Honey of horse chestnut

 

  

 一糸まとわぬ姿となった彼女を見て、男は目を細めた。

 月下の下、まさしく月の光のもとでしか咲き誇れないような淡い白乳色の花のような肌を見せながらも、戸惑いと嬌羞のため、髪と同じように顔全体を赤く染めている。

 その体は女だてらに戦場に幾度となく立ったにしては驚くほど柔らかそうだが、媚びとは無縁の凛としたものに感じられた。触れることに躊躇を呼ばず、ただあるのは未通女であるが故の恥じらい。実に現実的だ。夢のような儚さなど微塵もそこにはない。きつく抱きしめれば折れてしまうのではないかという心配を呼ぶものなど皆無。だからいい。

 自分が彼女を求めたから。彼女がそれを受け入れたから。だからこそ、男にとっては何年越しの想いの末でのこの状態に、男は深く感慨を含んだため息を吐いた。

「・・・・や、やっぱり、おかしいのか?」

 彼女の声は泣きそうだ。

 そこまで男に裸を見せるのは恥ずかしいものなのかと不思議に思ったが、彼女の声が緊張以外で震えていることに気づいた。その理由は、腹から顔にまで届く、細くも毒々しい赤の線。彼女の女としての意識を、何年も封じ込めてきた忌々しくも神聖な傷痕。

「いいや」

 男は笑う。大丈夫だという意味で。そんなことで、軽蔑するつもりも、女として見ないつもりもないという意味で。

 鍛えられ、引き締まってはいても全く女としての柔らかさを失わないしなやかな裸体を引き寄せると、男はその傷を軽く指で触る。

「あんたが生きてる証だ」

 彼女の、泣きそうな声が聞こえてくる。緊張の糸が途切れたのか、精一杯抑えようとするかのような嗚咽に、男はその肩を抱き寄せる。

「なんだ泣くなよ。俺はそんなに信用されてなかったのかね?」

「ちがっ…そ、そうじゃ、なくて・・・・」

 途切れ途切れに聞こえてくるのは、彼女の今晩までの混乱と恐怖と不安。

 受け入れる約束をするまではよかったものの、それ以後に急に怖くなったらしい。合わなくて結局気まずいまま終わってしまうこともあるとか、なかなか合わないとか、以降は勝手に男が冷たくなるとか、事実でもある今まで聞いた噂を思い出すと、早速彼女は戸惑った。その上、彼女には長い間、恋も着飾ることも捨てる理由が体にある。それを否応なく見せねばならないことに、大きな不安を覚えた。

 相手を信じてはいる。けれど、知る限り男に好かれるような、華奢い腕や脚、顔よりも大きいのではないかと疑うような胸や、優しく男を甘やかせる態度などを彼女は持っていないし、それとは正反対だと思うことでまず大きく自信をなくす。それでも好きだといってくれとはいても、彼女にはまだ酒場で酔った男がその手の女に抱きついたり告白するものとは違うという確証が持てない。つまり、疑えばきりがないし、男性を満足させる自信など、皆無といってもよかったということだ。

 彼女を最も強く戒めてきた傷を優しく撫でると、男は笑った。彼女の涙をシーツで拭うが、出てくる涙は止められそうにない。

「んなこと気にするな。まあ、そういうとこにも惚れたワケだけどよ」

「し、信じられない…」

 そう言いながらも、彼女は男にしがみ付く。恥ずかしさのあまりというよりも、今まで押さえ込んできたあらゆる感情が入り混じっての涙は、彼女自身も止められそうになかった。

「嘘じゃねえ。全部に惚れてんだ」

 簡単に言い過ぎる。そう言いたいが、嗚咽と鼻水が邪魔をしてなかなか彼女はそうは言えなかった。代わりに、その逞しい胸板を力なく殴る。

 男は当然ながら動じない。ただ、彼女の震える肩を優しく、けれど力強く抱きしめて答える。それに、更に彼女は声を挙げて泣くが、男はそれに全く嫌そうな顔などしなかった。

 逆に、ただ愛しげに、もう輪郭と名前しか思い出せない父親のように、彼女の涙が止むまでずっと、背中を撫でる。

 それがようやく収まりだす頃、彼女の緊張も解れてきたのか、それとも泣き疲れたので力むことにもだるくなってしまったのか、彼女の体から感じられていた強張りが失われた。それに男はその豪快な性格には似合わない、遠慮するような笑いを浮かべる。

「悪いな。お前さんが初めて惚れた男じゃなくて」

「・・・・馬鹿、気にするな。わたしはそんなことに固執するほど、子どもじゃない」

 それに、もともとその男性への想いは、彼女は成就するとは思っていなかった。ときに諭され、ときに労られる。それだけを望み、平行線のままであり続けることが理想であり幸福だった。逆に言えば最も恐れていたのは変化。戦時中に不変であることを求めるほうが愚かなのだと悟ったのは、目の前にいる男のおかげといってもいい。

「そりゃあよかった。なら、痛いのが怖いとかも言わんでくれよ」

「言うものか。痛みを恐れるくらいなら、わたしはここにはいない」

「そうだったな」

 そんな返事に、今更のように男は腕の中にいる女性が、若いながらにも将軍の身であることを思い出す。

 それも元帥アンクロワイヤーのもとでその才能を開花させ、血と土煙と鬨の声との中に今も尚生きる凛々しい戦士だ。汚れることも恐れず、しかし血に狂うことも死に過剰に怯えることもしない、聡い女性。

「やれやれ」

 男はそれを思うと、とんでもない当たりくじを引いてしまったような気分になる。それを手放すのはなかなかに惜しい。つまり、これで最後になってしまうということだが、それはそれで残念でもある。

 しかし、最後に追いかける女性と出会ったことに、小さく自分の運命の行き詰まりを見る気持ちにもなった。今まで聖職者のような美しいことや人々に笑顔を与える仕事をしてきたわけではない。それどころかその逆で、誰かの不幸を作り出すことで生き延びてきた。そんな自分がこんな大きな幸運に出会ってしまったのだから、もうすぐ自分の命ですら終わるのではないかという気持ちになる。

 一人で生きることは辛くはなく、むしろ逆境に立ち向かう楽しさとスリルがあった。しかし、大人数の賑やかさも時間の過ぎ去りも全員で危機と立ち向かうことの一体感も覚えた今、自分はとんでもなく贅沢な立場にいるのではないかとも思ってしまう。

 それがなくなるのが怖い。けれど、その気持ちを持ったまま死ぬのはもっと怖い。否、死など怖くはないはずだが、大切なものができると途端に怖くなる。

 逞しく硬いのにそれでも温かさを感じる男の腕に身を寄せていた彼女は、男の異変にでも気づいたのか、急に顔を上げて無精髭の苦渋を含んだ顔を見る。

「・・・・どうした?」

「どうもしてねえ」

 どちらかというと鈍感だと思っていたが、やはり鋭い女の勘に、内心舌を巻いた男に、やはり彼女は突っかかる。

「嘘をつけ。堂々と目をそらして何もないはずがないだろう」

「そりゃそうだな」

 我ながら見破られて当然の失敗を犯したことに呆れながらも、降参の意味で今度はしっかりと腕の中の彼女を見据える。それから、ほろ苦く男は笑った。

「幸せすぎて怖いってやつだ」

「なんだそれは」

 きょとんとしながらの彼女の発言に、男は意味を追求されたくなくてさあな、と笑う。その奥にある男の怯えに、彼女は気づかなかったらしい。本当に不思議そうに首を傾げ、言い辛そうに男を見た。

「・・・・・それは普通、結婚後の女性の発言じゃないのか?」

「ほーう。なら俺はそこまで女々しくなったってわけか」

「ちがっ…そうじゃなくて!」

 何かは分からないが妙に焦る彼女に、男は相変わらず愛嬌のある目を向けて言葉を促す。

「なんだ?どうした。ほれ、言ってみろって」

「わっ、笑わないか…!?

「おう」

 裸を見せたとき並みに赤くなりながら、彼女は男の耳元で掻き消えそうな声で囁く。

 男は珍しくも真剣な表情で食い入るように彼女を見つめるが、彼女はその強い視線に耐えられそうにないらしく、軽く目を背ける。しかし、目を背けたことを男は肯定と受け止めたのか、満面の笑みを浮かべてその体に勢いよく圧し掛かった。

「ひゃあ!?

「そうか…おまえもか、レイリア!」

 まるで酒に酔ったかのような馬鹿笑いに目を剥いた彼女は、強く抱かれた状態ながらも慌ててその口を塞ごうとする。

「こっ、こら!夜中だぞ!誰かが来たらどうする!!

「構いやしねえって。そんときは見せつけてやりゃあ…」

「ばっ、馬鹿!そうなったら本気で怒るぞ!」

 口を塞ぐはずだった手が男の無精髭に覆われた顎を突き放す。その急な衝撃により舌を噛んだらしい男は痙攣を起こすように震えていたが、痛みが治まらずとも彼女の体に回した腕だけは放そうとしなかった。

 呆れた彼女ではあるが、その意地には感服するところもある。少しくすぐったい気分になりながら、男がこちらをちゃんと向くまで律儀に待っていた。

 待ちながら、軽く微笑む。

 この男と幸せになろうと。

 この男のために、これからの未来を突き進もうと。

 

 

 そう決意したのはつい数ヶ月前。

 しかし、呆気なく自分が未来を委ねた男は亡くなってしまった。

 それに悲しみはしたし、何故あの男がと運命を呪った。しかし、それが戦場に生きる者の宿命であり、祖国への裏切りの代価なのだろうと納得もした。

 納得さえすれば、切り替えは早い。何より彼女は戦場に生きてきた。仲間の死は惜しいとは思うがそれが摂理であるとも割り切っているし、それが自分にとって最も大切な男に対しても例外ではないことぐらい分かっている。

 だから彼女は泣き明かすと、以後はしっかりと前を向いた。何より、ずるずると男の死を引きずることが、あの世にいるであろう男の望むことではないことぐらいよく知っているから。

 前を向く先が血の海でも屍の大地でも、あの男の分まで生き抜くつもりだった。

 そんな新たな決意を固めて皇国領地に滞在し、完全な準備がようやく一週間後に整いそうだと見越し帝都へ出発と決まったある日の朝だった。

 長い間彼女の養父となっていた、こちらは立派な髭の金髪の男性が、支度を終えて廊下に出てきた彼女を見止める。

「おはようございます、アンクロワイヤー様」

「おはよう、レイリア」

 穏やかに挨拶を交わし、朝食後は自軍の兵の鍛練へと向かう彼女と、皇帝の手伝いをするため執務室に向かう男性が顔を合わせる。

 同じ方向に向かう中、先に足を止めたのは帝国の元元帥のほうだった。何かに気づいたのか、彼女をまじまじと見つめ、それから少し不思議そうな顔をして訊ねた。

「レイリア、太ったか?」

 その言葉が、よもや一人の人間の命を懸けた事件の幕開けになるとは、当人たちは思ってもいなかったのである。

 

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