Confession at the wharf

 

   

 湿りを含んだ潮風が彼の髪に絡みつき、更に彼の金髪を重くする。

 それは気分上の問題であって、実際に秤にかけても全く変わりはしないのだろうが、それでも彼は潮風にもてあそばれる自分の髪の重さを感じた。

 片手はズボンのポケットに、もう片手はラム酒の瓶を持ち、特に行くあてがあるわけでもなく、ただ彷徨うように軽い足取りで波止場を歩く。

 酒場で仲間や手下と賑やかに飲むのも好きだが、たまには波の音と潮風を肴に飲むのも良い。他の男達とは違い、海に対し、憧れ以上に強い懐かしさを感じる彼にとっては、その時間はまさしく舌も蕩けるような美酒に等しかった。

 今夜は三日月ではあるものの相変わらず空は明るく、黒い夜空は少し紺色がかっているようにも見える。ラムの瓶も深い緑の色が分かり、灯りを持つ必要は感じられなかった。

 船が泊められていない部分を見つけると、そこに腰掛ける。

 波の音に気持ちが緩んでいくのを感じながら、彼は足を子どものようにぶらつかせながら水平線を見る。遮るものは何もなく、心地良い孤独がそこにあった。

 今晩は実に波も穏やかで、このまま寝てしまっても寝冷え以外の問題がないように思えてくるほどである。夜空の中にも白く霞むものなどなく、夜でも快晴であることを告げていた。獣の鼻を持ってはいないが、この調子ならば明日も晴れる。

 もう一息瓶を煽ると、足元の水面に濃い影が見えたような気がした。それを見て、モンスターかもしれないなどと野暮なことは考えない。むしろそれとは違うものだと思うと、ゆっくりと水面の奥をよく見るように軽く前屈みになり、それが再び現れるのをひたすら待つ。

 人気のない、けれど人工的なその場所に、彼が一人っきりでいると、たまにそれは姿を現した。海の男の中で、勇敢な者は特に彼らに好かれやすいというが、この場合は彼が彼らに認められているからではない。半分以上は、血によるものだろうと思っていた。

 彼らにとって人間と交わるのは破りやすい禁忌なのかもしれないが、それでも何も知らない若い世代はやはり好奇心を露わにしてやって来る。その際、彼のように、同族の血が入った者がいると、特にそちらに自然と惹かれてしまうようだった。

 彼が酒も飲まず、静かに水面を見つめていると、それは姿を現した。

 空は明るいが、暗く黒く底が見えない水面から、水に濡れた珊瑚の色の頭が現れる。その髪は短めで、本当にまだ若い、人間で言えば十代もそこそこの子どもであることが分かった。

 そんなに若い者が夜中に来ることに、珍しいと思う反面嬉しく感じながら、彼はやはり表情を一つも変えずにそれが顔を見せるのを待つ。彼らは好奇心があるが臆病でもある。特に、人間との子を生した裏切り者が出てからは、神経質ともいえるほど人間に近付かない。それももう既に数十年前の話だからこそ、こうして若い世代がちょろちょろと顔を見せてくるのだが。

 珊瑚色の髪をしたそれは、ゆっくりと水面から顔を出す。顔は人間と同じなのに、耳の形は異形で、魚の持つ鰭そのものである。人間の顔はあどけなく、まだ幼さを色濃く残した人魚だ。それでも目元の美しさや、その眉の柔らかな線から、雌であることが分かった。幼い少女の人魚は不思議そうに彼を見、おずおずといった様子で近付いてくる。

「よう」

 彼がそう短く声をかけると、人魚は再び水面に顔を戻してしまった。どうやら、まだ声をかけるのは早かったようだが、思わず彼は笑ってしまう。

「いい月だな」

 逃げてしまったかもしれないが、特に気にせずそう話しかける。人魚とは付き合い慣れているため――とはいっても、友だちになれるほど何度も顔を合わせている人魚はいないが――、相手の態度を気にしすぎると本当に逃げてしまうことは既に分かっている。言ってみれば、人語を話せる栗鼠か猫のようなものだった。

「明日も晴れるといいが、最近は別の意味で荒れそうだからなあ…」

 ほんの少し苦渋を感じさせてそう呟く彼に、どうやら安全だと分かった人魚が再び顔を出した。しかしその目は怯えている以上に、非難しているようでもあった。

 言うべきことを見つけたのか、その瞳は先ほどのものよりはっきりとした筋のようなものがある。そして、その話題になってしまうらしいことに、彼は内心舌打ちをした。自分たちは関係ないとは言えなくなるだろうからだ。今は不穏な空気が漂っている程度ではあるが、そのうち自分たちの海域に、正義を掲げた人間や鎮圧を掲げた魔族が侵入してくるであろうことは想像に容易い。それは海賊だけではなく、そこに住む人魚とて迷惑を被ることとなる。

「あれ、人間、せい?魔族、せい?」

「さあな」

 軽く肩をすくめて答える。人魚は、そんなあやふやな態度では分からないとでもいうかのように、少し目元をきつくした。

「人間、同じ。あれ、あなた、同じ、人間」

「まあな。同じ人間だ。だが、俺たちは魔族とか人間とかで本気で喧嘩するほど馬鹿じゃない。そんなことより、生きるほうがもっとずっと大切だ」

「あれ、人間。けど、人間、あなた、ちがう?」

「そうだ。人間でも色々ある。魔族だってそうさ。考え方が違う奴が山ほどいる」

 人魚は難しそうに眉をしかめる。他種族の性格を傾向立てて考えるのはどの種族でも同じらしいと知ると、彼は苦笑する。

 自分とて、魔族は粗野で妙に人間を見下していると思っていた。が、魔族でも弱い子どもがいるし、穏やかな老人もいるし、そして彼らの考え方も個々に違うのだと、色々な経験から知った。それからようやく、傾向はあっても、一概にこうだと決め付けられるほど、単純な種族はないということを学んだのだ。

「あれ、おろか」

「だな」

 短く相槌を打つ彼に、人魚は小さく首を振る。その表情は痛ましく、同時に汚らわしいものを見るようだった。

「そのうち、あれ、ここ、くる。それ、いや。すごく、いや」

「俺もさ。まあ、無抵抗でいるつもりはないけどな。海を守るのが船乗りの生きる意味だ」

 口調はあくまで軽いが、それでも確実な重みを籠めて彼はそう告げる。実際に、汚らしい軍人や血と酒の臭いを染み込ませたお偉い連中に、自分たちの海域を渡すつもりなどない。命を投げ出してでも抵抗する覚悟は、船乗りならば常に秘めるものだった。

 しかし、それでもまだ何か人魚は思うところがあるらしい。不安そうに、心配そうに、波止場に腰掛ける彼を見上げていた。その痛ましそうな視線に、彼は苦笑してしまう。

「何だよ。そんなに頼りねえか?」

 人魚は小さく首を横に振る。

「ならなんだ」

「簡単、死ぬ、おろか」

「・・・・・・・・・・・」

 鋭い言葉をかけられて、一瞬彼は押し黙る。

 確かにそうかもしれないが、この海域に住む人間はこの海こそが運命の場所なのだから当然だとも言いたくなる。しかし、結局人間は人間だ。海がなくては死んでしまう、などは比喩に他ならず、一度死んだ気になれば陸で第二の人生を歩めてしまう――本当に、比喩でも何でもなく海がなくては死んでしまう人魚と違い。

「敵わねえな、お前らにはよ」

 自分は人間だと思い知らされるのはこの点だ。いくら人魚の血が入っていようが、結局人魚そのものほど海を愛することはできない。否、愛するのではなく、空気と同意義の存在にはなりきれない。腑抜けだの何だのと他の船乗りたちから罵られても、海を至上のものとして見ることを捨てた男が存在することも拭いきれない事実だ。数十年前に人間と血を交えた人魚とは、比べものにならないほどその数は多い。

 頭を乱暴に掻き毟りながら、彼は大きく息を吐く。人魚のほうは意味が分かっていないらしく、胡桃のような目を更に丸くさせていたが、それで彼が律儀に説明するはずがない。苦笑しながら酒を煽った。

「俺はお前らが羨ましい。単純に海から離れると生きていけないなんて体質が、馬鹿馬鹿しいくらいすっきりしてやがる」

 その言葉を聞いても、やはり人魚はいまいち羨ましがられる気持ちが分からないらしい。それどころか、単純だと馬鹿にされたように感じたらしく、拗ねるように顔半分を海に沈めた。その仕草を見て、微笑ましく感じながら彼は手首のみで酒瓶を傾ける。

「拗ねるなよ。褒めて拗ねられるとどうしようもなくなるだろ」

 困ったようにそう言われて、ようやく人魚は褒められたと受け止めたらしい。何か釈然としない様子ではあったが、再び彼の前に顔を見せてくれた。

 その態度に彼は満足するように頷く。そして、人魚は彼の態度にも構わず彼を直視している。海乗りとしては特に物珍しくない格好のはずだが、人魚はその姿を千載一遇の機会とばかりにまじまじと眺めていた。

 後ろめたくはないし、無遠慮に見られているのも人魚が相手なら仕方がないと割り切っている彼は、気にせず酒を煽る。そして瓶を煽る彼の姿に、人魚は特に興味を示したらしい。中性的な線を持つ薄い胸がこちら側に見えるほど体を持ち上げて、彼の喉仏が動くさまを食い入るように見つめている。

 そこまで集中して見られてしまえば、彼のほうはたまったものではない。子猫の前でミルクを飲んでいるような気分になってしまったが、吹き出しそうになるのを辛うじて堪え、口元を拭うと瓶を人魚の前にかざして見せた。

「これか?」

 人魚のほうは集中して見ていた自覚はないらしく、慌てて首を横に振るが、月が明るい夜では頬が赤いこともすぐ分かってしまう。その微笑ましさに思わず頬が緩んだが、人魚の意思を尊重し、彼は気付かない振りをする。

「そうだよな、よかったぜ。人魚が酒飲むとどうなるかなんて俺は知らねえからな。飲ませてお前が病気にでもなっちまえば、お前の仲間にどんな真似されるか分かったもんじゃねえ」

 肩を震わせ、大げさに怖がる態度を取る彼に、ますます人魚は好奇心を覚えたらしい。目を爛々と輝かせるも、人間との接触による事件は起こってほしくはないらしく、一瞬顔を俯かせる。だが酒に興味津々なのは事実で、上目遣いでむず痒そうに彼の手元にある瓶を見つめている。

 どうにも出来ないらしいその表情は本当に真剣で、恐らくこの人魚にとって今までの生涯で最も頭を悩ませ迷っているようだ。人間の子どもならば散々唸った挙句、癇癪を起こすように暴れだすだろうが、人魚は水面に小さな円を描くように忙しなく回り続けている。思ったよりも、この人魚は大人なのかもしれない。

 そんな真剣そのものの幼い人魚の葛藤する姿に、彼は含み笑いを浮かべると酒瓶を人魚の前に差し出す。元より彼自身初めて酒を飲んだのがまだ一桁の年齢であったため、ここで頭の固い教育者顔をするつもりなど全くなかった。それどころか、人間と接触するという冒険を試みたこの人魚に、もう少し危険な冒険をさせたいとすら思っていたのである。

 驚いたように人魚は彼を見上げるが、彼は片目を瞑って悪戯っぽい含み笑いを宿すだけだ。その態度に、人魚はどうしたらいいか分からないらしく、戸惑ったように周囲を見回すが、彼は落ち着いて人魚に声をかける。

「一滴ぐらいならバレねえって。味見る程度に掬ってみろよ」

 そう言われて、ようやく人魚は彼の意図が飲み込めたらしい。最初は怯える目をしていたが、覚悟が決まったらしく細かく何度も頷くと、両手を杯を作るように重ね合わせ、食い入るように酒瓶の飲み口を見つめる。

 彼のほうもその手の杯から溢れないように、しかし味わえる程度にはその華奢な杯に流れ込むように、少し神経を集中させて瓶をゆっくりと傾ける。中に残った酒の量は重みで分かるが、自身もある程度酔っているため、その感覚を完全に頼るのは少し危険だ。

 そして瑪瑙色をした酒の滴が人魚の手に零れ落ちるか否かのところで、彼の耳に聞き慣れた声が飛び込んできた。同時に、酒に潰れた中年男性の臭いもやって来る。

「じぇぇぇいどぉおおおお!!

「うおぉお!?

 その人物は、完全に出来上がっている割りに動きが早いらしい。まさかと思った瞬間には、体が一瞬浮いていた。眼下には驚いた人魚が尾鰭を翻し、海深くへ潜っていくらしい様子がゆっくりと見える。

 そして静かだったはずの海面に、盛大な水飛沫と派手な落下音が響き渡る。その音に気付いたのは、逃げた人魚と彼ぐらいなもので、それ以降も全くもってこの付近は静かだった。

 たっぷりと気泡を体中に絡めながら、彼は人魚が二度と自分の前に姿を現さないであろうことに寂しさを覚える。と同時に、自分の肩に腕を回したまま海中で何かもがいている男に、多少恨めしい視線をくれてやった。

 

 酔っ払いからようやく腕を離してもらい、再び港の空気を深く吸い込む。何の準備もないまま海面に飛び込まされたこともあり、鼻にまで水が入ったのは正直に言って辛い。まだ不意に水を飲み込んだ感覚が引いている。手に持っていた酒瓶も、当然今は海水がたっぷり補充されていた。

「・・・・あークソ。あのチビに全部やりゃあよかった」

 酒瓶の中身をそう惜しむが、今となっては後の祭りだ。それから冷静になったことに気が付くと、その辺に瓶を転がして、ようやく自分の姿を見た。見ずとも分かるが、ずぶ濡れである。

 濡れ鼠となった自分の姿を情けなくは思わないが、さすがに風邪を引きたくないのでたっぷり水気を吸った髪を握って水分を搾り出す。服は言わずながも、靴は水が入り込んで不快そのものなので、水を吸って脱ぎ難くなったブーツは強引に剥いで素足になる。とそこで、隣でまだ倒れたまま動こうともしない男の腕が見えた。

「泣くなよ、おじ貴」

 冗談のつもりで隣の筋肉質の男を見るが、その声は聞こえていないらしい。涙なんだか鼻水なんだか海水がまだ顔に付いているんだか分からないほど顔を液だらけにして、大の字で仰向けになったままだ。放心状態らしく、何かを呟いているらしいが、その声は全く聞こえない。

「何かあったのか?」

 タオルか何かが欲しいところだが、今ある布の類は全て濡れているので絞って水分を飛ばすしかない。手の平で顔をこすって不快な水分を拭おうとするが、それも焼け石に水だ。

 上着を脱いで絞ろうかと思案しているところで、不意に後ろからよく乾いたタオルを差し出された。ありがたく顔を突っ込むと同時に、そのタオルを差し出した主からの声を聞く。

「あーあ、探しましたよ。…すみませんね、兄さん。親分の道連れ喰らいませんでしたかい?」

 貧相な体型をしてはいるが、人情味のある表情を見せるゴブリンが、大の字に寝転がった男と彼を交互に見る。彼のほうは返事をするまでもなく、無言で豪快に体をタオルで体を拭いて見せると、ゴブリンは大きくため息を吐いた。

「…いや、本当に、申し訳ない」

「いいけどよ…どうした、この荒れよう。気に入ったねえちゃんにフられでもしたのか?」

 相変わらず突っ伏したままの男を顎で指すと、ゴブリンは苦笑する。仮にもこの地方一帯の海賊団を仕切る頭領に対する態度ではないが、彼は特別だった。何より大海賊の孫息子であり、次期頭領の座は決まったも同然の身の上だ。身一つで船長補佐として務め上げているゴブリンでさえ、彼に対し敬語を使わざる終えない。

「ま、そんなもんです。猫かわいがりしてたお嬢ちゃんが身固めたって知って、この有様ですよ…」

 その言葉に、成る程と彼はため息を吐く。この頭領の女好きは就任以前から広まる周知の事実だ。当然頭領自身が一方的に気に入った女も少なくはないが、それにしてもここまで頭領に熱を入れさせる女など、この港にはいたものか。

 頭の中で、この港街で有名な娼婦たちを思い浮かべる。どの女も、当たり前のように頭領とは懇意である。とは言っても、最近になって身を固めたという噂がある遊び女など聞いたこともないが。

「誰だ、ジョリーンか?アイリス、イーニャ、マルガリッタ、セイラ…」

「いえいえ。ここの港の女じゃないなくて、また別の、…なんて言うのかね、違う可愛がり方してたお嬢ちゃんですよ」

 そう言われて、彼は何となく思い当たるものを記憶の底から発見する。何年前かは忘れたが、戦時中に食客であるどこかの先住民族の村長夫婦とその娘がいた。何故海賊団内でどこかの村長夫婦が長く滞在しているのかは詳しく聞かされていないが、頭領の客人兼部下として船内では扱われていた。その一人娘は戦争が終わってから船内では頭領を始めとし、多くの荒くれた海の男たちに可愛がられていたものだが、学園都市に入学して以来、久しく見ていない。

「ああ、あの嬢ちゃんか」

「へい、あの嬢ちゃんです」

 彼は深く納得すると、そのついでにその少女の容貌を思い出す。円らなエメラルドグリーンの瞳に、ピンクのアライグマの毛皮を頭に載せ、いかにも昼行灯といった雰囲気を持っていた。何でも魔法の才能があるらしく学園都市内で最も競争率の激しい学部に入学したらしいが、あの性格ではすぐに蹴落とされるだろうと思わせる、能天気さが売りだったように思う。実際、海の上で育てられていたときも能天気なもので、見当たらないと騒がれては船上のどこかで昼寝中だった。それを発見するのは、専ら頭領の得意とすることだった。

 知りうる限りではそんな娘である。普通の男ならあの小さな姿に己の情欲をぶつけることはまずなかろう。それどころか、恋愛対象になることもないはずだ。なっているなら、一番可愛がっていた頭領が十数年後の未来の嫁にと考えていてもおかしくはない。実際、そのくらい幼い印象が強かった。男の隣で寝ている姿など想像もできない。

「・・・・・・・・相手は素面か?」

 それとも変態か。そう言いたい気持ちを抑えて――その娘を最も可愛がっていた大人が、今は放心状態で近くにいるためだ――、ゴブリンのほうにゆっくりと顔を向ける。そのゴブリンは彼の言いたいことは分かっているらしいが、苦い顔で首を振る。

「いや、自分もその場にはいましたけど、真面目なヤツでしたよ。それどころか、冗談は嫌いそうなカタブツで…」

「そりゃますますヤバくねえか?」

 ともなれば、可愛がっていた娘がある意味でたちの悪い男に付きまとわれてしまった頭領の悲しみは分からなくはないが、ここまで嘆くのは不自然だ。そういえば、身を固めたと言っていたが、つまりそういうことなのか。

 再び深くため息を吐くゴブリンに、彼は思わず背筋に何かが吹き付けてくるような寒気を感じた。うなじから下はしっかりタオルで拭ったので、物理的に寒気がしたわけではない。それから、無碍にも頭領の暴走を抑えられなかったこの哀れな部下に、深い同情を持ってしまう。

 同情をかけられたゴブリンのほうは、困り果てたように再びため息を吐く。それだけで収まる問題であれば、どんなに楽だろうかと思っているのは明白だ。

「・・・・まあ、ヤバいと言っても、同級生ってヤツですからねえ。年齢としては問題ないんすけど・・・・」

 どうやら、相手のほうは年相応の外見らしい。それが更に頭領の暴走を引き起こした原因かもしれないが、とにかくその娘も相手を気に入っているらしいのならば、確かに頭領のこの暴走具合は分からなくはない。

「ガキまでこさえりゃ、確かになあ・・・・・・」

 ゴブリンのほうもその娘に愛着があったためか、言い辛いことをずばり言ってくれた彼の言葉に深々と頷く。

「まだ腹が目立った様子はないんですよ。けど、話聞かされただけで親分はもうショックでショックで…」

「見りゃ分かる」

 現に、今でもまだショックが抜けきれないでいるらしい。普段は気持ちがいいほど豪快で明るく、愛嬌があって情けない男でもないのに、今は鼻水と涙を月光に輝かせるほど流したままだ。当然、部下が追って来たことにもまだ気付いていないらしい。

「ご苦労だな、レット。俺が風邪引いて、二日酔いの奴が出て、ぶん殴られた奴がいる程度ならまだ軽いほうだろ。おじ貴もいい火消しを持ったもんだ」

「いやいや、一番の被害は親分ですよ」

「はあ?」

 同情をこめた労いの気持ちをあっさりと無視し、ゴブリンは深いため息と共に寝転がった男の顔の辺りを覗き込む。つられて、彼も涙と海水と鼻水のまみれた空ろな目をした顔をよく見た。

「ここ、この辺。分かりますかね。親分が、嬢ちゃんの旦那に殴られた痕なんですけど」

 頬の辺りに軽く円を描くように宙で指し示す部分を、彼は一切男には触れないように覗き込む。自分が月光から陰になってしまい見え辛かったが、何となく赤褐色のものが見える気がした。殴られたとは穏やかではないが、そんな乱暴な相手をあの娘が好むのもおかしな話だと思い、彼は顔を上げてゴブリンのほうを見て話を促す。

「親分がね、嬢ちゃんのお腹の中に子どもがいるって聞いたときに、カーッと逆上しちまいまして。つっても、『一発殴らせろー!』ってな具合の特攻なんですけど、襲いかかる勢いだったから悪かった。武者修行続けてた格闘家が相手じゃ、条件反射でひらっ、ぱしっ、どごっ、てな具合ですよ」

「・・・・ははぁ」

 これで、ようやく頭領がここまで荒れる理由に合点がいった。

 つまり、自分が可愛がっていた娘を取られ、子どもを作られるという連続攻撃を不意打ちで食らわされ、逆上しても上手くかわされてしまった挙句、逆に反撃を喰らい、精神的には完全に止めを刺されたというわけだ。故意ではないとは言えど、男の面子すら見事に折られてしまったのでは、ここまで嘆くのはおかしくない。むしろ、これだけの被害ですんでよかったかもしれない。

「まあ、相手は真面目だからすぐに謝ってきましたけどねえ。そんな相手にもう一度殴らせろって言うのも、頬突き出されても嬉かないでしょ?それから親分、自棄酒開始ですよ」

 肩をすくめ、心底疲れたような物言いに、苦笑しながら彼は妙に引っかかることを思い出す。そういえば、夕方に客人を迎えに行った後から頭領は皆の前に姿を現していなかった。今は深夜に近いわけだが、その出来事は一体いつのことなのか。

「いつからだ」

「夕方…ですね。波打ち亭でやってたから、兄さんたちは分からなかったみたいですけど」

「・・・・・・ほんっとうにご苦労さんだな、レット」

「もう慣れましたよ」

 疲れを通り越したのか、弱々しくも明るい笑みを彼に見せると、ゴブリンはようやく頭領の顔にタオルを当てた。相手が弱っていることもあり、病人を看病するような慎重さだ。

「あーあ…。親分もすっかり冷えちまって。もう年なんだから無理するなってのに…明日送りにいけないっすよ、こんな調子じゃ」

「泊まってるのか?」

「久しぶりなんで、他の連中にも挨拶したかったんだそうですよ。明朝帰るんだとか。嬢ちゃん、人気ありましたからねえ」

 背を向けているためか、声しか明確に感情が分かるものがないが、しみじみとしたゴブリンの口調は懐かしさと感慨深さを含んでいる。それに、このゴブリンが子どもの面倒をよく見ていたことを思い出し、彼はふと笑った。

「お前もおじ貴ほどじゃないが可愛がってたよな。別嬪になったか?」

「まだまだ可愛い止まりですよ。奮い立つぐらい美人になったとか親分褒めてましたけど、あれで奮い立つほど堕ちちゃいません」

 それはそうだろう、と彼はゆっくりと頷く。大体、そう褒める頭領も実際に奮い立っていたわけではあるまい。可愛さ余って過剰な褒め方をしただけだろう。

 酒瓶が目に入ったので手にとって煽ろうとするが、先程海水で満たされてしまったことを思い出して舌打ちする。今度からはそんな紛らわしいことにならないようにと、腰を浮かせて瓶の中の海水を海に戻した。

「あ」

「どした」

 瓶の中が軽くなったところで、甲斐甲斐しいゴブリンの背中が驚いたように動いた。ゴブリンは慌てて彼のほうを振り向くと、人差し指を口に当てて静かにするように示す。その動作に、ようやく頭領が正気に戻ったらしいと彼も気がついた。

「親分、親分。ちょっと、大丈夫ですかー?」

 ぺちぺちと頬を叩く音がする。次には頭領の呻き声が聞こえ、遂に頭領が目を覚ましたかと思うと勢いよく上半身だけで起き上がり、酷い顔を彼に見せてくれた。

「・・・・・よう」

「・・・・・おう」

「あーもー、親分。挨拶するまえにその顔何とかして下さいよ」

 そう言われるのも当然だと思わせるほど、頭領の顔は酷かった。泣きすぎて膨れた瞼に真っ赤な鼻、顔全体はむくれているらしく、いつもは海の男らしく引き締まっている顔は不恰好に腫れている。まだぐずぐずと音を立てる鼻にゴブリンが慌ててハンカチを差し出すと、頭領はそれを受け取り、ゆっくりと長く鼻をかむ。

「ほいよ」

 今まで鼻にあるもの全てを出し切ったらしく、頭領は大きく一息吐いてハンカチをゴブリンに返した。

「ほいよじゃないでしょ、全く…」

 まるでわがまま放題の子どもとその世話をする母親のようなやり取りだが、彼は笑いもせず大人しくそのやり取りを眺めていた。どうやら頭領はまだ本調子ではないらしい。いつもははちきれんきばかりの精気に満ちているのだが、今では十歳以上年を取ったかのように老け、その精力も衰えているのが分かる。可愛がっていた少女が見知らぬ男と結婚するということは、そこまで頭領に衝撃を与えたものだったのか。

「・・・・・おじ貴、大丈夫か?」

 慎重に声をかけるが、頭領は無反応に近い。虚ろな目だけを彼に向けると、軽く頷いたような気がした。ゴブリンは頭領の肩にバスタオルをかけ、その体が冷え切らないように手を当てて、素早く上下に摩り合わせている。摩擦熱を起こしているらしい。

「・・・・・ジェイドか」

「おう」

 頷くも、頭領の反応はないに等しい。ふと肩の力を抜いたように、のろりと遠くを見つめて独り言のように呟く。

「・・・・・・・お前も、大きくなったんだなあ」

「俺は嫁入りも婿入りもしねえぞ、おじ貴」

 急に何を言い出すかと思ったが、その手の反応かと彼は肩の力を抜く。呆れたような物言いが頭領の心にどう響いたのか、一瞬泣きそうになったと思ったその顔は、力のない笑みを宿す。

「リムちゃんはよ、お前の六つ年下なんだぜ?お前とは年が離れてるっても、俺ほどじゃねえから、俺が無理ならって、ちっとは期待してたんだけど、なぁあ・・・・・」

「何のことだ?」

 特に意味が明確に読み取れるとは思えない発言に、彼は少し苛立つものの、冷静を心がけて頭領にそう訊ねる。しかし頭領は相手の話を聞くつもりがないのか、老け込んだ顔で俯くと、再び独り言のように呟いた。

「――思い通りになってほしいわけじゃねえんだ。けどよ、悔しいじゃねえか。俺の知らない奴に、俺の大切な大切な女の子が取られるってのはよ。だったら、どうせなら、俺の良く知ってる奴に・・・・・・」

 女の子、と表現している点からして、心の底から頭領が件の少女をどう思っていたかは改めてよく分かる。

 弱音を聞かされた二人は、目を合わせて密かに苦笑しあった。二人とも、頭領とは長い付き合いなので、そう思っていたことぐらいは予想がついた。彼としては、最後の手段として自分に嫁がせるつもりだったということに驚いたが、自分が断れば強引に推し進めることはないだろう。結局はそのくらいの考えだ。

「分かりますよ、親分。だけど、嬢ちゃんはもう立派な女なんです。一人で、自分の人生の相棒決めれるぐらい大人なんです」

 優しく諭すようなゴブリンの言葉に、頭領は長く深いため息を吐く。陽の下では逞しかったその肩は、月の下では悲しいくらい侘しげだ。

「・・・・・・・老けた男はダメ、かねえ?」

 自嘲めかした力のない言葉に、呆れて彼は頭を掻く。まともな思考も今や持ち得ていないらしい。ここまであの少女の結婚が、頭領にとって衝撃的だったとは思っていなかった。

「いいじゃねえか、家族関係上等。大体、んなこと言っても手遅れだぜ。今それやったら、おじ貴の大切な大切な嬢ちゃんが逆に悲しむだけだろ」

「・・・・・・・・・・・なんだよなあ」

 再びの、長く深いため息が波止場に響く。波の音は小さくしか聞こえず、時折吹く冷たい風だけが彼らの耳に入ってくる。

 頭領も当然のように大人なのだ。本来、その場で祝福すべきであったことは本人も嫌というほど分かっているだろう。自責の念を持たない男ではないので、言葉にせずともそれは最も感じているはずだ。結婚したとだけ聞かされれば出来たかもしれない。が、やはり妊娠は頭領の許容範囲を遥かに超えてしまったらしい。

「・・・・可愛がってやれよ。あんたの大切な嬢ちゃんの子どもなんだろ?可愛いのが出てくるぜ」

「んなこと分かってらあ」

 やはり力が全く感じられないが、それでもようやく頭領の口元に笑みが宿った。精力を感じさせなくとも、笑顔を作れるようになっているのならば回復してきた証拠になる。頭領を見守る二人は安心の吐息をついた。

「おい、レット」

「へい」

「煙草、ねえか」

 煙管を吹く仕草をする頭領を見て、ゴブリンは回復してきたと同時にわがままを言うようになったことを知り、ため息と同時に答える。

「ありませんよ、そんなもん。取って来ますか?」

「頼む」

 一声肯う言葉を漏らすと、ゴブリンは足早に波止場を去っていく。頭領は愛用の煙管を持っているので、船まで取りにいくのだろう。深夜だというのに頭領の言葉一つでどこへでも飛んで行くその精神は、昨今の海賊には見ない忠実さだ。

「パイプじゃねえんだな、相変わらず。そんなにきんきらしたのが好きか?」

「そうさ。全体的に野暮ったくて豪華さがねえのは嫌だね。その点、ムロマチの連中はいい趣味してやがる」

「この前南で貰った水煙草はどうしたよ」

「倉にある。俺にはあわねえ」

「やっぱりな。うちの下の奴が勿体無いって文句言ってたぜ」

 ゴブリンの背中が見えなくなったところで、そんなどうでもいいことを男二人は話し合う。

 それから彼が含み笑いを浮かべたところで、頭領も笑った。無気力なものでも、頭領としての力強さが入り混じったものでもなく、ただいらない力を抜ききって、たった一人のただの男として浮かべたような笑みだった。

「・・・・早いな」

「ん?」

「お前も、でかくなるのが早いな」

 生まれた頃から気のいい青年として、自分の遥か遠くにあった存在が、今はこんなにも近くにいる。そのことに気付かされた彼は、少し笑った。頭領の笑顔につられたのかもしれないし、焦ってこの男に届きたいと願っていた子どもの頃を思い出したのかもしれない。けれどそんなことは一言も言わず、特定もしたくならず、ただ彼は笑った。

「さっきも似たようなこと言ってただろ。それしかねえのかよ」

「あのな…リムちゃんの成長っぷり見せ付けられりゃあ、あの子より六つ年上のお前を気にするに決まってるっての」

「・・・・・そんなもんかね」

 分かるようで分からない理屈だったが、彼は特に気にせず首を傾げる。今の頭領からあの少女の名前が進んで出るとは意外だったが、その言葉に積極的に触れるのは傷口を開きかねないと判断したからである。

「いやしかし、・・・・・本当に、でかくなったなあ」

「そればっかりか。いい加減止めてくれ」

 いい年になって子ども扱いされることは、誰にとっても嬉しいものではあるまい。彼も例に漏れず、長年可愛がってもらった相手であっても、当然のようにそんな扱いは多少不愉快なものだった。

「・・・・お前のお袋さんみたいに、お前も大人になる前に消えちまうのかと思ってたよ」

 ふと、柔らかい調子でそんなことを言われる。それを聞いて、思わず彼は目を見張った。母の思い出など特にないが、それでも母が船団内も有名であったことは知っている。何と言っても大海賊シオンの娘だ。生まれた当初は歴史に名を残す女海賊として、海賊たちの畏敬の的になると思われた。しかし、実際はそうはならなかった。

 シオンの娘は鰭のない人魚、と表現できた。頭の中もそれに近く、将来性など見込めないどころか、人間の男と子を成せるのかも分からないような娘だった。故に船団の者たちは彼女を蔑むことも見放すこともできず、かと言ってその将来に希望すら持てず、腫れ物に触るように彼女を保護していた。彼女が一人の大人しい船大工を選び、その男の子を産んだという事件が伝わっただけでも、皆驚喜したものだ。

 自分が生まれたときの話を、年寄りや多くの先輩たちに何度も聞かされた彼は、苦笑しながら首を傾ける。シオンの娘と孫の手前、悪口は言えないが、それでも自分がまともな人間で心底よかったという心の声はよく感じられた。そして彼も彼らの思いが切実であることが痛いほど伝わるせいか、母のために怒ることも、そんな女を見捨てず世話をし続けた父のために憤ることも出来なかった。

「俺のお袋はそんなに悪かったのか?」

 彼がこの話題を真剣に考えたくないと思っているのが頭領にも分かったのだろう。短く茶化すな、と釘を刺して、力のない笑みを宿した。

「お前のお袋は、誰よりも海を愛してた。俺らだって海のこととなりゃあ人一倍自慢できる。だけどな、それでもかなわねえほど、お前のお袋は海に夢中だったんだ。他のもんはぜーんぶいらない。だから自分を海に住まわせろ、ほっといてくれって、よく言われたもんだ…」

 父もそれが自慢だった。俺の嫁さんは親分よりも、この世界の中で誰よりも海を愛し、海を知っている女なんだ、と笑いながら自分の頭を撫でていた記憶がある。

 その自慢が子ども心に痛々しく感じて、辛くはないのか、他の女のもとに走っても自分は全く構わない、と話すと、平手が飛んできたものだ。俺の女を悪く言うな、と厳格な表情で告げる父の顔は怖かったが、そこまであんな女に惚れ込む理由が理解できなかった。

「そこまで潔いとな、正直言って羨ましいんだよ。お前のお袋は…あいつは、なんて高潔なんだ。それに比べてなんて俺は賎しいんだ!海を愛するなんて嘘っぱちだ、俺はなんで女も酒も煙草も喧嘩も好きなんだ!…ってな具合でよ。そんなだから、お前のお袋とは目を合わせるのも辛かった」

「・・・・お袋を避けるにしちゃあ、変わった理由だな」

 少し驚きながら、頭領が恐らく長い間封じ込めてきたのであろう感情の告白の感想を漏らす。そんな驚いたままの彼の表情と感想に、頭領は鼻で笑った。

「他の奴らだってそうだ。怖いんだよ、自分の中にある海を愛してるぜ!って誇りが、お前のお袋見ただけで一撃に壊されちまうのが」

「どうかね。お袋は海が好きで仕方ないガキがそのまま大人になっただけってなもんだろ」

「そうだ、その通りだ」

 彼の肩を大げさなまでに力強く叩いて、頭領は何度も頷く。それから頭領は貫禄を醸し出したいのかゆっくりとした動作で両腕を組むと、多少もったいぶるようにもう一度深く頷いた。

「お前のお袋はガキの時代の俺そのものだ。海の中で泳いでずっと暮らせたらなあ、なんてのんきなこと考えてた時代のな。だが、大人になっちまったら、泳ぎや素潜りよりも面白くて楽なこと見つけちまう。色々面倒な理屈をつけて、自分の中で海の地位を下げちまう。口では、俺の中では別格なんだ!とか言ってよ。けど、お前のお袋は他のことを知ろうとしねえ。知ってもやっぱり海がいいって戻っちまう。俺のガキの時代まんまだ」

 それを聞いて、頭領が熱心に言いたいことが彼にも分かる気がした。つまりあのときの大人たちは皆、母を通して見えた自分の子ども時代という幻影に後ろめたさを覚えていたのだろう。楽しいものは海だけで、日がな一日遊んでいても全く飽きることのなかった時代そのものに。

 そして恐らく父は、そんな気持ちのままでいられる母に認めてもらえたことが何よりも光栄で、誇りだったのだ。となると、その母の良さが分かるはずもない自分は、父にとって問題児だったのかもしれない。子どもなりに、長い時間をかけて立派な船を造り上げる父は、泳ぎまわってばかりの母より実に偉大な存在だったのだが。

 しかし、今は父にとって自分が問題児であったかどうかなど、彼には些細なことだった。父に自分の設計した船を認められ、現頭領に船乗りとしての腕を認められれば、不満や弱音など吐くことすらおこがましい。

「だったら、おじ貴は俺もそんな感じになるとでも思ってたのか?」

「わりぃがそうなる。大体、お前のお袋の腹がでかくなるってのがまず実感できねえ。それよりもお前の親父とヤってたってのも実感できねえ。一人で泡から産んだほうが納得できらぁ」

 その言葉を聞いて呆れた彼ではあるが、頭領の母を語る際の熱心な物言いと、過剰なまでの神聖視にある可能性と思い当たった。まさかとは思うが、完全に否定できる要素もない。その推理が間違っていたとしても、頭領なら一笑に付すことができるだろうと思うと、至って気軽に口を開く。

「お袋に本気だったのか?」

 ぴたりと、頭領の動きが止まった。その反応で、頭領が彼の母をどう思っていたかどうかは予想に容易い。しかし、彼はその事実を受け入れられなくもあった。豪快で女好きで実に前向きであり、下らないことは真剣に考えるくせに重要なことはしっかり海賊流にこなしてきたこの頭領が、海しか見ない子どものような女を密かに想っていたなどと。

「・・・・・・・・・おい」

 催促を意味する言葉に、頭領は我に帰ると深々と吐息をつき、それから半ば自棄気味な視線をよこす。

「・・・・・笑いたきゃ笑え」

 それでその通り笑えるほど、彼は図々しい訳ではない。逆に彼のほうが硬直し、何とも言えない気持ちになった。

 頭領のほうは笑われるのを覚悟の上での告白だったらしい。予想だにしない反応のまま唖然としている彼を見てどう思ったのか、いたたまれなくなったように立ち上がる。

「…ったく、遅いぞレット!」

「おい、ちょっと待ておじ貴…」

「わりぃジェイド、俺しょんべん行ってくる!」

 早々と逃げてしまった頭領を強引に追いかけようとしたが、そこまでむきになって追いかける理由が今ひとつ自分の中に見当たらない。否、そうではなく相手が逃げるから追うのだと自分に納得のいく説明を思いついたところで、もう頭領の姿は闇に溶けてどこに行ったかも分からなくなっていた。

 追う気力を奪われ、悪態を吐くことも愚痴を漏らすこともできず、彼は棒立ちのまま港のほうを見る。

 周囲は静かで、潮風が緩く彼の背を圧迫してはいるが、その風は何かを動かす力など持ちえていない。急に独りぼっちになってしまったことに気付いて、彼は肩の力を抜く。

 頭領に対する問い詰めは問題にもならない。明日以降も確実に顔を合わせるわけだし、むしろ自分を徹底的に避けると仕事に支障を来すので、話し合う機会は嫌というほどあるだろう。

 逃がしてしまったことに少し腹立たしい思いでいる自分にそう言い聞かせると、彼は酒瓶を手に取りゆっくりと歩き出す。

 今夜は色々と知らされることが多すぎたが、あまり多くのことを一気に考えるのは性に合わない。しかも多くが終わったことであり、自分なりの考えなど蛇足も同然だ。だから特に何も考えず、ただあるとすれば妙な安心感だけを持って自宅への道を辿って行く。

 安心感と言っても、こじつけた縁起のようなものだ。証拠と言われれば自分の今の存在になるわけだから、説得力はありそうな気がするものの、二度三度続かねば単なる偶然に終わってしまうが。

「俺と同じように、可愛がってやれよ」

 逃げてしまった頭領の、どこにいるのかも分からない背中に苦笑しながらそう声をかける。

 心底惚れた女が他の男に取られてしまい、それでもその子どもが満たされた生を送るのであれば。

 言わないままに振られてしまっても、その思いをおくびも出さず想い人の子どもを可愛がることができるのであれば。

 その子どもはきっと、可愛がってくれたその男に、将来心の底からの感謝を贈るに違いない。――今の自分がそうなのだから。

 素直に心を籠めて感謝したくなる気持ちなど久々で、彼はくすぐったい気持ちになってしまったが、贈られる側は更にくすぐったいのだろうと考えると口元を何とか引き締める。

 夜闇に軽く響く足音は軽快で、若々しい背中は見る間に闇に掻き消される。消え方はまるで逃げた男とそっくりだった。

 そしてそれから半月後、シュラク海に長く名を轟かせた海賊団の頭領は世代交代することとなる。急にそんなことを言い出した頭領の気持ちなど、誰も知る由もなかった。頭領と長い付き合いのある、二人の男たち以外には。

 

RETURN

 

アトガキ

 書きたいものが多すぎて詰め込みすぎた悪い典型ですね。人魚ちゃんと触れ合うのも過去話もリム結婚騒動も全部したかったんです、申し訳ない。

 シオンの娘設定については妄想趣味すぎるのでどうか生暖かく見て頂ければ幸い…。微妙な不幸設定好きね自分…!