暗い城に赤い薔薇
彼の日常には寸文の狂いもない。 魔王城に士官する中でも上位を意味する個室で起床し、そのまま身支度をしてから鍛錬場に向かい、軽く汗を流す。侍女たちのように、一日中仕えるべき相手がいない男であり、同時に彼は特殊な職に就いているため、他者から見ればかなり優雅なものだった。 空腹になったところで朝食を摂り、それから仕事が始まる。とはいっても彼の仕事は常に役割があるわけでもなく、上司に顔を見せる以降は大抵、何をしても自由だった。とはいっても遊び惚けていいわけではない。魔王軍の新鋭として相応しい実力を持つこと、それだけが彼らに求められていた。 言葉にすれば簡単だが、当然ながらその求められるレベルの高さは、魔族の中でもまだ若い彼らには厳しいものだった。それを知ったと同時に、短い盛りの時期と悟って鍛錬を適当に誤魔化す者もいれば、自分の長所のみをひたすら磨いていく者もいる。 そして彼はその真面目な性格から、自分の能力を平均的に上げることを目標としていた。つまり、交渉術を磨き、知識を増やし、教養を身につけ、剣技を磨くことを、一日の内に少しずつ行っていたわけである。 「………は?」 しかしその日は自己鍛錬などする暇もないと、間接的に上司の執務室で宣言された。 その上司は、大魔王が勢威を奮っていた時代から、大魔王の長女である死神プラーナの片腕として働いていた古参の官である。当然、今この魔王城の主となった魔王と直接言葉を交わすことができる数少ないうちの一人でもある。 珍しく驚いた表情のまま棒立ちになった部下の視線を浴びながら、老人は多少複雑な表情のままもう一度告げる。 「陛下のお客様に、城内をご案内して差し上げよ、と申しておるのだ」 「は……、しかし」 我に返ったアシュレイは、姿勢を軽く正して上司に無言で訴えかけた。そんなことは自分のような立場の魔族がすべきではないだろう、それに相応しい仕事を受け持つ者がいるはずだと言いたいのだが、上司の態度は変わらない。否、彼の戸惑いを分かっていても、魔王の言葉に反論する気など起きないらしい。 「…陛下のご命令は絶対であらせられる。何より、件の客人は非常に大切な方であるそうだ。光栄に思うがよい」 そう断言されてしまうと、真面目な彼は反論する気など根こそぎ奪われたも同然となる。反論したとしても、彼は自分が魔王を相手に直談判するほどの勇気と実力と精神を兼ね備えているとは思えなかった。 「……承知致しました。喜んでお受け致します」 「うむ。ここに、お客様の部屋と、案内すべき部屋を纏めた地図がある」 「…拝借致します。では、行って参ります」 決まり文句で応えるも、言葉の端には力がない。それも仕方のないことだと思いながら、老人はまだ若く、同時に自分の実力を過信しているであろう青年の背中を見届ける。 扉の閉まった音を聞くと同時に、老人は軽くため息を吐いた。 青年の気持ちは分からなくはない。老人とて、魔族の権威を回復させた魔王直属の隠密部隊長に任命され、その手足となって更なる魔族の繁栄を手伝うものと思っていたのだ。しかし実際に今まで彼らが魔王から受けた任務は、魔族以上に魔力の高い人間の娘を見つけ出せだの、その娘を丁重に扱えだの、とてもではないが誇れる任務とは思えない。だがこれも魔王の考えあってこそだと老人は信じているが、若者たちはそうはいかず、高い能力ばかりを求められ、しかし見返りもなければ務め甲斐のある任務を与えられもしない状態に、覇気を折られ続けているのも事実だ。 特に隊の中でも真面目だったアシュレイのことを思い出し、老人は再びため息を吐く。この任務が終わった後、彼から脱退を願われても仕方ないと腹を括りながら。 真面目な性格のアシュレイは、魔王が求める武将としての総合能力においても鍛錬を怠らず、努力でもって近付こうとしている。そんな彼に、若い娘を浚って来いだの、女性を相手に城内を案内だのといった任務は、彼の隠密部隊の任務というイメージを裏切り続けるものに違いない。何よりこの任務に彼を選んだところで、成功失敗はともかく、彼の敗北感に終わることを老人は予期していた。生真面目な青年が、そのような任務に誇りを持つようには思えないからだ。 それから、自分の受け持つ部隊に、女性受けの良さそうな者など一人もいないことを思い出すと、老人は三度目のため息を吐く。――文句を言いたいわけではないが、本当に、魔王の考えがまったくもって分からなかった。 ため息を吐きたいのは、任務を受けたアシュレイとて同じだった。 客人はあの娘に違いあるまい。何せ、わざわざ自分に向かない案内を任命してくるということは、その客人とやらと顔見知りである可能性を考慮してのことだろう。彼女と顔を合わせたもう一人の魔族、レデュールは自分以上にそういったものに向いていないし、その判断は客観的には無難な判断であろう。 しかし、彼はあの娘が苦手だし、あの娘とて自分に対しいい感情を抱いていないことぐらいは容易く見抜けた。そのため、この任務は受けた瞬間からいい方向にいくとは思えない。だが、魔王からの命令を拒否するわけにもいかず、また受けた以上は遂行すべきという考えのアシュレイには、このまま任務をなかったことにするような考えは始めからなかった。 足取り重く、魔王の客人であり、あの奇妙な価値観の娘がいるはずの部屋に向かう。そこは緋扇の部屋、と名づけられているらしいが、彼はそんなところに行ったこともなければ見たこともない。必要がないからだ。 だからこそ、案内すべきルートにざっと書かれた施設や広間の名前を見ると、アシュレイはますます足の重みを感じずにはいられなかった。名前でも分かるほど豪華そうな場所など、彼は興味がないし、解説するだけの知識などないも同然である。そんな暇のありそうな、五魔将の一人直属の女性部下にでも任せばいいものをと、何度目かの反論を心の中で叫ぶ。 「ほう…陛下からの勅命を受けた者の顔には、到底見えんな」 その上、嫌な顔に逢うことになろうとは、本気で今日は運がないらしいとアシュレイはつくづく思わされた。 彼の眼前に立ち塞がるのは、彼より少し年上かと思わせる魔族の青年である。彼と同じ身軽な士官服の上に、白い外套をこれ見よがしに纏っており、魔族にしては珍しい華やかな金髪が黒大理石の廊下に映える。そういえば魔王も大戦時には白い外套を羽織っていたことを思い出しながら揃いの衣装にしたいのかと内心鼻で笑って、アシュレイは軽く会釈して通り過ぎようとした。 「そのような態度で陛下の大切な客人の持て成しなど出来ると思うか」 相変わらずの突っかかりように、アシュレイは辟易する。しかし顔は平常を装ったまま、彼は冷ややかに言ってのけた。 「努力致します。客人を待たせたくないので、失礼ですが退いて頂けますか」 その態度がやはり気に食わなかったのか、金髪の魔族は軽く眉を歪めて腕を組んだ。彼の要求は無視されたらしい。 「無愛想な貴様に任せるとは、閣下も見る目がない。私が建言すべきだな」 「どうぞご勝手に。陛下に報告された後でなければ幸運でしょう」 「陛下にご報告した後のほうが、俺には幸運だ。陛下に直接申し上げる機会が出来上がるのだからな」 「左様で」 この先輩の態度は、彼の知る限り不変だった。 同僚から聞くところによると、どうも自分より高位に生まれた魔族に対しコンプレックスを持っているらしい。アシュレイはネウガードの中でも高位に位置する魔族の生まれで、人間に踏みにじられる屈辱は味わったことがあっても貧困の経験はない。だからこそこの先輩魔族に目をつけられた。その理由も、この眼前の魔族は努力でここまでのし上がって来たから生まれながらに楽な地位にいる者に憎悪を抱いているからだと言うが、自分より低位な魔族に対しては見下し気味なのだから、何に対しても平静ではいられない性格なのだろうとアシュレイは冷静に捉えていた。一言で言えば完全実力主義の猪頭だ。なるたけ相手をしないに限る。 「では、失礼ですが退いて頂けますか。自分に任されたものは内心どう思おうが遂行すべきだと考えておりますので」 口調は穏やかに、しかし確実にこれ以上相手をするつもりはないという明確な意思表示を示しながら、アシュレイは眼前の男に言い放つ。しかし、苦労した経験がないくせに、自分を差し置いて魔王からの勅命を受け続ける後輩に対する嫉妬がわだかまる男には、焼け石に水の行為だった。 「陛下からの勅命を、貴様は不承と思うのか!」 「思ったところで、行動に移すような真似は致しません」 鬼の首を取ったかのような物言いに、さすがのアシュレイも眉間の皺を隠しきれなかった。それから、さすがにこのまま相手をし続けると、案内に支障が出ると考えて、金髪の魔族と廊下の隙間を縫うように動く。 「自分こそが陛下の勅命を受けるに相応しいとお考えならば、もう少し声を抑えたほうが宜しいですよ。下品でならない」 「なっ……!」 動揺を通り越し、怒りに震える魔族を完全に振り切ると、アシュレイは歩く速度を確実に速めながら角を曲がる。最悪の場合、あの先輩魔族に追いつかれて決闘でも申し込まれてしまうと、任務どころではなくなってしまう。そうなれば、上司だけではなく、魔王にも影響がでてしまうことになるだろうと思うと、冷や汗ものである。 しかし、ありがたいことに先輩魔族は追いついてこなかったし、走ってくるような足音も聞こえなかった。思ったよりも大人だったと、内心アシュレイは先輩魔族を見直した。尤も、彼の中で先輩魔族の評価は下がるところまで下がっていたため、後は上がるしかない状態にあったのだが。 そうして、早歩きで向かった先に、緋扇の部屋はあった。無機質な黒大理石の回廊の柱に一輪、真紅の薔薇が目印のように挿されている。本来は燭台置きなのだろうが、その柱の横にある扉を示すには、なかなか気の利いた活用法だった。 アシュレイは軽く襟元を正すと、ノックを二回、短く響くようにする。それに応えるかのように、一呼吸分の沈黙のあと、ゆっくりとドアノブが動き、奥から木苺のような色の髪が覗いた。その侍女も、高位魔族の生まれに違いない。侍女と言うよりも、むしろ女官と言ったほうがいいのかもしれない。下手をすれば、自分より立場が上の者とている。 「案内の方ですね」 「そうだ」 短く頷いたアシュレイの視線の先には、娘がいた。髪を丁寧に結われ、レースをあしらった漆黒のワンピースに薄桃色のコルセットで、凛々しくも華やかな印象となる。 身につけるものだけでここまで印象が変わるものかと思ったのは一瞬で、相も変らぬ鋭い眼光を受けると、途端に彼は思考が切り替わった。既に自分に向かない任務に対する引け目はなく、自分でも驚くほど冷静に、娘の視線を受けることだけに集中する。 ある意味でこの娘は、あの先輩魔族よりも気が抜けない相手だと、アシュレイは密かに実感していた。ゆえにその動きは、彼の戦闘体勢と同じく、慎重且つ冷静なものへと転じていた。 娘からの視線を受けても、丁寧に受け流して一歩前にいる侍女を見る。娘の眼光を故意に避けたわけではなく、ある種の確認に似たような動作のため、緋扇の部屋にいる全員が、彼の視線の転じ方に何の疑問も抱かなかった。勿論、当人もだ。 そして借りの女主人の話し相手をしていたらしい水色の髪の、こちらは少し幼い女官が、何か娘に話しかける。それに娘は軽く応じながら、この部屋の玄関口となる控えの間まで歩いてくる。 それから彼に手を伸ばせば届くほど近くにまでやって来ると、一瞬彼を一瞥し、それから女官の二人に振り向いた。 「いってらっしゃいませ」 「呼び出しが来たら遠慮なくお願いね」 「はい」 慎ましい女官二人に見送られる彼女の態度は、なかなか様になっていた。そのやり取りだけならば、どこの令嬢だと思わんばかりの堂々たる態度だが、生憎アシュレイにはそうは見えない。腰が据わっているように見えながら、その言動は彼女の無気力さを表しているように受け止めた。 「まさかもう一度会うとは思わなかった」 「本気で言っているようには思えないな」 女官たちの視線から外れてしまうところまで歩き、初めて交わしたやり取りは、そんな乾いた空気を保った内容だった。先ほどまで滲むような優雅さを持っていた娘の表情も、今や疲れたような脱力感を滲ませた笑みに変わっている。 「まあね。……予感はしてたけど、案内役なんて能天気なもの、あなたがするとは思わなかった」 「それは私も同じだ」 村娘をかどわかすような、誇りにはならないがあらゆる方面での力が必要な仕事となれば、確かに自分の置かれている隠密部隊が行ってもおかしくないことかもしれない。しかし、城内の案内はさすがに自分たちがすべき仕事ではないだろうとは、彼もそれまで思っていたことである。それを、彼女が疑問に思っても不自然ではない。 アシュレイはちらと、隣に並ぶ娘を見る。 桃色がかった金髪は上半分だけがきれいに編み込まれ、下半分は流してこの娘の髪の美しさを自然に見せている。手が入れられている部分は、細い三つ編みにしたあと、軽く団子にされていた。その髪を留める簪は、朝露が瑞々しく輝く、鮮やかな鮮血の薔薇の蕾だった。否、薔薇の一輪を模した簪である。鳩の血色の蕾は紅玉で、額は濃い翡翠。繋ぎの土台は金の茎で、蕾には丸い玻璃が雫を模して装着されていた。その簪一本だけで、貧困に喘ぐ農民一家を救済できるだろう。 首筋までの黒いレースで覆われたワンピースは、当然絹で誂えている。漆黒の中にサッシュの役割を果たすコルセットは、牡丹のような淡い薄紅色を見せ、その衣装に華やぎを与えると同時に、基調の黒をより際立たせている。同時に露出が少なければ少ないほど、娘の肌の白さはますます映え、同時に濡れた赤い瞳や唇も尚一層美しく見せていた。 その姿だけを見てみれば、娘は高位魔族の令嬢と言っても誰もが納得するに違いない。魔王の客人であるという言葉の裏に含んだ、艶美なものまで嗅ぎ分けるほどに美しいことは事実である。しかし、その魔力は娘の美しさを台無しに、もしくは際立たせるほど暴力的な勢いがあった。 あれから何があったのかは知らないが、娘の魔力は更なる暴力性を増していた。黒々とした鎖のようなそれは、娘を源泉とするかの如く、怒涛のように周囲に霧散していく。魔力はその人物の心境を表すには相応しいものではないが、この娘が感情によってしか魔力を律していないことがよく分かる状況だった。そしてその感情が何を示すかといえば、諦念、憎悪、執着――全てが混ざりあい、本人にも整理する気がないような混沌を極めている。 こんな状態の娘に魔王城の案内など聞く気があるのものか。そう心の底から疑問に思ったアシュレイではあるが、気休めでもいいから彼女の気持ちをどうにかすべく、周囲が動かねばならないことは事実らしい。 手間がかかる娘だと思いながら、彼は先ほどの地図を思い出す。場の空気を和ませる術など持たない彼は、早々に案内だけを済ませることにした。既に、客人を持て成す気はないため、言葉遣いも義務的な敬語に変わる。 「では、大魔王崩御の現場である…封印の間から案内させて頂きます」 心理状態はかなり混沌を呈している彼女でも、何かしら感じ入るものがあるらしい。一瞬眼光を鋭くして、引き締まった顔で軽く頷いた。その態度に、彼は内心安心する。 「他に見たい場所があれば、今のうちに言って下さい。そちらを優先します」 「別にないけど……ああ、女王に関する部屋があるなら、見たいかもね」 苦笑を浮かべてそんな不可思議なことを言う。人魔の溝さえ実感しない無知な娘が、何故大陸を統一した女王のことを知っているのか。その要望に彼は少し面食らったが、一応と思い確認のために尋ねてみる。 「…その女王とは、このネウガードをヒロ様に譲渡したあの人間のことですか?」 「そう、その人間のこと。何かない?」 そう言われても、当時の城内の様子など、アシュレイは知る由もない。コリーア教の騎士団が新生魔王軍を打ち破ったという凶報に、ネウガード全土が揺れていた時期だ。彼も、彼の一家も、カーシャに疎開する準備の最中だった。そのたった数ヵ月後、ルネージュ公国軍がシリニーグを追い払い、再び新生魔王軍にネウガードの統治権を譲り渡すというどんでん返しが起きたのだ。人々は歓喜の涙も感謝の言葉も出す暇もなく、その展開の速さに唖然とするだけだった。 譲渡については当時から城に務めていた者に聞けば詳しかろうが、彼の知る限りではそれが確定している者など一人きり、アシュレイの上司その人しか見当がつかなかった。 しかし、今から自分の職場にこの客人を連れて、上司に直接訪ねるなどと、調理場まで客を連れて行くような愚行である。かと言って、外に待たせておいて、何も知らない同僚が彼女をからかうようなことになっては恐ろしいことになるだろう。そしてまた、今から彼女の部屋に戻って待ってもらうのも時間の無駄となる。 どうしたものかと考えている彼の表情は、よほど真剣なものだったのか。娘は軽く彼の顔を覗き込むと、軽く首を振った。 「別に当てがないならいいわよ。ただの好奇心だから」 「…あることにはあるが、手間がかかります。持て成す立場としては複雑な状況のもので」 「なるほどね。…じゃあ、他に行きたいところだけど」 あるのかと反射的に訊きそうになり思わず彼は目を剥くが、それにも気付かず、娘は含み笑いと薄い期待を浮かべる。いつの間にかささくれ立った魔力は霧散していて、まさしく彼女の精神状態と魔力が繋がっているらしいことがよく分かった。 「前の…大魔王の娘の魔王軍。彼らが使ったような施設。軍議とか、鍛錬とか、そういうものはどこでやったの?」 まさしく自分が今使っているような場所をずばりと言い当てた娘に、彼は軽く眩暈を覚えた。彼女の要求を叶えるには、どちらにせよ自分が個人的に利用している場に――つまり、同僚や、あの煩わしい先輩も利用するような場所に――行かなければならないらしい。 「失礼ですが、何ゆえ、そのようなところを見たいとお思いに?」 「前の大戦に興味があるから。ついでに、最近あった重大な事件の重要なところは普通、押さえておくべきでしょう」 模範的な回答である。アシュレイからすれば異端とも思える価値観の彼女が言うと、多少にうそ臭いが。 とにかく、無碍には断れない理由となると、案内せざるえない。盛大に吐息をつきたい気持ちを堪え、小さい吐息で紛らわせると、アシュレイは顔を上げた。 「分かりました。では案内致しますので、なるべく静かにお願いします」 その奇妙な要求に彼女は軽く首を傾げたが、別に反論するつもりはないらしい。あくまで軽く頷いて、それから彼の背後に立った。 自分の意図が全く相手に伝わっていないことは分かったが、それでもアシュレイは何も言わずに歩き出す。それは理由を言ったところで無駄だろうという、確定に近い予想が可能だからである。しかし、そうなってでも口止めすべきだと後に悔やむことになるほど、その要求は甘過ぎるとは、このとき彼は気付きもしなかった。 この日は老人としても、非常に珍しい一日だった。普段の平淡さから言えば、成る程、厄介ごとは一度にやって来るという諺の威力を信じたくもなる。 とは言っても、老人は別段、自分が非情なまでの現実主義者であり、諺など信じない性格である、というわけではない。その諺がいかに正しいものであるのかを、よくよく理解した、それだけだ。しかし、それだけとは言っても、内に含む苦労が疲労感に終わってしまうのは、何とも勿体無いことだと老人は思った。 ことの始まりは魔王からの奇妙な勅命だった。いつか部下が浚ってきた半魔の娘に対し、退屈はさせないように、且つ丁重に持て成せ、と承った。詳しく訊ねるのは野暮である。早速、魔族が全大陸に誇る魔王城の案内を、部下の中でも冷静で、社交的な振る舞いが出来るであろう部下を選び、勅命を伝えた。 明らかに落胆した様子で部下が出て行った後、自分もある程度の雑務をこなして十枚も書類の数がいかないところで、鼻息荒く、また別の部下が乱暴に執務室に入ってきた。 この部下は、戦闘に関して言えばなかなかの才能を持つ。実際その実力は魔王に認められたほどだし――魔王にとって「使える」者は、使い捨ての駒から、大切な奥の手まで、表面上は同格に扱われることを、彼らは知らなかった。――彼もそれを光栄に思い、ますます鍛錬に勤しんでいるのだが、多少に得手不得手の差が激しかった。武力方面だけを伸ばすことに心身を注いでいるせいか、政治方面に関する能力はますます衰えていくばかりで、昔の利発さは今も霞んでしまっている。今となっては、自分より生まれ育ちの良い者がいるだけで、明らかに嫉妬していることが顔に出るほどだった。 結局、その部下の乱入と決闘の申し込みも、そんな、彼自身が招いた器の小ささによるものだった。どうやら魔王の勅命を、自分ではなく後輩の、しかも高位の生まれの者が請け負ったことに不満を感じているらしい。その上、よせばいいのにその後輩にちょっかいをかけ、逆に挑発されてしまったということだった。 今となっては思慮の足りない、諸刃の刃的な部下となってしまったが、それでも老人としては従者の頃から成長を見守ってきた、我が子のような部下でもある。見捨てる気にも、放置する気にもなれず、ついつい丁寧に諌めようと努力してしまう老人なのであった。 「だがシーグライド、アシュレイの言は理に適っている。確かに、お前を挑発するために言ったことかもしれないが…」 「挑発ではありません、侮辱です!」 「……侮辱するために言ったことかもしれないが、そんなことを気にしていては、今後、お前は敵と向かい合うどころか、同士討ちに精を出すことになるぞ」 魔王に仕える騎士としては、そんな馬鹿げたことをやっている場合ではない。しかし、この部下とは言わず、大戦を知らない若者たちは、その馬鹿馬鹿しさが実感できなかった。 「…敵など、どこにいます。戦争が始まるのはいつになるかも分からぬ現状、大切なのは、個としての誇りなのではないですか!」 「確かに誇りの大切さは、十分身に染み、学んだ。しかし、そう過剰になることもあるまい」 軽い皮肉を同胞に言われた程度のことならば、人間に顎で使われて、魔族としての誇りを鼻で笑われていた事実よりも遥かに軽い侮辱ではないか。 そう考えた老人だが、部下は納得しないらしい。受けた侮辱に大小はない、とでも考えているのだろう。 「受けた侮辱に大小などありません!」 その通りであった。 我が部下ながら、あまりの単純さに泣けてくる、と老人は密かにため息を吐く。 「良かろう、シーグライド。お前の言を信じ、アシュレイはお前を侮辱したと見なす」 「でしたら…!」 「だが、そういうお前はアシュレイから侮辱の言葉を引き出すような真似をしていないと、誓えるか? 私は奴が最も適切だと思い、陛下からの勅命を奴に授けたのだ。そのくらい、あの男は言動の全てにおいて慎重、且つ、無難だ。無駄に他者を挑発するような者ではない」 本人としても引っかかるところはあったらしい。何か言いたげな視線をよこすものの、黙り込んだままの部下に、老人は更に遠回りな説得を続ける。 「それに、件の娘はアシュレイたちが捕獲してきた。我らは件の娘を丁重に扱えるほど、件の娘に接触していない。お前が件の娘の言葉に反応して、剣を抜かないと誓えるか?」 「当然、誓えます」 こともなげに言ったが、老人は軽く、落胆した様子で出て行った部下の顔を思い出す。 「…アシュレイの、様子だがな。奴は確実に落胆していた。件の娘に、扱い辛さを感じているのやもしれん」 それは眼前の部下を諌めるための憶測に過ぎないが、実際は真実に近い意見であった。 「奴が扱い辛い娘となれば、気難しいお前が穏便に持て成すことなどできるかどうかも怪しい。奴に、あしらわれた、お前ならば、な」 老人の言いたいことが分かったのだろう。若い魔族は悔しそうに俯き、視線を彷徨わせる。反論の材料を探しているらしい。 「…私は自分が気難しいなどとは、思ったことがありません」 「そうか。しかし、相手の娘はどう思うかな。自分の不意の一言に、怒り出すような男が案内役では、楽しい気にもなるまい」 「…楽しいなどと、我等の役目ではないではないですか!」 もっともな意見だが、老人は安易に頷くつもりはなかった。 「しかし、陛下がそれをお求めになられたのだ。我等に」 その言葉は、魔王を崇拝し、跪いた状態と言えども直接言葉を交わした青年魔族にとって、痛恨の一撃に近かった。魔王直属の隠密部隊に属する一人として、彼は自分の地位に満足していたのだ。予想では華やかで、危険に富み、同時に成功すれば光栄に余る仕事を受け持つのだと考えていた彼にとっては、現実は非常にやり辛い上に、魔王の意図が読めない任務ばかりではあるが。 拳をきつく握り締め、青年魔族は撒き散らしたい言葉を飲み込む。それを見て、老人は我ながら嫌らしいやり方だと、内心苦笑した。 「………では、失礼します」 短く頷いて、まだ表情が見えない部下を見送る。その体からは純粋な怒りがなくなりはしたものの、やるせない怒りが込み上げているように見えて、老人は軽く目を伏せた。 それから半刻もしないうちに、噂の人物が現れ、一瞬老人は目を剥いた。人物、というよりも人物たち、と言ったほうがいいかもしれない。つまり、案内をするようにと言いつけた部下が、後ろに件の娘を連れて戻ってきたのである。 とは言っても、完全に室内に入ってきた訳ではない。彼女を入れるべきか、と訊ねるような視線を向ける部下に、老人は珍しく焦りながらも首を振った。 「では、貴方はここで暫くお待ち下さい」 低く、素早く言いつけるような声が聞こえてくる。相手は動作だけで了承したらしく、何の返事も聞こえなかった。 アシュレイは素早く室内に入り、薄く扉に隙間を作ると、老人の眼前にまで早足でやって来る。 「…何事だ」 「客人が、ここを見学したいと。また、女王が滞在した部屋を見たい、とも……」 「女王?」 急に出てきた単語に、老人は少し面食らったが、大戦時にネウガードと深く関わりのある女王、と言えば一人しかいない。北国を治め、また人魔共存を半魔の魔王であった姫に説いた人間の娘である。もっとも、その下で間接的に働いていた老人にとって、その説得は後押しの効果しかなかったほど、当時の君主は人間との信頼関係を築いていたのだが。 軽く当時のことを思い出しながら、老人は珍しく落ち着きのない部下を見据える。 「……君影草か、雪客か、どちらかの部屋だろう」 「教えていただき、ありがとうございます」 早速戻ろうとする部下の気持ちは分からなくはないが、老人はそのまま帰す気にはなれなかった。滅多なことでは小言など言わない老人であっても、さすがにこのような暴挙を見過ごすつもりはない。 彼らが住まい、働くこの場所は、限られた人物しか入ることができない。何より、同じ魔王城に勤めながらも、ただの侍女や従者などは立ち入ることすら禁じられた場所なのだ。それは他国から来る者とて同じであり、相手が要人であろうが国王であろうが、簡単に見学できるようなものでもない。何より、彼らは魔王の懐刀として生きている身である。そう易々と手の内を見せる阿呆が、どこにいるだろう。いくら懐刀そのものではなく、その施設が目的であっても、やはり簡単には見せられない。 「アシュレイよ、何故、お客様をこのようなところにまで…」 引き止められた部下のほうは、いくら焦っていても、上司の苦言を無視できるような性格ではなかった。 「ですから、件の客人がここを、……その、大戦で武将たちが使用した施設を見学したい、と仰ったので……」 「……その上、女王が過去に使用した部屋を見たい、と?」 「は…」 歴史が好きな娘らしいと、老人は少し驚きながらも納得した。だからと言って、急に連れて来るのはよろしくない。落ち着きを取り戻した老人は、軽く咎めるように部下を見る。 「陛下のお客様の要望に応えようとする、その態度はよかろう。しかし一度か二度は別の場所を誘い、…こちら側に入るまでにも事前に連絡を入れるべきだろうが」 「申し訳ありません…。二度と、このようなことは…」 言われて部下も気がついたのか、思った以上に落胆した様子で頷いていた。それこそ珍しいことだと思いながら、老人はその真摯な反省の態度を受け止める。 「もうよい。…今なら処分はせん。速やかにご案内して差し上げよ」 そうして、少なからず落ち着きを取り戻したらしい部下が部屋を出て行こうとする瞬間、若い娘にしては低い、せせら笑うような、投げやりな声が聞こえてきた。 「へーえ、知らなかったわ」 「………娘、貴様」 ついでに聞こえた、確実に怒りの篭った若い男の声に、執務室にいた二人の魔族は顔から血の気を失った。 しかし、衝撃に対して呆然と立っているような二人でもない。慌てて執務室の扉を開けると、そこには冷ややかな笑みを浮かべる件の娘と、老人が長く手元に置いている、猪武者の青年魔族が向かい合っていた。絵に描いたような一触即発の空気を醸し出しながら。 廊下をざっと眺めても、この二人以外はいなかったのは不幸中の幸いだった。もともとここは限られた者しか入れないため人通りは少ないが、これで野次馬なり他の者がいれば、更に騒ぎは大きなものになっていただろう。 何があってこうなったのか分からない老人よりも、ある程度こんなことが起きると予測はついていたのか。部下は速やかに娘と先輩の間に入り込んだ。 「このようなところで、無駄な争いはやめて頂きたい」 「争うつもりなんかないわよ。ただ、この人が突っかかって来ただけ」 あくまで娘の言葉は軽く柔い。しかし、その軽さが、青年魔族の精神を否応なく煽るのだ。 「アシュレイ、その娘は持て成す価値などありはしないぞ。それどころか、その存在自体が魔王城に相応しいものではない。…俺が成敗してくれる」 唸りに近い呟きと、鞘に確実にかかった手に、間に入り込んだ魔族は確実に焦った。そしてその行動を見て、事情の不明瞭さに入るに入り込めなかった老人も焦った。 「よせ、シーグライド! 勝手に無抵抗な娘を斬るなど……」 「陛下が直々に我らに託した客人です。いくら暴言を吐いたところで、そのようなことをすれば我らの命とて危うい」 「その娘は、その陛下を、侮辱したのだぞ!」 叫びに近い言葉に、さすがの二人も仰天した。それから、今も尚平然とした様子の娘のほうを振り向いて、確認の視線を向ける。 「…本当ですか?」 「そう取れると言えば取れるかもね」 肩を竦めて、相変わらずの無気力な様子でそんなことを言う。その態度に、アシュレイはため息をつきたくなった。 そして、部下を諌める役目を半自動的に担った老人は、成る程と、この部下が怒り狂っても仕方がない言葉を聞くこととなった。 「…あの娘は言ったのです、『卑怯者の変態なんか、尊敬するにも値しない』などと…!」 「事実を述べたまでよ」 いらないことを言うな、とアシュレイは必死になって娘を睨む。実際そのような侮辱に、当然ながら魔王を敬愛する彼のほうも、娘に対していい気は持たなかった。しかし、彼女のほうは引く気はないらしい。お陰で、約二名に険悪な視線を注がれることとなったのだが、娘はそれも気にする様子はない。 「卑怯者などではない…! 陛下は我ら魔族の誇りであり、救いだ!」 「ならあなたが抱かれればいいでしょう。わたしはご免よ。あれと添い寝するってだけでも自殺したくなるわ」 敬愛する魔王どころか、自分のことまで侮辱され、とうとう青年魔族の堪忍袋の緒は切れた。それはもう、何が起きても修復不可能なくらいに。 上司である老人の声も聞かず、剣を完全に抜き取った。 「シーグライド、よさぬか!」 「閣下、申し訳ございません。陛下へは、陛下のご偉功のために為した、とお伝え願います」 「器の小さい部下を持って、大変なのね。あの男も」 皮肉たっぷりの娘の言葉に、さすがのアシュレイも声を荒げようとした。しかし、どことなく甘い響く、落ち着きを通り越してけだるげな空気を持った声がそれを遮る。 「むしろ一人娘のことのほうが大変だな。部下は選べるが、身内は選べん」 三人の魔族が、一斉にしてその方向に振り向く。その突然発せられた魔力と、その妙に艶のある、しかし別の意味の震えを自らに引き起こす声には、忘れようもないほどの覚えがある。 娘の隣で腕を組むその男性は、青くくすんだ銀髪と、鮮血の月の瞳を持っていた。 その人物を見据えて、娘は軽く口を尖らせる。 「…………最低ね。覗いてたわけ」 「無鉄砲な娘でなければ、監視する必要もないが」 鼻で笑って、男は答える。当然それは、魔王その人だった。 |