早く来い
人工的な暗い闇が辺りを包み、淀み湿った空気しかない地下のある部屋に、三人の男が倒れ伏していた。太陽の光すら入ってこない場所にいるのだ、ただの人間ではなかった。彼らが纏っている、闇と同じ黒の法衣の足元には、銀糸の刺繍の魔方陣が施されている。その点からして、どこかの宮廷魔道師であるらしいことが分かる。 儀式でも行っていたのか、それぞれが倒れている石畳には、複雑な幾何学模様に似た陣が描かれていた。それらは何かの塗料で石畳の上に描かれたのだろうが、次第にその線は薄くなり消えていく。 そして静寂が広がると、そのうちの一人が顔中を血だらけにして起き上がった。皺だらけの手が顔を覆っているせいで、手の平までもが血塗れになっているように感じる。 「やられた・・・・」 息が荒いながらも、その声は怒りも悔しさもない。冷静な落胆だけが、その声と血に濡れた目に感じられた。 他の魔道師も同じだった。血を流している場所は違うが、老いたその顔からは冷静に自分達に起きたことを回想しようとしている。全速疾走したかのように、汗をかき、大きく喘ぐ彼らは、それぞれを見やった。 一人は片目から血を止め処なく流し続け、もう一人は肩に抉られたような傷を負い、最後の一人は内臓に強く衝撃を受けたらしく口から血の塊を吐き出した。 一旦息が整うと、肩を負傷した老人が呟いた。 「さすが魔王…大陸屈指と言われた我らを蹴散らすのは簡単か…」 それに、まだ細々と口から血を流している老人が掌で血を拭いながら笑う。 「それもどうかな。所詮我らは井の中の蛙。魔に目覚めた姫君に潰されたかもしれん」 「…恐ろしいことよ。それに、陛下とは違い、何と烈しい姫じゃ」 長く細い吐息をついたのは、目を負傷した老人だった。それを見た二人の老人は、冷静にその老人を見やる。 「貴殿の目はもう使い物にならぬな」 「おう。隻眼の神官など、戦の時代の代物ぞ」 笑ってそんな冗談を言う老人。それに、他の二人も小さく笑った。つい先ほど負傷し、かなりの疲労感を感じている老人とは思えない言い草である。 「何を抜かすか。我らは戦を大して知らぬ」 「二十五…、否、三十前か?確かにあの時はまだ頭の固い一端の神官だったの。戦など遠い世界であった」 時の流れは案外に早い。そして、それよりも世界というものは緩いふりをして目まぐるしく変わっていく。 「・・・・・・それで、どうする」 肩をやられた老人がそう呟くと、他の二人は笑いを止め、真剣な表情で呟いた。その目に宿るものは、暗く苦々しい、しかし冷静な感情。 「報酬は半分は受け取った。我らのもとにいはしないが、この世界にかの君が召喚されたのは事実」 「魔王側にはとうに知られておる。いくら隠密に事を進めようにも、魔力の話なら向こうの方が敏感ぞ――。もともと隠しようがない」 「しかしそれを説明したところで、あ奴らはそれに納得すると思うか?」 口からの血が収まったのか、唾液に混じった血を吐き出した老人がそう尋ねると、二人は否、と首を振った。 「魔力とは何たるかを知らぬ者こそ、無理難題を言う。自分が何を言っているのか分かっておらぬのだよ。あの若造は」 「全く。自らの使える範囲の低級な術さえ使えれば、それで良いと本人は思うておる。――いくら大陸の多くの部分を制しようと、そのように頭が固ければ陛下の後継者にはなれまい」 「ならば―― 一つだな」 そう吐息をつくと、隻眼となった老人が、急に片目となった視界に頼りながらも、自分の近くにあった紐を引っ張る。乾いた鐘の音がして、壁の一部から暗い石畳の部屋に何人かの兵士が駆け寄ってきた。 彼らは甲冑で身を包んでいるせいで表情は見えないが、それでも自分達が前に見たときから死にそうに貧弱な体をしている老人たちが、更なる傷を負って風前の灯となっている姿に動揺しているらしい。密かに息を飲む音を聞きながら、老人たちは腹の底から声を出した。なるべく、威厳を持った態度でいようと。 「召喚には成功した」 「しかし君は我らのもとから逃げた――無意識的に」 「魔王に知れるのも時間の問題ぞ。早う追手に捜させるがよい」 「わ、分かった。では、救急隊を…」 魔法など使ったことも見たこともないのだろう。中年の兵士長らしき男が、いつものように円滑に物を言えなくなっている。武器も何もない部屋に閉じ込めたはずなのに、老人たちは戦地に投げ込まれたかのような深い傷を体に残している。得体の知れない「魔」という力に、怯えているのが分かった。それに老人たちは内心鼻で笑いながら、まだ若い兵士の腕に身を任せる。 そうして、彼らは石畳の地下室を後にした。この大陸のどこかにいるはずの、――自らが最も忠誠を誓った、雪の女王の娘を想い。 暗さの点では、かの地下室と変わらない闇を持つ部屋があった。 しかし、その闇の深さの点とそこに流れる魔力は、霧散しているものの人間の神官三人では到底勝てそうにない密度を持っている。 その部屋に、一人の魔族の男が入った。――藍に近い薄暗い紫の髪、そこらの女が見れば恐らく吐息をつかずにはいられないであろう知性が伺える端整な顔立ち、目から鼻筋に着けられた大きな傷跡、あまりにも冷静すぎる無感情な赤い瞳。 そうして、部屋の奥で座り込む、その魔力を霧散させている主を見る。魔族は夜目が利く上に、男は魔力には敏感なほうなので、誰がどこにいるということぐらいはすぐに分かる。何より、その魔力を持つ、やはり魔族の男は、隠しても隠しきれないほどのものを持っているから。――しかし、今は魔力の消費に少し疲れているらしく、自らの力と気配をだらしなく分からせている。 「ご報告に上がりました」 「言え」 抑揚のない男の声が闇に響く。その声は低く、しかし男性にしては少し甘く、少し疲れたようなだるさのある声だった。 「陛下が召喚の儀式を行った際、南南東に光の柱を見たという証言がありました。ジグロード、シルヴェスタ、ヘルハンプール、ディアルゴの四国に地域を絞り、各地の魔族に至急、確認を入れております」 「また厄介な方角に落ちたものだな…」 苦々しげな言葉が漏れる。それに、報告している魔族のほうも苦い顔で頷いた。 「人間の、――しかも帝国の領地故、連絡は取り難くなっております。魔族を受け入れるところなど稀少に近い故、人型の使者を派遣した方が宜しいでしょうか?」 「それをすればむしろ怪しまれる。人間を純血の獣どもに探させるのは奴らの気に食わんだろうがな――命が掛かれば必死にやるだろう」 のんびりと、そんな物騒なことを言う。しかし、顔に傷を持つ男はそんな上司の言い草には慣れているので、吐息をついて一応の反論を試みた。 「人間の住居に魔物を放り込めばそれだけで目立ちます。いくら頭と魔力があっても、目立つことには変わりはないでしょう。それならば使者ではないとしても、人型の方が不自由はしますが、穏便に探すことが出来るかと」 「それこそ人型なら行動が制限されている。数も、頭と魔力も獣どもの倍はいるぞ。その人選は既に整っているならそれでもいいが」 「承知しております。すぐに手配致しましょう」 一礼して踵を返す。今すぐにでもその珠玉の隠密行動者達に指示をしに行くのだろうが、それでも男は途中で闇に向かって声をかけた。 「――それで、儀式の成果の方はどうでした?」 その問いは無論、確認の意味であるのは分かっている。しかし、それでも闇に潜む男は舌打ちせずにいられなかった。自分が疲労困憊しているのはどういう理由だと思っているのか。 「失敗したんならどうして光の柱とやらが見える?」 「壮大な見間違いかもしれません」 糞真面目にそんなことを言う。肩を竦めている辺りからして、冗談だとは分かっている。 「阿呆が。でなければ、あんな声が聞こえてたまるか」 「声?」 ちょっと意外に感じたらしい。いやそもそも、前異界の魂召喚の話を聞いたときには、そんな声を聞いたことなど知らないからだ。まあ、素直に当時のことを洗いざらい言う上司ではないことは知っているが。 「糞親父、―――だそうだ」 それはそれは。 「お気の毒様でした」 短く慰めの言葉を述べて、男は肩を小さく竦めて部屋から出て行った。 そして閉められた扉の隙間から完全に光がなくなると、部屋にもともといた男の周りに、甘い香りが漂ってきた。女特有の、甘すぎると言ってもいいほど濃厚な体臭を持つ女が複数、彼の近くに寄ってきたのだ。傷の男が部屋に入ってきた時には、そんなものなどなかったはずなのに。 くすくすと甲高い笑い声が聞こえる。それも女特有の、男に色っぽく甘えるような声。それと同時に現れる、男の肌にしなだれかかる白い指先。それも女特有の、――それも美しい、家事などしたことがなく、高価な布と磁器の茶器と化粧品しか触れたことがないような、華奢く柔らかく汚れのない指先。それらが彼の頬や首周りや胸元を、軽く刺激するように絡みだす。 しかしそれらの妖しい雰囲気を持つ何かを気にもせず、男は小さく吐息をついた。 召喚の際、彼の目的であるはずの女が、彼には見えなかった。否、その気配や魔力が感じられなかったのだ。どういう訳か分かりはしないが、あの世界からの逃避を願ったのは、彼女とは全く違う存在。凛とした、力強さに満ちた、覇気のあるもの。しかし、根底に流れるのは孤独と狂うような哀しみ。自分もよく知っている、――そう、いやと言うほど知っている感情。 それを持つものを呼ぶつもりなど、無論のことながら彼にはなかった。彼が呼びたいのは、唯一自分が心から愛することの出来る女。儚く、華奢く、美しく、輝くように白い、慈愛の瞳を持つ女。それとは全く別のものを呼んだ自分は、どうかしているのだろうか。否、それとも―― 「・・・・・・・馬鹿馬鹿しい」 一瞬にして最も最悪な場合を思いつき、彼はそんなことを思いついた自分に舌打ちをした。それは彼が最も恐れ、しかし最も信じられない仮定。自分の今までのことが無駄になり、自分の地位も魔力も無駄になる。そんなことは絶対に認めたくない。そういう仮定だった。 彼の精神の揺らぎに反応したのか、女たちの声と彼を愛撫する甘い指先がくすくすと笑う。それが煩わしく感じ、ほんの少し体全体に力を篭めて蝿を追い払うような仕草をする。と、たちまち女の甘い誘惑は煙になって掻き消えた。 「・・・・・・親父だと?まさかな」 そう。きっと、当てずっぽうに決まっている。きっとその若い娘であろう女は、自分を召喚した者の性別すら知らずに、ただ何かに急かされるようにそれを言ったまでなのだ。でなければ、今ごろ召喚は最後まで成功し、彼の目の前にいてもおかしくないはずなのだ。なのに、召喚された人間が意固地に感情を荒立てるから、位置が大きくずれてしまった。おかげでわざわざ人間の領地にまで探さねばならない。またも異界の魂を召喚したことが分かられては、――しかもそれが彼女ではないとしたら、ますます魔族というものの立場が危ぶまれてしまう。 「まあいい・・・・」 その小娘さえ確保出来れば――彼女のように扱えはしないが――、上手くいけばあの根の腐った人間どもを一掃する機会に恵まれるかもしれない。どうせ欲深いだけの帝国の人間たちは、彼女の思想も、彼女の目指すものも何も知らないのだ。そして、彼女のような異界の魂を召喚するだけの能力を持つ者もいない。ならば、自分がそれを行うまでだ。 「さあ早く来い、小娘。これだけ手間をかけさせられた以上、お前にはそれに見合った働きをしてもらわねばならん」 そう、少し物騒に喉の奥で笑うと、男は高級な風味を持つ酒を一口含む。その酒はちょうど、それを含んだ男の目の色と同じ、鮮血の赤だった。 エミリアは今年で八つになる、下級職人の家の一人娘だった。 下級職人と言うものは、つまるところあまり収入のよくない、粗悪な品質を扱った日用雑貨を作る職人である。それらは別の職業――つまり、畑作や牧畜――についている人々と、それぞれ交換するために作られるようなもので、言ってみれば物々交換が主流のため、お金のあまり入らない職でもあった。 けれど、エミリアはつい数ヶ月前に亡くなってしまった親の道具を使い、生活しなければならなかった。お国には税をあまり納めていないため、国の孤児院のようなところには入れない。それに、自分から孤児院に行くほど、エミリアは非力ではないと思っていた。 事実、彼女は逞しかった。まだ一桁の年齢にもかかわらず、山に入って食べれるものを採り、炊事をし、親が持っていた小さな畑の手入れをし、道具を使い僅かながら収入を得る。その幾ばくかの金で、山では採れないものを買ったり、滞納している税を納めたりする。少し食生活が貧しいのは仕方がなかったが、それでも彼女は自分一人で生きていけると思っていた。 彼女の母親は機織を職としていた。父親は知らない。亡くなっているのだろう。 機織機は一応あったし、自作の畑でその材料となる綿は少しだが取れる。足りない分は、自分の畑の隅で綿花を育てている農家が、その家の綿を使って出来上がった分と手間量で交換してくれる。幼い彼女に同情してくれているのか、それとも天性の才で彼女の機織の技術が素晴らしかったのか、エミリアの作った布はなかなかに好評だった。これで機織機や糸がいいものだったら、もっといい生活が出来るだろうねと褒めてくれた。 エミリアはそれを聞いていつも嬉しかった。いい生活はしなくていいけど、自分の好きなことを褒めてくれる人がいるのは、まだ幼いうちに一人暮らしとなった彼女にとって、何よりに慰めであり励ましだった。 幼い彼女を養子にしてやろうという声は、しかし聞こえなかった。当然だ。彼女よりもっと貧しい家族もいるし、養っても子どもに食べさせるだけの余裕もなければ幼い彼女に働かせるほど非道にもなれない。むしろ、彼女が気丈に振舞っていることもあってか、あと数年もすれば自分達より豊かな暮らしが待っているように見えてならなかった。若すぎる彼女の早期の才能の開花は、才能なんてものの可能性を捨て、生きるために必死になっている大人たちからすれば、憐れみと同時に小さな妬みの存在にもなりえた。だからこそ、彼女に布作りの依頼はしても、施しはしないという家は多かった。無論、幼い彼女にそんなことを知る余裕などない。彼女は生きることに必死で、同時にどうしようもなく誰かに甘えたくなる自分を抑えるのに必死だった。 もうすぐ夏が近付いてくる。いくら辺境とは言えど、ヘルハンプールの夏は暑い。ほぼ熱帯地域と言ってもいいため、山の近くに住んでいる彼女にも、その余波はある。 今のうちに夏に採れるベリー類と山菜の類を採りに行こうと、せかせかと山の中を動き回っている途中だった。既に廃墟となったタワーが視界に入ってくるところにまで行くと、彼女は少し焦ったのだ。 森の奥まで行くと見えるタワーが自分の目に写っていると言うことは、いくらか行き過ぎたと言うこと。方角は覚えているものの、さすがにそこまで来ると迷子になるかもしれない。魔物はいなくても、夜になると森の動物たちでも充分危険なのだ。早く引き返さねばならないと、踵を返したそのときだった。 淡い桃色の薔薇のような、きれいな色が目に入ったのだ。 それは深い茂みに覆われ、その草が夏の日差しの影響でより濃い緑になっているからこそよく映えた、微妙な色合いだった。 一瞬桃色だと思ったそれは、確かに薄く桃色がかってはいたものの、種類からすれば温かみのある金の髪だった。橙と言っていいほど赤味の強い金の髪の持ち主を、そっと覗き込んでみると、エミリアはそれだけで息を呑んだ。 少し男性的な凛々しさがある涼やかな目元、一のかたちに閉じられ引き締まった唇、彼女が知る限り綿花より白く、それでいて磁器のようななめらかな肌。そして――彼女の髪から出ている、鋭くとがった耳。 見たこともない布で作られた、少し変わった服を着た、きれいな魔族の女性だった。 気を失っているらしく、整った呼吸をしてはいるものの、苦しそうな体勢で倒れている。それを見て、エミリアは少し迷った。魔族と人間は表面上は仲よくしているらしいが、実際にエミリアの住んでいる地域で魔族など見たこともない。知り合いの人たちもそうだ。爺さんや婆さんが五月蝿いのもあって、魔族の話には触れようとしないし、魔族に対し面識もない。ただ、昔は人間たちの敵だった、ということを知っているだけだ。そんな人を――助けるべきか、そうしないべきか、エミリアはうんうんと迷った。 そして結局、助けることになった。日が落ちて、野生の猛獣などに見つかった日には、このきれいな人が無残な姿になってしまうかもしれない。それを想像しただけでも、エミリアの食欲をかなり削ぐことになるからだ。 エミリアがてきぱきと彼女を担ぎやすいように手ぬぐいで肩を輪を二つ作るように結ぶと、その魔族の女性と肩を合わせあうように、輪に彼女の腕を通して、そのまま歩いていった。もともと自分より重い山のような綿花を背負うことには慣れているエミリアなので、少しぐらいその重量がオーバーしたところでへこたれるつもりはない。 十数分して、彼女一人が住んでいる家に着き、それからエミリアは手ぬぐいを解いて、自分より身長の高い女性をベッドに寝かせた。 初めて自分の家に、もう死んだ母親以外の大人の女性を入れたせいだろうか。エミリアは少し自分が落ち着きを持っていないことを感じつつ、女性にシーツを被せ、目が覚めたら欲しがるかもしれないと思い、水を汲みに井戸に行く。 井戸の奥を覗き込み、桶を水面に差し入れる間、なんだか自分が興奮していることを改めて思い知らされる。早く目が覚めて、自分と喋ってほしいと思う。――何故だろうか、相手は得体の知れない魔族。きれいなふりをして、実はとても凶暴だったりしたら、とてもではないが彼女のような子どもでは太刀打ちできそうにない。 それでもどうしてか――分かってはいる。きっと自分は、あの奇抜な布の服を着た女性に、期待しているから。とても優しい人だとか、とても立派な人だとか、とてもいい人だとか――、あの女性への期待を捨てきれないでいる。 必死で生きてきた中で、初めての期待に心を躍らせながら、エミリアは桶を担いだ。 その女性のせいで、自分が死んでしまうことも知らずに。 |