アラクネの幸
マジックアイテムの市場で発見した問題のタオルについて、老婆のメモを頼りにその日の内に仲立ちを取り計らったらしい男の家を発見した。一人前に石畳の塀がある家を持っており、成り上がりのずる賢い人間らしい、奇妙な裕福さが伺える。どんな奇妙さかと言うと、その家だけ、戸惑っているような、後ろめたいような空気をまとっているのだ。人を騙すのなら完璧に騙して、騙される相手を見下してしまえばいいものを、人間らしくうじうじと見苦しい言い訳を残す。その言い訳がましさが、そうやって人を騙してきた金で建てられた家にも感じられていた。 まあそんなことを感じ取ろうが取るまいが、彼らは自分達の正義やら善意でここに来ている訳ではない。自分達も自分達の利己のために、その家を訊ねたのである。 とりあえずアシュレイが体ごとすっぽりと覆い隠す外套を外し、それなりの身分のある騎士のような仕官服姿で――当然と言うべきか、魔王本城に仕官する時の服装である――、耳元を髪で隠して、その家のドアを軽く叩いた。彼の相棒は長身の上に粗野な態度を取るため、彼と同じ格好をしても本当にそのような地位についているのか怪しまれる。故に、相棒の方はいざという時の用心棒役になってもらうので、ここでは姿を見せてはならない。 ドアをノックして一分も立たないうちに、中肉中背の中年女性が顔を出した。お抱えの侍女のようで、何となく動きが油断した野暮ったさを感じさせる。 「はい、どなたさまで」 「リテールの麦酒の具合をお伺いしたく思いまして…」 アシュレイが、普段より少し愛想よくそう言うと、侍女ははあ、と少し頷いて彼の身なりを見、それからドアを開けた。 「どうぞお上がりください。ご主人は少々忙しいものですので、少々お待ちになって頂けますか」 「はい。では失礼します」 静かに一礼をし、エントランスの壁際にある茶色い椅子に軽く手をかける。冴えない侍女の目が彼のその行いを見ると、少し慌てるようにして奥へと引っ込んだ。 ちなみに、この一連の行動は、どうやら合図のようなものらしい。 具体的に住所の場所がどこであるかということはすぐに分かったものの、それが本当かどうかの確認をするために周囲の住人に話を聞いたほうがよい。そう思い情報を集めると、全くそのような商売をしているという様子はなかったと聞いた。どうも変だと思って、住所がわかった翌日に人間側の意地汚い噂が聞けるところへと尋ねてみると、どうやら秘密裏に卸売りで金を稼いでいるらしい。何故秘密裏であるか、ということは興味がないため知るつもりはないが、周囲の住人の話から察するに、どこかの国の権力争いに敗れた没落貴族が、自分の沽券に関わることだと思いながらもあのような姑息な商売に手を染めているようだ。 人間とはそういうものだ。どこまでも欲と意地が付いて周り、それらが鬩ぎあって、魔族では思いもつかないような様々な文化が生まれる。それがいい方向に向くか、悪い方向に向くかと言えば、当然のことながら―― 「いやあ、最近は不景気でしてね」 「そうですか?このお宅を見ると、そうは思えません」 人間の欲望がいい方向に長続きすることなど、滅多にないのが現実である。本人たちはどう思っているのかは知らないが、所詮、人間の持つ市場の景気などたかが知れている。 だから、アシュレイは顔ではにこやかに笑っていたが、案内された書斎に入っても、部屋とその主人の人柄を見比べても、心の中は嘲笑しか生まれなかった。何より、室内の調度品が無駄に豪華でいけ好かない。真の贅沢とは部屋が暑苦しくなるほどもので飾り立てることではないことを、魔王城と言う最高の贅を尽くした城を知っているからであろう。 この家の主人である人間も、この家と同じく装飾品と飾らされる素材との印象がちぐはぐであることを感じさせる。裕福な家の割に細身で顔色が悪く、病弱そうな感じがしないでもない。そこまで自分の商売方法を後ろめたく思うのならば、真っ当な商売に手を出せばいいのにと思わせる。何より、身にまとうものはなかなかに立派なものだが、少々本人に風格がないせいで着せられている感があった。威厳も優雅さも何もない。 真紅の磁器のティーカップを受け取ると、彼は妙に花の匂いが強い紅茶を一口含む。品のない薔薇の香水を飲んだような気持ちになったが、彼は堪えて微笑んだ。 彼の身なりを一通り見終えたのか、この家の主人らしい男は妙に人懐っこく笑う。彼の服装から察するにどこかに仕官していることは分かっているらしいが、目を付けたのはその品質だろう。確かに、彼が仕官するネウガードは、ヘルハンプールの同じ地位の騎士よりはいいものを支給する。無論、魔王直属の支配地であることとが大きな要因になる。 「ええ。ですから、貴殿のような方と繋がりを持てることは、とても光栄なことです」 「一介の騎士など繋がりが持てることが光栄などとは、貴方はとても謙虚な方らしい」 勿論、相手が本当は骨の髄まで美味い汁を吸い取るつもりであることなどは分かっている彼である。しかし、彼自身は繋がりを持つつもりなど全くないので、そう朗らかに笑っておいた。 「またまたご謙遜を。――それで、お話を伺いましょうか。何を取り引きなさいますか?」 どうやら獲物を前にそう長くは待てなくなってきたらしい。躾がよく出来ていない犬のようだと蔑みながら、彼はゆっくりと手を軽く重ね合わせた。 「ここには情報を買いに来ただけですので、そう身構えて頂かなくても構いません。私の望む情報があれば、それ相応の報酬はお支払いしましょう」 急に彼の持つ空気が変わったことを感じたのか、それともただ情報を買いに来ただけだと言うことがかなり意外だったのか、主人は少し戸惑うと、少し歪んではいるものの笑顔で受け答えをする。 「――どんな、情報でしょう。私などのような者が知る情報など、たかが知れているものですが・・・・」 「貴族の内向などは知るつもりはありません。その時がくれば、それはまた別のものが独自に収拾するでしょう」 そうやんわりと人間の言いたいことを遮ると、その言葉の裏に含んだ意味合いを感じ取ったのか、人間は急に真剣な顔になった。どうやら、彼がどこかの王族か、もしくはかなりの権力を持つ者に隠密に仕える者だと今更ながらにも気付いたらしい。 その権力者は誰かは知らないが、下っ端であるらしい彼のような者にでもそれなりの仕官服を与えるのだ。当然のことながらかなりの有力者となる。確実に、ヘルハンプールの太守よりは格が上であることぐらいは予想される。ならば、ここでごねて拒否するよりも、恩を売っておくに限る。 そんな考えが浮かんでいるのか、人間はほんの少し考えると、とても人懐っこそうに笑って見せた。口の中はちゃんと手入れをしているのか、息は妙に生暖かく、毒々しい香水と歯垢が入り混じったような匂いがする。 「お聞きしましょう。私が持つ情報であれば、何でも」 浅く頷くと、彼は笑みも見せずに人間を見た。餌に喰らいついた以上、強引にでも釣るつもりだった。 「私が知りたいのは、あるタオルの製造元です」 「・・・・・・・タオル?」 王族や確固たる権力者の下に仕える、なかなか立派な身なりの騎士が、タオルのことなどを聞いてくる。彼のような騎士から出るには突飛な言葉に、人間は驚いた顔を隠しもせずに訊ねた。 「戯れに魔法街、とでも言うのでしょうか。その手のアイテムを売っている店があったので覗いてみると、それがありました。他は魔力を感じないものだというのに、そのタオルにはどうしてかなかなかの魔力を感じた。魔力を持つ者が作ったものに魔力が宿るのは、その本人の魔力がかなりのもでもない限りは極稀なことです」 「・・・・・・つまり、そのタオルを作った者は、魔力がかなりある者だと?」 「はい。未だに推理の段階ですので、確認のためにここに寄らせて頂きました」 彼が軽く頭を下げると、人間は少し深く考える様子で他に目をやった。しかし、その態度や仕草はわざとらしく大げさで、芝居がかっている。もったいぶらせる気か、それともしらを切るつもりか。外にいるであろう相方に合図を送る方法を頭の中で確認しながら、彼は人間の言葉を待った。 それから人間は大きくため息を吐くと、少し笑って見せた。 「少々、話が突飛すぎませんか。何故、そのような場所をお尋ねに?」 「ですからほんの戯れです。あのような場所に本物の魔力を感じれば、その魔力を持つ製作者を自分の国の利益に使いたいとは思うのは自然ではないと?」 「いえ、確かに自然なことですな。しかし――何故そのようなタオルに、魔力を感じたのかと思いまして…」 「私もそこがとても知りたい。売り場の女に聞いてみると、どうやらその製作者は魔族の貴族の姫君だとの噂があるそうで…更に意味が分からなくなったものですから、何故魔族の姫君がこんなところでタオルを作っているのかと、その女を問い質しても、自分は知らないと言う。それならば、貴方に話を伺うように言われましてね」 「そうですか・・・・・・」 人間の妙に真剣ぶった顔が、一瞬苦渋の表情に変わるのを、彼は見逃さなかった。微笑を復活させながら、ゆっくりと口を開く。 「ご存知ならば、是非教えて下さいませんか。勿論、お礼は充分に致しますので…」 ゆっくりと、切実さを目で訴えながら、アシュレイは屈みこんでそう頼み込む。頭を下げるつもりなどないが、ここまで人間にへりくだってやっているのに、これでむこうが断ると言うのなら、実力行使に訴えるまでであった。 彼の懇願に口元を少し緩めるものの、人間のその表情は何かずる賢いものを感じさせる。それを見て、彼は次の言葉が予想できた。 「残念ですが、私はそのような噂のあるタオル…でしたか?それについての情報など持っていないのです。私も、知っていれば貴殿との関係をお持ちしたいと思っていたのですが…」 「そうか。なら痛い目に遭うしかないな」 急に態度を変えてそんなことを言う客人に驚いたのだろう。人間は一瞬目を剥くと、後ろの窓ガラスが割れる音で更に飛び上がった。しかし、彼の方は当然落ち着いた態度で窓からの侵入者を見る。彼が合図となるよう魔力を篭めたガラス玉に皹を入れた瞬間に、アシュレイの相方の魔族が入り込んできたのである。 こちらは彼とは違い、長身で、如何にも荒くれ者であるというかのような荒んだ雰囲気をもっているため、人間は窓からの侵入者に対し、はっきりとした恐怖の色を見せた。 「ひっ・・・・・!」 上ずった声に相方のほうは少し鼻を鳴らした。こんな小物相手に、いちいち姿を見せて脅してやらねばならないのが面倒らしい。その気持ちは分からないことはないが、アシュレイは黙って相方の男に目をやった。 自分とて、下らない交渉相手に数分間も無駄にしたのだ。せめても同じくらいの時間をかけて、今度はしっかりとした情報を入手したい。 その意図をしっかりと読み取ったのだろう。またも面倒そうにため息を吐くと、その魔族は見苦しいほど震えている人間のシャツの襟首を掴んで、そのまま壁に押し付ける。 自分の体が大男によって一瞬だけだが宙に浮き、その上そんな力を持っている相手に初めて乱暴な扱いを受けたことに、人間は恐怖と怒りを感じたのだろう。自分の襟首を掴んでいる相手に対し、はっきりとした恐怖を持っているにも拘らず、同時に屈辱的な扱いを受けていると思い込み、情けないなりに睨みつけてきた。 しかし当然ながら、それで怯えるほど繊細な心の持ち主ではない魔族の男は、呆れた表情のままで口を開いた。 「あれを作った奴はどこにいる」 淡々とした調子で訊ねる。その響きから察するに、アシュレイよりもこの男は人間嫌いが激しいらしい。何ヶ月かの付き合いだが、常に荒っぽい態度を取るこの男が、怒りを感じたり苛立ったりした場合は、普段とは逆に静かに、口数が少なくなることぐらいなら分かってきた。 自分が呼び出した時から既に不機嫌そうな顔をしていたことを思い出し、相方の方に脅し役になってもらったことが適任であるらしいと、アシュレイはのんびりと気が付く。 どうせここで勢い余って相方が絞め殺しても、この部屋を漁れば手がかりとなる伝票かメモの一つや二つは見つかるはずである。あくまで静かに殺した上ならばしっかりと探せるが、家に侍女以外がいるなら少し状況が苦しい。彼らは一家惨殺や強盗殺人をしに来たのではないのだ。そんなことをすれば、上から何を言われるのかを考えると、たまったものではない。 「・・・・・ひぐっ」 人間の声がだらしなく響く。どうやらアシュレイが考え事をしている間に、少々相方の方が痛めつけたらしい。派手な物音はしなかったが、それでも小さく鈍い音がしていたことに気付いてはいた。 人間は腹と顔を殴られたのか、顔は既に痣だらけになっていてところどころが黒ずみ、口から血が混じった胃液のような悪臭のするものをだらしなく垂れ流している。壁に倒れかかっている本人もそれにはきちんと気がついているのか、それともそれに気がつかないほど痛みが神経を支配しているのか、口をぱくぱくと空けて俯いていた。 「おい。アシュレイ」 「何だ」 「こいつ吐かねえぜ。殺すか?」 殺す、の一言に反応したらしい。人間の呆けたような体がびくりと大きく動く。それを見て、アシュレイは彼の失態に気が付いた。 「口が利ける状態で殴ったのか?声が聞こえなかったぞ」 「ああ。すまん。忘れてた」 だろうな、とアシュレイは肩を竦める。それから人間が座っていた椅子を放り投げ、本当にこんなところで仕事が出来るのかも分からないような派手な大理石の板が張ってあるデスクを見回す。 本当に、そのデスクは立派な羽ペンやら金で象嵌されているインク入れやら、そんなものしかなかった。まるで子どもの碌に使わないおもちゃ箱を見せられているような気分である。 「人間。もうそろそろ口が利けるようになったか?我々は急いでいる。早く製作者の住所を教えてもらいたいのだがな」 机の引出しを開けると、今度はきちんと紙が入っていた。しかも白紙ではあるが買取書や伝票の類も入っており、きっちりとこの詐欺まがいの卸売りで儲けていることぐらいの証拠になる。 「・・・・・・ひーふぉ」 人間がそう、腫れ上がった頬を動かす。何と言ったかどうかは不明だが、どうやらきっちり喋る気にはなっているらしい。 「あ?」 その人間を痛めつけた張本人が鬱陶しそうに睨みつけると、人間は腫れているはずの目をかっと見開いた。 「ぐ・・・・ひ、ひふぁあ・・・・!」 どうやら怯えているらしい。這うように長身の魔族から離れようとするが、体がほとんど痛みのせいで麻痺しているも同然の状態なのでなかなか思うように動かせない。 それを見て、人間に呆れると同時に、相方にもアシュレイは呆れた。 「・・・・・・・・手加減出来たはずだろうが。口も利けないし文字も書けそうにない状態だぞ」 それに、相方の魔族は肩を竦めるだけである。仕方がないから使用済みの伝票やら買取書の控えを探そうと、他の引き出しを乱暴に漁る。何故かその行為に、人間が大きな声をあげた。 「ふぉふぉひゃ、・・・・あぃ!」 何と言っているか分からないアシュレイは無視をする。しかし、人間はそれでもは必死になってアシュレイに何かを叫んでいた。 「ふぉふぉひゃ、あくて・・・・・ひゃんらんめの・・・・うぎぉがあ、ふぉばんえ!」 「・・・・・・三段目?」 四段目の伝票の控えを一枚ずつ見ていたアシュレイが、不意に頭を持ち上げる。それに、人間は一瞬怯えるものの、次に必死になって頷く。 物分りの良い態度に、ここで自分が役立たずになればどうなるかがきちんと想像できるまでに回復したらしいと気が付く。アシュレイは四段目の伝票を全て放り投げると、三段目の引き出しを開けて買取書に手を伸ばした。 「もう一度言え」 「うぎぉがあ・・・・・ご、あんえ」 口の中の傷は口を切っただけなので、流れ出てくる血の量などすずめの涙と言ってもいい。しかしそれでも唾液と胃液は流れ出るらしく、一瞬口の中のものを飲み込むと、人間は少し咽ながら、必死にそう告げた。 後ろから五番目と、そう聞こえた言葉の通り、後ろから数えて五枚目を見ると、そこには確かに品物の欄にタオルとあった。サイズも彼の持っているものとほぼ同じである。字はイプシロン語にしては妙にあっさりとし過ぎている変な文字で、なかなか読みづらい。前に老婆を脅した時に入手したここの住所が書いてある紙といい勝負の字の下手さだったが、こちらは力強い筆跡から察するに、まだ若い者が書いているのだろう。 住所欄には村の名前と地方の名前が書いてある。名前はエミリア。これだけで充分である。 その買取書を破り取ると、アシュレイは相方の方にそれを見せて確認させ、自分の外套の奥へ入れる。それから相方が壊した窓の方へ先に向かうと、人間を一瞥した。 「いいか。命が惜しけりゃこの話はするなよ」 そんな当然のことを言い残すと、窓の外に消える。そんなことぐらいは分かっているだろうと更に呆れたアシュレイだが、人間はそうは思わなかったらしい。更に甲高い、情けない悲鳴をあげて、壁の方へと体を動かしていった。 そんなことも分からないほど馬鹿な人間に、最早呆れを通り越して脱力したアシュレイである。ため息を一つ吐くと、彼は人間も見ずに相方と同じく窓から脱出した。外には既に足を用意している。ネウガードに存在する馬ではなく人間用の馬だが、ないよりはましだ。 石畳の塀を乗り越えると、その馬の手綱を引く。二人共、あんな汚らしい人間と数十分でも同じ時間を共有することに吐き気がしていたので、時間を無駄にするつもりなどなかった。 「どこだ。そのエミリアとやらは」 「北西のタワー付近の村らしい。一刻もすれば到着する」 「了解」 そう言うが早いか、長身の魔族は早々と鞭を使う。馬のいななきと急に速度を上げた相方に少々驚いたアシュレイだったが、荒々しいことをしたい気分なのだろうと納得して同じく馬を飛ばした。 いくら住宅地とは言え、王都である。昼間から公道で馬を飛ばしている男二人に道行く人々は驚いているが、そんなことを気にするつもりなどない。むしろ、注目の的となっていても、やっとこの人間だらけの、同胞とも呼べない腐った魔族が住む国から逃れられることを思うと、アシュレイは不意に笑みがこぼれてきた。 「おはよう、お姉さん」 「…おはよう、エミリア」 ほとんど瞼が開いていない彼女に、エミリアは使い古した布を渡す。口元には、彼女が朝に弱いらしい態度を見ての笑みが浮かんでいる。 それに気付かないまま彼女は布を受け取ると、井戸までふらふらと歩いていった。ほぼ手探りも同然の状態で井戸の水を汲み、水を洗面器に移し変えると、そのまま洗面器に顔をダイブさせる。 それから何十秒かして苦しくなったら、手で顔をこすって、顔をやっと上げる。 「・・・・・・ふはっ」 夏になっても朝だけは清々しい空気が、濡れた彼女の肌には心地よかった。井戸の水もひんやりと冷たく、この調子なら冬になったら目覚めの効果がもっと上がりそうだと思いながら、手元に置いてあった布で顔を拭く。 エミリアと同居して早二ヶ月。案外自分の環境に対する順応性が高いことに、彼女は初めて気が付いた。 言ってみれば『ファンタジーの世界』に迷い込んだようなものだが、生憎それほどファンタジックな経験を、この二ヶ月ではしたことがなかった。それよりも、中世欧州の生活を体験している、と認識したほうが幾らか納得出来る。それほど、地味で貧しく、けれど必死に生きていることを感じさせられる二ヶ月だった。 何せ、この世界には機械がない。当然のように移動手段は徒歩か辻馬車しかないし、火をつけるには釜戸の火を持ってこなければならないし、火種は火打ち石で作らねばならない。風呂なんてものはなく、何日置きかに体を拭く程度で体の汚れを落とす。買うものは市場に行けば色々あるが、生憎エミリアの家は貧しいから、ほぼ自給自足の生活で何とかするので用はない。 エミリアの家は生活で必要な布を作るのが家業らしく、それを作るにしても綿花は自分達で一から育てるのが基本で、綿花が採れた際は機織の大きな木造の機織機を使って織らねばならない。 機織機があるだけましだとは分かっているが、それでも彼女は自分が原始時代に来たような気持ちになった。全て自分でやらねばならないことが、どんなに辛く、どんなに苦しく、どんなに力と時間を使うことか。 自分がいた現代社会の文明文化の発展が進んだ理由が骨身に染みるほど分かったが、同時に、この世界は無駄なものがないことに感心した。 娯楽になりうるものが何もないのだ。テレビもないし、ラジオもないし、更には読むものだってない。だから、人々は読み書きを知らずに生きてきても、別に支障をきたすことはない。彼らからすれば、本や本から得た知識はいらないもの。教養とは無駄なもの、と言っていた評論家の言葉が思い出された。 けれどその分、楽しいことは、自分が居た世界の中ではささやかだと思っていたものへと変わる。 暑い日の井戸水の冷たさ。空が一面に金色になった夕暮れ。朝の森の匂い。名前の知らない虫や鳥の鳴き声。きれいな花に気付いた瞬間。同居人の楽しそうな笑顔。 そういうものが、あの世界にいた時よりも心に染み入る。染み入るが、それと同時に、とてもそれが自然に感じる。刺激がないからではない。あの世界は、刺激があり過ぎるから、心が美しいものに対して鈍感なのだ。けれど、この世界には無駄がないから、鈍ることなどない。 辛いことや苦しいことや疲れることは多いが、そういうものが時たまふと感じられる分、この世界で一生を過ごしても、悪くはないかもしれないと彼女は思った。勿論、思っているだけではない。自分が顔を洗った余りの水を如雨露に入れて、綿花にも朝の水をたっぷりと与えてやる。 大切な収入源になるのだからと言う雑念を取り除いても、愛着を持てるほどしっかりと育ててやるのが、物心つく頃から綿花を育ててきたエミリアの育成法らしい。もっと具体的な方法はないのかと心の中で思ったが、そんなことを胸を張って自分に言う少女が可愛らしく見えたため、大人しく頷いた。 如雨露の水がなくなったので、水桶に残っている水を今度は直接如雨露の方に流す。それからもう一度、水をやっていない綿花の土に水をやると、本格的に体が目覚めたらしい。家の薄く開いている窓に向かって叫んだ。 「もう食事の準備出来てるー?」 「・・・・・うん!だいじょうぶー!」 か細い声が、必死に大声を出し返す。そんなに無理をしなくてもいいのにと思いながら、水をやり切ると、彼女は如雨露と洗面器を玄関口の前に置き、顔を拭いた布を持って、家の中に入った。 入るとすぐに木のテーブルがある。大きくもないし、立派でもない家なので当然だ。けれどそんなことには気にせず、硬い木の椅子に座ると、目の前に広がる朝食に、彼女は少し驚いた。 近所の酪農家から物々交換で貰った卵と牛乳を使ったオムレツに、森で採った食べれる山菜は茹でて添えられている。その横にはじゃがいもだけのポタージュスープと固いパン。そしてオムレツと山菜の皿に、薄いベーコンが一切れ、乗っていた。 「・・・・・前にどれだけお肉買ったの」 「そんなに多くないよ。この前お姉さんが行ったところ、ものすごくいいお値段で買い取ってくれたから、ちょっと奮発したぐらいだもん」 一週間ほど前のことを思い出しながら、彼女は曖昧に頷く。妙に胡散臭い、冴えない男が布を買い取ってくれたが、あまりいい気持ちはしなかった。自分が初めて作った布なんて、それはもう使い物になるのかどうかすら分からないような出来なのに――エミリアが「安く売ろう」と提案するぐらいの出来である――、エミリアがいつも彼女が作った分の以上の金額を渡してきたのだ。売り手が妙ににやにやしながらこちらを見ていたこともあって、花を売らせるつもりかと身構えたが、何もなくて心底よかったと安心したものである。しかし、そういう相手に売って、はいおしまいで終わらせるつもりは、彼女にはなかった。 エミリア曰く、階級が低いこともあって、売買は信頼問題が大きく関わってくるらしいからである。一種のブランドのようなもので、誰が作ったものであるかは同じ層の人々には口コミのような形で知れ渡っていく。勿論、質が悪い場合も良い場合も、同じ階級層の人々に知れ渡るので、よく頼まれているから手を抜くなど、あってはならないことらしい。 だからエミリアは必死になってしっかりした木綿布を織れるのに対し、彼女は初心者ということもあって、あまりいい質のものではない。上達の余地はあるらしいが、今の生活に行き詰まっている少女に慰められたところで、直接その少女の助けになるとは思えない。 なのに高く売れてしまったから、妙に彼女は気が重かった。世間の目は節穴なのか、それとも単に自分が運が良すぎただけなのか。地道に生きているエミリアに対し、複雑な心中だったが、少女の方が案外現実的である。それはそれと割り切って、数日前に王都に寄って肉を買うことにした。 肉は当然、ご馳走である。たんぱく質はいつも布と交換している酪農家の何品かで賄っているので、脂肪分などは特に手に入らない。 一週間もすれば肉のない生活に慣れてしまった彼女の、一ヶ月と何週間かぶりに出てきた肉は、自分の知っている肉よりもしっかりした味がした。分厚い塊肉を買ったわけではないし、薄い肉をソースでソテーしたやはり質素な品だが、柔らかくて素直に美味しいと思える味だった。 その久々のご馳走の残りが、朝食に並んでいるのだ。そう言えば何種類か肉を買っていたらしいことを知ったのは、この世界で初めて食べた肉が出た翌日だった。 ベーコンを固いパンの残りと一緒によく咀嚼すると、エミリアが少し笑う。自分が何か変な顔をしたかと少し気にする彼女に対し、くすくすとエミリアは笑って首を横に振った。 「お姉さんも慣れたんだなーと思ったの。ちょっと前は洗濯板なんて、実物見たことないって言った人なんだもん」 全部飲み終わると、彼女は苦々しい表情をする。 「・・・・今は使えるんだからいいと思うけど」 「うん。今はね」 こくりと頷く。少しすましている様子は、自分が優位だと確信している証拠か。それを見て憎々しげな笑みを浮かべる彼女は、フォークをエミリアの皿に向ける。 「…それにしても、肉が余ってるみたいね…いらないんなら食べてあげるけど?」 それを見て、ぱっとエミリアが皿を手元に寄せて、半分も残っているパンでバリケードを作る。 「だめ!最後に食べるの!」 「半分もパンが残ってるのに?結局パン全部食べたらお腹いっぱいになった、なんてことになるんじゃないの?食細いんだから」 「そんなことになる前にお肉食べるもん。パンは残してもいいから食べるの」 「なに言ってるの。パンは一応お腹に溜めなきゃいけないんだから全部食べなさいよ。肉なんて最後最後。だからとっととよこしなさい」 「だーめー!」 むきになって言い返すエミリアに、逆に彼女がくすくすと笑う。勿論、本気になって少女から肉を奪うつもりなどないが、そこまで過剰に反応されると楽しくなる。 「じゃ、お皿洗っておいてね。わたしは練習するから」 そう言って席を外す彼女に、エミリアがしかめっ面を見せる。 「早く食べたからってずるい」 「ずるくない。わたしは本当に練習が必要なんだから、洗う時間割いてでも頑張らなきゃいけないでしょうが」 「そうだけど…、人に自分の分の家事押し付けるのはずるい」 「それじゃあ、ついでに家の掃除もするから。エミリアは雑草駆除か虫追い払うか、山菜取りに行くかしなさい」 「うん…。だったら、そうする」 自分の提案にあっさりと頷くエミリアに、彼女は思わず口元が緩んでしまう。少女だって気丈に数ヶ月間一人で生きてきたが、結局は子どもなのだ。遊びたいし、甘えたいし、きれいなものを見て感じて、くたくたになるまで走り回りたい。出来れば気の合う友達と一緒に。 忙しい日常の合間にどうやって遊ぶ時間を見つけるかと言うと、外に出て散策するついでに遊ぶしかないのだ。実際のところ、遊びの方が時間として大きく割合を占めているだろうが、きっちりと山菜を取りさえすれば何をしても自由なのだ。 そして名目上、そんな機会があるとするならば、子どもは大抵その瞬間を逃さない。だから、少し拍子抜けしたような顔ではあったが、こくりと頷くエミリアに、彼女は少し笑って機織機のある部屋に行く。ほんの数歩もすれば部屋に入るので、移動した気にもならないが、それでも気分の切り替えぐらいにはなる。 その部屋には藤の蔓で編んだ籠の中にある木綿と、木綿を糸にするためのいくつかの木製の機械、そしてやはり木製の機織機があった。椅子はダイニングで使ったものを持ってきて、機織機の前に持ってくるとそのまま座り込んで、既に整経し終わっている機織機の前で、一つ大きく深呼吸をする。 両手には緯糸を装着している杼が握られていて、何年も使われていたそれは手垢で黒ずみ、妙に滑らかな触り心地を持っている。あの小さな肩の少女だけがこうしたのではない。きっと少女の母親も、この高機を愛用してきたのだろう。 少女が洗い物を井戸の近くまで持っていくのだろう。かちゃかちゃと騒がしいが不快ではない音が聞こえる中、精神を集中させ、ゆっくりと息を吐く。機織には長い時間をかけねばならないと同時に、集中力が必要になってくる。最初この作業に慣れないうちは、単純な作業故にやる気にむらが出てきたり、移り気になったりした。そうなると、糸は乱れ、整えたはずの編目は不自然になってくる。だから、ただ無心で本当に集中しなければ、この作業には取り掛かれないことを、この前の布を織って思い知らされたのだ。 今回はそうはならないように。静かに願いながら、杼を持ち上げて柄糸に通す。綜絖を一旦下ろし、筬を手前に引き、もう一度杼を柄糸に通す。 それを何度もやって、リズムを作っていけば、後は次第にそのリズムに乗ろうと体が動き出す。エミリアは慣れたもので、目を瞑って瞑想にふけるような穏やかな表情のまま織っていたが、まだ彼女はそこまで出来るほど上手くはない。真剣な表情で緯糸にむらが出来ていないかどうかを確認する。 そうしていくうちに、次第にこの作業にのめり込めるのだ。娯楽ではないが、それでも体全体を使い、神経を張り詰めたまま一心になって織るという作業は、単純に楽しめる。無心になれることが、楽しいと感じるのかもしれない。 彼女はあまり時間の経過を感じなかったが、それでも彼女がそこに座ってから三、四時間は経った時のことだった。エミリアもいないはずの家に、ことりと物音がした。 機織の作業によって出る音は、正直に言ってそれよりも大きく、木製であるからか穏やかで柔らかく響く音が耳に心地よい。しかし、自分が立てた記憶がない、異質な音には敏感になるものだ。ふと頭を上げて彼女が周囲を見渡すと、そこには壁に寄り添うように立っている少女がいた。 足元には籠があり、その中は既に山菜とベリーが見える。少し遠慮するような、彼女が顔を上げたことですまなそうな顔をして、少女は彼女と視線を合わせた。 「どうしたの?何かあった?」 当の本人は、集中が途切れたものの、まだ体がリズムを覚えていてすぐに復帰できると思ったからか、薄く笑って少女を見る。その表情は、少女にとってやんわりと咎められない証拠になったのか。少し頬を赤くして、首を横に振った。 「ううん…なにもない」 「そう」 短く頷き、自分が織った糸を見る。自分があの世界で着ていた服は、ここまで編目がはっきりと見えていなかった。エミリアの織った布だってそうだ。遠目から見れば、機械が織ったようにしか見えない。けれど今の自分の織った、まだ未完成の布は、まだ少し、編目が見えて、手触りもよくない。 前に比べて上達していればよかったが、生憎初めて織った布は全部売ってしまったから比べようがない。何枚か取っておくんだったと思いながら、まだ俯いて所在なさげなエミリアが立っているのを見た。 「・・・・どうしたの?もう虫も追い払った?」 「うん」 「・・・・・・・って、ああ、まだ掃除してなかったか。今から掃除するから、続きやりたいんならやってもいいわよ。編目汚いけど」 「ううん、いいの。織ってるところ、見たいだけだから」 腰を浮かせた彼女に、妙なことを言ったエミリアを、彼女は怪訝な顔で見た。それを受けて、エミリアは焦った様子で首をぶんぶんと振る。 「あ、ちがうの。あのね、その、今はわたしが織りたいんじゃなくて、お姉さんが織ってるの、見たいだけなの」 「・・・・退屈だと思うけど」 「ううん、そんなことないよ。一人でいるほうが、・・・・・つまらないから」 かあっと顔を赤くして、小さくなる少女の意図を、やっと彼女は読めた。どうしようもなくまごついているエミリアが可愛らしくなって、微笑みながら優しく言ってやる。 「だったら、椅子持ってきなさい。立って見てたら、足が疲れるし」 「うん」 元気よくそう頷くと、エミリアのたんぽぽの綿毛のような金髪が、優しく揺れながらダイニングの方へ消えていく。威勢のいい小魚みたいな淡い金色のツインテールが跳ねていく様子を見ながら、彼女は口元が緩んでいるのを自覚し、それから心の中で感謝した。 最初に見つけてくれたのがエミリアでよかった。エミリアのような、純粋で逞しくて優しい、弱音を吐くことをしない少女が、自分を一番最初にこの世界で見つけてくれたことに、改めて感謝したかった。 エミリア以外の人間には既に何人か会ったことがある。名前を覚えているのも何人かいるし、むこうが自分に対して警戒しているのも知っている。 理由は簡単だ。自分が尖った耳を持つ、――魔族だから。 この世界に来て急に自分の耳が尖っていた彼女には覚えのない種族であり、この辺りの村は元々人間だけが住む地帯なのだろう。他の魔族と呼ばれる人も見たことはないし、知らないが、ともかく自分が魔族であると認識されているのは明らかだった。エミリアの手伝いに色々なところへ行く途中、自分を見て大人たちが驚き、怖がっていたのを知っている。子どもは親の影響を受けてはいるが無知だから、指を指したり、まるで見世物のように集まってきたりされた。自分にちょっと触れて逃げていき、目があったらけたけた笑いながら逃げていく。 生憎、その子どもたちや親たちに誤解を解く余裕もないからそのままにしていたが、その人々の反応を思い出せば、エミリアは実に素直で、いい人格の持ち主だ。 ――その理由がただの善意であるよりも、寂しいからという単純な理由なのは分かっている。子どものよくある無計画のまま、しかししっかりと自分を看病したアンバランスな感覚の持ち主であることも分かっている。甘えたいのに、しっかりと何でも出来てしまうことも分かっている。 そんな気持ちは何となく覚えがあった。母に誉められたい一心でいた自分と、よく似ている。 「・・・・・んっしょ」 椅子をひきずり終わり、ちょこんと彼女の隣に座ったエミリアを見ながら、彼女は少女に微笑む。 少女は急な微笑みに戸惑った様子だったが、それでも微笑まれていることに悪い気は起きなかったらしい。まだ頬を赤くして、照れたように微笑み返した。 その小さな頭を軽く撫でてやり、機織に取り掛かろうともう一度大きく深呼吸する。 その時だった。ドアをノックする音が響いたのは。 |