Durst Polka

たそかれとき


 カルラのもとから帰ってきたケイは、交代の時間になるまで余裕があるにも関わらずもう来てしまったアデルとリディアの存在に危機感を抱きながらも監督役を探した。彼女たちに自分が見つかっても、ブリジッテが皿洗いをしている現場を見られても構いやしないが、頭の中でその二つを一本の線に繋げられては少々困る。
 監督役を捕まえて説明するにしても、目に付きやすい裏方では目立つだろうし、会話が聞かれなくても探りを入れられる可能性がある。出入り口付近で待つしか目立たず話をする手だてがないが、それでも賑やかを通り越して騒がしいここでは、正確に内容が聞き取れるかどうかも不安になってきた。
 ――だがやるしかない。静かに気合いを入れたケイがそう自分に言い聞かせて数分後、あの逞しいハムのような監督役の女性が裏方から、好都合にも手ぶらで現れたのだ。
 早々に後をつけて監督役が一人きりだとを確認したケイは、その肩に腹の底から声をかけた。振り向いた監督役は彼女を請負人の一人であるとはわかっていても、その名前と顔は一致しないらしい。渡りに船とはこのことだ。
 監督役の用事――換気のために天幕の壁、と言うか布の一部を取り外すらしい――を手伝いながら、ケイは頭の中で何度もシュミレートした言葉を吐き出していく。努力の甲斐があったのか、彼女の物腰から判断したのか、単純に純朴な田舎者は人を疑うことを知らないのか。監督役はあっさりと彼女の説明を信じてくれた。
 監督役の用事が済むと、交代までまだ時間もあるからここで涼んでいると断りを入れて女性を一人で帰らせる。これで丸く収まるはずだと見当をつけて、その通りにケイは天幕の柱にもたれ掛かった。
 結果的に監督役を騙したことになるだろうが、罪悪感など湧きはしない。湧くなら自分をきっかけにしてとばっちりを被ったブリジッテが相手だ。
 まさかあのとき追い払った三人が、ブリジッテに嫌がらせを仕掛けるなんて思いもしなかった。自分は故意に彼女を避けていたし、また彼女の方も身内に給仕する姿を見られるのは恥ずかしいらしく避けているようだったので関係を感づかれたわけではなかろう。全くの偶然と言うしかあるまい。
 けれど偶然にせよ自分の行いが巡ってブリジッテに不快で不名誉な結果を招いたのだから、気付いたからには自分が尻拭いをして然るべきだとケイは決めたのだ。
 そんなことを考えている内にもうそろそろ日が沈むようで、西の空が夕焼けに入る前の、紫色めいた空になってくる。それを漠然と眺めていたケイだが、いい時間になったろうと思考を切り替えて立ち上がる。
 だがやはり慎重を心掛けなるべくゆっくり歩いて裏方にたどり着くと、すぐさま大きな掛け時計を見る。予想通り四時丁度になったところのようで、振り子時計が鐘を四回のんびり叩く。
「ケイって几帳面よね」
 知っている声に話しかけられそちらを向くと、もう既に働き始めて数十分は経過しているアデルが微笑んでいた。のだが、早々に表情から疲れの色が感じなくもない。
「そう言うアデルさんたちは、随分と早くから働いていらっしゃるようですね」
「あら、知っていたの?」
 それはもう、と言いたいところだが怪しまれてはいけないので質問で返す。
「私がこの天幕に着いたとき、もう既に働いていらっしゃる姿をお見受けしましたから……違うんですか?」
「やだ、見てたの?」
 仲間に見られると何だか恥ずかしいわね、などと言いながらアデルは笑う。
「ええ、まあ……。実は、アリアとはぐれちゃってね。あの子にここのことを教えていなかったあたしたちにも責任もあるから、早めに入って穴埋めしているの」
「成る程、そうでしたか……。ご苦労様です」
 頷くケイは自分と同じく自分のうっかりで他者に失態を犯させてしまったアデルに同情していたが、そうこうしているほど相手が暇ではないことを思い出す。
「それでは私も今からお手伝いさせていただきます」
「ええ。ケイも頑張ってね」
 励ましの言葉を投げかけつつアデルは洗い場に向かい、まだ一心不乱に洗い物をしている最中らしいブリジッテの隣に使用済みのジョッキを置く。
 そんな光景を眺めながら監督役があの後どんな行動を取ったのかが気になるケイではあったが、自分からブリジッテに訊ねるのは墓穴行為だと理解している。大体、あの負けん気の強い彼女が冤罪を受けたなどと自分から告白してくるはずもないのだから、触れないのが一番いいのだ。
 洗い場から帰ってきたアデルが、険しい顔のケイを不思議そうな目で眺めながら巨大な麦酒樽の方へと足を運び、麦酒を持てるだけ持っていく。腕力に不安点はなくともバランスは案外問題らしく、その表情は既に立ち竦む彼女のことなど気に留めていられないようだった。
 しかしケイも惚けている暇などない。ブリジッテに後ろ髪を引かれながらも麦酒樽に近付き、一心不乱に麦酒を注いでいる地元の女の側に置かれたジョッキを適当に持つ。
 一度目なのだから少な目でも構わないだろうと思い表に向かおうとしたのだが、そこでさっきから注いでいる女がこちらを一瞥もせずに鋭く言い放った。
「持てるだけ持っていって! あんたならあと三つ四つは余裕だろう!」
「……は、はい」
 背中に目でもあるのかと思うような的確な指摘に、ケイは驚きながらも従う。
 限界までジョッキを持って今更ながら実感したのは、これこそが手の酷使を体現した労働であると言うことだった。短剣はここまで使い手に不親切な形状ではないし、また手の方も敵の隙を見極めさえすれば吊ったり痛めたりはしない。けれど今の状況は握り直すのも無理で、しかも手の全筋肉を使うがバランスも必要なのだから質が悪い。しかもこれで他人の通行に気を配らなければならないのだ。神経を手にも周囲にも使わねばならないなんてとんだ重労働である。
 幸いにも表を出てすぐのテーブルに声をかけられたため解放されたのも早かったが、先に出ていったはずのアデルの姿は見えない。人の賑わいが酷いレベルに近いこともあるが、それでもケイは見えなくなる距離まであの状況を保って歩いた彼女に敬服を覚えた。
 麦酒に満ちたジョッキと交換する形式で空いたジョッキを受け取ると、先ほどよりは中身がないだけ気楽に裏方へと持ち運ぶ。のんびり裏方の敷居を潜り、洗い場に向かうケイの真横を、桃色の突風が吹き抜けた。
 何かと思って暴風の正体を見極めんと目を凝らすと、それが加速を発動させたらしいシオラだと何となくわかってくる。確証を得たのはその特徴的な手足と緊張を孕んだ尻尾のお陰だが。
 獣の手足には馴染みの速度上昇の魔風が纏わり、その目元は人であることを忘れたかのように感情がない。けれど全身汗にまみれ、虚ろに近い表情は確実に限界が近付いている証拠だ。ただでさえ体に負担を強いる加速を発動させているのだから、あのままではシオラが倒れてしまう。
 シオラがやったように洗い場の近くにジョッキを置くと、ケイは自身にも速度上昇の魔術をかけて彼女の速度に少しでも近付こうとした。だが相手はそれよりも更に速く、ジョッキをいくつも鷲掴みにしてもう表側に向かいそうになっている。
 ケイは内心焦り気味に走り出すと、何とかその肩に触れて絞り出すように声を発した。
「誰」
「シオラさん」
 シオラ自身は自分の異変に気づいていなかったのか。暫く感情のない、感情を目で現すことなど必要ない獣の如き目をしていたが、秒単位で人間性を取り戻した顔に戻っていく。獣人の場合の我に返るとはこうなるのかと役に立たない感心を覚えたケイは、微笑を浮かべるように意識しながら彼女に優しく告げた。
「交代の時間になりましたので、シオラさんはそれで最後にして下さい。お疲れさまでした」
「へっ?」
 ぽかんと口を開いてそれだけの反応しかしないシオラに、聞き間違いでもされただろうかと思ったケイがもう一度同じことを言ってやる。
「交代の時間になりましたので、シオラさんはそれで最後にして下さい」
「……え、ほ、ほんとに? もう?」
「はい、もう四時を過ぎていますから」
 掛け時計を指してケイが教えてやるものの、シオラは全く聞いていないらしい。心の底から嬉しそうに奇声を発してジョッキを振り上げかける。
「や……っっ!」
 ケイがぎょっと身構えるが、シオラも同じ危険性を予期したのか麦酒を零さないように全身でバランスを取り事故を防ぐ。しかし喜びを表したい気持ちはあるらしく、スキップする勢いで再び彼女に確認してきた。
「え、え、もう飲んでもいいのっ!? いいのっ!?」
 そこまで喜ぶものだろうかと不思議に、そして微笑ましく思いながら目を細めたケイが口を開いたところで、彼女の背後から鋭い声が被さってきた。
「シオラッ、さっきからうるさいわよっ!」
「ああんごめんー!」
 ブリジッテの声を聞いて、ケイの心臓が急に高鳴る。しかしそれを相手に悟られぬよう、彼女は何とか微笑んで見せた。
「はい、引き継ぎ作業はしなくていいはずですし……。お好きに飲んで下さい」
「うんうんうんっ、そうするー! ありがとね、ケイー!」
 幸いにシオラはケイの内面など気にしているほど冷静ではないらしい。尻尾と表情で歓喜を表しながら舞い上がらんばかりの勢いで飛び出していったが、ケイはそれを微笑ましく眺められる精神的余裕はない。
 何でもない顔を心がけながらもこちらにやって来たブリジッテと目を合わせ、まずは労いの言葉をかける。
「お嬢様もお疲れ様でした。これからは私にお任せ下さい」
「ええ……全くもう。久しぶりにこんなことして疲れたわよ」
 肩と首を鳴らしながらぼやくブリジッテに沈んだ様子はない。ならば恐らく、自分が見ていないうちに監督役はこの少女に謝ってくれたのだろうと心中で安堵したケイに、ブリジッテは悪戯っぽい笑みを宿す。
「ま、ケイも精々頑張りなさいよ? 酔っ払いに絡まれても、アタシがその場にいるかどうかわからないんだから」
 酔っ払いの一言に内心冷や汗を掻くが、自分はそもそもブリジッテの冤罪について何も知らない立場を貫かねばならない。それ故にケイは困った顔を見せるだけに留める。
「……善処致します」
「あ、そうそう。ヴァンの奴どこにいるの?」
 ころりと話題を転じられて半ば胸を撫で下ろす気持ちでいたケイは、こちらは正直に応えてしまう。それからブリジッテが何をする気かなど、大して想像することもなく。
「確か西の警備を担当しているはずです」
「そ。西ね」
 ブリジッテは普段通り大股気味に歩きながらケイを通り越し、一足先に裏方から出る。その後姿を何とはなしに眺めていたケイに、彼女は急にくるりと振り向いて、笑った――ような気がした。
「……助けるけど」
「はい?」
「ケイがアタシを助けてくれたんだもの。だったらアタシも助けるわよ。何がどうなってもね!」
 それだけ言うとブリジッテは鮮やかに踵を返し、あの人ごみの中を器用に駆け出して行く。
 一人取り残されたケイはその言葉の意味をじわじわ理解し、最終的にしゃがみ込んで羞恥と後悔の悲鳴を喉から絞り出した。


 普段から一部の短気な者たちに脳天気だの危機感がないだのと散々な言われようのイサクであっても、危機感を覚えることはなくない。それが今だった。
 別にモンスターに囲われているわけではない。ゼロスがアリアを連れ出てもうそろそろ三十分は経つだろうか、相変わらずモンスターは陰や音どころか気配さえ感じずにいる。それでは何かと問われれば。
「――善意とは裁きにくいものですからね」
「何の話?」
「独り言です。しかし、これはどうしたものでしょうね」
 大幅に話を戻して、イサクは眉を不自然に歪めつつも笑む。リーザも同じく、とは言うほどでもないがそれでも愛想のような空笑い浮かべた。
「アタシも、もう一人いないなんて予想外だったわ。ナイヅさんたちも息抜きしてもらおう、なんて思わないほうが良かったのかしら」
「俺としてはありがたい気遣いなんだけどな。多分、アルも似たようなこと思ってるんじゃないか?」
 ナイヅも苦笑気味に肩を竦めるが、それでどうにか問題が解決するはずもない。三人は虚しい愛想笑いを浮かべるのを止めて、やや真剣な面持ちになる。
「……人数が揃っていても警備中に息抜きをするなんて、普通に考えたらまずいものね」
「まあな。このままモンスターが出ない保証はどこにもないし」
「あるのでしたら、出来ればリーザさんにはこちらに留まって、ゼロスさんの代わりをして頂きたいところですね」
 リーザがここに顔を出した当初、二人は助太刀に来てくれたのかと喜んで出迎えたのだ。しかし話を聞けば逆にナイヅを収穫祭見物へ誘いに来たと言うのだからさあ困った。モンスター討伐に最も御熱心なゼロスは帰ってくる気配はないし、いくらここ数時間モンスターを見ていないからと言ってもこれから暗くなる雑木林にイサク一人は心許ない。だからこそ、今三人は顔を見合わせているのだが。
「代理は構わないけど、ゼロスがいつ戻ってくるかくらいは知りたいわね」
 最悪、見学出来ないしとぼやくリーザに、ナイヅは申し訳なさそうな顔で訊ねる。
「会場、まだ見てなかったのか?」
「ええ。まさかゼロスがいないなんて思わなくって……」
 確かにゼロスの代わりにイサクが持ち場を離れていたとしても、自分は一人で平気だと言ってのけるだろうしそれだけの実力もあるだろう。だが仮定の話などしたところで、現実には何の影響も齎さない。
「早く帰ってくるんじゃないかな。ゼロスは収穫祭に興味がないらしいから、アリアをテントまで送ったらすぐ引き返すだろう」
「……その時に、ファイルーザやブリジッテに見つかってなければいいんだけどね」
 肩を落とすリーザの予想は、男性二人にも何となく想像出来る。自分たちの天幕にやって来たゼロスをあっさり帰すまいと、あれやこれや言いがかりを付けるだろう女性陣が少なからずパーティーにはいるのだ。勿論好意的な感情を持ってそんな誘いをしているため本来なら断り辛い。まあ、あの朴念仁は平気で断ろうとするのだろうが。
「……そう言えば、アリアは依頼、しようとしてたよな」
 だがゼロスは純然たる好意を示してくる相手には弱い。乱暴な言い回しや威圧的な態度には慣れていても、雛鳥のように懐いてくる相手には強く出れない。完全に後者であるアリアが到着次第お礼に一杯奢りたい、とでも言い出せば渋々ながらも受け入れるだろう。そこをファイルーザ辺りに発見されてしまうとどうなるか。
 本人の感情を無視する形式で事が運ぶ行程がありありと想像できたのだろう、リーザは吐息をつくと妙に晴れやかな顔を男たちに見せる。
「わかったわ。今日は運が悪いと思って諦めます」
 こんなところでだらだら話していても事態が好転しないと実感したようだ。リーザは元来た方向に戻ろうとのんびり歩きだす。
「申し訳ありません。暇ではありますが、さすがに一人で警備は出来ませんので……」
「誘ってくれたのに悪いな」
 男二人も諦めてもらうしかないと冷静に判断しているため、片やすまなそうに、片や残念そうに、めかしこんだリーザを見送る。苦笑を浮かべた彼女が手を振りつつも茂みに足を踏み入れると、連鎖反応を起こしたようにイサクたちの足下に妙な影が生まれた。否、空に問題があるのだ。
「はああ〜! 天使さま、やっと見つけた〜!」
 空の声は三人のものの誰でもない、鼻にかかったような甘ったるさを持っていて、そんな声の仲間に心当たりのあるリーザはぎょっと空を見上げる。
「ゼレナ!?」
「あ、リーザじゃない。おひさ〜」
 一歩遅れてイサクとナイヅも空を見上げれば、沈みかける夕日を背に蝙蝠の翼と鎌を背負った娘が一人、ひらひらと手を振っていた。
 いつものヘアバンドを花冠に替えたゼレナも、もれなくリーザと同じく肩を剥き出した生成りのブラウスに、胸元を四角く切り取った濃紫の地に淡い桃色のポイント刺繍が入ったベストと揃いのスカートを着用している。レースで縁取った生成りのエプロンも含めそこそこに可愛らしいはずなのに、スカートの短さが問題なのか着用者の問題なのか、遊び女に見えるのはどうしたことか。
「おひさじゃないでしょ! あなた夕方から働くんだから、こんなところに顔出してないでとっとと行きなさい!」
 リーザは今のゼレナが与える印象まで気にしている余裕はないようで、早口で注意するが、こちらはアルほどに彼女を怖がったりはしない。
「嫌よ、あたしあんなの向いてないもん!」
 地面に降り立ち堂々と首を振るゼレナに、リーザが目を剥くのも束の間。すぐにその理由に納得したらしく、深いため息を吐いた。
「……そうかもしれないけど、だからって今になって言わなくてもいいでしょ。昨日のうちに言っておけば、迷惑も心配も掛けないのに……」
「朝のうちならしてやってもいいかなって思えたけど、それからあたし、ずーっと休めてなかったのよ!? 何度も人間どもにぎゅうぎゅうに押し潰されそうになってたのに、あいつらにこれから媚び売ってやるなんて絶対無理!」
 どんな体験をしたのかは知らないが、ゼレナの剣幕は異常なほどだ。人混み自体に恐怖しているような怯えように、リーザはまたも重々しいため息を吐き出す。
「……だとしても、何も言わないのは駄目でしょう!」
 しかしゼレナも譲らない。再び会場に赴くこと自体を嫌がっている顔で、イサクの腕にしがみつく。
「そんならあんたが言いに行きなさいよ! 無理矢理連れて行こうったって駄目だからね!」
 人間どもを他の人間どもに襲わせてやる、と脅し文句まで付け足して抵抗するゼレナに、口を挟む暇もなかったイサクがここでようやく片手を上げた。
「まあまあ、お二人とも。ここは一旦冷静になりましょう」
 第三者が口を挟んでようやく客観性を取り戻した二人は、多少に居心地が悪そうに男二人の顔色を伺う。
「えーと、その……ごめんなさいね? 置いてけぼりにしちゃって……」
「天使さまぁ、お手伝いに来るの遅れちゃってごめんなさい……」
 異様にしおらしいゼレナの態度に、リーザは人を刺し殺せそうな鋭い眼光で睨み付ける。だが彼女は淑女としての教育を受けた身である。次の瞬間には可愛らしくも困ったように眉根を寄せ、いつもアルに見せている表情をゼレナに向けていた。
「お気にせず。けれどゼレナさん、そんなに給仕のお仕事は難しそうですか?」
 優しく尋ねられるとゼレナも少しは冷静になれるようだが、やはり彼女にとっては今の精神状態で出来る仕事ではないらしい。
「……人があんな、数えられないくらい沢山いるところなんて、あたし今まで見たことありません。それくらいならまだいいけど、あんなぎゅうぎゅう詰めで、意味わかんないくらいの臭いと音がして、ちょっと立ち止まっただけで足踏まれて睨まれて文句言われるようなとこ……!」
 ぶるりと肩を振るわせて、ゼレナは目尻に涙を溜める。嘘泣きだとすれば、説得力のある涙の見せ方を彼女がいつの間にか学んでいたことになるが、それが出来るおつむならこんなときになって働きたくないなどと言うまい。――どうにもすし詰め状態そのものに強いトラウマを抱いている、と判断した方が良さそうだ。
「……では、仕方ありませんね。リーザさん」
「なに?」
 呼ばれたリーザの眉が訝し気に歪んでおり、イサクはその勘の良さに微笑みを浮かべる。
「ナイヅさんについてはあなたのお好きなようになさって下さい。その代わり、ここにはゼレナさんに残ってもらいます」
「ちょっと、それは……!」
「ありがとう、天使さまっ!」
 喜色を浮かべ抱きつくゼレナの肩を掴もうとしたリーザに、一足早く動いたナイヅが優しく諭す。
「まあまあ、ここは運が良かったと前向きに受け止めようじゃないか」
「リーザさんのお考えもわかりますが、ゼレナさんはご覧の通りですし……。ここで私が説得しても、焼け石に水でしょう」
 今のゼレナを無理に連れて行って給仕をさせたところで、良い結果が生まれるとは思えない。むしろ有り難くない人身事故を多発させるよりは、ここでイサクと二人モンスター相手に鬱憤を晴らしていた方が事前に会場が受ける被害を防げるだろう。
 私情を含めている自覚はあっても、イサクはその判断を悪くないと考えていた。ナイヅも彼に味方して、ますます独善的とは言い切れない状態だ。
「それは……わかってるんだけど……」
 男性二人にまで自分の意見に反対を受けても、リーザはまだ納得できていないらしい。ナイヅが視線でその理由を尋ねると、彼女は小さく唇を尖らせた。
「けど、これから天幕の方はもっとずっと忙しくなるのよ。ただでさえ朝より人数が少ないのに、更に欠員が出るだなんて……夜からの子たちが可哀想じゃない」
「じゃあリーザが代わりにやればいいでしょ!」
 イサクに腕を絡めたゼレナが茶々を入れると、リーザは滅多に見せないはずの牙を剥き出す。
「……下手なこと言うと首根っこひっ掴んででも連れてくわよ」
 リーザの剣幕に悲鳴を漏らしてゼレナが引っ込む。怖がる少女の肩に手を置いて、イサクはいつものように笑った。
「リーザさんはなるべく早く、ゼレナさんのことを町の方にお伝え下さい」
「それは言われなくてもするつもりよ。……じゃあ、その……」
 当初の願いが叶ったはずなのに、後ろ暗い表情でリーザは手を振る。その表情に良心が痛まないわけではないが、それでもこれが最善策だとイサクは自分に言い聞かせてその背中を後押しした。
「お願いします。それと、いってらっしゃい」
「ああ。そっちは頼んだよ、ゼレナ」
「任せなさいっ! 天使さまと一緒にいる以上、ヒヨコ虫一匹だって通しはしないわよ!」
 ゼレナはやる気に満ち溢れているらしく、勇ましい表情で離れていく二人に薄い胸を張ってみせる。その言動に薄く目を細めるナイヅの袖をリーザが指先で摘まんで先を促すと、二人は完全にこちらに背を向けた。
 陽が沈んでいく最中だから影が濃いのか、案外にすぐ見えなくなってしまいそうな二人の姿を見送りながら、イサクはゼレナにふと疑問に思ったことを口にする。
「ゼレナさん、武器はどうされたのですか?」
「はいっ、ダッシュで宿に戻ってダッシュでこっちに来ました!」
 完全に警備役として働く気でいたらしいゼレナの返答に、さすがのイサクも大仰に眉を顰めた。


 人の気配を感じて、彼はふと顔を上げる。
 彼とてこの世界に馴染むため、人間たちの常識や習慣などはある程度理解している。だから近付いてきた男女二人組がこんな雑木林の奥までやって来た理由も当然察していたが、気を使ってこちらが避けてやるつもりなど欠片もなかった。今の彼の頭は、一人になってから今まで、モンスターの気配がないことへの疑問と警戒で渦巻いていたからだ。
 人気のない過疎地であれば日中でも活発なのは頷けるが、人里近い場所では昼より人間の視界が限定される夜の方がモンスターにとっては有利だ。それも知らないならとうの昔にこの近辺のモンスターは全滅しているはずである。
 なのに神経を研ぎ澄ませても、それらしい気配はまるでない。一人になる前に受けた襲撃が最後だと言うのか。そんなはずはない――はず、としか言えないのが問題だが。代わりに先程の男女は相変わらず会話を止めないまま着実に近付いており、彼は少しだけ眉を動かす。
「おい」
 知った声に呼びかけられ、彼は声のする方向に目を向ける。先の男女だ。よく顔を見れば普段と少し違う格好の仲間の二人だったが、彼はさして反応を示さない。
「少し、あなたにお願いがあってここに参りました」
 白銀の髪を緩く三つ編みにした女が、穏やかな表情を浮かべて一歩前に進み出る。女は確か会場内の依頼を受けていたはずで服装もそのままのようだが、どうしたことか愛用の杖を持っていた。
「この奥に大型のモンスターの巣があります。わたしとジャドウでは少々心許ないので、手伝って頂けませんか?」
「………………」
 モンスターの巣があると、断言出来るほどの優れた感知能力とそれを活かす魔力を持ちながら、心許ないとは矛盾を感じる発言だ。この女の力量は正確に把握しているし、前衛役の相方とてその自信と見合う力を持つ。心許ないはずがない。
 彼の微かな表情の変化を読み取ったのか、今度は黒のハイネックとスラックスにあの触手が蠢く甲冑の男の方が口を開く。ややつまらなさそうに見えるが、彼には関係ない。
「巣の規模と魔力の密度も配慮し、相応に数は多いとスノーが判断した。数で攻めてくるのは面倒だ。こちらの手数も多い方が楽に進められる」
「丁度北にありますから、出来れば担当のあなたにもお手伝いして頂きたいと思いまして」
 男は多少長考しようとしたが、数秒も経たないうちに無用な躊躇だと考えを改める。彼らに他意はあるまい。単刀直入で事務的に過ぎるほどの対応は彼に合わせるための態度と判断できるし、罠に填めるためにしても全てが明らかになった今の自分にそこまでのメリットはない。
 恐らく自分を誘った理由についても、ただ近くにいたから、と言う単純極まりない理由であろう。他の連中がここにいても、態度は違えど本題に代わりはあるまい。
「いいだろう」
 案内しろ、とまでもは言わない男の言動はあちらもよくよくわかっているらしく、男女は特に大きな反応も見せず頷き、更に森の奥へと向かう。その際、二人の後を追う形式で殿となった彼は、何故か随分と大きな麻袋を渡された。否、押し付けられた。
「…………」
 何だこれは、と言葉に出さないものの押し付けてきた相手に無言で睨み付けるが、男は彼の視線に怯えるような繊細さは持ち得ていない。それどころか、眼前の女の丸い肩から腰にかけての線を食い入るように眺めている。現代人にとっては有り得ない神経の図太さと言うべきか、それとも男はもともとこうなのか。彼が知る由もない。
「……何だこれは」
 女の耳に入るように尋ねると、女が慌ててこちらを振り向き、次にさっと頬を赤らめ非難めいた視線を相方に送る。
「ジャドウ……! 何も言わずに渡さないで下さい!」
「今の状態ならば全員の荷物を持つ時間は公平であるべきだろうが」
 淀みなく反論する男に、もう屁理屈ばっかり、と女は口先を尖らせる。そうして吐息を一つ漏らしてから、彼の方に近付いてきた。
「ごめんなさい。これはあなたが持つ必要がないものです」
 言いながら杖を脇に挟んで両手を差し出し、袋に返して貰おうとするが、男は気に食わないらしい。
「お前は杖で手が塞がる。持てないものを無理に持とうとするな」
「だからこそ、素手だけで戦うあなたにこれを預けたんですけど?」
 女の眉が微かに非難めいて歪むが、それで殊勝な態度を取る男ではない。肩が凝ったように首を回して、わざとらしいくらい大きなため息を吐く。
「服飾品の荷物持ちならやってやらんこともないが、色気の欠片もない消耗品なんぞ見ていてもつまらん」
「つまるつまらないの問題ではありません」
 ぴしゃりと言い切る女に、自分の質問が忘れられていると自覚した彼はもう一度同じことを尋ねる――より先に、その麻袋の中を見ることにした。そちらの方が問答に割って入るよりも早かろう。
「ああ、それは……」
 彼の行動に、女が申し訳なさそうな顔を作る。けれど彼は女の表情など見ていない。ここに来るまでにモンスター退治で集めたのか、各属性石の素や結晶が詰め込まれた麻袋の中の、もう一つ、こちらはやや小振りながらもしっかりと紐で結ばれた皮袋に視線が向けられていた。きっちり四角くなっている点からして、その中にもまた箱が入っているらしいが魔力は感じない。だが保管方法からして慎重さが伺える。
 次に顔を上げて女を見つめる彼の視線の意図は、十分相手に伝わったらしい。にっこりと、ややも誤魔化すような笑みを浮かべて突飛なことを言い出した。
「……少し、天啓を受けまして」
 意味を知っていてもあまりにも耳慣れぬその言葉に、珍しくも彼は少しだけ不可解そうに目を瞬いた。


「ぎゃぁあっ! いだだだっ、いだいっぢぃぃいぃぃ……!」
 絞め殺される鶏のような悲鳴を聞き、周囲の人々は何事かと目を瞬かせ辺りを見回すが、それらしい人物など見つけられるはずもない。声の主たる白いヒヨコ虫は、悲鳴を聞いて驚く良心ある人々の足に、本当の意味で蹂躙されているのだから。
 人とは存外無自覚に残酷なものである。人の手のひらにすっぽり収まる程度の大きさのヒヨコ虫なんぞ、大して意識しなくても踏み潰しかねない――まあ何度かシロは鶏冠と言わず色々踏まれたが。それでもぺしゃんこにならない点は他のヒヨコ虫とひと味もふた味も違う、と言うべきか。偉大な賢者様々と称えられてもおかしくない、多分。
 だが現実はシロに自惚れる暇さえ与えない。踏んだことすら気付かない者は割と多く、更に何かを踏んだことに気付いても不快なものを踏んだと思い込んで、悶絶するヒヨコ虫を尻目に靴を地面にすり付けるような動きも見せる者のなんと多いことか。
 まあ自称人畜無害なヒヨコ虫が入り込んでいるなどとは完全に予想外だろうから、生ごみと誤解されても仕方ないのかもしれない。だがそう理解はしていても、かの賢者のプライドはなかなか回復しない。心に負った深い傷を自ら慰める暇もなく、今度は物理的な意味で傷を負うことも暫しあった。
 地面に比べればヘルメスの頭の上など安全で、まだまだ可愛い揺れ具合だったのだが、当時のシロはそんなことなど知らなかった。安定した高さと自分に気を遣った動きで移動するナイヅと違い、予想外の揺れと急停止に苛立ち、色々と小五月蝿い注文を付けたように思う。その際、ついつい見惚れるほどに均整の取れた肉体を持つ女性にでれりと意識が向いてしまい、ついでにターバンの上から自ら落ちてしまっても、当時の彼――彼?――は楽観的だったのだ。
 手近な例におけるファイルーザのように、珍しがって甘えさせてくれるだろうと、世の中を軽く見ていた節はなくはない。むしろ白くて喋るヒヨコ虫なんぞを可愛がる彼女の神経が珍しいなどと、このときのシロはすっかり忘れてしまっていた。多くの人々に踏まれそうになりながらも、視点の切り替えによって引き起こされる新鮮味で気力に満ちていた彼は、何とか頭上から来る猛攻を躱しながら件の女性の足元まで辿り着くと、その足首に飛び付いたのだ。
「おねぇ〜さまぁ〜んっ!」
 そんな、下心が雫となって滴りそうなほどの台詞がいけなかったのか。それともモンスターに抵抗がある女性だったのか――そもそも冒険者や請負人くらいしかモンスターを間近に見慣れていないのだが――、シロに飛び付かれた女性は、怪訝な顔で自分の足首にしがみつくヒヨコ虫の存在を見止めると布を切り裂くような悲鳴を上げた。
「いやぁああああぁああっっ!!」
「あぁ〜れぇ、……っづぇええ!?」
 同時に力強く脚を振るわれ、シロは強かに地面に投げつけられると弾力ある体がボールのように弾み、ふわりと宙に浮き上がる。長い輪廻を繰り返した彼であってもボールの気分を味わうのは初めてのことで、それまでの退屈さも下心も吹き飛ぶほどに清々しい空気が腹の下を通っていく感覚には正しい意味で肝が冷えた。
 しかしそんな状況のシロを憐れむ者など一人もいない。むしろ人ごみは頭上を越すほど舞い上がってきた白いヒヨコ虫を奇異と蔑みの目で見つめており、落下予定地点にいる者たちはこぞって身を寄せ合い落下物との接触を避けようとする。
「ぐふっっ!」
 今度はべしょりと顔から地面に落下したシロだが、やはり民衆は同情を寄せようともしない。それどころか、肉体にかなりのダメージを負ったヒヨコ虫に追い打ちの囁きをあちこちから漏らし始める。
「……やだ、ヒヨコ虫がなんでここに?」
「誰かのいたずらじゃない?」
「人の声を出してたようだが……気持ちの悪いまやかしか」
「どこぞの誰かがペットでも持ち込んだんだろ」
「やだわあ、悪趣味ねえ……飼い主は何処かしら」
 蹴飛ばした女性に比べれば冷静だが、それ以上に残酷な対応にシロは一瞬怒りを感じたものの、ここで暴れては状況が悪化すると我に返る。否、この場合は悟る、と言うのが正しいか。
「……ううっ……こ、これが世間の厳しさっちか……!」
 ぼやきつつ、シロがそこで一端の退却を選択したのは幸運でもあり不幸でもあった。あのときはそれ以上目立たなかったのは良いのだが、同時にあのとき目立つことで仲間に回収してもらうきっかけを作れなかったのは賢者の名折れと言える失態だろう。
 まあそんなこんなで、シロは早急に単独行動を損と判断し、仲間の庇護を求めに奔走した。例の女性のような反応や、他の客のような冷ややかな連中から身の安全を確保するためだけではない。好奇心ばかりで思いやりを知らない子どもや、更に羽虫の如く彼を足で踏み潰してしまおうとする連中から避けるためである。
 つくづく守ってくれる人間とは大切なものだと思い知ったシロではあるが、思い知ったところで都合良く顔見知りが通りがかってくれる訳はない。むしろそこで誰かが通りがかれば、このヒヨコ虫が八つ当たり気味に突進する恐れがあると運命の神は警戒しているのか。彼は以降もひたすらに、それはもう憐れなほどの辛酸を舐めさせられた。
 だがそれでもシロは諦めなかった。路端で気を失ってでもいれば、動かない分目立たなくて安全なのかもしれないが、それでも自分から探すことを止めなかった。
 動くのを止め休んでしまえば、そこで精魂共に尽き果てるとシロは長きに渡る経験から熟知している。こんなあらゆる危険が迫る場所でそうなってしまえば、それこそ命の危機が迫っても抵抗できなくなるかもしれない。モンスター蔓延る遺跡や森の奥地でもなく、仲間が目と鼻の先でいるかもしれない場所で最悪の場合死んでしまうなんてことには決してなりたくなかった。大体転生したところで今度はどんな体かもわからないし、誰も以前の自分を知らないとなるとそれは実に危険なのだ。故に彼はプライドもかなぐり捨てる勢いのまま、一休みしたい誘惑を何度も振り切りながら、けれど頭上からの猛攻にじわじわと体力と気力を削られつつも前後の足を動かし続けた。
 小柄で人間の庇護なきヒヨコ虫にとって、あまりにも過酷な旅だ。風が少しでも舞えば土埃が目にしみる位置にいるし、目を擦ろうにも頭から踏まれてしまうかもしれないから立ち止まれない。子どもの声が聞こえたらいつも以上に慎重に隠れなければならないが、誰かに見つかるときは見つかるので何も考えずひたすら逃げることに神経を使う。体力が危うくなってきたと思えば自分で自分に回復魔術を掛け、美味そうな匂いや感想の誘惑にも引っ張られないよう心に強く言い聞かせる。おまけに時間の感覚など空が暗くなってしまえば皆目見当も付けないのだから、昨今の修行僧以上の苦行である。
 ヘルメスの頭から落ちて拷問のように続いた数時間、太陽はすっかり隠れ空は黒幕を落としたような闇に変じたものの相変わらず仲間は見つからず、意識も擦り切れ朦朧としたままぼんやりと歩き続けていたシロに止めを刺すかの如く、不意に誰かが後ろから彼の鶏冠を掴んだ。
「な……なにを、するっちぃ……」
 元気であればしっかり抵抗したはずなのだが、休みもしないまま歩き続けていたのはやはり辛く、暴れようにも足が僅かにしか持ち上がらない。残酷な捕獲者にとっては遊び甲斐のない獲物であったろうが、今シロができる必死の動きがそれだった。
 このまま持ち上げてた無礼者に弄ばれ、されるがままの自分に飽きたら適当に投げ捨てられるのだろうかとぼんやり自分の未来を嘆くシロの思いを汲み取っているのか。鶏冠を掴んだ誰かはまずヒヨコ虫の両頬を強く引き延ばした。
「いだだだだだだ!!」
 口が裂けそうになるほどの力にシロが悲鳴を挙げると、指の主はからからと笑う。
「なぁんだ、やっぱり起きてるじゃんか」
「いや、そりゃ意識がないと歩くなんてできないでしょうよ」
 聞き覚えのある二人の声に、痛みに止めを刺された気分のシロがふと正面に視線を向けると、赤毛の少年と深いオリーブ色のお下げの娘が見えた。そこに短髪の中年男性が苦笑気味に顔を覗かせる。
「何があったかは知らないがぼろぼろじゃないか、シロ。二人とも、あまり苛めてやるなよ」
 懐かしい声に、シロの全身が神託を受けたように強い衝撃を受けた。嗚呼この声を、女性の足で吹っ飛ばされてからこのヒヨコ虫は何度強く待ち望んでいたことか。
 長きに渡る辛く険しい旅の終わりが此処にあった。長らく苦楽を共にした異界から召喚された元・不幸な少年が、今は二人の少年少女を連れて笑っている。自分に向けて、安心を誘う父性を宿しながら。
「ふあ、ふぁふぃふぁぁあああ〜〜〜!」
 頬を引っ張られたまま昔懐かしい男性の名を呼ぶと、相手は遠慮がちな笑みを抜いた苦い顔になる。
「……その名前で呼ぶのは止めろって」
 とは言いつつシロをアルの手から受け取ろうと少年に手を差し出してくれるナイヅに、過酷な旅を送ってきたヒヨコ虫が長きに渡る安住の肩に行こうと身を捩る。
 しかしアルの手は一人と一匹が思うより強い力を篭められているらしく、シロが身を捩った程度ではびくともしない。何事かと戸惑いの視線を送るヒヨコ虫とナイヅに、少年はにこりと笑った。
「……あのさー、シロ。ヘルメスが持ち場離れてどっか行っちゃったらしいんだ」
「ふぇ?」
 急な発言に目を瞬かせるシロに、アルはやはり笑顔のまま続けた。
「お陰でそれ知ったエトヴァルトがヘルメス探しに行っちまってさー。それ原因であいつが持ち場離れられたって気付いたとき、すんげえ辛かったんだ、オレ」
 淡々と話すアルに、そう言えばとシロは今更疑問を抱いた。男性陣は外周警備が仕事のはずである。なのに何故、アルやナイヅはここに平然といるのだろうか。
 嫌な予感を覚えたシロの心を見透かすかの如く、アルの指先が一層強くヒヨコ虫の頬を抓る。
「ぶぁら゛ら゛ら゛ら゛ら゛!」
「……そんでさ、ゼレナが教えてくれたんだけど、ヘルメスがそんなことしたのってお前が原因らしいな」
 びくびくと痛みに身を捩っていたシロが、その一声にぎくりと全身を硬直させる。指で触れているためヒヨコ虫の動揺もしっかり伝わっているのだろう。アルはやはりにっこりと笑ったまま彼に宣言した。ナイヅもリーザも止める気はないのか、哀れんだ目を向けているものの、ヒヨコ虫を助ける気はないらしい。
「さーて、とっとと食って飲んで元気になれよシロ! それが終わったらどうしてお前がそんなことしたのかたっぷり聞くからさ!」
「……ちっ!!」
 真の意味で寒気を感じたシロが、旅の終わりのその瞬間に今まででも一際悲惨な悲鳴を漏らす。
 声を聞きつけた周囲の人々が何があったと驚き戸惑いながら声が聞こえる方向を見るも、命の危機に瀕したヒヨコ虫は大人一人と子ども二人に見事隠され、脱出できずにそのまま浚われることとなった。

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