EXTRA OLD

 

  

 広々とした緋色の書斎の一番奥に、彼女はいた。

 純白の中にも深い薔薇色を練り込んだ大理石の書斎机、純金の女神が月光石のような灯りを抱えた卓上ランプに、黒曜石のように輝く羽を使ったペンだけが周囲の闇に染まっている。雑然と積まれた羊毛紙ですら金の箔が押されているが、そんなものに彼女は何の価値も見出すつもりはなかった。

 裁いた分だけの書類とこれからまた裁かねばならない分の書類を見、小さく吐息を吐く。

 この戦争が泥沼化してきたことにより、当然今まで以上に仕事は増えた。戦前のように内乱を抑えるだけならまだしも、現状ではどこもかしこも人手不足で諍い続きだ。資金などあったところで優秀な兵を瞬く間に作り出すことはできないし、何よりそんな危ない橋を自ら渡りたいとは思わない。それに彼女は知っている。魔法以外の未知なる技術に手を染めた王たちが、今までどんな破滅の道へと歩んできたのかを。――貧しい村の育ちの彼女に、当然教養などないに等しいが、知識の吸収が煩わしいわけではない。自分たちの勢力が大きくなり、外交により他国との交渉の準備が整いだすと、彼女はあらゆる知識を吸収していった。君主が外交のために知識を蓄える、ということはごく普通であるし、それが名目ではあるが、実際彼女は本に触れることに純粋に心地よさを覚えていた。歴史書を読みつつも、誰にもばれないように娯楽小説の類を読むこともしばしばあった。

 知識を眺め、それを日々に活用するか否かは別として、ただとっぷりと本に囲まれ、平穏で少し退屈なときを過ごす。それだけの日々を求めたときは数知れない。皇帝となり、何万人という多くの命を支えねばならない玉座が、忌々しく感じたときなんて数えきれない。けれど、周囲に望まれ、そして自分で選んだ以上は、この道のみを選ばねばならない。

 椅子の上で大きく伸びをして、自分の手で火照った目を冷やす。座って書類を裁いているだけで、こんなにも体に熱が篭っていることに少し驚く。そして自分の手の冷たさは、案外に心地よい。

 そうして不意に、心と喉の奥が緩む気配がした。

「・・・・・後悔してるの?」

 気持ちが揺らいだのか、自分で自分に訊ねかける。そして笑う。何を今更と。

 馬鹿馬鹿しいと自分で自分を一蹴すると、椅子に座りなおして再び書類の一つに手を伸ばす。一晩ぐらいの徹夜は大したことはないが、何はともあれ仕事は早く終わらせるべきだからだ。

「後悔してるのか?」

 と、急に暗闇から聞こえてきた声に、彼女は椅子の上で一瞬硬直するほど驚いた。その声の主は知っている。知っているが、まさかここに入り込んでくるとは思わなかった。しかもこんな時間に。

「・・・・・・ヒロ様?」

「なんだ」

 呼ばれた女性は相変わらず表情を一ミリも変えずに返事をする。一応、皇帝の仕事部屋に忍び込んだ身の上にしては、あまりにもその態度は堂々としていた。外が静かだった点からして、どうせ警備兵を一瞬の内に気絶させたか、それとも凄みを利かせた睨みで怖がらせてから悠々と入り込んできたか。

 そっとため息を吐くと、彼女は眼前でいつも以上に据わった目つきの女性を軽く睨む。

「・・・・このような時間にいらっしゃるとは、何事ですか?またご自分の師団をどこに動かしたいかということでしたら・・」

「残業か。大変だな、上の仕事も」

 全然人の話を聞いていない。それどころか、勝手に椅子を持ち出してきて勝手に彼女の目の前に座り込んでいる。いつも以上の傍若無人ぶりに、彼女はわざとらしくため息を吐いた。しかし、相手はどこ吹く風である。広々とした書斎机の上に琥珀色の酒瓶とクリスタルグラスの器を置いて、その栓を抜く。

 よく熟成された果物の甘味すら感じさせる高貴な香りの酒は、その琥珀色の液体が如何に芳醇な風味を含んでいるかを表していた。しかし、彼女はそれに心を惹かれるほど酒飲みではない。むしろ、酒の匂いに慣れていないため彼女はその香りの濃厚さに眉をしかめたが、酒を持ってきた女性は硝子の栓に染み込んだ香りですら楽しんでいる。

「仕事がはかどらないなら飲め。詰め込みすぎると体に毒だ」

 そう告げると、置いたグラスの半分ほどの量を、優美な曲線を持つ酒瓶から注ぐ。そして当人は間も置かず自分のグラスを嘗めているが、彼女はそんな気持ちにはなれないでいた。

「ご遠慮します。ここは仕事の場――娯楽となりうるものは排除していますから」

「無礼講という言葉を知らぬと?」

「現状のどこに無礼講を許す要素があります?お酒を楽しみたいのならお一人か、ご自分の部下と一緒にお楽しみください」

 きっぱりと言い放つ彼女ではあるが、魔王の姫であり正統な魔王の継承者は揺るぎがなかった。口に含む酒の量は少量ながらも、そのペースは秒刻みに近い。当然ながら、持ってきたのは酒瓶とグラスだけなので、その濃厚な酒をストレートで嘗めていることとなるのだが。

「あいつらはもう潰れた。だから来た」

 その言葉を聞かされた彼女は、全てのことに合点がいったものの、同時に今までの疲労が急に押し寄せてくるように脱力した。つまり、自分は眼前の女性の新たな犠牲となるためにここにいるということか。

 そんなことに付き合わされるのはいかな彼女とは言えど御免だ。グラスに爪で触れると、辞退するように相手のほうへと遠ざけた。

「でしたらお帰り下さい。私にはまだ仕事があります。ここで酒を呑んで潰れてしまっては、皇帝としての面目は立たなくなります」

「一晩でそんな噂が民の間に流れるわけがない。それにお前は働きすぎだ。私的な部分が見えないのは王としてあまりよくない。人間くさいところも見せるべきではないのか?」

 それでも頑として譲らない女性に、彼女は軽くため息をつく。

「ではあなたは、国民の前に酒焼けだの二日酔いした状態の顔を出しても構わないと?それで国のために働いてくれる者などいるのでしょうか」

「お前の言葉は極端すぎる。一晩くらい酒に潰れて臥せっても有能な部下は何人もいるだろう。たまにはそいつらに頼ってやれといっている」

 そうして自分も酒を片手に持ちながら、再び彼女の眼前に琥珀色の液体が注がれたグラスを突きつける。彼女に突きつけられたグラスを持つ手は、骸骨を模した篭手をはめた魔手であるため、かなりの迫力がある。黒々とした、人肉を簡単に引き裂けるような鋭く鋼にも似た手に、華奢なグラスが摘まれているさまは、見ていて割れないか不安になるし、自分の顔が引っ掻かれないかも心配になる。

 多分、この女性の部下たちも、こんなふうに勧められたから酔い潰れてしまったのかもしれない。まあ顔に跡が残るような傷を負うよりも、二日酔いになったほうがまし、という判断は気持ちとして間違いではないだろう。武人が顔に傷を持つのは光栄かもしれないが、彼女としてはそこまで自虐的にもなれなかったし、荒々しい勲章などぶら下げたくなかった。それが酒の勧めを断ったからできた傷になるのだとしたら尚更である。というか、そんなものは勲章にもなりはしない。ただ情けないだけだ。

 黒い手から丁寧に受け取ると、彼女はそのグラスに波打つ液体を少し口に含んだ。ストレートであるためか、かなり強く、濃厚なアルコールと何かの甘い香りが舌の上ではしゃぎ回るような感覚を覚える。

 眉間に皺を寄せながらも酒を飲み始めた彼女を見て、女性は満足そうに頷く。逆に、結局のところ脅されるように酒を勧められて辞退しきれなかった彼女のほうは何ともいえない顔をしていたが。

 そして暫くの間、外見は文句なしに凛々しくも美しい女性二人がちびちびとグラスを傾け合っていたが、二人の間にあるのはただの沈黙であるため、つまらなくなってきたらしい。

 酒を勧めた女性が口を開いた。

「何か話すことはないのか」

「新しい情報が入り次第、軍議の席でお話し致します」

「そうじゃない。酒の肴になるような話はないのかと聞いている。大体、黙ってばかりでは酒もまずくなる。お前、祝賀会は苦手だったろう」

 一緒に酒に付き合っているだけでも感謝されるべきで、そんな文句だの短所の指摘だのされる筋合いはないと言いたいところではあったが、彼女はそれをぐっと堪えた。実際、彼女はその手の賑やかな集まりは苦手だったからだ。

「私もだ」

 しかし、女性の呟いた言葉は彼女にとって意外そのものだった。冷静に考えれば、確かにこの女性は馴れ合いは嫌いな性格であろうが、節々に見る豪快さから考えてそうは見えなかった。

 思わず女性のほうに目を向ける彼女に、人の手の側にグラスを持つその人は少し笑った。笑いながら、酒を再び口に含む。

「酒の席でどんちゃん騒ぎなど、信じられない愚行だった。酒に乗じて他の欲も解消しようとするなど以ての外だ。何より、あの空気がいけない」

 彼女もそれは同意だった。騒ぎに騒ぐのは別に構わない。けれど、その喧騒の奥にある、怠惰だったり淫らだったり、心地よさを通り越した投げやりな空気や腐臭は嫌いだった。このときにこそ酔わねば、心地よくならねば、今度こんな気分になれるのはいつなのだろうという強迫観念。そこには未来への可能性ではなく、逆に急に道が途切れることへの恐怖がある。そんなものに純粋に突き動かされている姿を見るのは辛い。

「・・・・わたしは、静かで涼しい夜が好きです。だから、ああいう騒がしくて熱気のこもったものは嫌いです」

「だろうな。まあ、私もあの手の騒ぎが好きな奴にはあまり近づきたいとは思えないが」

 穏やかに肯定された上に、ただ一言発してしまっただけで、何となく、彼女の心の箍(たが)が緩んでしまったようだ。大きくため息をついて、彼女は背もたれに寄りかかった。

「あの手の振る舞いを何故喜ぶのか、わたしにはよく分かりません。ただ食い、飲むのは生きるためです。美味しいものを食べたり飲んだりすることに心地よさを覚えるけれど、それはただ、生きるためのついでではありませんか。狂喜するほどのものではありません」

「食べる者に感情が含まれているからこそ、より美味いものを求める。人間的なものだな、それは」

 そこには、そんな言葉を発した人が人間であるか魔族であるかの肯定も否定も含まれていなかった。ただ、差別されたものとしての区切りのみが浮き立たされる。それに、彼女は少し笑う。

「では、魔族も混血純潔関わりなく、生まれながらに人間的なものを持っているというわけですか?魔族は単に、人とは違って魔力を持つ生物であるというだけでしょう。感情がないものは、単なる肉塊でしかありません」

「父は食事の快楽など忘れたと言っていた。私の前では食べる姿すら見せていない。姉さまもな。恐らく、神に近しい者ほど、快楽などの感情からは遠ざかるのだろう」

 随分と軽く、かの大魔王ジャネスのことを引き合いに出されて、彼女は一瞬呼吸を止めた。

 とは言っても、彼女は大魔王の治安を知らぬ身の上でもある。知っているのはその偉業。もしくは悪行。自分が混血というだけで蔑んだ魔族や人間たちは、大魔王ジャネスとその眷属である魔族のことを念頭に入れて自分や家族を差別した。その影響力は、当時はまだちっぽけな子どもの彼女にとってどれほどのものだっただろう。

「・・・・・・大魔王は、どんな方だったのでしょうか」

 呟く彼女の言葉の裏には、同じ人間と魔族の混血であるにも関わらず、愛され、後継者にですら任命された人への、複雑な思いが浮かび上がってきていた。

 彼女はその正反対だ。生まれたときから捨てられ、拾って育ててくれた人やその家族にですら迫害が及び、結局自分だけが生き残って、幼い子どもの命ですら奪われてしまう。そんなことは二度とさせないと誓ったのに、このざまだ。こうやって自分が酒を飲んでいる今もどこかで、誰かの命が消え、そしてその誰かを愛する人は泣いているだろう。――なんと、無力なことか。愚かなことか。

 しかし、相手はそんなことは知りもしない。少し遠くを見る目で彼女の脇にある女神のランプを見つめている。

「素晴らしい方だった。ただ単純に。神に近いとは言ったが、それでも愛情は向けてくれた。優しくもあったし、怖くもあったし、しかしそれ以上に、誰よりも強く、誰よりも遠く広い視野でものを見ていらした」

 それは、羨ましいことだ。彼女はそう笑むと、自然と口に酒を含んだ。

 その所作を見ながら、同じように女性も口に酒を含む。こちらのペースはかなり早く、もう既に空になったグラスに新たな酒を注ぎ足している。

「お前のことは聞いたほうがいいのか?」

「珍しいですね、ヒロ様がそのような些細な気遣いをされるとは」

「失礼な奴だ」

 軽く憤慨するような物言いではあったが、本気で怒ってはいない。それは彼女も同じで、のんびりと酒を煽りながら再び笑う。気の入っていない、よく言えば穏やかで、悪く言えば情けない笑い声だった。

「・・・・わたしには両親がいませんから。お訊ねされても満足のいく答えなど返ってきませんよ」

「嘘を吐け。でなければお前はどうやってこの世に生まれた。人魔の合いの子なら魔界獣ではないだろう?」

「さあ。生まれてすぐに捨てられていたそうです。だから親の顔は知りません」

「それも嘘だな。知ろうと思えば知れる。――お前が知りたくないか、それとも知る必要がないと捉えているからか。そのどちらかだ」

 相変わらずのペースで濃厚な酒を嘗めている女性の言葉に、彼女は一瞬酔いが醒めた気がした。単刀直入にも近い表現で、とても率直に、彼女が考えもしなかった、生みの親に対する億劫さの答えをいともあっさりと女性が口に出したからだ。

 そして、その言葉を、それこそ酒のように頭の中に巡らせ、馴染ませ、一体とさせると、彼女は三度、力のない笑みを宿して頷いた。

「・・・・・・そうかもしれませんね。わたしの今の権力さえ行使すれば、親を探し出すことも、わたしの出生を暴くことも可能でしょう」

「意味が違うが…まあいいか」

 意味の分からない呟きを無視して、彼女は自分のグラスもいつの間にか空になっていることに気がつく。あまり酒に慣れていない自分の体のことを思うと、注ごうか注ぐまいか迷うが、それより先に酒に強いらしい女性がグラスを置いて、人の手で美しい曲線の酒瓶を持った。

 軽く波さえ立ててグラスの半分近くまで無遠慮に酒を注いでくる女性に、そっと彼女がグラスを自分の方へ寄せ、酒を注ぐのを止めさせる。

「・・・・あまり、強くはありませんから」

「なら尚更だ。皇帝が酔い潰れて部下に操を奪われるなどとは笑い話にもならんぞ。今のうちに慣れろ」

「品がなさすぎます。冗談にしても笑えませんね」

「笑う器ぐらい身に着けろ」

 淡々としたやり取りも、二人が同時に酒を飲むためか、一瞬にして止んでしまう。それから、彼女は少しずつ体が火照りだすのを感じながらも、ゆっくりと口を開いた。

「・・・・・・知りたくないんです。わたしにとっての両親はヘルハンプールのあの場所でいた人たちで、わたしには人間の妹がいました。それがわたしにとっての家族です。…今更本当の両親を知ったところでどうなりましょう。わたしはその人たちを両親と呼ぶつもりはないし、あの人たちを侮辱したいわけでもありません」

「お前の家族について侮辱するつもりはない。だが、それでは無意味だろう」

「何がです?」

 不意に、女性をまっすぐに見つめる瞳は、まさしく真紅の薔薇のような赤だった。しかし、女性がそこに見たのはこの色とは真逆の青。海よりも真夏の空よりも青く深く澄んだ、慈愛を宿す女の瞳。

 色は全くの逆でも、似ていると思った。その瞳に宿す感情も、与える印象も違うのに、その瞳はどこか遠い昔に自らの手で命を奪った親友と似ている。二人に共通する点は、瞳の輝きから感じられた、根底に漂う哀しみか、それとも不釣合いな玉座に据えられた自らの不運に立ち向かう気丈な姿勢か。

 どちらもそうだと簡単に納得できるものではない。微妙な違和感は付きまとうが、それを女性は口に出すつもりはなかった。

「お前は力がある。魔王の血族であるとの噂も流れるほどに。大体、あの軍師はお前の魔力だろう?」

「・・・・ご存知だったのですか?」

「私を誰だと思っている」

 確かに愚問だ、と彼女は吐息をついた。それから、少し忌々しげに首を振る。

「わたしは嫌いです。力など、――特に魔力などは、結局のところ破壊するための道具でしかありません」

「そんなものだろう。あらゆる力を上手く使ってこその政治であり、統治だ。そしてお前のその力の源である両親を探り、公表すれば、恐らくお前は力を得る」

「親の七光りと言う名の、ですか?ご冗談を。そんなものにはわたし自身には何の意味もありません。それどころか、そんなものはわたし自身の力を無駄にするものです」

 その言葉の意味は女性にも分かる。大魔王の血を引いており、炎の四源聖の血を引いているから今の自分がいるのだ。それはいくら度重なる努力をしても一般的な魔族にとっては辿り着けないレベルであり、それ故に彼らにとっては妬ましさもあるだろう。当然、嫉妬されるほどに女性の魔力も戦闘能力も超が付くほどの一級品であった。しかし、それは自分の努力を底上げする形で、両親の力があるからだ。個人として、努力をして得た力など、どれほどのものなのか。

 そのやるせなさは、もう既に味わい尽くした。自分だけの力ではないことの歯痒さなど、あの戦争で何度も思い知らされた。敵は無名の親を持つのに何故強いのか、敵は自分より有名であるとは思えないのに何故こちらが後手に回ってしまうのか。悔しくて辛くて、結局のところ親の力に、血に頼っていた自分の卑小さがよく分かった。

 だからその分、分かるからこそ、彼女の言葉は馬鹿馬鹿しく感じた。

「そうか?結局のところ、お前は最も忌む自分の力に頼る時があっただろうし、これからもある。お前は頼りたくないようだが、最終的には頼るのさ」

 行き着く先は結局そうだった。しかし、それでもその力に頼る姿勢によって、自分の気持ちは随分と救われる。

「だがそれに甘えるな。頼るな。そして疎むな。生まれ持って得たものを否定するな。自分だけの力だと驕らぬことが、その力をただの暴力以外のものにする」

 それは財産。形に出来るものでもなく、すぐに何にでも役に立つものではないかもしれないが、それこそ親から子へと引き継がれていくもの。それを受け入れ、親の力を借りる身の上であることを思い知った上で活用することが、長きに渡る戦地から得た、女性の両親から受け継いだ力に対する答えだった。

「・・・・・・・だといいのですが」

 苦味が走った表情で、重々しく彼女は呟いた。それは酒の力を借りずとも漏れる彼女の本心からの呟きであり、同時にそんな力を持って、活用できる立場にきてしまった自分への自己嫌悪をより一層のものとする。そして滲み出るのは、幼く罪もない命を始めとして、多くの命を奪い、同時に多くの命を支える我が立場に対してのおこがましさ。

「生き残るためだ。仕方ない」

 短く告げると、女性は今度は一気にグラスを煽って、大きく長い息を吐き出した。

「・・・・・結局、自分の持つ力に頼るのなら、それを最大限に利用するのが手だろう」

「どういう意味です?」

「親から得た力で自分の手を汚したくないのなら、自分の親の名そのものを利用しろと言っている。気持ちは分からなくもないが、半端な真似はするな。無駄に自分の手を汚す羽目になるぞ」

 現に、今でもなっているとは、女性は言ってやらなかった。その方が、更に効果的に彼女の心に響き渡るからだ。

 事実、その沈黙に彼女は故意に黙った女性の意思を感じ取り、眉間に軽く皺を寄せた。それでも酒を口に含むと、彼女は机の縁を見たまま呟く。

「・・・・・何故、名だけで効果的なものがわたしの血に含まれてると、あなたは思うんですか?」

「勘だ」

「納得できませんね」

「そうとしか言いようがないからな。それとも、私が知っているとでも思っているのか?」

 彼女は軽く頷く。謁見の間の金の玉座で、重々しく厳粛さを込めて頷くのとはまた別に、まるで村娘が相槌を打つような軽さと頼りなさで。

「でなければ、そこまでわたしに自分は誰の娘かを調べろなどとは強制しないでしょう。勘でそこまで堂々と言うなど、ヒロ様らしくもないことです」

「それはお前が私を知らないからだ」

 そう返事をされて、彼女は片方の眉を吊り上げる。知らせる隙も見せないくせに何を言うか、とでも言うような少々の文句を込めたその視線に、女性は酒を飲んでやり過ごそうとする。

「でしたら、ご自分でお調べになれば宜しいでしょう。わたしはそこまで自分の正体を知ろうとは思えません」

「生憎、私はそこまで世話を焼くつもりはない。口先だけだ」

 自分でそんなことを言うものなのか。そんな気持ちを含んだため息をついた彼女ではあるが、ほんの少しその発言に納得する。

「…でしょうね。わたしにはヒロ様が分かりません。大魔王という大きな存在をそのように受け入れるような真似は、わたしには恐らく無理でしょう」

「抜かせ。父親が大魔王だった。ただそれだけだ。逆に、大魔王が父であった場合など、それこそ想像もつかない」

 少し分かりづらいニュアンスではあったが、彼女はすんなりとその言葉の意味を理解し、納得した。生まれたときから父と慕う人が周囲から大魔王と呼ばれていたか、それとも大魔王と畏れていた相手が父であったかの違いは大きく、確かにそれこそ想像がつかない。

「逆だと、今ごろどうなっていたでしょうね?」

「さあな。案外お前のように、自分の力に脅えながら何とかやっていたのかもしれない」

 無表情で酒を嘗めながらの発言に、珍しく彼女は声を出して笑った。反乱軍が現れてから数年間、日常の中で何回笑った記憶があるだろうかと彼女自身が驚くほど珍しく。

「しおらしいヒロ様は見てみたいです。あなたのわがままに悩まされている今は、特に」

「なかなか言うな」

 やはり無表情のままそんなことを言われても、彼女はちっとも嬉しくなかった。酒の影響か、力のない笑みを浮かべて目の前の女性と同じように酒を嘗めるだけだ。

「さて」

 もう空になったらしい酒瓶を持つと、女性は重たそうに腰を上げた。律儀にも彼女のグラスが空になるのを待っていたらしく、飲み終わった二つのグラスも獣のような手で摘まれる。

 それを見て、彼女は最初は邪魔で仕方がなかった相手に、ほんの少しわがままを言いたくなる気持ちを押さえ込む。これ以上傍にいてもらってもどうしようもない。誰かに甘えるのなら、戦争が終われば恐らくいつだって出来る。

 しかし、彼女は気付いていなかった。甘えるということ自体が彼女にはとても珍しいことであり、仲間の力を頼ったことは数あれど、甘えることを遠慮し続けたことなど。

「いい酒が飲めた。もうそろそろ寝る」

「お休みなさい」

 穏やかな声でそう挨拶をすると、女性も軽く頷く。

 それから女性は扉の方へと歩いていく。彼女は二杯か三杯ほどで酔っている自覚があるというのに、向こうは確実に酒が入っている状態でこちらに来て、その上でまた新たに開けた酒をほとんど飲んだ。にも関わらずその足取りはしっかりしており、その後姿を見ながら、彼女はこの人にも酒の弱いときなどあったのだろうかと不思議に思う。

「お前は、似ていたからかな」

「なにがです?」

 唐突な言葉に軽く驚く彼女に、女性は振り向いて軽く笑みを宿す。いつもからは信じられないような、穏やかな、優しそうな目で彼女を見て。

「――親友に。だからかな。久々にいい時間を過ごせた」

「そうですか」

「ああ。あいつが、お前の親ならもっと楽しかろうに。――しかし、そうなると癪に障るな」

「はい?」

 急に話が見えなくなった女性の呟きに、彼女は律儀にも反応する。それに、女性は力なく笑った。彼女の軽く見開かれた目の色彩は、確かに鮮やかな薔薇の真紅でもあるが、同時に黒味を帯びた血の色を被った月のようにも見えた。それは、女性の最も忌み嫌い、最も身近に感じ、自分に似ていると思った男の瞳の色。

「なんでもない。お前も早く寝ろよ」

「分かっています」

 そうして扉が閉まる。

 訪れた静けさに、ほんの少しの寂しさを感じながらも、執務室に取り残された彼女は小さくため息をつき、余韻を断ち切ろうとする。

 まだ月は出ている。まだ夜は長い。だから、あんなゆっくりとした時間はほんの束の間の出来事なのだ。

 そう自分に言い聞かせると、彼女は再び書類に向かう。グラスの跡が残る大理石を指先で崩し、無慈悲に無情に仕事をこなすよう、自分の頭を切り替えて。

 夜は長い。月は出ている。そしてまた彼女は、心の底から身内で楽しみ合うときを、自ら進んで埋没する。

 

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アトガキ

 魂2、酒飲み会話その一。ヒロロゼ?いや邪雪?(何故に)

 第七師団(姫の師団)の月見の席で悉く兵を酔い潰してからロゼの所に行く、という前振りみたいなものをやる予定でしたがこちらのほうがネタ固まってるので。

 ちなみにエキストラ・オールドから分かるように、二人が飲んでるのはブランデーです。ブランデー一本開けるってどういう根性してんだ姫。