いばら

 

 それが少し奇妙だと気付いた時には、母はこの世にいなかった。つまり、つい最近になってそのおかしな点に気付いたのだ。自分でも間抜けだと思う。

 母が作った壮大なおはなし。女の子の成長と、ネバーランドと言う異世界を舞台に繰り広げられる多くの登場人物を描いたその物語は、何故かその人物たちに名前がなかった。そう言えば、女の子にすら明確な名などなかったのだ。確かに多くの伝統的な物語には、キャラクターの固有名詞がないほうが多い。だから彼女は気にしなかったが、それは短編での話だ。彼女が知っているこの物語は、呆れるほど長く、登場人物も多い。名前を付けなければやっていけないはずだが、母は巧みにその問題を解決した。ではどうやって各登場人物を判断していったのかと言うと、彼らの肩書きや通り名を多用したのだ。

 もちろん、子どもの彼女にも分かりやすいよう、母は気を配って簡単な通り名を付けてくれた。それでも格好のこともあって難しい名前が少なくはなかったが、小学生高学年になれば全て理解できる範囲のものだ。魔王の娘、魔王の息子、エルフの女王、闘いの現人神、白騎士、科学の王、極東の竜王、三勇者の剣士、シーフ、プリースト。五勇者の剛剣士、時の魔術師、盲目の騎士…。

 彼らは名前の存在など必要なかった。彼らの行動や思考、そしてその想いは、名前の必要性など霞むほど強烈だったのだ。母が存命していた間、母こそ彼らの個性を際立たせる唯一の語り手だったからかもしれない。その母が物語に欠けたとき、彼女はそれに気付いたのだ。

 あの、独自の世界観を作りこんだ母が、名前などという架空の人物たちに命を吹き込む初歩の一つを全くしていないのは、おかしいと。

 そして残った名前はただ一つ。あの世界と、大陸全土を指す、平凡な『架空の世界』の名前。ネバーランド。そこで魔王の末娘が起こした戦いが全土に広まり、その戦争の名はネバーランド大戦と名づけられるようになった。ネバーランドと言う大陸を、神や、魔族や、天使に人間にエルフ、果ては猫やカエルまでも加わって争い合った。

 戦争の物語なのに、何故か生臭さはなかった。戦争を起こした彼らの思いは清い。否、客観的に見て誰もが賛同の声を挙げるようなものではない。けれど、彼らは必死に自らの抱える思想や理想を貫き通そうとしたのだ。その思いは、確かに清らかと言うに相応しい。生き残るのはただ欲望のためではなく、ただ自らの立場と自らが掲げる思想とに、忠実であった者達。そのためにいくら血道を挙げようとも、多くの屍を足元に囲もうとも、彼らは後悔などしなかった。否、後悔はし続けていた。けれど、後ろを向いて怯える者はほんの少数だったのだ。

 小さい頃の彼女はそんなことに気付きもしなかったが、戦争を描いているというのに犠牲にされた苦しさや悲しさを感じなかったのは、そういう点が大きいからだと思う。現代の、民間人が犠牲の対象になる戦争ではないからかもしれない。兵士同士がぶつかり合う、正々堂々とした戦い。その混沌とした舞台の上に立つ、生まれながらの英雄や、努力ゆえの将たち。

 そして母がその魅力的な登場人物達について語るときは、律儀に肩書きや通り名のままだった。名前をつければ簡単なのに、彼らの過去や彼らを支えるものを、淡々と語っていった。

 そのことを思い出し、彼女はまたあることに気が付いた。

 酷い夢。誰かが母の屍を前に茫然と泣いていた姿――それは魔王の息子の過去。ほんの数ヶ月だったが、人間の義母に匿ってもらった小さな彼は、同じ人間に母を殺される。

 そして腕を切られるのは、魔王の娘の過去。人間の子と共に遊んでいただけなのに、大人の人間たちに切られてしまった左腕。

 母を殺すのは氷の魔女。巌のような魔王を剣で刺すのは臆病な勇者。塔で僧侶の屍を足元に笑うのは現人神、神に忠誠を誓うのは白騎士。最愛の妹を失ったのは闇エルフの神官。

 頭に叩き込まれた記憶の断片を思い出せば、それは全て、あの世界に息づいてた登場人物たちの生き方を変える過去そのものではないか。それを何故映像として見たのか、その理由はわからない。けれど、ここがもし本当にネバーランドならば、彼らの世界にやってきたのだと、誰かが教えようとした証拠ではないのか。

 それが誰の仕業なのかは分からない。けれど、そうでなければあんなものを見た理由は何なのだ。考えてみれば、自分はあの世界の住人たちのことを想像したことはあっても、実際にどんな姿をしているのかということすら知らないのだ。当然だ、物語の中の登場人物になんて会えるものではない。

 けれど見た。彼らの、あまりにも凄惨で悲しい過去。彼らが単なる孤独で臆病な一人となりきれない理由。不幸と嘆く暇もなく思いは強く力に返還され、ならば幸福かと言うにはあまりにも酷い自らの一部となった出来事。

 その過去を見てしまった。小さな罪悪感と、重い嘔吐感。あれが本物なのだという、本当にあんなことを感じたのだという、どうしようもない気味の悪さとあらゆるマイナスの感情。悲しい、辛い、苦しい、怖い、恐い、痛い、憎い、――ただつらい。

「・・・・・・う」

 また、吐き気が襲う。あれは実際にあった出来事なのだ。彼らはあのような出来事に直面し、そして大抵はその心の傷を癒すことのできるものなど、当時はいなかった。そのつらい出来事に対し、大抵のものは直面した。その思いは、直視し難いほど激しく禍々しく、荒々しくうねる竜巻のような感情によって形成される。

 急に口元を抑える彼女に対し、少女は驚いたようだった。まだ具合が悪くなったのだろうと心配したらしいが、それは杞憂と言えば杞憂だ。ただ、精神的には少女の予想は正しかった。

「・・・・まだ、気分悪いの?」

 彼女の顔色も先ほどよりは悪くなっている。戦争の話をして、想像でもしたのだろうかと少女は思った。確かに人がたくさん死ぬのは嬉しいことではないが、想像して気分が悪くなるほど繊細な魔族というのは変だ。そんな、人間より繊細な性格の、魔族がいるなんて――

「お姉さん?」

 そっと腕を触れられて、彼女はよくやく我に返った。自分の腕を控えめに持つ少女の心配そうな顔を見る。その赤茶の瞳は、自分に対して何の負の感情も抱いていない。あるのはただ、純粋な善意からの心配。

「・・・・・だい、じょうぶ」

 大きく息をついて、こちらが現実なのだと頭の中に言い聞かせる。それから、こちらとは、一体何のことなのだろうと一瞬疑問に思う自分がいる。この世界が本当に母が語った世界なのかどうかは分からないが、それでも今の自分がいる位置はとても曖昧だ。夢とも現実とも、勝手に自分が作り上げた――母の語ったものをなぞっただけの世界とも言える。

 けれど、今彼女は小さな少女に触れられている。白い肌、金色のメレンゲのような金髪の、華奢な少女に触れられている。服を少し強めの力で握られている感覚、そこから更に感じる、少女の細い指が布を一枚隔てて自分の腕に当たっている。それが現実。

「・・・・・うん。大丈夫」

 もう一度深く深呼吸をすると、彼女は少し笑った。ショック療法というやつか、本当に、母が死んでから抜け殻のような気持ちだったのに、今はそれすら忘れているような感情の隆起がある。

 その笑顔を見て、少女は安心したのだろう。まだ安心しきれていない面もあったが、それでも少女も笑みを返すようにふんわりと笑う。やはり線が細いものの、その笑みは彼女が見た中でなかなかの魅力的なものだった。

「・・・・・ちょっと質問があるんだけど」

 精神的に安定しているうちに、訊きたいことを訊かねばならない。そう思った彼女は、とりあえず様々な疑問や検証の必要性を取り除き、少女の口から出てきた言葉のみに対する質問を頭の中で作り出す。

「なに?」

 少女も、彼女の精神が安定してきたのが分かったらしい。慌てず騒がず心配せず、彼女の次の言葉を待っていてくれた。

「もし、仮にわたしが魔族とするわ。なら、なんであなたは助けたの?魔族は人間が助けても構わないものなの?」

 ずばり、言いにくいことを訊かれてしまったらしい。少女は先ほどとは正反対に、びくりと全身を固まらせた。

「え・・・・・」

 それからゆっくりと硬直を解くと、少女の顔はみるみる赤くなっていった。自分でもどう言えばいいのか、どう表現すべきなのか分からないのだ。

 確かに戦後、魔族と人間の生じる種族差別は大きな罰則となった。法律の上では、魔族と人間は平等であり、この二つの種族は類似点が多いというのに差別することは知的生物として最低のことだと定められた。けれど、それまでの長い間人魔は互いを憎しみあった。今でもその名残は残っており、人間は人間の集落、魔族は魔族の集落、という構図が多い。つまり、仲違いはしないものの共存はしないという状態にあるのだ。人魔が共に仲良く暮らしているところなど珍しいぐらいのもので、その思想は勿論少女にも根付いている。

 けれど、今の少女の行動はその思想から外れている。少女自信、漠然とした善意と期待とほんの少しの罪悪感から彼女を助けたが、予想した反応とは全く違うので面食らっていたのだ。

 予想できる範囲内での反応なら、大抵の理由らしい理由は幼いなりに考えていた。けれど、予想外の反応をされた上での純粋な疑問は、どんな理屈も通用するように感じられない。その上、少女はあまり嘘が得意ではないのだ。嘘をつく必要性のない生活をしているので、上手く人を誤魔化す手段も知らないし、知る必要もない。

 だから少女には、いくら慌てふためこうがいくら時間を稼ごうが、頭の中にある理由らしい理由は一つしかない。

「・・・・・・えと」

「なに?」

 今度は彼女が少女の顔を覗き込むことになる。そしてその瞳は、少女同様純粋そのものだ。

「・・・・きれい、だから」

「は?」

「お姉さん、きれいだから、心もきれいな魔族なのかなって、期待したの」

 赤面している上に俯きながらそんなことを言われてしまい、その言葉を聞いた彼女は一瞬唖然とした。

 きれい?自分が?

 そんなことを言われたのは生まれて初めてだ。彼女自身がそんな言葉を聞く機会もなかったし、そんなことを言う人間と触れ合おうともしなかったのもある。

 彼女の全ては、母にあったからだ。

 母があらゆる褒め言葉の真意であったと認識していた。だから自分が褒められるよりは母を褒めてもらいたくて、何も知らない人が自分を褒めると口癖のように母さんの方がもっとすごいと言っていた。母を知らない人が自分を褒めても意味はないと思っていたし、――自分はどうでもいいと思っていたのだ。自分なんかはどうでもよくて、ただ大切なのは母だけだ。

 しかしここには、母がいない――そう、母の存在を知るものなど、どこにもいない。たった一人の大切な、自分の人生はこの人のためにあるのだとすら思っていた母を、知っている者などどこにもいないのだ。

 だから、そんな少女の言葉に対して、彼女はろくな反応が出来なかった。本当なら、誉め言葉に対しそれ相応の反応をすべきだろうが、生憎、そこまで彼女は考えが回っていなかった。誉められても、母に言えないし、誉めた人は母を知る術がないと言う実感のみが、彼女の中にあった。

「・・・・・・そう」

 ぽつりと呟く。そんな言葉しか、少女には返せなかった。まずそれよりも先に言うべき言葉は、ここには意味がないのだから。

 そして、急に脱力したような彼女をどう思ったのか。少女は少し怪訝な顔をすると、他の話題に移ろうと口を開く。

「お姉さん、どうしてあんなところに倒れてたの?」

「わたしもそれは知りたいわ」

 浅く頷き、彼女は思った。もしかしてここが本当に母が語ったネバーランドならば、それを知っているからこそ強引に呼ばれたのかもしれない。否、むしろここは自分の精神世界というやつかもしれない。勝手に自分が作り上げた世界の中に、自分自身が入り込んだ、言わば幻想。

 それはそれで面白いかもしれない、と人事のようにほそく笑んで、彼女はあることに気がついた。

「そういえば、あなた…」

「エミリアよ」

「・・・・エミリア、ご両親は?なんでわたしの面倒見るのに一人で見てるの?」

 まあ、ここが子ども時代から自立を重んじる国なら仕方ないが、いくらなんでもまだ十歳になっていない子どもが一人で大人の体格の女性の面倒を見るのは、普通に考えれば奇妙な状況である。

 その辺りの常識はこの世界でも共通なのか、少女はそう言われてばつが悪そうな顔をする。あまり、言ってほしくないようなことを言ったのかもしれないと思い、彼女は軽く手を上げた。

「別に、複雑な家庭の事情があるとか言うんなら、無理して言わなくてもいいけど…」

「複雑じゃ、ないの。ただ、もう今は、どっちもいないの」

 どっちもいない。その言葉に、普通の人なら軽い衝撃を受けたのかもしれない。そうして、少女の表情を見て、おざなりの同情を示すかもしれない。けれど、彼女はそうではなかった。

「ああそう。なら同じね」

 軽く微笑んで、ちょっとした偶然のように、彼女はそんなことを言った。それに、少女の方が驚いた。

「・・・・・お姉さんも?」

「父親の方はわたしが生まれる以前から行方不明。母親はつい最近・・・・・・。まあ、父親のほうは、いようがいまいがどうでもよかったけど」

 それは彼女にとって、心からの事実だった。なんでも出来た母に比べれば、彼女の知識内で知る「父親」というものは、ただ金を稼いでくるだけでふんぞり返っている哀れな男でしかない。たまに家族サービスというやつで家族に色々なところに行かせて楽しませるのも、何だか押し付けがましくていけ好かない。自分が家族の中でピラミッドの頂点なんだと言うかのような態度に、母子家庭で育ち、その上ろくな男というものと触れ合ったことのない彼女はただ苛立ちだけを覚えていた。心の底から、彼女が知っている男性と再婚どころか付き合うことすら考えていなかった母に感謝する。

「そうなの・・・・。わたしも、お父さんはいなかった。お母さんは、ちょっと前に死んじゃったけど・・・・・」

「同じね」

 また、彼女はその言葉を口にした。共通の環境を持った人もいなかったから、彼女は少女に対し、ある程度は親近感のようなものを持ってきていたが、目の前の少女はそう思うかどうかは分からない。

 しかし、少女のほうも、彼女と同じような気分でいたらしい。彼女の短い言葉に、少し驚いた様子だったが、それでもほんの少し微笑んだ。

「うん。おんなじね」

 実際のところ、エミリアは両親が亡くなっていることについて、あまり同情をされてほしくはなかった。なんだかしんみりした空気になるし、相手がそれを言うと戸惑うのが分かるからだ。この少女がもう少し成長すれば、恐らく自分に向けられる同情が薄っぺらいものであることを知り、更なる気まずさと嫌悪感を感じるだろうが、幸いなことに今はそれが分かるほど成長していない。

 ただ、今少し嬉しいことがあるとするなら、この目の前の、ちょっと変わっている、けれど悪い人ではないこの女性が、自分と同じ境遇でいることに対するものだ。

 エミリアが笑ったのを見て、少し表情を緩める彼女に、ふと少女は気がついた。

「・・・・お姉さんの名前は?それも知らないの?」

「いや、それはさすがに知ってるけど・・・・・」

 むしろ、母が付けてくれた名前を忘れることはありえないと言ってもいい。もし、記憶喪失とやらで自分が自分の名前をまず忘れてしまったら、その時点で自殺するほど落ち込む自分を自動的に想像した彼女である。しかしそれは大げさなことではないと、彼女は心の底から思った。

「わたしの名前はいばら。斉藤荊」

 自分の名前を言うと、少女は一瞬きょとんとした。それに、彼女は心の中で苦笑する。

 母がどう思って名付けたのか知らないが、その名前はかなり特殊なものであることは彼女には分かっていた。何と言っても荊である。草冠に処刑の刑。十字架に磔の刑となったキリストが被っていた冠。いばら姫で蔓のように城を包んだ植物。そのイメージが与えるものは、刺々しく、同時に痛みを伴う華やかさを持つ。

 母を恨んだことはないが、その名前のせいで苛められそうになったことはある。母が自分の名前を囁けば、それはとても美しいイメージを持っているように聞こえたが、学校の教師が言うとその荊から連想され与えられる感情が実直に響く。

 だから、自分の名前を呼ぶのも、出来れば母だけにしてほしいと常々思っていたものだ。

「それって、バラの?」

 少女も、彼女の名前を初めて聞いた人々と同じく目を丸める。そしてその後の反応が予想済みの彼女は、嫌な顔をすることなく、ただ少し苦笑するように頷いた。

「ええ、まあ・・・・・そうなるわね」

 そう軽く肯定する彼女に、ぱっと少女は表情を明るくさせた。

「お姉さんの髪の色のことを言ったのかな。すごく、きれいな名前」

 きれい。

 また出てきたその言葉に、そして荊という言葉から連想されるはずのイメージと全く関連のないはずの感想に、彼女は正直に言って驚いた。

「・・・・・・きれい?」

「うんっ。お姉さんの髪、ちょっとピンクっぽい金髪でしょ?深みがあってきれいなの。すごく高級な織物でも近いぐらいしか出せない色よ、きっと。だから、そういうきれいな色をイメージして、お姉さんのお母さん、名前を付けたのね」

「・・・・・・・・」

 だと嬉しい。けれど、髪の色はこの世界での話だし、その上、それを母が分かるはずがない。自分の娘が、母子が共に暮らした現実に生きていないで、こんな、夢とも現実ともつかない世界に迷い込んでいるなんて――。

「・・・・・あの、お姉さん?」

 と、そこでまた少女が悲しそうな、なんともいえない複雑そうな顔で彼女を覗き見る。

「なに?」

「あんまり、褒められるの、好きじゃない?」

「ええ。慣れてないし、好きじゃない」

 何より、褒められるべきは母であるから。自分よりも苦労して、けれど全くそんな表情も見せないで、自分を愛してくれた母。母こそ、その努力も苦労も報われるべきひと。

「そう・・・・?わたしも、あんまり褒められ慣れてはいないけど、褒められたら、やる気、でないかな・・・・」

「やる気は出るけど…褒められて嬉しい人とそうでない人がはっきり別れてたから、わたしは」

「そうなんだ・・・・」

 そう、と頷く。そう。ただ単純に褒められて嬉しい存在は、もうこの世にはいない。この世界で会うことなど、確実にない。そんな、遠い遠いところにいる人。もう二度と、逢うことがない人。

「その人って、お母さん?…その、褒められて嬉しい人って」

「ええ。母さんだけ。わたしにとっての褒められて嬉しい人は」

 別に友達もいない、ただ楽しいことがない学校に出て行くのは、母を困らせないため。帰って来たときの母の笑顔を見るため。裏表なく、母と一緒に家事をするため。今日もお疲れ様と、お互いに言い合うため。

 母が喜ぶ姿が、母が屈託なく微笑む姿が、彼女にとっての生きる理由。それ以外のものなど必要ない。ただ母が幸せでいればいい。幸せだと言ってくれればいい。

「・・・・・・そう、なんだ」

 彼女の短い言葉に、何か普通とは違うものを感じたらしい。少女は少し戸惑うように目を泳がせると、話を区切るように、小さく頷いた。

「あの、それで、お姉さんは、これからどうするの?」

「そこが問題なのよねぇ…」

 大きくため息を吐く彼女に、少女が少し前にふんぞり返った態度――くどいようだがただ彼女は脱力していただけだ――で言ったことを思い出す。

「勇者さまに会うんじゃないの?」

 確かにそんなことを十数分前に言ったな、と思い出しながら、彼女は軽く考え込む。

「いや…やっぱりいいわ。階級分けされてて会えそうにないってことは、あんまり期待できなさそう。それに、急いで戻ってもあそこには何もないから」

 何のことを言っているのか分からない少女に軽く微笑を浮かべながら、彼女はそう呟いた。

 そう、もしここが本当に母が作った『ネバーランド』であっても、――この世界が実在するとしても、幻だとしても、――母に会えないことは、あの世界でもこの世界でも変わりはない。

 だから、急いであの世界に帰ったところで、何もあるわけでもない。ただ大切な人を失った悲しみだけが、その痛みと苦しみと虚無を汲み取ることのない人々だけが、自分を包んでいるだけだ。

「あそこって?」

「わたしがもともといたところ。多分、ここからは遠いわね」

「ネウガードのこと?」

「だから知らないわよそんなとこ」

 むう、と唸る少女。その可愛らしさに彼女は自分の頬の筋肉が微妙に緩んでいくのを感じた。あの世界に比べれば、むしろこの世界は母の面影がないものが多い分、悲しまずに暮らせるかもしれないという考えが浮かんでくる。

 しか、母を思い出さないのは辛い。いつか忘れてしまうのはもっと辛い。否、忘れないだろう。けれど、その痛みも悲しみも忘れて、ただ母が死んだという事実に慣れてしまうのは、母の死への冒涜に感じる。

「じゃあ、お姉さん」

 何事か考え事をしていたらしい少女が、ぱっと顔を彼女の方に上げる。

 うん?と反射的に首を傾げると、少女の瞳は何か、期待を篭めたものに満ち溢れているのが分かる。――何となく、この少女が言うことを、予測できた。

「これからどうするのか決めるまで、その、一緒に暮らさない、かな…?」

 ああ、やっぱり。

 自分の予想が見事に当たって微笑む彼女の笑みをどう思ったのか、更なる期待を篭めた視線が彼女の顔に刺さっている。

 それをなるべく失望させないようにして――彼女は、深く考える姿勢を取った。

「そうねえ・・・・・。まあ、多分他に当てなんてないだろうし、いいとは思うけど」

「うんっ」

「わたしが魔族かもしれないけどいいの?あなたは。他の知り合いとかに嫌われたりしない自信はある?」

 それを考慮していなかったらしい。まあ幼いから当然かと納得出来るが、少女の方は真剣だし、かなり考えた末での誘いであろう。実際、彼女が気を失っているときに看病していた少女は、彼女が目を覚ましたらその後はどうしようかとうんうんと唸っていた。

「・・・・・・待って。考えてから、また後で言うから」

「分かった」

 そう短く答えておいて、彼女は頷く。その場にしゃがみこんで唸り続ける少女を見ながら、彼女は心の中で既に自分が決めてしまっているらしいと知る。

 ――結局、自分はこの少女が母ほどではないけれど気に入ったらしい、と。

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