Durst Polka

くれ

 シオラは裏方に入って回収してきたジョッキを流し近くに置くと、一呼吸分跳躍して樽に行きジョッキを手前から順にかっさらう。獣の手はもともと人の手よりも多くのものを掴めて便利だが、それも間に合わない今となっては更にそのジョッキの上にも幾つかなみなみ麦酒が注がれたジョッキを置いた。最初はこの方法に冷や汗を掻いたが、さすがにこのやり方を数十回もすると嫌でも慣れる。
 大体、裏方に入って以降の一連の動作自体を百数十回以上はこなしているのだ。シオラの動きには既に迷いも確認もなく、身体が覚えているような状態だった。
 そうやって裏方に一分もいないうちに表へ出ようとしたシオラの肩を、誰かが軽く叩く。脳内麻薬が放出されている域に達していた彼女は、何かを思う暇もなくそちらを向いた。
「誰」
「シオラさん」
 相手とほぼ同時に声を発したシオラは、自分の肩を叩いた人物がケイだと気付くのに数秒を要した。別に女の格好のケイに戸惑ったわけではなく、ケイがここにいる理由がわからなかったのだ。
 どうしてと尋ねるより先に、ケイはシオラに労いの笑みをかける。
「交代の時間になりましたので、シオラさんはそれで最後にして下さい。お疲れさまでした」
「へっ?」
 目を丸くするシオラに、ケイは律儀にも同じ台詞を繰り返す。
「交代の時間になりましたので、シオラさんはそれで最後にして下さい」
「……え、ほ、ほんとに? もう?」
「はい、もう四時を過ぎていますから」
 ケイの顔を食い入るように見つめても、そこから嘘偽りの匂いはしない。そこでようやくシオラは、随分麻痺させていた心の動きをようやく笑顔を浮かべることで再開させた。
「や、……やったぁああ―――! っとと!」
 ジョッキを掴んでいる手で万歳は危険と判断し、シオラは尻尾を激しく揺り動かすことで喜びを示す。まあその顔は労働の汗と歓喜に十分喜んでいるとわかるのだが、生憎今の彼女は鏡も見れない。
「え、え、もう飲んでもいいのっ!? いいのっ!?」
「シオラッ、さっきからうるさいわよっ!」
 怒号を発したブリジッテが、洗い場から姿を見せる。彼女もまたシオラと同じく夕方まで働いていたはずだが、持ち場を離れていると言うことはつまりそうなのだろう。
「はい、引き継ぎ作業はしなくていいはずですし……。お好きに飲んで下さい」
「うんうんうんっ! そうするー!」
 ジョッキを十五個近く持っているにも関わらず、羽のように軽い足取りでシオラは表へと向かう。
 感情を取り戻した目で客席を眺めると、朝方まだ身体にも余裕があったときとは比べものにならないほど混雑していた。
 混雑だけならまだいい。全裸になって騒いでいる者もちらほらいて、更にそれを咎めるどころか腹を抱えて笑っている者さえいる現状に、シオラは辟易する。普段から露出の高い彼女だが、さすがに裸は嫌だし異性の裸もあまり見たいものではない。それも戦士として鍛えられた肉体ならまだしも、麦酒腹の中年親父だの、遊んで暮らしてきたような青年の油断しきった体などは見るに耐えない。
 思わず顔を笑い声から背けて鼻をひくつかせると、麦酒と煙草と脂っぽい食べ物の臭いに、生温かいヒトの体臭や胃液らしいものの臭いも混じり合った、実に顔をしかめたくなる悪臭がした。しかし天幕の壁を一部解放して風通しを良くしているためか、濃度はさほど酷くはない。場所によっては全く悪臭を気にせず飲食ができるくらいだろう。そう考えれば、今の時間帯の食事もあまり悪いものでもないのかもしれない。
「……け、どー」
 まあそれはシオラのように今から自由行動ができる立場からの観点であり、今のこの状態で働くのは少し難しい。突き詰めて仮定すれば、吐瀉物が残された現場でも全裸男がいるところでも、呼ばれてしまえば麦酒を配らねばならないのだから。
 借り衣装を汚されませんように、と他人事ながら今から働く仲間たちを心の奥で案じたシオラは、最後の給仕先に着くと大声を張り上げた。
「へいお待ちぃ!! 麦酒、15人前だよー!」
 既に名前も顔も覚える程度に見知ってしまった男たちがいる一角に麦酒を見せると、やんやと歓声が上がる。
「待ってたぜーシオラ!」
「俺、これな」
「泡! 泡多いのどれだ!?」
「それこっち……! おう、すまねえ!」
「ありがとー!」
「そっち回すか?」
「ったくー、こいつにもう酒渡すな!」
 慣れとは恐ろしいもので、十人近くが一挙に押し寄せてきても、シオラは悠々とそれをいなし、交わし、捌いてしまえていた。これなら敵味方入り交じっての乱戦でも平気になったなと変なところで自信を付けていると、顔見知りの一人が彼女に話しかける。
「シオラ、忙しいんだろ? そんなぼうっとしてていいのか」
「うん、もううちのお仕事これで最後だし」
 シオラの返答に、また別の顔見知りがにゅっと顔を出してジョッキを掲げる。
「おうおうお疲れさんだな! そんじゃお前さんも一杯どうよ!」
 麦酒を勧められるのは嬉しいが、さっきまで自分が運んでいたものを直後に譲られてシオラは何とも言えない気分になった。だがそんな彼女の心に気付きもしない笑顔を浮かべる男たちを見てしまうと、文句を言うのも遠慮をするのも憚られる。となれば、取るべき道は一つだ。
「……じゃ、じゃあ貰うね!」
 ここに至るまで十分なほど喉は渇いていたし、アルコールには強い自信がある。故にシオラはジョッキグラスに口を付けると、そのまま一気に黄金色の酒を喉の奥へと押しやった。
「おっ、いい飲みっぷりだねえ!」
 囃し立てる声が聞こえるが、シオラはそれに反応する余裕もなく目を見開いたままジョッキを煽る。麦酒なんてものは苦くて喉越しがいいだけの安い酒のはずなのに、どうしたことか今の彼女にとってはたまらなく美味だったのだ。
 口に含むだけで弾ける炭酸の刺激に、麦酒独特のハーブの苦みが妙に爽やかで旨い。更には喉を通っていく感覚も気持ち良く、喉の動きが止められない。普段好んで飲む甘い果実酒や糖蜜酒とは全く正反対の、力強くも爽やかな喉越しにシオラは抗うこともできずに魅了されてしまった。
 不思議に思いながらも巨大なジョッキ一杯分を飲みきってしまったシオラは、大きく息を吸うと何故か喝采を浴びた。
「一気たあ豪快だね、シオラちゃん。もう一杯どうよ?」
「何だ、なかなかの飲みっぷりじゃない!」
「……え、へへへ〜。そうかな?」
 お代わりをさっきジョッキを渡してくれたのとは別の誰かに貰って、今度は少しずつ味わおうとする。すると今度は、また別の誰かが皿を差し出したり席を空けてくれた。
「立ちっ放しで飲むのもおかしいじゃねえか。こっち座れよ」
「働き詰めてたらお腹減くでしょ? このベーコン、麦酒とよく合うよ〜」
 どちらの誘いもありがたく受け、シオラは分厚いベーコンとチーズが交互に刺さった串と麦酒を楽しむ。椅子に座り喉を潤すだけでも十分なのに、同時に脂っぽい塩辛さときりりとした苦さを交互に味わう現状は、生まれてきたことを感謝したくなるほど幸福だった。
「はあ〜。働いた甲斐があるねえ、こりゃ……」
「あるだろうなあ、シオラは頑張ってたしよお」
「ま、どんどん飲みな! 俺らが奢ってやるからよ!」
 豪快に笑う声を聞くと、そちらを向いてシオラは不敵な笑みを宿す。今、彼女はただの一般客だ。仕事中と違って酒を回避する必要性は欠片もないのだから、その提案にも遠慮なく甘える。
「言ったね? じゃあとことん飲ませて貰うから、覚悟しなよ!」
 シオラに奢ると宣言した猿人のハーフは、彼女に負けじと勇ましく胸を張って言い返す。
「おうよ、吐くまで飲んでも構わねえぞ!」
 しかし決め台詞は純粋に勇ましいなど到底言えず、シオラと隣の人間からややも呆れ気味に突っ込みが入る。
「そりゃもったいないっての」
「女の子に汚らしいこと言わない」
「んっ……!?」
 厚い胸板を両方から勢い良く小突かれて、不意に男は大きくバランスを崩す。人間の血が入っているとは言え上半身の方がずっと重い彼の体は、バランスを取り戻そうともがく間もなく背中から転げ落ちた。
「ぉお……う!?」
 土埃さえ立ち上がらせる小落下に、シオラも含め周辺の人々は唖然としたものの、次の瞬間にどっと笑い出す。酒の力が場を強く支配しているためか、皆の表情に陰湿さはなく、このアクシデントが心底おかしいと心の底から思っている笑顔だ。
 椅子から転げ落ちた男は照れ笑いを浮かべ立ち上がると、そこらに置いてあった麦酒のジョッキを天高く掲げて、自分の失態を誤魔化すように大きく一声。
「シオラお疲れさん! 乾杯!」
「かんぱぁい!」
 その声が掛かるとついついシオラも嬉々としてジョッキを掲げ、麦酒を仰ぐ。だがその酒が少しずつ味わおうと思っていた二杯目だと気付いたのは、やはりジョッキを空にしてからだった。


 ゼロスは憮然とした表情で、対面する丸太に腰を下ろした少女を見る。本人としては見る程度だが、彼女にとっては睨まれている、かもしれない。まあどうでもいい。
 茂みから出てきたのがこの少女だった件はとても残念だが、八つ当たりが建設的でないことくらいゼロスにだってわかる。だから開口一番、彼は単刀直入に尋ねた。
「んで、なんでテメエはここまで来てんだ」
 問われたアリアは不可解な謎に辿り着いてしまった表情で、真剣に首を横に振る。
「……ワタシにもわかりません。集会所の方を目指していたはずなんです」
「あそこは南西にあったはずだな」
「そうなんですか? それじゃあ、今はどの方角に……」
 まずそこから教えねばならないのか、と内心頭を抱えたくなったナイヅだが、彼より正直なゼロスがうめき声を漏らして頭を抱える。
「……東だ。つーか、なんで南西目指して東に来んだよ。しかもお前、林の奥から来やがったよな?」
「そのう……色々、迷ったからでしょうか」
「普通に迷ってここに出るのはおかしいと思うんだが……」
 ナイヅもゼロスほどではないにせよやや呆れ気味に呟くと、アリアは眉を八の字に歪めて俯いた。
「最初、ただ大きな道をぐるぐる回っているだけになっちゃうと駄目だと思ったんです。……だから、まずは林の方へ行って、外から広場を常に視界に入れるかたちで歩いていけば、いつか集会所が見えると思ったんですけど……いつの間にか、広場が見えないところまで行ってしまったようで」
 どうしていつの間にそんなところまで行くのか全く想像できないが、追求しても何の得にもなりはしまい。そう自分を制するゼロスの後ろから、イサクがこちらは普段と変わらぬ調子でアリアに尋ねた。
「それで、人の声を頼りにここまで来られたと?」
「いえ。あの、懐かしい気配を頼りに……」
「それ止めろ。あと方角覚えろ」
 ゼロスのもとに来た理由がヒトゲノムの血頼りと明かされ、彼は大きく肩を落としてアリアに命ずる。命令にしては妙に切実で親切だが、当の少女は暗い顔で畏まった。
「……そう、したいのは山々なんです。けど、服と一緒にコンパスも置いてきてしまって……」
 しょぼくれたアリアを見て同情したのか、発言に納得したのか。ナイヅがさっきとは打って変わって明るい調子で彼女をフォローを始める。
「それじゃあ仕方ないな。いざと言うとき以外に使ってないならいいじゃないか、ゼロス?」
「あん?」
「ああ、アリアさん。リディアさんが数時間前にこちらに来られましたよ」
 ゼロスから鋭い視線を受けるナイヅがぎこちない表情になるも、二人を丸々無視したイサクが微笑を湛えて話を反らすと、アリアは予想外なほどに食い付いてきた。
「本当ですか!? あれ……え、と、リディアさんだけなんですか?」
 首を傾げるアリアに、ナイヅもまためかしこんだリディアと会ったときのことを思い出しつつ説明する。
「リディアもアデルとはぐれたらしいんだ。それで見てなかったかって訊かれてさ」
「ついでにリディアさんたちが担当される天幕の宣伝もしていかれましたね」
「ど、どこにあるって仰ってました!? あ、あと今何時かわかります!?」
 半立ちになってまで尋ねてくるアリアに、イサクとナイヅは軽く視線をかち合わせる。彼女の反応を見るに、彼らの予想はほぼ同じものらしい。つまりそれは、結託の機会でもある。
 軽く共犯者のように口元を緩めた二人を見ていれば、ゼロスは何かしら予感を覚えて警戒しただろう。だが不幸にも二人に背を向けている彼が見たものは、不思議そうに目を瞬いているアリア以外になかったのだ。
「今は、三時……四十五分くらいだな」
 皮紐付きの小型の時計を腕に巻いたナイヅが告げてやると、アリアが顔を青くして立ち上がる。リディアの話していた交代時間は四時のはずだ。天幕の場所によっては遅刻してしまうだろうから、その反応はわからなくはない。
 だが場所を覚えていたイサクはいつものように慌てず狼狽えず、でアリアに天幕の場所を教えてやる。
「……確か、南東辺りの天幕だと伺いました。ところで、アリアさんは、アデルさんたちの気配を察知できますか?」
「コンパスもなくて、ここから南寄りってわかるかい?」
 不安を煽っているようにも聞こえる二人の気遣いに、アリアは泣きそうな顔で首を横に振る。しかしそれと同時に彼女の髪を飾る白い野の花がふわふわと揺れるためか、どうにも緊張感が伝わってこない。
「それに、人混みをかき分けながら南東を目指すのは……」
「小柄なアリアさんでは、少々難しいかもしれませんね」
「そう……なんでしょうか……」
 最早涙を零すのも時間の問題かと思えるほどに顔を歪めるアリアを、そこまで深刻に考える必要があるのかとゼロスがぼんやり眺めているその時だった。彼の双肩にあくまで軽く、しかし原因不明の重みも感じさせる手が伸し掛かったのは。
「はは、そこまで悲観的になるのはまだ早いんじゃないか。なあ、ゼロス?」
「そうですね。誰かが案内すれば、アリアさんもきっと安心なさるでしょうしね、ゼロスさん?」
「……あ?」
 何故自分の肩に手を置きながらそんなことを言い出すのか、とゼロスが疑問に思うより先に、捨てられた子犬のように潤んだ赤茶の瞳が彼を真っ直ぐに捉える。
「……ゼロスさん?」
 アリアの反応にようやく嫌な予感を覚えたゼロスが背後の二人へと振り向くも、時既に遅し。純粋な力での勝負事ならまだ勝ち目はあるが、彼が舌戦に勝てるのは率直な言葉が利く相手だけだ。しかし敵は揉め手絡め手は得意の上に結託しているのだから、勝算は笑えるほどに低い。しかし、彼は諦めの悪い性格でもある。特にこんな、面倒なことを押し付けられそうな局面では無駄とわかっていても粘り強くなる。
「てめえらのどっちかが連れてけ。俺はここで待っててやっからよ」
「いえいえ、私はこの通り、羽がありますから人混みの護衛には向いていませんので」
「俺も、うちの娘より大きい子はどう接すればいいのかわからないし……」
「今まで余裕で接してたじゃねえか!」
 ゼロスが思わず立ち上がり怒鳴ったところで、二人は肩を竦めたり怯えるほど肝は小さくない。それどころか余裕綽々に言い返してくる。
「そうだな、ちょっと格好付けてたな。正直に言うと屋台やここの民族衣装なんかに気が引かれてアリアとはぐれる可能性が高いから、遠慮する」
「んなもん、いい年して……!」
「ゼロスと違って俺は収穫祭に興味があるんだから仕方ないだろ?」
 開き直って言われると憎たらしくて仕方ない。自分も同じ言い訳を使えないのが尚更憎たらしいが、後悔しても事態は好転しない。だがそれでも諦めきれないゼロスに、予想外の方向から追撃が訪れた。
「……ゼロスさん、ワタシからもお願いします」
「ぁあ?」
 柄の悪さがにじみ出る睥睨を受けるも、アリアはぐっと堪えるように視線を逸らさず必死に懇願する。
「ゼロスさんと一緒なら、最悪人混みの中ではぐれても、ワタシもしっかりしなきゃってなると思うんです。イサクさんもナイヅさんもお優しい方だから、甘えてしまうかもしれなくて……」
「…………」
 ここに来て日頃の行いが物を言う展開になるなどと誰が思うだろう。今までのナイヅとイサクの説得よりも追い込まれた気分になったゼロスの背後に、やはり企むような笑みを宿した二人が気軽に止めを刺してくる。
「まあそう言うことらしいから頼んだ、ゼロス」
「ここは依頼を受けたと思って付き添うのが適切かと。アリアさん?」
「はっ、はいっ!」
 アリアもどうしたことかこの場はちゃっかりと空気を読んで、可愛らしいがま口財布をゼロスに差し出してくる。
「あの、このお金全部で、お願いします!」
 依頼金として差し出した財布は細かい銅貨や銭でぱんぱんに詰まっており、どうにも分厚い金貨銀貨の類があるようには見受けられない。そんなものを受け取ったところで二束三文になるのは目に見えているが、アリアの表情は足元を見ているつもりなど更々感じない。
 アリアの気迫とどうあっても自分に押し付ける気満々の年寄りどもに一気に脱力させられたゼロスは、花柄の財布を手で突き返してのっそりと丸太を跨ぐ。
「……そんなもん邪魔なだけだ。金はいらねえから黙って来い」
「はいっ!」
「いってらっしゃい、お二人とも」
「まあのんびり行ってくれ。こっちもそうするからさ」
 喜びに充ち溢れた返事をするアリアに、ナイヅとイサクの二人はそれはもう清々しい笑顔で手を振る。一人仏頂面のゼロスはますます面白くない心境で、アリアが来た方角とは正反対の茂みへと足を踏み入れた。

 気の向くままに足を向けるのは案外気持ちの良いことで、基本的に人気がない場所ばかりに行っていたヘルメスとしては、丁度都会の人間がペトゥン辺りの深い森に足を踏み入れる感覚と似たような新鮮味を味わっていた。
 しかし都会の人間が森に慣れていないのと同じく、ヘルメスもまた人でごった返す祭りの会場なんてものには慣れていない。小さな身体に有り余るほどの体力を持ち、小さな体を活かした素早さを身に付けた彼女であっても、さすがに一時間もしないうちに疲れが見え始めていた。
 そうなればとっととカルラを見つけてしまいたいところだが、不幸にもヘルメスはゼレナが教えてくれた天幕の場所など記憶からさっぱり抜け落ちており、場所を覚えているはずのシロもいつの間にか落としてしまった。ターバンの中でだらしなく少女に指示を与えるだけのヒヨコ虫にとって青天の霹靂だろうが、彼女は特に危機感を持たないので気付いたときから探していない。――シロと一緒にいないときの方が好き勝手に動けて気持ち良く思い、それまで抱いていた感情を『鬱陶しい』だと彼女が理解するのは随分先のことである。
 それはさて置き。ようやくカルラを見つけたくなったヘルメスは、すぐさま人が避ける大きなごみ箱の前まで足を踏み入れると、そこで意識を集中させる。昼から今の時間まで蓄積された生ごみの刺激臭が酷いが、それですら彼女は気にせず目を閉じた。
 ヘルメスはアリアほどに同種の察知に優れている訳ではない。だがエトヴァルトの気配は察知し慣れているし、同じ四源聖のカルラも要領は違わないと知っている。だから目を閉じて、瀧のイメージを頭に強く描けばそれで良かった。それと同じような印象の魔力を持つ人物がいる方向が、自ずとわかってくるからだ。
 目を静かに見開いたヘルメスは、感覚を頼りに一直線にそちらへ向かう。幸運にも複雑な思考を持ち合わせておらず、第六感と魔力の感知で体を動かすことに慣れているからこその芸当だが、そんな理屈など彼女の知ったことではない。ただ出来るからやる、それだけだ。
 そして辿り着いた先は、シロから聞いていたイメージと違った天幕だった。野宿のときのようなのより更に大きな天幕に椅子やテーブルが沢山あって、人もそれに相応しく沢山いるだろうと思っていたのだが、今ヘルメスが目にしている場所は広く開放的だが、天幕の周りに漂う刺激臭がいけないのか、人が極端に少ない。入り口には机と椅子が置かれているがその隣には洗面器だのタオルだのが設置され酒場の雰囲気にはどうも見えないし、その奥は衝立で隠されている。衝立の向こうには複数人いるらしいが、うんうんと唸り声が聞こえてくるからどうも飲食をしているとは思えない。
 それにこの付近は先までヘルメスがぶらついていた辺りとはまた違った雰囲気に包まれており、人通りも少なく浮かれた人も更に少ないし、隣の天幕にしたって泣きじゃくる子どもを宥めたり、落し物を受け取ったり、喧嘩の仲裁をしたりとそれまでの忙しなさや騒がしさの毛色が違う。
 違和感は一旦捨て置くとして、ここでカルラの気配を感じ取ったならば、あの呻き声を上げている誰かがカルラと言うことなのだろうか。それは不自然な気がして眉を顰めたヘルメスだったが、忙しない天幕側から見られてはいけない誰かが来る気がして天幕と天幕の間の陰に音もなく隠れる。誰かは二人でいるらしく、会話らしい話し声が聞こえてきた。
「……それで、こちらにいらっしゃったんですね」
「はい。監督官の方に、その旨をお伝えして頂きたく。町長氏の御言葉添えは頂いておりまするが、念のため……」
「それは構いませんが、カルラさんはもうこちらには帰られないので?」
 聞き覚えの強い声におやと思い、カルラと聞いて確証を得たヘルメスは一瞬飛び出しそうになるが、何だかそれはいけない気がしてじっと堪える。
「……本来の医療係の方も寝込んでおられまする。元々お強い方ではないらしく、それでも誰彼構わずしつこく勧められるのでもう治してほしくない、と懇願されまして……」
「そう、ですか。ですがそれではカルラさんは休む暇が……」
「ケイ殿の予想より気楽な仕事ゆえ、ご安心下さりませ。魔術が使えれば対処はごく数分――魔術の使用を患者に拒否されても、グラスや癒し草は町側から用意して頂いておりまする」
 そこでケイは疑問を抱いたらしく、小さく上擦ったような声を漏らした。
「では、あそこで眠っている人々は?」
「医療係の方と同じく、付き合いでお酒を断れない方々の避難場所となっておりまするな」
「はあ……なるほど」
 ケイの相槌が妙に情けなく聞こえて、ヘルメスは小さく首を傾ける。呆れているからだが、それもまたこのときの彼女は理解できていなかった。
「では、私はこれで失礼します」
「承知致しました。先程の件、宜しくお願い致しまする」
「はい」
 二人とも丁寧に挨拶を済ませた後、別れの余韻もなく遠ざかる足音が聞こえ始める。音は淡々と小さくなっていき、暫くして完全に周囲の雑音に紛れ込んだ。そうなれば今出て行ってもあちらからは見えないだろうと考えたヘルメスが、素早くカルラに見つからないよう動き出してすぐだった。何だか柔らかいものに衝突したのは。
「きゃっ……!」
 ヘルメスが激突してしまったのはどうも女性の胸部らしく、額に触れたゴム鞠のような弾力を持つ物体に彼女は単純且つ純粋に驚いた。それから顔を見上げて、その相手に二度驚いた。
「カルラ」
「…………ヘ、ヘルメス!?」
 カルラに目を剥くほどに驚愕されて、ヘルメスは軽く目を瞬く。それから少女は気付いた。本来ならば今の自分はあの全くモンスターの気配がない場所にいるはずなのだ。彼女の過剰な反応も無理はない。しかしシロがここにいてもいいと言ったのだからその旨を伝えようとするより先に、カルラが異様な迫力で詰め寄る。
「どうしてあなたがここにいるのでするか!」
 掴まれた腕に篭る力までカルラとは思えないほどに強くて、ヘルメスは少しだけ居心地の悪さを覚える。悪いことは何一つしていないはずなのに、どうしたことか。
「……シロガ、モンスターイナイカラ、ハナレテイイッテ」
 何故かカルラの顔を真正面から見れずにヘルメスが説明すると、彼女の短い眉が不可解に歪む。
「……シロ殿が? 他の方も同じことを仰った?」
「ウウン……キイテナイ」
 ヘルメスが小さく首を振ると、カルラは深々と息を吐く。小突かれてもいないのに、その仕草にヘルメスは少し身構えた。
「……今度からは他の方にも伺いなさい。一人だけが言うことを過信してはいけませぬ」
「ドウシテ?」
 説明しようとカルラの口が開いたとき、雑然とした騒がしさを持つ天幕側から誰かが声高に叫ぶ。
「ちょっと!! 医療係さんどこ!?」
「いやっ! ここで吐かないで下さいよちょっとぉおお!!」
「……詳しい説明はまた後です。今は私と一緒に来なさい」
 ヘルメスの返事も待たずにカルラは告げると、その手を取って声がした天幕に足早に向かう。少女はつられて歩きながら、折角カルラと会ったのに体全体に重苦しさを感じる自分を不思議に思った。


 四時をもう過ぎているらしいと知ったのは他の客の発言からで、それを知った際にファイルーザは内心で軽く舌打ちした。
 道理で親しい顔を見ないわけだ。近くを通り掛かった仲間に声をかけてスムーズにこの場から離脱する考えでいたのに、それも出来なくなってしまったのは存外に痛い。しかし他の給仕にとっては彼女の立場など恨めしいと思ってもごく当たり前の状況なのだから、彼女に近付ける者など余程鈍感な性格でないと難しいだろう。彼女の現状は、適当な男を侍らしてやれ酒だの煙草だの肴だのを用意させた上、現金を賭けたカードゲームに興じているのだから。それももう、一時間以上の前から始まっている。
「……ま、仕方ありませんけれど」
 紫煙を吐いた後に独り言ちると、周囲の男どもが不思議そうに目を瞬く。それを艶笑で誤魔化すとその通り照れ笑いだの鼻の下を伸ばした笑いなどを浮かべるのだから、赤子の手を撚るとはこのことだ。当然、カードゲームで得た金も元手はゼロから始まって今や六桁の粋にまで辿り着いた。いかさまをまだ使っていないのにこの儲けを得たと言うことは、それだけ周囲の男たちが弱い上に負けても腹立たしく思わない、とも解釈出来る。この地域の男は根っから女の尻に敷かれてる気質なのだろう。
 ともかくこんな調子では、賭け事を得意と自負する女が歯応えなど得られるはずもない。巻き上げなければ生きていけないほど金銭に困っていないし、それよりもっとスリルのある遊びを知った今になるとすぐに飽きた。とっとと適当なところで見切りをつけて退散したかったのだが、どうにもその機会が舞い降りてこない。肝心なときに幸運が訪れないのだから、賭け事なんぞ強くても無意味に思えてしまう。
「フォー・オブ・ア・カインド」
 今度もまた強い札を出し勝ちを得ると、男たちが残念そうに呻く。そうに、であってその口元はだらしなく緩んでいるのだから矢張り面白くない。かと言って、もう賭けたくないと自分から言うのも白ける。しかしこのままずるずるここに居座るのも腐ってしまう。
 どうしたものかと思いながら賭け金を受け取ると、背後から鼓膜を突き刺すような甲高い声が聞こえてきた。
「いっちばーん!! シオラ、ガッツォ呑みいっきまーす!!!」
 常に騒がしい天幕の中で、その金切り音に近い声だけが聞こえて思わずそちらに振り向いたのはそれがただ目立つからと言う理由だけではない。他のテーブルからも注目を受けても臆することなくテーブルの上で一気飲みをしている真っ最中の人物こそ、ファイルーザがよく知り最も弄りたかった――ではなく会いたかった人物なのだ。
 ファイルーザが唖然と見る中、鮮やかな桃色の毛並みと同じ色合いの民族衣装に身を包んだシオラは、縦に長い耳をぴくぴくと動かしながら驚異の速さでジョッキを開けてぷはあ、とこちらにまで聞こえそうな吐息を吐いてジョッキを天へと掲げる。
「うんまーい!!」
 あの速さで麦酒を飲んでおいて開口一番がそれとは恐れ入る。シオラの周囲にいる客たちもその気持ちはあるのか、囃し立てたり笑ったりもう一杯と麦酒を渡してやったり、他にも対抗意識を持ち出して同じくテーブルに土足で上がり始めた者までいた。
「……何だ。また騒がしいのが出やがったな」
「もうこんな時間か。こっからまたぎゃあぎゃあ五月蝿くなるねえ」
 ファイルーザを囲う男どもは落胆なり煩わし気な表情でぼやくが、彼女にはそんな反応など些事でしかない。否、これは使えるかもしれないと思い直し、にこやかに振り返る。
「気持ちはわからなくはないですけれど、もう少し落ち着いてほしいものですわねえ」
 鶴の一声にそうだそうだと深々頷く男たちに、ファイルーザは変わらぬ笑みを宿しながらカードを切ろうとするが、またしても背後からやんややんやと大声が飛ぶ。そこで多少にわざとらしいくらい彼女が肩を落として吐息をつくも、あの異様な盛り上がりを見せている連中からは見えるはずもない。
「……あたくし、少しあの方たちに騒がしくしないよう言って参りますわ」
 我慢がならないと言いたげな態度でファイルーザが立ち上がると、男たちは皆一様にぽかんと口を開けて彼女を見る。彼らが我に返るのも待たずに、彼女は変わらぬ優雅な物腰で椅子を引いた。
「ご安心なさって。あの中に知り合いを見つけましたから下手なことはされませんわ。それからゲームはそちらで進めておいて下さいな」
 にこやかな笑みを宿しながらも早口で捲し立てたファイルーザの素早い行動とは対照的に、男たちがようよう放心状態から抜け出したのは、当の彼女の姿が雑踏に紛れ込んでしまってからのことだった。

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