子羊のタオル

 

 

 日差しが厳しいと思いながら、彼は軽く外套を被りなおした。

 彼は――と言うか魔族一般から言って、きつい日差しや重度の湿気や高温はそれを扱う魔族以外には不快なものである。人間はもっとデリケートで寒さにも弱いが、何世代かに定住するとそうでもなくなる。卑小であるが故に知恵を使い、環境に自分達だけが快適な生活を持ち込んでいくのだ。人間の環境に対する順応性の高さは、魔族が呆れるほどのものである。だから、様々な場所に寄生していく人間たちは、自分達こそ大陸の王となるべきだなどという勘違いをしたのだろう。そうは言っても、やはり不毛地帯に住める人間などいない。それを見て見ぬふりをして大口を叩く人間など、滑稽以外のなにものでもない。

 彼は一口、水を口に含んだ。駱駝の皮だかで出来た水筒の中の水は、灼熱のせいで生温くなっている。砂漠地帯よりは幾分かいいのは分かっているが、それにしたってなんで自分がこんなところにいなくてはならないのか――。

「アシュレイ。水よこせ」

 もう一人、長身の魔族が隣にいた彼に手を差し出す。その浅黒い、獣人のように尖った爪を持つ手に例の水筒を渡してやると、その男性はコルクを取って水を飲みだした。

「・・・・っく。あー、なんたってこんなところに派遣なんだかなぁ」

 男性の気持ちも分からないでもない。むしろ、同じである。アシュレイと呼ばれた魔族の青年は水筒をまた受け取り、ベルトに繋ぐと小さくため息をついた。

「破格だぞ。目当てのものが見つかろうが見つかるまいが、三年は遊んで暮らせる」

「三年経つまでにこんなとこに一年でもいりゃあ、当然って思える値段になるだろうよ」

 そうかもしれない、と彼はため息をつく。それからまた、埃っぽい周囲を見回した。

 相変わらず彼の視界の中に映るのは、まるで一体となっているような人間の頭部。ある者は客の呼びかけをすべく銅鑼のような大声を出し、ある者たちは肩が当たった当たっていないとの口論の真っ最中。それを見物しているものもいれば、見ないふりをしていない者もいる。そしてある者は人待ち顔で行き交う人間たちを何となく見ている。

 人間の様子を眺めていても、別に楽しいわけではない。それが仕事であるわけでもないが、それに近いのがあまりいい気持ちではない。

 またため息をつくと、彼は目を瞑った。

 この蒸した人間の街に顔を出すのは今月に入って何度目になるのかすら、もう覚えていない。きっとまだ二十か三十回目だろうが、心持ちで言えば既に三桁の大判に達している。それほど、この仕事は単調で、地味で、そのくせ達成感の得られない仕事だった。

 彼はネウガードで生まれ、ネウガードで育ち、またネウガードで成長していった生粋の魔族だった。隣の馴れ馴れしい大男とてそうだろう。

 『特別な』仕事を魔王城で命ぜられ、そしてこの熱帯地域に降り立つ時、恐らくランダムで選ばれた相方である。お互い男相手に変態的な性向を持つ趣味ではないのもあって、会話は盛んではない。しかし、それでいいと思っているので気まずかったりぎこちない空気になったりというものはない。

「んで――魔力なんざこれっぽっちも感じねえのはどういうことだぁ?」

「知らん」

 暑さのせいで彼の口調も乱暴になってきている。しかし、その相方は元々乱暴な口調なので気にする様子はない。彼も周囲の様子を伺いながらも、このようなくだらない命令を出してきた君主と宰相に悪態をついた。

 彼らをこの熱帯の地にまで送りつけ、そしてただ人間たちを見るだけなどという実質的にとても地味な仕事を命じてきた彼らの君主直々の命はこうだった。

「――魔力を有する人間の娘を傷一つなく捕らえよ、ねえ」

 しかも、ただ魔力があるだけではない。自分達魔族が目を見張るほど、むしろ、自分達よりも圧倒的に魔力があると推測される者。

 そんな人間に出会ったことなど一度たりともない彼らとしては、そんな指令など無意味に思えた。何がどうなってそんなことを急に言い出したのかは不明だが、おそらく大した理由はあるまい。そう楽天的に考えながらも、ただ時間だけが過ぎるのを待っていた。

「ったく。地元に情報屋だのなんだのやってるヤツはいねえのか?」

「お前が金を払ってその情報屋とやらに言えばいい。どうせその金も上が持ってくれる」

 そう言ってやったアシュレイに、大男は鼻で笑った。

「冗談。ネウガードにいねえ魔族なんざ魔族の端くれよ。どうせここの奴らなんざ金に媚びてヘイコラしてるだけだろ」

 聞いても無駄だと思っていた返事に、彼は何の表情も見せず投げやりに頷く。彼の予想通り、この大男の反応はネウガード出身の魔族として実に正しい反応だった。

 「魔界」にいない魔族は魔族にあらず。過去は魔王の眷属であったヴァンパイア族も現在は既にいないも同然。人間の血が入った半魔などろくな考えを持っていない。故に、純粋な魔族で構成された魔界を統べる魔王がいれば、人間の下に組み伏すことなどせずともよい。他のろくでもない人間の王がいる領地に住み、そこで暮らす魔族など誇りすらない。ただの貧しいケモノである。そのような考えが、ここ数年ほど前からネウガードに住む魔族の間で囁かれていた。それは単に、圧倒的な支配者である「魔王」の存在がどれほど魔族にとって大切であるかを思い知らされた結果の反動かもしれない。

 事実、大魔王ジャネスの血を引く二人の魔王候補者は大戦終了後に出奔した。大陸の統一に際し、特に目立ったその魔族の二人が失踪したのだ。ネウガードの住人だけではない、それこそ彼らを認めた人間たちも混乱に陥った。女王は人魔平等を掲げ、その通りになりつつあったというのに、その女王すらいない上に女王の両腕すらいなくなってしまったのだ。その下で働いていた数多くの幹部たちは、これ幸いとばかりに権力争いをする。生憎、その権力争いに勝利した者たちは、女王と直接話しをしたかどうかも分からないような――欲にまみれた人間たちだった。女王の意思を受け継ぐ者など、一人もいなかった。

 もちろん、女王の意思を知り、それを民たちに広げようとしていた者たちもいる。女王が降臨したルネージュの将がそうであったし、極東の飛竜と呼ばれた君主もそうだった。エルフの女王も、天魔の剣を持っていた勇者も、彼女の意思を知り、自らの欲のためにしか生きていない者達を退けようとした。しかし、時代の波は押し寄せる。

 戦のみに歳月を重ね、ただひたすら前に進めばよかった時代ではない。金だけで成り上がってきたろくでもない人間達に揉まれ、上っ面だけはにこやかに、しかし笑顔の裏では戦の血よりも汚らしい血を跳ね除けながら生きねばならない。その上で、彼女の意思を貫き通さねばならない――。そんなことは、戦の時代に生きてきた彼らにとって、苦痛で仕方なかった。だから、彼らは彼らの領地を最低限守り貫き、権力争いから離脱していった。

 そしてまるでかの女王から直々に皇帝の冠を戴いたかのように、権力争いに勝利した人間達は好き勝手な政治をし出した。魔族と人間が平等などとはとんでもない。人間こそが偉大なる生き物であると主張し、徐々に世界を人間だけが住みやすい世界にしていった。そのときには、本当に大陸を統一した女王の意思は形骸化されていた。確かにそれは人間だけにとっては、とてもいい政治だったのかもしれない。権力争いに勝利したのは、ただ私利私欲のためだけではなく、本当にこの大陸の人間だけのことを考えての政治だったのかもしれない。けれど、そこにあの儚い女性の意思はあるのか―――。

 そして人間が優遇されたその政治で、逆に最も冷遇されるのは魔族だった。今までの仕返しだとばかりに、魔族の地位は失われ、生き物の尊厳すら失われようとしていた。

 そんなときだ。魔王の血を引く次期魔王として相応しい人物が、ネウガードに帰ってきたのは。

 魔族全体が歓喜の涙を流したのは言うまでもない。そして、自らの領地を死守することに力を尽くした人々が薄く笑ったのは言うまでもない。かの女王の片腕が、やっと人々の前に姿を現したのだ。

 早速魔王の座についた新しい魔王は、人間主体の政治をしてきた人間達に歯向かった。歯向かった、などとはまだ可愛いほうかもしれない。ともかく正当な女王の片腕であり、現在の魔王である魔族は、たちまち魔族の地位を向上させていった。その手腕は素晴らしく、今まで他種族の反抗にかけては鉄壁であったはずの人間達は狼狽した。

 今まで何度も隷属の身であった魔族たちは抵抗した。しかし、結局意地汚い人間達に押さえつけられるだけに終わったのだ。なのに、魔王一人の存在が、人間達に動揺を与え、そして魔族の地位すら改善させるものとなる。

 ネウガード、即ち魔族の王として、二度、その魔族は迎え入れられた。一度目は形式として、もう一度目は心の底から魔王と言う存在が必要であると魔族の民たちに信じさせて。

 言ってみれば、魔王にどれほど近いかが、どれほど自分達は魔王の影響を受けているかが、ここ最近の魔族の間では重要視されていた。そんなものは大魔王統治時では希薄であったが、今は違う。ネウガードに乗り込んできた人間達を追い払い、純粋に魔族の国として再びネウガードを「魔界」にしたのは紛れもなく魔王なのだ。ならば、魔王に直接統治されていない魔族など、人間の間でまだ奴隷に近い生活を送っている魔族など、魔族であって魔族に在らず。

 そのような思いが強くネウガード出身の魔族に育まれ、ネウガードの魔族は特に選民意識に似たようなものを持っている。しかし、魔族全体の地位が上がれば、そのような地方における選民意識はすぐになくなるだろう。

「…店を畳む奴が多くなるな。戻るか」

「へいへい」

 空を見れば、いつの間にかトルコブルーは淡く、透明感のある橙色が大半を占める。建物と空の境界には、夜を示す紺の帯が見え始めていた。こうなると、人間達は散り散りに散っていく。魔力のある人間の娘など、夜は特にいなくなるので、探しようもないのだ。

 乾いた石灰の煉瓦の屋根から、音もなく二人は地面に飛び降りる。市場が一望でき、その上市場側からは見えないそこは見回る分にはいいが、直射日光が常に当たってよろしくない。

 埃だらけになりながら、やっと今日の仕事から開放されると背を伸ばす大男の隣で、彼は小さく吐息をついた。

 本当に、こんな仕事を自分達に押し付ける上司が、よく分からなかった。

 

「――以上が報告です。何かご質問はおありですか?」

 眉一つ動かさずに報告書を読み上げた部下に、男は小さく失望的な吐息をつく。

「無能どもが増えたな」

 実直な意見である。そして、その無能な駒を選んだ張本人に厳しい視線を向ける男に、その部下はため息一つで返事をする。

「お言葉ですが、彼らはまだ優秀であると区分される能力の持ち主です。魔族を遥かに凌駕する魔力を持った人間の娘など、昨今では特に見かけません」

「愚妹の母親もそうだった気がするがな。優秀な血族でなければ人間は魔力を保有しないと?」

「人間の魔力に関しては突発的にはいきません。魔力のある血族同士でなければ強い魔力を保つことはほぼ不可能です。…陛下もご存知のはずですが」

「・・・・・ならばどこぞの小娘が見つかる可能性は高いはずだが?」

 そうは言われても、見つかっていないものは見つかっていないのだ。そうなると、事実自分の腹心の部下たちは役不足であると認めるしかないが、それでも男性は上司を諌めるしかなかった。

「お待ちください。必ずや、かの少女を見つけて参ります」

「それももうそろそろ聞き飽きた。人間側も不穏な動きを見せている以上、次の報告で変化がないなら全員馘首しろ」

「・・・・・・畏まりました」

 とは言っても、だ。彼らも観光気分で各国を滞在しているわけではない。

 何せ、魔王直々の命令なのだ。手を抜こうものなら馘首どころではなくなってしまう。それどころか、そのまま「首」を「切られて」しまうかもしれない。つまり、命がけの探索となっているのだが、如何せん平和ぼけした連中が多いためかもしれない。こちらがいくら急ぐように言っても、なかなかいい報告は聞かない。人間に理不尽な差別を受けていたこともあり、自分達を凌ぐ魔力を持つ人間、という点でも、いい気持ちはしないだろう。実際のところ、一般の魔族を凌ぐ魔力を持つ人間などそこらじゅうにいるものではないのだが。

 漆黒の部屋から出て、大きくため息をついた男性に、華やかで明るい声がかかった。

「あら、ザラックさま」

 その方向に視線をやると、見事な紅の髪があった。波打つようなその髪に、尖った両耳に光る白銀の大きな耳飾りがよく映える。黒いチョーカーに同じく黒と淡い赤を基調としたワンピースを着た、魔王城という建物にまるで似つかわしくない華やかな色彩のその女性は、しかし違和感を感じさせないほど堂々とした態度で男性に微笑んだ。

「陛下に謁見していらしたのですか?」

「ああ。…生憎、君たちの仕事はもう少し先になりそうだ。すまないね」

 いいえ、と魔族の女性は笑う。毒々しさはないものの、この若い女性魔族の微笑は豪華な薔薇に似ている。雰囲気も、どことなく優雅でありながら確かな知性を感じさせる。

「ザラックさまが謝られることはございません。わたくし共は本城にお仕えするだけでも夢のようなことですもの。お言いつけは楽しみですけど、目上の方を急かすようなことはしたくありませんもの、いくらでもお待ちしますわ」

 その返事に男性は苦笑しながらも、それはよかったと頷く。何せ、彼女を始めとする幾人かには人間の世話をしてもらわねばならないのだ。その人間に対しよからぬことを考えるような者は吐くほどいるだろう。となると、この女性の期待も派手に砕け散ることになるだろう。しかし、人並みに武将として働くことも世話係になることも可能な女性というのは、人間でも魔族でもなかなかいない。

 それを思うと思わずため息が漏れる男性に、紅色の髪の女性は大きく目を見開いた。

「ザラックさま?」

「・・・・・いや。なに、陛下が少々ご立腹でね。一つの仕事も出来ないなら片っ端から馘首しろと、かなり手が付けられない状態になっていらっしゃる・・・・・」

「まあ」

 この女性も、魔王の性格なら、なんとなくは知っている。しかし、やはり魔族の祖でありながら大王であった前魔王直系の現魔王の前に、易々と顔を見せれるほど鈍いわけではない。伝え聞いた話や武勇伝、そしてこの男性の話で予想できる程度だ。

 明るかった表情にほんの少し蔭りを見せて、女性は声をひそめた。

「・・・・・陛下をそこまで怒らせるようなお仕事なのでしょうか。それとも・・・・・」

 魔王本人が短気なだけなのか。その返答は、何となく男性も言い難いものがあった。

「両方、とだけ言っておこうか。陛下のお気持ちも分かるし、彼らの気持ちも分からなくはない。――少々、複雑な問題でね」

「そうでしたか…。引き止めてしまって、申し訳ありません。では、失礼致します」

 男性の苦い表情から、自分が出過ぎたことを聞いたと思ったのだろう。正解ではないが、そのくらいの慎ましさを持っていたほうがありがたい。

 そう思いながら、男性は女性の後姿をちらと見、それから件のことについて、部下たちに脅しをかけるべく自らも自分の執務室に戻っていった。

 

 

 おとついのことである。

 それなりに客に対して無干渉な宿屋でのんびりとしていると、魔王城専用の使い魔が早々とやって来た。調書の受け取りの確認の手紙かと思って受け取ったら、その使い魔はけたけたと笑うのだ。

 その笑い声と態度が妙に気に障って、使い魔を少々乱暴に追い払ったのも束の間、その手紙の中身を見て愕然とした。

 次の月でも今月と同じ結果ならば、馘首するという内容だった。

 最初は冗談だと思ったが、冗談を言うほど爽やかな上司ではない。理由を問い質したくなったが、文面からするに魔王が言い出したことなのだろう。上司は渋々なのかは知らないが、とりあえずその方針に従っただけである。

 しかし、最初に聞いていたこととは違うではないか、と。かなり、彼らは二人っきりの部屋で文句を言い、馘首の言葉に嘆いた。しかし、直接聞くものなどいないし、これがもし本当に魔王が言い出したことならば、自分達の馘首は確実である。

 焦った彼らは、命令とは微妙に異なるものの、「魔力を持った人間」を探し出すことにした。魔力さえ持っていれば何でもいいのだ。人間の命より、自分達の首のほうが大切である。

 そういう訳で、早速彼らは昨日から行動を開始した。

 市場全体を見回して魔力を感知するのではなく、魔力と関わりのある店を探し出し、その中で一番まともな魔力を持つ者を探し出す。

 とりあえずヘルハンプール首都内で有名なものから無名なものなで、占いを生業とする人間のいるところに行って、片っ端から魔力の有無を調べた。結果は惨敗。魔力の欠片を感じればいいもので、大抵は詐欺師だった。

 理屈を考えてみれば成る程、本人に魔力がなくとも、それらしく客が引っかかれば問題ない。それと、彼らはそれなりに金のかかったらしい――魔力の有無はともかく――マジックアイテムを持っていた。

 となると、今度はマジックアイテムの店を尋ねて回るしかない。マジックアイテムの中に、「本物の」マジックアイテムがあるなら、その製作者は魔法に精通していると考えてもいいだろう。昔は貿易が盛んだったらしいヘルハンプールではあるが、魔王が帰ってくる前に魔族が反乱を起こして以降は、国自体が貧乏である上に治安も優れていない。貿易は細々と、基本的には自給自足で賄うしかない状態である。

 大戦時から、マジックアイテムの店はそれなりに多かったが、ここ最近では別の意味で繁盛しているようだった。

 大戦前から大戦時は、主に農民たちが自分たちの村の天気を変えるため。修行中の僧侶が、魔物に襲われないように自分の魔力を補助するため。店によれば何百人という生き物を殺せる呪文の書すら置いてあったりするところもあったというのだから、なかなか侮れない。

 それに比べて最近のものは、ほとんど「おまじない」と言うか、気休めのような下らない目的を主流にしたものが多い。具体的に言えば、魔力に心惹かれる少女や女性が、神秘の力を借りて自分の願い事を成就したい、魔力で片想いの相手を振り向かせたい、というようなことを目的としたアイテムが目に付いた。

 しかし、現実にマジックアイテムと名乗る大抵のものはまじないや占いの道具と同じ、魔族からすればほとんど魔力が通っていないも同然の玩具である。昔は権力のあったコリーア教の尼たちが丁寧に編んだとか、バードマンの処女が心を篭めて縫ったとか、そういう如何にも「効力がありそう」な冠をつけて売っている、ただの質素ながらくたとも言っていい。

 今はコリーア教の評価は地に落ちたものの、清らかな乙女が心を篭めて作ったというものはまだ売れるらしい。薄い紙の値札にそんな文句をちらちらと見かけながら、アシュレイ達は市場を歩いていた。

 相変わらず日差しはきつい。その上、華やかな格好をした女性が多いため、香水の匂いが鼻にくる上に、見た目にも暑苦しい。

 占い師を尋ね回ったときも似たような状況だったが、見るものが多くのマジックアイテムとなると更に気遣いが増す。同時に、疲労度も増す。

 彼の向かい側にいる長身の男が苛立ったように舌打ちする音が聞こえたが、彼は知らんふりをしてマジックアイテムに目をやった。

 どれもこれも同じに見える。否、同じなのだ。価値は全て二束三文も同然。けれど、その古そうな布地や、怪しい香の匂いが染み付いた木目や、少し濁った大きな硝子玉は、どことなく魔法に関わりのあるものではないかと思わせる。思わせるだけで、実際のところは全くその様子はない。

 売り子も魔法に精通したような老婆であったり、知的で美しい女性であったりする。雰囲気だけで誤魔化せる人間に、彼は苛立った。そんな生き物に、十数年、魔族は頭を垂れるように強いられてきたのだ。

 たった十数年なんでもないと人間は言うかもしれない。こちらは千年近く、魔王に脅かされてきたのだと。しかし、それが何だと、彼は思う。

 魔族は確かに人間を下に見た。魔族こそ人間を支配するものであると考えてきた。魔王に歯向かう人間は退けて当然であり、勇者と名乗る人間を嫌悪してきた。

 しかし、魔族は魔族の社会を作るべしと、人間を追い出したのではないか?自然を滅ぼせないと生きていけない人間を管理するために、魔族がいるのではないか?

 十数年前、ほんの数年前に魔王が再び世に現れるまでのその時、人間は何を魔族に強いっていた?

 更なる自然の破壊を、更なる自らの享楽を、更なる人間の繁栄を。人間は腐り果てた自らの欲望のためだけに、魔族を奴隷扱いにしてきたではないか。自分達より力があり、自分達より魔力があり、自分達より体力があるからと言って、法と言う鎖で縛り、自分達を畜生のように扱ってきたではないか。

 それが今まで人間のされてきたことなのか?否、魔族は人間をこき使うために人間を支配しようとするのではない。魔族は自分達が最も素晴らしいと思い上がっている人間を貶めるためにいるのだ。

 なのに、自分達が上であると。当然のように働かない頭と口で主張し、その子どもの理屈といい勝負をしていた言葉を、大陸全土に広がらせた。

 これが憎まずにどうしていられようか。このような主張をする生き物を、どうして許すことが出来ようか。そのような主張をする生き物と、どうして共存できようか。

 腹がむかついてくるのが分かる。あちらこちらに罵声を浴びせ、何もかも壊してやりたくなる。人間も、店も、この街さえも。

 けれど、それは出来ない。そりゃあそれはとても気持ちいいかもしれないが、それをやったあとの利益は少し気持ちが落ち着くぐらいなもので、魔族が無実の人間と街を破壊したという理由で、馘首どころではなくなってしまう。それどころか、本当に自分の首がくっついているかも分からない。それはありがたくない。そう。とてもありがたくない。

 とにかく頭を冷やそうと、彼は周囲を見回して適当な店で『聖水』なるものを買った。華奢な瓶にはほんの少しの量の『聖水』しかなかったが、その正体に彼は気付いていたからどうでもよかった。

 勘定を払い、老婆が見ているその場で瓶の蓋を開け、外套を取って『聖水』とやらを頭の上に振りかけ、それで顔と頭を冷やす。

「ちょっとあんた!なんて罰当たりなことしてんだい!」

 驚いているらしいが、どう見ても深海魚のように目が飛び出しているだけのようにしか見えない。それもそれで迫力はあるが、彼は冷たい一瞥をくれてやる。

「本当に聖水か?なんともないぞ」

「当然さね!ナナの森の雪解けの水を更に魔法で清めた御水だってのに…」

 よく言う。魔族が頭から被ってなんともない『聖水』など、贋物以外の何だというのだ。

「黴臭い」

 もう水はないが、瓶の中を嗅ぐと、彼はそうしかめっ面をして見せた。普段の彼ならそんなことはしないが、少し頭に血が上っているので仕方ない、と彼は自分に言い聞かせた。

 『聖水』を黴臭いなどと言われた老婆の方は、深海魚のような真ん丸い目を更に丸くさせて、今にも目玉が飛び出てくるのではないかと思うほど怒っていた。しかし、顔は怒りというより警戒の色を見せている。どうやら、この商品が本当に聖水ではないと気付かれるのではないかと、気を張っているらしい。

「これも貰うぞ」

 そう言って、顔と頭の水を拭うために手元に吊るしてあった、日用品と見分けがつかないほど単純な造りの小さなタオルを一枚とって、顔を埋める。

 と、そこで彼は何かを感じた。

 第六感の疼き。単純なものに対しての、妙な引っかかり。――確実な、魔力?

「・・・・・・・何?」

 老婆から感じたものなのか、それともこのタオルから感じたものなのか、それとも後ろを通りがかった通行人から感じたものなのか。

 彼は一瞬硬直すると、彼の表情が変わったことを見逃さなかった老婆に金を払い、精神を集中させようと静かに目を瞑った。

 老婆はどう思ったのか、なんだか自慢気に彼に話し掛ける。

「兄さん、その布護符は凄いもんだよ。なんでもお偉い魔族のお嬢さまが作ったっていうんだからね」

 やはり、魔力を感じるのはこのタオルだけである。しかし、どう見てもタオルのそれを、どうして護符などと言うのか。それに、魔族で「偉い」と名が付くほどの人物など限られた何人かでしかない。なのに、何故そんなところの令嬢がタオルを作らねばならないのか。

「・・・・・嘘をつくな。どう見てもタオルだろうが」

「そりゃあそのお嬢さまはタオルのつもりで作ったのかもしれないけどね、とんでもないよ。こんな魔力があるものが、普通に売られちゃそっちの同業者が困るってもんだ。だからあたしがね、買い取ったのさ」

 つまり、製作者側はマジックアイテムによくある無駄に高い値段としてではなく、材料費を何とかカバーできる程度の底値で売った。しかし、これが魔力のあるものだと勘付いたこの老婆か誰かが、マジックアイテムとして価値を見出した。そして、この老婆が直接買ったのかどうかはともかくとして、この老婆はタオル一枚にしては高い値段で売っている。

「詐欺だな」

「とんでもないことを言うね。全員お金が入れば、それでいいんだよ」

 その通りではある。あるが、なんだか納得いかない。自分はそれほど正義感が強かっただろうかと不思議に思いながら、ともかく彼は老婆を見た。

「それで、このタオルを作った奴はどこにいる」

「知らないよ」

 当然のように言う。自分が説明したくせに、と睨みを利かせると、老婆は少し視線を外しながら呟いた。

「・・・・・そういう噂があるところから来たんでね。相手側も、そう言うもんだから、さ、あたしはその話を信じて買っただけだよ」

「・・・・・・・・魔力があるわけでもないのにか」

「あるさ!あたしにはあるんだよ、ちゃんと!あたしの村の神父様が言ったんだ、お前は魔法使いの素質があるってね!」

 見苦しくそう主張する老婆だが、彼には分かっていた。この老婆には、彼が手に持っているタオルほどの魔力すらない。

「まあいい。それで、その相手方はどこのどいつだ」

「なんであんたに教えなきゃなんないんだい。こちとら信頼問題も関わってるんだよ」

「安心しろ。この詐欺まがいを作った奴に知らせるつもりはない。見逃してやるから早く言え」

「・・・・・・なんだい。衛兵かい?」

 彼がそこまで魔力のあるタオルに固執する理由など、老婆には勿論分からない。だからそう怪しんだのだろうが、彼は面倒なので横柄に頷いた。

「そんなものだ。言いたくないならそれでいいがな、老い先短い人生だ。穏便に余生を過ごしたいだろう?」

 穏便、などという言葉を使われては、逆に物騒なものを感じさせる。思わず震えた老婆は、値札の紙を一つ取って、その裏に商品である塗料臭い光る羽ペンで何かを書いた。

「ここだよ。言っとくけど、あたしはこの人にしか話を聞いてないからね。作ったんじゃないからね」

 その紙を受け取り、ちらと見る。震えた筆跡のイプシロン語だが、読めないことはない。

「分かった。しかしこの住所に目的の奴がいなかったら、あんたは今度こそ詐欺罪だ」

「・・・・・・・・そ、そんなこと、相手方が悪いんじゃないかい」

 一気に青ざめた老婆は、彼の視線から逃れるように俯いた。どうやら、詐欺をしているつもりは充分あるらしい。

「それもそうか」

 そう頷いてやると、彼は紙を外套の内側にある胸ポケットに入れ、再び外套を被って店を離れた。

 長身のもう一人の魔族は相変わらず苛立ったように女性の波を掻き分けながらマジックアイテムを見ている。

 その相方の視界に割り込んで、彼は少し笑った。どうやら犠牲の子羊の手がかりが見つかったらしい、と。

 

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