いざ往かん魔法の王国へ
寝相が悪かったつもりはないのだが、現状を考えるとそれも怪しいものだと思ってしまう。否、寝相云々よりも、ある意味で自分の図太さに呆れると言うか。 ともかく、彼女は妙に頭が冴えないことが少し気になりながら、上体を起こした。とは言っても、自らの上体は、腰よりも下の位置にあったので、かなりの体力を要したが。 「・・・・くっん」 色気が皆無と言ってもいいほどの呻き声をあげながら、何とか寝台の上に体全体を乗せる。手足も拘束されているので、腹筋のみを使って上体を起こすのはかなり骨が折れる作業だったが、その分長時間の眠りで鈍くなっている頭が次第にはっきりしてくるのが分かる。軽い運動にしては屈辱的な状態だったが、考える時間が出来ただけでもまだましとしよう。 揺れ動かすことすら許さないような木綿の縄でがっちりと縛られた足首は、その長時間の拘束に静かに耐え忍んでいたような硬さがある。手首も同様だが、こちらは派手に動いたのか、少し縄が緩くなっているものの、きつく縛られたせいで手全体が白い。 しかし、彼女をそんな状態で拘束している割には、彼女が眠っていた部屋はかなりの豪華さを持っていた。とは言っても、彼女が知るこの世界での一般的な室内というものがあの少女の家なので、彼女が見慣れている階級のギャップがあるだけだ。 彼女の眠っていた寝台は、あの家にあった木製の、マットレスさえない質素なものとは正反対に、ふっくらとした羽毛とマットレスが一体化したような、マットレスと布団の境目すら分からないような柔らかさを持ったものだった。心底無駄だと思わせるような金色に輝く柱は唐草を描き、その柱に支えられた天井には深みのある赤の天鵞絨の天蓋がココア色のレースに縁取られている。彼女が頭にしている枕だって、リネンのぱりっとした清潔な白のカバーに、彼女一人が眠っていたのに対し、三つ以上もある。 天井しか見えないが、恐らくこの部屋自体もなかなかのものなのだろう。落ち着いたアイボリーのカーテンと豪華な総レースのカーテンが視界の隅に見えるし、天井もミルクティのようなくすんだ色合いをしているが、それでも染みがついているわけではなく、細かく黄土色の薔薇の柄が入っているのが見える。 自分の見れる範囲で一通り、それらを見終わると、彼女は一つため息を吐きながら今までのことを思い返した。 彼女が覚えていることは、しかあまり大したことではない。まず家でゆっくりと機織の作業をしている間に、知らない男二人が現れた。この世界にいて、あまり実感の出来ない数々の意味の分からないことを問われるが、自分はあまり自覚がないので多くのことに答えたつもりはない。そしてそうこうしている内に、口調が乱暴な男の後ろから、如何にも屈強そうな男が割り込んできて、自分を気絶させたらしいことは覚えている。それ以降は、頭が半分眠った状態で、強引にどこかに歩かされ、それからやっと寝台が見えたので、思う存分寝ようと体をこの寝台に倒したこと。その感触。――それぐらいである。 ため息を更に一つ吐き、彼女は肩の力を抜いた。我ながら、何ともいえない図太い神経である。男二人に拉致された挙句、意識朦朧としている状態で太平楽に寝ていたのだ。何をされても気付かないようにされたとしたら、既に自分の体は処女ではないかもしれない。 ――だとしたら、母に会わせる顔がない。自分の娘は惰眠を優先し、体の危機に関しては何も考えなかったとあっては、あの世で母は悲しんでいるかもしれない。 「・・・・・困る、なあ」 まあ別に、強姦されたことを愁いてこのまま自殺してもいいが、生憎彼女はそこまで自分の処女性に重要性を見出していなかった。自分の体を大切にしないと心配する人は、ここはともかく、元の世界にすらいないのだ。しかし、どうなっても構わないと言えば構わないが、母の遺伝子によって造られたこの体をすぐに物言わぬ屍にするのも気が引ける。 このまま乱暴に扱われ、自分の心すら汚されてしまったら、それこそ母にあの世で会う資格がない。今まで自分を育ててくれた母の努力を踏みにじることになってしまうからだ。 ならば、苦痛が徐々に快楽に摩り替わってきたような片鱗を見せた時に、逃亡するなり何なりをしよう。 まるでゲームのようにのんびりとそんなことを考えた彼女の耳に、ドアをノックするような音が聞こえた。それに気付いて考え事を一旦停止すると、音がした方向を彼女は見る。 金属製のドアノブが回り、ドアが開く。その音ですら、彼女は久しぶりに聞いたような気がした。当然といえば当然で、今まで彼女が生活していた少女の家は、玄関の鍵も木製の閂を使って閉めていたのだ。村の中央部では立派な金属製の鍵を玄関につけている家を見たことはあるが、彼女は自分が住まわせてもらっていた家の生活を考えると、鍵など二の次のように思え、特に何の感情も抱いていなかった。 ドアが閉まる音がする。しかし、足音はよく聞こえない。恐らく、絨毯が敷き詰められているのだろう。彼女の視界に、見覚えのある頭が見えた。 「起きたか」 彼女をさらった二人のうちの片割れ、彼女に魔力のことを訊ねた若い男である。 寝台の上に不自然な体勢で横たわっている彼女を、何の表情も感じられないような目で見ていた。それに、彼女は奇妙な確信を持った。この男は、自分に卑しい感情を抱いていないし、行うつもりもないという妙な確信を。 「起きたわよ」 縛られた手をひらひらと振って証明してみせる彼女に、微かなため息が聞こえる。 「・・・・・・・・お前には危機感というものが感じられない」 「なに。今から犯すつもり?」 「いや…」 ため息と同時に零れる否定の声は、案外に色気がある。うぶな村娘ならばころりと騙されそうな甘さと凛々しさを持った声色に、しきかし当然ながらと言うべきか、彼女は何も感じず、鼻で笑った。恐らく男が呆れた理由は、自分のようなまだ節度ある娘が下品な言葉を使ったことだろうと思いながら。 「脅えないと駄目だとでも言うつもり?」 「違う。むしろ好都合だ。脅えたままなら落ち着くまで無駄な時間を要する」 それもそうだと思いながら、彼女は腹筋だけを使って上体を起こそうとする。先ほど寝台からずり落ちそうになっていた体勢よりはかなり力を使わなくてすむはずだが、体に力が入らない。起き抜けに使い果たしたのだろうが、それと同時に昼も夜も食べていなかったのだ。力が入らなくて当然とも言える。 「・・・・で、何しにきたの」 「食事を持ってきた。今から縄を解くから食べておけ」 それはありがたい。 軽く彼女が頷くと、それを見た男がゆっくりと彼女に近づいていく。 次第に彼女の視界に入ってくる男の顔は、確かにそこらの村娘ならば心奪われるかもしれない、けれど言ってみれば平凡な美形の顔立ちだった。目鼻立ちは中性的な線を描きながら整っており、唇は心を溶かすような甘い笑みも、背筋が凍るような冷酷な微笑も似合わない。ただ引き締まった無表情が、最も似合うように形作られた、その分個性というものを感じられない印象の薄い美形だと、彼女は思った。 体つきは程ほどに男性的な筋肉を感じ取ることが出来るが、あまり目立ちはしない。少し長く、軽くくせを持つ焦げ茶の髪は襟足にまで届いている。肌は白いが、病的とは言いがたい。瞳は平面的な赤で、やはりどんな印象も感じられない。しかし、黙々と彼女の手首の縄を解くその横顔に、彼女は一つ違和感のあるものを見つけた。 「・・・・・・耳?」 その声に、男は彼女のほうを向く。やはり何の感情も抱いていないような、当然のことのような無表情で。 「耳がどうした」 「・・・・尖ってる」 「魔族ならば当然だ」 その言葉に、彼女は一瞬息を呑んだ。それまでは怠惰だった気分も、目覚めの延長であったはずの神経の緩さも、その一言によって一気に冷水を浴びせられたような気分になる。 「・・・・・・・・・魔族・・・・・・・」 解けた縄を自分の懐に仕舞い込む男を見ながら、彼女は男に聞こえないような声で呟く。 目の前にいる、ただ平凡な美形の、耳が尖っているだけの男が、少女が訝しんでいた魔族。人間たちに軽蔑され、遠巻きに見られ、恐れ半分からかい半分に見られていた自分と、外見の上では同じに見られる種族。 今まで余計なことすら言う余裕があった彼女が、急に硬い表情になったことに、男は少し不思議に思ったらしい。ちらと彼女を見てから、足の縄を解きにかかった。 「まさかとは思うが、同族を見るのは初めてか?」 上体をようやく軽々と起こせるようになると、彼女は黙々と細い足首に鎖のように絡み付いた縄を解く男を見ながら頷いた。 「・・・・そうだけど。おかしい?」 「異常だ」 そう思っていないような相変わらずの無表情で、男は彼女と初めて目を合わせる。煌きも毒々しさも鮮やかさもないその目には、確かに何の感情も感じられないが、力強い何かが根底にあることを、彼女は仄かに感じ取れた。 「ヘルハンプールにあまり魔族がいないことぐらいは知っている。しかし、人間の集落に好んで住むような真似をする物好きは何処にもいない。今でも魔族はネウガード以外は隷属にあるのが基本である以上、特にお前のように、人間と対等な立場で共に生活する例は初めて見た」 淡々と語るその言葉に、彼女は半分信じられないと思い、半分は納得しながら男を見返した。 納得する理由は今までの村の人々の反応を思い返せば何となく分かる。隷属しているとは初めて聞いたが、成る程、自分と少女を奇妙な目で見てくる連中は、不思議に思うと同時に少女を妬んだのだろう。体のいい働き手が見つかったことに対し、自分の場合なら酷い労働条件で精々楽をしようと言うのに、少女は自分たちとほぼ同じような態度で隷属すべき魔族を扱うことと、その幸運さに対する嫉妬。もしかしたら、自分一人で自作のタオルを作って売りに行った時も、奴隷を使っての卸売りかと思われたのかもしれない。それで普段よりも高い値段で買い取られたのならば、むこうはかなりの大損ではないかと妙なところが気になる。 後でエミリアのところに返品されればどうしたものかと思い悩んでいる彼女を見ながら、男は足首にかかった最後の縄を取り外した。 彼が今言ったことは事実だが、それ以上に異常と思ってしまうことは、この娘の態度である。初めて同族を見、魔力というものに気付かず、人間との共存を当然のように思う。その上、拉致されても泣くこともなく、脅えることもなく、むしろ妙に落ち着いている。元々肝が据わっている娘という訳でないことは、結界のことで問うた時に確証済みである。なのに、自分が今どこにいるのかということすら訊ねてこようとしないし、同居していた少女のもとに帰りたいとも言わない。それどころか、自分を見て軽口を叩く。しかし、元いた場所に不満を感じていたわけではないだろう。少女と彼女の会話を思い出せば、周囲はともかく二人の生活に信頼とささやかな満足を感じるように思えた。 足首のほうも縄を解くと、彼女は軽く手足首を動かす。今まで無理に固定していたので、その行動はおかしくはない。けれど、まとも過ぎる。 この突っかかりようは普段の自分にしては珍しいことだと思いながら、彼は娘が素足のままで絨毯の床に降り立つのを見届けた。 それから彼女は少し目を見張ると、寝台のすぐ傍にある背もたれ椅子に腰掛けた。当然寝台と同じく豪華なもので、金色の猫足に、背を預ける箇所すら細かい刺繍が施された天鵞絨張りである。金属の枠であるにも関わらず、硬さを全く感じないほど柔らかいが、椅子として機能すべき堅さはきちんと感じられる。 そして彼女が座った目の前には、寄木細工で作られたテーブルに、銀の大きな盆が載っていた。こちらはメッキではないらしく、深みのある色合いの銀の食器が優雅な線を描いている。冷めないようにと白磁の皿の一つ一つには銀の皿覆いが被されている。それらを一つ一つ取っていくと、彼女は小さくため息を吐いた。 「・・・・どこ、ここ。お城?」 ようやく出てきた、しかし出る要所が全く予想とは異なるその疑問に、彼は律儀にも口を開く。 「ジグロードの高級宿だ」 「ジグロードってどこ」 再び彼のため息。ため息を吐くだけ吐くと、早々と食事を食べ始めた彼女を、見ながら、やはり彼は律儀に答えてやる。 「ヘルハンプールの北西。帝国の管轄内にあるものの、ネウガードに近い分魔族に対する警備は薄い」 ふうん、と気のない返事に、彼はクロワッサンを既に三つは平らげた彼女を呆れるように見た。 「・・・・尋ねた割には、あまりその気が感じられないが」 「基本的に興味ないの。この世界には」 その、世界と言う言葉に、彼は妙な引っ掛かりを覚える。何よりこの魔力を知らない魔族の娘から、世界という大きな規模の単語が出てくること自体、奇妙な違和感がある。 しかし、そう彼女に言われて、同時に彼は今まで娘から感じていた違和感の正体がやっと分かったような気がした。『世界』の言葉どおり、彼女から感じていた落ち着きや余裕が、まるでこの世界に生きている実感がないように、架空の世界を生きているような物言いに感じられたからだ。 「・・・・世界?」 怪訝な表情を向けた彼は、彼女にとって少々珍しかったのだろう。スープを飲み干すと、ちらと彼と視線を合わせて頷いた。 「そう。そりゃ生きてるのが普通で、生きるために頑張るのが普通だけど、だからって他のことに色々欲が沸くほど、人生に積極的じゃないの」 それだけ、と。言うようにフォークでレタスを刺す。瑞々しいレタスは、あまり先端が尖っていないフォークだったにも関わらず、勢いのある音を立ててフォークに突き刺された。 しかし、その補足的な言葉を聞いても、彼は納得出来なかった。自分の一瞬考えた、世界を架空のものとして見ている、自分の生がまるで今存在するものではないとの仮説の方が、彼女の印象にしっくり来る。 だが、彼はその追求の言葉を飲み込んだ。自分が今ここにいるのは、この小生意気な娘の現実感についてとやかく言うことではない。ネウガードの魔王本城に送る際、明確にしておきたい情報があるからだ。その明確にしておきたい情報は、あまりいい印象のものではないことは確かではあるものの、これが仕事の最後の締めとなるのならば仕方がない。 白い小さな用紙を取り出すと、彼はそこに書いてある幾つかの質問をざっと目で追った。 「お前には聞きたいことがある」 「なに」 種が出ないように、丁寧に筋に沿ってカットされた黄色いトマトを食べ終わると、彼女は次にハーブが入っているらしい緑の粒が見えるオムレツをフォークでつつく。羽ペンを持ちながら書く用意をする彼を、少し不思議そうに見ながら。 「生まれは?」 「・・・・・さあ」 声色が堅いものの、投げやりな返事に彼は静かに脱力した。それから、呆れた声を隠しもせずに黙々と食べ続ける彼女を見る。 「自分で生まれた場所も分からないと言うのか?」 「そうじゃなくて、誰も分からないだろうから、別に言わないだけ」 「誰がわからない」 「貴方・・・・ううん、恐らくこの世界にいる人間、人っ子一人、わたしの生まれた場所を知らない」 「・・・・孤児か」 「まあそうなるわね」 軽く頷いて、マーマレードをたっぷり塗ったトーストを頬張る。最初からそう言えばよかったと思いながら。 「――なら生まれた月日は分からないか…」 「あ、それは分かるわ。九月の四日」 力強く頷く彼女に、彼は更に呆れた。この娘の考えが、とにかく読めないからだ。 「・・・・・・生まれた場所は分からないくせに、何故生まれた月日は知っている?」 「その、紙にそう書いてたから」 断片的な物言いに、彼は頭が痛くなった。彼女のほうは、いかにも焦りを隠すかのような愛想のよさを見せている。しかし、そこで分からないよりもまだいいと自分に言い聞かせながら、彼は再び紙を見る。 「年齢は?」 「今年で十七」 「親は…不明か」 「母親は確実に亡くなってるわ」 また彼女を見る彼だが、彼女は表情を変えない。それどころか、その言葉には妙な重たさがあったように、彼女の表情の硬さには、それが事実であることは伺えた。 「――種族は、魔族」 彼女はその確認の言葉に軽く肩を竦める。魔族と言われても、彼女にはその実感がまるで湧かないからだ。耳が尖っていることが魔族の証らしいが、それだけで魔族だの人間だのと激しい種族差別をしているのならば、この世界の住人たちは心が狭いとしか言いようがない。 「一応尋ねるが、――処女か?」 「意識があるまではね」 彼としては最も尋ねにくい質問に対し、彼女はあっさりと答える。その潔さに心の中で感謝しながら、彼は彼女の考えていること――とは言っても、その思考に違和感は持たなかった――を見越して告げる。 「安心しろ。お前に危害を与えるつもりはないし、与えていない」 「根拠でもあるの?」 「自分より化け物らしい化け物に、色欲を持つほど飢えていないということだ」 きょとんとする彼女に対し、彼は何の感情も感じられない端正な顔から、仄かに警戒を抱いた堅い表情を見せる。 「予想通り、お前は一介の村娘にも拘らず、自分の無意識的な感情だけで結界を張った。そんな真似は少なくとも私には無理だ」 彼との初対面の時を思い出し、彼女は眉をしかめる。 「だから・・・・そんなの張った覚えないんだけど」 「だろうな。何より、魔族としての自覚もあるかどうか分からない。魔力の何たるかを分かっているのかどうかも分からない。そんな魔族が、しかも自身は強力な魔力を持ちながらそれを使っている自覚がない者がいるとは、私も信じがたい」 そこまで言われると、何か自分が鈍感を通り越して立派な馬鹿だと言われているような気がするのだろう。更に機嫌が悪そうな顔をして、彼を睨んだ。 「急にそんなこと言われても分からないものは分からないの。大体、そういうものがあったとしても、見えないし感触も感じないし、匂いだって音だってしないんならすぐに分かりようがないでしょ」 怒りながら当然のことを言う彼女に、彼は目を見張る。 「それ以外で感じるものが魔力だということが、お前には分からないのか?」 「そうよ。生まれてこの方十七年間、魔力なんて感じたこともないわ」 「・・・・・・・・・・異常だ」 そうは言うものの、彼はなんとなくだが、彼女がそんなことを言う理由に予想がついた。恐らく、その膨大な魔力を生まれながらに持っている彼女の特性と、彼女を取り巻く環境があのような辺境の、同族すらおらず、魔物も雑魚しかおらず、魔力に関することとは全く無関係な環境で生きてきたのだろう。これほどの魔力に同族が惹かれることなく一切の関わりを持たずにいたというのもおかしな話だが、ヘルハンプールは特に魔族に対する抑制が強い。シーフタワー付近などの辺境に、魔族が身近に行く機会などないに等しいのだろう。 「・・・・そういえば、なんで浚って来たのよ」 「・・・・・・今更訊くのか」 本心からの呟きに、彼女は一息に紅茶を飲む。 「意識失わされて、次起きた時は拘束されて、監禁も同然の状況で?まず自分の身の安全を知ることのほうが大切だと思うけど」 「私がお前に危害を与えるつもりはなくとも、これから先、私以外は危害を与えない保障がないとは思わないのか?」 それこそもっともなことを言われて、彼女は一瞬呆気にとられたような顔をした。それから顎に手をやり、深く頷く。 「・・・・・・・そうね。確かにその可能性はあるわ」 大真面目に頷く彼女に、ため息一つを返して彼は続ける。 「私も上の意思は知らない。ただ平均的な魔族よりも魔力のある人間を連れて来いと言われたまでだ」 「ん?」 それを聞いて、彼女は俯いて考えるような顔になった。 「人間?わたし、魔族なんでしょ?」 その言い方にこそ突っかかりを覚える彼は、浅く頷いて答える。 「今見える限りは魔族だ。しかし、混血の可能性もある。魔力の多さからは私は詳しく特定出来ないが、お前以上に魔力がある方なら混血かどうかの判断は付くだろう」 「混血って、何と何との」 「人間と魔族。――今までの話で他の種族が出るとでも思ったのか?」 「可能性はなくはないでしょ」 「今お前との会話に出てきた種族に関する単語は魔族と人間ぐらいしかないと思うが」 「まあね・・・・」 潔く認める彼女に、彼は更に続けた。 「人魔の差はあまり大きくない。基本的に魔族の体は自らの魔力に影響されやすく、そのため耳が尖り肌が人間のものとは異なるだけだ。他は特に目立つことはない」 「なら、もしわたしが自覚がなくて魔族だって言われてるけど、ちゃんと人間だっていう可能性もあるわけ?」 「それはない。人間はいくら魔力があったところで、それが身体の外観に影響することはない。尤も、影響を及ぼすほどの魔力を持つ人間がいるかどうかさえ不明だが」 最後の言葉に少し気になったものがあったのか、彼女は目を細めて尋ねる。 「けど、貴方はあんまり魔力がないのに耳が尖ってるんでしょ?」 「その辺りにいる人間よりはある。生憎、純粋な人間が魔族よりも魔力を持っている例を、私は見たことがない」 きっぱりと言い放った彼に、彼女は苦笑にも似た笑いを浮かべる。この世界に来てから魔族だの魔力だのというものについてよく耳にするようになったが、その現実感のない言葉を、彼ら「魔族」はとても大切に思っているように感じるのが、それも、真面目そうな大の大人が言っていることが、何か滑稽だと思ってしまうのだ。 「そんなに人間って、魔力がないの?それが悪いことなの?」 「ない。そして悪い」 簡潔かつ否定させぬほど明確に、彼は答えた。それに、彼女はそうなのかと頷く他にない。 「・・・・それで、わたしはどこに連れて行かれるわけ?」 「ネウガードの王都であり魔都ガーディブ。今日中に向こうからの迎えが来れば今日にも着く。迎えが来なければ三日後に着く」 ふうん、と気のない返事が返ってきたが、彼女にごく普通の魔族なり人間なりの反応を期待するのは馬鹿げたことだ。しかし、そう反応してから、彼女は少し考える顔になり、次に驚いたように顔を上げた。 「って、ネウガード?魔王のいるとこ?」 「知っていたのか?」 それこそ意外なことだと思っていることを隠しもせずに尋ねると、彼女はこっくりと頷く。 「一応ね。あの子に教えてもらった」 辺境の村の子どもですら知っていることを、彼女のような絶大な魔力を持つ者が知っているかどうかも怪しい、という認識がいつの間にか二人の間に為されていた。 「私はガーディブに着いた後のことは知らない。連れて行くまでが仕事だ」 「そう。なら、またあの村に戻れるかっていうことは、貴方には訊けないのね」 その言葉を聞いて、それこそ意外だと言うように彼は訝しげな目をする。 「戻りたいのか?爪弾きにされていて?」 その視線に、彼女は呆れと少々の怒りを見せながら睨み上げた。 「まだエミリアは子どもよ。それに一宿一飯の恩義ぐらいは返すのが当然でしょう」 「相手は人間の子どもだ。愚かにも善意を向けてくるならば利用すればいい。義理など人間に向けたところで無駄だ」 「馬鹿馬鹿しい!」 初めて声を荒げた彼女に、彼は小さく目を見開く。今まで彼女から感じた架空の世界で幻想を見るような奇妙な冷静さとはかけ離れ、純粋に彼に対し怒りの情熱を向けてきている。ただあの時、一緒に暮らしているらしい少女のためだけに、こんなにも怒っていることが、彼には予想外だった。 「人間だの魔族だの何だのって言うけどね、わたしにはそんなものどうでもいいのよ。大体、耳が尖ってるだの肌の色がちょっと違うだのでいい年こいた大人がちまちまちまちま差別すること自体馬鹿げたことだと思わないの?その上、人間の子どもだから利用すりゃいいって?最低ね。子どもの精一杯の善意を利用するだけ利用するような大人が、ごく普通の人格の持ち主だとでも言う気?」 「そのようなことはガーディブでは言うな。人間だけではなく、魔族からも爪弾きにされるぞ」 実に冷静な言葉に、彼女は更に眉間に皺を寄せる。 「別にいいわよ。そこまで種族差別が激しくて心が狭い奴らに、媚売る趣味じゃないわ」 凛とした、本心からの言葉であろうその声に、彼は何か焦りに似た感情を覚えていた。人間がいいものとは思われたくない。魔族は何も理由なしに人間を嫌うのではない。ちゃんと理由があるのだ。それを知らずに、彼女には人間の味方に付けることは危険なことのように思う。しかしそれは彼ら魔族からすれば当然と言えば当然のことだが、彼自身の性格からすれば、実に珍しいことだった。 「人間は魔族を家畜以下に追いやったのにか?帝国の階級制度はどれだけの魔族を屈辱に追い込み、心を殺していったと思っている。奴らは何も考えず、魔族を踏み台にしてきた。たった十数年とは言え、その屈辱は総ての魔族に宿っている」 「それがどうしたのよ!いい年こいた大人なんでしょ!?ならなんでそれぐらい寛容に許してやらないのよ!!そんなことで子どもの善意踏みにじる必要さえあるって言うの!!」 苛立ちと同時に吐き出されたその言葉に、彼は不意を突かれた気分になった。と言うか、正直に言えば呆れを通り越して唖然とした。 魔族の長き渡る屈辱が、血の涙が、たった一人の小娘にかかれば「それがどうした」になってしまうのだ。それどころか、「寛容になれ」だの「許してやれ」だの、まるで喧嘩の仲裁のような物言いだ。しかし、彼女にはその気持ちに偽りはないらしい。叫ぶだけ叫ぶと、爛々と射抜くような輝きを放つ目と如何にも攻撃的なものを感じる魔力を彼に向けて続けた。 「わたしが怒ってるのはね、あんたのその考えなの。人間がどうとか魔族がどうとか、そういうのは今はどうでもいい。親もいない子どもの、純粋な善意を、踏みにじっても別にいいだろっていう、その考えが許せない」 「・・・・・・・・・」 「訂正しないんなら別にいいわよ。そういう奴なんだってわたしの中で決定して、どんなものより下に見ればいい話なんだから。けど普通、種族差別とかそういうのを抜きにしても、義理ならきっちりとは言わないまでも、少しでも返すことは返すべきでしょうが!!そんなことも分からない奴が、この世界じゃ一人前の大人だって顔してるっての?だとしたらこの世界は赤ん坊からでも大人って呼ばれるのね!」 散々好きなように撒き散らされた文句と魔力を受けると、彼は目を閉じて小さなため息を吐いた。それは安心の意味で吐いたものでもあるが、同時に降参の意味で吐いたものでもある。 彼が心配していた、彼女にとっての人間に対するものの見方が同情的なものになった訳ではない。ただ彼個人の態度に対し猛烈に怒っているだけである。怒っているだけではなく、無尽蔵の魔力を自分に刺すように向けて。しかしそれしきのことならば、その怒りを和らげる方法は一つしかない。 「分かった。訂正しよう。恩義を返したい気持ちは分かったが、それが返せるかどうかは上の考え次第だ」 不意に、彼女の魔力が鬼気迫るものを失っていく。しかし、彼女の表情はまだ険しいものを宿したままだった。 「しかし、先ほど私が言った言葉は、一般的な魔族の思考でもある。魔族は長きに渡り、人間が造った理不尽な法によって虐げられてきた。その苦しみと人間への憎しみがある以上、私のように易々と折れるものはあまりいない。私怨に近い恨みすら抱いている者もいる…」 「だからあんまりああいうことを言うなって?その気持ちはありがたいけど、生憎わたしは穏やかな性格じゃないの。そりゃあこっちも礼儀は知ってるから最初から喧嘩腰にはならないけど、その手の差別を見せたら例外なく怒るわよ」 「・・・・・・・・それが陛下の御前でなければいいが」 ぼそりと呟くと、彼はしかし、すぐに自分の考えを否定した。上司に言われたことではあるが、彼女のような得体の知れない小娘に魔王が直々に謁見するなど考えにくい。もし会っても、自分の上司が適任だろう。何より、さすがに魔王の前に彼女が出れば、あれだけ気の強いことを言ってもその口も鈍るに違いない。それだけの魔力を持つからこその魔王なのだから。 一応彼が訂正したことで、機嫌も少しは直ってきたらしい。彼女は少し考える顔つきで尋ねてきた。 「さっき、人間が好き勝手にしたとか何とか言ってたけど、魔王がいるのにそんなこと出来るの?」 「陛下がいない内に、帝国の人間どもは階級制度を執行させた。陛下が戻ってからは、ネウガードの魔族は独立し、階級制度から解かれた」 「他の魔族は救う気がないわけ?」 「他の魔族は人間の奴隷として他所に移住させられた者が多い。陛下は魔族全体の地位の向上を目指しているようだが、ネウガードに住まう魔族にとっては今のままで充分だ」 「・・・・・・ネウガードの魔族は、差別が大好きって訳ね」 皮肉な笑みを宿しながら頷く彼女に、彼は肩を竦める。その次の瞬間、ノックの音が部屋に響いた。 「おい。アシュレイ」 ドアの向こうから聞こえてくる声に、彼が向かう。そして彼女の方は軽い警戒を見せながら――この声の持ち主が、自分を気絶させたことを彼女は気付いていた――、彼の歩いていく方向を見る。それと同時に、印象として地味な彼が、アシュレイなどと言う案外に派手な名前を持っていることに少し驚いていた。 「奴さんからの連絡だ」 ドアの隙間から見える、如何にも荒々しいことが得意そうな屈強な体格の男から小さな紙を受け取ると、彼はそれに目を通し、次に軽く頷いた。 「早いな」 「今までいい報告聞かなかったからなあ。その説教もしてえんじゃねえの?」 そうかもしれないと軽く頷く彼に対し、粗忽な態度の男は身を硬くしてソファに座り込んでいる彼女を見て挨拶代わりに笑いかけた。 「よう。吐いてねえか?」 「それどころか説教する」 紙に視線を落としながらそう告げる彼に、男は少し皮肉っぽく笑った。 「さすがだな。あんなナリしても相変わらずの魔力じゃねえか。神経まで化け物かよ」 彼にのみ聞こえるように声を落とすと、そう言われた彼は鼻で笑うように同意を示した。神経までもが化け物並み、という点は、確かに彼女の性格を表現するにはなかなかいい。 紙からやっと視線を外すと、彼はなるべく彼女の耳にも入るように声を張った。 「上はかなり急いているらしい。今からでも迎えが来るそうだ」 彼女が頭を上げ、彼を見る。相変わらずその視線と華やか過ぎると言ってもいいほど鮮やかな赤い瞳は、どこか彼の奥底の記憶のものとかち合うような即視感をもたらす。それはまるで、血に濡れたような赤い月のようだと思ったことがあるはずだった。 「帰れるかどうかはその後に訊けばいい。今逃げ出しても、無事に帰還することは絶望的だ」 すっかり朝食の盆を空にした彼女は、屈強な男がいるせいか、少し表情が硬いまま返事をした。 「分かってるわよ。けどまた縛ったり、眠らせたりしないでしょうね」 「・・・・おいおい。んなこと気にしてんのかよ」 やはり、彼にしか聞こえないような馬鹿にした声で、男が哂う。しかし、それに同意はせずに彼も真面目に答えた。 「お前が抵抗する気があるならば、それなりの配慮はする。抵抗の意味は分かっているな?」 「はいはい」 やや投げやりな感のある返事であったが、それに対し満足げに彼は頷き、そしてドアを閉めた。それを見て、少し慌てて相方の魔族がドアノブを開けようとする。 「おい…監視はいいのかよ」 「違う。前だ」 そう言われて男もドアから向かって正面をちらと見ると、そこには魔族の女性が二人――彼らよりも、確実に地位として上に当たることだけは分かるほどの威厳と魔力を持って、彼らに軽く会釈をした。 「例の娘は此処に?」 濃いが光沢のある藤色の髪を短く切った女性の言葉に、彼は頷く。 「釘は刺しておいた。あまり抵抗はないはずだ」 「承知した。以後、娘は私たちが本城に送る。貴方がたは一足先に戻り、書類の製作に当たってほしい。それで今回の任務は完了する」 凛とした否定の声すら認めないような物言いに、しかしのんびりとした声で大柄の男が挙手する。 「俺らが先に魔方陣使ってもいいってことか?」 「いいえ。わたしがまず貴方がたの職場へ通すようにしておきましたから、別の魔方陣で行ってもらうことになります。かの娘は、魔力がかなりあると聞きますから、本城の、地下の魔方陣に直接送るようにしないと…」 紫の髪の女性の後ろにいた、青い髪の、上官であろう女性と同年代の魔族の女性がそう答えると、彼はそれにも軽く頷いた。 「その判断は有難い。では、先に失礼する」 「はい」 軽くそう挨拶を交わすと、彼は相方の魔族と共に無人の廊下を歩いていった。そして更に人の気配の感じない、非常用らしい無骨な鉄の階段の踊り場に着くと、その場に軽く白墨のようなもので描かれた円に全身が入るように乗り込む。 淡い光と音を発するそれが、再びただの白墨の円に変わるとき、既にその中に入っていたはずの彼らの姿は掻き消えていた。 そしてそれは当然のように、この宿にいる誰にも知らずに行われ、同時にその魔法こそ魔族の秘儀の一種であることは、当然この宿にいる誰も知らなかった。 |