Deeper than alcohol

 

 いつも見ていた唇は、予想通りと言うべきか、初めてなので想像しても予想通りといくわけではないので偉そうなことは言えないが、それでも想像通り、柔らかく、繊細な感触をしていた。

 口付けたことはないが、それはまるで極上の天鵞絨に唇で触れているようだが、けれどしっとりとほのかに濡れた感触はまさしく人間のものだった。そして、その人間の相手が彼女であると言うことを認識すると、彼の脳髄が焼けるような熱さが体の中に生まれる。

「んふ…っ」

 唇と唇の間から、小さな喘ぎに似た悲鳴が生まれる。それは自分ではないと思えるのは、彼女が声を出すことでその振動が少し伝わって自分の唇に感じられたから。そしてその声は、艶かしい響きを初めて自分に聞かせた、あの引っ込み思案な彼女のもの。

 体が膨張するみたいだった。熱くて熱くて熱すぎて、彼女を掴んでいる手が火そのもののような気持ちになった。けれど、離したくなかったし、自分で離すものではないと思った。彼女が一度でも自分を拒絶する態度を取るようなら、そうなった時に離さなければ。そう思った。

 けれど、いつになっても彼女は抵抗しようとしない。こんなことが初めてだから、自分にとってはとても長いだけで、実質は一分も経っていないのだろう。それでも何か反応があってもいいはずだった。

 彼女はただほんの少し震えているように感じられたが、それは自分も同じだった。緊張しているし、不意に自分が口付けたものだから安定した体勢ではない。だから窮屈な姿勢で不動の状態になったが、それでも彼女は身じろいだりしなかった。

 どうしてかと思って薄く目を開けると、そこから見える光景に、彼の方がたじろいだ。

 血色のよい肌にはっきりした二重の瞼、濃い紫の睫毛に先に、一つ二つの雫が見える。普通、そんなところに水が溜まるのはある行動をしたという証拠そのものだ。

 彼女は泣いていた。静かに、自分になるべく気付かせまいと思っているのだろう。しかし、目を開けばそんなことは分かるのだ。

 彼が彼女の体を放すと、彼女はそれでも泣いていた。静かに、悲しそうに、自分に悟らせまいと。

「・・・・・ごめん」

 彼が小さく吐息をつきながらそう呟く。彼女は何も言わず、ただ静かに首を横に振った。けれど涙はまだぽつぽつと流れ続ける。

「・・・・僕は、君にこれ以上のものを求めている。けど、それは君にとって辛いことだろうから、もう求めない」

 彼女は先ほどの動作を引きずるように、静かに首を横に振る。涙は流れたままだし、きつく閉じられた唇も、きつく閉められた瞼も、離したときと何一つ変わっていない。

「・・・・・じゃあ。今日のことは、なかったことにできないけど・・・・忘れるふりをしてくれていいし、僕を差別して気が済むんなら、それでいい」

「やだ・・・・・!」

 ドアノブを握り締めた彼の背後から聞こえてきた声は、脆く、儚く、泣き崩れていくような声だった。しかし、その声に篭められた力は、彼が今まで聴いたこともないくらいに強い。

 そしてその声を無視することは――やはり彼には出来なかった。驚いたと言うのが半分、もう半分は彼女の声による束縛。

「・・・・・・行かないで。もう行かないで!」

 もう――?

 ああ、そうか。

 あの体を抱きしめたかったあの頃、あの髪を撫でたかったあの頃、風の香りは無臭で、彼女の香りだけが自分の鼻に残ったあのとき。自分がゆっくりと、初めて誰かに負けた背中を見せたあのとき。彼女の瞼の裏側には、あの光景が再び甦っているのだろう。

 そう。あのときの自分達に勇気があれば、このくらいは出来たのかもしれない。それから別れれば、きっと今の自分のような、情けない有り様にはなっていなかったかもしれない。

 何故だろう。あのときの自分は、それなりに勇気があったはずなのに。少なくとも、自分ではそう思っていたのに。なのに結局、彼女に触れることすらできやしなかった。

 今だってあまり変わってはいない。嫌われるためだけに勇気を出して、嫌われるためだけに口付けをする。情けない。ああ、自分で自分がいやになるほど情けない。

「・・・・・君から逃げるわけじゃない。君を僕から非難させたいだけだから。言ったろう?いやな大人になったって」

 いつの間にか、冷たい口調になっている自分に気が付いた。無論、彼女に怒っているわけではない。彼女に汚らわしい欲を持つ自分に怒っていた。彼女にそんな目を向けたくないのに、向けざる終えない自分に怒っていた。

 そして、彼女の泣き声が微かに聞こえてくる。背中にそれを受けながら、これでいいと思いつつドアノブを回す。

 しかしそんな彼に、まだ彼女は言葉を投げかけた。

「・・・・・・逃げてるじゃない。逃げてるわ!」

 しかしその言葉に含んでいるものは、先ほどからあったような、謝罪や懇願ではない。ましてや、泣き落としや彼の足を止めるための告白でもなかった。彼女の口から溢れた言葉は、――怒り。

 茫然と、彼は振り向いて彼女を見た。まだ涙がぼろぼろとこぼれ続けて入るものの、その目つきは本当に彼女かと思うほど険しい。泣いているせいで脆い印象はまだ拭えないが、その目つきは、彼に痛いほど強いものを投げかけている。

「あなたは逃げてる。自分を卑怯者に仕立て上げて、自分を悪人にして、それで自分の殻に閉じこもって心の中でずっと自分苛めをしているだけ」

 彼女には覚えがあった。いやと言うほど覚えがあった。そんな虚しい、独りよがりの自虐をし続ける思考に。

「そんなの馬鹿だわ。馬鹿げてる。幼稚よ。けど子どもだってそんなことはしない」

 誰かの言葉を受け入れることもなく、馬鹿で愚かな自分に酔い痴れ、だらだらと怠惰に自虐を続けていく。それでいいなんて勝手に決め付けて、誰かの気持ちを察するつもりもなく、誰かを傷つけないつもりで傷つける。いちばん簡単な、いちばん最悪な逃げ方をして、逃げることに慣れてしまっている。

 そんな存在に――自分のような存在に、彼にはなってほしくなかった。好きだから、なってほしくなかった。

「なんで気付こうとしないの!?なんで知ろうとしないの!?――あなたの想いだけ勝手に伝えて、もう伝えたからいいとか言って、こっちの気持ちも分かろうとしてない!!知りたいと思ってくれなきゃ、・・・・こっちだって、わたしだって言えないのよ・・・・・」

 あの時だってそうだった。自分の気持ちにやっと気付いたときに、彼は去ってしまった。

 そして今、彼の気持ちを再確認したのに、自分は言うこともできない。――彼が、自分の言葉だけを拒絶するかもしれないから。気の迷いだと言うかもしれないから。それを言われたら、そうなのだろうかとしか、引き下がらざる終えないから。けれど、気の迷いなら、彼も同じだ。

「好きだもの。シュウのこと。抱いてほしいんだもの」

 涙を流したまま告げたその言葉は、彼よりも彼女に影響を及ぼした。

 自分が何を言ったのか、言ってしまったのかを改めて思い出し、同時にそれを意識すると、今までのどんなことよりも恥ずかしく感じられる。

 キスをされたことよりも、否、どんなことよりも恥ずかしい、自分のその言葉を頭の中で反すうする。すると、彼女の激情が当然のことながら急速に冷め、同時に別の意味で頭が熱を帯び始めた。ある意味では当然である。彼女の告白は、自らの成熟と性的な挑発を表す言葉でもあるのだから。

 体全体を林檎のように真っ赤にして俯いている彼女を、彼はただ愕然と見る。

 抱いてほしい。

 それがどういう意味で言ったのか分からない。ただ純粋に腕を回せばいいのか、故郷に戻った自分が考えていたようなものなのか。

 けれど――どちらにしろ、彼も頭の中でその言葉を飲み込んでいくに従って、体が冷たくなるほど熱を持っていくのが分かっていった。

 抱いてほしい。

 彼女を抱きたいと、何度でも思った。柔らかな腰に触れ、華奢い肩に口付けし、芳しい髪の香りを貪り、誰の介入もない秘所を見たい。自分の手によって熱を帯び、自分の舌によって理性を失い、自分の視線によって恥らう彼女を独占したい。

 何度、そう思ったか。何度、夜にそんなことを考える自分を恥じたか。けれど何度、それを望んだか。

 そして、それを彼女も望んだことがある?

 誰もいない、寝静まった下宿先で。自分が考えるようなことを――否、それよりもっと、きっと彼女の考えることはあやふやで、そして求めていることは自分とは違うかもしれないけれど。

 体が熱を帯びる。否、熱を帯びるというよりも下半身が熱い。頭の中は驚くほど冷静で、けれど体全体は全くもって動かなくて、ただ恥ずかしさの余り涙を浮かべる彼女を茫然と見据えているだけである。

「・・・・・・ネージュ?」

 彼の声は、彼が驚くほど上ずっていた。そして、その声に反応する彼女も、一瞬全てを忘れるような顔になる。

 その彼女は、彼のその表情に今の自分の状況を忘れてしまえるほど、その言葉と彼の表情が意外だった。今まで自分が見たこともないぐらい、彼は感情を表に出している。

 それは一言で言うならば、ただ、「恥ずかしい」。自分の浅ましさに嫌悪も示さず、そんな自分を卑下することも、嘲けるような笑みを浮かべることもない。ただ自分の言葉に動揺し、赤くなるしかない。それが彼の、大人びて冷静なはずの、彼の反応だった。

 顔を真っ赤にして、まるで熱に浮かされたような目をしている彼を初めて見た彼女は、不覚にも思ってしまったことを口に出した。

「―――かわいい」

「は?」

 思わず漏らしたその声に、彼は目が点になり、彼女はまたしても赤くなる。しかし今度は、先ほどよりも長い沈黙は続かなかった。

「・・・・・・ご、ごめんなさい」

 消え入りそうな声で謝る。それに、彼は首を横に振る。それでも、その顔からはまだ正しい判断が出来そうになかったが。

「いや、別に構わないけど…」

 そう。構わない。彼女の性格を考えれば、別に自分をからかうつもりはないのだ。けれど、彼からすれば好きな少女に「可愛い」などと言われるのは――何というか、複雑な気持だった。

「そう、よかった…」

 本当に安心したように呟く彼女に、彼のほうは少し、頭を掻いた。彼女の台詞で硬直しきっていた空気と体は解凍されはしたが、それでも何となくいたたまれない空気が流れる。

 可愛いと、先に言われてしまったほうと、言ってしまったほう。どちらも何となく、お互いの反応が恐くて、同時に何か奇妙なことを期待してしまっていて、何も言えないでいた。

 そして、それこそ彼らにはどうしようもない気まずい――いや、先ほどよりはかなり空気の重さはなくなったものの、緊張感がない分、どうしたらいいのか分からない――沈黙が流れた後、ぽつりと彼が呟いた。

「抱いてほしいって・・・・?」

 その呟きに、彼女の顔がまたも真っ赤になる。

「え・・・・・・あ・・、その・・・・・。・・・・変、かもしれないんだけど・・・・」

 そう言って、彼女は両腕を、まるで自分を抱えるように重ねるが、その格好は彼にとっては胸を強調されるような気がして、一瞬眩暈がする。無論、彼女の方はそれ気付いていなかった。

「・・・・あのね、わたしのとこ、下の兄弟多いから、その、両親が・・・・・・」

 そこまで言われて、何となくその後の言いたいことが分かった。下の兄弟姉妹が多いのは聞いたことがあるが、そういう可能性まで考えていなかった自分が憎いと言うべきか、鈍いと言うべきか。こちらも少し照れながら、彼は彼女の言葉を遮った。

「そうか・・。けど、それなら変じゃない。まあ、君のご両親が油断していたと…」

「そうじゃ、なくて・・・・・」

 更に顔を赤くして俯く彼女に、それこそ彼は不思議そうな顔になった。まあ自分の家の家族計画的なことを話すのは身内の恥だと取れるだろうが、それにしても彼女の照れ方は大げさだ。

 まあ、価値観は人それぞれ。普段から大人しく控えめな彼女が、久しぶり会った同級生に話す話題がそれならば仕方ないのかもしれない。

 そう、苦笑しながら納得した彼ではあるが、彼女の次の言葉は衝撃そのものであった。

「赤ちゃんはこんなふうに作られるんだよって、・・・・・その、見せてもらったことがあって」

「・・・・・・・・・・は?」

「そ、それで、その・・・・・好きな人が出来たら、痛くならないように、一人で触ってみなさいって・・・・・」

「・・・・・・・・・・・・」

 それはつまり、何か。

 既にそのような教育を、幼い頃に受けたことがあると、言うことなのか。その上、自慰の方法まで教えられたと。

「・・・・・・・・なっ、っ、なっ、んで!」

 その言葉が完全に頭に染み込むと同時に、納まったはずの体の熱と混乱がぶり返してくる。

 そんな彼に、彼女はほとんど涙ぐみながら俯いてしまっていた。

「・・・・・・だ、だから、父さんも母さんも、その辺、オープンな人だから」

「・・・・・・・・・・」

 頭が痛くなった。彼女のせいではないが、そのように教育した彼女の両親には閉口する。

 まあ、彼の住む村も大陸から見て田舎である上に辺境だ。そこまで大っぴらではないが、未だに夜這いで男女が添い遂げることもあるし、新婚の初夜は覗くとめでたいなどという迷信も未だに伝わっている。

 その点からすれば、彼も似たようなものかもしれない。けれど、ヘルハンプールは大陸の西部に位置し、何より第二次大戦で事実上大陸を統一した魔皇軍の発足地でもある。発展率としては彼の生地と比べものにならない。

「・・・・・あの、あまり、考えない込まないでね?父さんも母さんも、あんまり深く考えないで、そんなことしたんだと思うから」

「いや、そうは言っても…」

 考え込まずに入られない。

 彼の土地で性文化はまだ根強いものの、性に対する認識は昔よりも厳しくなっている。というか、彼にとってはごく普通の認識である。

 子どもにそのような話をしないし、そのような現場を出来るだけ見せないように大人は勤めるものだ。女性の裸も幼児期を越えれば母以外は見せなくなるし、本人も恥というものが生まれ、風呂に入るときぐらいしか自分の裸を見ない。

 体と心が大人になってくれば、大人たちもそれを察し、少しずつ性的な話題を持ち込んだり、経験を勧めたりする。そういうものだ。

「・・・・ヘルハンプールは、そういうものなの?」

 自分の場合を思い出し、少しずつ冷静になってくる。彼のその問いが案外に落ち着いたものだったので、彼女は首を横に振った。

「いえ…父さんも母さんも、うち流だーって笑ってたから、ちがうと思うけど・・」

 成る程。つまり、自分の方がまともだと言うわけだ。

 一瞬価値観を木っ端微塵にされてしまった彼は、大きく安堵の吐息をつく。彼女の方が「少々」変わっている。自分の方が「多分」普通。

 そう頭の中で呟くと、またも大きく吐息をつく。

 その姿に、告白してからそわそわと落ち着かない彼女が、怯えたような目で彼を覗き込んだ。

「・・・・・あの、軽蔑、してる?」

「なんで?」

 反射的にそう訊ねる彼に、彼女は恐々と説明する。

「・・・・・だって、やらしいから」

「君がそう思ってると言うことは、自分の家は他と違うかもしれないと思ってる証拠だから。自覚があって、それを隠そうとしていた以上、僕から軽蔑も同情もする必要はない」

 自分でもうんざりするほど理屈っぽい返事を述べて、彼はそんな自分を激しく嫌悪する。

 そう。彼女のその告白を聞いて、まずとにかく驚いたことと、もう一つ感情があったはずなのだ。――とても彼女には知らせたくないような、浅ましい、欲深な感情。恥ずかしさと驚きと、もう一つ。

「そう…」

 少し寂しそうに、けれど少し安心したように吐息をつく彼女に、彼の唇が薄く開かれる。

 だめだ止めろ。そんなことを言うな。

 彼女のために、彼女を安心させたいために、もしかしたら見れるかもしれない本当に安堵した彼女の表情のために。

 そんなことを言ったら彼女に嫌われるかもしれない。怖がられるかもしれない。彼女が好きだけれど、――その分出てくる醜い欲の犠牲になってしまうかもしれない。

 けれど、彼女は自分から告白したから。自分の家庭の性的なことを。消極的な彼女が、顔を真っ赤にして、恥ずかしさのあまり涙を目元に溜めて告白したから。――自分も、同じぐらいのことは言うべきだろう。

「・・・・・・あと」

 彼女の目が彼の顔を見ていることが分かる。しまった。もうこうなったら言うしかない。

 彼は顔を真っ赤にしながら、続きを呟く。彼に珍しく、――擦れるような小さな声で。

「・・・・・嬉しかったから。ネージュがそういうことを、知っていてくれて」

「・・・・・そういうことって?」

 彼女の声は無防備だった。恐らく、本当に何のことを言われているのか分かっていないのだろう。

 先ほどと、まるで立場が逆になる。仕方ないのだ。先に彼女に恥ずかしいことを言わせてしまっていた以上、自分も腹をくくらねばならない。

「・・・・その、君が、僕の求めてた意味での、・・・・・・抱くってことを、求めてくれたから」

 支離滅裂。

 先ほどの言葉と、まるで意味が繋がっていない。それも当然だ。彼自身、自分が何を言ったのかまるで覚えていないほど赤くなっている。

 脳髄がまるで溶解した鉄。鼓動はまるでありえないほど大きく早い。何より、神童と呼ばれ、同時にそれに見合った努力を重ね、しかし諦めは良かった彼が、唯一手放したくなかった存在に――彼は一世一代の大勝負と、恥を見せた。

「・・・・・・・え?」

 答えは、茫然。

 彼女はぽかんと口を開き、彼を見つめていた。

 彼の方は恥ずかしさのあまり俯いて、先ほどと、本当に立場が逆になる。

「・・・・・シュウ?」

 その声から感じられるのは、信じられないと言わんばかりの驚愕。

 本当に、彼自身あんなことを言ったのは初めてだし、そんなことを言うつもりなどなかった。

 けれど彼女が言った以上、彼もそれと同じくらいのことは言わねばならないと思ったのだ。それが相手に対する礼儀でもあるだろうし、――彼女が好きだから。

 けれど、その思いが自分の心の中で鼓動と共に強調されると、恥ずかしすぎて彼女が見れなくなる。更に俯いて、口元を覆い、ただ恥ずかしくなる自分を必死に抑えようとする。そんな彼の態度をどう思ったのか、彼女はちょっと笑った。

「・・・・よかった」

 声は、彼が望んだ言葉。心からの安堵を感じさせる、優しくて穏やかで、泣きそうなほど感情が詰まった声。

 その声を聞くだけで、自分の思いが報われたと安心した彼だが、自分の視界に映るものにぎょっとした。

「なっ」

「・・・・・よかったぁ」

 彼女の腕が、彼の首に絡みつく。

 やっと落ち着いたと思ったらまたも真っ赤になった彼が慌ててその体を剥がそうと手をやるが、慌てすぎて彼女の胸元に手がいってしまい、急いで引っ込める。彼女はそれを知ってか知らずか、彼にしっかりと手を回して彼の胸に頭を預ける。

 急に抱かれてしまった彼の方は、ただ硬直するしかない。

 茫然としながら、自分の体に身を預けている彼女をどうすることもできず、ただ突っ立っていた。何せ、やっと自分の思いを伝えたところの彼からすれば、その峠をもう既に越えている彼女の反応は考えられない。それこそ、拒絶されても傷付かないように構えようとしていたのだ。それしか考えが及ばなかった彼からすれば、彼女の肯定の方法は――考えられないぐらい、積極的だった。

「・・・・・ネー、ジュ?」

 自分でも情けないぐらいか細い声を出して、彼は彼女を見る。

 彼女は笑っていた。それはもう、学園の誰にも見せたことがないくらいの、幸せそうな笑顔を見せていた。その目尻には淡く光るものがあり、けれど紅潮した頬は、そして輝かしい笑顔は、何より彼女の心境を表していた。

 それを見て、そのままつっぷしているほど、彼は鈍感ではないし、冷静でもないし、彼女が嫌いなわけではない。その笑顔に答えてやるべきだと気負ったつもりもなく、ただ自然に笑みがこぼれていた。

 それから、彼女を抱きしめた。その弾力のある腰に手を回し――少し彼女の体が完全に女性であることを意識して躊躇ったが――、しっかりと抱きしめた。

 何度も何度も後悔し、何度も何度も思いを馳せた。こうしたいと、何度も思った。

 それが今、本当に今、可能になっている。彼女は幸せそうな笑顔でいて、彼も満足そうな、照れたような笑みを浮かべ、抱き合っている。それだけで、二人共、とても幸せな気分だった。

 その時、物音がした。彼女が片付けていた途中の本が床に落ちたらしく、鋭い音だったのが災いだった。

 二人共びくりと反応して、それから原因らしい落ちた本を見ると、二人は交互に相手を目をやった。

 何の因果か、本が落ちているむこうにはベッドがある。彼が寝なければならないからと言って、真っ先に彼女がメイキングした、狭くて小ぶりなベッド。

 そっとお互いの顔とベッドを見比べると、二人は仄かに頬を赤くしながら腕を離した。

「・・・・・えっと」

 赤くなって俯くネージュに、彼がやはり頬を赤くしながら首の横を掻く。

「…する?」

 シュウの言葉に、彼女がとても小さく頷く。

「・・・・・ぅん」

 それを見届けると、彼は小さく震えるような吐息をつき、それからベッドのほうへと歩き出した。

 

RETURN

 

アトガキ

 とりあえず仲直りさせるつもりが充分一話ぶんの長さになってしまったので表に載せ。

 やれやれやっと後はするだけになったから未成年の皆さんも安心ですね。ちなみに裏に載せるつもりだった気ぷんぷんのエピソードがあるけどそれはまあ無視して下さい。

 あの二人消極的だから話すすまなかったんだYO(苦しい言い訳