慟哭の貯蓄
裏切られた。 彼女が幼児のように泣きながら、いくら拭っても溢れ出てくる涙と鼻水をそのままにして、ただただ泣くことだけに全ての神経を集中させていた。そして頭にあるのは、ただその一言。 裏切られた。 あんなに愛していたのに。あんなに信じていたのに。あんなにあんなに大切に思っていて、母の言葉通りに生きてきたつもりなのに。 裏切られた。 自分の愛情も、信頼も、信念も、ただ母の言葉に忠実にあろうとしていたのに。それですら、危ぶまれ、そして何より隠し事をされた。どうでもいいことではなく、大切なはずの自分の出生に関わる出来事を。 裏切られた。裏切られた。裏切られた。 けれど、嫌いにはなれなかった。それどころか憎むことすら出来なかった。否、出来たかもしれないが、それが一番怖かった。今まで世界で一番愛していると言ってもいい人を、簡単に憎んでしまうかもしれない自分が怖かった。 その行いは、実際に、今までの自分をも裏切るのではないかと思えるような感情。積み重ねてきた母への懇意も愛情も、忠誠と言ってもいいほどの信頼も、そんなことで簡単に砕いてしまうのか。そんなこと、として扱ってしまうのは違うかもしれない。ならば、どうすればいいのか。どちらを捨てるべきなのか。 そんな逃げようもない圧迫感が、生まれて初めて彼女を襲い、そうして彼女の張り詰めた糸を簡単に弾き飛ばした。 物心つく頃からの絶対的な母への愛情と、そして母から愛され、その絶対の保護下にあった自身の誇り――それですら、驕りであったかもしれないことが彼女には恐怖だった――それらが彼女をどんなことからも守ってきたはずなのに。それにより、彼女はどんなことにもある程度の余裕を持てたはずなのに。 大切な、彼女の心の中で最も繊細で、しかし大切であるが故にあらゆることから傷つかずに済んだはずの気持ちが、今は崩されかかっている。 たった一人の男が、母の世界の中で一番少女の身近にいた男が、自分の父であると名乗ったせいで。 しかし、彼女にはやはりそれも信じられなかった。恨むとすれば、その男しかいなかった。どうしようもない不安定な気持ちを吐き出すのも、その男に対してしか吐き出せそうになかった。 何故なら彼女の中では、母に不満は言っても、母には罵倒を浴びせるべきではないと思っていたから。信仰深い教徒が、信仰の対象となる神を責めることと同じくらいの矛盾が、彼女の中に生じたからだ。たとえその男に恨み言を言ったとしても、それは間違いであることは、彼女には十分承知の上だった。 彼女の涙がとうとう枯れ果てたとき、泣き疲れたせいか、淀み、少し無気力な目をしながらも、精一杯の力を込めて彼女は目の前の男を睨んだ。 男は寝台の上で、床に座り込んでいる彼女を眺めていた。腰に寝台のシーツをかけているだけの全裸だが、その肉体は彫刻にあるものよりも美しく無駄がない。芸術として極められたものではなく、恐らく実用面でのみ必要とされた俊敏性と力強さが秘められていた。目つきははっきり言えば悪いが、顔立ちは整っている。端整な中に仄かな苦味と残酷性を感じさせており、それが更に女性を惹きつけているように感じられた。むしろ、その目つきの悪さも今までの言動と男の持つ風格を考えれば、更なる重厚さと帝王にありうる攻撃性を増す道具の一つとも言えるだろう。 男の暗く青味がかった銀髪は、闇の中に溶け込むような重く静かな輝きを放っている。それは闇と区別されるための輝きと言うよりも、更に闇と共になろうとするような輝きだが、自然と矛盾を感じさせない。肌は青白く、むしろ髪よりもそちらのほうが闇の中に際立っていた。 そして一番男の持つ色彩の中で目を引くのは、毒々しいと形容してもいいような赤い瞳だった。血の色と言ってもいい。生臭く、吐き気がするほどの血の臭いを連想させる無遠慮な赤い目は、彼女を冷静に見つめていた。 「・・・・信じない」 ようやく出てきた言葉に、男が少し表情を変える。彼女は自分に言い聞かせるように、男を睨みながら再び告げた。今度は、なるべく腹に力を入れて、はっきりと。 「信じない!あんたが母さんの…母さんに愛されたなんて信じない!」 ようやく泣き終わった言葉がそれかと知ると、男は少し呆れたような目をした。それから、少し皮肉な笑みを口元に宿す。 「自分の父親、とは言わんのか」 「言わない。それすら信じないもの」 吐き捨てるような力強い声と視線に、男は少し笑う。 「強情だな。何故認めん」 「信じたくないから」 「何故」 「母さんが愛した人が、あんたみたいな男だと信じたくないから」 その返答に、それこそ男は声をあげて短く笑った。 「成る程。しかし、お前は他のあらゆる種類の男であっても、認めるつもりはないだろう?処女妊娠など童話ですら出んぞ」 男の言葉は正しかった。否、彼女が間違っていて、男はごく普通なのだ。 「それでもよ!それでも信じない!あんたがなんで母さんに愛されなきゃならないの!?なんであんたがわたしよりも母さんにとって大切なの!?」 「・・・・それが本音か?」 先ほどの無茶な言葉には律儀に対応していたにもかかわらず、この慟哭には呆れ果てたといわんばかりの顔をして、男は彼女を見た。 彼女は、血で造られた刀身のような視線をひたと受け止めながらも、更に荒々しく強い視線を男に返す。 「そうよ。母さんがあんたを気に入ってたことぐらいは知ってた…。けど、いくら酷い過去を持ってるからって、母さんが優しいのを利用して同情に付け入るような奴に、母さんに愛される資格はないわ」 男はその発言に更に呆れたようにため息を吐く。一瞬、空を仰ぐような表情すら見せながら。 「馬鹿馬鹿しい。俺には同情など必要ない。奴が勝手に知って勝手に気を許してきただけだ」 「だからってそれに付け入る!?子どもまで残すほど!?」 「・・・・・・・・・・・・貴様は」 呆れを越えて、あからさまに脱力したように肩を落とす男に、彼女は鼻で笑う。 「なに?違うっていうの?そうだろうけど、生憎わたしにはそうとしか感じないのよ!あんたが何と言おうと、わたしには母さんが優しいことを利用して…!」 「そう思うのはお前の勝手だ。それにより、お前の大切な母親を侮辱することになっても、俺には全く関係がない」 ややうんざりとした表情をあからさまにした男の発言は、彼女の混乱しきった脳に楔を打ち込むかのような衝撃を与えた。 「…そんな、そんなわけないでしょう!!あんたと母さんは…!」 「全くの別物だな。故に、お前の母親が同情という生ぬるい思考をもとに俺に近づいたと判断しても、真実を知る俺としては何の損傷も侮辱もないわけだ。しかし、お前はそれでいいと思うのか?崇高な母親が、たかだか運の悪い一生を送ってきた男に同情したせいで孕んだと?」 男の堂々とした、しかしどこか歪んだように見える笑みが、彼女の胸を突き刺す。その言葉に連想されるのは、母が安っぽい女だったということ。母が抱いた感情のせいで身の破滅にまで及んだということ。母は、思慮の浅い女だということ。 「・・・・・・そんなこと、わたしは言ってない!」 必死に首を振りながら、彼女はその連想諸共吹き飛ばそうとする。けれど、男はそんなことはさせなかった。自分と男が愛した女とを侮辱した、この何も知らない威勢だけの小娘に、言葉の剣を無慈悲に振りかざす。 「言った。貴様にとって、俺は認め難き存在らしいがな、その俺を、お前の最愛の母親は認めた。否、それどころか奴にとって、俺は唯一無二のものだ。当然、俺にとってもな」 「・・・・・・」 自分だって、母にとっては唯一無二の存在なのだと、彼女は必死に男を見返す。しかし、当然ながら、男の言葉はそんなことでは済まなかった。 「しかし俺と奴は、ただ繋がることだけを求めたのであって、何も子どもなど作る気もなかった。ただ自らの欲望のまま、互いにそれを求めただけだ。お前など、俺たちの考えの及ばぬところの産物――」 「そんなわけない!!」 重苦しいほどの真剣な表情で、彼女が男の言葉を遮る。その態度は、そうであることを恐れている何よりもの証拠だった。男は彼女の態度に満足したらしいが、追及の手は止まらない。 「そうか?お前は言っていたな。証拠として生まれてきたことに感謝していると。つまり、貴様自身に対する思い入れなど生まれてきた後のものだ。それまでは、貴様自身が奴に望まれたのではなく、貴様が俺の血を引く故に望まれた――産んだ後の根本もそうだろうがな。奴がチキュウの他の男の胤を為すとしても、今のお前ほどの愛情は与えまい」 その過程は、いつも彼女の恐れることだった。 もし、普通の家庭のように、父親もいて、祖父祖母もいて、自分の周囲に何一つ普通の家庭に欠けたものがなかったとしたら。もし父親が誰からも認められていて、もし母が誰からもそうなるようにと促され子を為せば。 今のような愛情は与えられるのだろうか。環境の違いとしてではなく、母がどれだけ母の子である自分への愛を注ぐのだろうか。もし父親が違っていても、これほどまでに愛してくれるのだろうか。 その仮定自体、彼女にとっては幼い頃の闇であり、孤独の象徴だった。そんな仮定が浮かんでしまうときは、いつもどうしようもなく寂しく、母がいないときだった。そして、彼女はその考えを何よりも恐れた。 違うかもしれない。愛してくれないかもしれない。同級生たちのように、誰かと比べ貶されるかもしれない。自分の母は違うんだと自慢できたものが、全て跡形もなく違うものになるかもしれない。罵声を浴びせられるかもしれない。殴られるかもしれない。あなたなんて産まなければよかったと、言われるかもしれない。 顔色を蒼白にして、彼女は再び力なく座り込む。 そんなことを言われないために、母を愛していたのに。そんなことを言われないために、ずっと母だけを見てきたのに。母しか、彼女の世界にはいなかったのに。 もし自分の半身の血が違うだけでそんなことを言われるかもしれないと想定しただけでも、彼女の震えは止まらない。 そして結局思い知らされる。仮定であったとしても、それは未知の説得力を持って彼女の前に立ちふさがる。自分は無条件に愛されたのではなく、目の前の男の血を引いていたから愛されたのだと。 「・・・・・・なんで・・・・・・・」 「思い上がるのも程々にしろ。貴様自身に与えられるものなど、貴様が誇りに思うほどのものではない。貴様が侮辱した者への思いを前提に、貴様は誇ることが出来るのだ」 そう。母は父を愛していた。自分がいくらしつこく訊ねても、名前を教えてくれないくらい愛していた。思い出を、ずっと自分の中に秘めるように、形に出して風化させないように愛していた。 「・・・・・なんで、っ・・・・・なんでよ・・・・・!」 「貴様の誇りなどそんなものだ。下らんな。自分だけに与えられるものと自惚れていたか?特別と思っていたか?ますます下らん」 男の言葉は突き刺さる。彼女の一番大切な箇所を、容赦の欠片もなく叩き割ろうと巨大な槌を振り下ろす。彼女はそれに抵抗する術もなく、ただ壊されていく自分の大切なものを見るしか出来ない。 しかし、彼女は唯一の力を振り絞り、唯一の誇りを再び男に向ける。脆いものとは分かっていても、自分が愛されていたのは確実だからと言い聞かせて。 「・・・・・けどっ、けど愛してくれた!」 「ああそうだ。愛しただろうよ。俺の子として」 「なんでよ!なんであんたが愛されるの!?なんでわたしは違うの!?なんでわたしは…!」 目の前の男の子としてしか、愛されていないのか。 飲み込まれた言葉には、そんな悲痛な声が聞こえてくるようだった。最早、男には泣き終わった彼女が向けた、無意味なまでの攻撃的な視線はない。あるのはむしろ慈悲を求めるような、頼りのない、すがりつくような視線だけだ。 しかし、男は無慈悲だった。慈悲を与えることも出来るほど、男の心は落ち着いてはいたが、それでも一時的とは言え思い上がって小娘には容赦するつもりなどなかった。何よりも、自分たちの想いがあってこそ生を得た身がそれを侮辱するなどと、男には許し難い行いだったからだ。 「奴の最大の譲歩が俺だからだ。本来ならば世界の違う者同士など、交わるものではないと二人とも知っている。子を求めるなど禁忌に等しい。つまり貴様は、絶対にないものとして存在している」 二人の間には刹那的な交わりしかなかった。どうしようもない感情を、どうしようもない絶望感を、それで誤魔化す他になかった。統一が進めば進むにつれ、女の地位がますます誉れの高いものになるにつれ、未来に待つ絶対の別れを前に、おののくことしか出来なかった。言ってみれば、確実たる別れを前提とした繋がり。 しかし、絶対的な別れの後、予定外が生まれた。二人の繋がりの証が生を為すという、まさしく禁忌そのものが生まれ出でたのだ。 そしてその禁忌が、いけしゃあしゃあとした顔で自分のことを認めないなどと、笑い話にもならないと男は思った。 「奴の慈悲に感謝しろ。他の女なら化け物扱いは確実だな。尤も、そんな卑小な女を好んで抱いたつもりはないが」 笑ってそんなことを言うと、男は満足したらしい。 悠然と彼女の表情を見ていたが、彼女は言い返す力など既にないらしい。へたりこんだまま、焦点の合わない目つきで虚空を見ていた。 当然、先ほどの空回りの感があったものの随分威勢がよかったことを思い出すと、男としては物足りない。生まれてから永延と続いた盲目が自然と消えるのではなく、強引に力づくで盲目にしていた鱗を剥がされたようなものだ。痛みもあるだろうし、衝撃も当然ある。 彼女が何か反応を示すまで、男は律儀に待っていた。それが男なりの一人娘に対する愛情の示し方であるとするならば、男を知らない人は随分勝手な愛情だと怒り、男を知る人は随分寛容になったものだと驚くだろう。 実際、男も驚いていた。自分の娘がここまで阿呆であったことにも驚いたが、それを矯正してやろうとしている点で普段と大きく違う。使えない者は捨て、使える者は傍に置く。そんな簡単で同時に冷酷な規則が、今この娘に対しては例外として働いている。 「陛下」 急に聞こえた声の正体は、男の部下である。珍しく焦った様子でこちらに近づいてくる部下を、男は片目で見やる。彼が今から言うことならば、予想が可能だったからだ。 「異界の魂が転移中、行方不明に…と」 ここでようやく、彼は彼女を視界に納めたらしい。 裸の魔王、寝台の前、座り込んでいる虚ろな表情の娘。奇妙な組み合わせだが、彼は慌てず騒がず、部下から得たどうやら異界の魂の特徴を書いているらしい資料と彼女とを見比べると、それから次に上司と彼女とを穴が開くほど見比べた。 そして奇妙な沈黙が広がる闇の中、親子に対しては完全な第三者は訊ねたのである。 「・・・・もしかしてと思いますが、異界の魂はこちらの世界の血を引いていますか?」 「らしいな」 男は穏やかな調子で頷く。 「その上、その父親は、相当な高位魔族で?」 「ああ」 眼を瞑り、眠るような表情で再び頷く。 しかし、自分の推測がもし当たっているとしても、これがかなり大それたものであることを彼は分かっていた。そして分かっていたため、彼は上司に失礼であることを前提に訊ねたのである。 「どのような芸当をされました?子種だけを異界へと飛ばすなど、ご自身が向こうへ飛ぶよりも困難なことかと思われますが」 「宇宙の意思のやったことだ。俺が知るか」 投げやりな返答に、彼は肩をすくめた。しかし、男の返答に何らかのヒントは得たらしい。少し考えるように顎を引くと、軽く相槌を打った。 「では、かの偉大なる異界の魂のお子様でいらっしゃると?」 「そうなる」 その言葉に、ようやく彼女が反応した。それこそ初めて顔を合わせる男性に対し、すがりつくような強い眼差しを向けた。 「・・・・・偉大?」 その真紅のばら色と言ってもいい、鮮やかな色彩に少し驚きながら彼は頷く。 「ご存知ありませんか?姫様。あなたのお母様がこちらでどれだけご活躍なさったのか」 「知っているらしい。ただし、本人とは言わない形で」 「成る程…」 頷く彼に、男は少し不思議に思った点があるらしい。今まで彼女のほうに向けていた顔を部下のほうに少し傾けた。 「それで。何故お前は一目で分かった」 「お二人とも似ていらっしゃいましたから。顔も、髪質も、更に言うなら魔力も」 「成る程」 鏡の世話になどなったことがない男は正直に頷く。更に言うならば、そんな状態ならば自分の顔に似ている人物など簡単に見分けることが出来るはずもない。 彼女はその言葉に緩く衝撃を受けたらしく、軽く眉をしかめている。それでも、先ほど男に受けた自尊心を粉々に破壊するかの如く衝撃よりも幾分かましらしい。と言うよりも、男の容赦ない言葉のせいで、彼女の心は麻痺している状態に等しかった。 「連れて行け。初めての転移は疲れたらしい。休ませてやれ」 「・・・・・承りました」 どう見ても、それ以外の衝撃を受けたようにしか見えないが、その点は後々分かることだろう。 そう判断すると、彼は彼女の前に立ち、手を差し出した。彼女はその手をじっと見ているが、なかなか手に取ろうとしない。そこで、彼は優しく訊ねてやる。 「一人で立てますか?」 「・・・・・・あ」 ようやく意味に気づいたらしく、彼女は少しすまなさそうに眉根を寄せると、その手に掴まり立ち上がる。 「仕官の者たちには後日、伝えたほうが宜しいでしょうか」 「そうしておけ。今はそいつの精神安定のほうが先だ」 ため息と共に肯定の言葉を告げる男に、彼は律儀に頷く。 そしてまるで生まれたての動物のような頼りない足取りの彼女を支えながら、彼はまとわりつくような闇の部屋から出ていく。 それを見届けると、男は小さくため息を吐いた。そのときには既に、いつもの透けた女の手たちは復活しているが、男は相変わらずそれらを見ようともしない。 「・・・・・甘やかし過ぎだ、スノー」 苦々しげな響きに、答える声などなかった。 小鹿よりも頼りない足取りの彼女に、上司が何を言ったのか不安になりはしたが、男は律儀に何も言わず彼女を促していった。 彼らがいる城は魔王城という、いかにもおどろおどろしい名ではあるが、一応ここは規模然り、城塞としての機能然り、装飾然り、大陸でも有数の城の一つである。当然、魔王城という名に相応しくないような庭園も、穏やかな色彩の洒脱な棟や部屋もある。 男は一通り、自分の腕にすがりつく少女の色彩を見て、城の中のどの部屋にするべきか考える。そんなことは普通なら執事の仕事だが、男は暇が高じてこの壮大な城の見取りを全て覚えていた。何せ、四百年近くこの城で居住していたのだから嫌でも覚える。 潤沢な美しい髪は黄金色で、その中に淡く薔薇の色が溶け込むように重なっており、それが更に彼女の髪に贅沢な輝きをもたらしていた。その上、象牙のような肌はその髪と、見事な真紅の薔薇が溶けたような瞳を一際映えるようにしている。 まさしく華やかなりし薔薇の化身のようなこの姫君を、一体どこに住まわせるかと思案していた男は、ふとある部屋を思いつく。 「・・・・・お疲れのようですね」 早速その方向に向かいながら、今度は明らかに精神不安定な彼女にそう優しく声をかける。このようなことについては、男は得意な方面であった。上司と同じく、彼も男よりは女が好きな、ごくごく正常な感性の持ち主ではあるが、上司と違って相手の女性については精神面での触れ合いも愉しんでいた。 しかし、彼女は何の反応も示さなかった。ただ俯き、強張った表情のままそろりそろりと歩く。 その態度に、男は軽く天を仰いだ。上司が彼女にどんなことを言ったのかは知らないが、ここまで無反応にさせるほど衝撃を与えるのは幾らなんでもやり過ぎだと。どう見ても人間の成人年齢に達していない彼女に、どこまで残酷なことを言えばこうさせてしまうのか。 しかも相手は身内である。身内と言っても、真に血の繋がりがあると言っていいのかも分からない大魔王の娘の姉妹たちが相手ではない。まさしく上司自身の血を引いた子なのだ。ない慈悲を振り絞るようにしてでも出せばいいものを、と、いつものように上司の態度の矯正を諦めながらも内心で愚痴を言っていると、転移を行った部下が血相を変えてこちらに走ってきた。 「ザラックさま!」 そう呼ばれた男は口に人差し指を当て、静かにするように伝える。すると、その豊かな体つきの女性は謝りながらも近づいてきた。男の腕にしがみついている少女に、少し嫉妬の混じった目を向けながら。 「…ご無礼をおかけしました。どちらで、見つかりましたか?」 「陛下の部屋にいたよ」 素直にそう言うと、その女性の部下が息を呑むのが分かる。一気に緊張に体を強張らせながら、震える声で上司を見上げた。 「・・・・・あの、どう、言えばいいか・・・・」 「もうやめなさい。陛下は許して下さるようだ。お前が自分で失態を掘り返す必要性はない。分かったね?」 「はい・・・・・ありがとうございます・・・・」 深々と謝る部下を見ると、男は鷹揚に頷く。それから、片方の手で部下の右肩を優しく叩いた。 「今後は忙しくなる。お前にいなくなられては、大きな戦力を削ぐことになるだろう。私のために尽力したいのなら、このことは今後一切、他の者に言わないでほしい」 「はい・・・・かしこまりました」 しっかりと頷く部下ではあるが、片腕に掴まる彼女が気にかかるのだろう。横目で何度も見ていたが、それに対してのフォローも入れなければならないことを知ると、男は大きくため息を吐いた。 「彼女は陛下の魔力に中てられただけだ。寝れば恐らく回復する。緋扇の部屋まで送れば帰るから、お前は執務室で待っていなさい。後に指示を出す」 「・・・・・・はい。ですが、あの、ザラックさまに、そのような下々がすることは・・・・・」 何か勘違いしているらしい部下の言葉に、彼は軽く同意した。 「寝かしつけるのは当然、侍女の仕事だと思うがね。それともお前は、私に似たようなことをしてほしいと言うのかな?」 「い、いえ…!」 かっと体じゅうを真っ赤にして首を横に振る部下に、男は含み笑いを浮かべる。このまま可愛らしい反応をする部下で遊びたかったが、それは状況が許さない。早く行くように促すと、男は再び歩き出す。 その間、片腕の彼女はぴくりとも反応しない。しかし、何か思い立ったらしい。もう少しで件の部屋に着くというところまで歩いて、不意に男のほうを見た。 「ザラック…?」 「はい?」 呼ばれて律儀に彼女を見ると、彼女は真っ赤な瞳を丸くして、無邪気な子どものように強い視線をひたと男に当てていた。 「そんな人、母さんから聞いたことがないわ」 その呟きに、男は頷く。当然、自分は大戦時にはいなかったのだから、と。 「はい。貴女様のお父上から、現世へと戻されました」 「・・・・・死人?」 何の表情も映さない口から出た率直な言い方に、男は苦笑する。 「はい。元、死人です」 その対応に満足したのか、彼女はゆっくりと頷くと、再び歩き出す。相変わらず足取りはおぼつかなく、男は慌ててその肩を支える。 それからようやく緋扇の部屋まで到着すると、男は椅子に座るように彼女を促す。まるで腑抜けのような態度だった彼女は、ようやく生きているらしい、重く長いため息を吐いた。 「・・・・ここが、わたしの部屋?」 「はい。今から、侍女をお呼びしましょうか?」 「・・・・・・いらないわ。送ってくれてありがとう」 抑揚のない声でそう呟くと、彼女は相変わらずの足取りで寝室のほうへと向かう。その急な行動に、男が慌てた。 「お休みになるのでしたら、侍女を…」 「いいから。寝たいの」 短く、けれどはっきりと現された言葉は、拒絶的というよりも根深いものに感じられた。そこまで拒絶的ならば、現時点で男がすることは何もない。ため息を一つ吐きながら、軽く礼をして引き下がる。 「では。おやすみなさい」 「ええ」 ドアが閉まる音がすると、彼女は歩き出した。自分でもおぼつかない足取りだと分かっていながら。目には美しい色が写っているのに、頭の中までにその色が全く入ってこない奇妙な感覚に切羽詰りながら。 乱暴にドアを開け、入り、また閉める。その部屋は、寝室のようだった。それを見て、彼女は大きく一息ついた。 「・・・・・・あ」 よかったと、安心の吐息が零れる。しかし、その漏れた声は、微かに震えていた。 「・・・・・・あれ」 白々しいことは十分承知で、彼女はふと自分の口元を抑える。 急に、鼻が詰まっていくのを感じた。どっと、涙が溢れてくるのを感じた。声が、次第に裏返り、情けない響きを持つのを感じた。 また彼女は泣く。今度は防衛のため。自分の破壊し尽くされた心を、ただただ単純に涙によって慰めるため。 何も考えず、何も頭の中に入れず。がむしゃらに。大声を出し。暴れるように。体勢なんて全く気にしないで。自分がどんな状態かだなんて全く気にも留めないで。 ただ彼女はひたすらに泣く。 今まで母がいたから涙を飲んだことを、今まで母を期待していたから涙を堪えたことを、今までの、母のことが頭にあるせいで泣けなかった出来事全ての分の涙を出し尽くすつもりで。 ただ永延と、彼女は泣き続けた。 この涙の終わりなどあるのだろうかと、思う余裕すらないほどに。 |