ふと、彼は小さな気配を感じて目を開けた。 首をもたげてみれば、応接室から現れたのであろう、何も知らない、まだ初々しい輪郭をした少女が一人、困り果てた表情で突っ立っていた。手には盆を持ち、その盆からは軽い昼食らしきものが見える。 漆黒の瞳をさまよわせて、まるで怯える子犬のように彼を見た。 「あ、あのう・・・・・」 「応接室の机に置いてくれればいい。気が向いたら食べるよ」 淡々と述べた男だったが、彼女は引き下がるつもりはないらしい。正確には、引き下がることを上司から許されていないように、少し目を潤ませて頬を真っ赤にさせて口を開いた。 「だ、だめです…ちゃんと、食べてくださらないと…」 「私だって自分の限界ぐらいは分かるつもりなんだが。今度は無駄にはしないよ」 「けど、ちゃんと食べるところを見ないと・・・・・・」 見ないと何になるのだ。十数年ぶりに故郷に帰ってきた、しかしまったく生活感を見せない自分は、化け物とでも噂されているのだろうか。 それでもいいとすら思う。そんな、自分のことを何も知らない者達には、何の弁解もする必要はない。無論、目の前で食事をしてやる必要性もない。むしろ、変に気を使うことは煩わしくて仕方がない。 ここの大陸の連中は、「彼」に何の思いも抱いていないのだ。あるとすれば、大儀を果たした、道化めいた哀れな犠牲者としてしか見ていないのだろう。「彼」の本当の姿を見もせずにそんなことを考えているのだとすれば、それは自分に与えられたものよりも憎むべき屈辱となる。故に、同調してやる必要性は、微塵も感じない。 そんなことを考えながら、彼女の持っている盆を見る。クリーム色に濁ったスープに、粥らしきものと細かく刻んだ肉。まるで病人の食事だ。 確かに自分は何日も食べるものを口にしていないが、そこまで衰弱しているわけではない。何より、あの大陸ではそんなこと日常茶飯事だった。次々と運ばれてくる書類はいくら裁いても積み上がり、徹夜になることも多かった。いくら整った生活を目指しても、同じことだ。なかなかそうはいかなかった。 けれど、「彼」は全くそんな素振りを見せなかったのだ。自らの肉体が崩れ落ちるその時まで。 「彼」の目的を達成するために、「彼」は彼の体も精神も犠牲にした。東の辺境の国の、小さな小さな村の少年が。 ならば、自分も同じ義性となろう。大陸制覇を補助しながら、自らの目的のために彼を利用した自分には、たとえ「彼」と比べものにならなくとも、同じ痛みと苦しみを味合えなくとも、「彼」のために自分を犠牲にしたかった。 そして、「彼」が一番好む世界に――新緑の萌える、壮大な美しさを持つ森に――還してやりたかった。たとえ自分が、その時「彼」が浮かべるであろう笑顔を見れなくても。 無心の表情でそんなことを考えながら、怯える目をした侍女の盆を片手で受け取ると、そのまま無造作に窓のむこうに放り込んだ。 少女が上ずったような声を挙げたのは当然だった。愕然とした表情で、それこそ化け物を見るように彼を見る。そしてそんな目線を受けながら、彼はうっすらと笑った。翠の瞳に、冷ややかなまでの美しさを見せながら。 「やはり今はいい。土の肥料にしたほうが有効だ」 まだ愕然としたままの少女にそう笑いかけると、そっとその小さな肩を掴んだ。 「早く行きなさい。私は読書に集中したい。今度邪魔すると誰であろうと切り刻むと言っておいてくれ」 ゆっくりと、何気ない言い方でそんな物騒なことを言うものだから、無論、少女は目を剥いて小さな悲鳴を挙げる。それでも自分も王宮の侍女の端くれであることを思い出したのか、口に手をあてて、細かく震えながらも謝罪の言葉を述べた。目には涙を浮かべ、それこそ、今彼女は化け物に触れられているような反応である。 「ご、ごめんなさ・・・・・・・・・」 「早く」 軽く肩を押す。それだけで少女は後ろに倒れそうによろめき、それから逃げるように去っていった。 ぱたぱたと女性特有の軽い足音が、更なる恐怖と後悔を乗せて遠くのほうに向かう。それから何の音も聞こえなくなると、彼は外に耳をすませた。 窓の外は、穏やかな天気と共に、冷たいが静かな風が流れている。微かに聞こえるのは鳥の囀りと、木の葉が風に煽られているせいで聞こえる音のみだ。それ以外は、まるで生き物がいないように静かだった。 そして完全に人の気配がなくなると、彼は小さく吐息を漏らす。 髪を束ねていた紐を解くと、重厚なカーテンに向かって置かれた椅子に腰を預ける。そして、カーテンに向かって優しげな表情を見せた。それだけで、彼自身が五つは若返ったかのような表情になる。 「やあシンバ」 先程の侍女にかけるものよりも、ずっと優しく穏やかな声で、彼は名前を呼んだ。最も敬愛すべき、最も尊ぶべき、彼の人生を犠牲にすることの出来る、唯一の親友の名前。 しかし答えはない。当然だ。彼の目の前には、深い緑色の天鵞絨しかないのだから。それでも彼は穏やかな表情でゆっくりと挨拶を続ける。 「今日の調子はどうなのかな」 まるでちょっとした病に伏した友を気遣うような言い方だった。 やはり、答えはない。しかし、彼はそんなことを気にしなかった。理由は彼の頭がいやと言うほど理解している。そして、彼は彼の頭の中の「彼」と、会話をしている。 「僕の方は、・・・・・そうだな、あまり変わりはないけど、少しこの城の連中が煩わしくなってきているのは確かかもしれない」 自分らしくない言い方かもしれないと思い、彼は少し笑った。恐らく、きっと「彼」も笑っているだろう。珍しそうに、城の連中にすまなさそうに、けれど楽しそうに。 「・・・・ずっと眠ったままは退屈だろう?」 一呼吸分の空白。それはきっと「彼」の肯定を意味する無。 「けどそれも、あと一年近くだ」 目を細める彼に、きっと目の前にいる「彼」も夢見るように目を細めているだろう。 どこに行こう、どこを見よう、誰に会おう。きっと「彼」は、栗色の大きな瞳を朝露のように輝かせて、遥か遠い、豊かな大地を夢見ているのだろう。それに同調するように、彼も目を静かに閉じる。 「あの大陸は、まだ完全に人の手が入り込んでいないところも多い。僕らが統一して、少しはいじりやすい土地になったかもしれないけど、大丈夫」 不安に思っているかもしれない「彼」に勇気づけるように彼は笑う。口元だけで。しかし、新緑に似た瞳には気遣いと優しさと確信を持って。 「エルフの森にも、白銀の森でも、ベルヌープでもそうだ。住民が一人でも否定意見を出せば、開発なんてしない。そう、約束したんだ」 そうだよね。そう、きっと「彼」頷く。約束も条約も、自らの欲望の前では紙くず同然の扱いにしてしまう、小汚い役人たちの存在など知りもしないで。 ただ彼は、「彼」の純粋性にだけ惹かれているが故に、「彼」に不純因子の存在を知らせることを拒んだ。彼の中の「彼」が、そんな奴らの心を苦しめるであろうことがいやだった。 「彼」には何も知らないままでいて欲しい。「彼」には悩みも苦しみも知らずに休んでいて欲しい。「彼」には緑だけを愛でて欲しい。できれば永きに渡り。できれば死ぬまでずっと。 けれど、現実はそれを許さない。彼にも、「彼」にも。 それでも今の時間を、「彼」が何も知らないでいられる時間を。「彼」がただ自分だけとの会話を楽しんでいられる時間を。 彼はただ欲していた。今まさにこのときを。揺ぎなき安息を。ただほんの少し怠惰な気持ちになるだけの、それ以外はゆっくりと「彼」との会話を楽しめる時間を。 「ヒロはどうしているだろうね…大蛇丸と喧嘩してなければいいが…」 あはは。 「彼」はきっと笑う。 そして、にっこりと笑って、彼にその笑顔のままで言うだろう。 大丈夫だよ。ヒロも大蛇丸も、ネバーランドを好きだもの。 「そして君も」 勿論、と言うように、「彼」は笑う。唇の端を引き締めて、少し誇らしげに。 浅く頷く彼であったが、その心中は穏やかとは言いがたかった。少しの嫉妬と、少しの羨望が、彼の胸を浅くだが、締め付ける。 自分の育った土地を心から愛せる彼らが羨ましかった。自分の国のために戦い、自分の国のために命をかけ、自分の国のために人生すら捨てる。そんな情熱も、過去――彼がまだ自らの立場に自惚れに近い優越感を持っていた時――にあったに過ぎない。親友と認めてもらえたときに、裏切った自分に前と変わりない笑顔を見せたときに、自国への愛と誇りなどなくなった。 替わりに、ただ一人の少年の傍でいることを自らに誓った。今まで持っていたもの全てを捧げる決心で、少年の右腕として存在し続けた。 けれど、「彼」に任されたネバーランドを捨てることは簡単だった。「彼」の唯一の言葉なのに、その言葉は自分の心に届くことなく、自分の意思を優先した。 「僕は、君なしじゃあの大陸にいても楽しくないからね」 急にそんなことを言った彼に、きっと「彼」はきょとんとして彼を見つめているだろう。それから、意味を飲み込むと怒ったように眉をつり上げ、こちらに身を乗り出す。文句も一つや二つで済むかどうかは分からない。 その先手を打つように、彼は片手を少し上げて、待ったの体勢で口を開いた。しかし、その口元は苦笑でゆがんでいる。 「言っておくけど、ヒロも大蛇丸も、それなりに気に入っている。何より、あの大陸は愛すべきところだ。どうでもいいなんて考えていないよ」 ならよかった。 そう呟くように、「彼」は仮住まいを正す。 その反応の変わりように、くすくすと笑いながら彼は続ける。 「ただ、僕は君がいないと・・・・・・・」 いないと? 「彼」は少し不思議そうに、首を傾けているだろう。そしてまだ口元を不自然にゆがませている自分を、不思議そうな目で見ているだろう。 「辛いだけだ」 そうなの? 「彼」は、またも不思議そうな顔で自分を見つめる。 「そうだよ」 彼はゆっくりと頷く。君がいない世界で生きることは苦痛だと。君が微笑んで新緑を見る姿を確かめることが出来ないのは悲しいと。君がいきいきとした表情で世界に目を向け、緑と平和のために真剣に生きる姿は、どれだけ自分の行動の糧となっていただろうかと。 「僕は君が好きなんだ」 きっと「彼」は笑うだろう。僕もだよ、と。 自分が含んでいる感情にも気付かずに、自分が抱いている想いにも気付かずに。けれどそれでいい。自分を見る「彼」など、欲しくはない。自分しか見ない「彼」など、「彼」ではない。自分が欲してやまず、焦がれてやまない「彼」は、決して自分を見ない「彼」。自分がどうやっても追いつけないものに情熱を燃やす「彼」。 自分でも不思議な感情だった。誰かを好きになることは納得できるのに、自分を見る誰かはいらなくて、自分を見ない誰かが欲しいと思うなんて、変な感情だと自分でも思う。というか、自分が一番納得できない。けれど、もうその感情にも慣れた。 ただ納得は出来ないけれど、その想いだけが自分の心に馴染んで、今に至る。諦念とも絶望とも言えるものと混ざり合いながら馴染んだそれは、彼の心の中で安定しきっていた。 「じゃあ、もうそろそろ寝る時間かな。シンバ」 そう言って椅子から立ち上がる。「彼」は少し不満そうに口を尖らせて、まだ喋りたいと駄々をこねるだろう。 それに、彼はほろ苦く笑う。 「だめだよ、君は病人なんだ」 相変わらず退屈が苦手な性格なんだなと思いながら――否、今まで忙殺の日々が長すぎて、退屈に慣れなくなってしまったのかもしれない――、カーテンの向こうから見えるカーテンの紐を拾い上げる。 「じゃあおやすみ、ゆっくり眠るんだよ」 紐を手にしたまま、彼はカーテンをほんの少しめくり上げる。そこから見えるのは人間ではなく、大きな機械の塊だった。しかし彼は動じない。それが当然なのだから。 彼は、カーテン越しの足元にある機械が見れるように屈み込むと、電算機から吐き出される紙をざっと見て、何かを書き込み、それから剥き出しになっている機械の操作基盤のいくつかを調整した。 それからまた立ち上がり、カーテン越し、そして無骨な機械に包まれた水槽のガラスに、そっと手をやった。水槽のむこう、薄く濁った培養液に浸された、あどけなさは残っているものの精悍さのある顔立ちの青年の裸体を撫でるように。 「・・・・・・おやすみ」 そう呟き、水槽の硝子にそっと口付ける。自分の愛しい子どもに対する愛撫のように。闇を怖がる赤子に与えるまじないのように。 それから彼はカーテンを締め、また読書に取り掛かる。 しかしその目は本当に字を追っているのかどうかすら分からない。ただ自らの衝動的な感情を抑えるために、本を持ち、読む格好をするに過ぎない。 「彼」のことを気にし続けたら、「彼」のことを思い続けたら、「彼」のことを待ち続けたら、自分が壊れてしまいそうで、同時に自分が「彼」を壊してしまいそうで怖いから。 衝動的に「彼」をめちゃくちゃにしてしまいたくなる。分厚い水槽の硝子をぶち破り、その皮膚に消えないぐらい深く刻み込んだ爪痕を付け、ぼろのようになるまで抱きしめたくなる。しかし今の生命維持補助の機械に頼らなければ、「彼」は二度と自分の目の前で微笑むことはない。それが一番の恐怖。そして、それでもいいから「彼」を壊したいと思うかもしれない自分が二番目の恐怖。 その恐怖に対し静かに抵抗しながら、平静なふりをする自分を保ち続ける。それはどこにも力を篭めてはいけない以上、とても難しいことでもある。けれど、それを維持しない限り、「彼」の復活は望めない。「彼」の命が果てることとなる。それだけは、絶対にいけない。 やはり鳥の鳴き声と穏やかな陽光と葉の一枚一枚が擦れる音を浴びながら、彼は震える手で本を握り締めた。衝動に対し、その衝動の後に訪れるであろう激しい後悔を武器にして、ただ彼をそこまで狂わせようとする感情を、震える唇で現す。 「・・・・・・・・愛し」 |
アトガキ
短くてごめんなさい。やっぱりフォモは無理でしたごめんなさい。短くてごめんなさい。待たせてごめんなさい。
つーか塩たん人が違いますか。いや書いてる途中から狂い寸前にした方がエロいかしらエロいかしらとか考えちゃってあんな方向になったんですけど。
さすがにシンちゃん妄想してGとかはいけませんからね。・・・・・・ね。・・・・・・・・・・・・・・ウワァアアアアン(以下逃走)