Go to her. Aim at her.

 

 

 ガレーナ首都からやや南東にある都市マリチクは、七年戦争によって発達した都市と言っても過言ではない。

 新生シンバ帝国軍、ネバーランド皇国軍、そしてローゼス解放軍の中継拠点として利用されたこの街は、幾度の戦火に隣接しながらも、しかし中立の姿勢を貫き通し、結果被害以上の利益を得た稀有な街でもある。その影響か、今もこの街をゴルデンに入国するまでの中継地点や休憩所として利用する旅人や行商人など、外部からの者は多い。

 外部から流れてくるのは利益だけではない。共和国のお膝元に近いことであからさまな犯罪者はいないが、それでも人が多ければ多いほど争いも増えるし、悪意を知らない御上りさんも、それを鴨にしようとする詐欺師も、はたまた規制が成されているヴァラノワールやワルアンス城下街ではお目にかかれない類の踊り子も、様々な思惑を持った者が集まっていく。自然、マリチクはガレーナ国内では五指に入る利便性と治安の悪さを手に入れた都市にもなった。

 だが、それは言い換えれば乱雑な街というだけで、一歩歩けば詐欺師に引っかかりポン引きが現れ金をせびられるわけでもない。賑やかで華やかな表通り以外を歩くのは、あまりおすすめできない、というだけであって。

 それだけに、足取りの危うい女子どもが一行にいた彼らは、あまりそこを利用することはなかった。偶然にも旅の生活必需品の幾つかがヴァラノワールに到着するまでに切れてしまい、ヴァラノワールまで不快だが安全に旅を続けるか、それとも多少危険なことに巻き込まれる可能性はあってもマリチクで補給してからヴァラノワールに行くか、どちらかの選択に迫られ、結果後者を選んだだけの話だった。

 ――そしてその偶然が、思わぬ再会を引き起こした。

 いくら旅人や行商人が多くとも、二十人弱の大所帯を予約もなしで受け入れる宿屋は早々ない。初めてのマリチクの光景に好奇心一杯の少年少女たちを抑えながら、彼らはまず宿の確保に奔走した。

 それでもなかなか好条件の宿屋は見つからず、結局彼らはマリチク内でも少し街の外れにある、少し寂れた宿屋に泊まることにした。一昔前はどこかの軍が何度も利用するほど有名だったらしいが、そこが選ばれた理由も、部屋数の多さと必要最低限量の食事の提供だけではないかと思うほど殺伐とした宿だった。

「部屋は二階のどこでも好きに使っていいし、食堂では好きな飲み物を自由に飲んでもいいよ。ただし二人一部屋、荷物の持ち運びは自分たちでね。食事は朝夕二食、朝の七時と夜の七時から一時間ずつ。おかわりはしないでおくれ、人数分きっちりで作るから」

 無愛想な女将の説明を聞くと、アルやゼレナやリディアは早々に荷物をそれぞれの面倒見役に任せ外に遊びに行った。他の面子も似たようなもので、この殺風景で面白みの一つもない宿屋にいるよりも、自分の所要や暇潰しや快楽を外で済ませに行こうと荷物を自室に置くと続々と宿から出て行く。

 その中で、アリアは慣れない街に少し疲れていたため、一休みしてからアデルと買い物に行く予定だった。アデルも疲れたらしく小一時間したらロビーで落ち合うはずだったが、肝心の落ち合う時間を忘れてしまった。結局アリアは自室にもない時計がどこにあるのか、疲れた体を引きずりながら当てもなく探す羽目になったのだ。

 そしてただ広いだけのこの宿屋で、二つめの角を曲がったとき、そこに見覚えのある人物を見た。

「…………え?」

「……ああ」

 振り返った女性は窓の外を見ていたらしい。簡素な白いドレスが窓から吹く風に揺れ、女性の淡く輝く白銀の髪も優雅に靡く。アリアを真っ直ぐに見る青い瞳は、自然界の中にしかないような鮮やかさと美しさと深さを持ち、それに彼女は畏れと憧れに似た感情を覚えていた。

 忘れるはずがない。大切な仲間の一人であり、スノーと名乗る、懐かしくも異質な空気と絶大な魔力を纏う女性だった。

「まっ、待ってください!」

 また逃げられないようにと、唖然としている女性に向かってアリアは思わず叫ぶ。それを聞いて、女性は目を瞬かせると苦笑を浮かべた。

「待っても何も……わたしは何もしていないわ」

「け、けど……!」

 咄嗟に出てきそうになる言葉を、反射的に喉の奥で押し留めた。それは言ってはだめだと、約束を破られてもそんなことを言ってしまってもいい人ではないと、自分に言い聞かせて。

 しかし、女性はアリアが言いそうになった言葉を察するように微笑んだ。

「そうね。わたしは信じてもらえなくても当たり前かもね」

「そんなことは……」

 ない、とは言えない。だってそう思ったからこそ、待ってほしいと不意に叫んだのだ。

 二の句を飲み込むと何も言えなくなって、アリアは立ち尽くす。言いたいことは山ほどあった、聞きたいことはそれ以上にあった。けれどどちらも多すぎて、アリアの頭では一瞬で処理しきれない。

 けれど女性は何もしなかった。優しく、しかし諦念にも似た笑みを浮かべ、アリアの次の行動を何も言わずに待っている。そうしてアリアが女性に待たれていると気づいたところで、ようやく喉から言葉が生まれてきた。

「どうして、……ここにいるんですか」

「賑やかな場所はあまり落ち着けないの。こういう……少し街のはずれにあって、不親切なくらいのほうがいいと二人で思ってね」

「あの人も一緒にいるんですか……?」

 少し驚いてしまったアリアは、そんな自分にもまた驚く。控えめに微笑む女性の隣には、常に男性の姿があった。凶器になる氷柱のような視線と魔力を持った魔族の男性は、仲間たちと必要最低限しか関わろうとせず、ただひたすらに女性を守るようにそばにいた。あの男性が女性と一時でも離れるなんて考えられないのに、どうしてそんな風に驚いたのだろうかと自分で自分を不思議に思う。

「今は部屋で寝てるわ。神経を張り詰めていたから疲れたみたい」

「疲れた……?」

 アリアの鸚鵡返しに、女性は苦笑で答える。

「憎しみが和らいでも、人間への印象はなかなか変わらないものなの。人ごみの中にいるのは、あのひとなりに気を張るみたい」

「そうなんですか……」

 呆然と答えて、アリアはようやく本来の目的を思い出すように頭を上げた。

「あ、あのっ、たくさんお聞きしたいことがあるんです!」

「そうみたいね」

「だから、そこで待って……いえ、一緒に来てください!」

 第三者が聞けば多少話が飛んでいる頼みごとでも、女性は眉一つ変えず頷いた。彼女の言いたいことも、聞きたいことも、今はそんな言葉が出ることも把握しきったように。

「いいわ、どこか落ち着ける場所で話しましょうか」

「……は、はい、皆さんはこっちにいます」

 アリアは自分が多少突飛なことを言ったことを気づかないまま――と言うのも、女性がその突飛さに何の反応も示さなかったからだが――、もと来た廊下を歩く。それに女性はゆっくりと後を追う。アリアが背後を振り返り途中で確認する必要性はないと、暗に示しているような、うるさくはないが印象的な足音を立てながら。

 そうしてロビーに辿り着くと、そこには既にアデルがいた。

「あ、アリア? あなたも時計見に来……」

 疲れたはずなのに緊張した面持ちのアリアの姿を見止めて軽く眉をしかめたアデルだったが、次の瞬間、彼女の後ろから現れた女性に思わず目を見張る。

「あなた……スノーさん!?」

「お久しぶり」

 アリアに向けたように、苦笑を浮かべて女性はアデルにそう挨拶する。しかしアデルのほうは、アリアと同じく咄嗟に反応することもできず、唖然としたまま女性を見ていた。

 その反応を見て、アリアも密かにアデルは自分と同じ気持ちだったのだろうと思う。旅の一行の中でも、他の仲間は気の済むまでずっと一緒にいれると思えるのに、女性と恋人である魔族の男性だけは、そうじゃない気がなんとなくしていた。それは本人たちの態度から滲み出ていたのかもしれないが、それでもアリアは女性に対し一線を引いた態度でいれなかったし、仲間の一人として親しみ、頼っていた。だからこそタワーで別れたとき、これが今生の別れのように感じていながら、けれど絶対にそんなことはないと強く思い込んでいた。そして本当にこうして再会すると、反動を受けたかのように驚いてしまうわけだが。

「ええっ!?」

 予想外の場所から声がして、アリアは我に帰りロビーの奥を見る。そこには、ティーポットを持った棒立ちのリーザがいた。アデルと一緒にお茶で時間を潰す気だったのだろうが、アリアがリーザが手に持っているものがポットだと気づいた瞬間、それは床に吸い込まれるように落ちていった。

「きゃっ!」

「え、あ、やだ、ごめんなさい!」

 幸いにも金属製であるため割れなかったが、それでも音はけたたましい。吹き抜けの天井を持つ広いロビーは尚更音が響いて聞こえる。茜色の小池に浸かったポットを持とうとして、しかしリーザは再びそれを落としかける。アデルもアリアも立ち往生してその様子を眺めていると、さすがに女将が顔を出した。

「ぎゃあぎゃあと五月蝿いね、一体なにやってんだい!」

「いや、あの……」

「すみません、お茶を零してしまったのでモップとバケツをお借りしても構いませんか?」

 間髪入れず何ともないような表情でそう尋ねる女性に、女将はああ、とリーザが屈み込んだ辺りの床を見る。

「いいよ。そこのカウンターの奥の戸棚にあるから、好きに使いな」

「ありがとうございます」

 女性の礼の言葉を聞くや否や、今まで唖然としていたアリアとアデルとリーザがほぼ同時に我に帰った。

 言われた通りに戸棚の戸を引き、各自モップや雑巾を持ってずぶ濡れの床に向かう。幸いロビーは石畳だったので、目立つ染みにはならないだろう。そうして黙々と少女たちが掃除を始めたところで、少し離れた場所にいた女性はカウンターに置かれたティーポッドを持った。

「じゃあ、わたしはお茶を淹れ直してくるわね」

「え……?」

 少女たちの視線を一気に浴びると、女性は少しわざとらしい苦笑いを浮かべる。

「大丈夫、逃げないから」

 そこまで露骨な視線だったことに、少女たちは少し自分を恥ずかしく思いながら、それでも彼女が帰ってくるまでここを綺麗にしようと掃除を再開することにした。しかし。

「あら。久しぶりね、ゼロス」

「…………は?」

 食堂から聞こえてくるその声に、血の気が一気に引いた。

 

「……みんな、お茶は飲まないの?」

 のんびりと葡萄の香りが漂う茶を啜り、簡素な椅子にきちんと腰掛けて女性がテーブルを見回す。実際、ティーカップに手をつけているのは女性だけだった。

 だが、それでも彼女たちは曖昧な返事を漏らしたまま手をつけようとしない。落ち着いてしまうと、それはそれで何をどう切り出せばいいのか、タイミングがわからないでいるのだ。

 そんな彼女たちの気持ちを慮っているのか、女性は更に困ったような笑みを浮かべた。そう警戒されても仕方ないかと納得するように。

「あのっ……!」

 食堂に入ったときからずっと俯いていたアリアが、勇気を出したように顔を上げる。

 その視線から読み取れる感情の多さと揺らぎを感じ取り、女性は黙って茶器を下ろし、聞く体勢に入る。尤もな非難を浴びるのは、きっとこれで二度目だと思いながら。

「……どうして、どうして戻ってきてくれなかったんですか……」

 搾り出すようなその言葉に、女性は吐息をつく。またここでも自分は、ヒトの信頼を裏切ってしまったのだと実感して。

「もともと、わたしたちはあなたたちと長く一緒にいていいものではなかったから」

 簡単な言葉で伝えると、同じテーブルに着いていた他の少女達が身を乗り出すように反論する。

「その理由は種族や、それに該当する問題なのかしら? だったら関係ないと思うけど」

「そうよ、それに、あたしたちは仲間でしょ。なのに急に理由も告げずいなくなるだなんて…」

 リーザとアデルの真っ直ぐな態度に、女性は思わず口元がほころぶ。そう思ってくれるのは嬉しいし、ありがたい話ではあるが。

「ずっと一緒にはいられないし、仲間にもなれないわ。わたしたちは、そういうものだから」

 そう笑って返す女性に、二人は一瞬言葉を失った。ゼロスからの紹介で初めて対面し、あの塔で別れて以来、穏やかで儚げな印象の女性であることに変わりはない。しかし、同時に二人は思う。変わらなさ過ぎる、と。

 自分たちは一応なりにあの旅で成長したつもりだし、良かれ悪かれ変化を遂げた。しかし、眼前の女性は不変だ。何が起きても、何も変わらない傍観者の姿勢のままであり続ける。それは完成した人格と褒め称えるべきなのかもしれないが、それ以上に不気味だとも思う。

 その正体を知り、一行の中に戻らない理由を予想できたリーザは、まさかと笑いながら反論を再開する。

「けど、もう終わったんでしょう、何もかも。だったら、あなたたちが……その、立場にこだわる理由はないんじゃないの?」

「こだわらないということは、責任を持たないということでもあるの、わたしたちにとっては、ね。そしてわたしは、そんな自分の立場を弁えないような者になりたくないわ」

 微笑む女性の笑顔が持つ印象は、やはり変わらない。芯の強い、凛とした人だと思ったが、ここまで意志を貫くとは思わなかった。歴史上の人物ということもあり、自分は彼女を安易な理解の範疇に置いていたらしいとリーザは思い知る。

「なんでそんなネガティブなものにこだわるの? 今から第二の人生を歩めばいいじゃない」

「それに人生を投じたから。逆に訊きたいわ、あなたたちの持つ誇りには、自分の立場が含まれていないの?」

「それは……」

 そう言われると、リーザは困る。当然、自分の職業にも自分が選んできた道にも、彼女は誇りを持っている。

 けれど、それとこれとは別ではないのだろうかとも思うのだ。リーザにとって、彼らは恋人の死別を知らされて自分も自殺するような、良く言えば憐れで純粋、悪く言えば視野が狭く短絡的な人生の持ち主のように見えた。

「……だったら、あなたにとってはまだ全て終わっていないの?」

 そしてリーザの反論に乗じるつもりだったアデルは、女性の言葉に心臓を押さえつけられたような気分になっていた。

 何故なら眼前の女性の言葉は、自分の過去と未来の対峙だ。自分はこだわって、責任を持って、一時的とは言え人生を投じたつもりだ。仇討ちは不完全だができたことはできた。だから自分は吹っ切って未来に向かうことができるが、この女性は――。

 その気持ちを汲み取ったのか、女性は相変わらずの笑みを湛えて頷く。

「正確には違うけれど、そういうことになるわ」

 その返事に、内心悔しさと寂しさで胸がいっぱいになりながらも、アデルは苦笑を浮かべた。

「それじゃあ、あたしは何も言えないわ。本当に全部終わったら、仲間になって欲しいとは思うけど…」

「貫くことが、大切だから」

「仲間にならないことが、貫くことなの?」

 足掻くように尋ねるリーザに、女性は小さな声を立てて笑う。

「そうじゃなくて…そうね、あなたたち以外の誰といても、自分を納得させる正当な理由にならないの。今まだここにいるのは、ほとんど私情みたいなものだけど……」

 その私情に、自分たちのことは含まれないのかとリーザが口を開きかけたそのときだった。乱暴にドアが開かれ、この上ない仏頂面のゼロスが入ってくる。その後ろには、困り顔のナイヅ。

「もう済んだの?」

 仲間でいたときと同じような調子で女性が尋ねるが、ゼロスのほうはその質問こそが気に食わないのだろう。普段より三割り増しの険悪な表情で、女性を睨みつけた。

「おい、あいつに何吹き込みやがった」

「わたしが何か吹き込んだとして、あのひとが簡単にその通りにしてくれると思う?」

 思わないのだろう。派手な舌打ちをすると、ゼロスは手近な椅子を引いて乱暴に座り込む。いかにも面白くなさそうなその表情は、さっきの彼とは正反対だった。

 アリアが、恐る恐るゼロスとナイヅを交互に見るが、リーザは遮られたこともあって率直にナイヅのほうに振り向いた。

「何があったの? ゼロスとあの人、勝負したんでしょう?」

 勝負とは、女性の相棒が仲間になったときのことだ。

 話の流れでゼロスが件の男性と勝負することになり、そのときはゼロスが一応勝ったものの、彼にとっては何度も手合わせできると思えるほど手ごたえのある相手だったらしい。しかし、男性は野暮用が済んでから手合わせしてやるとそれを先延ばしにしたが、その野暮用が終わると同時に二人は彼らの前から姿を消したのだ。

 それ故、女性と偶然鉢合わせた後のゼロスは、再会の驚きもそこそこに男性もこの宿にいることを確認し部屋の場所を尋ねると、遊び相手が見つかった狩猟犬さながらの勢いで男性とナイヅを引っ掴んで、勝負の再開をしに行き――そして帰ってきた結果がこれだった。

「ああ、けど勝負にならなかった」

 思わず三人が目を瞬かせる。どういう意味かと首を傾げる彼女たちに、ナイヅは苦笑交じりで付け足した。

「全く攻撃しなかったんだよ、彼は。そうなるとゼロスもやる気が出ないらしくてね、一応ゼロスの勝ちにはなったが…」

「あんなもん勝負じゃねえよ。その上、俺サマをハメやがって…」

「どういうこと?」

 さも面白くなさそうに、ゼロスは少女たちのほうを向いた。しかし、その視線は彼女たちのテーブルの奥にいる女性を真っ直ぐに刺す。

「仕事が入ったぜ。ワルアンスに行く」

 弾かれたように、女性が顔を上げる。しかし愕然は一瞬で、その仕事がいつ誰が依頼したのか、依頼者の意図に至るまで納得したようにすぐに眉をひそめて俯いた。

 ゼロスは苦虫を噛み潰したような表情のまま、その反応をしっかりと見届ける。

「あの野郎、もう一度全力で勝負してほしけりゃ依頼を引き受けろ、とか言いやがった。そのくせ、返事は女にしておけ、だとよ」

 女性は、ゼロスの視線に気づいていながら、細く長い吐息をつく。その表情は女性にしては珍しく、苦渋に満ちていた。

「一応、てめえにも聞いておくが……んなとこに行って何するつもりだ」

「あのひとは、言わなかったの……?」

 ゼロスは面白くなさそうに鼻で笑う。代わりに、その場に居合わせたナイヅが答えた。

「特に何も。ただ、ワルアンス城にいるある人物と会うつもりだとは教えてくれたが…それだけだった」

「でしたら、それがあのひとの目的でしょう」

「しかし……」

 ナイヅの視線が戸惑うように揺れる。そんな反応が返ってくる理由を、女性は嫌というほど理解していた。

 男性は今は死んだものとされるが魔王であり、目指すワルアンス城は現在この大陸を支配していると言っても過言ではないネバーランド共和国の片翼だ。ワルアンス城のあるゴルデンは、もとは帝国の領地であったため人間優位思想を持つ派閥や有力者が多く、またヘルハンプールのキングソルフィンも逆のことが言えるため、元帝国・元皇国両種族の執政官は、互いの地域色を緩和するため活動拠点を交換した。

 それ故に現在のゴルデンに住まう官僚たちは皆、元皇国の言わば魔族寄りだった官吏が多く、だからこそ魔王の登城が知れれば思想面で悪影響を及ぼす可能性もある。事実、ナイヅは大魔王ジャネスを復活させるため執政官を裏切った武将たちが、未だ補佐官としてあそこにいることを知っている。仮に魔王が彼らのうちの誰かと偶然にでも出会えば、それだけで終わる話だと到底思えない。

 それでも女性は、苦味が一滴分ほど含まれたような笑みをナイヅに浮かべた。

「わたしにもそこまでする理由はわかりません。けれど、もし本当にあのひとが物騒なことを企てれば、わたしが真っ先に気付きますし、それを止めさせます」

「そうか……」

 魔王と共に封印される道を選んだ彼女だからこそ、この中の誰よりも強い姿勢で、誰よりも影響力を持ってあの男性の行動に口を出すことができるのだ。彼女がそう断言すれば、ナイヅは任せたとしか言いようがない。

「それじゃあ、ゼロスはもう一度あの人と勝負するために依頼を受けるの?」

 呆れたようなリーザが尋ねると、ゼロスはそれこそ面白くなさそうな顔をして呟いた。

「あんな胸糞の悪い結果で、俺が納得できると思うかよ。それに、てめえらにはでかい借りがあるからな」

「借り?」

 なんのことかとアデルが女性を見るが、女性は立てた人差し指を唇にそっと当てる。ゼロスのほうを見れば、相変わらず苦々しい表情のままで、説明する気はないらしい。

「変なことを頼んだんじゃないでしょうね」

「それはないわ。ただゼロスが望んだ方向に行くよう、わたしたちが少し方向転換させただけで」

 更に意味がわからない、と少女たちはゼロスのほうを注視するが、それに正直に答えるような男ではない。不機嫌そうに眉をしかめて、追求の視線を追い払うように睨み返す。

 男一人対女三人という不自然な点はあるものの、あまり微笑ましい光景とは言えない。

「まあまあ、そんなに睨み合っても先に進まないだろ」

「ゼロスが答えてくれないからじゃない」

 ナイヅがこの空気を緩和しようと間に入っても、リーザはゼロスに追求の視線を注ぐのをやめる気はないらしい。唇を尖らせてゼロスを見るが、彼のほうはそれを無視できるほど大人ではない。

「言いたくねえんだよそれくらい察しろ」

「へえ、あなたにも言いたくないことあるの? それは是非聞いておかないとねえ…」

「あぁ?」

「ゼロスさんっ、リーザさんも……!」

 アリアに続き、ナイヅも立ち上がりかけたゼロスを抑えるため加わろうと近づくが、その前にリーザがあっけらかんと笑った。

「冗談よ、冗談。それくらい嫌なことだってよく分かったから、そんなに本気にならないで」

「……それくらい嫌、ねえ……」

 アデルがまだ納得いかないような顔を見せたが、彼女の場合はゼロスの弱味を知りたいのではなく、彼が無茶なことを女性たちに望んだのではないかと心配しているらしい。女性のほうに不安そうな眼差しを向けたが、女性は安心させるように微笑で答えるだけだった。――いつもそんな態度だからこそ、アデルは安心できないのだが。

 釈然としない様子ではあるがゼロスが再び椅子に腰掛けたのを見届けると、リーザは女性のほうに体を曲げた。

「それで、あなたはワルアンス城に行くことに反対じゃないのね?」

 ならば自分たちの次の行き先はそこしかないとでも言うような口調だ。意外な従順さに、今度はゼロスが皮肉めいた笑みを浮かべる。

「なんだ、てめえが行きてえのかよ」

「まあね。久々に姉さまやみんなの顔も見たいし……ナイヅさんも会いたくない?」

 軽々しく補佐官たちの話題を投げかけられても、ナイヅはそこまで彼らと親しくない。

「ロゼ以外とは敵としてしか会っていないから、逆にあまり会いたくないな」

「あら、残念。話してみれば面白い人たちなのよ?」

 そこまで打ち解けられるような人柄ではない。ナイヅは苦笑を浮かべながら首を横に振ると、リーザはつまらなさそうに返事をした。戦時中、父やその同僚たちとナイヅやアルの両親が争ったことがあるのは彼女も知っているので、誘ってみたものの無理強いはできない。

 その様子を見ていて、女性はほろ苦く微笑む。

「そうね……反対はしないわ」

 先ほどの返答だと飲み込み、リーザがぱっと顔を上げた。その顔に浮かんだのは、久々に親しい人々に会える喜びか、それとも女性の声色が意外なほどに寂しげであることを感じ取ったのか。

「けど、あんまり乗り気には見えないわね。……ワルアンス城に行く最終的な判断はあなたに委ねてるんだし、あなたの希望でもあるんでしょう?」

「そう、なるわね」

 それでも、女性の表情は硬く、沈んでいるように見えた。どう考えても、そこに行くことを希望している女性の顔ではない。

「……本当に、行きたいの? 無理してない?」

 念を押すようなリーザに、アリアがそっと腕を掴む。女性の内面の揺れを感じ取った彼女は、控えめに諭すような言葉を漏らした。

「多分、戸惑ってるんですよ……。緊張していらっしゃるみたいだし、こんなに急に話が決まるなんて思ってなかったんじゃないでしょうか?」

「そうなの?」

 訊かれて女性は、アリアに感謝するような笑みを見せるが、その口元は珍しくぎこちない。白く細い指先も、軽く震えているのが見えて、リーザたちは内心納得した。

「……ええ。情けないけれど、ちょっと、ね……」

「だったら、もう少し間を開けてからにしたほうがいいんじゃない?」

 女性が後ろめたいことを隠しているのではないと分かると、アデルもリーザも心配そうに眉を潜める。しかし、女性は口元に控えめな微笑を浮かべ首を振った。

「大丈夫、そこまでしてもらうほどのものじゃないわ。それに、わたしはただあのひとが本当に会おうと思っていたことが嬉しいの……」

 それだけで満足なのに、と暗に含めるような言い方だとアリアは思う。しかし、他の皆はそれに気づいていないらしい。女性が立ち上がり、食堂から出て行こうとするのを、何とはなしに見届けていた。

「それじゃあ、少しあのひとに報告しに行くから……」

 また夜に、と告げる女性に、リーザが冗談めかして頷く。

「わかったわ。また逃げないでね」

「ええ、大丈夫」

 微笑を浮かべる姿に、嘘偽りは感じさせない。しかし、そうやって以前、彼女たちは自分たちのもとに帰ってこなかったのだ。

 アリアは再び自分の心の隅に不安の陰りを感じたが、何も言わなかった。ここで自分が釘を刺したところで、きっとあの人たちには何の拘束力もない。だって、あの二人はきっとあの二人の中で完結しているのだから。

 

 重い足取りで暗い室内に入る。男は寝台の上で寝転がっていたが、眠ってはいないらしい。ゼロスに好き放題させておいたばかりのはずなので、傷の一つや二つは覚悟していたのだが、その身体には意外にも目立った汚れはなかった。

「……どうでした?」

 寝台の隙間に腰かけて、女は愛する男に緩やかな笑みを投げかける。静かに浮かべられたその緩慢な表情はどことなくだらしなく、性としての女を匂わせた。

「あんなものだろう。あれ以降は奴の好きに生きればいい」

「わたしたちに必要な彼の為す事は終わったから? ゼロスが聞いたら怒りますよ」

 男のほうも、緩慢な動作で女の手に指を這わせる。それに、女の手はふわりと浮き上がって軽く逃れようとするが、それでも指のほうは捕捉されてしまった。

「好きに怒らせておけ。あれの血気が治まるのは俺以上の年月が必要だろうからな」

「本当、ひどい言い草」

 笑いながら、女は指先で男の指の必要な追求を防ごうとする。静かに始まった指先同士のじゃれ合いに、しかし二人の表情は互いに甘さを持っていなかった。

「……手伝ってくれるみたい、あの子たち」

「そうか」

 女にしてはぶっきらぼうな言葉に、だが男は何の反応も示さない。あの連中がこの依頼を受けることも、女の反応も、既に男の予想通りだった。

「……ジャドウ?」

 男の薬指が、返事をするようにぴくりと女の指に触れる。

「どうして、……あんなことを?」

 ゆっくりと、男の指が女の手に絡んでいく。深い呼吸に合わせるように、しっかり、ゆっくりと。

 そうして親指で女の手のひらを撫でながら、男は静かに笑った。

「お前がいま、望んでいることはそれしかあるまい。お前がこの世界に執着し、冥界から目覚め、奴らに手を貸すその理由は全て、あれのためだろう?」

「…………」

 女は答えない。それは女にとって虚勢を張ることさえできないほどの真実であり、またそのためだけにこんな矛盾した状態に我が身を置いている自分が、嘆かわしくも思えるから。

「何も知らぬまま、何事もないままに終わる。それはお前好みの展開だろうがな、それに救われるわけではない」

「……救われたくて、目覚めたわけではありません」

「見栄を張るな」

 喉の奥で笑いながら、男は女の手を自分のほうへと引き寄せる。女はそれに抵抗も示さず、そのまま男の身体の上に背面からゆっくりともたれかかった。

 女の指先を唇で愛撫する男に、女はいたたまれない気分になる。自分勝手で傲慢で、欲深いひとだと今でも思う。だからこそ、正反対に生きようとしていた自分の欲を巧妙に捕え、白日の下に晒してしまう。抵抗はささやかなものに抑えられ、誘惑は悪魔の囁きそのものだ。

 ――けれど、それでも。

「……ばか……」

 女は呟く。これもまた、ささやかな抵抗に過ぎないとわかっていても。それでも女は愛する男に抵抗しないわけにはいかない。それが男なりの愛情の示し方であったとしても。

「ばか…………」

 嗚咽ような呟きは、衣擦れの音と男の唇に阻まれた。そうして今度もまた、女は男の誘惑を振り払えず、その身と心を融かしていく。

 

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