Kiss Of Pear

  

 雪原のような白いシーツに、白い簡素な寝巻きから覗く磁器のような白い肌。そこにまるで血のような唇が見えて、人形みたいだと男は単純に思った。

 けれどその感想を口に出すのは止まらせておいて、男は慎重に、布団から顔を出している少女に声をかける。

「姫さん、大丈夫か」

 少女は薄く眼を開けて、紅色の瞳を男に向ける。紅でも差したような唇から、咽たような小さな咳が響いた。

「…お前か」

「おう、落ち着いたか?」

 汗が張り付いた頬から、ゆっくりと髪を払いのけてやる。ついでに額に触れると、人肌よりも少し低いくらいの体温が伝わってきた。峠は越えたらしい。

「……たぶん。昨日より、随分ましになった」

「そりゃよかった」

 まだはっきりと目は覚めていないらしく、目を擦りながら頷く少女は年相応に見えて可愛らしかったが、口に出そうものなら怒りと照れで興奮し、また熱が出ては洒落にならないので黙っておく。その代わり、少女に尽くすべき言葉を選ぶ。

「それじゃ、…なんか、してほしいことあるか」

 枕元に豪快に胡坐をかき、いざ世話を焼かんと気合の入っている男の姿勢に、少女は少し呆れたように眉をひそめた。

「…なんかお前、嬉しそうだからいらない」

「なんだそりゃ。変な断り方だな」

 笑う男に、少女は不機嫌そうな顔で男を睨み続ける。病み上がりの自分に下らない説明させる気か、と面倒そうな視線を男によこす。

 鋭い視線を受ける男は、内心安心しながら、わからない、と肩をすくめた。

「不公平だ。お前だって怪我したじゃないか」

「戦争して傷がないほうがおかしいが、武将となりゃそこまで酷くねえ。けど姫さんは先陣切るタイプだから、いつも無理しやがる。ま、今回でそれも危ないってことがよくわかったろ」

 そう言われると少女は弱い。口の中でもごもごと何か言い訳がましいことを呟きながら、居辛そうに視線を落とした。

 そのくらい今後も大人しければ――いやせめて、無理をしないで欲しいのだが、と思いながら、男は少女の態度に吐息をつく。

 少女が寝込んだ理由が風邪や軽い病気ならここまで心配しなかったのだが、どうも今回はたちの悪いものに感染したらしい。男には馴染みのない病気だが、医者から聞いた話によると傷口から入り込んだ菌が発熱や痺れを引き起こすもので、場合によれば命に関わることもあるようだ。彼女の場合は早々に異変に気づき、迅速な処置ができたので命に関わりはないらしいが、それでも珍しくうなされ、明らかに病人の引き起こすような痙攣を見せつけられれば、動揺せずにはいられなかった。

「ま、無事でよかったのは確かだな」

 軽く額を撫でて、男は本心から彼女の無事をそう喜ぶ。喜ばれたほうは、心配をかけた後ろめたさもあるのか、何とも言い難い表情で、布団の中で俯いた。その仕草さえ、無事とわかった今では男にとって無性に愛しい。

「果物とか食えそうか? 適当に見繕ってくるから、ちょっと…」

「あ…」

 立ち上がりかけた男の裾を、白い手が摘む。布団からはみ出たその慎み深い指先は、普段の彼女と随分かけ離れて可愛らしく見えて、男は一瞬自分の目を疑いかけた。

 しかし、男のそんな心中など彼女は知る由もない。ただ素直に自分の欲求を唇に乗せる。

「汗、気持ち悪いんだ」

 だから。

「拭いてほしい」

 彼女としては、何の思慮もなく、ただ本当にそれだけの欲求で告げたのだろう。

 だがしかし、相手は男であり、同時に彼女の――。

「え」

「あ」

 反応はほぼ同時。

 たっぷり五秒は固まっていた男がようやく反応を示すとき、彼女も自分が何と愚かなことを頼んだのか気がついた。先ほどまで血の通っていないような頬が、一気に鮮やかに紅潮する。

「ち、違う、拭きたいの間違いだっ……! いや、けど、……なんだ、その、悪い、忘れてくれっ」

 まだ頭が正常に働いていない自分を責めるように彼女は布団を頭から被るが、男は忘れるわけにはいかなかった。

 網膜に焼きついたように、何の考えもなしに体を拭いてほしいと要求したあどけない表情と、自分の発言の考えのなさに戸惑う彼女の姿が何度も再生される。

 そしてそんな自分に男はつくづく自覚させられるのだ。――自分はこの娘に心底惚れているな、と。

 となれば、やるべきことは一つしかない。惚れた弱みでもあるし、病に臥せっているなら尚更、余裕を持って聞き入れてやらなくては男が廃る。

 ゆえに、男は静かに、布団を被った山に話しかけた。

「よし。それじゃ、湯貰ってくるから、姫さんはそこで待っててくれ」

 返事も待たずに飛び出していった男の胸には、忠臣としての使命感と愛しい人への献身とが入り混じった、奇妙な興奮に包まれていた。

 

 そして、彼女の要求どおり、湯と何枚かの手拭いと新しい包帯と下着を持ってきた男の熱意に、彼女はやや気圧され気味で布団から這い出ることとなった。

 ここまで気合の入っている男の表情を見るのは久しぶりだが、それが自分の体の汗を拭うこととなると複雑な気分になる。やはり、病み上がりの自分の姿を見ても、男というものはそういう感情を持っているのかと半ば失望した。

 が、男は失望されているなど思いもよらない。彼女の投げやりな態度は病み上がりの疲れのようなものと考えて、そうとなるとこれは手早く済ませ、その上で早く寝かしつけねばなるまいと心に決める。

「あ、聞き忘れてたんだがな、姫さん」

「なんだ…もう脱げって言うのか?」

「そうじゃねえって。包帯してるところ、どうするんだよ。姫さん、一人で巻けそうか?」

 男は口を動かしながらも、手拭いを湯に浸し、固く絞って盆に乗せる作業を繰り返す。今更だが、彼女はそんな男の家庭的な器用さに呆れと感心が入り混じったような感情を抱く。

「…ああ、傷口は多分塞がってるだろうから、包帯はいらない」

「多分って」

 あんたの『多分』は当てにならない――そう言われた気分になったのだろう。彼女はやや怒ったように、寝巻きから包帯を巻いた肩を晒した。

「見てみろ。これなら派手に動かない限り、大丈夫だろうが」

 何の覚悟もなしに柔肌を見せられた側としては、そんな冷静な判断はできるはずはない。事実、男は肩から脇に入った、内臓色に輝く傷跡よりも、その奥の華奢な鎖骨、なめらかで白い肌のほうに目が引き寄せられてしまいそうになった。が、それを押さえつけてこそ男というもの、とぐっと衝動を堪えて俯く。

「…いや、うん、わかった、姫さん」

 ならいいんだ、と彼女はいつもの調子で頷いて寝巻きの襟を正す。

 その態度は何か間違っていないかと、男は心中で叫んだ。しかしそれを見て、男の中の入れすぎた気合いが程よく抜けていったのも事実だ。と同時に、相手を守りたいどうこうよりも、彼女の性格を思い出し、それまで似合わないほどの気が入った主従意識を持っていた自分が滑稽に見えた。

 だからと言って、彼女の願いを叶える意欲がなくなったわけではない。本人はそう意識していないが、恋人への霧消の愛が、母虎が我が子の世話を焼くような気持ちに変化しただけだ。

「そんじゃ、こっちに背中向けて…ああ、自分でやれるな。とりあえずこっちに手拭い置いておくから、終わったら声かけてくれ。なんか食いたいもんあったら、オレ持ってくるわ」

 冷たくなり始めた手拭いを再び湯に漬け温め直し、絞り始める男に、彼女は少し置いていかれたように頷いて男のほうを見る。

「…それじゃあ、甘い果物が欲しい。布団に汁がたれないやつ」

「よし、探してくる。包帯、やっぱり気になるんならここの使ってくれ。古いほうはどっちみち外したほうがいいな」

「ああ、わかった……」

 颯爽と部屋を飛び出ていった男の姿を見届けると、彼女は包帯をやや乱暴に解いた。あの様子から言って、本心で自分の世話を焼きたいのだろうと思うと――勝手に下心があると思って、勝手に失望していた自分が少し後ろめたい。

 男の手は煩わせまいと、早々に盆に置かれた、まだ熱を保っている手拭いを一つ取る。それを解して顔を突っ込むと、その温かさが逆に涼しい。汗を幾度も流した肌に、湯に潜らせた手拭いは、吐息が出るほど心地よかった。

「ふぅ……」

 首周りから巡って鎖骨、胴、それから背中と肩を拭う。湯を必要最低限含んだ手拭いは温かく、肌に触れれば汗にべたつく皮膚を洗ってくれる。

「よっと……」

 次の手拭いを解くと、腹部から下は半立ちになって、あくまで軽く撫でる。気持ちいいことは気持ちいいが、臀部がすっとする感覚は、自分の今の格好も手伝って、なんだか気恥ずかしかった。

「よいしょっ…と」

 それから脚をざっと擦る。足の指の間まで丹念に、垢を擦るようにすると、じんわりと爽快感が広がった。夏場の行水にも似た心地良さにそのままぼうっとしたくなるが、そうすれば今度は風邪を引きかねない。

 気持ちを引き締め直して新しい下着に袖を通し、寝巻きを着直す。そうなると、今度はそれまで使っていた布団が汗を吸っているようで不潔に感じたが、だからと言って新しい布団を持ってこさせるような手間はかけたくなかった。言い換えれば面倒だ。

 このまま歩き回っても構わない程度に神経はしっかりしてきたが、やはりここは大事を取って大人しくしておこうと彼女の理性が判断した。ムロマチ軍は破竹の勢いで進軍していることは事実だが、今回は事故処理が長引くらしいと事前に聞いていたので少しは休んでも平気だろうと考えたのだ。

 そうして布団を自分なりに敷き直し、再び床に着いたところで、男が衝立から顔を覗かせた。

「なんだ、もう全部やっちまったのか?」

 残念と言うより呆れたような言い方に、彼女は内心首を傾げながら頷くように寝返りを打つ。

「ああ。もう新しい下着も着けたし、別に手伝わなくていいぞ」

 彼女の物言いが既に普段通りであることに気がついた男は、成る程と浅く頷いて、再び布団の傍に腰を下ろす。その腕には、ムロマチ特有の果物が二種類二個ずつ収められ、彼女は間接的に自分が大喰らいだと言われたような気分になった。となれば、なんだか相手に軽いダメージを与えたい気になるのも自然な話だ。

「なんだ、わたしの背中を見たかったのか?」

 そうからかうように男を見ると、言われたほうも冗談めかして大きく肩を落とした。

「まあな。そりゃ姫さんのならなんだって見たくなるもんだ」

「だったら顔だけ見て満足することだな」

「……あいよ」

 くすくすと笑いながらそんな冗談を交し合うと、男は慣れた手つきで果物の皮を剥く。それは彼女も食べたことのある、林檎に似た形の、それよりさっぱりとした果実だった。汁気は多少林檎よりも多いが、皿で食べればそう果汁が滴るものでもない。

「悪いな、甘いのはこんなのしかなくてよ。ちょっと汁気があるんだが…」

「いいさ、別に食べられるのならなんでもいい」

 それを聞いて、男は軽く目を剥いた。

「なんだよ、さっきまで弱々しかったのに、もうなんでも食えるのか?」

「食べられる気分なだけだ。まだ流動食しか食べられそうにないのは、自分でもなんとなくわかっている」

 そう、無理をする気はない。無理をしてまたこの男の余計な心配を買う気はないし、そのせいで他の仲間たちにも過度の心配をさせるわけにもいかない。

「…重傷には慣れてるからな。強がったところで、完治から遠ざかるのは骨身に染みてわかっている」

「そりゃよかった。しかし、あんまり慣れるもんでもないだろ」

「それはそうだが、あれも経験には違いない」

 経験を忘れるのは猿以下だと付け足すと、彼女は簡単に切られた果実を竹串で刺す。一口、いつもよりやや控えめに食べると、久しぶりにものを食べた快感を味わうかのように、ゆっくりと咀嚼を始めた。

 その姿を見て、男は少し安心する。言動も最初よりしっかりしてきたし、今の彼女の様子から見るに無理をしているようではない。今日はこのまま安静にしてもらって、明日にでも医者を呼んでお墨付きを貰えば、見事復活と相成るだろう。

 そうなると――恐らく自分がまず始めに組み手の相手をさせられるのだろうかと思うと、それはそれで複雑だ。何よりこのお姫様は、鈍った体を動かすには、一人の地道な鍛錬よりも本気で暴れることこそだと考えている。遠慮なしで抗わねば怒られるし、殺す気だとさえ思うのでいやがおうにも本気になってしまうのだ。

 今は大人しく黙々と梨を食べている彼女を見ながら、男はぼんやりと相手をさせられる順番を考える。

 準備運動がてらに自分が負かされ、続いては彼女の復活を見に来たムロマチの現君主辺り。その主を執務に呼び戻しに来た赤毛の軍師も相手をさせられ、最後に元君主と鍛錬所を壊滅させんばかりに暴れるのが順当だろう。それとも最初から元君主か、軍師の嫌がらせに近い一喝で締めとなるのか。

 苦笑を浮かべながら空想に耽る男の姿をどう思ったのか、不満そうな顔をした件の姫君は剥かれた分の果実を全て食べつくした皿をわざとらしく竹串で叩いた。

「おい、手、止まっているぞ」

「ん!」

 慌てて果物剥きを再開する男だが、もう既に皿がきれいになっている事実に今更気づいて苦笑する。

「そんなに腹減ってたのか?」

「寝ているだけでも体力は使う」

「汗掻くしな。匂いも篭る」

 男としては当たり前のことなのだが、そう言われた姫君はきょとんとした後、急に顔を赤くして、まるで我が身を隠すかのように布団を寄せ上げる。

「そんなこと…人が汗拭ったときに言わなくてもいいだろうが…!」

 臭いと間接的に言われたようで、ご立腹らしい。男はああ違う違う、と首を横に振る。

「別に臭かねえよ。むしろ、姫さんいい匂いだぜ? まあ今はちょっと空気が篭ってるから爽やかとは言い難いが、なんつーか、甘くてこう…」

「くっ、詳しく言わなくていいっ!」

 自らのあられもない姿を見た男に――否、男だからこそ、彼女は必死になって男の言葉を遮ろうとする。そんな彼女を見て、男は唇を尖らした。

「…んだよ、褒めてるんだぜ? まあ、女の匂いなんて一概に甘いもんだけどさ、姫さんの場合は蜜とか、ねっとりした……」

「だから…ッ! お前は人の病状を悪化させたいのか!」

 そう言われて、男は現状にはたと気がついた。――そうだった、自分は今、彼女の看病をしているのだ。ようやく治ってきたところなのに、悪化させては意味がない。

 半端に刃を入られた果物の皮剥きを再開し、男は素直に詫びた。

「わりぃ、姫さんいつもの調子に戻ったもんだと…」

「き、気持ちは戻っても、体のほうはそうはいかないんだからな…!」

「だよなあ……」

 苦笑しながら皮を剥く男は、ちらりと少女の襟元を覗き見る。寝巻きの上から明らかに――とはいかずとも、女性らしい膨らみが、やや控えめに抑揚をつけている。

「もうちっと待つことになるのかねえ」

 ため息と共に吐き出された男の呟きに、照れか熱かはわからないが、まだ頬の赤みが引かない少女が不思議そうな顔をする。

「何がだ?」

「おし、切れたぜ」

 新たに切られた果実を皿に盛られると、ほぼ自動的に食べる。租借しながら、彼女は再び男に問うた。

「何を待つんだ? 近々野戦の予定がないから、わたしは休養できたはずだが?」

「あーいや…まあ…」

 頬を掻き、あからさまに言い辛そうな男に、彼女は自分と男のあまり得意でない分野の仕事を想像する。

「それとも事後処理か? 事務ならわたしなんかより向いてる奴がいるだろうが…それともわたしが駆り出されるくらい」

 不可解な顔をした少女の口を、何かが塞いだ。それが何かは、言うまでもない。

 きょとんとしている少女の顔を見届け、軽く布団に身を乗り出した男は、口の中に入った果実の欠片を細く味わう。

「……まあ、コレ…だな……」

 自分に言い聞かせるように頷いた男の姿を見て、彼女はぴくりとも動かなかった。まさしく彫刻のように。まさしく石のように。

 しかし、それは何も受け入れたわけでもなければ、待っていたわけでもない。それどころか、逆に。

「ん?」

 無反応の少女をどう思ったのか、首を傾げた直後のこと。

 男は、板張りの天井に浮かぶ星を見た。ような気がした。

 

RETURN

 

アトガキ

 某さんが退院したので何故か急にサトヒロが書きたくなり。ついでにキーワードも頂きました。

 しかし久々に書いた割には色々忘れている部分があるので半端になってしまった感がなきにしもあらず。

 オチとして姫がサトーさんを強引に看病してることを仄めかす描写も入れるつもりではありましたが、なんかそれやると姫鬼畜すぐるので没。