Durst Polka

ひるさがり

 微かに茂みが動いた音を聞き取ると、ノエルは静かに杖の柄を握り直す。戦いに慣れていない頃に比べてあらゆる行動に無駄がなくなったように思うが、立っているだけでも隙を見せないレ・グェンと比べるとやはり自分はまだまだ未熟だと思い知らされる。だが今は落ち込んでいる余裕などない。
「……ノエル、あれ、お前さんのヒヨコ虫だと思うか?」
 尋ねられても自信がなくて、ノエルは小さく首を振った。
 ノエルが育てたキングヒヨコ虫を巡回にやらせてから、既に三十分は経過している。もうそろそろ帰ってくるだろうが、ヒヨコ虫が茂みをかき分ける音にしては妙に大きく感じて、少年は素直に眉根を寄せた。
「わかりません……。なんだか、違和感があるんです……」
「やっぱりか」
 レ・グェンもキングヒヨコ虫が離れていくときの音を覚えているようで、表情が少しずつ緊張を帯びていく。
 草や小枝を踏み割る音はますます大きく、こちらに迷いなく近付いてくる。この視界の悪さで彼ら二人を捉えることなど、まず人の目線と大きさでは難しい。しかし淀みなく近付いてくる足音には、ヒヨコ虫でないような違和感もあるのだ。その違和感の正体は近付くにつれ、匂いや鳴き声にしては奇妙な音として次第に形を露にし、彼らの五感を刺激する。
 それでもノエルが狼狽えずにいれたのは、偏にレ・グェンの姿が視界に入っているからだ。少年は心身ともにいまだ成長過程であるためか、身近な人に影響を受けやすい。今は軽薄に見えても慎重な男と同じチームなのが功を奏し、彼と同じく近付いてくるものを待ち構えるだけの余裕があった。
 匂いは雑木林の中にしては異様なものとしてしか感知していなかったが、物音が大きくなっていくにつれ甘いような、塩辛いような、人工的に生み出されたものが混じり合った匂いとして受け止められた。今の彼らは会場から少し奥まった位置に移動しており、そこではあの屋台から漂う匂いはもう草の青臭さに掻き消されたはずなのに、どうしてそんな匂いがするのか。
 ノエルは顔を動かさないまま人差し指の先に唾液を付け、濡れた指を小さく翳して風の方向を確認する。今は会場側からの風は吹いていない。違和感に確証が与えられた訳だ。
 強い臭いを漂わせるモンスターと言えば、昼前に倒したラフレシアが代表されるだろう。だがブラッティビーストだって獣臭いし、ゾンビ類も腐臭が酷い。この辺りでは見られないモンスターの可能性を考慮すれば、ノエルの柄を握る手もいつしか堅く強張っていた。
 遂に彼らの視界から収まる範囲にまで、何かが訪れたらしい。一足先に茂みを掻い潜って現れたのは、ノエルのキングヒヨコ虫だった。心なしか明るい顔で、自慢げに大きな鳴き声を上げる。見回りのお使いを達成できたと喜んでいるのだろう。
「おかえり」
 けれど主人たるノエルはそこまで脳天気になれなくて、キングヒヨコ虫の後を追ってきた何かを凝視する。
 茂みを掻き分け現れ出たのは、赤葡萄酒色の髪を前部分以外きゅっと後ろにまとめた、ノエルより幾らか年上の見知らぬ少女だった。リーザたちとは違ったデザインの民族衣装に身を包むのはいいとして、黒いガーターベルトは少年の目には少しばかり扇情的だ。
「はあ……。ようやく見つけた!」
 少女は彼ら二人の姿を見ると、眉を吊り上げ怒りと疲れが半々籠もった声を上げる。何のことだとノエルは目を瞬いた。
「何だ、アデルか」
 少女の姿を見とめたレ・グェンが、一言ぼやくとどっと緊張を解く。ノエルは彼の一言を聞きようやくそれが自分たちの仲間の一人であると認識すると、小さく飛び上がった。
「あ、アデルさん!?」
「なに? ……ノエルったら、そんなに別人に見える?」
 苦笑を浮かべる少女の顔をまじまじと見れば、確かにその面立ちはノエルもよく知るアデルに違いなかった。間違いようがないとさえ言えるほどなのに、どうして一瞬知らない人だと思ったのだろうと彼は酷く自分を恥じる。
「……ふ、服とか、髪型とか、違ってたんで。それに緊張しててたから、ちょっと、誰だかわからなかったんです。ごめんなさい……」
 言い訳を並べてみるも、顔を見ればすぐわかるはずだと思えば説得力は皆無となる。ゼロスだってそうしてリーザたちをすぐ見分けたのに、全く成長していない自分にノエルはますます自分を恥じた。
 けれどアデルの方はあまり気にしていないらしく、さらりと笑って低木を軽く跨ぐ。
「しょっと……いいのよ、ノエル。朝からずっと会ってないし、みんなにはこの衣装のこと言ってなかったものね。驚くのも無理ないわ」
「いや、シオラたちには先に会ったんだ」
「あら、そうなの?」
 目を軽く見開くアデルから、レ・グェンはなし崩し的に両手に提げていた匂いのする紙袋を受け取る。異臭の正体はこれのようだ。その中身を気を持ちつつ、彼はいたずらっぽく片目を瞑った。
「ああ。やっぱりそっちも、ぱっと見じゃ誰だかわからなかったな。なんせうちの女性陣は粒揃いだろ? 髪型までいじると立派などこぞの看板娘だ。是非ともお酌を頼みたいと思ったねえ」
 口の減らない男に、アデルは大仰に片眉を吊り上げた。しかし口元は穏やかに緩んでいるから、本気で怒っている訳ではない。
「こんなところまで出張はできませんからね。それくらいは我慢してよ」
「わかってるさ。それで、これは?」
 紙袋の中は丁寧に布で覆われているらしく、一見しても中身がよくわからない。食欲をそそる匂いはするからおおよそ正体はわかるのだが、アデルがこれを持っていた理由が言及されていないため遂にレ・グェンが尋ねることとなった。
「それ? 二人への差し入れよ」
「おっ!」
「いいんですか!?」
 一気に顔を明るくする二人に、アデルはこみ上げてくる感情を隠しもせずに浮かべて肯定する。
「ええ。あたしはもうお昼済ませたから、好きに二人で食べて」
「ありがとうございますっ!」
 丁寧に礼をして紙袋の中身を広げるノエルに、キングヒヨコ虫がやはり自慢げに一鳴きする。改めて考えればこの子は見回りついでにアデルを案内してくれたのだろう。少年は包みを丁重に置いてから、感謝の気持ちを込めて両手で鶏冠の付け根を掻いてやった。
「うんっ、君もありがとう」
 嬉しそうなキングヒヨコ虫を微笑ましく眺めていたアデルに、ノエルより一足先に差し入れを咀嚼中のレ・グェンが声をかける。
「ありがたいのは確かだが、なんでまたこんなところまで差し入れに来たんだ? 一人で退屈してたのか?」
「リディアたちとはぐれちゃって……。警備班にいたら、いつかあの子たちも来るかもしれないと思ったの」
「ははあ、こいつは滞在費代わりか」
 指に付いたソースをしゃぶりながら笑うレ・グェンに、アデルは小さく肩を落とす。
「もう、正直に言い過ぎよ?」
「悪い悪い! まあ、好きにいてくれよ。一飯の恩の相手に働けなんて言いやしないからさ」
 その言葉に、アデルは昨日のノエルの憂鬱のもとがいないことに気付いたようだ。不思議そうな顔で辺りを見回し、予定ではいたはずの人物を捜す。
「そう言えば、二人なの? 三人じゃなくて?」
「……ああ、まあ、それが……」
「…………」
 急に後ろ暗い顔になった二人の様子に、アデルは何となくもう一人がいない理由を察したようだ。彼女もまた、あの人物がゼロスとはまた別の方向でだらしなく、ゼロス以上に人当たりの悪い人物であることも重々承知している。それだけでなく、二人がその人物を探しに行けない理由までも想像できたらしい。
「……ま、仕方ないわよね。二人はここを離れられないし、気付いても何もできない、か」
「理解が早くて助かるよ」
 少し温くなった果実酒で喉を潤すレ・グェンから余分な油を切った炙り骨付きウインナーを渡されると、ノエルはありがたくそれに齧り付く。熱くはないのに一口分だけでも十分なほどの肉汁が口の中に広がって、少年は鼻から抜けるような歓喜の声を漏らした。
「……そんなにお腹空いてたの?」
 ノエルにからかい半分の声音でアデルが尋ねると、恥ずかしがっていた少年はそれでも小さく首を縦に振る。
「買いに行くのも、どうかなと思ってたから……お腹が空いても我慢していたんです」
「しかも俺たちの担当地域は屋台の裏手だろ? 近くにいたら旨そうな匂いがするもんだから、たまんなくってさ。林の奥に逃げるしか手がなかったんだよ」
「……わからなくはないけど」
 アデルは吐息をつくと、ノエルの横でバター付きパンを貪るキングヒヨコ虫に首を向ける。
「あの子が案内してくれなかったら、二人がここにいるだなんてわからなかったわよ? リディアたちもここがわかるかどうか、自信がないし……」
「おいおい、これだけ食わせておいて没収はやめてくれよ」
 レ・グェンの狼狽えように満足したらしいアデルは、当然と言わんばかりに胸を張る。
「大丈夫よ、そんなことしないから。けど、ノエル、お願いしてもいい……?」
「はい?」
 急に話を振られてきょとんとするノエルに、アデルはキングヒヨコ虫をちらと見ながら唇を開く。
「頻繁じゃなくてもいいから、あたしがこの子と会ったときみたいにこの子を見回りに出してほしいの。ノエルがこの子に装備まで着けてくれたお陰で、野生じゃなくてノエルが育てた子だってわかったし……。あの子たちも、そんな調子で迷っていたらわかると思うから」
 その表情は真剣で、口調は軽くてもアデルが本当にキングヒヨコ虫に恩を感じているのは明らかだ。となれば、そのヒヨコ虫を育ててきたノエルが断る理由はない。むしろ胸の内からは誇らしささえ湧き上がってくる。
「……わかりました。それじゃあ、何度か見回りに行かせますね」
 ノエルが力強く了承すると、たったそれだけなのにアデルは安堵の息を吐いて、眩しいほどの感謝の笑みを少年に作る。
 その笑顔に少し少年の心臓が高鳴ったのは、恐らくこんな経験は初めてだからだろう。誰にも何も言われず続けてきたことが報われた瞬間なのだから、嬉しくなって当然だとノエルは自分に言い聞かせた。


「うぉおおおリディアァアァ!!」
「うわっ、なに! なになに!?」
 歓喜の声を上げただけのつもりなのに、顔に驚愕の表情を張り付けられた上に腰を低く落とし拳を構えられ、ヴァンは垂直落下の勢いで肩を落とす。相手は武器も装着していないどころか攻撃さえも与えていないのに、彼の心は深く傷付いた。
「……何だよ、俺が喜ぶ顔ってそんなキモいか?」
「いやあ、そんな訳じゃないんだけど……」
 冷静に考えてみれば気軽に声をかけただけで雄叫びを上げられる方が衝撃的だろうが、もともとヴァンは細々と考えるのが苦手だ。なのでリディアが慰めようとしていることにも気付かず、無邪気な言葉の暴力を更に受けてしまう。
「キモイ?」
「そうっち! 気持ち悪いと言う意味っち! 例えるならば動物の腹をかっさばいたときに見えるぐっちぐちでぬっちぬちの中身っち!」
「……キモイ……ウン、キモイ……」
「ノンノン、キモい、っち!」
「キモイ」
「キモい!」
「キモイ」
「ぐっ……!」
 ヴァンの奥にいる一人とそのターバンに載った一匹が、ひたすら交互に一つの単語を言い合う。一応は言葉の勉強のはずなのに妙に心を抉る発言を受け、ついに体力馬鹿と揶揄されても平気なはずの彼の両膝が地面に吸い寄せられた。
 しかしこの場には三人以外にも部外者がいる。苛めの現場をリアルタイムで見せられると、楽天的なリディアも怒りを禁じ得ない。珍しく眉をきつく上げ、一見すれば愛らしいヒヨコ虫に声を荒げた。
「シロ! ヴァンを苛めない!!」
「苛めてないっち。偉大な賢者たるワシが、ヘルメスに言葉を教えているだけだっち」
 突っぱねるシロだが、その表情にはどことなく悪意を感じなくもない。リディアはヴァンが雄叫びを上げるほど自分の来訪が喜ばれた理由を悟ったようで、苛められていた男の肩を優しく叩いた。
「構えちゃってごめんごめん! びっくりしただけだからさ、そんな落ち込まないでよ、ね?」
 リディアに優しい笑みを宿して肩を叩かれると、ヴァンは先とは別の意味で肩を落とした。軽い針の筵にいるのは違いないが、味方になってくれる人物にまで拗ねていられない。なので思考を切り替えて、突然の来訪者に立ち上がって向き直る。
「……んで、なんの用でこんなところまで来たんだ? 他の二人はどうしたんだよ。夕方まで遊ぶんだろ」
「なんで知ってるの?」
「ケイから聞いた」
「そっか、昨日のうちに話してるよね」
 納得されたが、変に生真面目なヴァンは首を横に振ってリディアの思い込みを訂正する。
「祭りが始まるより前、ケイがこっちに来たんだよ」
「あ、そうなんだ」
「そりゃあもう、見事な艶姿だったっち……。なのにこやつ、褒め言葉一つ投げかけなかったんっちよ!? おかしいっち! 贅沢者っち!」
 シロから私情たっぷりの罵りを受けても、ヴァンとしては理解不能な発言でしかない。口先を尖らせて、何故か眉を八の字にしているリディアに愚痴をこぼす。
「あいつ、ケイが行ってからずっとああなんだぜ……。なんで俺がケイを褒めなきゃなんないんだって聞いても、ろくに答えないしさ……」
「あー、まあ……、そりゃ仕方ないんじゃない?」
 一気にシロ寄りになったリディアに、ヴァンは大きく目を見張る。まさかついさっきまで自分の味方をしてくれた人物が、こうも早々に裏切るなんて誰が想像するだろう。
「お、お前までシロの肩持つのか!?」
「いや、シロじゃなくてケイの肩なら持つよ? ケイ本人がどう考えてるのかわかんないけどさ、それはちょっと……」
 リディアにしては要領を得ない発言に、ヴァンは思ったままの疑問を口にする。
「なんでケイが可哀想なんだよ」
「折角ケイが女の子らしい格好してるのに、いつも身近にいるヴァンがそれに触れてあげないのは可哀想だと思う」
 シロと違っていくらか丁寧に説明されたが、それでもやはりヴァンは納得できないでいた。少なくとも、彼はケイの性格をシロやリディアよりよく知っていると自負している。それだけに、彼らの考えがわからない。
「今回あんな格好するのは依頼だからだし、別にケイは褒められたくてここまで顔出した訳じゃないだろ」
「そうかもしれないけどさあ……」
 難しい顔で歯切れの悪い言葉で濁されると、ますますヴァンの頭に疑問符が浮かび上がる。
「ケイが自分の格好を不安に思ってんなら、まず俺とかじゃなくお嬢とか、同性に聞いた方が確実だろ。俺はアドバイスとか出来ないし、ケイだってそのくらいはわかってるって」
「まーねえ……そーだよねえ……」
 ヴァンとしては珍しく理性的かつ真っ当な意見のはずなのに、リディアは薄く目を細めてこいつわかってないなとでも言いたげな深い深いため息を吐く。そんな彼女の態度には、さすがに鈍感を自覚している男でさえも居心地の悪さを感じ取る。女性特有の真綿で首を絞めるような圧迫感を前にすると、シロの苛めの方がまだましなくらいだ。
「……何だよ」
「いやいやいや……。ん〜、それでヴァン個人としては、ケイの格好見てどう思ったの?」
 強引に話を逸らされた気がしたものの、先の話題で十分収まりの悪さを感じていたヴァンは一応その質問に対し正直に考える。まず今朝のケイの姿を見た際の第一印象を率直に言うと。
「あんなひらひらした格好で戦えんのかな、って……」
「…………ふーん」
 リディアの相槌が異様に冷めている、のは聞き間違いではない。あまりの声音の違いに反射的にそちらを振り向いたヴァンは、彼が知っている人物にしては明らかに冷たさを感じる眼光の鋭さに酷く動揺した。
「おまっ、なんでそんな面してんだよ!」
「やーやー何でもありませんよー。けどよかったねえ、ヴァン」
 どうして良かったなんて言われるのか予想もできない男は、馬鹿正直にもきょとんとした顔でやはり冷めた目つきの、口元だけは穏やかに微笑むリディアに尋ねる。
「あん? なんで良かったなんて……」
「あたしがケイの立場でそんなこと言われたら、多分鳩尾に一発喰らわしてるし。てゆか、それで済めばいい方?」
「えええ……!?」
 思わず後ずさるヴァンは、その流れで自分の背後をちらと視界の隅に入れた。見えるのは相変わらず手入れが成されていない雑木林には違いなかったが、そこにいたはずの二人の姿がない。
「……ん?」
 体ごと振り向いてみるものの、やはりいない。影も形も見えやしない。声や物音さえも聞こえない。つまり。
「あらら。あの二人、逃げちゃったんだ」
 頭の中も目の前も真っ白になったヴァンに、リディアがいつもの調子で呟く。あからさまに冷たい口調ではないが、その無責任な言い方に残酷さを感じることも可能だろう。
 だが当然ヴァンとしては、そんな場合ではなかった。


 眼前が一瞬真っ白になりはしたが、案外早くに回復する。今いる場所は人が密集しているため、ぼうっと立っていればすぐにジョッキグラスごと誰かにぶつかってしまう恐れがあるからだ。
 その次に、見てしまったあれは幻ではないかと自分の感覚を疑った。――あれが人間の多い天幕にいるなんて信じられない光景だし、そもこんな大規模な酒場のような場所にいるのは危険だ。――しかし不幸にもそれを確かめる術はないし、幻覚を見るような精神状態でもなければそれほどまでの肉体疲労も感じていない。むしろ慣れないなりに新鮮味と向上意欲を感じていたくらいだ。
 つまり、やはり自分が突拍子もなく目にしてしまったものも現実である可能性が生まれたのだが、それでも彼女は信じたくなかった。まあ、薄々予感はしていたのだけれど。
「お待たせしました」
 そんな心中を鮮やかに慎ましい笑顔で覆い隠すと、空のジョッキが目立つテーブルに自分が持っていた麦酒を置く。何も知らない客たちは、麦酒にわあっと群がった。
「おう、悪いね」
「こっちにも頼む!」
「はい」
「貰ってくよ」
「ありがとー」
 口々に声をかける人々を好ましく眺めながら、空のジョッキを回収していく。そんな中で、幻であって欲しかったひとのそばを通ると向こうがこちらに首をやった。
「なかなかにいい格好だな、スノー」
 わざわざ甲冑を脱いだ黒の簡素なタートルネックとスラックス姿の魔族の男が、好色めいた笑みを浮かべる。確か会場の外周警備を担当しているはずなのにちゃっかりここにいて麦酒を飲んでいたのは、つまりそう言うことなのだろう。
「……誉め言葉には聞こえませんよ、ジャドウ」
 自分の中では可愛らしいと思えたはずの民族衣装が、途端に淫らなものに感じて苦い顔をするスノーに対し、恋人たる男は軽く目を見張る。
「何を言う、お前は俺の生涯で最も賞賛を受けた女だぞ。素直に喜べ」
「下心を伴っていなければ、光栄ですね」
 皮肉めいた物言いに、しかしジャドウは全く動じない、どころか恋人のつんと澄ました横顔をせせら笑う。
「子とて欲を持つゆえ親に媚び従い躾を覚える。下心抜きに他者を持ち上げる者などいまい」
「あなたの場合はその欲が一つに傾きすぎているんです」
「明解だろう?」
「それも過ぎれば毒ですよ、特にわたしには」
 スノーは自らの両手がもう空きグラスを掴む隙間もないと自覚すると、また代わりの麦酒を持ってこようとテーブルを離れる。
 するとどうしたことか先まで話していた男までが立ち上がり、一緒に来る始末。席に残った飲みかけの麦酒とチーズに気付き、スノーは慌てて恋人と空席を交互に見た。
「なんで付いて来るんですか!」
「麦酒は俺の舌に合わん」
「だったらどうしてわざわざここまで来るんです」
「お前の姿を見るためならば仕方ない」
「しかも人間も多いのに……」
「逐一気にする方が疲れる。まあ今まででも疲れたが」
「ならもうお仕事に戻ってはいかがです?」
「ここに来る前に一仕事分は働いた」
「あなたの場合は暴れた、の間違いでしょう。それに、働いたとしても同じチームの……!」
 言いかけた途中で、向かいからやって来る落ち着かない団体客が目に入る。狭い通路でもないが、横並びで歩く彼らは後ろで迷惑そうにしている客のことも気付かないようで、この調子でいけば彼女のこともぶつからない限り目に入らないだろう。
 スノーとしては、硝子製の分厚いジョッキグラスを犠牲にまでしてはしゃいでいる団体客に冷や水を掛けようと思わない。故に適当な隙間に入り、彼らをやり過ごすことにする。予想通り、観光客たちは彼女の気遣いどころかその存在にまで全く気付かないまま二人を通り過ぎて行った。
「同じチームの人たちの負担が減らない保証はどこにもないでしょ……う?」
 素早く通路に戻ったスノーが後ろを振り返って先の言葉を続けるも、妙にジャドウとの距離が近い。どのくらい近いかと言うと、振り向こうとして自分の耳が相手の唇と掠れるくらい近い。
「……きゃ!」
 更に相手が今どんな体勢なのか疑問に思うより先に片方の乳房を揉まれ、スノーは小さく飛び上がる。誰が揉んだかは言うまでもない。
「もっ……ジャドウ、ふざけていないで!」
「この格好で無防備に俺の前に出るお前が悪い」
 胸下を囲うジャドウの片腕が掬い上げるように動くと、乳肉が止まり木に降り立つ小鳥の如く彼の腕に身を預ける。しかしその膨らみを持つ女性は全く不本意な休息であるため、身を捩って細身ながらに筋肉質な腕から逃れようとする。
「ジャド、ウ、わかってるん、ですか!?」
「何を」
 対する男性は余裕なもので、労働のためか心なし漂う汗と髪の混ざり合った香りをうっとりと嗅いでいたが、腕はびくりとも動かない。しかしスノーは諦めなかった。否、諦めるわけにはいかないのだ。
「ここでそんなこと、したら……!」
 肩を剥き出したブラウスに、ゆっくりと指が近付いてくる。
「したら? どうなる?」
 スノーが抵抗しているのに相手は悠々としていながらも着実に自らの望んだ方向に欲望を叶えていきそうで、彼女は本格的に焦りを覚えながら一気に言葉を吐き出す。
「一週間触らせません」
「…………」
 吹雪さながらに底冷えした声を聞くと、ジャドウは従順なほどあっさりと手を離す。抵抗する、でもなく一週間は、でもなくただ簡素に断言した場合、スノーは本気でそうすると彼は知っていた。そんな状態で触れようとすれば、この一週間は彼にとって苦痛と徒労の一週間となる。無理を強いればそれ以上の抵抗に合うのは必至。労力に見合ったものが手に入るかと言えば必ずしもそうではないのだから、ここは折れた方が賢明なのだ。
「……卑怯な手を使うな」
「両手が塞がっているのをいいことに好き放題したひとの台詞ですか」
 取り付く島もない態度に、さすがのジャドウも思うところがあるらしい。顎に手を置き立ち止まって、彼を省みもしないスノーの後ろ姿を黙視する。それから暫くして、その裸の肩に張り上げ気味の声をかけた。
「お前はいつ自由になる」
「夕方の四時……八の刻ですね」
 あまりいい予感はしないながらも立ち止まって答えると、ジャドウは軽く頷いた。珍しいことに、こちらに近寄ろうともしない。
「ならその時間からお前も来い」
「もって……ああ、警備の、ですか?」
 意外な誘いではあるが、スノーとしては別に断る理由もない。一人で収穫祭を見て回るほど孤独に餓えていないし、頑張っているようならばこちらからジャドウを訪ねようかと思ったくらいだ。その予定は当然彼を見た瞬間に憐れ霧散した訳だが。
「ここまで人間が多いとなると落ち着こうにも落ち着けん。外で雑魚を相手にしている方がまだいい」
 そして、外でのんびりするならついでにスノーの機嫌を買うためいるべき場所に戻る、と言う魂胆なのだろう。彼女としては褒めることでもないが、同時に文句は思い浮かばない提案だ。出来れば最初からそうであってほしかったが、生憎過去を変えられる力は持っていない。
「……はいはい。それじゃあ、時間になったらあそこの……裏方の幕の前で待っていて下さい。出来れば、今すぐにでも戻って欲しいところですけど」
「それは断る。極力目立たんよう努める故、この場は見逃せ」
 鮮やかに断られても、スノーは苦笑を浮かべるだけの反応で済ませる。
 交代の時間まであと二時間ほどだろうし、待つのも待たせるのもそれほど苦痛ではない。それまでの間に彼が何も起こしていなければ最良だと思考を切り替え、彼女は仕事に戻った。


 今日一日で後悔した生き物ランキングが開催されればまず自分が確実に優勝する――そんな奇妙な自信を持つほどに、ゼレナは今もまた後悔していた。
 何せ自分の周りは人間だらけ。見渡す限りに人が溢れ、視界に入る範囲でさえも数える気が失せるほどに多いし密度も高いし騒がしい。村単位の人間を洗脳した経験はあってもここまで多くの人間を一度に洗脳を試すどころか見たことさえないゼレナは、人間の多さに戦慄さえ覚えた。いくら強くなってもこれだけの人数を一度に洗脳なんて出来やしない。無理をしたら絶対に制御不能に陥って、痛い目に遭うだろう。だとしたら村単位の洗脳だけで頓挫して良かったとさえ思ってしまう。
 がしかし、今問題なのはそれではない。
 とにかく羽を広げられそうな空間まで出ないと、日が沈むまでこのままだ。そうなったら愛しのイサクにこの晴れ姿を見せることさえも出来なくなってしまう。
「……それだけはイヤ、それだけは!」
 ゼレナとしては力強く告げたつもりだが、実際にその声は誰の耳にも入らないくらいか細い。この衣装に着替えてから、一度もまともに休んでいないのが原因だ。
 自由時間にも関わらず、ゼレナがここまで過酷な状況に追い込まれているのには、彼女の段取りの悪さと見通しの甘さが主立った原因と言えた。
 刺繍やレースが縫われたものを着たことがないゼレナは、貸し衣装に袖を通すと集会所から追い出されるまで随分はしゃぎ興奮していた。そのためいつもより早く小腹が空いてしまい、真っ先にイサクのもとを訪ねる予定を変更して、朝から働く給仕班の天幕に一人で出向き、食べ物を強請りに行こうとしたのだ。
 しかし一人で見慣れぬ場所に向かったのが運の尽き。予想以上の人混みに揉まれ、パレード観覧客に押し流されで、結果的に目的地まで辿り着けなかった。
 ついに軽食自体を諦めて、お目当てのイサクのもとへと行こうにも、まずその場所がわからない。とにかく外に向かって歩こうとするが、やはり人の波に流されてしまい本格的に今自分がどこにいるのかさえもわからなくなった。一度仕切り直しの意味も兼ねて集会所に向かうが、やはりそれもまた疲労と慣れない歩きとそれ以上に慣れない人混みに方向感覚を失って、ゼレナは完全に当てがなくなった。
 せめて飛んで空から会場を眺められれば頭も冷静になるかもしれないが、さっきから人に押し流されている状況であるため羽を広げられる隙間さえないのだ。何度か隙間作りや情報収集を兼ねて近くの連中だけでも洗脳してやろうかと思ったが、足を踏んだり踏まれたり、背中を押されたり悪態を吐かれたりで、集中できない上に疲れてしまい、情けないほど余裕がない。
 こんなもののどこが楽しいのだと人間どもに喚き散らしたい気分にもなるが、それでさえも疲れてしまってどうでもよくなる。ただのろのろと進行方向に足を動かし、奴隷の気分で少しずつ前へ移動していると、誰かが横からスカートを引っ張った。
「ひゃっ!? な、なによぅ……」
 スカートが破られないようそちらに引きずられるまま横歩きになると、その小さな握り拳の手首に見覚えのある布飾りを発見する。まさかと思い促されるまま人混みをかき分けると、急に人が途絶えた。酔っ払いどもが原っぱに大の字になってぐったりしているその手前に、頭にシロを載せたヘルメスがいる。
「……あ、あんた……」
 人が少ないところまで誘導してくれたヘルメスに、ゼレナには薄かったはずの他者への感謝の気持ちがじわりと広がる。涙さえ流して彼女がその手を両手で包もうとするより先に、あどけない子どもが空気を読まずに一言。
「ゼレナ、ヘンナカオ」
「よ、余計なこと言わないでよ!」
 意識朦朧としながら歩いていれば、変な顔にもなろうものだ。だがヘルメスはゼレナがどんな状況だったかも知らないだろうし、彼女もまた詳しく説明する気がないので反論はそれだけで済ませる。
 しかし相手はヘルメスだけではない。薄気味の悪い含み笑いを浮かべて、シロが目ざとく指摘する。
「その割には変に嬉しそうっちねえ。ワシらが見つけるまで、死んだような目だったっちよ? 独りで不安だったっちか?」
「うるさいわねぶちゃむくれ!」
「ぶ、ぶちゃむくれ!?」
 自覚はないものの、シロの指摘はあながち間違いではなく、ゼレナの心はさっきまでの疲労感が嘘のように消えていた。鮮やかに普段の調子を取り戻し、二人につんと見下すような視線を向ける。
「それで、……あ、あんたたち。警備の仕事なんでしょ? なんでこんなところにいるのよ」
「シロガ、モウイイッテ」
「はあ?」
 素直且つ率直なヘルメスの言葉に、そう誑かした当人のわざとらしい咳が入る。
「ゴホゴホエフン! ……ワ、ワシらがいたところはとにかくモンスターが来なかったっち。だから、他の面々に三チームに分かれるようすべきだと今から言いに行くんっち」
「……そんなことのために、わざわざこんなに人間が多いところまで通るわけ?」
 自分でさえ根気を奪われるほどに辛いのに、こんなに小さな子どもが連絡のためとは言えこの人混みに身を投じる必要はあるのか。そんなゼレナの問いかけに、しかしヘルメスは平気な顔で足元を見た。
「ヘルメス、ヘイキ。ココ、タノシイ」
「楽しいって、あんたね……」
 ゼレナもヘルメスの裸足を見るが、自分と反対に傷一つない。この密集地をよくも無事に歩けるものだと、感心を通り越して不気味にさえ思った。
 しかしヘルメスはどこ吹く風で、そんなゼレナを無邪気に見上げる。ビー玉をそのまま瞳にしたような疑問の視線を受けると、彼女はようやく自分の目的を思い出した。
「そうだ、あんたたちはイサク様がどこにいるのか、知ってる? 知ってたらお願い、教えて!」
 必死のゼレナの問いに、しかし一人と一匹は芳しくない反応を寄越した。
「シロ……?」
「……忘れたっち」
 返答を得た瞬間、ゼレナはつい先ほどまで感謝の気持ちを持っていた相手に舌打ちを放つ。ついでに、ここまで役立たずなのも珍しかろうとさえ思ってしまう。その一人と一匹に助けられたにも関わらず、だ。
 しかし出会った以上はただでは離さない。そう思えるくらいに頭の回転速度が回復してきたゼレナは、また別の質問を投げかけた。
「じゃ、あんたたちがどこから来たのかを教えて。そこ以外を探すから」
「それなら覚えてるっち。ワシらは西から来たっちよ」
 シロが自慢げに鶏冠を西の方角へと向けるのを見ると、ゼレナもそちらを指さして方角を確認する。
「こっちが西ね、……西、西!」
 それから反対側や九十度違う方向を向き、自分の中の方角を確認する。このままの感覚を維持していれば、恐らく警備班のどこかとは連絡が取れるはずだ。
 今なら感覚を研ぎ澄ませるのも無理なく出来るだろうから、ともかく懐かしさを感じる方向に行こうと羽を広げた瞬間、焦ったようなシロの待ったがかかった。
「ヌシ、今度はワシらの質問に答える番っち!」
「……もう、何よ!?」
 時間がなくなる前に飛び立ちたいと思いながらも、ゼレナは一応ヘルメスに恩を感じているため羽ばたきを止める。しかし幼い子どもは何も言わず、やはり小生意気なヒヨコ虫が代わりに尋ねた。
「ファイルー……いやいや、仲間のおなごたちが働いておるのはどこっちか?」
「なんでそんなこと教えなきゃなんないのよ。あんたら、休憩時間なんてないんでしょ?」
「それは……そうっちが……」
 手痛いところを突かれたように慌てるシロの反応を目にすると、ゼレナはこのヒヨコ虫がよからぬことを考えているのではと訝しむ。奸計は彼女の十八番だと思い込んでいるだけに、特にその手の思惑には敏感なのだ。しかし意外にも先程まで消極的だと思っていたヘルメスが代わりに答えた。
「カルラ、ミタイ」
「……南東の天幕よ」
 会う、なら長時間そこに居座る可能性を予期させるが、見たい、なら短時間で済むだろう。尤も、ゼレナは端から警備の仕事に関わっていないから二人を深追いする権利はない。けれど、もし二人が仕事を放棄しているのであればそれはそれで見逃せない。
「会うならぱっと会ってぱっと帰んなさいよ。天使さまを困らせるようなことしたら、許さないからね」
「重々承知しているっち」
 めいいっぱい重々しく答えるシロだが、ゼレナの目には実に滑稽に映る。だがそれこそどうでもいい話だと思考を切り替えると、彼女は大きく羽を広げた。
 目指すは北――愛しの天使がおわすことを祈りながら、ゼレナは地面から足を離した。

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