Durst Polka

ひがおちゆく

 がちゃんと派手にジョッキグラス同士がぶつかったが、分厚いためか割れた気配はない。一応音が聞こえた両方をざっと泡を洗い流して灯りにかざすも、やはり罅さえ入っていなかった。このままの流れでやや念入りに洗い流し、水を軽く切りグラスの口を下に向けてタオルが敷かれたテーブルの上に置く。
「……もー」
 置くと綺麗に並べたグラスが一部ごっそりなくなっていると気付き、ブリジッテはややげんなりした。使うためにジョッキを洗っているのだから使うなとは言わないが、半端に空間を開けられると見栄えがよくないし他の者も混乱するだろう。
「どこのどいつよ……」
 ぼやきながら、洗ったジョッキを不自然な空間に補充していく。傍若無人だのわがままだのと言われているブリジッテではあるが、こんな部分に関しては妙に神経質な性質を発揮した。ついでに時計を見ると、もう洗い場に籠もってから一時間以上は経過しているらしいと知る。この調子で洗っていれば交代の時間もすぐだろう。
 あの憎たらしい連中とのいざこざがこの小天幕の監督役――昨日色々と説明してくれた女性だ――にばれてこってりと絞られたブリジッテは、接客を禁じられ、ほぼ叩き込まれるようにして洗い場に専念するよう命じられた。
 しかし、その処罰にブリジッテが納得しているかと言えば当然そうではない。大体多くの客が目撃したと言うカオスフレアはカルラのアヴァランチで相殺したし、麻痺についてもまたカルラが異常回復の魔術でなかったことにした。相手も自らの非を認め、またこちらも謝ることで一件落着したのだ。なのに一方的に自分だけが悪いと決めつけられたような言い回しで怒られて、彼女はとにかく反論しようと躍起になった。
 しかし不幸にも証人兼仲裁役を勤めたカルラは直後に人どもによってどこかに連れ去られ、相手の男たちの名前は聞いていないから呼び出しようがない。リーザはカルラがアヴァランチを放った瞬間に踵を返して監督役を呼びにいったそうで、ブリジッテに不利な証言しか出てこない。野次馬たちは敢えて関わらないようにしているらしく彼女と目も合わせようとさえしないのだから、ブリジッテの肩を持つ言葉など当たり前のように出なかった。
 結果として監督役とリーザは、暴力によって相手を制したブリジッテだけがあの騒ぎはもう終わったと言い張っていると受け止めたのだ。
 誤解された時点でもう一度堪忍袋の緒を切ることも出来なくはなかったが、少々成長しているブリジッテはそんなことをすれば相手が自分に抱く印象を裏付けるだけだと気付くと大人しく従うことにした。決して自分の罪を認めた訳ではなく、思われているよりも自分は聞き分けがよくて客観的なのだと知らしめたかったのだが、傍目には自分が悪いから従っていると受け止められていると思うと非常に悔しい。
「けどそれも、カルラが帰ってくれば終わる話よ……!」
 拉致された以上、カルラはいつか帰ってくるだろうし、そのときに証言して貰えれば自分の印象は覆る。謝罪の言葉さえ貰うだろう。だがもし帰ってこなければ――。
「…………っ!」
 仮定するだけでも、ブリジッテの腹部が底冷えする。否それともこれは熱いのだろうか。とにかく急激な怒りで体温が変化するのがわかった。
 しかしカルラに怒りをぶつけるのはいかなブリジッテでも申し訳ない気分になる。拉致したのはあの老人どもだし、カルラ自身の非は全くない。むしろ最良を尽くしてくれたと言うべきだ。だから決して彼女に八つ当たりしてはならないと自分に言い聞かせた。
 だが会話に平然と割り込んでカルラを浚った厚かましい老人どもが、彼女の願いを受けてこの天幕にあっさり帰しに来るとは思い難い。また洗い場から覗ける範囲ですら明らかに客が多くなってきている現在、最早顔も明確に思い出せない老人どもをピンポイントで見つけられる可能性は極めて低い。
「……むうう!」
 考えれば考えるほど自分に不利な方向ばかり浮かんできて、ブリジッテはスポンジを握り潰しそうなほど両手に力を込める。
 何としてでも誤解を解かねば、自分の腹の虫は収まりそうにない。けれどどうすれば誤解が解けるのか。ひたすらそれだけに思考を集中させる。勿論妨害も入ってしまうが。
「はい、これ頼むよ」
「……あ、わかったわ」
 ごろんと流し台にジョッキグラスを大量に置かれ、ブリジッテの減ったと思った仕事がまた増えてしまう。しかしこれが今の仕事なのだから粗悪な態度は取れない。むしろ接客に比べれば外部の干渉も薄い分、まだジョッキ洗いの方が考えごとには最適だ。たまに汚物が入っていたりするが水で洗い流せば直接触れずに済む。だが頭を働かせるということは、それだけ余計なことも考えてしまうことでもある。そしてそれこそが、今の彼女にとって最も大きな妨害だった。
 こんな格好をして裏方仕事なんて勿体無い、手がふやけるもうやりたくない、汚いものを見たくない、大体自分に接客させないならもう仕事しなくてもいいって言えばいいのに、などの現状の仕事に対する不満もあれば、また別に、あいつらが悪いんだから見つけるまでまたカオスフレアで炙り出せばいい、カルラを浚った爺どもも同じような目に遭わせてやろうか等々の物騒な考えが交互に浮かんでは消え、堪え忍ぶ道を選んだはずなのにそれを滅茶苦茶にするような誘惑ばかりが沸き上がる。
「……けど、けどそれじゃ、ケイに……」
 そんなことをしてしまえば、ケイに合わせる顔がない。いつも過保護で口五月蝿い部分もあるけれど、それだけ甘えさせて愛してくれているとわかっている彼女が昨日、自分が成長したと喜んでくれたのに。
 今回の件がケイの耳に入ればそれだけで彼女は落胆するだろう。真相が第三者によって明らかになってない今暴れてしまえば、失望さえするかもしれない。それは嫌だ。失望された上で面倒を見られるなんてもっと嫌だ。
 ケイの耳には入れば自然ヴァンの耳にも入る。それも嫌だ。失望されたくないと言うよりむかっ腹が立つ。あの朴念仁に気にしていない振りをされて逆に気遣われるのはとても腹立たしい。そんな気持ちも見透かされているから自分から道化になろうとしている人を、罵ってしまいたくなんてないのに。
 二人に伝われば皆にも何となくは伝わる。あの三人にも、ファイルーザにも、生意気なヒトゲノムの女にも――そしてゼロスにも。それは嫌だ。絶対に、どうしても嫌だ。死んだ方がましなくらい嫌だ。
 けれど交代の時間になるまで我慢して、カルラが帰ってくればきっとそれらを知られずに済む。あのお節介なリーザのことだから、自分の姿が見えないことに関して仲間に多くを語ろうとはしないだろう。
 だからブリジッテはひたすらに耐える。カルラの帰還によって真実が明らかになるそのときまで。

 こんなものなのだろうか、とナイヅは眼前の二人の態度を見て思考を巡らせる。
 まあ最初からゼロスが収穫祭に興味がないらしいことは何となくわかっていた。力の制御だけは上手いこのひねくれ者が笑顔で屋台を見て回ったり、お面だの焼きもろこしだのを買い、パレードに歓声を上げたりする姿は脳が拒否するレベルで想像できない。
 けれどイサクまでもが興味がないとなれば――と思いかけたところでナイヅは軽く頭を振る。穏やかな性格の彼であれば、この手の賑やか過ぎる祭りとは相性が悪いだろう。見せ物を観覧するだけの祭りの方が楽しく感じるに違いない。
 しかし二人はナイヅに比べて一応若年のはずである。二桁に手が届く年齢の子どもがいる身分としては、朝から全く会場の方に興味を示す様子さえ見せない男たちにはさすがに不安を覚えた。自分が若い頃の方がもう少し好奇心があったろうに、彼らときたら幾らなんでも枯れ過ぎてやしないかとさえ思う。
「……あんまり飲み食いは、好きじゃないか」
 収穫祭の主体はまさしく食欲を満たすことにある。酒好きだの酒の肴好きだの無礼講の席の雰囲気が好きでもなければそれほど魅力的に見えないかもしれない。しかしどれにもあまり当てはまらないはずのリディアがああも張り切っていたいたのだから、彼らにもその浮かれようが伝染すればいいと思うのだが。
「……まあ、リディアは元々あんなだしな……」
 性格と思えば感染力も低くなる、とナイヅは冷静に受け止めた。
 大体このパーティーは基本的に積極的な女子が多い。そもそも大人しい者は冒険者になんかならないと言う前提はさて置き、あまり騒いだりはしゃいだりする印象がない女性の方が少ないのは事実だろう。大規模な戦時中でさえ明るくマイペースな連中がいたが、それの影響だろうか。
「……ヴァラノワール型、とも言えるのかな」
 召喚された当初からナイヅとは切っても切れない縁どころか逆に自分を取り込んでしまった連中の所属する場所から、そこでしか発生しないガスなり電磁波が精神面に影響を受けているのかもしれない。そんなどうでもいい妄想を始めた男を不気味に感じてきたのか、ゼロスが重い口を開いた。
「何ぶつぶつ言ってんだ、テメエ?」
「……ああいや、悪い。気にしないでくれ」
 電磁波云々をわざわざ説明するのはどうかと思ったナイヅが謝ると、ゼロスもあまり突っかかる気はないようですぐに視線をよそにやった。
「暇なのはわかるがな、薄気味の悪い独り言は止めろ」
「…………善処する」
 薄気味の悪い、は言い過ぎじゃないかと少し心に傷を負ったが、詳しく説明すれば気持ち悪いと断言される恐れがあるため、ナイヅは大人しく頷いた。しかし折角ゼロスに話しかけられたのだからと思考を切り替え、苦笑を浮かべて声を若干張り上げる。
「それにしても……あっちはあんなに騒がしいのにここまで暇とは、この近辺のモンスターは案外大人しいのかな」
「この近辺には大きな巣がないのかもしれませんね」
 イサクもやはり暇だったようで、するりと話に乗ってくる。ゼロスはそんな話題にもさして刺激を受けなかったらしく、大きな欠伸を一つした後に投げやりに言った。
「んなもん知らねえし興味ねえよ……。あぁくそ、こんな依頼受けんじゃなかったな」
「そこまで嫌がるようなことか?」
 ナイヅの問いに、ゼロスはうんざりした顔ではっきりと答える。
「もっと楽しめるもんだと思ってたぜ。一匹ずつの手応えは悪くねえが、数が少な過ぎて逆に体が鈍っちまう」
 そんな気分になるのもまた仕方ないほど、彼らが退治したモンスターの数は少なかった。場所が悪い可能性もあるが、それはそれでゼロスにとっては不愉快なのだろう。
「俺らがこんな調子でも、他の連中が一匹でも取り逃がしちまえばそれだけで終わりだろ? 面倒臭え」
「まあまあ。夜行性のモンスターもいるかもしれませんし」
 イサクの宥めにもあまり大きな反応を示さず、ゼロスは腰を下ろしていた丸太に手をかけて大きく後ろに仰け反る。伸びをしているらしい。
「あー……朝と夜とに分けんだったな……」
 無茶なぼやきに、ナイヅは軽く目を見張る。
「四カ所三名を更に二つに分けるのか? それは無理だろう!」
「三カ所四名を二つに分けても人数的に多少不安が残りますしね……」
 真面目にゼロスの発言について検証する二人に、彼はこちらに上半身を戻してため息をつく。
「んなもん単なる思いつきだ。マジんなんなよ」
「それにしては、随分と感情が籠もっていましたが」
「何だ、ゼロスも収穫祭に参加したかったのか?」
 妙に明るい声音で尋ねてしまったためか、ゼロスが眉間に皺を寄せてナイヅを睨め付ける。怒りではなく疑問の色が強い視線に、彼は曖昧な笑みを浮かべて誤魔化した。
「麦酒が格安で飲めるんだ。酌み交わせる相手くらいは欲しいじゃないか」
 実際にはそれほど麦酒を飲もうと思わないのだが――麦酒腹になるのが怖いなんて口が裂けても言えない――ナイヅがそれらしい理由を話すと、ゼロスは小さく肩を竦める。
「おっさんどもは何でも仲間欲しがるもんだな……。ま、俺は遠慮すんぜ。酔っ払いが多い祭りなんか見る気もしねえ」
「それほど絡まれる見た目じゃないと思うが……」
 ゼロスは見た目だけで言えば同類のチンピラに絡まれそうなこと以外、一般人なら避けて通りそうな外観である。彼自身も酒癖は悪くないし、酒場の席での厄介事は巧く避けている印象の方が強い。そこまで過敏に酔っ払いを回避しなくてもいいのではとナイヅは思うが、微妙に問題点がずれているらしい。
「……完全に外でやんじゃねえんだよな」
「ああ、そうだな」
「羽目外して飲む奴も多いんだろ?」
「そうでしょうね」
「食いモンもいつも以上にたらふく食って麦酒なんざ入れてよ……漏らさねえ奴吐かねえ奴はどんだけいんだ?」
 ゼロスが珍しく真剣に何かを怖れる口調で仮定するのは、まさしく阿鼻叫喚の地獄絵図と言うに相応しい光景だった。仮定を聞かされた二人でさえ一気に胸の悪い感覚に陥ったが、ナイヅは慌てて首を振る。
「いや、ゼロス! 俺の経験上、ボローニャ出身者で下戸なんていないぞ!?」
「浴びるほど飲むんだろ? どっちかの口も緩くなんじゃねえの」
「確かに、よくお酒を嗜まれる方は下しやすいと聞きましたね……」
「それは体質だろ! 生まれつき酒に強い遺伝子……じゃなくて血を引いてる人がここには多いんだから、そんなふうには……!」
「しかも観光客だったか? そいつらも羽目外してテメエの酒量見誤ることもあんじゃねーの」
「それは……けど、わざわざボローニャに来るくらい酒好きならそんなことは……」
「近隣国で興味本位に訪れた方もいらっしゃるのではないでしょうか」
「その可能性は、なくは、ないけど、さ……」
 たじろぐナイヅではあるが、この収穫祭の繁盛ぶりから考えてそこまで汚らしい光景は広がっていないはずだと自分を励まし、この狭い中で急激に下降した収穫祭のイメージ向上を努める。
「しかし、何度もそんなことがあるならここまで賑わっていないはずだ。下のモラルまで忘れるほど酔う人はいないと思うし、ゼロスの言うそれだって手洗い場を近くに設置すれば何とかなる話だろ。ある程度羽目を外す人がいても、酷くはないんじゃないか?」
 だがゼロスにはナイヅのフォローはあまり効果をもたらさなかったのか。いつもより無気力な、遠くを見るような目でぼつりと呟く。
「あー……酷いっつったらあれもいんな」
「あれ?」
「脱ぐ奴」
「…………それは」
 吐くだの漏らすだのに比べればまだまし、と言えるが、まあ他人の裸なんぞあまり見たいものではない。そっちの欲も特に薄いのではと常日頃から疑われているゼロスは、確実にそう考えているだろう。
 ナイヅにとっても見目麗しい女性が脱げば目の毒だし、逞しい中年男性が脱いでもやはり違った意味で目の毒だ。落ち着いて飲み食いができそうにないと見てまず間違いない。
 大体、落ち着いて飲み食いすること自体がこの祭りの空気に合っていないのだ。誰も彼もが浮かれて笑って、楽しく明るく酔っ払うのがここカシナンティーの収穫祭の趣向なのだから、人に過剰に絡まれるのも明る過ぎるのも好かないゼロスが、趣味に合わない祭りと受け止めるのは当然だった。
「ま、まあ……いくら脱いでも変なことはしないと思おう、な?」
「んだよ、結局連れて行くつもりかよ」
「いや……」
 ナイヅとしてはゼロスがあまりにもこの収穫祭に悪い印象しか抱いていないのをどうにかしようと思ったのだが、彼はそう受け止めなかったらしい。
 しかしその割に妙に目が面白がっているような気がして、ナイヅは笑顔を浮かべながらも本能的に腰に力を入れる。退屈を極めた状況だからか、懐かしくも嫌な予感がした。
「どうしても一緒に来いってんなら、まあ行ってやらねえこともねえ」
 譲歩した物言いなのにどうして立ち上がってあの馬鹿長い銃身のリボルバーカノンに手をかけるのか。そう思っているナイヅもまた傍らに置いてあった無双風獄に手をかける。一応この動作は保身宜しく防御のためである。彼自身は決して喧嘩を売る気などない。そう、彼の方は。
「ただし!」
 ゼロスが緩慢な動きから一転、瞬く間にナイヅに駆け寄りその鼻面に銃口を向ける。だがその指が引き金を引くより先にナイヅの大剣が無駄なく動き白銀のバレルを弾いて軌道を反らす。
 反らした瞬間に銃口から数発物騒な光りが小火山さながらに噴き上がると、その衝撃を刃から全身に受け歯を食いしばるナイヅに、ゼロスは高々と笑った。
「テメエが俺に勝ったらな!」
 こうなるとはつい数十秒前まで思っていなかったナイヅは、ゼロスから大きく距離を取ってから悲鳴を上げた。
「そんなつもりはない! ゼロス、お前暇だからって喧嘩売ってないか!?」
「当たり前じゃねえか」
 ――否定してくれ! そう叫びたくなっても今はその暇さえない。またこちらに銃口を向けるゼロスが目に入ったナイヅは何も考えず近くの茂みに飛び込む。彼がいた場所に小さなクレーターが幾つか出来たが、幸い彼は無傷で隠れられた。
 しかし隠れてもじっとはしていられない。ナイヅは中腰のまま彼らがいた空き地周囲をぐるりと走り、声を張り上げる。
「イサク、何とか説得してくれ!」
「あんだ、テメエもあいつ側に加わるか?」
「いえ、さすがにそんなつもりはありませんが……」
 ちょっとは頑張ってくれ。心の中で叫ぶナイヅに、まだイサクの声が続けて聞こえてきた。
「……ナイヅさんが分身でもしない限り、不自然なところから物音が聞こえたように思うので」
 その一言に、ゼロスから放たれていた殺気が消える。ナイヅもまた足を止め空き地にいる二人の方に目を向けると、イサクは真剣な表情で不自然な音が聞こえたらしい茂みの方を見ていた。丁度今の彼からは正反対の位置に何かが近付いているらしい。時計回りに走っていた彼がそこにたどり着くのはもっと時間が必要だ。
 二人が自分と同じところを注目しているとわかったのだろう。イサクは口元だけ微笑を刻みながら今も微かな物音を放つ茂みを注視する。
「……喧嘩をなさるなら、まずこちらを調査してからにして頂けませんか」
「仕方ねえな」
「いや止めてくれ」
 喧嘩を前提にされて情けない顔になったナイヅだが、全身の力は抜ききっていない。それはリボルバーカノンを肩にやったゼロスもまた同じである。
「……ま、俺らはこっちが本業だ。優先するもんはしておかねえとな」
「そう言うことです」
 不敵に笑うゼロスに、イサクもまた印象に差があるものの似たような笑みを作る。そうして三人が見守る中、茂みが一際大きな音を立てた。
 生き物の気配を感じさせる不自然な揺れに、ゼロスの瞳が爛々と輝く。
 お出ましだ。そう、彼の唇が薄く形作った。

 恐らくに足下が崩れ落ちる感覚を人生で初めて味わったエトヴァルトは、次に放心状態と言うものもまた味わっていた。
 しかし傍目から見ればエトヴァルトの反応は単なる硬直に過ぎない。顔面から血の気が失せても軽く俯いていたし、長髪ゆえ顔を覗き込まない限り変化など知りようもない。
 だから、他の三人がエトヴァルトが受けている衝撃の激しさに気付かないのは当然だった。反応らしい反応と言えば、押し黙った彼をちらと見て、ゼレナが軽く肩を竦めるくらいだ。
「ま、あの子はどう思ってシロに誑かされたのかは知らないけど、そこまで気にするようなことでもないんじゃないの。あいつも悪巧みはしてるみたいだけど、ヘルメスをはめようなんて思っちゃいないでしょ」
「ほーほー。ゼレナがそーゆーこと言うと、やっぱり説得力が違うなあ」
 リディアから受けたお仕置きも忘れてアルがけたけた笑うと、ゼレナが苦い顔で少年を睨み付ける。
「……アンタ、ほんっと口の減らないガキよね。デューザにそのよく回る舌、半分くらい分けてあげなさいよ。なんなら、あたしが切り取ってやってもいいけど?」
 凄んだ笑みを作ろうとするゼレナだが、生憎今は鎌もないし、アルに比べて物理面で非力でもある。彼女に負ける気がしない少年は、挑発するように歯を剥いて見せた。
「やるなら付き合ってやるぜ? 大体それだと、デューザの舌も切り取らなきゃなんないと思うけどさ」
「ばっかねえ。あんたの舌だけ切り取って渡してやるだけよ。交換なんて誰も言ってないでしょ」
「屁理屈だぞそんなの!」
 早速子どもの口喧嘩になりつつある展開に、彼なりに思うところがあるのか今まで黙っていたデューザが急に重い口を開いた。
「ゼレナ、イサクは東にいる」
「あら、そうなの? 助かったわ〜、さすがデューザね!」
 イサクの話題にしっかり釣られ、鮮やかにゼレナが身を翻す。女がころりと態度を豹変させるさまを眼前で目撃してしまったアルは、やや退き気味にぼやいた。
「……来たときはデューザのせいでとか言ってたくせに」
 ゼレナが羽を使って空から降りてきたとき、自分たちを見つけるや否やそう叫んでいたのを、アルは確かに耳にしている。
 何でもゼレナは朝からずっとイサクを探していたそうだが、羽を広げる余裕さえない人波に巻き込まれ、随分往生していたらしい。そこでヘルメスに助けられようやく羽を使って移動できるようになったはいいが、愛しの天使がどこにいるのかわからないため知っている感覚便りにここまで来たとのこと。その感覚の先が即ち、デューザなのだが。
「う、うるさいわね! あたしはアリアみたく感知なんて得意じゃないんだからしょうがないでしょ!?」
「はいはいっと」
 奸計が得意とは本人の談だが、ゼレナはどうやらアルの弱点を責めない――否、知らないらしい。少年は油断しきって手をひらひらと振り余裕風を吹かせる。
 生意気なアルの態度にゼレナは面白くなくぶすっと頬を膨らませるが、もともとここに長居する理由はない。視線を思い切り反らして、肩を剥き出したブラウスから覗く羽を広げる。
「ま、デューザに免じて今のは見なかったことにしてやるわ。それじゃ……」
「待って下さい」
 エトヴァルトの焦った声に、ゼレナだけでなくアルも思わず彼の方を向く。緊張感漂うその表情は、彼らの予想以上に思い詰めているようだ。
「……な、何よ。言っておくけど、ヘルメスと会ったのは嘘じゃないからね」
「疑うつもりはありません。私が聞きたいのは、ヘルメスをどこで見たか、どこに向かったかです」
 まるで今からそこに行くつもりのようで、ゼレナは後ろめたいながらも口を窄める。
「ちょっ、ちょっと……そんなこと聞いてどうすんのよ。あんた、探しに行こうっての?」
 それは許されるはずがない。話に割り込む気がなかったはずのアルでさえ眉間に皺を寄せる仮定に、しかしエトヴァルトは冷静に話題を変えた。
「……ゼレナさん、今、何時かは知っていますか?」
「知らないけど……今は関係ないでしょ?」
 警戒心を露わにしたゼレナに、エトヴァルトは余裕の笑みさえ浮かべて胸ポケットから取り出した懐中時計を開く。それから、勝利宣言さながらに高らかと現時間を声に出す。
「……三時五十分ですよ。今からあなたが全速力で東に向かっても、交代の時間には間に合いません。ゼレナさん、あなたは今から担当の天幕に向かうべきです」
 エトヴァルトの指摘にゼレナは大いに動揺するが、それでも諦めが付くはずがない。狼狽えつつも、必死に自分の我を通そうとする。
「け、けど……天使さまとは朝からずっと会ってないんだもん!」
「理由になっていません。彼も約束を破るあなたと会ったところで、喜びはしないでしょう」
「な……何よ!」
 冷静に断言するエトヴァルトに、ゼレナの顔が怒りで急激に赤くなる。アルに舐めた態度を取られても本気で怒りはしなかったはずの彼女が、素早く唇を動かしダーク・レイを青年に向かって放つ。
 しかしそれを悠長にエトヴァルトが食らうはずもなく、愛剣を媒介にした魔力の障壁で弾くと、続いて小石が彼の顔に飛んできた。そちらは予測していなかったため、頬に掠ってしまう。
「……っ!?」
「あ、あんた、むかつくわ!!」
 その言葉と小石を投げ捨てて、ゼレナは蝙蝠のような羽を羽ばたかせ来たときとは反対に空に浮かび上がる。それから三人を振り向きもせず、あっと言う間に東へと飛び去った。
「…………」
 再び三人になったエトヴァルトたちは、ゼレナが向かった方向を何とはなしに眺める。彼女がどちらを優先するのかはもう決まっているが、去り際の表情がどうにも非難し難くて、アルは片頬を掻いた。
「あのさ、エトヴァルト。あんまり、正直に言い過ぎるのは……」
「ええ、私の悪い癖ですね。反省しています」
 頬を流れる血に触れながら、エトヴァルトも何とも複雑な表情を浮かべる。彼の目論見としては、見逃す代わりに教えてもらう展開にしたかったのだが、どうやら急所を的確に突き過ぎてしまったらしい。
「……ああ、いけませんね」
「へ?」
 子鹿の皮手袋に付着した血と頬に張り付く血を見せながら、エトヴァルトはアルに向かって微笑んだ。
「血を洗ってきます。滲ませてしまうとなると、後が大変なので」
「あ、うん。わかった」
 会釈して二人に後を任せたエトヴァルトではあるが、彼がここに戻ることはもう二度となかった。

「アデル見ーっけ!」
「わっ!」
 やたら明るい声と急に背中にのしかかった何かがいる背後へと顔を動かせば、視線の先にはおおむねの予想を裏切ることなく同級生兼親友リディアの笑顔があった。
 そんな気はしていたが反省の様子もない表情に、呆れとも怒りとも悟りともつかない感情が沸き上がったアデルは開口一番どう言うべきか迷い――それより先にリディアが浮かべていた笑顔の種類を意地の悪いものに化けさせてしまう。
「へえ〜。こんなところで餌付けとか、アデルにしては絡め手じゃん」
「な、何言ってるのよリディア!」
 アデル以外の二人が差し入れをすっかり食べ尽くした光景を見ての一言に、別に狙ったわけでもないのに妙に動揺してしまい、アデルは内心後悔する。しかしその点に関してはここには幸いフォローが巧みな人間がいる。天にも縋る思いで視線を彼に送ると、彼女の意思を受け継いだと言わんばかりにレ・グェンが親指を立てた。
「おいおいリディア、アデルが餌付けしてでも気を引きたい相手は俺たちじゃないだろ」
「なっ!?」
「あ、そっか」
 フォローのはずなのに逆に逃げ場を封じられたような庇われ方に、アデルはますますもって動揺する。しかし彼女が窮地に立ったところで、小さな救い主が立ち上がり眉をきっと引き締めた。
「お二人とも、アデルさんをからかわないでください! 遊び半分で苛めるなんて、大人げないですよ!」
「ノエル……」
 ようやく自分を真っ当な意味で庇ってくれたノエルの毅然とした態度に、アデルは大げさな意味でなく涙腺が緩む。しかし、リディアのペースは崩れはしない。
「なるほどなるほど、これが餌付けの成果ね……」
 アデルの耳元だけに入るよう呟くと、リディアはぱっと彼女から手を離して普段通りの笑顔をノエルに向ける。
「やーごめんごめん。アデルをからかうのはあたしの生き甲斐みたいなもんだからさ〜」
「い、嫌がらせを生き甲斐にしないで!」
 アデルはさっきの発言もあって半ば本気で辟易するが、それこそリディアは気にも留めない。自分の逆鱗を熟知している人間は実に厄介だと、彼女は吐息をつきたい気持ちになった。
「アデルさんの言う通りですよ。リディアさん、そんな意地悪な人になっちゃだめですからね」
「だいじょーぶだって、アデルもわかってるもん」
 ノエルはノエルで真面目且つ善良な説教を貫くので、本当の意味でリディアが反省する流れにはなりそうにない。しかしこの少年にそこまでの働きを背負わせるのは酷な話だ。
「……それでリディア。あなた一体どこにいたの? アリアは?」
 再びリディアに場の空気を支配させると埒が開かないので、アデルは肝心なことを速やかに尋ねる。だがアリアの居場所を知らないのはリディアも同じらしく、困った顔で首を振った。
「あたしはちょっと屋台覗いててはぐれちゃったから、アデルとアリアが一緒にいるんだと思ってたんだけど……。どうも違うっぽいね」
「ええ。それでも時間になったら例の場所に行ってくれるといいんだけど、ちょっと気になるのよね……」
「んん?」
「何か、あるんですか?」
 暗い顔でアリアを案じるアデルに、リディアとノエルが目をきょとんとさせる。
 黙っても喋っても解決するような問題ではないだろうが、自分一人で抱え込むよりは冷静な判断が生まれてくるかもしれないと思ったアデルは、やや重々しく皆に告白した。
「あたし、アリアにまだ集合場所教えてなかった気がしてて……」
「ええ!?」
「おいおい、大丈夫なのか?」
 静観していたはずのレ・グェンでさえも不安の声を漏らすが、それで大丈夫と気安く言えるほどアデルは楽天的ではない。深刻な表情のまま、ゆっくりと首を横に振る。
「あたしが言ってないだけだから、他の人に教えられたかもしれないけど……多分、知らない可能性のほうが、高いかなって……」
 アリア一人で収穫祭を楽しむなら誰かがいざと言うときのため教える確率は高い。だがリディアやアデルと一緒に行くとなれば、仲間の女性陣は彼女たちに必要な情報を教えるだろうと仮定し任せるだろうから、まず教えていない可能性の方が高い。
 そう考えるアデルに、リディアも真剣な表情で腕を組んだ。
「うーん、まあそう考えた方が色々考えて予測が立てやすい、かな?」
「そうですね。アリアさんは遅れてくるって、他の人たちに伝えておかないといけないと思います」
 ノエルの発言に、アデルも大きく頷き同意する。
「遅れるって伝えるにしても直前じゃ駄目だから、早く伝えておかないと」
「そんじゃ、今からでも行った方がいいのかな? て、今何時?」
 慌てて周囲を見回すリディアだが、近くに時計らしきものはないし、日の位置で大体時間がわかるような知識もない。念のため時計を腰にぶら下げていたレ・グェンが、何とも神妙そうに告げた。
「……今は三時十五分だな。また微妙な時間帯だが、どうする?」
 訊かれた二人も確かに微妙な時間帯だと思って長いこと唸り声を上げていたが、結果としてアリアに担当の天幕を教えなかった自分たちが悪いと思うことにした。彼女自身に何の落ち度もないのは確実なのだ。であれば自分たちが失態を犯したと受け止める以外にない。
「……行こっか」
「そうね。アリアが来れない分は、あたしたちが時間でカバーしましょ」
 それが最善策だろうと判断した二人は、お互い納得した上で行動に移す。
「それじゃあ、二人とも、ちょっと早いけど……」
「ばいばーい」
 手を振って会場側へと歩き出す少女二人に、残された少年と男もまたそれ別れの挨拶を返す。
「おう、頑張ってこいよー」
「あの、差し入れ、本当にありがとうございました!」
 丁寧に頭を下げるノエルと軽く手を挙げるだけのレ・グェンの仕組んだかのような対比に、少女たちは軽く笑ってから顔を見合わせる。そのまま茂みの中に入ってしまうと、二人の姿はすぐに見えなくなった。
「……そう言えばリディア。あなた、どうしてここに気付いたのよ」
「どうしてって何の話?」
 実に不思議そうな顔のリディアに、アデルは吐息をつきつつ説明する。
「普通、こんな見通しの悪い場所だと人を捜すのなんて難しいでしょう? モンスターだっているくらいなのに、どうして……」
 補足説明を受けてああ、と声をあげたリディアだが、迷いのない顔でさらりと言ってのける。
「勘? 適当に歩いてたら、そのうちわかるし」
「……勘って……よくそれで今まで無傷でいれたわね」
「えーそんなもんだよー」
 唇を尖らせるリディアに呆れた眼差しを送るアデルは知らない。彼女がアデルを見つけるまで訪ねた他の三ヶ所も全て勘で辿り着いたことも、またそれまで彼女は一度たりともモンスターに遭遇しなかったことも。
 それがリディアなる少女の強運が齎すものなのか、それともまた違った理由があるのかも、またアデルには知る由もなかった。

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