糞親父!

 

 

 彼女は茫然と外の景色を眺めていた。

 じょじょに人が少なくなっていく車両内で、ただ彼女だけがぴくりと動きもしない。しかし人々は彼女自身に無関心で、同時に彼女は誰の視線も気にしていなかったので、お互い何の支障もなかった。

 彼女は座席に背を持たれかけて、外の景色を見ているように見えた。しかし実際は規則的に揺れる電車の振動と、流れる景色よりもっと遠いところにある過去の思い出に、彼女は身を任せていた。

 彼女は母子家庭で育った。しかし母子家庭という言葉にイメージされる薄幸さや危機感や親子のすれ違いなど、彼女と彼女の母親には無関係だった。

 かと言って、男親のいない生活に支障がなかったわけではない。彼女の母親が、今思えばどれだけ忙しかったのかは容易に想像できる。母親は彼女が小さい頃から弁護士で――高校も大学も卒業していないけれど、それでもある法律事務所に勤めていた――、まだ若いから仕事の時間も量も不規則だったろうに、いつも同じ時間に彼女と共に朝夕の食事を共にし、休日は一緒に過ごしていた。自分の仕事も、子育ても、一人の女性が完璧に両立してできるものではない。だというのに、母親は泣き言一つ言わなかった。否、泣く姿すら、子どもと他人の前では見せなかった。

 彼女は母親が大好きだった。仕事も家事も何でもできて、いつでもにこにこと微笑んでいた。白く細い指先で、華奢くいい匂いにする体で、あらゆる家事をやすやすとこなしていく。彼女も率先して家事を手伝うと、いい子ねと笑ってくれた。本当に嬉しそうに、自分を見て、自分を慈しんでくれた。

 それだけではない。母親は同級生の母親と違って、とてもきれいでいつまでも若かった。十代の少女のようなふっくらとした白乳色の肌に、少し色素の薄い瞳は柔らかな輪郭を描き、小動物の目のように潤っていた。栗色掛かった髪はくせもなくまっすぐに伸びていて、くせのある髪質の自分にとって、母の髪は羨ましかった。日曜参観日の日は、外見だけでも、他のみんなに母が自慢できるのが嬉しかった。

 けれど、一番母が好きな理由は、小さな頃から寝る前にずっと聞かされていた物語が大きいかもしれない。

 物語の内容は、ある女の子が幻想的な世界に迷い込み、その世界で様々な人々と触れ合っていくというものだった。その世界には神様が確かに存在していて、神様と対立するように魔王がいて、魔法や剣で戦う戦士達がたくさんいる。そしてその世界の中には、たくさんの個性的な登場人物がいた。お互いを憎みあう魔王の娘息子、世界の全てを知ってしまい狂った戦士、魔王を倒した気弱な勇者、前世がドラゴンの王である国王、科学で神を造ろうと考える人間、森のみを愛するエルフの女王、神様に心を捧げた騎士――。

 彼らは決して穏やかではない感情と関係性で互いを傷つけあうが、ある者は仲良くなる。しかし、調和を目指さない者や譲歩しない者、または自分こそが正しいと信じ続けている者は仲良くならず、自らの意思のまま行方をくらましたり、死んでしまう。

 母がどうやって考えたのか、その物語はとても面白かった。今の教育委員会とやらでは、子どもにそんな残酷な話を聞かせるんじゃないと目くじらを立てるかもしれないが、この物語は自分と母だけの秘密のお話だった。どこにも載っていない、母だけが知っている物語。それを聞くことが出来るのは、自分一人。

 その世界は母一人が考え出したにしてはよく出来ていて、本当のことじゃないのかと小さな頃はよく疑ったものだった。そしてそれを問い詰めると、母はまるで自分の夢を壊さないようににっこりと笑い、色々なことを聞かせてくれる。それはその世界の政治のあり方であったり、宗教概念であったり、年間行事であったりした。まるで母だけではその世界を作れないことを、裏で指し示すかのように。

 そして母は、自分が寝る前に話した物語を、そのままきれいにノートに書いてくれていた。自分が中学生になり、年末に大掃除をしていると、その記録がどっさりと束になって出てきたあの瞬間は、本当に懐かしく、驚いた気持ちだった。そしてやはり、母一人が空想で考えれるものではないと実感させられたのだ。

 けれど。けれど、ならばあの物語は何だったんだろう。

 本当のことではないとしても、どうして母は自分にしかその物語を聞かせなかったのだろう。あの世界は、自分が生まれたときからいない父との共同作業なのだろうか。夢ばかり見ている若い二人が、一緒に作り上げた世界なのだろうか――。大人になり、母が自分を産んだ年齢にもなると、そういう考えが自然と生まれ出てきた。自分が生まれたときからいない父と父の家族。勘当当然で母を家から追い出した母の家族。孤独に毎日を生きてきた母。そして、母だけが知り、他の人に話さないと約束したあの壮大な物語。判断材料はそれだけだが、その結論に結びつけることは容易であり、さほど時間はかからなかった。

 けれど、彼女は父と父方の家族など、どうでもよかった。母方の家族もだ。母さえいればよかった。今まで苦労してきた以上、自分が働ける年齢になったら、自分が母を楽にさせてやるんだと、精一杯頑張って勉強していた。

 けれど、その母はいなくなった。ほんの数ヶ月前に死んだのだ。

 交通事故に遭って、わき見運転のトラックに衝突された。道を渡る見知らぬ子どもを守ろうとしたらしいと、複数の目撃者の言葉から分かった。

 ――いい人だった。惜しい人だった。苦労していた。

 葬式には、そういう声ばかりが聞こえた。その見知らぬ子どもの保護者と運転手の会社が雇った弁護士も駆けつけたが、ただ憎しみしか浮かばなかった。謝罪のための札束を、父親らしい男の手から叩き落とした。裁判をするのかと問うた弁護士に、使う金も時間も無駄だからいいとだけ言った。母方の祖父も祖母も来たらしいが、顔も知らない名ばかりの身内と話すつもりはなかった。

 自分の心の中に、確実な喪失感が生まれた。身内を――最も愛するただ一人の身内を亡くした気持ちが、こんなに無意味に悲しいものなんて、分かりたくもなかった。

 働いて働いて、自分が生まれてから一度も生活が楽になることがなかった母に、けれど笑みを絶やさず自分を愛してくれた母に、神様とやらは何のご褒美もやらなかったのだ。そうなるべき人ではなかったのに、報われることなく母はあっけなく逝ってしまったのだ。

 全てを呪いたかった。壊したかった。自分も死にたかった。

 けれどそれは無理だ。母がいけないと言っていたから。誰かの命の上に、自分の生活があることが普通だから。その犠牲を忘れずに、自己満足でいいから自らを高みに導くこと。それが母が唯一自分に求めていたことであり、自分が背負わなければいけない期待。

 けれど、それを見てくれる人がいない今、誰も自分のために喜んでくれる人がいない今、どうすればいいのだ。

 空虚な気持ちで喪に服し、それが終わると母の遺品でもある物語を貪るように読んだ。暗記するほど読んだ。それでも気持ちは晴れなかったが、これにしかすがることか出来なかった。

 それから数ヶ月して、学校側から体験合宿とやらに行かされることになった。伝統工芸を学び、自分の国の文化を大切にしようという名目らしいが、自分の場合は勿論違う。母親を亡くした傷に対し、何らかのかたちで癒すものとなればいいと考えているらしい。学校側が何らかの配慮をせねば教育委員会に格好がつかないのだろう。

 集団行動はまだ自分の気持ちを騒がせるだけだろうからと、ある期間のうちにその合宿先まで自主的に訪ねるようにと連絡された。そして今、その合宿先に向かっている最中だ。

 母の形見で、同時に父の形見らしい、小指の爪ほどの大きさの金色のリングを革紐に通し、それを首にかける。服の中に通しておけば充分他人の目からは見えないし、合宿先で何か言われたとしても事情を説明すれば取り上げることはあるまい。そう考えながら、自分の服の内側にあるリングをもてあそぶ。

 無論、今まで一人で合宿所に向かう中、楽しいことは一つもなかった。今までと同じ、空虚な気持ちで空を見て、自分の母との思い出や、あの物語のことばかり考えていた。

 駅に到着し、降りたところでやはり考えることは変わらない。市バスを使い、山道に入っていこうが、変わることは何もない。

 ただ優しい母の思い出に浸りながら、彼女は黙々と、渡された栞通りに目的地へと向かう。

 そして、アスファルトで整理された道を歩くのみとなった彼女に、小さな異変が起こった。

「・・・・・・・・?」

 男性的な鋭さを持つ細い眉をしかめて、彼女は道の向こうを見る。栞には書いていない何かが発生したらしい。

 彼女は栞に再び目を通し、それから周囲を見渡す。おかしい。そう思いながら。

 大雑把ではあるが今まで道をしっかりと記入してきた栞の地図ではあるが、ありえない現状までは記入しなかったらしい。――否、今まできっとその道は普通だったのだろう。しかし、今彼女が見ているその道は、確実にありえない状況になっていた。

 道が分岐しているのだ。横ではなく、縦に。

 まるで上空から見ているかのように、否、まるでアスファルトで木を描いているように、上へ上へと、アスファルトが分岐していく。急な山道がそこにあるわけではない。直立不動のアスファルトの枝の行く方向を見ようと上を向いたが、如何せん山の中なので、他のまともな木々のせいで先が見えない。しかし、確実に上に向いている道がいくつも存在し、むしろ、アスファルト通りに行くのなら、そのアスファルトを登らねばらないのだ。しかし、当然ながらその頂上に合宿所があるとは、間違っても思えない。だから、アスファルトを通り越して、山道をそのまま行こうとしたが、これでも無理だった。

 その木のように上に伸びるアスファルトを横切ったところで、彼女はまた、その直立不動のアスファルトの目の前に立つのだ。

 ――不思議の国のアリス?

 彼女は小さく眉をしかめると、大した驚愕も何も感じずに、――そう。彼女はなぜか、この不気味で不可思議な光景に何の驚きも恐怖も持たなかった――そうとだけ思った。

 ループを無理にやり過ごそうとするのはあまりよい考えではない。実に冷静に――普通の精神状態の人間なら、こんなオカルト現象に出会って何も思わないはずがないというのに――考えて、彼女は再びアスファルトの木の前に立つ。

 そして、面倒そうな顔で口を開いた。

「どうしてほしい?何が目的?」

 無論、誰も何も言わない。けれど、彼女には何故か分かった。霊感があるわけでもないし、こんな体験を初めてしたと言うのに、彼女は母を亡くした喪失感に浸ったのままの気持ちでいた。

 そして、答えは彼女の頭の、第六感と呼ばれる部分に直接呼びかけてきた。

 おまえ自身が―――と。

「生憎だけど、行きたくない」

 そして彼女はそれを気のせいとも思わず、きっぱりと言葉と声に出す。現実の常識をまるで無視する見えない相手に、嫌悪の表情を小さく見せながら。

「気分が悪いの。帰って」

 断る!―――

 強い意志が、彼女のどこかに襲いかかろうとする。がしかし、彼女はそれに対しても、冷静だった。

 ただ強い風が来るのが分かって、木の陰に移動する。すると、彼女の考え通り、人が飛ばされそうな突風が、彼女がいた丁度その場所めがけて吹いてきた。落ち葉や枯葉やアスファルトの破片すら飲み込んでいくその風だったが、ちょうど木の陰に隠れていた彼女には何の影響もなかった。

 また来るであろう何かに対し、彼女はゆっくりと木から離れ、そして全速力で木々の間を逃げていく。恐らく助かる手立てがあるはずの――空が見える場所に。

 そしてその何かは、やはり彼女の思惑通りに付いてきた。木々の脈を伝い、ひたすら彼女を追いかけようとする。しかし、彼女は捕まるつもりもなかった。何故かこの幻覚なのか現実なのか夢なのか分からない現状で、彼女は冷静に、自分の中の勘を信じて走り続けた。

 こいつらに捕まってはいけない。

 それだけのことが、彼女の奥底で警戒を鳴らし、彼女を冷静にさせ、彼女を何かに導く。導き出されるそれは救いでもなければ更なる罠でもない。単なる逃げ道であり、この奇妙な追っ手から逃れる唯一の方法であることを、彼女は知っていた。

 まばらに空いている木々の間をすり抜け、木の根に足を掴まれそうになっても、彼女はただ走り続ける。それが一番正しいと、実に冷めた感情で誰かが言っているのを鵜呑みにして。

 そして、まるで誰かに促されているかのような感覚で、空が開けた場所――昔は公園だったらしい、鉄棒や砂場が見える――から空を見る。しかし、牧童的な水色はまだ木の陰に隠れていてあまり見えない。

「こんなんじゃだめだ・・・・・・」

 忌々しげに呟くと、公園に入るはずだった足を戻して更に奥へ――否、手前かもしれない――足を運ぶ。四方を雑木林に囲まれたこの場所では、今自分が来た方向がどこなのかも分からない。

 ただ、背筋に這う、タールのようなべっとりとした視線のようにまとわりついてくるものは、彼女の左手から追ってくる。それから逃げるには右に行くしかない。

 その通りに右側に走ると、追ってくる何かの声が聞こえるのが分かった。

 何故逃げる。我らは使者ぞ。おまえの父の故郷から来た者ぞ―――

 生憎、彼女は父には興味がない。そしてそんなことも分かっていない、得体の知れない奴らに、捕まってやるつもりもなかった。

 まさか、この世界で血が覚醒することはあるまい?―――

 否、否。あるはずもなきこと。この世界では魔を信じぬ者が多い―――

 忌々しきことよ。指折りの神官である我らの力が微小にしか現れぬ―――

 低くしわがれた声たちの会話が聞こえる。目から見える世界も耳に聞こえる音も、走る速さもいつもと変わらないはずなのに、何か、どこか彼女の知らない感覚が研ぎ澄まれていくのが分かった。でなければ、先程の、自分に呼びかける声たちの会話が聞こえるはずがない。アスファルトの木を見た時には、まだ何も聞こえもしなかったのだ。

 追われながら冷静に考える彼女は、自分の心の中の、ある感情の欠陥にようやく気付いた。

 得体の知れないものに追われているのに、まったく恐れていないということだ。しかし、それを不思議がっていたのもほんの数秒だった。次の瞬間、陸上選手のようなフォームで走りながら、彼女は内心鼻で笑ったのだ。

 ――こんな、こんな下衆びた手を使う連中どもに、自分が捕まるはずがない、という自信が、彼女の心のうちからふつふつと湧きあがる。彼女自身違和感を感じながらも、この尊大と言ってもいい自信がとめどなく流れ出てくるのを感じていた。

 そして彼女が走りながらも思わず笑い出そうとした瞬間、視界が一気に開けた。

 緑地公園のようなものなのだろうか。一面に手入れされた芝生が生い茂り、ゆるやかな線を描く丘があって、空は開放的に開かれている。

 状況としては実に素晴らしい。

 無意識のうちでそう笑った彼女は、駆け足の速度を緩めながら、呟いた。

「・・・・・・わたしはここよ」

 その声を、自分を逃がす者が聞いているのか分からない。何より、こんな呼びかけが通じる相手なのかさえも分からない。けれど、彼女は次第に声を大きくしていった。

「ここにいる!早く来て!でないと他に奪われるわよ!」

 幼い頃、母に甘えていた頃のように、子どものような地団太を踏む。動きの遅い迎えの誰かに。しかしそれでも迎えはこない。逃がす者は訪れない。こちらから行くことはできないのに、それを知ってか知らずか焦ろうともしない誰かがいる。

 そして湧きあがる感情と自信と冴え渡る第六感の身を任せた彼女は、空に向かって怒号を吐いた。

「早くしなさい!」

 それが誰か分からないはずなのに。

「糞親父!」

 彼女のその言葉を空が受け入れ、空気が声を響かせた瞬間、一条の光が空から降ってきた。

 言葉通り、見たこともないくせに自分に罵声を浴びせた娘に対する、父親の怒りが篭められた光が。

 

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