Durst Polka

ゆうがた


 次第に太陽が蝋燭の最後の煌めきの如き強い橙色の光になりつつあると気付き、アリアはそわそわと周囲を見渡した。誰かこの人混みの中で時計を翳している人がいないかと探してみるも、やはりそんな都合良くこちらに時計を覗かせてくれる人などいない。
「おい、何してんだ」
 ちょっと目を離しただけなのに、ゼロスが知らない人の向こう側にいて、はっと我に返ったアリアが彼との距離を詰めようと横に移動する。仕方ないが途中、見知らぬ誰かが割り込まれて眉を顰めた。
「あの、ごめんなさい」
 頭を下げつつゼロスの隣にようよう移動すると、アリアは安堵の息を吐く。
 普段からマイペースなアリアにとって、やはり人混みは苦手だった。少しぼうっとしているだけで流されてしまうのだから、常に神経を張りつめねばならない。昼前まではテンションの高さと十分に充填された体力からその点がカバーされていたが、今は不安と疲れが足に押し寄せているため少しふらつく。
 それでも弱音を吐くまいと心に強く言い聞かせられるのは、今は何とか隣にいてもらえている青年のお陰だ。冷酷と言うほどではないが面倒を見るにしても甘くない彼のお陰で、アリアはこの人混みの中でも何とか目を回さずにいられる。
 流されそうな自分に気合いを入れようと下唇を軽く噛むと、アリアは隣のゼロスを見上げる。
「あと、何分くらいなんでしょうね……」
「さあな」
 天幕は今でも簡単に視界に捉えられるが、正解のものがどこにあるのかはさっぱりわからない。目印にそれぞれ違う柄の天幕や旗を立てれば迷わなくていいと思うのだが、そうできない事情があるのだろうか。
 そんなことを考えながらうんと背伸びをして歩くアリアを奇妙に思ったのか。ゼロスが呆れの色を隠す気もなく呟いた。
「……何してんだ?」
「あのテントのてっぺんに、旗とか目印になりそうなものを立てるのって駄目なんでしょうか」
「はぁ?」
 完全に怪しんでいるゼロスの言葉に、アリアは慌てて彼を見返す。
「あの、えっと、そう……思いながら、上を見てたんです」
 説明を受けてようやく納得したような声を漏らすと、ゼロスもまた僅かに爪先立ちの姿勢で目前の天幕の頂点を視界に収める。
「……ま、その方がお前なんかにとっちゃわかりやすいだろうな」
「はいっ」
 賛同を得て頷くアリアに、しかし当人としては鬱陶しいことに面倒見が良い男は小さく口を尖らせる。
「んなもんあったら俺もお守りなんざしなくてもいいってのによ……」
 我が身の不幸をぼやく男ではあるが、ぼやきは当の相手の耳に入らない程度の小さなものであるためか、幸いにもアリアの笑顔は曇らなかった。
 それから五分か十分ほどか。太陽光がますます赤々とした輝きを増し、視界の隅にちらと入るだけでも目を焼くような鋭さを持つ頃、ようやく二人は目的の天幕に到着した。どうしてそこだと確信を持ったかというと――。
「三番ッ、シオラッ!ばく転宙返りしまーすっ!!」
 聞き慣れたどこぞの獣人の声が、天幕の場所を確認しようと人通りが激しい入り口付近にしがみついて辺りを見回していた二人の耳に入ってきたからなのだが。
「よっ! 待ってましたっっ!」
「シオラ、頑張ってー!」
「落ちんなよぉ〜!」
「あったり前じゃん!」
 はやし立てる声は聞き覚えがないが、女を呼ぶ名はよく知っているもので、且つ野次に応じるわかりやすい声に、一方はほっと安心し、もう一方はげんなりした顔を作る。
「……もう出来上がってんのか」
「みたいですね。けど、今のワタシにはありがたいです」
 真面目にゼロスの呟きに乗じると、アリアは案内してくれた男に向かって体を反転させ、そのまま狭いスペースで出来る範囲なりに深々と頭を下げた。
「ゼロスさんが付き添って下さったお陰で無事に着きました。ありがとうございます」
 生真面目な挨拶に、男は男なりに気を張っていたのか大きく肩の力を抜く。
「……ほんとにな。なんで数秒目ぇ離したくらいで流されてんだよテメエは」
「……そのう、すみません……」
 俯き顔を赤くするアリア。ふらふらしがちな自分をここまで連れて来るのは苦労しただろうと思うが、肯定されるとそれはそれで居たたまれなくなる。そんな中でこの日のために新調した財布が目に入ると、彼女は不意に黙り込んだ。
「ま、今んなっちゃどうでもいいがよ。俺はもう帰るぜ」
「待って下さい」
 いつまでも出入りの激しい場所で立っているのに疲れたのだろう。ゼロスが背を向けかけたところで、アリアは決意の面差しで顔を上げた。
「んだよ……。まだ何かあんのか」
 言い切って、ゼロスは盛大に舌を打つ。振り向いた視線の先のアリアが、あの釣り銭がぱんぱんに詰まったがま口の財布を彼に差し出していたからだ。
「これ、細かいのばかりですけど、お礼に受け取って下さい」
「いらねえっつっただろ。んなもん貰ったところで端金にもなりゃしねえよ」
「けど、ゼロスさんにはお世話になりましたから。……後でお返ししようと思っても、ワタシもゼロスさんも忘れちゃったり、改めるてお礼をするのもどうかなって思ったりするかもしれませんし」
 こんなところで細々と気を回すアリアにゼロスは大きく吐息をついたが、やはり彼はそれを受け取って丸く納めようとする気にはならないらしい。苦い顔をして、差し出された財布を掴むと少女の方へとぐいと押す。
「いらねえ」
「で、でも……!」
 自分の胸に押し付けられたアリアは当然戸惑いながらゼロスの顔と財布を交互に見るが、義手は頑として動く気配がない。見かねて押し返そうと彼女が自分の腕に力を込めるも、付け焼き刃のドーピングと剛力の指輪では彼に敵うはずもなく、鋼の指はぴくりともしない。
 それでもアリアとて意地がある。ここまで乗り気ではないのにわざわざ案内してもらった彼女にとっては、申し訳ない気分で一杯なのだ。何らかのかたちでお礼をしなければ、仕事中もきっと胸の中でこのことが引っかかるに違いない。
 双方一歩も譲る気のない、ある意味では謙虚な攻防戦はさてどのくらい続いたのか。結局二人の無言の戦いは第三者によって打ち消された。
「ねえねえねえ、アリアだよね?」
 ちょんちょんとアリアの肩をつついた誰かの声の方を彼女が見ようとするより先に、ゼロスがげっ、と蛙を牽き潰したような声を漏らした。
「よかった、着いたんだ〜。心配してたんだよ、アデルもケイも来なかったらどうしようって。あ、けどゼレナもまだなんだよね……。あの子来るかなあ?」
 明るい茶褐色の髪の給仕娘が、両手一杯の麦酒と人通りの激しさを物ともせずにころころと表情を変える。その上、娘は実に良く喋る。
 急に話しかけられたアリアは暫し呆然としたものの、慌ててその人物の名を呼んだ。
「リディアさんっ!」
「ん?」
「あのっ、遅れてすみませんでしたっ」
 狭いなりに頭を下げようとするアリアに、リディアは良く言えばからりと、悪く言えば脳天気に笑う。
「いーよいーよ。場所教えてなかったあたしらが悪いんだし。あ、ゼロスがアリアに場所教えてくれたんだ」
 よかった言っておいて、と安堵の息を短く吐くリディアに、アリアが控えめな微笑みを浮かべるのとは逆に、ゼロスが苦い表情を浮かべる。ついでに、長居するのは危険と察知したらしい。
「帰る」
「あ……」
 アリアに財布を押し付けていた手も離して逃げようとするゼロスを、しかしリディアは無慈悲に逃さない。
「まあまあ、そう言わずに!」
「……はぁ!?」
 何をどうやってそんな器用なことができるのか皆目見当もつかないが、いつの間にかリディアの両腕がゼロスの腕に絡みつく。当然、その両手にはまだジョッキがあるし、ついでに言うならそれらは零れた様子はない。
「折角来たんだからさ、ちょっとくらい飲んでいきなよ〜。アリア連れてきてくれたお礼に、二、三杯くらいなら会計ちょろまかせられるし!」
「いらねえよ! つか誤魔化していいもんじゃねえだろ!」
 ゼロスの苦々しい反論を聞いて、依頼に対しては割と真面目なんだなあ、とアリアは妙に感心した。と同時に、遅蒔きながらもこれは好機だと気付かされる。
「じゃあ、ワタシが奢ります!」
「はぁあ!? いらねえっつってんだろ!」
 リディアにぐいぐいと引っ張られる体勢のゼロスが、思わぬ横槍に大きく目を剥く。それほど過激なことを言ったつもりのないアリアではあるが、ここで引けばまた押し問答になることくらいはわかる。となれば、やることは一つだ。
「いいえっ、奢ります! 奢らせて下さい!」
 財布をポケットに仕舞うと、アリアはリディアの助けをしようとゼロスの背中を押していく。
「いらねえもん押し付けんのが恩返しの訳ねえだろ! おい、てめえら、とっとと放せ!」
「えー飲むくらい別にいいじゃん。何なら他の知らない人にあげてもいいと思うしぃ」
「そうですよ、飲むだけならあまりお時間は取りませんし! ゼロスさん、別にお酒お嫌いじゃなかったですよね」
 流石に二人掛かりは耐えられなかったのか、重心を後ろに置きすぎていたのか。アリアに押されることでゼロスの体がずるずると前方へと移動を始めた。
「てめえら……! つかな、こんなことで無駄な体力使うな!」
「使わせてるのはゼロスじゃーん。往生際悪ーい」
「そうですよ。ゼロスさんが大人しく何杯か麦酒を飲んでしまえば終わる話なんです」
 アリアの発言でようやくその気になったのか。ゼロスがまだ苦々しい顔なりに何も言わなくなると、二人の少女は互いに目を合わせながら男の前後で力強い笑みを浮かべた。勝利である。
「……笑うな。むかつく」
 ぼやく男の声が聞こえたが、やはり知らない振りのままに二人はぐいぐいと人垣をかき分けつつゼロスを引っ張っていった。


 橙色から淡い紫に染まる空の縁を覆う木々の色が、いつからか宙天と繋がろうとするような青っぽい黒を纏う。まあそう見えるのは空からの光源が弱くなったからだとわかっているのだが、それでもやはりヴァンはこの、いつの間にかの光景を不思議に思ってならない。似合わないなりに哲学的なことを言うと――多分、堕落したヒトの姿を連想させるからだ。
 高潔に生きるのは難しい。それが許される、同じ志を持つ人々に囲まれた環境であれば簡単だろうが、俗世に身を置いたまま清らかであれと自らに暗示をかけるのは、拷問と変わりない苦しみと生き辛さを味わうことにもなろう。
 エルフの身の上でありながら血気ある肉弾戦を好み、また肉類についても平気で口にする我が身を省みながら、ヴァンは木の根に腰掛ける。
 草木の茂るこの土地は、確かに余所に比べれば緑豊かな方ではあるだろう。しかし人間たちの住みやすいように手を加えられた場所故に、ヴァンにとって馴染みのある環境ではないが、それでも僅かに落ち着きと言うか、他者の気配に敏感になれるような気がしている。お陰で今の今までモンスターは見つかるよりも先に見つけて撃破できている、ような気がする。エルフの癖に自信がないのは、前述のような事情で草木との結びつきが弱い自覚があるからなのだが。
 それでも人間のように長年の感覚からの察知や、魔族のように魔力を駆使した探知ではなく、本能的な部分でそんな気がしていることに、ヴァンは少なからず安心する。いくら自分がエルフらしくなくても、根っこの部分は変わらないのだと自覚して。しかしまあ、そんなことに安心を覚えるとは案外。
「……暗いなー、俺」
 ぽつりと呟くも、返事はどこからも返ってこない。
 不安定な少年期で短いなりに荒んだ人生を送った影響か、多少その自覚はある。特に今のような、長らく独りぼっちでいるときなんかは暗い自分がいつの間にか普段の自分と入れ替わっている。大人になってそこそこ長いのだからこんな思考をする自分は受け入れているのだが、やっぱり少し恥ずかしいと言うか、皆に知られたくないなと思いもする。
 まあ変わっていると言うか、物理攻撃派で肉を平気で食べて馬鹿で落ち着きがあまりない時点でエルフらしくはない自覚はあるのだが、それを自覚すればするほどもし、と言う意味のない仮定が頭に過る。――もし、両親も健在でトライアイランドの森で暮らせていたら。自分は森に一体感と安心を覚え、肉食を嫌い、闘いを厭うのだろうかと。
 それが魅力的であるかどうかはわからない。けれど何が何でも生き延びてやると誓ったあのとき、ヴァンは故郷の森に戻る道を捨て、肉を口にした。脂に慣れないため吐き気があったし腹も壊したが、それ以上に美味いと思ったあの感覚はいまだ忘れられない。
 肉を口に含み、大量の涎を咥内が溢れるほど分泌させ、夢中で租借して、理性で美味いと自覚した瞬間に、大地にあるもの全てから見放されたような感覚を受けた。お前はそれを美味いと思ってしまったのか、と誰かを酷く絶望させたような気がした。
 緑に囲まれた場所に独りでいると、大抵はあのときの居たたまれなさが押し寄せてくる。波が引いていくように、大地の祝福が自分の身を離れていく喪失感が――どれだけ自分が泣き喚いても絶望しても助けなかった癖にしっかり見守っている気だったものが失われていく感覚が――、肌に伝わり脳に響き心を深く傷を付けた。
 今もそうだ。どこにもない古傷が、疼いて仕方ないのに掻き毟る箇所のないことに、ヴァンはやるせなくなる。
 けれど大地の祝福から縁を切られたすぐ後のこと。自分はただのヴァンとなり、骨董商の夫妻と出会えた。最大の幸運だったと、誇れるほどの出来事だった。けれど、けれど――それはつまり。
「見放されるのが運命ってことなのかねえ」
 それはそれで辛いな、とヴァンは正直に思う。エルフに生まれながら、エルフとして与えられた祝福を捨てることでようやく生が始まるなんて。けれどあのとき肉を口にしていなければ餓死していただろうと思うと、肉を頑なに食わずにいた自分が馬鹿らしくなるのも事実。高潔を気取ったまま死ぬなんて、今の自分にとっては愚の骨頂だ。
 エルフのままでありながら魔族の夫婦と出会う道がないのは、少々ばかり寂しい。わがままなのが近くにいるから尚更そう思う。
 けれど自分と相反する恵まれた立場にいながら、あの夫婦との出会いも果たしたのはケイの方だ。もし奇跡的に自分がエルフとして正しいままあの夫婦と出会っていれば、逆に彼女がエルフとしての加護を失っていたかもしれない。それは少し、否とても。
「……なんつうか、嫌だよなあ」
 自然からの加護による能力補強は、エルフの女性にとって重要である。男性はヴァンのように血肉を口にしてしまっても、まだ体を鍛えさえすればモンスターとも渡り合える。だが女性は余程の才能がない限り、鍛えられた肉体のみでは生きていけない。
 そう考えた上でもしケイが今のヴァンのような境遇に陥った場合、その後は割と悲惨だ。魔力によるバックアップで物理面での火力不足を巧みに補うスタイルの彼女が、そのバックアップを丸ごとなくすと考えると、やはり性能が劣る印象は拭えまい。彼と違って体を鍛えれば何とかなる、なんて大ざっぱな解決方法は取れないだろうと思うと尚更に、首筋に這う嫌な感じは強くなる。
 結局そんな状況になるくらいなら、現状の方がましなのだろう。故郷と自然の加護を失っても何とかなっている自分と、自然の加護を活用しながらも自ら故郷への帰路を手放したケイの差は割と大きい。
 しかしそう考えてみれば世の中とか運命とか言ったものはバランスが取れているものだ。種族を捨て腕力で生きてきたエルフと、故郷の地位と環境を捨て温かみの中で生きるダークエルフと、お人好しな両親の間に生まれたのに詐欺師の親族に全てを奪われた魔族の少女と言う、不幸と幸運を背中合わせにして生きてきた面子が一堂に会しているのだから。
 今でもあの親族とやらは声を思い出しただけで腸が煮えくり返る気分になるが、三人きりになって今に至るまでの様々な経験は悪くなかった。気苦労も多かったし不安も覚えたが、それだけ楽しく充実していた。
 とは言え、捨ててしまったものと釣り合いが取れているほどかと訊ねられても、迷う可能性は大きい。けれどこのままの調子であれば、恐らくは胸を張ってその問いに肯定出来るほどの充実感を得て生きていけるのではないだろうかとも思う。
「ま、その辺はお嬢次第なのかねえ」
 一番幼い少女に未来の自分の幸せを託すなんて無責任だろうけれど、反面あの少女が笑顔でいられる日々が続けばそれだけで今までの苦労が報われた気にもなる。
「何がアタシ次第よ」
 全くもって不意に耳慣れた声が聞こえて、ヴァンは大袈裟なくらい驚きながらも背後を振り返る。夢幻ならばもう少し可愛げがあるだろうに、薄紫の光沢を持つツインテールの民族衣装の娘は、彼と目が合うとふんと鼻を鳴らして見せた。
「何よ、モンスター退治に励んでるのかと思ったらぼーっとしてるだけじゃない」
「し、してませんて! まあ、ちょっとばかり暇だったのは確かですけど……」
 嘘を吐けない性分の男は呟くように弁明の言葉を続けようとするが、それを許す少女ではない。薄暗い周囲をざっと見回していた藍色の瞳を、刺すような冷たさを含んでヴァンに向けてくる。
「へーえ、羨ましい限りねえ。アタシは今の今までずぅう〜っとジョッキ洗いしてたって言うのに」
「あれ、配る方じゃなかったんですかい?」
 ヴァンとしては純粋な疑問でしかなかったのだが、予想以上に効果のある地雷だったらしい。ぶつんと何かが切れるような音がしたと思うと、男の腕が少女の両手に鷲掴みされる。地味な痛さを伴って。
「そぉねえ……そのはずだったんだけどねぇ!」
「い、いだっ……! お嬢、痛いっ、痛いって!」
 ヴァンの抗議も華麗に聞き流して、いつものような瞬間湯沸かし器の如き怒りではない、あくまで可愛らしく無邪気めいた笑顔を浮かべ、けれどこめかみだの首筋だのに太い血管を浮き上がらせながらブリジッテはかくも語る。
「ガキみたいな馬鹿とか人の迷惑考えない馬鹿とか臆病な馬鹿どもとかに邪魔されたせいでそれさえも出来なくなっちゃったのよねぇええ!! 折角、あのケイがアタシの成長を認めたってその時を狙っていたかのように! なにあれ、どっかの陰謀? あの糞どもがアタシに差し向けてきた新たな嫌がらせ!?」
 可憐な花びらめいた色合いの唇も、無声状態なら少女らしい他愛ないお喋りならどんなに良かったかと思わせる、血塊色の怨念が籠もった呪詛の言葉を止めどなく流していく。痛がっている場合ではないと悟ったヴァンは、何とか宥めようと遅いなりに言葉を選ぶ。
「い、いやあ、あいつらは知らんでしょ。お嬢は、そうしたらもう仕事終わったんですか?」
「そうよ! だから頑張ってるはずのあんたを労いにきたつもりなんだけど」
 それはまたタイミングが悪い。本気でそう思ったヴァンの気持ちを嘲笑うように、ブリジッテは彼の顔を視界に納めようとする。案の定、その瞳は鼠を捕らえた猫さながらに意地悪な輝きを湛えていた。
「あんたがそんな調子なら、もうここは見回りなんか必要ないみたいね。じゃあ、アタシがあんたを役立ててあげるわ」
 嫌な予感を覚えたヴァンが口の端を引き攣らせるよりも先に、ブリジッテは力強く彼の腕をぐいと奥へ引っ張っていく。奥とは彼が今まで見ていた夕闇に溶けゆく雑木林ではなく、むしろその反対の明るくて歓声と乾杯の声が聞こえる賑やかな収穫祭の会場のことで――。
「さあヴァン! 食うわよ飲むわよ覚悟しなさいよ!」
 会場からの照明に照らされたブリジッテが一際明るく男に笑いかける。不敵な笑みだ。ささやかな幸せに満足さを示すものでもなく、両親の腕に甘える可愛らしいものでもない。遺跡の宝を発見して、全部自分のものだと言い張ったときのままの、呆れるくらい欲張りで勝ち気な。
「ちょっ……ちょっと、待ってくださいよ! 俺、一応ここの見張りは仕事で……!」
 その笑みに気を許しかけたところで我に返って焦るヴァンに、しかしブリジッテは動じる素振りを見せようともしない。
「アタシの命令と仕事、どっちが大事かわかってるでしょ? 言い換えれば、アタシの機嫌と金よ?」
「いやちょっと、お嬢それは……!」
 苦しげにヴァンが呻く姿が楽しいのか、ブリジッテはふふんと笑いながらまたも男の腕を引っ張っていく。けれどここで天の助けか悪魔の介入か。雑木林側の奥から大きな違和感を感じ取り、彼はそちらを弾かれたように見る。
「ヴァン?」
 不思議そうな顔をしたブリジッテだが、今のヴァンの反応を見てすぐに事を理解したらしい。ふうん、と楽しげに笑って彼と同じ方向を見る。
「アタシ、今武器持ってないのよね……」
 それは不幸な話だとヴァンが肩を竦めるが、全く気にしていない顔でブリジッテが彼が見ている方向に手を伸ばす。
「援護はしてあげる。けど、アタシを傷一つ付けずに倒すのよ!」
「あいよ!」
 飲み食いは暫しお預けになったが、悪い気はしなかった。傍にはブリジッテがいて自分の本懐を果たせるのだから、むしろ喜ばしいほどだ。そんな気分のまま短く応えると、ヴァンは飛び掛るようにして影に潜む敵へと拳を振り下ろした。

 エトヴァルトが帰ってこないとアルが気付いたのは、一時間ほど後のことだ。風の源聖とヒトゲノムが生み出す殺伐とした空間から長らく解放された少年にとっては思ったよりもっと短く感じたが、疑いが確信になるだけの時間が過ぎると大いに落胆したし、怒りもしたし、何より羨ましかった。この三人の中で真っ先に離脱するのは自分だろうと密かに思っていたからだ。
 アルが離脱する理由があるとするならば、しかしエトヴァルトほど思い詰めた――持ち場から離れたヘルメスのことだろう、といくら自分しか見えていない時期の少年でも気付いた――ものではない。他の二人が醸し出す空気が嫌で逃げ出したとか、収穫祭があまりにも楽しそうだからさぼるためだとか、そんな理由でいなくなってしまいそうな自分が現在進行形でいるのだ。それに比べればあの生真面目な男は遊びに逃げた訳ではないから、少年は正当に彼のエスケープに怒れる立場だと思えなくて、胸の内に靄を抱える羽目になった。
 しかしそんなアルとは対照的な心境だろう、意気揚々と現れたるは鉄魔神二体とブラッティビースト、ラフレシアが各一匹。敵が二人になってもう一人が帰ってこないと連中も確信したのか、鉄魔神一体とブラッティビーストが大胆にもアルへと突進してくる。
「まずっ!?」
 思わず背後に飛び退いたアルだが、再び地面に足を着けるとお返しとばかりにニ体のモンスターに横一線で切り付ける。しかし少年の反撃を読んだ鉄魔神の腕が前に出て、ブラッディビーストの鼻先を切りつける予定の一撃を弾き上げる。
「……っ、こいつら」
 予想外の介入を受けたアルは、仕切り直しの意味も含めて間を取りながら再び剣を構え、敵を見据える。向こうも数で勝っていることに油断している様子もなく、こちらを油断なく伺っていた。
 弱いモンスターならばこちらが睨んだだけでも及び腰になるものだが、二匹のモンスターはそうなる気配もない。むしろ少年の方が一歩退いてしまいそうなほどの緊張感が肌を刺激して、アルは内心舌打ちする。
 今対峙している連中は、今朝から退治してきたモンスターの中でも特に強い。パーティーを総合で見てもバランスが妙に取れており、楽に倒せる相手ではないことは確かだ。
 横目でデューザを覗き見ると、もう一体の鉄魔神を相手にスダルサナで容赦なく装甲を削っているものの、巨大なモンスターの奥に潜んだラフレシアが回復魔法を惜しみなく使って削られたダメージをカバーしていく。
 じわじわと距離を積められる前にデューザが距離を取れば、その分だけラフレシアが鉄魔神を完全に回復させて振り出しに戻る。彼が鉄魔神に致命的なダメージを与えようと思えば、彼もまた相手の攻撃を受けるつもりでないといけなくなる訳だ。鉄魔神が痛覚のない鎧型モンスターだからこそ出来る作戦は、端から見ているアルにとっても実に腹立たしいが堅実な戦法ではある。
 だがデューザとアルの間に距離があるように、ラフレシアの回復範囲内に彼が対峙するモンスターはいない。敵に近付けさせず一気に畳みかければ、勝負はこちらの方が早く決まる。
 幸い、ポシェットの中には道具袋からくすねたキュアハーブがある。死なない程度の傷なら平気だと自分に言い聞かせ、今は怒濤の攻撃を繰り出すしかないと心に決めたアルは、カランドラの柄を一際強く握って魔術を発動させる。
「アース・ノヴァ!」
 途端、七色に輝く光の帯が獣と鎧の魔神を襲うが、防御の姿勢を取る彼らの予想に反して光の粒は豪雨の如き無慈悲な痛みを与えてこない。それもそのはず。アルは剣士なのだから、魔術使いとは違って高位魔術を使ったところで効果など高が知れている。
 狙いは敵の動揺。煌めく雨のような光の弾が丁度途切れた瞬間に、アルはブラッティビーストめがけて水晶の刀身を振る。
 ニ体のモンスターは直ちにアルを捉えると、一匹は逃げようと、もう一体は至近距離にいる上にがら空きの赤い頭に拳を振り下ろそうとする。だが彼らは間に合わないと少年は知っている。勿論、自分の退避も含めての話だけれども。
「そうはさせないわよ!」
 鋭い声が聞こえたものの、アルの目にはその声の主がどこからやって来て何をしたのかを捉える暇などなかった。
 集中した少年の目がブラッティビーストの首に透明の刃がさくりと食い込むのを見届けると、柄を握った手に力を込める。粘土めいた感触の中から石のように硬いものと遭遇と、アルは短く後ろに退いた。
 首から血を吹き出しながら藻掻くブラッディビーストを後目に、鉄魔神がどうなったかを確認しようとするアルの視界に飛び込んできたのは、両親の長い友人である小父が両手剣を持ったままこちらに突進してくる姿だった。
「うぇ!?」
 慌ててアルが避けるも、ナイヅは無反応のままお手本のような一太刀で、拳を振り下ろす体勢のまま硬直している鉄魔神の腹に一筋の傷を付ける。
 雷にでも打たれたように痺れていたモンスターはそれでも意識は残っているらしく呻くような怒りの声が漏れていたが、剣士は気に留めず無慈悲なまでの剛力でもう一、二太刀を浴びせ、胴体から上下真っ二つに切り離す。
 二つに割られた上、心臓部であるパワーストーンにまで皹を入れられると最早逆転など出来やしない。結果、抵抗の一つも示すことなく鉄魔神は甲冑の奥に宿していた光と全身の麻痺を失い、拳を地面に着けたときにはただの鉄塊となり果てていた。
「……さて」
 鼓動の如く煌めいていたパワーストーンの輝きが完全に失われ、その籠手の下敷きになったブラッティビーストもまた出血多量か圧死で最早動かぬ物体となっているのを見届けると、ナイヅは振り向きアルと視線を重ねる。
 悪いことなどしていないはずなのに何故か、アルはその視線を受けてぎくりと全身が軋んだ。
「お……おじさんたち、なんで」
 ここにいるんだとアルが尋ねるよりも先に、背後からリーザが銃のどこかでこつんと殴る。痛くはないが驚いた少年は、大袈裟なくらいの反応で振り返った。
「何すんだよ姉ちゃん!」
「何を焦ってるのか知らないけど、あんな鉄砲玉っぷりを見せられたらね。頭の一つや二つ殴りたくもなるのよ」
 こつこつとアルの頭をソニックガンのグリップで軽く殴りながら、リーザはため息を漏らす。ブラッティビーストに斬りかかったときのことを言われていると気付いて反論しようとしたアルだが、彼女の指摘は尤もなのでどうにもいい台詞が浮かばない。
「……いいじゃんかよ、別に。一気に片付けようと思ったくらいさ」
「それがよくないんだってば。……いつまで経っても余裕のない戦い方よねえ、アルってば」
 客観的に欠点を指摘され、アルは内心言い返したい気持ちを抑えながらも口先を尖らせる。丁度後ろのデューザがハウリングブレイドで鉄魔神を硝子のように破壊したところで、それは確かにリーザ曰く余裕のある戦い方と言えるだろう。盾を失い逃げようとするマンドラゴラの悲鳴を背に、少年は話を逸らす。
「うるさいなあ、偉そうにお説教出来る立場じゃないだろ」
「どうしてよ」
「姉ちゃん、今日は会場で酒配ってるのが仕事だろ。こんなところでサボってちゃ、不味いんじゃないの」
 相手にとって痛い指摘のはずなのに、どうしたことかリーザは甘いわねと言わんばかりに鼻で笑った。予想していなかった反応に、アルは軽く動揺させられる。
「アタシは夕方から自由なの。けど一人で見回るのはつまらないから、朝から頑張ってる皆を誘ってちょっと気分転換してもらおうかなと思ったんだけど……」
 ナイヅと一緒に来た理由と、ここに来たのは好意からだと明かされてアルは慌てるが、それよりも先に二人が苦笑する。
「……アルのところも、二人きりか」
「今度は連れていけないかもねえ……」
「ええぇえええ!?」
 一人欠けているとの指摘に、絶好のタイミングでいなくなってしまったエトヴァルトに今度こそ恨みの声を上げたくなったアルだが、少年の頭は本人の自覚している以上に冷静だった。それとも普段なら聞き逃してしまう言葉を捉えられたほど、収穫祭に対しての執着心が強いのか。
「……あれ、『も』ってどう言うことだよ。姉ちゃんも、『今度は』って……!」
 アルの追求に、ナイヅは賞賛めいた笑みを宿し、リーザはしまったとでも言いたげに目を反らす。
「俺のいたチームもゼロスが……、ちょっとした理由でいなくなったんだ。それで一端リーザには諦めてもらったんだが、丁度折りよくゼレナが来てね」
「ゼレ、ナ……?」
 ゼレナがここに来たときのことを思い出し、アルは潰され蛙の如き悲鳴を漏らす。そもそも彼女が来たせいで、シロとヘルメスがいなくなったことを知ったエトヴァルトがいなくなってしまい、そのせいでリーザには戦闘スタイルについてお小言を食らうわ連れて行ってもらえないわの散々な目に遭っているのだ。
 あいつのせいで、だのどうしてあいつが、だのと呻いているアルの態度に違和感を覚えたリーザたちが首を傾げ合うのも当然の話だが、それを的確に説明する冷静さなど今の少年の頭には消し飛んでいる。かと言って、もう一人のチームメイトが少年がこうなる心境を説明するはずもない。
「……ねえデューザ? ゼレナがどうかしたの?」
 一応訊ねてみるリーザだが、足下にマンドラゴラの死体を転がしている寡黙な男は普段と同じくこちらに興味の一欠片もない顔で一言。
「一度こちらに来た」
「そうなの?」
「そうだよ! あいつのせいでエドがいなくなったんだからな!」
 があっと牙でも剥かんばかりの剣幕で顔を上げるアルに、ナイヅはおやと目を見張る。
「どうしてそうなるんだ?」
「ゼレナが言ってたんだ! ヘルメスとシロを会場で見たって!」
「そうなの?」
 じゃあ西には行かなくていいわね、と呟く冷静なリーザにナイヅは感心と呆れが混ざった半笑いを浮かべる。
「そんでゼレナにイサクの居場所教えた後、エドの奴、血相変えていなくなっちゃってさ! それからもうずーっと帰ってきてないんだよ!」
 アルが随分荒んでいる理由も判明したところで、リーザはナイヅにちらと視線をやりながら大きく頷いた。
「……成る程、大体事情はわかったわ」
 視線を受けたナイヅはややも責任を擦り付けられた気持ちになったのだろうが、アルはそこまで見れていない。恩を仇で返すゼレナの行動に頭から湯気が出るほど怒っていたが、次の瞬間その怒りも霧散した。
「ならまあ、アルに責任はないから連れて行こうか」
 ナイヅの発言に、リーザは首を浅く振り、デューザは相変わらずの無反応で、そしてアルと言えば。
「ほんと!?」
 荒み顔から一転して陽光さながらの明るい笑顔を作り、期待と感謝の眼差しをナイヅに送る。その瞳の輝きに、多少男の顔が引きつるがそんな理由は少年は知らない。
「ナイヅさんてば、アルに甘いわよね。残されたデューザの負担も考えてる?」
「だ、大丈夫だよ! モンスターなんか一時間に一匹二匹来ればいい方だし!」
 必死のアルがフォローするが、リーザとナイヅは奥のデューザを無言で見つめる。かのヒトゲノムにそんな手が通じるとは端から思っていないのだが、一応試すのも悪い手ではない。
「……な、デューザ!」
 アルも彼らの視線の先に気付いて、振り返り相変わらずの無表情で木にもたれ掛かる男に懇願の眼差しを送る。対してデューザは、やはり無表情で。
「好きにしろ」
 本当に憐れみも同情も浮かべていない、ただ喚く少年の鬱陶しさに煩わしさを感じたのかと推測させる愛想のなさで答えた。



 アルは二度と帰ってこないと思い込んでいたのだが、エトヴァルトとしてはそんな気などなかった。騒がしい場所はそれだけ人間の醜さを見せつけられる場所でもあるのだから、むしろこんな祭りになど自主的に参加する気はない。用件を済ませたら速やかに帰る、そのつもりだった。
 けれどエトヴァルトとは違い、その扶養者である少女は知的好奇心が鎌首を擡げたところである。多くを知り多くを見、己の心を手探りで形成したがる丁度その時期にあるため、まず見つけるのには苦労するだろうと彼はある程度覚悟していた。
 覚悟と予想は概ね当たり、エトヴァルトは持ち場から離れて一時間近く経った今も尚、ヘルメスを見つけられずにいた。しかしそれは彼の手際の悪さが問題なのではない。かの無垢な少女の精神がある程度育っていれば趣味趣向が判明しまだ探す場所に見当が付いたのだが、相手はいまだ何にでも興味を示す状態である。会場全体を丁寧に見回ろうとしても、夜が更けていくほどに混雑する中ではそれもままならないし、気配を探ろうにも人の密度の高さから至難の業となった。
 だがそれでもエトヴァルトは諦めなかった。一緒にいたシロが何やら吹き込んだ可能性はあるが、それでもヘルメスが約束を破るような子になって欲しくなかったから。慣れない人混みに疲労と苛立ちが募り、全身が鈍くなりつつあると自覚してもまだ彼の目は静かな責任感のみを湛え、少女を見つけ次第八つ当たりをする気など――。
 否、否。八つ当たりをする気がないと、意識した時点でそんな自分がいたことを自覚することにもなる。青年はゆっくりと人垣に沿うよう歩きながらも自分に冷静になるよう言い聞かせると、一人でから回ることを諦める。つまり、他者の協力を得ようと思考を切り替えた。
「……すみません、ここには迷子を預けるような場所はありますか?」
 早速近くの誰かに尋ねると、その男性は急に話しかけられて驚いたようではあるが親切にも答えてくれた。
「ああ、本部がそうだったかな……。確か、あの、辺りですよ」
 軽く背伸びして振り返り気味に天幕を指す男性の視線に合わせるように、エトヴァルトも同じく背伸びをして振り返り気味に体を傾ける。
「本部、ですか。わかりました、ありがとうございます」
 行き過ぎていたらしいことは辛いが、それでも目的地が明確だと身のこなしにも力が入る。すぐさま反対側の方向に移動して本部とやらの天幕に向かったエトヴァルトは、まずは辺りを見回してここが本部でいいものかと中を覗き込み確認する。
 本部とあの男性が示していた天幕は、確かに周囲の屋台や天幕と空気が違った。人に溢れているのは確かだが商社か役場のような忙しなさに包まれており、天幕の内側で働く人々もあの民族衣装を着ているものの顔立ちや行動に祭りの浮かれた雰囲気とは違うものを感じる。それより何より、巨大なグラスジョッキを持つ者が皆無だ。
 エトヴァルトと同じく多くの民族衣装を着ていない客たちもまた、顔色が悪かったり落ち着きがなかったり退屈そうだったりと収穫祭を楽しんでいる様子ではない。その中でもざっくばらんな列らしいものが出来ていると察した彼は、近くの誰かの後ろに並ぶ。
 そうして十分もしないうちに、内部で働く者が気を利かせたのか並んだ客たちに何やら大雑把な要件を尋ねているらしい。早くヘルメスが見つかるかもしれないと望みを持ったエトヴァルトに、その職員とやらがボードに書き込みつつ彼と視線を合わせた。
「はいそれでは次の方、何のご要件でこちらに来られましたか?」
「親戚の子とはぐれてしまいまして。頭にターバンを卷いて、藍色のワンピースを着た子なんですが……」
 疲れの色が見える民族衣装の娘の顔が、はっと正気の色に戻る。
「ああ……、その子ならこちらにいませんよ。隣の医療用テントで、知り合いの方が面倒を見ておられます」
「医療用テント……?」
 知り合いと聞いて真っ先に浮かんだのがカルラだが、彼女はまだ会場で働いているはずだ。引っかかりを覚えるものの言われた通り本部の天幕から離れ隣の消毒液の匂いが漂う天幕にたどり着くと、誰かの声が聞こえてきた。
「それでは、お願い致しまする」
 対する相手の返事がないが、聞き覚えのある声と独特の口調に間違いはないと見てエトヴァルトが薄暗いが清潔な印象漂う天幕を潜ると、確かにそこにいたのはカルラだった。今朝会ったときの民族衣装のままで、予想外に疲れを感じさせない穏やかな顔で衝立の奥を見つめている。
「カルリーネ」
「……エド!?」
 呼んだだけなのに軽く椅子から飛び上がらんばかりの反応をされて、声を掛けたエトヴァルトもまた軽く目を見張る。しかしカルラは彼の反応に疑問を持たなかったらしい。驚きを顔面に張り付けたまま、まくし立てる。
「どうなされた、貴方は警備中ではなかったのでするか!? もしや、貴方も……」
「……も、とは?」
 先程本部の天幕で聞いた話が本当なら、やはりカルラがヘルメスを匿っていることになる。だからエトヴァルトはごく冷静に、まずは彼女の誤解を挫く。
「安心して下さい、カルリーネ。ヘルメスを元の場所に帰し次第、私も持ち場に戻ります。……それを目的にしているとは言え、無理をして持ち場を離れた私も同罪なのは承知しています」
 淡々と説明されて、カルラは落ち着きを取り戻したらしい。少しばかり神妙な顔付きで、まずは深々と頭を下げる。
「……申し訳ありませぬ、エド。貴方が軽率な人ではないと存じていると言うのに、私は……」
「いえ、この状況ではそう思われても不思議ではありません。ですから顔を上げて下さい、カルリーネ」
 エトヴァルトの苦笑に、応じるようにそっとカルラが顔を上げる。しかしその表情はいまだ軽く沈んでおり、彼女が後ろめたい気持ちを引きずっているらしいことはよくわかった。
 カルラがそんな顔をする理由も薄々察したエトヴァルトは、単刀直入に本題に入る。
「ヘルメスはどうしています」
「先程、患者の塗れタオルの交換をお願いしたところでござりまする。私も折を見て連れ戻そうとしたのでするが、席を離し難く今まで……」
「その辺りの話は、また後日伺わせて下さい。貴女がどうしてここの係員でいるのかも含めて、興味はありますが今は余裕がない」
 少なくともエトヴァルトが持ち場から離れて一時間は経っているのだ。一応モンスターが少ないはずの西でヴァン一人がどうしているのか予想も付かないが、何はともあれ早々に連れ戻すのが無難だろう。
 エトヴァルトの判断にカルラは納得したようでこくりと頷くが、その光景を見て件の少女は悪い方向に受け止めたらしい。
「エド、カルラ、イジメル?」
「……ヘルメス?」
 弾かれたように顔を声のする方に向けたエトヴァルトは、視界に目的の少女の姿を納めると続いて強い調子でつい――。
「ヘルメス、どうして約束を破ったんですか……!」
 叫ぶように咎めるように訊ねてしまい、ヘルメスの洗面器を持つ肩が軽く強ばる。
「…………ッ」
 ヘルメスのぽかんとした表情が、同時に怯えの色を見せて。見受けたエトヴァルトが内心しまったと舌を打っても、カルラが不安げに少女と青年の間に視線を誰ともなく、言い換えれば三人の中の三人ともが、嫌な予感を覚えた。

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