Eternal Electra complex

 

 男は一瞬いつものように緑茶の缶を取りそうになって、慌ててその手を引っ込めた。

 いつだったかは忘れたが、自分の故郷の茶を飲ませたとき、もの凄く神妙な顔をされたのを覚えているからだ。その時、まだ幼い頬とあどけない瞳をしていた彼女はしかめっ面をして、その茶と自分の顔を交互に見た。

「・・・・・お前、よくこんなの飲んでいられるな」

 男は苦笑して、そんなに不味いかと訊ねた。すると彼女は自分が悪い言い方をしてしまったのかもしれないと感じ取ったらしく、慌てて首を横に振る。

「そういうわけじゃないけど…苦いくせに、ちょっと甘いの、変じゃないか」

 茶とはそういうものではないかと黙って思っていたが、彼女がまるで薄い飲み薬みたいだと呟くと、腹を抱えて笑いそうになった。恐れ多くも大魔王の娘が、緑茶を薄い飲み薬だと喩える。彼女が喩えた言葉の裏には、飲み薬に関する嫌な思い出でもあるのか、少しずつ芳ばしい香りの茶を飲む彼女が妙に幼く見えた。――否、実際のところ、まだ彼女は幼かった。けれど、いつもの彼女は背筋を不自然なまでにまっすぐにし、常に前を見ているからだろうか。その瞳に圧倒されることはないが、それでもその姿は凛々しく美しかった。そして雄々しいとすら言ってもいいその姿を、いつもの彼女だと思い込んでいたからだろうか。そういう――何気ない言葉遣いや仕草が、妙に幼いことに親しみを覚えた。

 その親しみが別の感覚になり、親しみ以上に贅沢なものになっていったのはいつのことだったか。

「・・・・・・ぅ・・・・・・・・」

 布団の上で魘されているらしい彼女をちらと見ると、彼女が慣れ親しんだ茶葉の缶を選んだ。大陸の茶は、どことなく男の舌には馴染まないものであったが、彼女が落ち着くならこちらのほうがよかろうと思い、そちらを取る。

 何のことはない、自分が彼女より早く起きれば作るだけの、目覚めの一杯である。ちなみにこれは彼女自身からの希望で、目覚めが悪いので気付けになるようなものがほしいと言っていたのを、律儀にも男が聞き覚えていたのが発端となる。――今はほとんど、それが朝の習慣と化していた。

 しかし生憎、本格的な淹れ方だの美味い淹れ方だのは知らない。けれど、長い間彼女が自分で淹れるのをよくよく見てきたせいで、大雑把ではあるが方法は覚えていた。

 薬缶の中の水を熱し、匙で茶葉を数杯分、陶器の急須の中に入れる。大陸風の急須であるため、ジパングのものよりも全体的に丸くて、ぽってりとした容をしている。湯が沸騰する直前になると火を止め、急須に湯を入れて蓋をし、しばらく蒸らす。

 そんなことを何の迷いもなくやっている自分に気付いて、ふと男は口の端を緩めた。こんな茶坊主のようなことをやっている自分を見れば、元同僚はどう言うことか。しかし、聞いた話ではむこうもむこうでかなり角が取れてきたと言う。お互い離れて別の人に付いてから、良かれ悪かれ変わったと言う事実は、男にとって少々ほろ苦い。けれど、今現在が客観的に見て辛い状況であっても、主観で言えば悪い状況ではなかった。ゆったりと、付き従うと心に決めた人の下で常にいられる喜びが、今はある。

 急須の蓋を取って中を覗き込んでみると、丁度いい具合にしっかりとした茜色の液体が湯に広がっている。少し濃い目に茶葉を入れておいたので、その点でも丁度良かったのかもしれない。

「・・・・・・・とうさ、ま・・・・・?」

 小さな声が聞こえ、その方向を振り向くと彼女が布団の中で首を動かして周囲を見回している。まるでこちらが現実なのだと自分に呼びかけるように、ゆっくりと白い腕で自分の額に腕を持っていった。悪夢でも見たのか、微かに聞こえてくる息は荒い。

「よう、起きたか姫さん」

 何でもないようにそう言うと、少し暖めておいた湯飲み茶碗にその茜色の液体を注ぎ、茶用に加工したらしいミルクをたっぷりと入れる。砂糖は本人の好みで入れさせてやろうと思い、砂糖の小瓶と一緒に布団の近くに運んだ。

 彼女はその声で上半身を起こすと、あまりよくない顔色のまま、男を見上げる。その目は何かに縋るような、――深く冷たい絶望に対する恐怖とでも言えばいいのか、ひどく怯えた表情をしていた。

 深刻な悪夢だったらしい。少し驚きはしたが、そこでこちらが訝しい顔をしてしまえば、瞬く間に彼女は仮面を取り戻す。彼女が壊れてしまったときのように、また自分で自分を静かに見る暇すらなくなってしまう。魔族の長であろうとした、気丈であるが故に自分を許すことすらしようとしなかったあの時の再現を、進めてしまいかねない。

 だから、男は何も気付かないように笑った。いつもの、彼女が安心すると言ってくれた笑みで。

「・・・・・うん」

 放心状態の彼女が、こっくりとそう頷く。男の笑みがそこにあってもやはり怯えているのか、男から目をそらすと、落ち着きなく視線を様々なところにやっていた。

「さっき茶入れた。飲むか?」

「・・・・・・・・うん」

 盆に乗せた、少し深みのある湯のみ茶碗を手に取って彼女の前に持っていくと、彼女はそれを受け取る。大きく黒い義手は華奢な茶碗を潰しかねないとでも思ったのか、逞しさの中にも子どものような柔らかさを感じさせる右手だけで茶碗を受け取り――その手もか細く震えていた――、そっと唇を茶碗の縁に当て、それから一気に飲み干した。

「・・・・・・ん・・・・・・」

 茶の効果でも感じたのか、気付けにでもなったのか、ため息と一緒に吐き出された小さな言葉は、何となく安心したような響きを持っていた。寝汗をかいていたその首筋は、少し体温を取り戻したらしく仄かに赤味を取り戻す。

 茶碗を受け取ると男はもう一度立ち上がり、可愛らしく丸い頭を軽く撫でる。それからまた残っている茶を入れに行こうと踵を返すが、その足を彼女の声が止めた。

「・・・・・・もう、いい」

「うん?」

「今はいい。ここにいてくれ」

 布団の隅を握り締める手。魔族の血のせいか、それともまだ気持ちが落ち着いていないのか、その手は相変わらず白い。寂しい雪の草原に取り残されたような、脆い弱さを感じさせる肌の白は、布団のカバーやシーツの無機質な白との違いが辛くなるほど目立つ。

 男はその辛さが自分の顔に出ないように、一歩彼女から離れた足を止めると、もうまた一歩戻り、彼女に向かい合うように座り込んだ。彼女が自分に触れれる充分な距離で、けれど彼女がもういいと言えばすぐさま離れられる距離で。

 男が座り込む様子を見ると、彼女はまた大きく息を吐いた。

 落ち着こうと、冷静になろうと、人に話す以上は取り乱すまいと決意するかのような深呼吸。それからゆっくりと、独り言のように呟いた。

「・・・・・夢を見た」

「そうか」

 そうだろうな、と男は思う。そしてその声に、彼女は頷いた。自分が見たものは、夢であると自分に呼びかけるように。

「・・・・・・父さまが、殺される、あのときの夢」

「・・・・・・・・・・・・」

 男の不動だった眉が、一瞬歪む。彼女を見ると、真剣な表情で夢を思い出すように俯いていた。

 いつもは思い出さないはずの、思い出したくてももう既にその事実しか覚えていないはずの、悲しく忌々しい記憶。自分の血の半分を恨み、けれど肉親の復讐のため、自分の血の半分のために立ち上がった全ての根拠であり、全ての始まり。

 ありありと思い出されるのは、逞しく巌のような体に刺さる、白銀の剣。浅黒く硬質な肌を、まるでバターナイフのような涼やかな光を放つちっぽけな剣が、滑るように父の胴体に入っていく姿。その輝きが忌々しく、その剣を持つ人間も忌々しかった。

 父の名を叫んでも、父はその剣を離そうとしない。自分の身体に埋め込むように、しっかりと、その剣を自分に突き刺していた。

 何故そのようなことをする理由がある?確かにその剣がこの世界にあってはいけない剣なのかもしれない。けれど、だからと言って、命ある父が、魔族の祖でありかけがえのない自分の父親である父が、命をかけて封印する義務などどこにある?

 その剣一つで自分の父は亡くなり、姉までもが失われた。その悲しみが誰に分かる。その憎しみを誰にぶつける。誰にも分かるはずがないし、誰にもぶつけるものではない。父は広く、遠く、ものを見ていたから。良かれと思い、最小限の犠牲を払い、最大限の不幸を追い払うつもりで。

 ならば。ならば、姉も父も、自分のことなど小さな障害程度の存在でしかなかったのだろうか――?

「・・・・・・・・・・わたしは一体、何なんだろうと、思った」

「・・・・・・・」

「・・・・姉さまが謝った。ごめんねって言って、悲しい思いをさせたくないって言った。死ぬ間際にわたしにあの場を見せないようにって、用事を言いつけた。けど、けど・・・・・・!」

 それが何だと言うのだ。そんなに気を使わなくたっていいのに、そんなことをしなくちゃならないほど自分は弱く見えたのだろうか。ああそうなのだろう、見えたのだろう。

「だからって、わたしを急に一人にしてもいいって思うんなら、なんでそんなことするんだ…!なんで、そんな、・・・・・・・気を使うんなら、わたしを子どもだって思うんなら、一人にしないでほしかったのに…!」

 結局一人にするんなら、最期の瞬間まで一緒にいたかったのに。結局自分だけにしてしまうなら、全部話してほしかったのに。

 そんな思いを封じ込めるように、姉は謀り、父は剣を身体に埋め込んだ。あの時はこの手で父と姉とを冥界に送りはしたが、理屈では後悔などしていないが――感情は、そうはいかない。

「・・・・・昔のことだろ。今言っても、何も出来ねえよ」

 冷静に、けれど言葉には紅茶のような暖かみをもってそう言ってやる男を、彼女は激しい勢いで睨みつけた。睨みつけたと言うには、その顔は崩れ落ちてしまいそうなほど弱々しい。

「じゃあ今も普通の顔しろって言うのか。今ぐらい言うのも駄目なのか。ならいつ言えばいいんだ?…いつ、言ったら、許されるんだ…?」

 今にも泣きそうなその顔に、男は小さなため息をつく。自分が思っているよりは、今の彼女の精神は脆いらしい。戦に関わるとその精神は鋼鉄にも勝るが、今は見る影もない。――けれど、当然のように、今の彼女も見捨てるつもりなどなかった。

 彼女の泣きそうな顔とまっすぐ向かい合って、真剣な目で言ってやる。

「悪かったな。そういう意味で、姫さんは言ったんじゃなかったんだな。ならいいんじゃねえか?気持ちが楽になるんならいつ言ってもいいと思うぜ」

 そう、少し笑うように言ってやる。とても単純なことかもしれないが、今の彼女にとってはその痛みと重さでそれを和らげる方法など分かっていない。むしろ、和らげようとも思っていないかもしれない。

 それを思うと、男は少し悲しくなる。実際は、そこまで彼女を責める者などいないのに、彼女が一番自分を責めている。彼女を恨む第三者よりも、ずっと彼女のほうが自分を恨んでいる。

「それに――許す許さないは姫さんの心の中で折り合いを付けるもんだ。そこに関わっていいのは俺でもムロマチの連中でもねえ。姫さんだけの、問題だ」

 軽く頭を撫でてやると、彼女はか細く吐息を吐く。その目尻には、光るものが見えたような気がした。

「けどな、あんまり自分を苛めるのも程々にしろよ?俺はそれが一番辛い。姫さんの考えには、口出しできないからな」

 顔を覗き込んで、優しくそう言う男の首に、彼女の腕が絡む。ため息と同時に吐き出された言葉は、先ほどと比べれば、かなり落ち着きを取り戻していた。

「・・・・・・口出ししてるだろうが、今」

 鼻にかかったその声は、泣き出しそうな感情を堪えるためか。口では小憎たらしいことを言いながら、必死で泣くまいと涙を堪えながら、けれど力強く男を抱きしめるその体は、何とも言えずいとおしく震えている。

 そっとその背中を撫でてやり、男も彼女を抱きしめる。無骨で、お世辞にもきれいとは言えない太い指だが、彼女は安心したらしく、細く長い息を吐いた。それからその体勢のまま、男に少し甘えるように、彼女は男の体へと顔をよこす。

「・・・・・父さまみたいだ」

 心の底から安心したようなその一言とは逆に、男はむしろその一言に仰天した。天下の大魔王と自分が――つまり、似ていると言うことか?

 男があまりにも油断していたことと、彼女の発言に驚いたせいであろう。一瞬、男の体全体がびくりと硬直した。その振動を、体をくっつけている彼女が分からないわけがない。その男の反応が予想外だったのもあって、きょとんとした様子で体を離して男を見た。

「・・・・・・どうした?おかしなことでも言ったのか?」

「・・・・・いや、姫さんはおかしいつもりはないかもしれねえけど、よ・・・・・・」

 涙を堪えていたせいで不自然なまでに濡れた瞳はまん丸としていて、色合いのこともあり仔うさぎのような可愛らしさがある。肌は人よりも白く、髪は漆のような深い漆黒である分、その赤い人体の宝石は妙に可愛らしく純粋な輝きを放っている。そして今現在の彼女が純粋に驚いていることもあって、男は何とも言い難い気持ちになった。

「・・・・そういうことは、初めて言われたからな。ちょっと、驚いた」

「・・・・・ああ、そうだな。わたしも初めて言った」

 男の言った意味が分かっていないらしく、彼女は少し照れたように視線をそらす。ほんのりと頬を赤く染め、少し慌てるように呟くその表情がまた男の保護欲をくすぐるため、男は更に何とも言い難い気持ちになる。とりあえず、男が思いつく限りの最も間接的な言い回しで訊ねてみた。

「・・・・・・・一応聞くけど、褒め言葉だよな、それ」

「父親とお前をけなすようなひねくれ者じゃないぞ、わたしは」

 やはり意味が分かっていないらしく、むっと眉をしかめる彼女に、男は横柄に頷いた。これ以上の説得は無理だろうし、彼女が真意を理解できるかどうかも不明である。

 諦めたようなため息をつく男に対し、彼女は更に不機嫌そうに男を見る。

「・・・・・・何だ。言いたいことがあるならはっきり言え。気持ち悪い」

「・・・・・いや、姫さんは親父さんと俺とどっちが好きなんだ、と・・・・・」

「ばばばばばばばかっ!馬鹿かお前は!」

 急に頬を染めて激しく動揺する彼女を、男は暗雲立ち込めたる気持ちで見た。その反応は予想はしていなかったが、していない分、彼女がどういう気持ちであるかが何となく想像できてしまう。

「そんな下らないこと考えるんじゃない!そりゃあ、父さまもお前も――そうだけど!そんな、比べれるほど、簡単な思いじゃないんだぞ!」

 つまり、自分のことは好いていてくれるらしいが、問題の父親の方も別格らしい。まあ、肉親であれば当然別格かもしれないが、それにしたって、その親が普通の親でない分、何とも言えず複雑な気分になる。

「そうか。・・・・・・・・そうだな」

 ほとんど脱力したように頷く彼に、彼女は何を思ったのか。心配そうに男を見上げ、少し言い難そうに口を開いた。

「・・・・・・お前は、違うのか?」

「違わねえから。姫さん無駄な心配するなよ」

 うん、と珍しく素直に頷く彼女に、彼は笑い出しそうになる。ここまで思ってもらっているのは、もしかしたら自分以上に父親がいるかもしれない。しかし、今現在はその父親も亡くなり、自分一人になったのだ。

 ならば、そんな不安を持つことなく、彼女と共に生きていったほうが、気持ちよく今後を過ごせるのではないか?

「けど、もし父さまが生きてたら、きっと楽しいだろうな」

 しかし、何の疑いもなくそんなことを言う彼女が向かいにいる。思わず畳に体全体をのめり込ませそうになったが、とりあえず男は必死になって自分の体が傾くのを防いだ。

「・・・・・・・・そうか?」

 やっとのことでそう訊ねると、彼女は大きく頷く。

「うん。そうだ。お前もいたら、きっとじゃないな。絶対楽しい」

 むしろ自分一人が地獄を見そうだと思ったが、彼女の笑みがあまりにも可愛らしく、純粋にその状況が楽しいと信じているのだろう。

 何も言えなくなった男は、その眩しい笑みに釣られるようにから笑いをする。同時に、会えるはずのない、しかし全く勝ち逃げとはいきそうにない強敵に、早くも心の中で降参した。

 そうする他に、自分が生きる道はなさそうだからだ。

 

RETURN

 

 アトガキ

 ふと電車の中で思いついてしまったフレーズが「永遠の〜」だったので「ファザコンとくれば姫だろう」とサトヒロへ変換。兄の方はむしろエディコン?けど実母いねえよ。

 最近うちのサト氏ってこういうキャラになり気味でちょっと困ってます。いやパパンに勝てるわけがないからその分他に逃げ道がなくってどうにもこうにも。

 時間設定は予想つくだろうけど愛邪です。二人っきりで愛の巣状態か!エロいな!(結局そっちか