Durst Polka

まつりのはじまり

 ぱあん、ぱあんと銃声に似た音が聞こえ、空に白い煙が一つ二つと生まれる。同時に天には届かぬものの、色とりどりの野花が空に舞い、人々の歓声が高く響き渡る。
 礼砲の煙が薄く霞む頃、会場の大きな道に白い馬車がゆっくりと入ってきた。パレードの始まりである。
 馬車は囲いを取り払っており、舞台のようになっていた。中央には大人の男よりも大きな、この収穫祭の主役たる麦酒樽を見せている。空いたスペースには真っ赤な萩の花が添えられて、素朴な大樽がこのときばかりは妙に立派なものとして見受けられた。馬車の御者席には、皮の半ズボンにオリーブ色の上着と揃いの山高帽を身に付けた無愛想だったはずの町長が別人かと思うほど観客に笑顔を振りまいている。原因は恐らく片手にある大きなジョッキグラスだろう。もう片手にはしっかり手綱が握られているから、最悪の場合は想定せずともよさそうだ。
 その後に続く馬車では民族衣装に身を包む可憐な娘たちが観客に向かって手元の籠から花を蒔いたり手を振って、また次の馬車は民族衣装を身に纏った楽団らしき男たちが軽快な音楽を演奏している。それからまた次々に現れる馬車の上には、挽臼や風車を模した花人形、からくり仕掛けの動物や人形による踊りに、大道芸人によるパフォーマンスなど、目にも楽しい光景が繰り広げられた。
 その一方で、大天幕の中では一つの言葉が飛び交っていた。
「乾杯!」
「乾杯!」
「我らがカシナンティーに!」
「我らがボローニャに!」
「この大地に!」
「この世のあらゆるすべてのものに!」
「乾杯!」
「かんぱぁい!」
 重厚なグラスジョッキが躊躇なく振り上げられ、勢い余って衝突時や振り上げられた際に、麦酒が幾らか零れる。しかし人々は笑顔のまま零れた酒を浴び、勢いそのまま麦酒を飲み干してゆく。その早さたるや、各地の酒場で時折見かける早飲み競争に勝るとも劣らない。しかし当然彼らは競争するつもりなど毛頭なく、ジョッキを空にすると白い髭を生やしながら笑顔で麦酒の美味さを実感するだけだ。
 天幕の中では誰も彼もが豪快に食べ、飲み、笑っていた。働き盛り食べ盛りの青年たちや逞しい体つきの女性たちどころか、年頃の娘たちでさえ嬉しそうに麦酒をかっくらい、痩せぎすの老人も香草と焼けた脂の芳しい鶏肉に貪りつく。子どもたちすら大人の楽しそうな姿に感化されたのか、蜂蜜や砂糖で輝く甘いものを欲望のままに頬張っている。
 そしてこれらの光景は、どうしたことか眉を顰めるような品のなさなど感じない。この光景を初めて見た者たちの目にはさながらこの季節に吹く風のように、豪快で気持ち良いものとして映っていた。恐らくは種族も性差も年齢も、この場に限れば些細なことなのだろう。
 パレードも外周の半分は回った頃になると、天幕の外も騒がしくなる。この収穫祭のために臨時で定期馬車が増加するわけだが、その利用者は年々増え、今年もまた朝一番の馬車ははみ出るほどに人が乗っていた。それが数台集まれば、――さてどうなるか。
 通りにずらりと並んだ屋台も、客が賑わえば声を出す。祭り特有の浮かれた空気に身を任した人々は、声につられて美味そうだと思えば何でも買う。肉の串焼き、塩漬け肉の燻製、肉汁滴るソーセージに、分厚く切ったパンにチーズをまぶして焼いたのや、パン生地に味付きひき肉を詰めて揚げたもの。付け合せには、玉葱や蕪、茸を丸ごとじっくり焼いたもの。蒸かしたじゃが芋もあれば、蜂蜜漬けの果実や砂糖たっぷりの揚げパン、木の実を細かく砕いてカラメルと一緒に香ばしく焼いたのもある。
 どれもこれも、見る者の目には実に魅力的に映ったことだろう。あっと言う間に屋台沿いの道は混雑し、混めば混むほどそこは目立ち、更なる人を呼ぶ。
 事実、この人だかりに興味を抱いたアデル、アリア、リディアの三人は、パレードの興奮も冷めやらぬままそこに突入したが、ただ屋台が立ち並んでいるだけの通りと知って肩を落とし、更にこの混雑ぶりに紛らわしいと悪態を吐いた。
 それでも折角だからと屋台で美味しそうと思うものを手分けして買い込み、人垣を抜けた小天幕で少しばかり早くて大量にある昼食を取ることにした。夕方からの仕事があるため麦酒は三人で一杯としたが、彼女たちの席にはちゃっかり飲み易い蜂蜜酒が鎮座している。
 そして彼女たちも少し恥ずかしく思いながら、まずは木の盃で乾杯することにした。
「かんぱーい!」
「乾杯っ!」
「か、かんぱいっ!」
 大きなジョッキで飲み干す人々ほど豪快にはいかないが、それでも彼女たちなりに大胆なほど麦酒を仰ぐ。三人とも麦酒はまだ飲み慣れていないので、その苦さに彼女たちは異性に見せられないほど顔をくしゃくしゃにした。その直後に口直しを兼ねて屋台で買った蜂蜜酒が功を奏して、この日の昼食はここ最近では記憶にないほどの素晴らしい昼食へとすぐさま変貌を遂げる。
 収穫祭の空気に気持ちを煽られたからか、いつも以上に喋って笑ってよく食べた。それぞれ買ったものを見せ合った際には三人とも残るだろうと思った料理はすっかりなくなったが、腹具合は満腹と言わず八分目程度で、彼女たちは自分たちのはしゃぎようを実感させられ顔を見合わせると困ったように笑った。
 しかし、まだまだ見るものはある。会場を半周もしていないのだからと気合を入れて立ち上がり、腹部が少し締め付けられた少女たちは小天幕を出た。
 その際、完全に油断していたのだろう。丁度時間が昼食時なのもあって、彼女たちとは反対に小天幕に入ろうとする人々は圧倒的に多かった。屋台に出ずとも料理も注文出来る大天幕とは違い、小天幕は基本的に麦酒しか配らない。それでも原っぱに腰を下ろすより椅子で座り、日陰で食事をしたいと思う者は多く――彼女たちもまた、地面に座ってしまえば折角借りた衣装が汚れてしまうため小天幕を選んだのだが――、空いた席を確保しようと躍起になっているらしい。誰かが出入り口付近でアリアを突き飛ばした。
「きゃ!?」
「ああ!?」
 幸いアリアは地面に尻もちをつかなかったが、近い場所にいる誰かの背中にはのしかかった。反射的にそちらを振り向き、驚いた表情で彼女の方を見る魔族の老女に必死に謝る。
「ごめんなさい! あの、お怪我とか、服が汚れたりはしませんでしたか!?」
「大丈夫よ、お嬢さん。酔っ払いが絡んできたなら、これの餌食にしてやるところだったけどね」
 ほほほと笑って、老女はカウノダキをちらりと見せる。簡素な外観に反して、物理攻撃型の杖の中でも上位に位置するものである。アリアは驚くと言うより関心して、はあ、と一声漏らした。淑女然とした外見とは裏腹に、この人は強いらしい。その杖を扱うに相応しい腕力の持ち主である確証はないが、か細い娘とは言え人が急にのしかかってもびくともしない腹筋と背筋の持ち主なのは事実だ。
「それにしても、あなた可愛らしい服ねえ……。ここの民族衣装だったかしら?」
「はい! ワタシも夕方から麦酒を配るので、着せてもらったんです」
 アリアは少し頬を紅潮させて、小さく編まれた三つ編みを弄る。引っ張られて、ハーフアップに纏められた髪を飾る野花がふわりと揺れた。
 カルラたちと違いアリアたちの胴衣は胸元をコの字型に大きく開けたベストになっており、パフスリーブ袖のブラウスは胸元や肩をしっかり守っている。反してレースを縁取ったエプロンの下のスカートは少し短いが、着ている者の雰囲気に左右されやすいのか、彼女の清楚な印象は失われていない。
「そう。だったら、夕方にまた来てみようかしらねえ……。どの天幕にいるの?」
 微笑を宿す老婆の言葉に、はっとアリアは頭を上げた。一つしかない大天幕とは違い、小天幕は複数ある。彼女たちパーティーが担当するのは小天幕なのは確かだが、どこに行けばいいのか、教えてもらうのをすっかり忘れたのだ。
「あ、あのっアデルさ……!?」
 慌てて出入口の方を振り向くが、当然と言うべきか二人がいない。アリアが殿となったため、アデルもリディアも、よもや彼女が突き飛ばされた上に雑談に興じているとは思わなかったのだろう。気付いていたら、彼女が突き飛ばされた時点で何らかの反応を見せるのがあの二人なのだから。
「……どうしたの? お友だちとはぐれちゃった?」
 アリアが茫然としているのを見て、老女がすまなさそうな声を出す。それに、彼女は半ば混乱しながらも正直に答えた。
「は、はい……そうみたいです。あの、迷子の呼び出しとか、しているところってあるんでしょうか?」
「さあ、ちょっとわからないわねえ……。けどそう言うのは目立つところにあるでしょうし、この会場は広いけれど複雑ではないから、適当に探せば見つかると思うわ」
「適当……」
 会場は広い。適当にぶらつけばそれだけ時間がかかるし、アリアはまず人ごみに慣れていないから、歩くだけでも精一杯だろう。そんな状態で彷徨っても無駄に体力を消耗するだけだし、下手をすれば暗くなっても会えないかもしれない。幸運にも三人で収穫祭を楽しめるのに、そうなるのは嫌だ。
 人目を憚からず眉を寄せ泣き出しそうな顔をするアリアに、老女は冷静に尋ねた。
「あなたとお友だちが落ち合う天幕はわからないの?」
「はい……」
「目印になりそうなところはない? 停留所とか、ここに入ってきた出入口とか……」
 言われて、アリアの脳裏にはすぐさま銀色の屋根を持つ集会所が浮かび上がった。天幕や屋台など布ばかりの会場で唯一石造りのあそこは目立つし、会場内で最初に入った場所でもある。長時間居座っていたし、二人もあそこにいるかもと思ってくれる可能性は高い。
「あり、ました……。行ってきます!」
 希望を見出したアリアは、意気揚々と小天幕を出ようとする。その後姿に、老女はハンカチを振って送り出した。
「それらしい人が来たら、あなたのことお教えするわね」
「はいっ、ありがとうございます! 集会所で待ってると、伝えて下さい!」
 老女の声を励ましと受け止めたアリアは、小天幕から三歩もしないうちに横たわる巨大な生き物の如き人だかりを前にし覚悟を決め、恐る恐るその中へと身を投じた。


 人には総じて得て不得手があるものだが、絶望的に不得手だとか相性が悪いだとか言う場合はなかなかない。
 ましてや見目麗しい年頃の娘たちなら、無理に愛想を売らずともきちんと仕事をしていれば、それだけで男たちは満足し、いい子だと評価するだろう。若さは何より女を魅力的に見せ、年寄りや男の判断力を甘くするものなのだから。
 当初は収穫祭の給仕を何度も勤めたベテランの女性たちは、やって来たうら若い女請負人たちが小奇麗である反面、皆一見して細腕であることに内心嘆き、使いものになるのか疑わしい気持ちでいた。片手にグラス一つでさえ持てるかどうか――それどころか、すぐに疲れたもう駄目だと泣き言を言う可能性だってある。男どもが鼻の下を伸ばしそうな娘たちだから大きな問題は起きだろうが、小一時間もしない内にリタイアされれば意味がない。そう心の中で毒吐く者もいた。
 しかし始まってみれば驚いたことに、娘たちはジョッキを片手に四つか五つは鷲掴めたし、客に絡まれることなく、ジョッキを割ることなく給仕をこなしていった。小天幕は時間が経てば経つほど盛り上がり、人の密度が高くなっていくが、まだ問題を起こしただのとは聞いていないし、疲れたと愚痴る者は一人もいない。
 あのしなやかで柔らかそうな四肢のどこにそんな力と持久力が、と信じられない気持ちはあったが仕事をこなせば文句はない。まさしく魔法でもかけられたような心情で、町の女性たちもそれぞれ給仕に勤めた。
 彼女らが抱く疑問に対する答えは当然ある。そう見えないだけで実は鍛えられている者は大半だが、そうでない者は事前にドーピングしていた。袋にみっちりと詰まって使われそうにないステータスアップアイテムを拝借したり、幸いにも給仕の際の装飾品は禁じられていなかったので、腕力を集中的に補助するアクセサリーや腕輪を着ければ、非力な冒険者たちでも問題なくグラスジョッキを大量に持ち歩くことが出来る。スタミナ面に関しては、言う必要もない。冒険者は技能云々以前の問題を差し引いても、体力お化けでないとやっていけないのだ。
 これで武器も装備できればなお良かったのだが、短剣以外はまず隠し持てない大きさなので諦めた。蛇足になるが、彼女たちはこれを切欠に短剣以外でコンパクト且つ高威力な武器の開発を願うようになったらしい。
 給仕と言う労働と若い請負人たちとの相性は、それこそ各自個性が強いのだから向き不向きがある。だが概ね問題はなく、それぞれの個性を生かしたかたちで昼食のピークを乗り切った。
 ゼロス一行に加わる前から一応他の労働の経験があるリーザは、自分が勘を取り戻すとフォローするためと言う建前で他の仲間たちの観察しを始めた。勿論、客にそれを悟られないように、だ。
 彼女から見て最も意外だったのはシオラだ。もともと体を使った仕事は得意だろうが、愛想を売るのは苦手だろうと踏んでいた。にも関わらず、手際良く働く上に老若男女を問わずなかなかに人気があるし、あしらい方もわかっている。収穫祭の浮かれた空気と、彼女の飾り気のない実直な言動は相性がいいのだろう。子どもや酔っぱらいに時折尻尾を触られ毛を逆立てるが、羽目を外してちょっかいをかけ過ぎる者もいないし、笑われたりからかわれる程度で終わっている。それで済んでいる理由は、確実に彼女の物騒な手足だろう。
 そのシオラをお気に召しているファイルーザは、予想通りと言うべきか。妖艶な立ち振る舞いと、更に自慢の艶やかな胸元が覗く民族衣装で、男たちを容易く虜にしていた。彼女が近付くテーブルの男どもは空いたジョッキを自主的に集め、彼女が麦酒を満たしたジョッキを置けば自主的に礼を言って受け取っていく。働いているのがどっちかわからない光景が広がるが、彼女はそれも気にせずにっこり笑って男たちを労う。その笑みで彼らは十分嬉しい、どころかチップまで払おうとするのだから末恐ろしい。女王様気質とはああ言うものか、とリーザはしみじみ実感した。
 本物の女王様ことスノーは、地味とは言わず派手とは言わず、のポジションを貫いていた。物腰は丁寧で仕事は早く手際も良い。だがシオラやファイルーザのようにファンがいる状態ではなく、かと言って怒鳴られたり舌打ちされることも一切ない。気軽な言葉やちょっかいをかけられない雰囲気だが、しかし冷たい印象があるわけでもない。まるで空気のように溶け込んで、穏やかに静かにいつの間にか仕事をこなしていた。地方にある伝説の、家事を知らない間に手伝ってくれる妖精とは、多分にあんな感じなのだろう。そう言う意味では、彼女が最も給仕の何たるかを理解しているのかもしれない。
 カルラは今までの仲間たちに比べて少し堅い。もともと言動が独特なのもあって、盛り上がっている群衆の中に遠慮なくジョッキを置いたり、行く先々で浮いたり場の空気を冷ます印象がある。眠そうな目だと酔っぱらいに絡まれたところも見かけたし、客受けがあまり良くないのは事実のようだ。それを真面目さでカバーしているため、絡まれたり白けさせたりしても今のところ大きな問題に巻き込まれたりはしていない。だが時間が経てば経つほど柄の悪い者も多くなるこれからどうなるのか、内心リーザは不安になりながら見守ることにした。
 さて残る一人。これが問題である。
「……まあ、ブリジッテだものね」
 呟きながら、リーザは両手に掴んだ八つのジョッキをテーブルの上に置く。待ってましたと歓声を上げる男たちに悪酔いしないでねと声をかけた後、ただ一点のみを見つめる民族衣装の女性に話しかけた。その女性は褐色の肌を持ち、菫色の艶を持つ長髪を細かく三つ編みにした上、団子のように一纏めにしていた。
「どう、調子は?」
「……今まででは最高記録ですよ、驚くほど持っています」
 持っている。一応褒め言葉のつもりだろうが、いつ駄目になるかはわからない、との意味合いの方が強く感じられた。
 女性の視線の先には件のブリジッテがおり、彼女なりに四苦八苦しながらも何とか頑張っている姿が見えた。
 ブリジッテは見た目通り幼い性格も相俟って、絶望的に給仕の仕事と相性が悪い。動作は機敏だし手際も悪くないのだがすぐ悪態を吐いて客に喧嘩を売りかけるし、警笛を使わせても使い過ぎてやはり喧嘩を売る。媚を売ったり猫被りも出来ない、おまけに気さくでもないため高飛車だと絡まれやすく、ちびと呼ばれてたらすぐに喧嘩を売られていると誤解する。しかもその誤解の喧嘩を買おうとする。問題の多さは他の仲間の比ではない。
 しかし近くにいたり喧嘩が始まりそうな雰囲気を嗅ぎ取った他のメンバーが割って入り上手く双方の導火線をもみ消して、今のところは事なきを得ている。諌められたブリジッテと客は不満そうな顔をするが、今のところは大人しく引き下がる。それが現時点で五回も続いて、しかしブリジッテが爆発していないため、女性は持っていると表現したのだろう。
「昨日の小芝居は結構効果があったってことかしらね。良かったじゃない、ケイ」
 からかうようなリーザの口調に、アリアたちと同系の民族衣装姿のケイが大袈裟なくらい眉を顰める。
「……リーザさん。名前で呼ばないで頂けますか」
「どうしてよ」
 ケイにそんな咎め方をされるのは初めてなので、リーザは目を瞬く。すると直後、その原因らしい男どもの声が聞こえてきた。
「へーえ、ケイちゃんって言うの〜! いい名前だねえ、ケイちゃぁん」
「ケイちゃーん、こっち来なよ〜。お兄さんたち、ちょお寂しい〜!」
「ケイちゃんはぁ、煙草吸えるかなぁ?」
 成程、とリーザはそう遠くない位置で座っているべろんべろんになっている酔っぱらいどもとケイを交互に見た。
 確かに着飾ったケイは、異性に声をかけられるに値する美しさを持っていた。丁寧な物腰は品の良い女性らしく映るし、物静かな雰囲気は神秘的とも取れるだろう。いつも飾り気のないスーツとうなじ辺りで髪を纏めているだけだから、髪に手を入れ可憐な民族衣装を着た今の彼女は、リーザの目には特に華やかな印象を受ける。
 そしてまた、そんな一見しとやかな女性と楽しく麦酒を飲みたい若い男たちの気持ちはわからなくもなかった。しかし三人は顔も身なりも悪くないのにどうしたことか、近付きたくないとケイが思っても仕方ないほど大変に鬱陶しい。その手の経験がないリーザではあるが、この瞬間だけでとても勉強になった。
 黙りこくっているケイではあったが、片眉が歪んでいるのでそろそろ我慢の限界だったらしい。その男どもに見せつけるように胡桃をかざすと、力を入れて素手で殻を割る。ついでにそれに小さな悲鳴を挙げた男たち三人の額を狙いを定めると、三つに割れた殻の中身を瞬時に投げつけた。
「てっ」
「あたっ」
「ぅお!」
 結果は見事に大当たり。それだけではなく三人の大声のせいで何気なくこちらを見ていた客は多いようで、ケイの投球に歓声と笑い声がここら一体に響く。女一人に恥をかかされた酔っ払いどもは、注目されていることに気付いて酔いが覚めたらしい。そそくさと席を立ち上がり、どこか別の場所に移動した。
 取り残されたケイは、澄ました顔もそのままに片手で歓声を受け入れる。普段の彼女にしては多少悪乗りの気がある動作で、リーザは困ったようにその顔を覗き込んだ。
「ケイ、もしかして酔ってる?」
「確かに酒は入れてますが、仕事はできる範囲に調整しています。安心して下さい」
「ならいいけど……」
 ケイの発言は間違っていないようで、彼女の顔は普段と変わらず涼やかな表情を湛えている。目元も頬も赤くないし、よく考えればさっきの胡桃の素手割りだの三連投自体が酔っ払っていては無理な話だ。故にリーザは、ひとまず彼女の言葉を信じることにした。
「まあいいわ。ケイがもし酔っ払っても、ブリジッテが問題を起こしたらすぐ覚めるでしょうしね」
 図星を突かれたケイは、飲みかけていた麦酒を口から慌てて離し、大きく咽た。そこまで動揺するとは思っていなかったリーザも、慌ててその背中を摩る。
「……ッか、リーザ、さんっ!」
「ごめんなさい! ケイがそこまで反応するとは思ってなくて……」
 恨めしげな視線を受けながら献身的にケイの背中を摩るリーザの耳に、客の声が響く。
「おいそこの姉ちゃん、お代わりまだかぁ!?」
「ちょ、ちょっとお待ち下さい!」
 リーザは反射的にそちらを向いて返事をするものの、触れた背中は相変わらず不自然に激しく揺れて、咳の音が止まりそうにない。大丈夫だろうかと目だけを下にやると、まだ喉がおかしいらしいケイが小さく頷いた。もう大丈夫、と言う意味だろうがそれでも彼女はなかなか離れられない。
 そんなリーザに、ケイも引き止めて悪いと思ったらしい。掠れた喉で短く速度上昇の魔術を詠唱した。
「早く……行って下さい」
「……ごめんなさいね。あと、ありがと」
 気遣いに感謝しながら、リーザは軽く走り出す。直後その足元に絡まるような魔力の風が吹き付け、彼女は今まで以上に素早く且つ体力を使わずに麦酒樽の待つ裏方へと到着した。それから自分の手に持てるだけの麦酒を掴み、警笛を鳴らしつつ先程声がした方に戻る。
 帰ってくるとき慌てていたため空のジョッキグラスを持ち帰れなかったが、今更そんなことに気付いても遅い。原因は仕事中なのにケイに話しかけてしまったせいだから、自分が招いたミスだと反省するしかなかった。
「お待たせしました!」
 気持ちを切り替えたリーザが警笛を口から放して笑顔を浮かべると、赤ら顔の男たちがやんやと歓迎の声を出す。尤も、彼らが歓迎しているのは当然麦酒の方だが。
「ありがとよ!」
「姉ちゃん、こっち回してくれや」
「空きジョッキこれなー」
「こっち二個貰うぜ」
 リーザの手から麦酒を受け取ろうとしたり、その一方で空のジョッキを預けようとしたり、酔っ払いたちはてんでばらばらの行動をする。しかしそれも酒が入っているからこそと思えば、彼女は寛容な態度でそれを制した。
「はいはい、麦酒は逃げないし、空いたジョッキは逃がさないからそんなに慌てないの」
 子どものような容姿のリーザに母のような言葉を投げかけられた男たちは、きょとんとしたのも束の間、次の瞬間やけに豪快に笑う。しかしそれにも彼女は慣れていた。酔っ払いはどいつもこいつもオーバーリアクション気味なのだ。
「そりゃそうだな嬢ちゃん!」
「いやあすっかり忘れてたぜ……」
「けど、麦酒は泡がたっぷりあった方が美味いじゃないか」
 口を尖らせ麦酒を急かす空気が読めない男の反論に、リーザは睨み付けながら嫌味っぽく返す。
「それじゃあ、次あなたの麦酒は泡だけのやつをあげるわ」
「…………別に、そんな意味で言ったんじゃ」
「そりゃいい! 泡がたっぷり飲めるな!」
 周囲に笑われ、自分が空気を読まなかったことを思い知らされた男は赤面する。その姿に憐れみを覚えたリーザが、男にジョッキを注文通り二つ差し出してやると、彼は感謝の言葉を述べて彼女だか妻だかが待つ席へと戻っていった。
 そんな調子で、リーザの給仕も概ね問題ない。いつもアルに注意するときのように小言めいた口調が多いが、外見とのギャップと相俟ってか妙に酔っ払いどもには受けがいい。色っぽい誘いがないのは当然だが、ケイのあれを見た後ではちょっと虚しい気分にもなる。気分になるだけだが。
 今度はちゃんと空きグラスを回収してから裏方に戻り、ジョッキグラスを洗い場に持っていこうとしたとき、不穏な声が耳に入った。
「……はぁあ!? なんでアタシがあんたらに謝らなきゃなんないのよ!」
 声を聞いた瞬間、リーザの頬が引き攣った。聞き覚えのある声だ。そうなるんじゃないかと思った声だ。しかし出来ればそうなって欲しくなかった声だ。
「ちょっとあんた、あの声ってさあ……」
「はい、アタシの仲間です!」
 昨日世話になった女性にそう言ってから洗い場にジョッキを投げるように置くと、声が聞こえた方に急いで走る。誰かがブリジッテを宥めてくれていることを祈るが、今度は彼女の堪忍袋の緒も遂に限界かもしれない。お目付け役からいつ爆発するかわからないと聞いたばかりのリーザとしては、この偶然に対して不思議な圧迫感と責任を感じていた。
「ごめんなさい! ちょっと通して!!」
「おぅ……ってぇな!?」
 しかし手にジョッキグラスがないリーザを相手に、人がわざわざ道を開けてくれるはずもない。首からぶら下げた警笛を鳴らそうかと迷ったが、そんなことをして変に注目を浴びるのは御免だ。だがそんな彼女の心情を無視するように、小天幕の中はますます人の密度を増し、また人ごみの中から聞こえてくるブリジッテと相手らしき人物の声も荒くなっていく。
「だから、言ってるだろうがよ! テメエが、先に、謝れ!」
「嫌っつってんの!! 大体、あんたらがちんたら道を塞いでたのが悪いの!」
「だったら話しかけろっつってんだろ! 何度言わせる気だこのチビ!!」
「チビィ!?」
 一際不機嫌そうなブリジッテの声に、リーザはますます焦る。誰か来てと願いながら、必死に人ごみを掻き分けていく。
「おう、チビにチビっつってなぁにが悪いんだ? ほら、ここまで手届くのかいチビちゃんよぉ」
 愚かにも、相手はブリジッテを挑発している。寿命を縮めたくなければそんなことをするなと叫びたいリーザだが、気持ちと身体ばかりが急いて、叫ぶ余裕さえもない。
「……あ、っ、アタシが、話しかけたら、アンタたち無視したでしょ!! こっちチラチラ見て人の顔見て笑ってたくせに、目合ったくせにどこうとしないから……!」
「だからって人に魔法なんか使っていいのかってんだよぉチビ!」
 それは不味い。挑発に乗らなかったのは評価するとしても、魔術を使ったのは先に手を出したと受け止められても仕方ない。リーザの頭の冷静な部分がそう呟くが、口はごめんなさいと周囲に謝り、体を少しでも渦中の人物へと近付けようと足を動かすしか出来ずにいた。
「麻痺くらい時間経てば治るわよ! 自分たちが嫌がらせしたのが原因の癖に被害者ぶんじゃないっての!!」
 しかも認めている。否それは被害者で正しいことになってしまうと、リーザはまだ見えないブリジッテの肩を掴んででも言い聞かせてやりたくなった。だが今はその肩さえも見えない。
「だからこっちが被害者だっつってんだろーがよクソチビ!! 大体ガキがンなとこで……!」
 そこから先が、急に聞けなくなった。正しくは言えなくなった、か。
 理由は、リーザにはすぐにわかった。肌がそれを感知している。荒野でモンスターと数えるのも億劫なほど戦ってきた彼女にとって、実に馴染みのある感覚が、先程まで声がした方向から漂っている。
 魔力を開放するその感覚。魔術を唇で紡ぐ直前の空気の流れ。見えず聞こえず匂いもないけれど、確実に魔力が濃厚になっている。どう考えても仲間たちでどうにか宥められそうな状況ではない。
「……く、くそ、ちび……? ガキ……?」
 ブリジッテの声は震えている。やけにはっきり聞こえたのは、この騒ぎを眺めている人垣――つまり野次馬たちが黙った証拠だ。魔力に鈍い彼らとて、何かしら異質な、本能的に危険とさえ思える空気を感じ取っているのだろう。
 まずいまずいまずい。リーザは人波の中でひたすらもがき、声を張り上げる。ブリジッテ落ち着いて。ケイはどこにいるの。けれどその声はこの揉め事を知らない数多の人の声に掻き消され、聞いてほしい人々の耳に入らない。
 けれど野次馬たちは遅まきながら理解した。どうやらあの娘と騒ぎの中心地にいる娘は知り合いらしいと。人垣が先程よりも割れ易くなって、リーザがようやく人だかりの最前線に出る。
 そして見た。俯いたまま顔を上げないブリジッテと、ケイに胡桃を投げつけられた男の一人。傍らに死にかけの金魚のようにぱくぱくと口を開け痺れているのは、恐らく残りの二人だろう。
 ブリジッテと対峙している男はまだ酔いが残っているのか、肝が図太いのか。毛先を焦がしそうなほど攻撃的な魔力を漂わせている彼女に、自身の死刑宣告とも言える言葉をもう一度繰り返す。
「何か言ったか、チビちゃんよ」
「ぶりじ……!」
 リーザが再び声を張り上げるよりも先に、ブリジッテが顔を上げる。その表情がどんなものか、見るより先に目を焼くような閃光が走った。
「カオスフレア!!!」



 湿った土の上に、かつて獣であったものが無造作に投げ捨てられる。
 目玉と喉笛を引き千切られた獣はむせ返るような血の匂いをまき散らしていたが、一見して血に濡れているとわかるのは失われた片目だけだ。敏捷なフォルムに予想外なほどたっぷりとした毛皮が血を吸っているのか、それとも日陰では黒い毛皮と赤い血の差は曖昧になってしまうのか。どちらが事実であれそんな真相に興味はない顔で、男は辺りを見回した。
 見晴らしの悪い場所だった。日照条件は悪くないからか木々は遠慮なく生い茂り、地面に届く光も少ない。それでも土には栄養がたっぷりと含まれているのか、雑草もそこそこに生い茂っており、都会住まいの者であれば森と見間違えても仕方ない。
 しかし森独特の湿り気も香りもなく、森で生きる動物たちが生み出す静寂もない。男の背後からは変わらず収穫祭を楽しむ人々のざわめきや軽快過ぎる音楽が聞こえ、生温く様々な調味料の匂いが混じり合った不快な空気が肌に触れ、ここが人間が支配する林であることを証明していた。
「……ふん」
 だから男は安らぎを覚えることもないが、かと言って必死に領土を広げようとするモンスターや人間に軽蔑や怒りを抱くこともない。そんな感情はもう抱き飽きた。脆弱な輩共の愚行が目についたところで、逐一恨み憎むなど、非効率にもほどがある。
 男は濡れた手を振り払い、赤黒い血を地面にまぶすと、先とはまた違った視点で周囲を見回す。モンスターらしい影も気配もない。漂うのは血の匂いだけだ。
「粗方潰し終えたか……」
 ちらと男が足元を見ると、喉笛を千切られたブラッティビースト以外にも死屍累々が転がっていた。先ほど死んだばかりのものと同種の、こちらは胴から引き裂かれたのや、自らの篭手で頭から粉砕された鉄魔神。無残に潰されたらしいデスキラービーは十匹近く。敢えて仲間を呼ぶように仕向けたためか、二十分足らずにしてはなかなかの撃破数である。
 時間が経てばまた新手が来るかもしれないが、やはり男はそれほど暇人でもない。自らが生み出した死骸を気にも留めず、新たな獲物を求めるように林の奥へと歩き出した。

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