親子の邂逅

 

 

 ほぼ入れ替わりのタイミングで入ってきた二人に、彼女は一瞬唖然とした。

 何せ入ってきたのが自分を浚った二人とは全く逆の印象を持つ、全くあの二人とは逆の性別の、可憐な女性たちだったからである。

 最初に入ってきた、いかにも凛々しく、同時に頭の回転も早そうな品のある女性は、菫の砂糖漬けを思わせる、淡く光沢のある紫の髪をしていた。長く伸ばせばさぞ美しいだろうというのに、襟足の当りでざっくりと切られているが、その女性の立ち振る舞いや表情の堅さから言えば、確かに短い方が似合っているのかもしれない。鋼の台座に金の象眼を施した額当ては、中央に紋章であろう妙な線の塊を見せている。その紫の髪から覗くのはそれだけではなく、当然のように白く尖った耳があった。

 格好も前の二人よりも華やかで、見える装飾品は耳の奥に光る金色のリングと、首に額当てと同じ素材の首飾りに、女性の瞳と同じ色の鮮やかな新緑の宝石が輝いていた。服装は紫の唐草が裾に縫いこまれている、黒い奇妙な形のコートを着用していた。どの辺りが奇妙かと言えば、上半身だけ見れば詰襟の本当に軍人が着ているようなコートだが、下半身は腰の辺りで軽く膨らみ、生地こそしっかりとしていて重みがあるものの、スカートのような優雅な線を持たせている。コートの下は皮で固定された薄紫のブーツが見えたが、このような女性がよもや膝より短いスカートを穿くとは思えない。

 その魔族の女性は彼女を見止めると、軽く表情を堅くさせる。先ほどからあった、軍人のような規律や訓練があって作られた堅さではない。不意に彼女への警戒心を露わにしてしまい、無意識的に身構えているように見えた。しかし、すぐさま引き締まった顔に戻ると口を開いた。

「貴女が、ヘルハンプールでレデュールとアシュレイによって捕獲された娘、ですか?」

 十中八九確認の意味合いを含んだその問いに、彼女は大人しく頷く。

「片方の名前は知らなかったけど…一応ね。貴方たちが魔王城とやらに連れて行くの?」

 彼女の物言いに、女性は頷くのみで返事をする。女性ながらにして風格があるだけのことはあり、彼女のような小生意気な態度にも表情は一切変えない。

 そしてそれを補完するように、紫の髪の女性よりも下の位であろう、艶かしい雰囲気を持つ青い髪の女性が口を開いた。

「転移対象者の魔力の変化に応じて到達時間がかかりますが、平均して約一分以内で到着します。到着後は恐らく初めての転移でしょうから、精神か身体に、一時的ですが負担が掛かるでしょう。それに、貴女の場合なら――そうですね、三分か、それ以上になると思われますが…」

「・・・・・三分?正気?」

「・・・・・?」

 何が正気なのか分からないが、彼女に厳しい視線を投げかけながら上官らしい女性が呟けば、青い髪の女性は深刻な、自分でもそう言っていいのか分からないような戸惑った表情で頷く。

「彼女の力は私には計り知れません。ザラックさまか、もしくは陛下ではないと詳細には読み取れないレベルかと…」

 低いなめらかなアルトの声で、堅い表情のままそう答える青い髪の女性に、紫の髪の女性は軽くため息を吐く。そのため息の意図は分からないが、あまりいい意味ではないことぐらいは彼女とてよく分かる。

「・・・・人間の娘ではないが、確かに魔力の塊を放置するのは実に惜しい。陛下の要望とは趣を異なるものの、彼らの判断は間違いではない、ということ…」

「はい…」

 部下の頷きを見て少々強引に自分を納得させるように、紫の髪の女性はため息をつく。それから、頭を切り替えるように、急に真っ直ぐに彼女を見た。

「では、来て頂きましょう。移動とは言えどほんの少しの距離です。体の負担にはなりません」

 女性がそう言うと同時に、椅子に座ったままの彼女の二の腕を強引に掴んで立たせようとする。言葉は丁寧だが、かなりの乱暴な扱いである。

「・・・・って、ちょ、分かったから、歩けるから・・・・」

 実際、急な行動に、少し反応が鈍ってしまった彼女はほぼ掴まれた二の腕を引きずるようにして立ち上がると、急いで絨毯にしっかりと足をつけた。

 立つと、今まで見上げていた女性二人が、案外小さいことに気がついた。

 特に青い長髪の女性は、肉感的な体つきの割りに、身長は彼女よりも少し低い。体つきが肉感的と分かるのも、薄く青い羽衣のような華奢な生地のローブに、体の括れのある各所に金属とも皮とも判断し難いようなもので固定しているだけの簡素だが妙に色気のある格好をしているせいである。一歩間違えれば踊り子か、路地裏で男を誘惑する娼婦のような格好だが、女性の纏う雰囲気は意外にも上品で、知性が漂う静かなものだった。

 青い髪の女性は彼女と目が合うと、軽く会釈して視線を逸らす。その表情は堅く、無駄に気を引き締めているように感じたが、その原因が自分だと思うと妙に複雑な気分になる彼女である。

 ため息を一つ吐くと、紫の髪の女性がこっちを見てくるのが分かっていながらも、彼女は誘導された通り、ドアから廊下へ出た。

 廊下は、この宿の階級を考えれば当然のように地味な豪華さを持つ造りだった。窓はないが、大人が三人は横に並んでも隙間が出来るであろう広さを持つ廊下は、薄いばら色の壁に、ほぼ数歩置きにクリーム色の貝の形を模したランプが暖かな光を灯し、廊下にまでびっしりとココア色に大きな花の柄の入った絨毯が敷き詰められていた。当然のように埃すら見当たらない。

 やたらぴかぴかに光る食器類を見たときも思ったが、こんな世界が当然のようにあることに、彼女は内心鼻で笑うような気持ちで女性二人に促されるようにして歩き続ける。

 その間は、当然ながら無言である。それどころか、彼女の前後を挟む魔族の女性二人は、彼女が拘束されていた室内にいたときよりも明らかに周囲を警戒しているように感じられた。

 そこまで過剰になる必要はどこにあるのかと苦笑したいのを我慢しながら、彼女も無言で顔を引き締めながら歩いていく。そして、曲がり角を曲がるかと思った瞬間に、先方を歩いていた紫の髪の女性が足を止めた。

「・・・・ん?」

 思わず彼女が覗き込むと、その女性の前にある壁が急に抜ける。一瞬女性が切り取ったのかと驚いた彼女だったが、何のことはない。ただ壁紙と同じ色をしたドアが、そこにあるだけだった。

 女性はドアノブがどこにもないドアを器用に開けると、彼女の方を振り返る。その緑の目は相変わらずと言うべきか、警戒心と緊張で満ちていた。

 促されてそのドアを越えると、彼女は一瞬懐かしいものを見たような、しかし同時に妙な違和感のあるものを見たような気持ちになった。

 そこは宿内の非常階段らしい、鉄製の階段があった。狭く小さく、踊り場は何とかなるものの、三人もいれば途端に窮屈に感じてしまうほどの小ささである。

 ここからまた何処かに出て行くのかと思ったが、そうではないらしい。青い髪の女性が最後に入り、ドアを閉めるのを見届けると、紫の髪の女性は階段を一歩上がるだけで青い髪の女性に告げた。

「では始めてちょうだい」

「はい」

 短く答えると、青い髪の女性は軽く緩んだ袖口から白墨を取り出し、彼女の足元を囲むように、階段の踊り場に円を描き出す。

「な、ちょっと…」

 急に女性が屈みこんで、自分の足元で何かし出したのだ。一瞬焦って避けようとした彼女だったが、一段上にいる紫の髪の女性が彼女の肩を掴んで固定させようとする。

「貴女が動けば意味がなくなります。そのままでいてください」

 静かだが、強い口調でそんなことを言われてしまうと、彼女もそれに従わざる終えなくなる。屈みこんで円の内側と外側に何かを書いている女性の頭を見ながら、彼女は複雑な気分でそれを見た。

 女性の白墨の動きは迷いがない。彼女は読めない文字であったが、何処となく呪術的な動きを残すそれらを、女性は一息も入れずに書き込んでいく。まるで、何も考えていないかのように。手が女性の意思とは関係なく勝手に書いていくように。取り憑かれたような荒々しさと速さと緊迫感で。

 彼女はその動きと、顔は見えないがひしひしと感じられる集中力に息を呑んだ。呼吸をする暇も与えないくらいの緊迫感と早さで、複雑な魔方陣が易々と出来上がっていく。視線が負うよりも速いのではないかと錯覚するほどの勢いに、ただ彼女は圧倒されていた。

 そしてようやく女性の手が止まったとき、女性だけではなくその指の動きに見入っていた彼女までもが大きく呼吸をした。

 しかし、女性の仕事はまだ終わらないらしい。彼女の方を急に見ると、その唇が微かに動く。

「――転移、開始」

 短いその言葉とほぼ同時に、彼女の体に違和感が現れた。

 淡く、足元の白墨の文字が輝き、次に眩く輝いたかと思ったが、その眩いはずの視界の隅に丸い穴が開いていた。音も、感覚も、何だか丸い穴が自分を蝕むように空虚な部分がそこかしこに浮かび上がる。

 彼女自身の体には何処にも違和感はあるまい。しかし、五感が、ありとあらゆる感覚が、次第に失われていく。否、奪われていくと言ったほうがいいのかもしれない。

 まるでパンチで感覚という紙を少しずつ切り取られているような、少しずつ、しかし確実に、乱暴に、感覚に穴が開き始める。

「――あ」

 自分が何と言っているのかすら聞こえない。否、声を出しているのかも分からない。どこを見ているのかも、どこに立っていたのかも、どんな体勢でいるのかも、少しずつ分からなくなってくる。

 次第に忘れていってしまいそうになる現状。自分はどこにいて、自分は誰の近くにいて、自分はどんな生活を送っていて、自分は誰だったか。自分は、どんな女性から生まれてきたか――。

 それすら忘れてしまいそうになる恐怖が、彼女の胸に膨らんでいく。しかし、感覚を奪う穴は、次第に大きくなって彼女を包む。その穴に吸い込まれることを抗っても、穴は無慈悲に彼女を飲み込む。

「・・・・・・あ、ぐ」

 忘れるものか、忘れるものかと体に訴え、心に訴える。けれど、全てを忘却の彼方に導いていくそれは、まるで台風のように彼女の感覚、そして心を剥ぎ取っていく。乱暴に。荒々しく。けれど実に自然に。

「―――!」

 そしてまるで伸びきったゴム紐が弾けるように、彼女の意識も弾け消えた。

 

 

 女が好きになった覚えはない。ただ、男に欲情するなど考えもつかないだけであって、それならば女を抱くのが自然なだけの話だと、男は思った。

 しかし、だからと言って女を好きになれるかと言えばそうではない。男の前で脚を開く女は、媚びるか呆れるほどの従順かのどちらかしかなかった。むしろ、性欲の対象として見たことがない女とも思えない女たちのほうが、彼の中ではまだ格上の存在だった。――ちなみにこれらは、相手が同族であることを想定しての話である。

 では、他族――エルフや人間はどうか。エルフは論外である。確かに見目かたちは美しいものが多いが、その分妙な差別意識を持っている者が多い。一言で言えば高潔過ぎるのだ。大抵の者がきゃんきゃんと喧しく、女として見るどころか、会うだけでも無駄に精神的にも肉体的にもエネルギーを消費する。性の対象として見る余裕などない。

 では人間は?基本的には嫌う。男は殺しても構わないが、女は大抵無抵抗だ。けれど、あの女たちは自分が弱者であることに逃げすぎている。だから忌み嫌い、憎む。悪い噂を流し、他人のふりをするぐらいしか芸はないが、それだけしか自分たちが能力を持っていないのを知っていて、しかしそれだけのことで男を動かし、意味のない力を生む。そんな卑小な存在は、男は反吐が出るほど嫌いだった。

 しかし、過去にたった一人、ある人間の女を性の対象として見たことがあった。

 だがそれは人間の女と判断していいものかどうかは分からない。何せ相手はこちらの世界の常識をまるで知らない人間だからだ。だから男との邂逅ですら、その人間は少し不思議そうに、現状に戸惑うように、まるで自分に必死に助けを求めるような視線を投げかけるだけだった。――男が今まで人間に受け与えてきた、恐れや憎しみや絶望など、その青い瞳は何に一つ宿していなかった。

 だからこそ性の対象として見れたかと言えばそうではない。女は自分が何者であるかが分かってきても、妙に律儀に自分を見ようとしたから、それを挑発と取り、受けてみたくなったのかもしれない。ほんの気まぐれで、たまには人間を抱いてみるのもいいかと思っただけかもしれない。どちらにしろ、当時のことはあまり覚えていなかった。

 けれど、まだあの身体は覚えている。その質感も、体温も、仄かに湿った汗の冷たさも、体臭と茂みの蜜の香りが交じり合った空気も。その押し殺すような声も、必死になって自分の肩を掴む指先も、切なそうに自分を見上げる瞳も。

 全て自然と思い出せ、そして未だに忘れる片鱗すらない。

 その人間との夜は数え切れないし、男は律儀に数えるような性格ではなかったが、それでもその人間を見れば、溢れ出るものは止まりそうになかった。

 今もきっと、その女に対するものは止まないのだろう。何故なら他の女を抱いていても、冷静にあの人間の心地を思い出すからだ。

「・・・・へい、か?」

 密やかな息がそう呟く。その声に、男は次第に冷静を通り越し、精神が退屈に近い状態にあるらしいと分かった。

 何も言わずに汗にまみれた女――否、この場合はただ媚び性欲に溺れたただの雌だ――の肩を掴むと、そのまま何も言わすつもりもなく、過去にそうしたように腰を力強く引き寄せる。

 派手な女の嬌声が聞こえたが、それは男の何も刺激せず、それが作業であることを再認識するだけだ。少し体と精神が鈍くなってしまうから、妙な衝動が鬱陶しいから、ただそれを回避するためだけの作業。

 雌の声が一層派手に響く。しかしそれに、男はやはり何も感じない。虚ろな気持ちで、体が少し楽になるための作業をするだけだ。

 そしてその声がつんざくようなものに変わり、そして雌の白い全身が大きく震えた瞬間、男はその見苦しさに少し眉をしかめ、目を逸らした。

 

 惚け、涎を口元にたらしたままの女を帰らせると、男は一人、思い出に浸る。

 とは言っても、あまり有意義な思い出ではないし、その時間の使い方が有意義であるとはとても思えない。昔の女の感触やその女と寝たときの空気など、思い出しても今は程遠いものだ。

 程遠いものを知ってしまったことに後悔はないが、それがとても自分の中で残るものであると認識すると、少し自分の今の地位が嫌にもなる。しかしだからと言って、地位を捨てても得ることが出来るものではない。そして当然のことながら、自分の命をも捨ててまで得たところで、それは恐らく何の意味も成さない。自分と望みのものと、そしてそれと共に程遠かった思い出を再現させることの出来る環境は絶対に必要なのだ。

 だから今は、碌な手がかりがないことは分かっていても、その環境を造り上げることに精を出さねばならない。しかし、それも辛いものだ。

「――結局、追い出すにしても面倒な奴しか残らなかったか」

 男は頭を切り替えると、そう吐息をついた。

 男が唯一全てを認めた女が造り上げた見事な土台の上に、歪な建築物が、今は堂々とそびえ建っている。初期ならば恐らく潰しやすかっただろう。誰も彼もが欲を持ち、その分疑心暗鬼で互いの腹を探りながら、慎重に自分の足元を固めていく。その速度は、確実に男が戻る少し前よりも遅かったはずだ。

 しかし、今は違う。否、魔族の反感を買うような政治体制になった辺りから、その集結は格段に速くなった。察するに、英雄と呼ばれ、実際に統一に貢献した者たちが、権力争いから零れ落ちだし、自分たちの元々の領土のみを確保した辺りで、今残った連中による独裁政治が行われるようになったのだろう。

 『ガーディブ』などと面倒な名で呼ばれるようになり、男の父王が君臨していた城は、男を迎え入れる時、人間の臭いが吐くほどしていた。魔族の王の城が、禄に戦地で役に立たない、運が良かっただけの人間の気配と存在で汚される。その事実に、男は呻き、本気で怒った。

 元々人間を許してやるつもりなどないし、これからも許さない。男にとってはほんの少しの年月だったが、大戦後の放浪は、そう結論付けさせた。何より、百余年近くの間、同族にでさえ暖かな感情など持たなかった男だ。人間が相手となると、更に話は難しい。そしてその深い憎悪は、男のあらゆる原動力となって今も息衝いている。それを捨てるのは、結局無理な話なのだ。しかし、その憎しみを別の方向に活かすことは出来る。つまり、土台のみを残して、その歪な建築物を破壊することぐらいなら、人魔共に信用せずとも、人魔共に協力せずとも、人魔共に恐れられた男なら出来ないはずはないということだ。

 そのための魔王の座。魔族を法の鎖で縛りつけ、無理に頭を垂れさせるように仕向けた人間共に、再び魔王が君臨するという恐怖を、そして魔王という存在がどれほどこの世界に影響を及ぼすかということを、自らの肌で感じさせてやればいい。

 実際、彼が魔王として復帰したとき、それまで魔族にとって理不尽な法の上でのうのうとのさばっていたネウガードに滞在する新興貴族はほうほうの体で逃げ出した。少々痛い目に遭ったことを根に持ったらしく、帝国を牛耳る人間たちに何か訴えたそうだが、結局その訴えも揉み消されたのだろう。保身に必死な人間たちの心理など、詳しくは知らない。しかし、魔王の出現と同時に、人間たちの態度は瞬く間に変わっていった。

 男は大したことを行ったつもりはないが、人間たちはそうは思わないのだろう。男がネウガードの新たな太守として現れただけにも関わらず、彼らは易々と男の――魔族の発言権を認めてしまったのだ。

 それまでの帝国の政治は、実質人間のみの議会政治である。議会と言ってもほぼ独裁に近く、たった三人の人間が――やはりと言うべきか、悲しいかな、大戦時には男が聞いたことすらない人間たちだった――自らの欲や意思を貫き通すために議論を重ねている。他の代表など、ほとんど政治に直接口出し出来ないような立場を自覚し、ただ集められても静観するしかない立場の者ばかりだ。

 しかし、男は違った。元々人間以外の異種族ですら呼ばれなかった議会に、当然のように男は――最も人間から差別されるべき種族の王は招かれた。

 もしかすると、議会の中心である人間たちからすれば、単なる様子見や釘刺しのようなものだったのかもしれない。魔王と呼ばれるだけの魔族を一人呼んでおいて、自分たちとの隔離を改めて分からせたかったのかもしれない。しかし、結局その人間たちは、男を、否むしろ魔族という種族そのものを見誤っていた。

 魔族の王として称えられ、そして全ての魔族に迎え入れられた男は、議会に集った全ての人間を劣等感の塊にさせる全てのものを持っていた。それは愚鈍な者でさえ感じられるほどの魔力であり、一族全ての民の支えとなるべき王としての貫禄であり、知性であり、威厳であり、独裁者として持つに相応しい残酷性―― 一見して感じられるもの全てが、議会を牛耳っていたはずの人間たちの誰よりも帝王らしく、誰よりも独裁者たるべしと思わせるものを持っていた。

 そして、そんなことを一瞬でも感じてしまえば、今まで帝国を好き勝手に動かしてきた人間たちはもう負けを認めたも同然の状態だった。男が議会に現れたほんの数分後、ネウガードのみ、人民階級制度――魔族にとっての何より重い法の鎖が解かれることが決まり、同時に言葉には出されていないものの、男が今後も議会の参加権と発言権を持つことも決まった。

 男が姿を現しただけでそんなことになったのだ。人間たちは焦り、男の所存をどうすべきか頭を捻っただろうが、現状を考えれば、元より魔王を見る以前から魔族全体に餌を与え、目立つ動きを抑えさせるつもりだったのだろう。ネウガードだけは魔族の楽園として存在し、他の地域に住む魔族のことは今の段階では詳しく分からない。本気で調べた上で連中に問い質すことも可能だろうが、現在力を入れるべきところはそこではない。

 男はもう一つため息をつくと、少し遠い目をして部下のことを思い出す。

 元々父王の部下と、もう一人は姉の部下であった魔族だが、生憎どちらも手持ちの駒は充実していないらしい。誰も彼もが若いばかりで、経験も魔力も実力も、大戦時に比べればあまりにも貧弱な者ばかりだった。そのくせ、少々素質があるからと言って周囲が褒め称え、本人は一応否定はしているものの少し鼻にかけているような未熟さが見える。そんな者ばかりでは、確かにあのような多くの人の上に立つ器ではない姑息なだけの人間たちに太刀打ちできなかった理由がよく分かる。

 しかし、男が魔王として君臨している以上、魔族としてそんな醜態をこれからも晒す気はない。だが、未熟で魔族としての誇りも薄っぺらな手駒ばかりでは焼け石に水である。だからこそ、一目人間たちが見て、何も反論が出来なくなるほど強力な駒を得るために、男は再び禁儀に手を染めたのだが――

「奴が来れば話は早いが・・・・・・」

 生憎、自分が呼んだのは最も求めていた存在ではない。もう彼女が、自分のことを忘れたという訳ではないことぐらいは分かっている。何より、彼女が経験したことは、すぐに忘れてしまえるほど穏やかで簡単なものではないからである。ならば、何故こちらの呼びかけに彼女が応えなかったのか。

 逃避を望まなかったとしても、応えることぐらいなら出来たはずなのだ。なのに、彼女が応えなかったと言うことは、つまり向こうの世界に離れてはいけないと思わせるだけのものがあると言うこと。それは何か。

 義務ではない――彼女は確かに責任や仕事に重きを置く。しかしそれも順序がある。極端な話で言うと、急に隣国から宣戦布告を受けた最中に、今月の書類決済を片付けなければならない義務感に襲われる必要性はまるでない。

 欲望ではない――彼女の夢を叶える機会があるとしても、彼女は決してそれに貪欲にはならない。貪欲になって守るべきものの順序を間違えた者たちがどんな結末を迎えたか、彼女があの美しい青い目で見ていないはずはないからだ。

 気分ですらない――彼女がそんな気まぐれになったなんて、誰も信じないし男も信じない。本当に彼女が気まぐれで呼びかけを回避することがありうるとすれば、それは単なる彼女の皮を被った雌豚になってしまったということだ。

 ならば、導き出されるものはとても単純なものになる。

 自分の身がどうあっても、自分が非難される立場にあっても、誰から見放されても、固執したい存在があるから。とてもとても簡単に言えば、愛すべき者のため。男よりも大切な存在が、彼女の腕の中にいるから。

 それを想定するだけで、男の内部が黒い炎を纏う。彼女が全てを賭ける存在が男であれ女であれ、存在するということを想定するだけで腹が立つ。嫉妬と言えばそうかもしれないが、何より彼女は自分のためだけでは、命も地位も全てかなぐり捨てることはなかったのだ。それほど安い愛情が、二人の間にあったわけではない。文字通り住む世界が違う二人からすれば、愛し合うこと自体、二人にとって最大限の譲歩であったのだ。なのに、元の世界には、男を捨ててまで守るべきものがあるかもしれないと言う。この違いに理性では納得出来ても憤らない者は、どこにいると言うのか。

 男の心境を汲み取ったのか、窓から白い陽光が射す部屋に、その光と同じくらい白い輝きが女の指先を形作る。何本もあるその指先と手のひらは、妖しく男の肌を愛撫する。指先だけでも美しいそれは、数多の男を手玉に取ることを生き甲斐とするような妖艶さを持っていたが、男はそんな女には慣れている。見向きもせず、密やかに膨れた怒りを鎮めようとしていた。

 しかし、多くの指は無視されることが気に食わなかったらしい。それとも、男が珍しく感情的になっている隙を突きたいと思っているのか。

 霞のように光る指先が掻き消えると、男の視界に入る位置に、光の集合体が女の体を作り出した。

 その肉体は実体を間近に感じさせるほど瑞々しく、女性的な艶かしさを持っていたが、線は華奢く肉感的とは言い難い。それでもその肩の細さや少しあどけない顎の線は、肉体の持つ印象とは逆に、保護欲を掻き立てるような可憐さを持っていた。

 まるで液体が器に満たされるように、光の集合体は細部に至るまでその華奢な線を持つ女性を形作っていく。それを何の感情も湧かずに――むしろ不快そうに眺める男に、光で出来た女の唇が微笑んだ。

 それは確かに美しく、けれどどこか少女のように可愛らしく、慣れないようにぎこちなく照れたような笑みではあったが、男の目は何の感情も映し出さない。それをじれったく思ったのか、女に化けた光はお得意の妖艶な笑みを見せると、そっと男に歩み寄る。寝台にもたれかかった、半裸の男に愛しげに触れようと、控えめに腕を伸ばす。

 そしてその真っ白で柔らかな指先が男の唇に触れようとした瞬間、男の頭上に何かがぼとりと落ちてきた。

 予想だにしないことで驚いたのか、光の集合体で出来た女は煙のように消えた。そして、男は無残にもその下敷きになった。

 男の腕力を考えれば、その落下物は別段力を入れずとも受け止められる範囲の重量であった。にも関わらず男がそれを受け止めることが出来ずに、その落下物の下敷きになったのは、とにかく多くの理由がある。

 まず、男が集中していたのは自分の感情の抑制であり、目の前で誘いかける光の女を後々散らすことであった。

 それに、万が一のことを想定したとしても、こうなることを予想していなかったということもある。何より男がくつろぐその場所は、城の中で随一と言っていいほど厳重で便利な結界が張り巡らされた、隔離された小世界と言ってもいいほどの代物である。ここに侵入してくるものは、男が自分に危害を与えず、危害を与えようにも結局与えられないと認識したものだけだ。結界外から触れるだけで男の意識を警戒に切り替えるほどの敏感さと寛容さを持つ結界に、それはその認識すらすっ飛ばして落ちてきた。これは異常な事態である。

 そして何より、もしもそんなことが起きるかもしれないと思っていても、まず自分の見事なまでに頭上、しかも頭上と言う言葉そのものの数センチから落ちてくるものは普通ない、ということがある。しかもそれがまだ軽いものならまだしも、人一人に相当する質量と重量を持つものならば、さすがに人間離れした瞬発力と腕力を持つ男とて受け止めるのは難しい。

「・・・・うわっ、何か踏んでる!」

 とても失礼なことを言う落下物が自分の背中から降りるまで、何か、男は軽い即視感とでも言うのか、この失礼な物言いが妙に懐かしく感じられた。尤も、懐かしいと言っても温かみのあるものではなく、こちらをとても不愉快な気持ちにさせる懐かしさだが。

 周囲を見回しているのか、妙に不安そうな声で聞き取れない文句を呟くそれは、恐る恐る足を広い寝台に向け、男の背中から降りると、自分が踏んでいたものが人の形をしていたことに気付いたらしい。あちゃあ、と情けない声を出して屈み込んだ。

「・・・・・あのー、生きてます?」

「・・・・・・・・・」

 あれで死んだら魔王の名折れである。そうでなくとも充分屈辱的であったというのに、よくもまたそんなことを言えたものだ。

 それでも男は、そこで本気になって怒るほど短気ではない。かと言って、そこで穏やかに答えてやるほど温和でもない。とりあえず眉をしかめたまま、男が上半身を起こすと、妙に見覚えのある赤い月のような瞳と視線がかち合った。

「・・・・・・・貴様」

 その落下物は、女の形をしていた。まだ若く、うす闇の中でも肌が自然とつややかなのがよく分かる。白い肌は磁器のようになめらかで美しく、その分鮮血のような鮮やかな瞳がよく映える。顔立ちは女の中では上出来な方だが、どことなく気が強そうな印象があるし、体つきは華奢過ぎず逞し過ぎずで悪くはないが、全体的に見ても美しいが全く女としての色気が感じられない。服装はどこぞの村娘のような素朴な格好だが、腰まで届く長い髪は一級の装飾品のような美しさを持っていた。夕暮れの空が雫となって溶けたのような明るい黄金に、ほんのりと薔薇の花びらのような紅(あか)が入る。そこには自己主張と気高さを感じるほど、鮮やかで力強く、堂々とした美しさがあった。

 自分の知っている、これとは全く逆の印象の美しさを持つ髪を思い出しながら、それでも男はあからさまに不機嫌な形相で娘を見た。

「何者だ?」

「誰?」

 ほぼ同じタイミングで発せられた偉そうな言葉に、言葉を発した二人は深い沈黙の海に沈んだ気分になった。

 

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