雄猫の子殺し

 

 

  その女の名前の通りの、美しい髪が好きだった。

 その女の名前のままの、白い肌が好きだった。

 その女の名前によく映える、青い瞳が好きだった。

 細い肩が好きだった。華奢い腰が好きだった。白魚のような腕が好きだった。甘い香りを発するうなじが好きだった。他にも多々、好きなところがあった。

 一言で言えば全てを愛していた。陳腐な言葉であることは承知の上だが、そうとしか言いようがないのだから仕方がない。

 けれどもっと本能的に、もっと魔族らしい言葉で言えば、全てに嫉妬していた。

 手に入らないものに対する嫉妬は幼稚であることは分かっていても、結局その幼稚性が案外原始的なものであることも思い知る。そのくらい、彼女を愛していた。

 しかし、その最愛にして最も憎しみの対象ともなる彼女を、何故思い浮かべてしまうのか。目の前の、まだ色気も出ていない――体の問題以前に、色気を持つほどの成熟した精神を持っていないのだろう――小娘を前にして、男は不思議な気分でいた。

 確かに美しい娘ではあるが、特に欲情も抱かない。それは恐らく彼女のように清らかで聖者のような儚さを持つわけでもなければ、男が知る性欲処理としての女たちのように作り物臭い艶やかさと貶めたくなる挑発性を持っている訳でもない。むしろ、述べたそれらを全く含まないものを持っていた。

 細部を見れば何となく分かる。あまりいいものを食べていないせいか、顔色は少し悪いし肌も荒れ気味だ。手足も露出はないが、食べるものは質素なりとも日常力仕事をしていたような、奇妙な逞しさがある。手先は荒れ気味で、手仕事を主にしているのか、指の皮膚すら少し厚いせいで洗練されているとは言い難い。けれどこの娘の持つ、生まれながらの凛々しさは、それらに及ばぬほど力強いものを持つ。

 ――何より、娘の外観に相応しい、むしろこの娘の魂を変換したような、荒々しくむらがあるものの、溢れ出る計り知れない魔力。まさしく宝石の原石の塊であり、まさしく胎に金塊を持つ山脈。本人はそれに気がついていないらしく、完璧な制御もままならない。しかし、その器を鍛えれば、男にとって脅威にすらなりうる力だった。

 娘は少し脅えたように肩を竦めたが、自分が何もされていないのに脅えるのが自分でも癪に障ったのだろう。怪訝な顔をして、自分を凝視する半裸の男を見返した。どうやら、男が持つ魔力に本能的に圧倒されたらしいが、魔力自体に自覚がないので何故自分が脅えたのか分かっていないのだ。

「・・・・・・・で、誰?」

「貴様こそ誰だ。人の寝所に勝手に入り込んで来た挙句、その主を下敷きにした礼儀知らずが、これ以上礼儀を欠くつもりならそれでいいが」

「・・・・・・・・」

 娘の細い柳眉がしかめられる。更に眼光が鋭くなり、何故か思い出してしまった彼女を再びそこに垣間見る。何故だろうか。その表情は、彼女とは似ても似つかないものだというのに。

「・・・・別に。ごく普通の、ヘルハンプールの辺境に住んでる機織娘」

「名を聞いている。名無しならそうと言え」

 そう言われて、娘はきょとんとして男を見た。まるで今までそんな質問を考えたことがなかったような顔である。呆れたため息をついて、男はこめかみを押さえた。この奇妙な半同族が生まれ育ったヘルハンプールでは、そこまで魔族に対し苦境を強いるものなのかと思ってしまう。

「貴様の故郷は名無しで構わないほど衰退した文化しかないのか?」

「違う…ただ、ここに来てあんまり聞かれたことがないだけ」

「はん?」

 どういう意味かと視線で問うた男に、娘は何か戸惑ったように視線をそらした。別に何か触れてはいけないところに触れた訳ではなく、何となく、娘が男の視線を反射的に恐れているようだった。当然、理由が分かっていないので苛立つような声が飛ぶ。

「別になんともないわよ…!――荊。これが名前」

 投げやりな言い方に、男は娘の髪から見える尖った耳を見ながら訊ねた。隠すつもりはないらしいが、その豊かで鮮やかな髪のせいで、人間に見える魔族の証の尖った耳は、少し見えづらい。

「・・・・・・ジパングのハーフか?」

「ジャパン?」

 思わず何らかの期待を持ちながら目を大きくして聞き返す娘に、男は冷静に首を横に振る。

「違う。・・・・育ちの割りに、故郷は知らずか。奇妙な奴だな」

 男はしかし奇妙とも言わないような顔で娘を更に見る。娘は少し落胆した様子ではあったが、男に対する意識のほうが強いらしい。油断ならないといった警戒心丸出しの顔つきで、男の視線に身じろぐ。

「・・・・・・・・何よ」

「どうやって入り込んだ。一応、それなりの防護らしいことはしていた筈だが」

 らしい、どころではない。帝国を牛耳る人間たちの警備よりは、男の施した結界のほうがよっぽど強固でありながら、しかし妙な柔軟性を持つ便利なものである。

 しかし、娘は険しい顔つきのまま、首を横に振った。

「知らない。人気のないところに連れて行かれて、足元に円陣書かれて、それから意識がとんで。…それで、気が付いたらここに…」

「円陣・・・・?空間転移か?」

 思い立ったように訊ねる男に、娘が深く頷く。そういえばそんなことを言っていたと。

 そして、男はようやく先ほどの出来事に納得した。

 空間転移によって座標が狂ってしまうことはよくあることではないが、この娘の魔力を考えれば納得できないことはない。この娘本人が空間転移を行ったならば座標のずれなどないだろうが、この娘の魔力の限界値も分かっていない者がこの娘に空間転移を行えば、まず座標のずれぐらいなら確実にしでかす。この娘がここまで飛ばされたのは、娘のいた地域から放り出しネウガードまで行かせると、後はこの娘の魔力にほとんど頼りきった状態にしたからであろう。早い話が、強い魔力が、更に強い魔力に惹かれる形でここに不時着した。それこそ、男自身に惹かれたが故に結界を無視して到着することが可能だったのだ。そんな荒業をやってのけたのに、むしろ五体満足で完全に転移しただけでも上出来だ。

 しかも、それは複数の人物に囲まれ、その対象はこうして何も知らずにいる。つまり、監禁されたり、碌な話も聞かされずにこんなところまで飛ばされて来たということは――数ヶ月前、男の出した指定に、それは一致する。

 即ち、自分が召喚した異界の魂を捕獲する際に出した指定である。

「・・・・・・嘘を吐くな」

 男は思わず、そう呟いた。それは男の口から出た、脳髄反射的な賭けの言葉である。とは言っても、ほとんど確信に満ちた賭けだった。今分かる条件だけでも、男が求めていたものと、娘のそれは重大な部分が一致している。故に、目の前の娘が、嘘を吐いてるのは仮定であるものの、事実に近かった。

「・・・・・・・何が」

 娘は更に体を固くする。その肩に力を入れる仕草にすら、警戒心が呼んで取れた。

「俺は名前を問うたはずだ。全ての名前を言え」

 男の目つきは鋭かった。元々刺すような眼光をしていたが、いま娘に降り注がれた眼光の鋭さは、それの比ではない。まるでそのまま心臓に目をやれば、鏃を向けられた獲物のように縮み上がるような、圧迫感と緊張感と第六感を呼び覚ます勢いを持つ危険性が含まれている。

 娘は勿論、何も抵抗できない獲物のように竦み上がったが、それでも何とか反抗できる気持ちだけでもあるらしい。脂汗が闇の中に輝いているものの、必死になって男を睨み返した。

「――全てって、どういうこと」

「言ったままだ。先ほど貴様が言った名は、一部の名だろう?それより前に、何かがあるはずだ」

 そう。男が知る限り、異界の魂には、名が二つある。あの彼女がそう言ったのだ。チキュウの人間には、最低でも名が二つ。どこの血族であるかということを示す名と、個人としての名。それら二つが存在して、初めてあの世界の人間は、人間として社会に認められる、と。

 娘の表情はますます固くなっていく。それどころか、それを知る男に対して小さな恐怖心でも持っているかのように、眉根を寄せた。

「あるけど…なんであなたにそんなこと言わなきゃいけないのよ。…関係ないでしょ」

「大いにある。言わねば貴様を暗殺者として殺すまでだ」

 そう言われて、とうとう娘は折れたらしい。信じられないと言った表情で男を見ると、ため息を一つ吐き、視線をそらしたまま口を開いた。

「斉藤――斉藤荊。それが本当の名前」

「・・・・・・・サイトウ?」

 最も聞き覚えのある、けれどこの世界では異質な名前。血族の名を、彼女に聞いたのはそれっきりだった。けれど、いまだにその名には覚えがある。彼女の真の名を聞いてから、自分がこの世界に馴染むようにと、自分が与えたあの名を名乗らせ、彼女はこの世界の救世主となったのだ。その真名と同じ名を、この娘が何故持っている。

「・・・・・何よ、もう言ったでしょ?それよりここどこ?そんなのもこっちには発言権ないわけ?

 半ば自棄気味になって訊ねる娘に、男は深く考える姿勢になる。

 あの名はあの世界でよくある名なのか、それとも単なる偶然なのか。よくある名ならば、何故似てもいないのにこの娘を見ていて彼女を思い出すのか。出来過ぎた偶然なのか?偶然ならば、それはどこまで偶然であるのか。名と、やってきた世界だけか。それとも、それこそ偶然の域ではない、ほとんど必然に近いところまで偶然なのか。

 そして、男は再び娘を見る。警戒心を持ちながら、それでも必死になってこちらを見てくる娘。鋭い目つきも、血を浴びた月のように赤く、薔薇の花びらを液体にしたような華やかな目も、何か妙な懐かしさを感じてしまう。そして小さな顎、服の上から見て取れる華奢な腰、――懐かしいものを持つ、けれど現実的な指先のライン。

 何故彼女を思い出してしまうのか。何故彼女と同じ名なのか。何故彼女を呼んだはずなのに、この娘が呼ばれてくるのか――。その三つの問いかけに、答えがあるとするならば一つ。それは偶然を越えた必然。そう、男が最も馬鹿げているとしか思えない必然。

 ならば、それに賭けるしかないのか?しかしその勝算は実に低い。何より、娘は半魔だ。魔族と人間の血を引いている異界の魂など、あっていいと思うのか?そういう意味では偶然であったほうが、――負けたほうが幾らかましだ。現実はそんなものだと笑いながら、それでも安心できる。しかし、勝ってしまえばどうなるだろうか。偶然のほうがまだいい。必然ならば、厄介なことと思う。使命感すら負ってしまう。どうしてだろうか、その方が説明する手間が省けるだろうに。

 しかし、男は今までほとんど勝ち続けてきた身の上だ。勝手に勝負から降参すれば、確かに気持ちの上では楽だろう。それでも勝たなければならない意地など、誰も知らない以上は捨てることは容易い。しかし――。

「生憎、俺はこれから勝ち続けねばならない」

「は?」

 娘が更に怪訝な表情をする。男はその表情に、ある意味では降参であり、ある意味では自棄になった勝負の延長を心の中で決意する。偶然の上の偶然ならば、それに乗らないでどうすると大いに笑ってやって。

 否、――偶然ではない。これは必然だ。爬虫類の獣二匹を従える、あの神の起こした必然なのだ。理由は彼女に関連するだろうが、生憎いまの彼女がどうなっているのかは男には分からない。けれど、その代わりにこの娘が呼ばれたのならば、それは確実に必然だ。

 そう結論付けても、男の言葉は慎重だった。静かに獲物を狙うような目で、再び娘を黙らせる。

「・・・・・サイトウコユキ」

 ぴくりと、娘の動きが止まる。まるで一瞬呼吸も心音も止めたようなその反応に、男は確かな感触を見出し、密に笑みを浮かべた。

 先ほどまで苛立ちや、虚勢を張るような態度しか見せなかった娘が、急にひどく落ち着いたような目を男に向ける。その華やかな赤の瞳は、無論脅えも恐怖も浮かべていなかった。

「・・・・今、なんて言った?」

 声は静かに、しかしまるで隙が感じられない様子で。

 男はその反応に満足しながら、もう一度言ってやる。

「サイトウコユキ。…聞いたことはあるな?」

 それは疑問の意味ではなく、確認の意味だった。あの名を呟いて無反応ならば単なる偶然だったろうが、娘の反応はこちらの予想以上のものをもたらした。つまり、彼女の代わりとして成り立つ肉親が、異界の魂として召喚されたということだ。――異界の魂であるというのに、何故魔族の血が入った体を持っているのかは分からないが。

 そしてそれは確実に訴えている。自分の召喚は必然であったと。この娘を呼んだのは必然であったと。この出会いは必然であったと。

 密やかな興奮が男を襲う。それは性的快楽でもなく、殺人による高揚でもない。意外なことに、これがあの神がもたらした必然であるということに、男自身が純粋な喜びを持っていた。珍しいこともあるものだ。神を呪い、同族を恨み、他族を憎んだ男が、この必然には感謝している。

 けれどそれは彼女のためだ。彼女のための男の地位が、ますます彼女のためになるから。彼女の育んだ土台の上の、グロテスクな建物を壊せる時間が確実に近づいてきたから。

 娘は落ち着いた表情のまま、けれど体から溢れ出る魔力はまるで竜巻のような荒々しさを持って、男を見た。

「・・・・・・・知ってるわよ。母親の名前も知らない子どもがどこにいるっていうの」

 その言葉に、逆に男が目を剥いた。母親?彼女が?誰の?

「・・・・・どういうことだ」

「言いなさい。なんであんたが母さんの名前を知ってるの。誰?あんた何者?」

 更に強い圧迫感と純度の高さと威力を持つ娘の魔力が、ゆるゆると動き出す。大胆にも男の体を羽交い絞めにしようと、男の動きを封じようと、見えない幾本もの鎖となって男に近づいていく。

 娘の視線は男に注がれたままだ。その顔には相変わらず、相手を縛ろうとする余裕も攻撃性もない。恐らく本人は、自分が無意識的にどんなことをしているのかすら分かっていないのだろう。

 男はため息を一つ吐くと、娘から放たれる鎖の一つにそっと触れた。それだけで、鎖はまるで乾いた粘土のように崩れだす。無意識的に編み出した魔力の鎖の破壊など、男からしてみれば造作もないことだった。これが意識あるものになれば、その意思の強さを汲み取って、鎖の強度と硬度は増すだろうが、生憎力任せに作っただけでは脆い。

 何より、触れてみて分かったことだが、この娘は男を傷つけることが出来ない。男と同じ性質を娘は持っているからだ。同じものに属するならば力の強い方が当然強い。更に魔力に対しての意識がある分、男の方が強みを持つ。

 男は圧倒的有利であることの余裕か、伸びてくる鎖の一つ一つを処理しながら答えてやる。

「奴は俺が最初に呼び出した異界の魂だ。召喚者が召喚したものの真名を知らずに契約は成り立つとは思えんからな。知っておいた」

 娘の顔が怪訝になる。それは男に脅えていたからでも、男から何らかの異質なものを感じたからでもない。何か、もっと別のものが、娘自身の中で引っかかっているように見えた。

「そのついでだ。答えてやろう。ここはネウガード。魔の都。魔族の王が治める一つの世界。そして俺はその王――つまり」

「魔王」

 まるで雷に打たれたような顔をして、娘が男の言葉を遮る。そのくらいのことならば知っているだろうとは思っていた男だったが、更に娘の言葉は続く。

「・・・・・絶対の孤独者。絶対の破壊者。絶対の負の感情。絶対の王者。この世で最も、不幸な存在」

 なるで熱にうなされるような表情から吐き出される言葉に、今度は男のほうが怪訝な顔をした。当然、こちらの世界のことはほとんど無知だと思っていたこの娘が、まるで何かを暗唱するように呟き続ける。

「その名前は、魔族に対し大きな希望と畏怖の念を持つ存在へ、けれど人間に対し大きな絶望と恐怖と憎悪の念を持つ存在へとなるものでした。そんな不幸な名を、誰にも理解されないようにするための名を、たった一人の、人間の血を引く、炎を操る力を持つ女の子が授かったのです――」

 それはつまり、男の妹のことだ。妹と言うには直接血が繋がった存在ではない。あれよりも、ただ男の方が先に生まれたという話だが。

 しかし、何故まるで諳んじるように、娘が急にそんなことを言うのか。何故、父王が妹に新たな魔王を継承させたことを、この娘が知っているのか。急に頭でも狂ったかと不思議に思った男に、娘は大きく一息吐くと、真剣な目で男を見返した。その目に狂気の色はない。とにかく自分の感情を必死に押さえつけようとしているのみだ。

「・・・・・母さんは、今の魔王は大魔王の娘だって言ってたわよ。炎の使い手、異形の左手。…召喚したってことは、…あんたが誰かは何となく分かるけど、魔王じゃないんでしょう」

 決め付けるような言葉と、彼女に伝えられたと告げる事実。そこで、男は何となく、先ほど娘が魔王について一方的な理解を述べていた理由が何となく分かった。しかし、それは戦前の話だ。男は首を静かに振った。

「親父が認めていないことは確かだがな。今は時代が違う。奴はまだここに帰って来てはいない。だから俺が魔王になった」

「・・・・帰って来ていない?なんで!?あんたは、…あなたたちは、一緒に母さんの意思を継いで、統治を引き継いだんじゃないの!?

「・・・・・成る程。つまり、お前はあの女に、戦の話を聞いたのか」

 深く、頷く。それで合点がいった。彼女の娘と名乗るこの異界の魂は、唯一その資格を受け継ぐ者として、戦時中に起こった出来事の全てを彼女から直接聞いたのだろう。先ほどの語り口からして、物語の形を取り、それをこの娘が覚えるほど永延と聞かせていった。だから魔王を知っている。魔王がどんなものかも、魔王の名を一度は手にした妹のことも。恐らく、自分のことも。

 ならば何故、彼女の娘と名乗るこの小娘が、彼女と自分の関係を知らないのか。それが不思議で、同時に不快で仕方がなかった。

「・・・・ならば次に訊ねよう。貴様はあの女の娘と名乗ったな。養子か?」

 養い子ならば納得できる。チキュウに帰還した異界の魂として、唯一大戦のことを知る者としての全てを受け継ぐ資格をこの娘に見出したならば、その理由が何なのかは今のところ分からないものの、道理に適う。そして、彼女を召喚したはずにも関わらず、その戦を知る担い手としてこの娘が呼ばれたということも。

 しかし、娘は大きく首を横に振る。その表情は、自分が彼女と血の繋がりがないことを疑われていることに対し、不快になっていることを明らかにしていた。

「違うわよ。正真正銘、母さんの娘。わたしのことを認められなくて、母さんは実家から出て行ったのよ。――そこまでしてくれた人が、実は実の母親じゃなかったなんてはずないでしょうが」

 生憎、その主張は認められない。血の繋がりがなくとも、我が子のために自己を犠牲にする女親の強さは、男が既に知っていた。一番最悪な、一番いやなかたちで。

「――その証拠はどこにある。お前はあの女と似ていないが」

「悪かったわね、父親似で」

 眉根を思い切り吊り上げてそう吐き捨てる娘の表情から察するに、自分の顔が父親似であることは、娘にとってのかなりの欠点となっているらしい。見目形は整っているものの、それが欠点だと思い込むとは、客観的に見ても贅沢な欠点である。

「ならば、お前とあの女が実の親子である証拠などないということか」

「この世界に遺伝子判定が出来るものなんてないでしょうからね。そう思ってくれても構わないわよ。ただそっちが信じてないだけなんだから」

 更に吐き捨てるように告げる。かなりのご立腹ではあったが、男は実際、そう思うほうが気が楽だった。安心の吐息を吐きながら頷く。

「そうさせて貰う。もともとあちら側の人間とは言えど、あの女に触れる輩がいるなど心外だからな」

 ため息を一つ吐くと、娘は苛立ったように男を見てくる。男の物言いに、かなり琴線に来るものがあったらしい。

「人の母親を自分の女みたいに言うの止めてくれない?召喚しただけの分際で」

 召喚者であること自体がかなり重大であるにも関わらず、娘のそのあまりにも軽く見た言い方に、男の方が目を見開くが、次に眉根を寄せた。

「何を言うか。あの女に肉体の享楽を教えたのは俺だぞ。それが他の男の胤を…」

「って何を馬鹿なこと言ってんのよ!そりゃあ、一番長い付き合いだから可能性はあったでしょうけど、結局そういう話は聞いてないし…。と言うか、まさしく自分の女みたいな物の言い方止めてくれない?」

 頬を赤くしながら怒鳴る娘に、男は平然と頷き返す。

「俺の女だからな。仕方があるまい。大体、あの女が俺以外の男に操を破るとは思えん。…それとも、自分の血を受け継ぐなら胤のほうは何でもよかったのか?強引な話だが、それでも…」

 納得できるな、と言おうとした男に、更に娘が静かに首を振る。その目には、男に対し軽い軽蔑の念すら含まれているようだった。

「まさか。馬鹿なこと言わないで。母さんは愛してたわよ。その男のことは」

「根拠は」

「母さんは絶対その男の名前は言おうとしなかった。わたしが強請っても教えてくれなかったもの。いつも『あのひと』って呼んで、とにかくそいつの名前を貶めるようにはしなかった」

 それは確かに、彼女らしい敬い方だった。自分が大切に思っている人の名前は、滅多に口に出そうとしないのが、彼女なりの愛し方の表現の一つらしい。怒っているときはともかく、睦言を交わすときすら、男のことは「あなた」と言った。

「母さんはいつも言ってた。あなたに生まれてきてもらって、とても感謝してるって。あのひとの思い出が、…ここにいてくれて、現実のものだという証拠になってくれることに、感謝してるって」

 その言い方に、言っている者と聞いている者の表情がほぼ同時に怪訝なものに変わる。

 彼女が言ったらしいその言葉は、つまりこの娘が産まれてこなければ、遠い思い出として処理する可能性があったもの。現実ではなかったかもしれない出来事として処理した可能性があるもの。

 それはつまり、どういうことだ――?

 夢のような体験。夢のような出来事。自分にとって強烈な影響を与えていながら、その証拠が全く残ることがなかったかもしれない経験。しかし、その証拠は一つの命という形を取って、残ったのだとしたら?世界を超えて。この世界と異世界を繋ぐ狭間を越えて。

 二人とも、同じことを思ったのだろう。一瞬空気が凍りついたように緊迫したが、娘が強引に笑い飛ばす。

「・・・・まさか。そんな、ありえない!!

「その張本人が自分の存在を否定してどうする」

 しかし、そう言った男の声も否定の力がない。

 実際、男もありえないと言いたかった。異界とこちらが元々無関係であり、その狭間を強引に開けて彼女を召喚してきたのだから、戻るときには当然、召喚される前の状態になっているのだろうと思っていたのに、今ここに来て、そうではないと知ったのだ。否、これは例外かもしれないが、とにかく今ここに、彼女と自分の子らしきものがいるのだから仕方がない。

 彼女が人間の姿で召喚されたことに対し、この娘は何故か魔族の血が入っている状態で召喚されたのが何よりもの証拠だ。子種の時点で魔族の血が入っていなければ、膨大な魔力を持つだけの異界の魂が、魔族として召喚されるはずがない。そして性格は妙に清康を重んずるようだが、魔力の性質は自分に近いものであること。規定外の魔力の量も、異界の魂の力としての一つだと思ってもいいが、それ以上に彼女と男の血を引いていることが関連していそうである。

 何より、彼女の魔力も計り知れないものであったが、彼女の魔力は召喚した当初から完全に彼女の制御下にあった。しかし、この娘は魔力に気付いていないどころか、その制御もままならず、感情のままに力を使っている。魔力の受け皿となる「器」の度量が足りていないのか、それとも娘の本来の「器」を遥かに凌駕する魔力が覚醒してしまったのか。――どちらにせよ、娘が制御できないほどの膨大な魔力がある分、この娘は歩く魔力と言ってもいいほど物騒だが魅力的な存在であることには変わりはない。そして、そんな規格外が召喚されたということは、つまり元から魔力のある魔族の血を受け継いでいるということにも繋がる。

 娘は精一杯に否定材料を自分の記憶の中から探り出したいらしく、ぶつくさと意味が繋がってないことを呟きながら真剣に考え事に熱中している。

 その手の顎を置く位置と、顎を包む手の置き方が、まるで彼女と一緒で、男は思わずため息を漏らした。――親子であれば性格と容姿の違いはあっても、仕草ぐらいは似るものだということをすっかり頭においていなかったのだ。だから、似てもいない彼女の面影を、恐らく娘の仕草に見出したのだろう。

 しかし、その娘が本当に自分の娘ならば――最後と約束した繋がりの証が、彼女の胎内で生かされた状態のまま帰ったのなら?

 神をも超える力を持つ異界の魂と、その力には及ばぬものの魔王から生まれ出でた魔界獣の子だ。当然、もう既に天界にはいない偽りの神だけではなく、宇宙の意思としての神にも弊害となりうる。なのに、まるでそうなっても構わないと、彼女の胎内で生きていた男の胤を見逃したのは何故だ。今のこの世界は彼女の望んだものではないと、それが予測できたというのか?血も意思も受け継いだ、真の後継者として最も相応しい存在を彼女自身が産み出すようにと。そうして、今度こそ確実に彼女の後継者に、真に彼女が望んだ世界を新たに造り直させようと。

 しかし、そんなことを男が考えている暇などない。今はそう、とにかくその幸運を逃さないことのほうが重要だ。それがまさしく宇宙の意思の考えの下であろうと、それが男の利益にも繋がるのだから仕方がない。

 とにかく適度に娘を言い包めようと考え出した男に、ぱっと娘が顔を上げた。その表情は、何か勝ち誇ったようなものを浮かべている。

「証拠!あった!」

「ほう」

 別に驚きもせずに相槌を打ってやる男に、少し不満げな顔をした娘だったが、高々と胸元からぶら下げていた革のネックレスらしきものを取り出して告げた。

「母さんの遺品。肌身離さず持ってたものよ。触りながらそいつのこと話してたから、多分父方の持ち物だと思うけど、こんなのあなたは持ってないでしょう!?

 そしてその黒い革紐に通されていたのは、小指の爪ほどの大きさの、小さな金属のリングだった。重みのある金属質の輝きは持ってはいるものの、そこには金のような華やかさもなく、むしろ銀のようにただ静かな光を暗闇に放っている。

 それを見、そしてそれから微弱に放たれる懐かしいものを感じ取りながら、男はようやく寝台から身を離し、その革の紐にぶら下げられたリングを摘み取る。

「って、何してんのよ!」

 非難交じりの言葉に、男は行動で黙らせる。しかし物騒な行いをするのではなく、静かに髪を掻き上げ、男の髪に覆われていた両耳を見せるだけだ。

「・・・・・・・・え」

 娘の怪訝な声が響く。

 当然と言うべきか、その視線の先には、男の尖った耳がある。魔族の耳と一口で言っても違いがあるが、男のそれはよくあるものだ。人間の耳の鎖骨から尖ったような、目の前の娘ほどの出っ張りようはない白い耳。そしてその左耳の白い耳たぶに、それは輝いていた。娘が持っていたものと全く同じ形と色と大きさの、小さなリングが。元からあって当然というように。

 これでこの寝室にいる二人が、親子であるという証拠が揃ってしまったも同然の状態である。

 男は以前から不可解な点が多いものの納得していたが、それでも娘は唖然とした表情のまま、その右の耳たぶにリングが通されていくさまを見ているだけだった。

「・・・・・他にはないのか?」

 右耳のリングを自分の耳たぶに通し終えると、男はため息と同時にそう訊ねた。元々男の所持品であったものを彼女に渡した記憶は確かにある。どうせ彼女が肌身離さず持っていたとしても、戻る際に掻き消えてしまうかもしれないと思っていたものだ。しかし、ここまで証拠品を残すとなると、更に大宇宙の意思として存在していたあの神の意図が更に読めなくなる。それはまるで、今この状況になることを、予測していたかのような準備の良さではないか。

 しかし娘はただ首を横に振って、相変わらず信じられないように男を見ている。

「・・・・そんな、そんなことあるはずないでしょう!」

「これでもか?何故ないと言い切れる。理由を言え」

「だって・・・・・・・・だって、母さんは言わなかった!」

 当然だ。どこの母親が自分の娘に、大真面目にこんなことを言う。お前の父親は、自分とは別の世界の住人なんだよと。それを娘が信じるわけがない。いくら最愛の母からの言葉であっても、それをこの娘が信じる可能性はなかっただろう。もしくは、単なる身分違いの恋愛と取り、そうやって自分が理解し易いように婉曲するだろう。その言葉通りであるというのに、それをおいそれと信じるほど、子どもは愚かではないはずだ。

「奴がここに再び現れる可能性は、俺が努力をするとしてもなかなか難しいからな。それならば素直に全てを告白するよりも、黙っておいた方が得策だ」

 そしてもし、この娘が異界のいたときに別の世界の住人との子どもであると信じたら、それはきっと逃避の材料としてしか使われない。いやな現実と向かい合わないための、単なるこの世界にいたくないからと言う理由にしか。

 そう思われるためだけにしか、自分の住んでいるこの世界に憧れを抱かれる時がないとするならば、男の立場としてそれは侮辱に値するものだ。いくら別の世界であっても、自分の住んでいる世界が、ただ逃げ出すためだけの、逃避者を受け入れてやるためだけの甘い世界だと思ってほしくはない。そして逃避を一度望み、その通りこちらの世界に逃避してきた彼女ならば、そんな甘い幻想は無駄だと分かっているはずだ。

「・・・・・・そんな・・・・・・そんなはず・・・・・・・・・」

 娘の顔はますます怪訝なものへと変化していく。力なく首を振り、これだけ一致するものがあるとしても、まだ否定したがっている。男と彼女の間に、自分が生まれたのだということを。

 その理由が何なのか。男には、訊ねるつもりもなかった。真実から目を背けても、結局そうなのだと思い知るのは、自分自身で踏ん切りをつけるしかないからだ。

 ただ驚きに目を見張っているだけであった娘の表情が、少しずつ力をなくしていく。眉が弱々しく歪み、驚愕に見開かれた目が少しずつ落ち着きを取り戻していく。ただし、その薔薇色の瞳には、不自然に揺らぐ光があった。

「・・・・・なんでよ・・・・・」

「何がだ」

 男の冷静な問いに、娘は男を見ようともしない。ただ開かれた口は、一瞬何かを叫びそうになって、けれどまた不意に閉じられる。眼光など、今は哀れなほど弱々しく脆い。考えが整理されていないのは誰の目にも明らかだろう。

 男がまた、小さく吐息を吐く。

 あの彼女の場合、衝撃を受けて戸惑った様子はあったものの、ここまで脆く、混乱するにまでは至らなかった。それよりも、ただ自分にすがり付いてくるような、頼りのなさが目立っていた。まるで自分の足が地面に立てないものなのだと言うように、おどおどしながら壁を伝い、自分が睨みさえしなければ外套を掴んできただろう。

 確かにあのときは、異界の魂と言えど、なんと弱いものだと思った。けれど、今目の前で泣きそうになっている娘は、その比ではない。

「・・・・・・なんで・・・・・・・」

 混乱の上の混乱。まるで出口の見えない迷宮に入り込んだ赤子のように、娘は力なく床に腰を下ろす。鮮やかな桃色の混じった金の髪は、漆黒の床によく栄える。そして黒大理石の床は、娘の混乱した頭に、冷たく確かな現実感を届けてくる。

「あ・・・・・・・・」

 手に触れた感触が、現実のものだと告げてきたのか。びくりと体を反応させて、娘は一言、嗚咽をあげた。それからは、なし崩し。

「あ、あ、――あぁぁあああ・・・・・・」

 まるで悲鳴に似たような、それこそ母の助けを求める赤子のような泣き声に、男はただ静かに目を瞑る。

 泣かせてしまえばそれでいい。気が済むほど泣いてしまえばいい。すぐに泣いても構わないのは女の利点なのだ。そして泣き終わり、頭が醒めればそれでいい。

 母さんと、嗚咽の中にまだ母を求めながら、娘はただひたすらに泣く。もうどこにもいない母を求めてひたすらに。

 情けなく床に腰を下ろし、声をあげて娘の泣く姿を見て、ふと男は思い出す。

 彼女が泣く姿を見たときも、いつも不自然なほど真っ直ぐ伸ばしていた背中を情けなく曲げていたことを。まるで子どもみたいな泣き顔で、必死になって想いを吐き出すように。

 そういえば、この二人には共通点があった。と、また男は小さなことに気づいてふと笑う。

 煩わしいはずの泣き声は、当然煩わしくこちらを不快にさせるものなのに、それでもどこか、泣く姿に目が離せず、泣き声が耳について離れないということに。

 

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