廻る歪み

 

  

 立ち込める湯気は硝子の窓を曇らせるが、それ以上に彼女の心は微妙な曇り具合を持っていた。悲しくも嬉しくも、不快なわけも気持ちいいわけでもない。とりあえず、早く終わってくれればいいと、当初の気持ちとは裏腹に、必死になって祈っていた。

 何せ彼女は今現在、裸である。当然と言えば至極当然。風呂に入っているのだから裸にならねばならない。行楽のための温泉等に見られる、他者から見られることを前提とした風呂ではなく、体の清潔を保つため、体を洗うことを目的とした入浴であれば、水着やタオルで誤魔化すわけにはいかない。

 しかし、それでも彼女は落ち着けなかった。何と言っても自分は裸である。そして同じ風呂場にいる他人は着衣のままである。しかもその他人が、自分の体を洗う役割を担っているらしい。それも身内や友人ならまだ何とか納得できる部分はあるが、相手は先ほど知り合ったばかりの赤の他人である。一般的な社交性を持つ人ですらうろたえるこの事実に、人見知りが激しいどころではない彼女は、その赤の他人によって体を洗われると知った瞬間、当たり前だが猛反発した。

 しかし、相手は彼女の心情を慮る気にもならないらしい。少し驚いたような顔をして、どうやって一人でお風呂に入られるんですかと逆に尋ねてきた。一瞬意味が分からなかったが、浴室を見た瞬間、彼女はその意味をようやく理解する。

 浴室は漆喰の壁に陶器のタイルを敷き詰めた浴槽と床。そして、壁際には暖炉が設置されていた。つまりここは、彼女が知る風呂の形式ではなかったのだ。

 暖炉があるのは浴室内を温め、浴槽の湯を冷まさないようにするための工夫なのだろう。その上、浴槽の中はまだ湯に満たされておらず、ポンプらしきものはあっても井戸ほど単純な仕組みではなく、一人で湯を補給する方法が見当たらない。愕然とする彼女に、後ろから止めが刺さった。曰く、彼女が起きるとは思ったので準備が完璧には整っておらず、浴槽を使わず体を洗うこととなるのだそうだ。

「何でするのよ!?

「これです」

 唖然としたまま彼女が振り向けば、彼女の体を洗う相手は平然とした表情で、ひと一人が納まる大きさのたらいを持ってきた。この中に座り、なすがままになれ、ということなのだろう。

 葛藤していた彼女ではあったが、裸をタオルで隠しただけの姿ということもあり、案外短い時間で降参の意を示した。裸で深刻に悩む姿の自分を想像すれば間抜けだということもあるが、この城は思った以上に寒いため、早く湯に浸かりたいという思いがあっての決断である。

 そして結局、別に親しくもない人物に体を触られ、湯に浸りながら一人でのんびりと自分の頭の中を整理することも叶わず、むしろ湯が体に浸らない寒さに軽く震えながら、ひたすら彼女は自分の体が洗われるのを待つこととなった。

「はい、では参りますよー」

 能天気な掛け声と共に頭の上から遠慮のかけらもなく滝のような湯を浴びせられ、彼女は一瞬心臓が止まったような気分になる。

「ひゃああ!?…ちょ、あぷっ」

 油断して息を止めずにいたせいか、鼻と目と喉にも湯は侵入した。シャワー程度の量なら軽く咳き込む程度で済むが、小さいなりに立派な滝を切り取ったような水量が頭から降り注げば、どうなるかは言うまでもない。

 涙目になりながら激しく咳き込む彼女に、麻布のエプロンをかけた魔族の娘はきょとんとした。その手には、小さな滝並の湯が入っていた大きな桶がぶら下がっている。見た目はほっそりとした小間使いの女らしい腕なのに、筋力は思いのほかあるらしい。

「あら、何か考え事でもされていました?」

「ぁっく、……その前に、えほっ…タオル……」

 しかし、そんなことまで彼女は観察する余裕などない。何とか視界を回復させようと手で顔を擦るも、焼け石に水である。そんな彼女の態度をどう思ったのか、魔族の娘はくすくすと笑いながらタオルを差し出す。

「意外でした。そういう普通の反応も、なさるんですね」

「…えふっ、けふ……っと、どういう意味よ」

 睨みたくとも、目がまともな機能を果たさないため、彼女はまともに睨むこともできない。タオルを貰い受ける体勢は取るが、その手にはなかなか望みの品が入ってこないからだ。更に眉をしかめる彼女に、魔族の娘ははい、と一言付けてタオルを渡した。

 遠慮もなくタオルに顔を埋め、荒々しく湯を拭き取る彼女に、魔族の娘は少し笑う。

「お起きになったときは、それはもうびっくりするくらい無気力でしたもの。お風呂で頭が冴えたのかしら」

「そういうことにしておいて…」

 無気力と言うよりも、どちらかと言えば脱力したような彼女の発現に、耳ざとく魔族の娘は声を上げる。

「あら、違います?ま、どうでもいいですね」

 と言いつつ、その手に掴んだオリーブオイルの石鹸とナイフを使い、彼女の頭に石鹸の欠片を落としていく。ナイフで少しばかり身を削がれた石鹸を小物入れに戻すと、勢い良く彼女の頭に指が入った。

 やはりその白い指先は想像以上に力強い。素人の指圧か、地味だが効力のある体罰にも似た痛みを急に感じて、彼女はたらいの中で軽く飛び跳ねた。

「いっ…ちょっ、ちょっと…」

「手早く済ませます。あと、あんまり泡立ちませんから、少し強くしますね」

 口調は穏やかでいる割には、その白い指先は一切の容赦がない。恐らく、魔族の娘本人の表情もあまり変わりを見せず、穏やかな笑みを絶やさぬままでいるのだろう。が、それはそれで何か含まれた感情を感じ取ってしまう彼女なのだが、そんなことを気にしている暇はない。こめかみとも旋毛とも区別をつける余裕すらなく、荒々しく頭部を掻かれていては、落ち着いてものを考えることすら出来なくなる。

「だからって、そんな、ちょっと、強す…」

 必死になって彼女が後頭部辺りにいるはずの腕を離そうとしても、彼女よりも遥かに身軽な位置にいる魔族の娘は易々と避ける。それどころか、彼女の腕を掴むと、軽々しく彼女の腕を元の位置にまで戻した。

「大人しくなさって下さい。何もなければ、あっという間に終わりますから」

「……終わってないでしょうが!」

 そんな彼女の叫びは、普通の浴室ならば響くはずだが、ここでは全く響きもしない。

 むしろ音を吸収するような静けささえ持ち、それと同様、彼女の後頭部を掻き毟るように洗う魔族の娘は、すました顔で洗い続ける。それどころか、ほんの一、二時間前の彼女の態度に比べれば、今の彼女のほうがずっと好ましいと思っているのか、微笑を浮かべているようだった。

 

 

 いちばん最初に泣くのを我慢したのは、風邪を引いて保育園を休んだ日だった。

 いつだったかは忘れたが、恐らく四歳かそのくらい。その日は一人で眠っていた。病気になっても毎回のように母が看病をしてくれるなんてことはなくて、大体は一人で寂しく布団を敷いて眠っていた。だから、普段は病気になって存分に甘えられる他の子どもとは違い、病気になることは彼女にとって最も嫌なことの一つだった。

 いくら病気にかかっていても眠り飽き、目が冴えてしまうと、一人の時間がとても長かった。

 子どもにとっての時間の経過は驚くほど長く、退屈なものだった。一分だって三分近く待ったような気持ちになり、普段とてその一分のためにちょろちょろと母のまわりをまとわりついていた頃を思い出す。

 だから、いくら三十分ほどでも驚くほどそれは退屈な時間だった。それどころか、今生きているのは自分だけではないのかとか、もう母が帰ってこないのではないかとか、そんなあらぬ考えすら浮かんでしまうほどだった。

 そんな悪い考えが浮かび上がると、もう彼女を止めるものはない。ひたすらに彼女自身が不幸になるような仮定ばかりが浮かび上がってきて、彼女は泣きそうになっていた。

 目の前に、いつかテレビで見た子ども向け番組のマリオネットの悪役が顔を出し、執拗に母がいないことを自分に囁きかける。そんなことない、時間になったら帰ってきてくれる、そう言って、彼女は自分の中の恐怖から身を守ろうとした。その瞬間、自分が泣いたらこいつの言っていることを認めてしまうんだと思い、必死に泣かないように抵抗した。

 結局、それもまた幼い頃の彼女の、全く楽しくない空想遊びであったのだが、当然ながら当時は空想遊びのつもりではなかった。とは言っても、その勝敗はどちらに旗が上がったのかどうかも、彼女は思い出せないでいるのだが。

 彼女はおぼろげに自分が眠りから覚醒したことを知ると同時に、そんな過去の自分を思い出す。あのときから涙を溜めていたのだから、十七なんていい年齢をしても、泣き疲れることは別におかしいことではなかろう。

 そう自分を擁護するが、次の瞬間すぐに虚しくなる。お前は求められて生まれたものではないという、予想外の産物であったという、父と名乗るあの忌々しい男の言葉が思い出されたからだ。

 彼女は男の正体は知っていた。それどころか、母が教えてくれた物語の中で、準主役であったといってもいいほどの活躍と個性を誇っていた。

 大魔王の憎悪から生まれた獣であり、立場上は大魔王の息子。陛下と呼ばれていたところを見るに恐らく現魔王。人間と共存しようとした父王に歯向かい、百日間も抵抗できたが封印されてしまった唯一の魔族。妹姫にとって最大の障害。残酷で冷徹で、白獅子と呼ばれる聖教徒の持つ神が造った聖なる剣さえ折れる力を持ち、そして何より――物語の主人公である少女を、母を召喚した男。

 物語の中では、少女を裏から操ろうとしながらも、少女の誠意と優しさが通じ、いつしか彼女を最も理解する存在となっていた。

 こちらでも、そうには違いないのだろう。だからと言って、体まで理解し合うのはやり過ぎではないのかと、彼女は悪態を吐きたい気持ちになった。しかし、現実とはそういうものでもある。男女が互いを理解し合う際に、全くの清らかな関係でいるということは非常に難しい。関係の線引きをしておかないと、いつの間にか男女の関係になってしまうのは実に自然であり、当然のことであった。

 思い出したくもないのに、彼女は再びあの男の言葉を思い出す。

 ――愛しただろうよ、俺の子として。貴様は絶対にないものとして存在する。最大の譲歩は俺。

 傲慢にも等しい物言いは、けれど彼女が勝てるものではなかった。恐らく、男の言っていることは正しくて、彼女はただ駄々をこねる子どもに等しいのだろうということを眼前に突きつけられる。

 そんなこと分かっていると言えれば、どんなに楽だろうか。

 実際、そのことを認めた自分がいることに、彼女は気付いていた。気付いた自分の存在を認めてもいた。けれど、十七年間の意地と誇りは、そう簡単に消せるものではない。むしろそれを消すことは、彼女にとって彼女たる所以の要素を捨ててしまうも同然のことだ。そしてそれは、一部とはいえ自分を捨てることにもなる。

 彼女は重くため息をつき、寝返りを打つ。寝台に寝てはいなかった。案内してくれたあの男の部下を退けたあとはひたすら泣き続け、体力の限界が来たらしい時点で寝てしまい、寝台に移動する暇などなかったのだ。絨毯の上で寝ることはよいことではないだろうが、何の毛を使っているのかも分からないものの、優しい肌触りと微かな弾力のおかげで寝ている間も大して辛くはなかった。

 そしてだらしなく絨毯に寝転んだまま、彼女は呆然と周囲を見渡す。

 寝室と言えど、その規模はかなりのものだ。拉致されたときに目覚めた高級ホテルの一室は寝室と居間が一体となっている形式だが、こちらは用途として使われるのは主に寝るためであり、他の用途は単なるおまけ程度なのだろう。だが、そのためにしか使用しないのかと疑いたくなるほど、家具は豪華で、その部屋自体も妙に広い。

 キングサイズの寝台には深みのあるワインレッドの天鵞絨の天蓋がかかっており、その柱はホテルと違い、深く濃い黒壇の柱には、黒大理石の蔦が絡まっている。見るだけでも手足が埋まりそうな布団にかけられたサーモンピンクのカバーはご丁寧にも同色の薔薇の刺繍が施されていた。

 天井には薄桃色の大理石の薔薇がこの部屋を囲う花輪のように彫られており、壁紙の淡いクリーム色がこの彫刻を更に鮮やかなものに見せている。テラスへ行けるらしい窓を覆うのはベージュの、やはり同色の刺繍で唐草を描いたカーテン。チェストやコンソール、ナイトテーブルや椅子は落ち着いた飴色をしており、遠くからは見えないが何やら寄木細工も施されているらしく、木製であっても安っぽさは決して見せない意気込みが感じられる。他にもよく見ればどれほど高級であるかが分かるだろうが、生憎彼女はそこまで家具に興味を持たないため、起き上がるつもりはなかった。

 しかし、それだけしか見ていなくてもよく分かる。そこにはあのホテルであった軽薄な派手さはなく、むしろどっしりと構えるような、だがそれらに勝るとも劣らないほどの金と手間がかかっていることを存在だけで示すような贅沢さを感じさせていることぐらいは。

 この部屋も、言ってみればあの男の持ち物の一部に過ぎないのだ。それを思うと、この部屋の魅力も途端に失われる。が、それも安っぽい子どもの意地だと思うと、やるせなくなる。

 彼女は窓のほうに首を向けると、カーテンのむこうを見つめた。とにかく思うままに泣いて、寝て、再び泣いて、疲れたと思ったら寝て、を繰り返したため、今が何時ごろだということどころか、何日経ったのかもよく分からない。

 ただ空腹はなく、恐らくそれを通り越して麻痺するほどの時間が経ったらしいのは確かだが、空腹など二時間ほどで収まることを知っている彼女には更に今が何時ごろなのかということも見当がつかない。ただ呆然と寝転んだままの状態が続いた。

 行動を起こして知ろうとは思えなかったし、何より動くのは酷く億劫だった。泣き疲れた疲労感はまだ体の奥に残り、何も考えたくない状態が続く。何かを考えてしまえば、あの目つきの悪い男の言葉と顔が浮かんでくるためだった。

 しかし、このままの状態で寝転んでいるのも情けない。だが、立ち上がったとしても、今度は寝台で寝に行くのか。それとも、テラスやこの部屋を見て気分を紛らわせるのか。それを考えただけでも虚しさは強い。

 このままの状況を突破する打開案が見当たらないまま、しばらく無意味な時間だけが流れていった。そうしているうちに、カーテンのむこうから漏れていた穏やかな明るさが黄金色に近い強さを増し、どうも夕方になったらしいことを知る。

 夕方を過ぎれば暗くなる。暗くなったらそれは夜中だ。夜中になれば寝なければいけない。なら寝よう。

 彼女はそう考え、瞼を閉じて胎児のように丸まった体勢になる。それによって足で閉じていたらしいドアの閊えがなくなったのだが、本人は閊えているつもりなど全くないので、気にもならなかった。そして彼女が眠りにつこうとし始めて数分後、ようやく彼女の精神を覚ますものが訪れる。

 

 その人物は、今日で何度目かになる天岩戸を訪問すると、既に癖になりつつあるように軽くその部屋のドアをノックした。相変わらず返事はない。当然、それで急に返事をしてもらってもこちらは飛び上がるほど驚くだろうとも冗談めかして考える。

 相変わらず律儀に軽食を載せたワゴンを引きながら、部屋に立ち入る。主の活動を密やかに待つ応接間と執務室を通り、寝室のドアを前にすると、その人物は小さくため息を吐いた。

 同僚たちの呆れたような発言を思い出し、本当に何故、そこまで自分が気にかけるのかを不思議に思いながら、再び習慣となっているドアノブを回して一応ドアを開こうとする。

 それはいつもならば、決して開かないものだった。だからこそ天岩戸と言えるわけではあるが、それ以前は何かでバリケードを築いているらしいことはよく分かった。その障害物がよもや部屋の持ち主自身であることなど予想も付かなかったのだろう。珍しくドアが開いたことに呆気に取られると、続いてドアから見えた白い足に、その人物は悲鳴を上げた。

「きゃぁあっ!」

 悲鳴で起こされた彼女のほうは、驚きよりも不快感を強く残して目を見開く。

 淀んだ眠気を保ったままの頭を声のするほうにやると、そこには水色の髪を短く切った女性がいた。ただの女性ではない。その耳は尖り、肌は異様なまでに白く、瞳は蝶の目のような鮮やかな黄色だった。魔族に違いない。

 それでも新たに現れた魔族の女性を見た衝撃よりも、長く続いたはずの眠気はまだ強いらしい。些か鬱陶しいと思っていることを隠しもしない目つきをして、彼女は魔族の娘を見た。

「……なに?」

「…………へ?」

 自分が何か悪いことをしたと思っているような傲慢な物言いに、魔族の娘――フォルティアは一瞬呆気に取られ、それから我に返ると何を指摘すればいいものか散々迷った。

 それを見た彼女は、阿呆のように口を開いていると思えば何か深く考え出した魔族の娘に対し、小さくため息を吐くと体を少し丸める。相変わらず、絨毯の上に寝転んだままの体勢である。

「何か、用事?別に何もないなら閉めてほしいんだけど。まだ寝たいから」

 そんなことをのうのうと言われて、ようやくフォルティアは言うべきことが決まった。否、彼女に決められたと言うべきだろう。大きく息を吸い込むと、唾を飛ばしかねない勢いで断固として告げた。

「お、お断りします!あなた様に何の権限があってそこまで仰るのかは存じませんが、床で寝るような野蛮な方の命令を受ける筋合いなどありません!」

 そこまで言われると、さすがに目は覚めるらしい。彼女はゆっくりと立ち上がると、寝癖も直さず奥にある寝台を指差した。

「ああ、なら、ベッドで寝るから」

「そういう問題ではありません!」

「ならなに」

 不機嫌を露わに、彼女は魔族の娘を睨みつけると、娘は一瞬怯んだ。そして相手が睨むだけで怯えることに、彼女は鈍い頭で少し驚いた。そして、怯んでしまったフォルティアのほうも、何故この無作法な女性に睨まれただけで怖いと思ってしまうのか、訳が分からなかった。

 二人がそう思うのは当然だ。フォルティアのほうは、よもや自分と顔も合わせることができないほど尊い立場にいる人物の令嬢が、即ち今後自分が仕えるべき主人となる眼前の少女だとは思っていない。彼女のほうは、そこまで自分が父と名乗るあの男に似ているらしいという自覚はなく、だからこそ無遠慮な態度を取れば取るほど、奇妙に懐かく、魔族の本能に訴えてくるような威圧感を相手に感じさせることを分かっていない。

 二人の間に不自然な沈黙が波紋の如く広がっていったが、仕切り直したのは自分の立場をよく分かっているフォルティアだった。咳払いを一つして、自分より少し目線の高い魔族の娘に対し――聞いたところではハーフらしいが、聞かされないと分からないくらいの魔力を今も感じている。――、人差し指を突き立てて説教をする。

「いいですか?ここはいみじくも、全ての魔族の祖であり、全魔族の畏敬の象徴である、魔王様がおわす土地であり、お城です。そんなだらしない格好で、あんなだらしない状態で、奴隷のように眠るなど、言語道断。魔王城に入城できる身の上なれば、最低限の礼儀は身に付けるべきです。いくら同胞とはいえ、魔王城の立派な一室の、しかも床で眠るなど、陛下の御名に泥を塗るような真似ですよ!?

 かなりご立腹な様子でそう説教する魔族の娘の発言は、彼女にとって大袈裟にしか聞こえないが、確かに皇居の部屋の床でそのまま眠るようなことがあれば、誰であろうと無作法としか取られないだろうと、自分の納得できるものに置き換えてようやく納得する。しかし、反省の態度をどのように見せるべきか全く分からないので、とりあえずここは出て行くべきなのだろうかとぼんやり考える。

「なら、退城したほうがいいの?」

「は?」

「そんな王様の名を汚す無礼者は以ての外なんでしょ?なら早々に、そういう迷惑な客は出て行くべきじゃないの?」

 早くあの小さな少女の下に帰りたいし、あの男の庇護下にいることも嬉しくない。そう思い、おぼつかない足取りで寝室から出て行こうとする彼女の裾を、フォルティアは思わず引っ張った。食事も睡眠も気力もまともに満たされていない彼女は、その急な引き止め方にまるで人形のような動きで止まらされる。

「いけません!そんなことをすれば、私がお城を追い出されます!魔王城の奉公にたった半年足らずで暇を出されるなど、人間に仕えるよりも侮辱的なこと…!」

 魔族の娘の思った以上の力に驚いたが、それ以上に彼女は人間と魔族の軋轢をここでも感じさせられることに驚かされた。ここでも、結局そうなのか。あの、無愛想で無表情の魔族の男が言ったことは、大袈裟な話でもなく、紛れもない事実なのか。

「……変な話」

 自分の裾を力強く引っ張ったままの、一見すればそこそこ可愛らしく上品な物言いのこの魔族の娘さえ、エミリアを見て嫌悪感を示すかもしれない。そう思うと、彼女は吐き気以上に呆れを感じた。あんなに人懐こく、あんなに無邪気に笑う子どもでさえ、種族が違うなんて理由で素直な感情のままに受け止められず、まともな意思疎通もできない。そんな差別に利益などないではないか。百害あって一利なしのこの差別が、何故今も尚のうのうと続いていくのだろうと、彼女は単純に不思議に思った。

 しかし、眼前の魔族の娘が必死になっていることはとりあえず分かる。今のところ、彼女の要求は早く一人で眠りたいことと、早くエミリアのもとに帰ることだ。帰り方が分かっておらず、出て行くのも駄目らしい。となると、またあの男と喋らなければならないことは物凄く癪に障るが、とりあえず相手側から何かを言ってくるまで面倒な騒ぎは起こさないほうがよさそうだと判断する。問題が起きれば事態は更に延期される。いくら誰かが駄々をこねようと、それは手順を踏まえるものにとって障害にしかならない。彼女の知る社会はそういう仕組みだから、恐らくここでもそうなのだろう。そう思うと、彼女はゆっくりと振り返った。

「じゃあ、何をすればいいの」

 急にそんな手順を踏んだことを言い出した彼女に、フォルティアは少し戸惑ったが、ようやく自分の仕事になると思ってため息を吐いた。この相手は大人しいんだか非常識なんだか、意味が分からない。その規則性を感じさせないマイペース振りは、個性的な同僚がいることを自覚しているフォルティアであっても、非常にやり辛かった。

「まず、その酷いお顔を何とかしましょう。それに、あなた様がこのお部屋に篭ってから三日は経っています。お風呂の準備を致しますので、暫くそちらに座って待っていてください」

 三日も経っていたと言われても、彼女はその自覚がないため、いまいち驚くことも戸惑うこともできなかった。そうなのか、と多少驚きながらその言葉を受け入れ、促された寝椅子に腰をかける。当然、ホテルのただ派手なだけのソファとは全く違っていた。彼女としては、今まで寝椅子自体が初めて見るものだが、その豪華さにも初めて遭遇する。

 金糸で豪華に縁取られたサーモンピンクのクッションを持ち、彼女は呆れるようにそれを見る。健康な薔薇色の頬を持つ赤子の肌色にそっくりな布地に、滑らかな手触りだが己の輝きを忘れさせない金の糸は、あの魔族の娘が持って来たワゴンに立ててある蝋燭の輝きを受け、自己主張を行なっている。クッションの四隅に糸で描かれた薔薇は繊細でありながら高貴で、彼女に囁きかけるようでもある。――あんたのいた家の家具なんかより、私のほうがよっぽど美しいでしょう、と。

 しかし彼女はその美しさが心に入ってくることなどない。それどころか、そんな自己主張など邪魔で仕方がなかった。お前自体にどれほどの意味もないくせに、あの質素な暮らしの中で大切に扱われてきたものを貶す理由などどこにもあるまいとすら考える。

「……やばいわ」

 ものにすら悪意を感じてしまう自分に、彼女は大きなため息をつく。悪意を感じるということは、自分の中に悪意があるということ。そんな調子では、あの可愛らしく純粋なエミリアに合わせる顔がない。こんな調子で過ごし、この城を出て帰るときになれば、すっかり悪人面になってしまうではないか。

 とりあえず何も考えないようにして風呂に入るまで待つと、彼女は寝椅子にもたれかかった。相変わらず豪華な刺繍は自己主張を続けているように感じるが、そんな自分の被害妄想など疲れるだけだ。とりあえず、ちゃんと寝たい。

 気だるい眠気を保ちつつも、彼女はひたすらあの魔族の娘を待つ。あの水色の髪を揺らしながら、ひょっこりと顔を出してくる瞬間を何度も瞼の裏で思い浮かべる。しかしそのシミュレートが実現する瞬間がなかなか来ない。風呂を沸かすことはそんなに時間がかかるのか、と喧嘩腰で思ってしまう。元の世界にいたときでも、風呂の水が沸くのは優に三十分は必要なのだが、今の彼女はそんなことすら忘れていた。ただひたすら苛立ちながら待ち続ける。そうやって大人しく待っている根本の理由すら、苛立ちながら待ってもすぐにやって来るものではないというのに。

 貧乏ゆすりとまではいかないものの、次第に表に出るように苛立ってきた彼女は、深呼吸をして自分の安定を保とうとする。が、当然そんなことで安定など保てるはずもない。ついに裸足であることは十分承知で、寝椅子から降り立った。

 軽食が中にあるらしいワゴンには申し訳ないが、それを退けて、初めて案内されたときにろくに見ることができなかった部屋をようやくまともに見る。

 どうやら、応接間のようだ。寝室と違い、多少派手な色合いの家具が一見雑然としていながらも美しく配置され、この部屋が人の行き来の激しい場所であることを望んでいるように見える。だが、今は静かだった。この部屋の生活に慣れたくない彼女としては、申し訳ないがその活躍はないだろうとしか思えない。それから、寝室のドアの反対側にあるらしいもう一つのドアが目に留まった。

 全部使う気があるのかも分からないような数多くの豪華なソファや椅子を除けて、そちらのほうにも向かってみる。カーテンが掛かっている側には庭があることは予想がつくため、あちらには何があるのかはいまいち予想が付かない。

 時間を潰すためなら、気分を悪くせずに使うべきだと自分に言い聞かせると、金箔で縁取られた観音扉のドアノブをそっと回す。当然、いくらタイプの古いドアノブであろうが、回し難いこともドアを開け辛いこともない。重厚な金属の重みを持って、そこは開かれた。

 そこは仕事部屋のようだった。皮のように蝋燭の光を受けて照り輝く布張りの肘掛け椅子に、またしても立派な書斎机。木の種類には詳しくないが、マホガニーだの胡桃だの、ともかくそういった高級木材であることは暗い室内でも何となく分かる。壁の片面は全て埋め込み式の本棚に占領されており、本棚に入った本は記号のような文字でびっしりと題名が綴られていて、全て読めるものではない。あのアルファベットに似ている文字ですらないのだから、それらの本を手に取る気など起きもしなかった。

 そうして彼女は視線を本棚から離す。

 転々と、視線は寝室以上に広い部屋に巡らされる。華奢なシャンデリアを眺め、分厚い布地のカーテンをなぞり、飾り棚として用いられているテーブルを通り抜け、書斎の奥にある机へと視線は集中される。

 主人の活動を待つように明かりの灯されていないランプ。彼女がやって来たおかげで空気の流れを感知し、軽く葉先を揺らす観葉植物。書斎机の上には、羽ペンとインクと何かの紋章が刻まれたクリスタルグラスの文鎮が並んでいる。そしてこの部屋の主が肘掛け椅子に腰を下ろした頭上に来るように、太陽と月と大きな龍が覆う大陸の地図が額の中収められていた。そしてその額縁の上に燦然と輝くのは、赤い十字架に対し、横に絡まる金色の蛇。

 それを見て、彼女の鼓動が一瞬高鳴る。その紋章は覚えている。母が教えてくれた御伽噺の世界にある、もっとも危険でもっとも強力な国の国旗に組み込まれたシンボル。大魔王の娘が掲げた、聖神に盾突くその気持ちの表れと、支えてきた黒い魔の歴史の重み。

 聖なる印を犯す毒蛇が堂々と書斎に掲げられるこの状況に、ようやく彼女は実感した。あの国に、大魔王の娘が理想の旗を掲げ、今は大魔王の息子であるあの男が治めている地いるのだと。

 母から聞いた魔族の本拠地での争いは、子ども心に戦慄を覚えた。優しい声で語られる、激しい合戦の情景は、息をするのも忘れそうなほど迫力があった。同時に、同じ人間ならばそこまで自分も荒々しくなってしまうときがあるのだろうかと、怖くもあった。

 いくら少女が人魔平等を掲げても、憎悪は両者の間に間違いなく存在する。それが合法的に相手を殺していい戦ならば、尚更両者に対する烈しさは増し、戦場となった荒野は拷問場か屠殺場か、見分けがつかないほど血に塗れた。結局、魔王の軍と少女の軍はそのときには決着がつかず、戦力を消耗した隙を計って現れた聖なる神の加護を受けた騎士たちの軍によって、魔族の軍は形式上の止めを刺される。魔族に一切の容赦がない聖神の騎士軍からの制裁を恐れたのだろう。野に下った魔王の軍の武将たちは少女の軍に協力を求め、弄り殺される予定だった大魔王の娘を救出する。

 魔族の象徴でもある君主を救えば、如何な魔族とは言え人間の少女に感謝しないわけはない。聖神の騎士軍と、少女の協力を得て再建された魔王の軍の雪辱戦は、かの地を犯しつつあった人間へ絶望を、魔族へ希望を運ぶものとなる。そうして魔王城奪還戦における少女の軍の勝利、のちに領地を魔王の軍に返還することにより、彼女は魔族という種族そのものを味方につけることが可能となった。終戦二年前、少女の軍が大陸の七割を事実上制圧し、大戦の勝者を全大陸に予感させた出来事である。

「あら、こんなところにおられたんですか?」

 その声に振り返ると、彼女が待ちに待ちわびた魔族の娘が書斎を覗き込んでいる。

 ようやく風呂に入れることに安堵の息を洩らしながら、彼女はドアのほうに歩いていった。

「気にしないで。暇だったから眺めてただけ」

「空が明るいときに眺められると、随分印象が違いますよ。応接間はご覧になられました?」

 彼女は軽く首を振る。それから社交辞令めいた無難すぎる会話内容に、皮肉な笑みを宿したくなった。

「見たい時に見ることにするわ」

「そう、ですね。それがよろしいかと…」

 彼女の態度に拒絶的なものを感じ取ったのだろう。魔族の娘は語尾を濁して先導しようと踵を返し、彼女が書斎から出るのを待つ。

 しかし、彼女のほうはまだ呆然と地図を眺めている。先程は風呂に入りたがっている――本来の目的は、風呂に入った後にしっかりと寝ることだろうが――ようだったが、今は地図に興味があるらしい。なんともむらのある気質だと内心ため息を吐きながら、フォルティアは仄かに薔薇の色が入った金髪に声をかける。

「どうかなされました?」

「……別に」

 そう言う割には、まだ地図に視線を注いだままで彼女は動こうともしない。さすがのフォルティアも苛立ちが湧き出てきたが、この名称不明の半魔の女性に感じられる威圧感のせいで、強く言えないし、詮索することさえ憚られる。

 だが、彼女のほうも何か考えあってのことらしい。何となく、ではないだろう。静かに振り向き、子どもが初めて興味があるものを見るような、無心の瞳をフォルティアに向けた。

「戦いのとき、どう思った?」

「は?…大戦、のことですか?」

「そう。ここも、かなり被害に遭ったでしょう」

 ここ、とは魔王城のことなのか。半円を描くように踵を軽く回す彼女に、戸惑いながらフォルティアは答える。

「いいえ、シリニーグの人間たちは、魔族の地に住むつもりなどなかったようですから…。それどころか、徹底的に国中の建造物を破壊しようとしたようで…」

「…聖神の軍、よね。酷い話」

 軽く眉をしかめる彼女に、フォルティアは少し安心した。風変わりではあっても、人間が正しいなどという大それた考えは持たないようだ。だが、戦時中のことを聞きたがるなど、魔族にしては平和なところで育ったものだと不思議にも思う。

「ほんとうに。歴史ある魔王城が破壊される前に奪還されて、心から安心しました。しかもそれまで通り、ヒロ様に治めて頂けるなど…人間でも、立場を弁えているものがいることに驚いたものです」

「………それは、統一した軍の?」

「はい。あれほど理解のある人間の君主なぞ、もう現れることはないと思います。…まあ、異界の人間なればこそ、なんでしょうけども」

 フォルティアの素直な感想の言葉を聞いて、どう思ったのか。

 今までは魔王城の誇る一室を見ても何の表情の変化も示さず、また魔王城に自分がいることに関しても特に感動もしないらしい彼女が、このときだけは表情を変える。

 薔薇の棘より鋭い視線と、荊の蔓より拒絶的な雰囲気がたちまちに消えて、そこには年相応であろう少女がいた。年相応、と言うのは、何もフォルティアが彼女の実年齢を知っていたわけではない。ただ、彼女の表情を見て、存外このマイペースな女性が、少女と言ってもおかしくない年齢であることに気がついただけの話だ。

 彼女はむず痒そうでもあり、照れくさそうでもあり、手放しに喜べないような、嬉しくとも見逃せない欠点を知ってしまったような、何とも言えない笑みを浮かべて深く頷く。

「ふうん……そう」

 そんな自分の顔を見られたくないのか、軽くフォルティアに背を向けるように俯く彼女ではあるが、その頬の赤さは隠しきれない。それにいくらしかめ面を装っても、その瞳の輝きも薄暗い空間の中では浮いてしまう。

 理由は分からないが、そんな顔を見られたくないという気持ちはあるのだろう。喜んでいる自分を下手なりに隠そうとするその態度が何だかいじらしく感じてしまい、フォルティアは苦笑したい気持ちをこらえて咳払いを一つすると、すまして告げた。

「お風呂の用意が出来ました。どうぞこちらに」

「ええ。頂くわ」

 彼女も精一杯浮かれないよう取り繕いながら慌てて頷き、それから二人は書斎を後にした。後に何度このやり取りが交わされるかは、二人とも当然ながら知りもしない。

 

 そして水が嫌いな犬か猫のような惨めな気持ちになりながら、ようやく風呂を済ませた彼女は床に着く。

 食事は摂らなかった。後は寝るだけの段階では別に必要ないと彼女が判断したからだ。魔族の娘のほうも、冷めてしまったものを仮の主人に食べさせるような真似はしたくないとの主張から、ワゴンに載せられた流動食は誰かの夜食になった。彼女は廊下を思い出して、あれほどの規模なら夜に働く者も多かろうと、食べ物を無駄にしてしまった自分の罪に言い訳をしながらと袖口に触れる。

 当然裸ではなく、寝巻きを着用していた。着ていた服は早々と持っていかれた。捨てる様子ではなかったからよしとしよう。他人が着ていればどこのお姫様だと皮肉を言いたくなるほどのレースがあしらわれているが、自分が着るのだから何も言えなくなる。現に、今でも手足に脆い生地が触れる感覚が違和感を持つ。次の機会にはもう少し簡素な寝巻きにしてもらおうかと考えるが、そこまで手間をかけさせると贅沢なことを言っているのではないかと思ってしまう。しかし、このひらひらしたネグリジェだかガウンだかに慣れるのも嫌だ。

 縁取られた刺繍に、もう一度触れる。これも絹糸なのか、優しい肌触りが妙に落ち着かない。木綿ぐらいが丁度いいのだが、どうしたものか。

 漠然と考え事をしながら、彼女は自分の瞼の重さにふと気付く。いくら寝ても眠り足りないわけではなく、ただ自分の殻に篭るための眠りではなく、正常なサイクルで動く生物としての眠りだ。

 明日から、ようやく彼女にも正常な生き物としての周期が訪れる。朝に起きて夜眠る、そんな普遍的な歯車が回りだす。何故だかひどく、それが懐かしかった。そういえば、その歯車を止めてしまったのは誰だったか。何故、こんな異常なことを、自分は行い続けていたのか。

「…………」

 浮かび上がるあの血の色の瞳。完璧に彼女を見下した男。悔しいくらい堂々と、彼女を傷付けた魔族。

 男の言葉が思い出される。彼女の心の傷口は再び血を滲ませようとする。受けた衝撃の、辛さと怖さが彼女を絶望に突き落とそうとする。

「……だめ。いつも、通りに……」

 震える我が身を抱きながら、彼女はそう自分に言い聞かせる。あの男の言葉は完全に拒絶できないほど彼女に強い印象を与えてはいながら、彼女はまだあの言葉を全て真実と受け入れることはできない。

 だからいつも通りに振舞えと、彼女は自分に言い聞かせる。自らの心に傷などなく、また自らは唯一母に愛されていた存在なのだと自分の立場を誤魔化して。

 ―――いつかは分かる、嘘なのに?

 不意に、頭の奥にそんな言葉が浮かび上がる。囁くのは自分の声か、母の声か。彼女は一瞬動揺するが、態度は頑ななままだった。それでもだめだ、今は受け入れるときではない。そこまで円熟していない、と彼女は自分に言い聞かせると、頭の奥に浮かび上がる言葉はすぐに消え去った。ここで追い詰める気にはならないようだ。

 安堵の息が漏れるものの、心の傷の血の跡は拭い去れない。逐一こんなことを気にしなければならないのは、彼女にとって少し苛立たしいことではあるが、いつか慣れるだろうと楽観視する。――楽観視しないと、常に怯えたままだろうからだ。

 傷口が開かれることが二度とないようにと願いながら、彼女は大きく一息吐き、就寝の挨拶を声に出す。

「……生きていてごめんなさい、母さん」

 当たり前の挨拶のように、彼女はそう言った。それから眠りに着く体勢を取り、浅く息を吐く。

 死後の母に対する、何の意味もない謝罪の言葉は、誰の耳にも届かないことだ。本来ならば、そんな謝罪をむけるべき相手も、苦い顔で首を振っているということは想像に容易い。それでも彼女はこの挨拶を欠かすつもりなどなかった。けどわたしは愛してるから、なんて、誰が聞いても首を傾げるような言葉で、心の中にいる母に言い訳をする。その間違いに、気付きもしないで。

 やがて波が引くように完全に彼女が眠りの世界に浸る頃、ふと、誰か自分以外で心の中にいる母以外の声を聞いたような気がした。

「重症だな、この阿呆が」

 誰の声なのか判断する気にもならず、彼女は完全に目を閉じる。

 日常という名の輪は再び巡る。相変わらず、彼女の中に残されたままの、大きな食い違いは残ったままで。

 残された片親の深く長いため息を、一つも理解しようともせずに。

 

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