Durst Polka

よいのくち


 陽が沈みきっていないのか沈みかけたばかりなのか。夕日の眩しさはないものの空はいまだほんのり明るく、空も完全に暮れきっていない。しかしそれもほんの数分で、真上に首を傾ければ青から藍色めいてきた空にはちらちら白く輝くものが見える。
 微かに光る宵の明星を仰ぎ見てから首を元に戻すと、眼前は人混みにまだ少し浮いた印象のある灯籠、屋台に大きな天幕と色も形も賑やかを通り越して五月蝿いほどだ。しかし当人たちは喧騒など気にした風でもなく、むしろ賑やかさに酔ったのかどの顔も生き生きと、傲慢さを覚えるほどに充実している様子だった。
 羨ましい、とレ・グェンはしみじみ思う。骨のあるモンスター数匹を倒してからノエルを何とか口説き落とし、雑木林の奥から最も浅いところに移動して自分の祭り心を慰めようとしたのだが、逆に参加できないのだと現在の自分の立場を思い知らされ、虚しさがじんわり増してくる。
 それでもやはり目を離せないし、移動しようとも思えない。賑やかな空気を少しでも感じたい気持ちが強いのだろうと、男は何だかんだと言いつつも根っこは寂しがりな自分に苦笑を浮かべる。
「……あのう」
「んー?」
 隣のノエルがおずおずと声を上げる。この気弱な少年にはいつものことであるが、今のは妙にこちらを気遣っているような声音だ。
「……その、ええと……」
「何だよ、ノエル。俺はそんな話しかけなきゃいけないような顔してたか?」
 この少年にまで見破られるとは何たる失態だろうと苦笑を浮かべる男に、しかしノエルは首を振った、ような気がした。生憎、男の方はあまり視線が外せないのだ。正確には、外したくないと言うべきかもしれないが。
「いえ……あの…………」
 けれどノエルは覚悟を決めたのか。唾を飲み込む音を響かせ、意外に力強い響きでもって言い放つ。
「ず……ずっと女の人見てるのは、失礼だと思うんです!」
 遠慮も慎みもなく指摘されて、あらとレ・グェンは呟いた。事実彼の視線は、一番手前にいる屋台の売り子が、道路側の客から代金を受け取る際にひらりと裾を揺らして突き出る立派な臀部に釘付けだった。
 夜近いのにその売り子の栗色の髪は型崩れを知らず綺麗に編み込まれたままで、若葉色の民族衣装から覗く肌は瑞々しくむっちりと肉付いて柔らかそうだ。時折ちらりと覗く横顔はパーティーの女性陣ほどの上玉ではないが、それでも純朴な愛らしさを遠目からでも感じさせる。時折、客を相手に人好きする笑みを宿し、それ以上に男の下心をくすぐる目付きに、レ・グェンは嗚呼そう確実に惹かれていた。勿論、本気のものではなく一晩の恋のお相手程度の惹かれ具合であるのだが。
「いいじゃないか、ノエル。どうせ今の俺たちには手の届かないものなんだからさ」
「だだ、だからって……! 駄目、だと思うんです。女の人の、お尻、じっと見るなんて……」
 初な少年は気付くまいが、ある程度女なるものを知っている男は、今自分が見つめている相手が未通娘――つまり、尻をじろじろ見られたくらいで動じる相手――でないことくらい察していた。根拠はないが、自分が遠目からでも色気を感じさせる相手が初物でないはずがないと言う、玄人女好きならではの確信があるのだ。
 しかしこんなこと、ノエルに言っても納得して貰えないだろうし、おまけに女性陣に無垢な少年にいかがわしい話題を振ったと知れれば厳しいお小言と蔑むような視線を頂戴する自覚があるので説明はしない。
「ま、相手にばれるほど見つめちゃいないから安心してくれよ。『たまたま』近くに俺好みの女がいたんだから、そっちを見ちまうのは仕方ないのさ」
 当然たまたまなんかではないことに、ノエルは薄々感づいているのか不満げな顔で男を見上げる。それでも決定打に欠けるためか何も言わず俯きかけたところで、あ、と大きな声を出した。
「うん、どうした?」
 雑木林の方を向いていないと見張りの意味がないと気付かれたのか。今度こそ怒られるかもしれないが相手がノエルなのもあってのんびりとした返事のレ・グェンに、だが少年は男の予想に反して会場の方を食い入るように見つめていた。
「あ、あの、あれ……!」
 それから明らかな迷い顔で、けれど見てしまったものは誤魔化しようがないのかノエルがゆっくり会場の方を指し示す。その先は当然ながら大通りをそぞろ歩く観光客で賑わっており、少年が何を見つけたのかなど、一見しただけではとてもわかりそうにない。
「あれって言われてもなあ。この人混みじゃあ……」
 わかるものもわかるまい、とノエルが指さすものを見つける気が失せたレ・グェンが適当にそちらを覗き見る振りをしてぼやいていると、不意に視界のどこかに既視感を覚える。何にかは曖昧だが、普段からよく見慣れているようなものを見た気がする。
「あれ、あそこです! ほらあの二人……!」
 あれあれ言われてもわからない。男はささやかに指摘しようとしたのだが、それより先に少年は。
「ヴァンさんと……あの髪の色、ブリジッテさん、ですよね!?」
 その名を耳にした途端レ・グェンの視界が急に明晰になり、数分もしないうちにノエルが指摘していた二人らしき人物たちを発見する。逆立った赤毛に灰色のスーツの男はまず間違いなくヴァンで、その前を歩く澄んだ紫色のツインテールに、萌葱色の民族衣装を着た娘は確かにブリジッテの面影を持つ。意気揚々と先導する娘の表情は遠目からでは詳しく見えないものの楽しそうに感じられ、その後ろの付き添い役は辺りを見回し人混みに流されそうになりながらも何とか必死で娘に付いていく。
 遠目からでは見えないが二人の両手は恐らく屋台でしこたま買い占めた食品で塞がっているようで、それを見た途端レ・グェンはほほう、と自分でも予想外なほど冷たい声を発した。
「……お嬢ちゃんの付き添いは大変だねえ。仕事中だってのに、引っ張り出されるなんてさ」
「そうですよね。ヴァンさん、ブリジッテさんには強く出れないってわかってますけど……ほんとはそんなの、いけないことなのに」
 ノエルは眉を引き締めて自分が担う責任を再確認するように呟くが、それは男にとって多少滑稽な響きにも聞こえた。何せこの少年、言動は若年の割にしっかりしているし真面目だが、押しが弱い。パーティーに入ったばかりの頃に比べれば精神面の成長はあるものの、いまだに我の強い相手では衝突するより前に相手に譲ってしまう性格だ。ヴァンを説教できるほどの毅然とした振る舞いなんぞ、最短でも五年は掛かるだろう。
 だが、レ・グェンはそんなことは露とも思っていない顔で深々と、大袈裟なくらいに頷いた。
「そうだよなあ。ブリジッテにはびしっと一発言い聞かせるべきだよな」
「はい。ずうっと甘やかしてばかりだと、本当の意味でブリジッテさんのためにもなりません」
「そうそう、その通り。……本当、ノエルは年の割にちゃんとしてるよ」
 しみじみと仲間に誉められて、少年は少し舞い上がっているのだろう。普段ならそれに謙遜して会話も終わるだろうに、返ってきたのは誇らしげなノエルの声だった。
「そ、そんなことはありませんよ……。ただ、僕らは今、皆さんが平和に収穫祭を楽しむため大切なお仕事中ですから。ちゃんとするのは、当たり前です」
「まあな。けどその当たり前のことも守れないのが、今のブリジッテやヴァンな訳だ」
 そこでその二人にまた戻ると思っていなかったのか。ノエルは軽く目を瞬くも、それでも話の展開に違和感はないと受け止めたのかしっかりと頷いた。
「そう、ですね。あの二人は、この町の方々の期待を裏切っています」
「いけないことだよな」
「当たり前じゃないですか!」
 男の幼稚な言い回しが勘に障ったのか、ノエルの語気が珍しく荒れる。ここらで頃合いと見たレ・グェンは、そんな少年の肩に手を置いた。
「だよな! じゃ、ちょっくら注意しに行くか」
 だがエンジンはまだ完全に暖まっていなかったのか。それともその一言は完全に予想していなかったのか、不意の男の一声に、少年はぽかんと口を開けて男を見返す。
「…………はい?」
「あいつらにガツンと説教してやろうって言ってるんだよ。まだほら……あの辺りにいるし、今から行けば十分見失わずに済む距離だろ?」
 レ・グェンの指し示す方向には、確かに先も見た例の二人がしっかりいた。大人しく行列待ちしている先の屋台は、潰れたハートの形状をした大きなパンに、アイシングだのバターと蜂蜜だのベリーソースや荒く砕いた木の実だのをトッピングしており、確かに甘いものに目がない少女にとっては忍耐力を発揮するだけの価値があるだろう。
「案外列は早く進んじまうみたいだから、チャンスは多分これっきりだ。さ、二人を説得しに行こうぜ」
 さあさあと普段の調子で少年を立たせようとするレ・グェンとは反対に、ノエルは突如としてぎくしゃくした動きで必死に首を振る。
「い、いや、あの、それをしたら、僕たちがお仕事を放棄することになっちゃいますし!」
「たったの数分、長引いて十分程度なら大丈夫だろ。それにあそこまでの距離ならモンスターが見えてもぎりぎり入らせずに行けるさ」
 軽く論破されてしまい二の句を継げられなくなったノエルに、レ・グェンはいつもの軽薄で人好きな、けれど妙に爽やかなくらいの笑顔を浮かべて鮮やかに止めを刺す。
「ここで二人に文句を言うだけなら、いくら正論でも単なる陰口だろ。そんなの男らしくないじゃないか」
 少女のような容姿のノエルにとってここ最近は特に強く渇望する単語を出されると、少年はぐうの根も出ない。滝のように汗を流し視線をぶれんばかりに泳がせながら、しかし何とか顎を引いた。
「…………そ、そうです、ね…………」
 蚊の鳴くような声で返事をすると、ノエルはようやく立ち上がるが当然その腰は重そうだ。見栄の後押しがあっても正義感と臆病心のせめぎ合いは、今のところ後者が強いらしい。
 パーティーの中でも特に気が強くわがままなブリジッテを相手に説教するなんてことは、ノエルにとって蛮勇めいた行為に感じるのだろう。ハードルの高さ故に一気に顔色が土気色に変貌していたが、レ・グェンは少年の様子を無視して緑の羽を急かす。
「ほらほら、とっとと行かないといなくなっちまうぜ」
「は、はい……!」
 漏れる声は悲鳴になりつつあるノエルを先頭に、二人は遂に持ち場の雑木林を離れ、収穫祭の会場に再び足を踏み入れる。先から間近で見ていたはずなのに、一歩会場内に足を踏み入れただけで、朝にこの辺りまで歩いて来たときとは雰囲気も人の密度も正反対であることを少年は今更実感した。
 会場の周囲を飾る電灯が華々しく往来する人々の衣装や笑顔を照らし、静止することなき彼らの多種多様な種族、服装諸々の色合いに更なる色の陰影を与えて、視界からの情報だけでも目眩がするほど賑やかだ。おまけにこんな騒がしい状況で一体何を誰と喋るのかとんと見当もつかないほどの声に溢れているが、ぼんやりと感じ取れるそれらは全て、楽しさに満ちていた。人混みを好む者など滅多にいないけれど、収穫祭を包む空気が誰ともなく感染しているのか、するりと耳に入る愚痴や文句でさえ軽く、明るく耳に響く。
「ふわ、わ……!」
 大陸有数の発展都市であるヴァラノワールに慣れつつあった少年でも、この人の密度は今までの経験にないらしい。羽根の一枚でさえ硬直していた先までの自分を忘れ、眼前の光景に言葉を失う。
「さあさあ、行った行った」
 しかしレ・グェンは慣れたもので、眼前の光景に目を奪われることなく人混みの方へと少年の羽を容赦なく押す。完全に不意を突かれた少年は、当たり前だが足下の注意が疎かだったため軽くつんのめる。
「わわっ!」
「きゃ……」
 幸い眼前の人垣がノエルの転倒を守ってくれたが、掴まったものが軽くたるみを帯びて柔らかく、白く滑らかな――民族衣装を身に付けた女性の二の腕と知って、少年は小さく飛び上がった。否、羽ばたいてまではいないけれど。
「ご、ごめんなさいっ!」
「気をつけてね、ボク?」
 しかし女性は相手がノエルの容姿を見るとにこりと笑うだけの反応を返してあっさり通り過ぎていく。けれど少年の方はその女性がもう人の波に飲まれて見えていないと言うのに、去った方向に向かって深々と頭を下げた。
「羨ましいねえ……。あんな美人さんと衝突するなんて」
 脳天気にぼやくレ・グェンの脳裏には、先程ノエルがぶつかった妙齢の女性のねっとりとした色香を漂わせる項が鮮やかに蘇っていたのだが、少年は相手がどんな容姿であるかまでは覚えていなかったらしい。気の済むまでもう見えない相手に謝った後、ぽつりと一言。
「さっきの人、おばさんじゃ……」
 何も食べていないのにレ・グェンが噎せかけたのはほんの束の間。すぐに自分の食指が動いた女性の名誉のため、ひいては自分の好みがそこまで年増好みではないことをノエルに知らせようと、取り敢えずフォローのために首を振る。
「いやいやいや、ノエルはぱっと見だけだろ? 俺が見た感じなら、精々が三十代も半ばの、綺麗な……」
「三十歳って、おばさんじゃないんですか?」
 身も蓋もない。レ・グェンはややも自棄気味にノエルを人混みへと紛れ込ませると、その羽をしっかり視界に収めながら説教を開始する。
「あのなあ、ノエル。女性相手に、そんな気軽におばさんとか失礼だろう。子どもでもいない限り、そんなもん当たり前に受け止める人なんか少ないんだぞ」
「え、あ、そう、なんですか……」
 ノエルの妙な気遣いを感じさせる声音に、レ・グェンはようやく自分の年齢のことに気付いてくれたのだと受け止めて深々と頷く。事実ゼロスたちとの付き合いはもうすぐで一年を越える。それはつまり、当初はまだ何とか二十代だった男が三十路に到達したと言う紛れもない事実が浮かび上がってくるのだが。
「当たり前だろ。そりゃあ俺だってガキの頃には二十代と三十代の区別もさして付かなかったもんだが、ノエルくらいの年なら『おばさん』と『お姉さん』の違いくらいはわかってたぜ?」
 暗にノエルの年齢はもう子どもではないと示されて、少年はややもむず痒そうな声を漏らすが、それでもやはり何やら納得いかない部分があるらしい。
「けどボクのいた集落では、三十歳で子どもがいない人は珍しかったですよ? 戦士の役職の人とかでもない限り、二十歳になる前にはもう……」
「まあそうかもしれんが……」
 一次大戦の後期には全滅したのではと囁かれていたバードマンの人口は、二次大戦が終わってその傷口も風化しつつある今の時代でさえ大戦前の状態に未だ届いていないと聞く。国を興せるほどの数も揃っていない現状では、村人一人ひとりの生産性を重要視するのは当然のことだ。だが、三十を越えた人間がノエルの言う不名誉な呼び名を皆受け入れるかと言う問題に対しては明確な言い訳にはなっていない。
「ノエルだって、リーザが三十越えてることくらい知ってるだろ? おばさんなんて、アルでも避ける即死文句だろうが」
「ぁあー……」
 種族差の話を引き合いにされると、ノエルは何とも言い難そうな相槌を打つ。確かに魔族やエルフは、三十を越えたところで衰え知らずの若々しい容姿を持っている者ばかりだ。むしろ少女のような容姿の彼女たちに、三十歳を越えているからおばさんなんて言った日には、想像するにも恐ろしい扱いを受けかねない。まあレ・グェンは人間の身体で曾孫がいてもおかしくない女性を一人知っているのだが、あれは例外として放置する。
「……あれ?」
 不意にノエルの声ががらりと調子を変えたので、レ・グェンは軽く目を見開いて前の少年を見る。
「どうした?」
「……あの、ボクたち、ブリジッテさんたちを探しに来たんですよね」
「そうだな」
 ノエルは首を左右に振る。まだ成長期を終えていないため見渡せるほどの背丈はないが、それでも人々の隙間から何とか努力して見回して、少年は背後の男に疑問を投げかけた。
「……お二人がどこにいるか、わかります?」
 暗に自分は見失ってしまったのだと示すようで、同時にノエルには珍しく感情が抑えられた、確認めいた口調に変わっていて。つまるところ――レ・グェンの企みに気付きかけているらしく。
「………………いや」
「狙ってませんよね!? ボクらがこうなるの狙ってやった訳じゃないですよね!?」
 激しい追求の声に、ノエルが確信を得たのだとレ・グェンも確信したのだが、今となっては後の祭りだ。大体、持ち場を離れた時点で少年は男の企みに乗ったも等しい立場である。そのため男は早々に開き直ってしまっても良かったのだが、念には念を入れて少年の弱点を突くことにした。
「狙ってるって何がだよ。それよりあの二人を見失ったんなら早く探さなきゃいけないだろ。どうせこの人混みなんだから、きっとまだ近くにいるさ」
 我ながら無責任な発言だと内心自覚しつつレ・グェンが平然と恍けると、ノエルは途端短い呻き声を漏らす。事実、彼も彼でブリジッテたちが見つかると困るのだ。二人は名目上、ブリジッテの説教のために、一時的に、持ち場を離れているのだから。
 だが実際にノエルがブリジッテを説得できるほどの胆力があるかと言えばそうではなく、しかし見つける素振りだけでもしなければこの少年の男らしさに傷が付く。レ・グェンはあくまでその証人として付き添っているだけで、決して収穫祭に参加したくて持ち場を離れた訳ではない。現に、男はそんなこと一言も漏らしていないのだから。
「……わかり、ました。早く探しましょう」
 普段は弱々しい声音の多いノエルの、またも珍しい苦虫を噛み潰したような声を聞きながら、レ・グェンは深々と頷いた。とっくにその視線の先には、肉汁を滴らせた羊肉のグリルやら腸詰肉の燻製やらの屋台が映っていたのだが。
「そうだな。しかしまずは腹ごしらえと行こうぜ」


 嫌な緊張感だった。今までの短い人生の中で自我を持った時間は更に短いが、それでも嫌だとはっきりわかるほど、ヘルメスにとって苦痛を感じる時間だった。
 カルラに再会してから医療用天幕に行った後、語調は静かだがそれでも胸が重苦しくなるくらいにしっかりと怒られたのに。説教が終わってからは本部が落ち着いた頃合いを見計らってヘルメスは持ち場に帰される予定で、だから今は反省の意味も兼ねて彼女の手伝いをしていただけなのに。
 決して、楽しい思いや面白い気持ちでここにいた訳ではないのだ。道中そう思っていたときがあったけれどそれ以上に居心地が悪くてすぐに俯いてしまいそうになって、自分が悪いことをしたのだと思い知らされたのに、エトヴァルトに会って早々怒鳴られ、ヘルメスは混乱した。
 頭の中が真っ白に弾け、心に明確な言葉が浮かんでこない。ただ心音が全身に響きわたり、それが邪魔で邪魔で仕方ないくらい大きく聞こえて、自覚できないくらいに何も考えられなくなった。
「……エド、ヘルメスは」
「ヘルメスを保護してくれたのが、理解のある貴女で良かった。感謝しています」
 エトヴァルトが近付いてくる。ゆっくりと手を差し伸べながら、けれどやはり険しい表情のままで。普段ならばその腕を当たり前に受け入れるのに、今のヘルメスには妙に心が悪い方向にざわつくものとして見受けられた。モンスターに襲われたってそんな経験はないのに、足が妙に重くて、体と心が軋んで、上手く動かせそうにない。――否それよりも、足が動かせれば何をするのだ。
「さあ、ヘルメス。早く戻りましょう」
 エトヴァルトが声だけは穏やかに、けれど表情には押し殺したような苦みを滲ませ話しかける。しかしその表情が、差し伸べられた手が、ヘルメスには殊更に逃げ出したくなるほどのものに見えてしまって、彼女は知らず竦み上がる。
「エド、私の話を聞いて下さい」
 カルラが強い調子でエトヴァルトの肩に声を掛け、それに応じる彼が軽くそちらに振り向くだけで、ヘルメスの全身を拘束していた透明の鎖が緩んだ。視線から外れただけなのに、不思議なくらい強ばりが解ける。けれどそれだって数分の時間稼ぎでしかないことくらい、今の彼女にだって理解出来ていた。結局、保護者である青年にしっかりと怒られる運命に変わりはないと言うことも。
「ヘルメスはシロ殿に誘導される形式で持ち場を離れたのでする。この子自身が勝手に来たわけではありませぬ」
「知っています。ですが、知らなかったで済ませられる問題ではありません」
 毅然としたエトヴァルトの言葉に、カルラは少し忌々しげに声を張る。その理由はヘルメスにはわからない。少なくとも察せたのは、今のカルラが怒っている相手が自分ではないことくらいだ。
「その通りでする。……私も、ヘルメスにはそのように怒りました」
 妙に間を持たせた物言いのカルラの態度の真意を確かめるため、エトヴァルトが彼女の方に身体を傾ける。更なる時間稼ぎによって彼の視線から完全に逃れたヘルメスは、しかし混乱が抜けきらず棒立ちでいるしか出来なかった。
「何が言いたいのです、カルリーネ」
「貴方は彼女の無事を喜んで欲しい。私が怒って貴方も怒ったのでは、ヘルメスは拠り所を失いまする」
 ヘルメスには何のことだかさっぱりわからない。だがエトヴァルトはカルラの発言の意図を理解したらしく、苦々しげな吐息をついた。自分に向けられたものかどうか明確でないのに、少女はびくりと肩を竦めてしまう。その際、視界の隅に洗面器が見えて、彼女はふと我に返った。そう言えば、洗面器を落としたのだから拾わなければ、と。
「それではヘルメスは善悪の判断が付かなくなります。私は彼女を混乱させたくありませんし、狡を覚えさせたくもない」
「心配したことを伝えれば宜しいはずです。反省の促し方は多数あるもの。私に怒られ萎縮したヘルメスの心を、貴方は一度受け入れ安心させてあげるべきでありましょう」
 カルラの諭すような言葉に、エトヴァルトは奇妙に冷めた目のまま肩を竦めた。小さな動きでしかないのに刺々しさを感じる彼の仕草に、ヘルメスは縮こまったまま半歩、洗面器に触れようと足を動かす。
「生憎と私には、貴女が仰るような母性がありません。その役目は貴女にお任せします」
「ですが私はもうヘルメスに怒りました。今後はそうあるべきかもしれませぬが、今は貴方が……!」
「もういいでしょう!」
 物音一つ立てずに地面に落ちたままの洗面器を拾い上げたはずのヘルメスは、急なエトヴァルトの大声にまたも全身を硬直させかけた。が、幸いにもまた落とすような失態は犯さず、今度は逆に自分の胸にぎゅっと抱えて怒号に耐える。
「今は貴女とヘルメスの対応について口論する暇はありません。それらは後日出来ることです。この子へのフォローも同じ。違いますか」
「そう、でするが……!」
「ではその件はまた後で。さ、ヘルメス」
 険しい顔のエトヴァルトが、屈んだヘルメスを見下して手を差し伸べる。それは普段ならば、自分から掴まるはずのものだったのに、今の彼女には乾いた血の染みに汚れた白手袋の指が、奇妙に自分に向けられた敵意に似たものを明確に伝えてくるような気がした。けれどそれは敵意ではない。そうならば自分は簡単に払い除けることができるはずだ。しかし今の彼から差し伸べられた手は、足とは言わず目も舌も頭も、全身が禄に動かないほどの力を持つものに見えて、彼女は何も出来ずにただ見つめるしか出来ずにいた。
「ヘルメス……?」
 ヘルメスの耳にはエトヴァルトの声など届かない。完全に硬直した彼女の頭は、そんな自分に更に混乱して、すぐに息も出来ないくらいに混乱が極まり目元に熱いものが浮かぶ。
 苦しかった。震えてしまうくらい、縋るものがない現実を思い知らされた気がして。一人でいることには慣れているのに、エトヴァルトもカルラも近くにいるにも関わらず、誰にも一生頼れないのではと言う恐怖が胸のうちから這い上がって。
「ヘルメス!」
「……ア」
 強く呼びかけられ、ようやくヘルメスの硬直が解ける。そのまま彼女は正気に返ると、じわりと目尻に熱い液体を浮かべた。正確に言えば、彼女の無自覚で浮かんできただけなのだが。
「あ……あなた、何を泣いて!?」
 ヘルメスの涙を見たことがなかったエトヴァルトは、しかしここでも叫ぶように声を荒げて顔を顰めてしまう。それが決定打となった。
 少女は洗面器を抱えたまま立ち上がると。
「……エド、コワイ……!」
 恐怖を知った少女はそのままその手から、手と言わずエトヴァルトその人から逃れるように医療用天幕から飛び出して行ったのだ。


「あっ、ノエル!」
 短いながらにはっきりとした特徴のある呼び声を聞いて、ノエルは声のした方がどちらだろうと周囲を見回す。つもりが羽をつつかれて、少年は人と人とが隣り合う狭い空間で器用に小さく飛び上がった。
「わわっ!?」
「あらごめんなさい、変なとこ触っちゃった?」
 気遣う声のする方にやや強引に体ごと向きを変えると、そちらには顔を見知った二人と一匹。村娘姿のリーザと、骨付きソーセージを貪るアルに、苦笑を浮かべたナイヅの肩にはどうしたことか死にそうに衰弱したシロがいる。
 まさかここでこの面子と出会うと思っていなかったノエルは、小さく目を見張って挨拶もせずに問いかける。
「皆さん、どうしてここに!? あの、お仕事は……!」
「アタシは夕方から自由だから、みんなを休憩に誘って回ったの。あと半時間もすれば、戻ってもらうわよ」
「えぇええ!? あと三十分で全部見回れる訳ないじゃん!」
「ひゃ!?」
 成る程と頷きかけたノエルの顔に、まだ口の中にものを残しているのに大声を出すアルの唾が引っかかる。
 ナイヅがこらと注意しながら飲み物を渡してやり、リーザがもっと具体的にアルを叱りながらノエルにハンカチを渡すと、赤毛の少年は反省の色を見せながらもぶくっと飲み物で頬を膨らませた。対する緑の髪の少年は、僅かに甘い香りのするハンカチで恐る恐る顔についたものを拭う。
 その間、いつもと違った格好のリーザはしかしていつも通りに人差し指を立てて、アルに丁寧に言い聞かせる。これもまたノエルやナイヅが普段からよく見かける説教の光景だった。
「あのねえアル。たかだか休憩中だって言うのに、全部見回ろうって考えがそもそもおかしいわよ。大体アタシがあんたのところに訪ねなかったら、今もあそこでじいーっとしてたはずでしょう?」
「……っ、そりゃあ、そうだけどさ。そこはちゃんと姉ちゃんに感謝してるよ」
 アルが素直にリーザに礼を述べるほど現状にありがたがっているらしいことに、ノエルはへえと声を漏らす。やはり都会育ちの子はこの人混みでも単純にお祭りを楽しめるのだろうと思えば、田舎育ちで人混みを歩くだけで精一杯のバードマンの少年は半ば羨望の面持ちで同年代の少年を見つめる。
 しかしアルは羨ましがられているとは受け取らなかったようで、少しばつが悪そうに目を伏せながらソーセージの残りを齧った。
「そ、それ言うなら、ノエルこそどうしたんだよ!? 休憩中ならいいけどさ、戻る場所とかわかんのか!?」
「……ああ……ううんと……」
 急にぎこちない、あからさまに誤魔化すための曖昧な笑みを浮かべるノエルに、アルだけでなく他の二人も嫌な予感を覚えて表情を僅かに堅くする。
「まさかと思うけどノエル……さぼってる、訳じゃないんでしょう?」
「この手の場所は得意には見えないんだが……誰かに、誘われたのか?」
 こくりと、ノエルは後ろ暗い顔のまま後者の台詞に頷いて。誰にとすかさずアルが問いかける前に、陽気な声が彼らを包む。
「悪い、ノエル! いやあ売り子の姉さんが意地悪で、なかなか釣り銭渡してくれなくってさあ……!」
 この上なく浮かれた上にわかりやすい好色めいた声に、三人はそちらを見ずとも誰がノエルを見回りから引っ張ってきたのか瞬時に理解したらしい。先の緊張感に満ちた視線から一転、急に少年に憐れむような目を向けて、ああ、と三者三様の声が響いた。
 一挙に同情されたノエルは、苦い顔のまま大きく吐息をついてゆっくり後ろを振り返る。視線の先には脳裏に浮かんだ映像をそのまま具体化したような、にや下がったレ・グェンが大きな鶏もも肉だの油紙の包みだの蔓草で編まれたボトルバッグを抱える姿があった。
「……晩ご飯を買ってきてくれたことには感謝します。けどこれ、どう見ても僕らで食べれる量じゃないですよね? あと腰のそれは……」
 憐れにも礼儀正しいノエルは礼を言ってからやんわりと責め立てるが、相手はそんな質問で窮する程度の男ではない。いつも通り、さっぱりとした人好きのする笑みを浮かべて正々堂々言い放つ。
「これはお前さん用のだよ、ノエル。度数は低めだからすいすい飲めるってさ。あとこっちはおまけに付けてくれたやつだから安心しろよ。なんなら、適当な誰かに……」
 ここでレ・グェンは先程からノエルの周辺を囲んでいる人物たちが顔馴染み、どころか仲間の一部であることに気付いたらしい。軽く目を見張って、明らかに機嫌を良くした笑みを宿す。
「何だ、リーザたちもいたのか。いやあこれは有り難いねえ、お仲間の天幕で呑みたいと思ってたところでさ」
 脳天気な男の発言にリーザの眉がぴくりと動いたが、ここで噛み付いてはヴァンパイア王家の名折れである。次の瞬間には優雅にして親しみやすく、可憐にして気高い印象の笑みを小憎たらしい男を相手に丁寧に過ぎるほど丁寧に浮かべて唇を薄らと開ける。
「もう、馬鹿なこと言わないでよ。仕事さぼってノエル連れ回して酒の肴買ってるような仲間なんか、仲間じゃないでしょう?」
 笑顔のまま単刀直入に過ぎるほどの内容を言ってのけたリーザに、彼女の背後にいた三人の表情が軋んだ。自業自得とは言えもし自分があんなことを言われたらと思うと、レ・グェンの立場を笑ったり見下すなんてとても出来そうにない。特にアルは下心があるだけ、尚更顔色が悪くなった。
 だが相手はこれまで散々酸いも甘いも味わった人間である。言葉一つで顔色を悪くするような繊細さはとうの昔に投げ捨てた。レ・グェンは大袈裟なくらいの動きで片胸を抑えると、情けない顔を作ってノエルにちらと視線をやった。
「おいおいリーザ、そりゃ誤解だぜ……。俺はノエルが人混みに慣れないから、代理で色々飯を買いに行ってやっただけだぞ? 感謝されるならともかく、そこまで言われるようなことは……」
「それ以前の問題でしょう! 二人で夕食を取るなら取るでいいけど、肝心の依頼はどうしたのよ!? 今あなたたちの持ち場にモンスターが来たらどう対処するつもりなわけ!?」
 今度は率直に追求されて、レ・グェンはころりと芝居めいた動作を止める。次にふむと顎に手をやって、親指で己の短い髭を撫でた。
 対するリーザは弱点を突いた正論のはずなのに、妙に落ち着いた反応を得てしまって眉を不可解に歪める。身構えた末に返って来たレ・グェンの返答は、予想していたよりごく簡単なものだった。
「当然、仕事なんだから忘れちゃいないさ。ノエルのちょっとした用事が終わったら戻るよ。なあ?」
「う」
 最後の言葉に、ノエルの全身が強ばった。それも誤魔化せないくらいにしっかりと。
 何事かとリーザを筆頭に事情を知らない者たちがノエルに目線をやるが、少年は無言の催促に対して素直に答えられる勇気はすぐに出て来ない。この三人なら、正直に説明すればレ・グェンの思惑も含めた上で事情を理解してくれるかもしれないとわかった上でもだ。
 何せ現状は落ち着いて説明が出来る環境ではない。催促の視線を寄越してくる三人の背後から、立ち止まっているこちらを多少鬱陶しそうに眺めてくる不特定多数の人々の顔がちらちらと見える。騒音とまでは言わないものの、屋台の呼び込みも人々の歓声やざわめきもノエルの心を綺麗に無視して騒がしい。そんな状態で上手く少年が人込みの中を歩きながら複数人を相手に説明出来るはずなどなく、逆にこの環境に慣れているレ・グェンが上手く三人を言い包める可能性が高い。だから、今の彼が言えるのはこれきりだ。
「……そ、その、落ち着いてから説明します。リーザさん、座れそうなところに案内してもらえませんか?」
 ノエルの表情には、レ・グェンの表情の端から覗く奇妙な余裕――反論を綺麗に封じてくる予防線の類のもの――を感じなかったのだろう。リーザは腕を組むと、小さくも深い息を吐き出した。
「……説明、長くかかりそうなの?」
「皆さんにわかってもらうとなると、多分……」
 ノエルにはっきり頷かれ、リーザの視線が微かに揺れる。何故と言って少年の横には、したり顔のレ・グェンが深々と頷いており。
「ま、そうなるよな」
 またリーザの背後には、雑音混じりでもはっきりとアルが明らかににやけた顔で頷いているらしい声が聞こえてきて。
「そうなっちゃ仕方ないよな〜」
 両者を天秤に掛け、どちらを優先すべきかをリーザは軽く目を瞑って考える。単純に考えれば、問答無用で二人を持ち場に帰す展開が望ましいに決まっている。しかし力技で追い立てる方法は今の狭い空間では難しいし、逃がしてしまえば元も子もない。言葉で追い立てるのはレ・グェンを相手にすればまず難しかろう。大体いくら真面目な彼女とて今は遊びたい休みたい気持ちはあるのだから、ここで無理をして二人を追い立てることに全力を尽くすのは時間と労力の無駄遣いと言える。責任感を発揮するのはまあいいとして、付き合わされるナイヅたちの自由時間が押されるのも憐れではある。それに、明らかに付き合わされている感のあるノエルの態度が引っ掛かる。
 以上のようなことをつらつらと考えて十数秒ほど黙り込んだリーザは、迷った結果、ノエルの話を聞くことにした。それはつまり、ノエルの背後で己の欲の発散を企む二人の勝利をも認めてしまうことになって、彼女としては誠に、とても、不愉快なことではある。
「……わかったわよ。けどノエルの説明のために行くんだからね」
 自らの敗北宣言をため息と共に吐き出したリーザに、ノエルは気合を入れた顔で深々と頷く。
「はいっ」
「よっしゃあ!」
「ノエル、ナーイス!」
 続いて耳に入る脳天気な歓声にこめかみを震わせつつ、リーザは気合を入れるとやや大股気味に歩き出す。いつもよりスカートが短いのだが、それも彼女は気にしていられないほどに内心立腹していると、彼女自身は気付いているかどうか。
「じゃあついてきて、こっちだから」
「はいっ!」
「はーい」
「へいへーい」
「………………」
 ノエルの打てば響く返事に続く、やはり自分を敢えて挑発しているとしか思えない軽薄な返事郡に、今までなるたけ冷静を努めていたリーザはついに声を荒げて今まで静観していた人物に協力を仰ぐ。
「……ナイヅさん、そいつら立ち止まらないか見張っててね!」
「ん!? ぁ、ああ……」
 思い切り不意打ちだったらしく、後ろのナイヅの声が明らかに裏返る。見てはいないが余所見していか他のことを考えていたらしい。それもそれで非常に困る。特に今、悪がき二人が増えたような状態では。
「返事は!?」
「……善処するよ」
 しかし得たのは何とも情けない応答で、リーザは思い通りにならない現状に歯軋りしながら人混みに身を投げ出すこととなった。

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