・準備  いくら暗い夜道であろうと、この女性二人にとってそれは怖いものでも警戒すべきものでもない。 それどころか、自分に襲いかかろうとする無礼者が出るならば、喜んで迎撃するだろう。 否、正当防衛以上の返り討ちにすると言ったほうが正しいか。  とにかく、女性二人はいつもの調子の足音を周囲に響かせて、いつもの調子で喋っている。 「いつも思っていることですが、何ゆえあなたは突発的な行動にしか出られないのですか?」  執務室から脅しも同然で連れて来られたロゼは、忌々しげに隣の女性を見る。 それに対し、両手に酒瓶を持ったヒロは特に気にすることもなくロゼの視線を受け、無邪気な仕草で首を傾げた。 その、この女性の正体を知らない人物ならば可愛らしいとすら思わせる仕草が、今のロゼには実に白々しく見える。 「別に突発的な行動だけで生きている訳ではない。それとも私は手順の大切さを忘れる阿呆に見えるのか?」 「阿呆には見えませんが、好き好んで逆境に陥り、這い上がることを楽しんでいるようには見えます」  嫌味を含んだロゼの発言も、皇帝ではなく身内の小娘の言葉としか感じ取れないヒロには通じない。 それどころか、その言葉に懐かしいものでも思い出したように、柔らかな笑みを口元に宿した。 「それはそうかもしれんな。尤も、どれもあまり満足しないものばかりだが」 「一次大戦は大魔王討伐を目的とした英雄たちが第一線で活躍した戦。あなたも死を覚悟した場もあるでしょうね」 「死は常に覚悟するものだ。どれだけ温い戦況だろうがな。だが、それと深い絶望とはまた別の問題だ」 「は?」  急に話が逸れた気がしたロゼに、ヒロはただ不敵な笑顔を見せるだけに終わる。 「お前はないのか?逆境から這い上がり、自らをせせら笑っていた相手を見下す高揚の経験は」 「そこまで悪趣味ではありません…。それに、わたしは戦は嫌いですから」  ため息と共に首を振るロゼに、ヒロは少しつまらなそうな顔をするが、同時にそうも言っていられない相手の状況に軽く同情する。 「それは災難だな。まあ、戦場であろうといい出会いもあるだろう。それを励みにしておけ」 「そうします。全て良いもの、とは言いがたいですが…」 「確かに。厄介な敵との出会いのほうが多い」  それはいつになっても変わらないらしいと知ると、二人は共に苦笑し合う。  しかし、それで気が和らいだわけではない。 ロゼは一瞬目を据わらせたが、口元は柔らかな笑みを保ったままでおっとりと首を傾げた。 「それで?この程度の雑談でしたら執務室でも可能なはずですが、どこに連れて行くおつもりです?」 「まあ待て。ストレスで肌を弱めるのはいいことではないぞ」 「上っ面だけの労わりのお言葉、ありがたく頂戴します」  その返答こそが上っ面のものだが、ヒロはその点に関しては言及しないことにする。 そんなことをすれば、こちらが逆に言い包められるのは目に見える。 「もうじき見える。文句はそれから言え」 「何が見えるんですか。言っておきますが、その手の誤魔化しは通じませんよ。大体、あなたは…」  口調をロゼが厳しくし、いよいよヒロの傍若無人な行動についての説教が始まるところで、暗い草原から光が見えた。 「あれだ」  少し助かった思いでヒロはその灯りを顎で指す。 そこには、モンスターのものではなく、人がかざすような光が見えた。ランプか、ムロマチの紙で作った傘の灯りのようだ。  そこに近づいていけば、それが何なのかはすぐに事情を知らないロゼでも分かった。  敷物を敷いて、草原の真ん中で第七師団の連中が酒盛りをしているらしい。 灯りは彼女たちを導くためにだけつけていたらしく、ランプをふう、と赤ら顔のドワーフが消すのが分かった。 「本当に連れて来たのか?まったく、よくやるよ」  呆れた顔で褐色の肌をした金髪の魔剣士がそう言えば、能天気な人魚は満面の笑顔で迎えてくれる。 「こんばんはー。すっごいいいお月様だよー」  言われて気がつき空を見上げてみると、確かに夜空には満月が浮かんでいる。道理で夜道が明るいはずだ。  そして人魚の満月にも負けない明るい笑顔に気を削がれ、ロゼはため息一つと恨みがましいヒロへの視線だけで言いたいことを封じ込める。 「……月見酒、ですか?」 「実際はただのお月見ですけども、他の方々はどうしてもお酒が欲しいと言って聞かなかったんですのよ」  煌びやかな人魔のハーフは不満げな口調ではあるが、実際はこの中で誰よりも良い飲みっぷりを披露している。  逆に酒に手をつける様子が全くないのが、法衣のヴァンパイアだ。 「酒盛りになれば更に人数が増えたほうがいいとヒロ様が仰いまして、誰かが犠牲にはなると思いましたが…まさか皇帝陛下直々とは」 「他の連中は捕まりにくい連中だからな。お前ぐらいしか思いつかなかった」 「そんなもんでしょうね。案外単純だもの」  呆然としたままのロゼを差し置き、早速酒の席に入っていくヒロに、テンガロンハットの少女も呆れ顔だ。  それからようやく全てを理解すると、ロゼはゆっくりと深く長いため息を吐く。 あまりにも単純すぎるヒロの行動に笑い出したくなったが、本心はまだ隠したままで露骨に眉間に皺を寄せてヒロを見た。 「…いいでしょう。お付き合いします。ですけど、一杯だけですよ」 「一升の間違いだろう」  いけしゃあしゃあと言い返すヒロに、ロゼは鼻で笑い飛ばす。 「それでも別に構いません。ですけど、後悔しても知りませんよ」 「それはこっちの台詞だ」  女性二人の不敵な笑みを合図に、宴は再び再開される。 ――涼やかな秋の満月の下、深淵を模したような広い草原に、そこだけが明るい満月のような賑やかさで。 ・酒盛り  不規則に漏れる声は切なげで、今にも夜闇に溶けて消えるよう。  羽毛の枕を握る手は、青白い光を浴びてその細さだけを強調させる。  なだらかな丘のような腹は、淡く輝く酒の冷たさか、それを舐め取るねっとりとした舌の刺激にか、時折大きくびくりと揺れる。 「・・・・・や、やぁあ・・・・・・」  自らの姿を見たくないのか、華奢な片手が不器用に視界を覆う。 それでも見えるものは見えてしまう。大きく開けば指の間など、意味を成さない障害物だ。  故に彼は隠されたことにより、更に大胆に、音を立てて美酒を啜る。美酒と言っても彼は味にこだわることなどほとんどない。 ただ彼女の汗と熱と体臭とを含んだそれは、今の彼にとって美酒と言ってもいい貴重な存在なだけだ。  何より酒を注がれた彼女は、ただ舌を這わせるだけの行為に快感を持って震えている。 枕を握る手から足のつま先にまで緊張が行き渡っているというのに、女性が持つ甘い香りはいよいよ持って濃くなっていく。  世界の平穏を祈り、民に慈愛の視線を注ぐ女王は、自らを器にされ、その侮辱と快楽に酔っている。 それは何とも貴重なありさま。それは何とも猥らな御姿。  ――そしてそれを見るのは、この世界でただ一人。その事実が彼を更に高めていく。 高まるものは苛虐心か肉欲か。それとも単純な征服欲か。  特定付けることすら思考の無駄と判断し、彼は青い腹部の黒い液に舌を這わせる。 灯りを点せばその黒は赤に変わっていく。だが彼は赤はいけ好かない。妹の色だ。そんなものを彼女に掻けるのは不愉快だ。 血の色は好きだが別の高揚だ。そしてその高揚は白い海のようなベッドの上では役に立たない。  だから自分の色を掻ける。一見すればなだらかだが、窪んだ箇所は確実だ。 まるでタールのように粘りと澱みのあるいやらしい黒が、今は青白い腹を蹂躙しているというこの実態。それが何とも愉快だった。  むき出しの果実から流れる果汁を舐め取るように乱雑に、黒い液がたゆたう腹を貪っていく。 けれどその肌に歯など立てない。立てて痛みで彼女が正気に戻れば白けてしまう。 だから痛みなどないままに、ただ不純で猥らな気持ちのまま、彼女の心を麻痺させればいい。 そうすれば、ますますもって彼女の淫奔は加速していく。彼の手だけで。彼の存在だけで。  唇が肌を貪る。 歯を立てず、滑る箇所しか使わぬその行為は、彼女に汗を浮かばせ、彼女の正気を遠ざけていく。  彼を挟んだ脚は力なく、だが刺激には過敏に動く。ひたすらに彼の動きにのみ従順に。 「あ・・・・・・は、んぁあぁ・・・・・」  掠れる声は甘く弱く。蕩けた瞳は涙を一筋。頬は赤く、口は自動的に喘ぎを漏らす。  遂に臍の酒まで舐め取ると、彼はゆっくりと身を起こす。 支配者の如き目線を当てられ、彼女はそれから逃げるように視線を逸らす。  まだ理性がその身に残ることを知り、ため息一つで彼はベッドから降りる。 まだ理性を離さないその粘り強さは悪くはないが、諦め時ぐらいは見計らうべきだと彼女を一瞥する。  スプリングの衝撃と、彼の冷めた視線から伝わる衝撃と。一体どちらが彼女に深い衝撃を与えたかは言うまでもない。  息を飲み込み、まるで観念したかのように深い吐息が彼女の唇から漏れる。 淀んだ淫気はまだ彼女の身にへばり付き、それを手放すことなど今の彼女には無理に等しい。  それよりも更なるものを。それよりももっと強いものを。それよりももっと烈しいものを。  自分を押し潰すかのような感情を、ただ彼女は必死に求める。彼だけに。 今はそれしか考えきれず、ただそれが刹那にしか求められないものであると、何度も何度も知っていても。  ただそれだけに永遠を求める。 否、永遠などと聞こえのいいものではなく、自分の熱を更に燃え上がらせるため。醜い欲を更に深めるため。 解消などありはしない。収まることなど全くない。 それどころか、まるで行えば行うほど、それは彼女を静かに堕として行く。 決して清らかではない、言い訳できないほど穢れた慾の世界へと。 「・・・・・じゃど、う」  そしてそれはゆっくりと開かれる。そして彼の目は見開き、ほくそ笑む。  夜のとばりはまだ落ちたまま。二人の熱は沈まぬまま。 故に貪るのは至極当然。故に乱れるのは摂理に近く。故にますます堕落は深まる。  長い夜はまだまだ明けず、一人流離う満月残し、ふたりは更に世を忘れる。 ・お開き  ススキが満月の光を浴び、細やかに輝くさまは何とも風流だとの同級生の言葉を聞き、わたしは目を輝かせる。  思わず隣の席で控えめにお米の酒――これもムロマチ産だと聞いた――を啜るあなたに向き直り、ムロマチには行ったことがあるのかを聞いた。  けれどあなたは苦笑してから首を振る。  そこまでは行ってないんだよ、と、わたしにすまなさそうに言うものだから、わたしもつい謝ってしまう。 あ、わたしこそごめんなさい。そうだ、あなたは素敵な満月に出会えた?と卑怯な逃げ方をして。  真面目なあなたは俯いて記憶を探り、それから何かを思い出したように顔を上げかけるけど、やっぱりやめたと肩をすくめる。  どうしてと不満げなわたしとムロマチ出身の同級生に、つまらないからとあなたは誤魔化した。  けれどわたしはつまらなくても、あなたの記憶に残る光景が知りたかったから、随分ごねた。 多分、お酒の力も入っているからそんな大胆なことが出来たのでしょう。  あなたがあとで話すから、と言った後、お菓子を買ってもらった子どもみたいにはしゃいでいた。  それから酒場から宿屋にみんなで帰る道すがら、あなたはわたしの隣で独り言みたいに話してくれた。  村を出るって決めた後、最後の入漁に船を出したとき、満月だって気がついた。 南の浅い海域では満月には珊瑚が一斉に卵を放つらしいけど、僕のいたところは珊瑚なんていなかった。 だからとても静かで、とても月が明るくて、それだけで、なんだか自分が舞台の役者のような気分になった。  泣けてしまいそうとか、感慨深いとか、そういった意味ならよく分かるのに、そこで何故舞台の役者なのか。 少し驚きつつも、現実的なあなたらしいと納得すると、あなたは苦笑したまま自分でも分からないと言ったように首を傾げた。  何故だろうね。僕らは誰かに生かされているとでも思ったのかもしれない。確かに、とても作り物くさく見えたんだ、そのときの自分が。  今は? 心配になって控えめにそう訊ねると、あなたは自分の心配を見透かしたような暖かな視線を向けてくれた。  大丈夫だよ、今はそうは思わない。けれど、いつかまた思うかな。  気楽にあなたは未来を仮定しない。それはいつもあなたらしいと微笑ましく愛しく思うけれど、このときばかりは違っていた。  わたしはとても怖くなって、本当にあなたが作り物だったら、わたしが作り物だったらどうしようと思ってしまって、涙が浮かんできた。  わたしの泣き顔を見てあなたは悪いことを言ったと思ったのかもしれない。 慌ててわたしの手を取って、大切そうに握ってくれた。手袋越しでも力強さと、わたしが大切にされている感覚が分かるくらいに。  安心してほしい。だからと言って、自棄になったり、自分の体を乱暴に扱ったりしない。  気持ちいい、こんな日に吹く夜風みたいな低い声。 そんな気遣いより、わたしにはずっとずっとその声のほうが安心できた。 お酒も入っていたから、きっと誰もいなければ、キスや甘えた言葉をかけていたに違いない。 けれどみんなで一緒に帰っていたからそんなことも言えずにいて、ただ手を握り返すだけだった。  大丈夫、ともう一言。 あなたの言葉は温かいミルクみたいに染み渡り、わたしの不安を取り払ってくれる。  もっと言って、とわたしが短く甘えると、あなたは少し目を見開いて、また一言。  大丈夫。  もっともっととわたしは求める。それにあなたは小さな声で答えてくれる。  結局、宿屋に着くまでわたしたちのやり取りは、もっとと大丈夫だけのもので。 多分、他の人たちから見てれば、わたしたちも十分酔っていたんでしょうね。実際、酔っていたし。  たくさんの仲間と、初めてのお酒を飲んだ帰り道は、そんな気分で終わってしまった。  けれどお月様はきれいだったし、風は気持ちよかったし、何よりあなたの声は耳に焼き付いているから、全く損をした気にはなってない。