけど…私たちも心配になってね」

 イグリアスの言葉に、彼らは代表として尋ねてきたのだろうとアキラは察する。死者の体から戦ってもいないのに血が滲んでいたのだから、何が起こったのだろうと彼らが不安に思っていても当然だ。

 それでも、アキラはドアノブを放す気にはなれなかった。血が滲むよりも凄惨な光景を彼らに見せる勇気などなかったし、もしここで見せてしまえば今度こそリトル・スノーは明確に自分を見下すだろうと思ったから。――そう、怖いのだ。リトル・スノーの事情を知っている唯一の自分が、その事情を知っているからこそ非協力的な態度を取れば恨まれるのではないかと思うと。

「そうは言っても…ようやく、落ち着いたんだ。できればこのまま寝かせておきたい」

 自分でも気持ち悪いほど偽善に満ちた嘘だと思いながら、アキラはそうドアの向こうに声をかける。ドアノブを不意に回されることがないように願いながら。

 けれど、それよりも相手はそんな思いやりをリトル・スノーに見せているであろうアキラに驚いていた。

「そ…うなのか?」

「そうだよ」

「…一体、いつの間にそんな、仲良くなったの?」

 仲良くなってなんかいない、と感情のまま反論できればどんなに気が楽になるだろう。けれど、今は乗り切らねばならない。彼らを追い払えば、アキラはようやくここから後腐れなく逃げることができるのだから。

「別に、仲良くも仲悪くもない」

 適切な言い訳が思い浮かばず、焦りながらそう返事をする。けれどこれでは相手が怪しむかもしれないと気付くと、慌てて付け足した。

「けど、本当についさっきまで辛そうだったから…、その、騒がせたくないんだ。起きたらまた苦しむかもしれない」

 アキラの苦しい言い訳は、けれどマックスたちにとってアキラが本当にリトル・スノーを心配しているかのように受け止められたらしい。何かぼそぼそと相談するような声が聞こえてから、息を呑むような気配を感じた。

「…一人か二人、入るだけでも無理そうなの?」

「わからない。けど、ここの床、結構軋むだろ。だからできれば…」

 やめてほしい、と語尾を濁す。イグリアスは、彼女の後ろにいるらしい誰かとの短い会話をすると、諦め半分でため息混じりにもう一度こちらに問いかけた。

「…顔を見るだけでも無理そう?」

「明日、本人から見せてくれるだろ。一晩寝れば平気だって言ってたんだから」

「そうなの?」

 驚いたようにイグリアスの声色が変わった。けれど問いかける相手はアキラではなく、リトル・スノーを心配した少女たちらしい。

 短いやり取りの中で、アキラは何となくこのまま部屋に入るのを諦めてくれる雰囲気になっていることを察する。息を潜めて、けれど何でもないように自分に言い聞かせながら、次の問いかけを待つ。

「それじゃあ、今は落ち着いてるんだな?」

「ああ、普通に寝てるよ」

 あの調子なら、実際のところは眠ると言うより失神する、だろうなと思いながら、アキラはようやく背後の不気味な静けさに気付く。本当に失神したのだろうかと後ろを覗き見ようとするが、それよりもあの光景をまた見る可能性があった。

「それじゃ、俺たちは一端下に戻る」

「わかった……」

 ようやく待ち侘びた言葉が聞けて、アキラは深いため息を吐く。けれど、相手のほうは彼がそんな緊迫した状態で話しているとは思っていないらしい。

「お前も、適当な時間で切り上げるんだぞ。女性の部屋で一晩過ごすにはまだ早いだろ?」

「……ば、ふざけたこと言うな!」

 思わず大声を出して、今度は本当に慌てて背後を見る。けれどベッドの上のリトル・スノーは静かなものだった。まるで本物の死体のように、だらしない体勢のままぴくりとも動かない。

「お前が大声出してどうするんだよ…。じゃ、これで帰るな」

「あ、ああ…」

 返事をしてからリトル・スノーの顔を覗き見ると、やはり失神したらしく表情を感じない寝顔でシーツに顔を埋めていた。これ以上あの醜態を見なくていいことに安堵したが、このまま外の人気がなくなった途端に出て行くことはできない。

 親友を自称するヒロや傍若無人が売りのヴァラノワール生たちが勝手にやって来て、あのベッドの上のリトル・スノーを見たら厄介だ。傍目にも寝ているように見える状態にさせておくべきだろう。

 そう思いながら、アキラはドアの向こうに耳を立てる。複数の足音は遠ざかっているが、完全に聞こえなくなるまで待ったほうが彼の精神的に安心するので暫く待つ。

 もう大丈夫だと思う物音の量になったところで、アキラはようやく体ごとベッドのほうに向けた。

 リトル・スノーが苦しんだ痕跡は、彼女の体が動かなくなった今でも色濃く残っていた。マットレスが見えるほど乱れたシーツに、枕は床に落ち、キルトは半分ほどベッドからずり落ちている。

 ベッドの上に乗せただけでもそんな有様になるのだから、どこまで暴れたのだと思い――しかし、自分が見ていた間は痛みに動くことすらできない様子だったことを思い出す。

 つまり、アキラがリトル・スノーに背を向けていた間にここまでベッドを滅茶苦茶にしたのだろう。が、そこまで動けるほど元気だったと取るべきか、それともリトル・スノーなりに呻き声を抑える方法がこれだったのか。そこまで考えて首を振る。そうやって深く物事を考えてしまえば、同情せざる終えなくなる。自分からそんな思考になるのは、それこそ偽善めいていて不愉快だ。

 今はただこの部屋から後腐れなく出て行けるように整えようと意識を切り替え、ベッドに近づいてはみだしたリトル・スノーの腕を手に取る。

 か細い腕だが、あのときのことを思い出すと何の感慨にも浸れない。その腕をベッドの内側に持っていき、シーツの乱れを慣れないなりにも直す。靴は履いたままだったのでそれも脱がしてベッドの近くに置いた。キルトと枕を拾い上げ、手で適当に埃を払って、枕はリトル・スノーの頭の下に、キルトはそのまま女性の苦しんだ跡を覆い隠すように被せる。そうすると、随分見栄えはまともになった。少なくともまともに寝ているようには見える。

 目的は果たしたのだからとっとと出て行きたいが、それでもこのまま無防備に出て行って誰かと鉢合わせるのは勘弁してほしい。そう思うと結局外の様子に敏感になってしまい、なかなかドアを開けられなかった。ドアノブにはまるで手の平が縫い付けられているように密着しているのに、何か物音が聞こえる気がしてアキラはなかなかその手を動かせない。と同時に、物音が聞こえてくるのは廊下ではなくて自分の背後からではないかと思う部分もあって、少年は随分長い時間、挙動不審に首を動かしていた。

 けれど長時間に渡って小さな物音に飛び上がっているような状態は、アキラの緊張を少しずつ覚ましていく。誰かと会って詳しい話を話すよう促されるのは嫌だが、自分がこの部屋から出て行っても何の不思議もないのだからと言い聞かせると、ドアの向こう、いつとも知れず聞こえてくる物音を気にせずドアノブを回した。

 最後にベッドに横たえるリトル・スノーの姿を見て、まだ起き上がる気配のないことに小さな落胆と安堵を覚えながらドアを閉める。

 静かに回したドアノブから完全に手を放すと、アキラは小さなため息を一つ吐く。そうして、胸に去来する何かに眉をしかめた。何だか異様に疲れた気がして、彼もベッドに頭から突っ込む。

「……何やってるんだ、俺……」

 答えてくれる声など、当然ありはしなかった。

 

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