Durst Polka

ばんこく


 誰にも何も言わなかったが、嫌な予感がしたのは事実だった。
 長らくただ生きるためだけに荒事の波に揉まれていたゼロスにとって、この誰も彼もが浮かれきった収穫祭とやらは空気からして今までの彼の人生に無縁なもので、だからこそ気付くのが遅かった。
 いつからなのかはとんと思い出せないが、例えば祝砲が遠巻きに耳に入り、続いて歓声が持ち場にまで聞こえた頃。モンスターを倒して、その手応えとは反比例に暇が増えていくと思い知らされた空き時間。はたまたアリアをリディアが宣伝してきた天幕に連れていくことになって、会場の人の多さに辟易したその瞬間。――それからこれは確信だが、リディアに捕まったまさにそのとき、ゼロスは思ったのだ。この収穫祭とやらに関わってはいけないと。
 いけない理由はごく簡単だ。ゼロスが不快な思いをするから、と言うことただそれだけ。不快な思いをする出来事状況については多く語るまい。そもこの男は短気である上に食にも色にも欲が薄い。つまりこの収穫祭そのものが、彼にとってはさして興味を引かないものどころか、それに付加する、鬱陶しく絡んでくる酔っ払いや吐瀉物の臭いや下らない喧嘩や下らない文句付けに巻き込まれると言う、不快の固まりがあまりにも多い環境でしかない訳だ。
 けれど今、何故かゼロスは収穫祭のとある天幕の一席で、巨大なジョッキグラスを空にする作業に勤しんでいた。グラスの中身は当然ながら黄金色に輝く麦酒で、手元にはじゃが芋を蒸かして練った団子にチーズ風味のベシャメルソースがとろりとかかった肴がある。どちらも味は悪くないどころか絶品と褒め称える人々も多かろう。今それらを口にしているのは基本的に味覚にも頓着しない男であるから、その意味はさしてないのが残念だが。
 黙々と麦酒を口に運ぶゼロスは、くつろぐ気など一切ない顔で辺りを見回す。幸いにも隣や前のテーブルの連中は連れ合いとの会話で盛り上がって、彼を気遣うどころか気に留める素振りは見せかったからいつでも席を立てる体勢でいれた。このままアリアとリディアに奢られてしまった量の酒を飲めば、とっとと退散出来るだろう。
 幸いにも、現時点ではゼロスに絡む酔っ払いや三下どもはまだいない。それどころかここを巨大な酒場として見れば、周囲は穏やかなと言っても差し支えないほどだ。賑やかだし混んでいるし、人の顔を見ないようにするには俯く以外に方法がないほどの密度ではあるが、物騒な物音や光景は不自然なまでになかった。
 嫌でも耳に飛び込んでくるのは、多くは誰かの笑い声や歌声やお喋りばかりで、ゼロスに馴染みのある肉と肉とがぶつかり合う鈍い音や何かが破壊される音、悲鳴や物騒で底の浅い脅迫などは今の彼のもとには届かない。
 視界も同じく、人間魔族どころかエルフにドラコニアンまで笑顔を浮かべてジョッキを呷り、また飯を貪り食っている。隣の他人と意気投合して喋り続ける者や、突っ伏して眠っている者、煙草片手にひたすら飲む者、賭博中の一行、テーブルの上に乗って裸になる者歌う者踊る者演奏する者、ありとあらゆる動作をしている多種多様な人々がいても、物騒な獲物を振り回す者も血を流している者もどこにも見えない。
 不可思議な光景だ。不自然な景色だ。誰も彼もが他者を傷付けようとせず、ただ飲食に溺れているなんて。それもこんなに巨大な規模の祭りの会場で、こんなに多種多様な人種がいるのに誰も誰かに敵意を剥き出さない。故にゼロスはこの奇跡めいた環境に馴染めず、ただ尻の据わりの悪さを覚えて黙々と酒と肴を消化していく。絡んでくる連中がいないのは幸いだが、それでも結局こんな場所は気持ち悪いと、自分がいるべき場所ではないと次第に実感し始めていたから。しかし、物事の多くは当人の思いとは裏腹に進んでいくものだ。
「……や、だ。なんでゼロスがいるのよ!?」
 非難めいた言葉にゼロスは肩をそちらに向けると、そこにはリディアやアリアの服装と似たような格好のアデルがいた。この天幕で会ったリディアと同様、手にはたんまりジョッキを抱えている。
「うるせえ。俺だってンなとこ好き好んで来たくねえよ」
 今手に持っているジョッキの残りを一気に仰ぐと、ゼロスは他の客にぎこちない笑みを浮かべながらもジョッキを渡していくアデルの手から満杯のものを一杯くすね取る。言動の不一致に少女の眉が大きく歪んだが、接客中であるため普段のように噛みつけないらしく小さく唇の先を尖らせる。
「……じゃあ、どうしているのよ。しかもちゃっかりお酒飲んで」
「お前のシンユーどもに聞け」
「親友?」
 他の客の空ジョッキを集めつつ、アデルはアリアとリディアのことよね、と呟いた。それでもいまいち心当たりがなさそうな顔をしている辺り、どうにも彼女にはゼロスがここにいる理由が伝わっていないらしい。
「んだよ。てめえ、ハブられてんのか」
「失礼なこと言わないでくれる!?」
 予想以上に力強い剣幕で言い返されて、ゼロスは肩を小さく竦めた。アデルにとっては相手が悪いが、彼は気遣いには縁のない性格であるため図星を突かれた彼女を相手にフォローもなく正直に思ったことを口に出す。
「俺に怒んな。ハブった奴らに怒れ」
「だから、はぶられてなんかいないってば!」
 ますます動揺を示すアデルに、ゼロスはひらひらと鬱陶しげに手を振る。
「んなもん俺には関係ねえよ。つうかお前は仕事しろ、仕事」
「……こんっ、の!」
 正論をよりにもよってゼロスに言われてしまい、アデルの目に忌々しさがありありと現れる。しかし結局青年は素知らぬ顔をつき通し、麦酒を口にし続けていたからだろう。彼女もまた結局のところ何も言えないまま、彼のいるテーブルから離れていった。
 それからアデルの背中が人垣に隠れてしまったところで、前の席の女性があははと笑う。
「兄さん、あんな可愛い子を苛めちゃ駄目だよ。さっきの顔、泣きそうだったじゃないか」
 急に話しかけられたが、ゼロスは至っていつも通りの態度を貫き鼻で笑う。
「俺は苛めてなんかいねえよ。あいつの人望がないってだけだ」
「おやおや、手厳しいねえ……」
 苦笑を浮かべて肩を竦める女性に澄ました顔でゼロスは肩を竦めて麦酒を口に運ぶが、今度はそう長く飲めなかった。理由は単純に。
「その点、アタシには人望ありまくりだけどね!」
 急に割り込んできた声が、不意打ちの上に聞き覚えがあるからだが。
「は……!?」
 思わず目を剥いたゼロスはジョッキを下ろすと声のする方を見てしまい、続いて重苦しいため息を一つ漏らした。
「……なんでいんだよオイ、後ろの」
 ゼロスが苦々しい表情を隠しもせずに向ける相手は、さして普段の格好と変わりのない格好で人が行き来する通路でも平気で立ち止まり胸を張るブリジッテ、ではなくその背後で困った笑みを浮かべて食料品の荷物持ちを任されているらしいヴァンだ。
 このエルフもまた、本来ならばゼロスと同じく外周警備の任務中のはずであり、ここに来てはいけない身の上である。
「いやあ、お嬢に無理矢理連れて来られてさあ……。あれ、けどそう言うあんたはどうしたよ? 俺みたいに連れいないんだろ?」
 ヴァンがここにいる理由はブリジッテと共にいる点から想定済みだが、余計にも面倒なところを指摘され、ゼロスは眉根を寄せて一口芋団子を口に投げ入れる。
「てめえと似たようなもんだ。連れて来られた挙げ句、あいつら無理矢理奢りやがった」
「ん。誰に?」
「……あっ、あんたらねぇ、アタシ無視すんじゃないわよ!?」
 きいと金切り声を上げたブリジッテに、ゼロスは投げやりな視線を寄越す。
「てめえと話すと疲れんだよ。大体、てめえ仕事ほっぽってなに飯食う気でいやがる」
「それ、あんたにだけは言われたくないわね」
「うるせえ」
 ゼロスにしては珍しく力のない反論にブリジッテはややも気を良くしたらしい。ふふんと鼻で笑うと、勿体ぶって腕を組みつつ唇を開く。
「あたしはもう仕事終わって自由なのよ。それで、ヴァンを労ってやろうとわざわざ持ち場に顔出してやったら、こいつぼーっとしてたから、アタシの食事に付き合わせてあげることにしたって訳」
「飯くらい一人で食え」
 単刀直入な突っ込みを受け、ブリジッテの眉がぴくりと反応を示す。
「大体、てめえが手下んとこ行って無理に引っ張ってきたら人望もクソもねえだろ。手下が勝手に来たってんなら話は別だがよ」
「ああ……まあ、確かになあ」
 しみじみと手下であるヴァンに納得されてしまい、ブリジッテの片眉が更に動く。しかしてゼロスは気付かない。否、気にしない、か。
「てめえもてめえでこいつ甘やかせんなよ。こいつ、一人で飯も食えねえ甘えたんなってんぞ」
「いやあ、そこはどっちかって言うとケイがやってることだぜ? マナーがどうとかで昔から二人とも随分ぴったりだったし……ま、ケイは仕事中だから、俺にお誘いが来たんだろうけどさ」
「はん、そう言うことかよ。代理扱いの上に世話焼かされるなんざ、てめえも運がねえな」
「もう慣れたって。ま、慣れなきゃこんな生活ここまで長くやってないし」
「だろうな」
 吐息と共に頷いたゼロスは、ふと眼前のブリジッテが俯いたままぴくりとも動かないことに気が付いた。と言うよりもいつから俯いているのかさえ知らなかったのだが、大人し過ぎる彼女は不気味なので一応声をかける。
「……おい。寝てんのか?」
 当然、そんなはずはない。ブリジッテは俯いたまま猛烈な勢いでヴァンの持っていた袋から適当な包みをひっ掴むと、首の角度を変えないままゼロスの顔に向かって手の内のそれをぶん投げた。ちなみに、二人の距離はそれなりに近い。それこそ、物を投げれば外れようがない程度には。
「っぶ!?」
「お、お嬢!?」
 見事顔面に弾力ある物体を受けたゼロスに、ブリジッテは勢い良く顔を上げて一言。
「あるわよ!」
「はぁ……!? おまっ、何投げて」
「人望、あるもん!!」
 言ったきり、何気なく目尻に雫を溜めていたブリジッテは肩を怒らせて人混みを掻き分けていく。ヴァンは彼女の言動に洒落にならないものを感じ取ったらしく、ゼロスには片手で謝りつつも慌てた様子ですぐさまその後を追って行った。
「……泣くほどのことかよ」
 取り残されたゼロスは顔に受けた物体と、ブリジッテとヴァンが向かった方向を眺めながら不可解な顔でぽつりと呟く。投げつけられた物体は丁度目の窪みに嵌るように当たったから、痛いことは痛いが鋭い痛みは幸いにもなかった。と言うより、後を引かないのだろう。
 一体何を投げ付けて来たのか気になったゼロスは、自分への武器であった包みを解くことにした。周囲からの視線が冷やかしめいているが話しかけてまでは来ないからそれを無視するための行動でもあるが、単純に疑問も抱いていたのだ。ぶつけられた際はそれなりに痛かったが、同時に奇妙な弾みがあったので後に引くほどの痛みはなかった。恐らくに、食べ物だろうと思われる。
 中は予想通り、赤々とした人間男性の手首ほどの太さの一本のサラミだった。麦酒の肴としては悪くないが、現状食べ物が増えるのはあまり有り難いことではない。幸い、包みのままだし持って帰って誰かにやるかと思ったところで、ナイフの煌めきが眼前に飛び込んでくる。
「お嬢さまの仰る通りです、ゼロスさん」
 誰の声であるかを判断した直後、ゼロスの手のうちにあったサラミが十枚近く薄切りにされる。それだけでなくわざわざ褐色の手を持つ誰かはアウアクロムで切ったサラミを彼の芋団子の上に乗せ、持ち帰れないようにソースにしっかり絡める。
「……てんめ!」
 ゼロスの恨めしげな視線を受けても、空のグラスを片手に山ほど抱えた給仕娘姿のケイはいつもと変わらぬ涼しげな顔で彼を見返す。その瞳は、少しだけ彼に対して刺々しいかもしれないが。
「少なくとも私はお嬢様の人望があると信じていますよ」
「んなら今追っかけて本人に言って来い。俺を巻き込んでんじゃねえ」
 こちらもいつも以上に荒っぽいゼロスの発言に、ケイは片目を瞑ってから首を傾ける。
「それでは意味がありません。発端の方にまずご理解頂くのが筋合いかと」
「そうかよ。俺にとっちゃどうでもいいこった」
 肴を増やされたゼロスは投げやりに頷くと、フォークでサラミと団子を一緒に串刺してから口の中に放り込み、それらを麦酒で流し込む。
「ええ、そうです。あなたほど人望をお持ちの方に言われては反論も難しいですが、少なくともお嬢さまの人望は皆無ではありません」
「なんでそこで俺が引き合いに出んだ」
「あなたは人望をお持ちでしょう。少なくとも、サラミを一本丸ごと貰ったり、この混雑の場で席を設けて貰えて無料で飲み食い出来る程度には」
 どちらもさして嬉しくないゼロスは、今度はサラミだけを何枚かフォークで突き刺してから咀嚼する。
「鬱陶しいだけだ、こんなもん」
「では投げ出されば良いでしょうに。人の良心を踏みにじったところで、ばれさえしなければ誰も何も言わないと思いますよ」
 嫌なところを指摘され、ゼロスは苦虫を噛み潰したような顔で再び麦酒を一口。微かに泡が口元に付いてそれを舐め取る。
「……てめえが今見てんなら、ばれんだろうが」
「成る程、確かにそうでした」
 ケイの口元に、ゼロスとここで出会って以来初めて薄らとした笑みが浮かぶ。女性の姿での笑みは美しいと断言出来るものであったが、彼にとっては嫌な予感を煽る笑みだった。
「それにしても、ゼロスさん」
「あんだよ」
「あなたが人の良心を踏みにじることに、人目を気にする節度があるとは思いませんでした」
 ゼロスのフォークの動きが止まる。しかしそれさえ気に留めるふうもなく、ケイはおやと声を漏らしてよそ見をした。わざわざ、彼のいる方向を見ないように首をあさっての方に向けて。
「では私はもうそろそろ。無駄話をしている暇はありませんでした」
 言い逃げるとケイは速やかにゼロスのいるテーブルから離れ、雲隠れさながらに姿を消す。反論の相手を失ったゼロスは、重く息を一つ吐き捨てた。
「……なら最初から話しかけんなよ」
 二人の会話が聞こえていた者であれば、尤もだと思ったことだろう。だがそれより以前に、魔族の少女をこてんぱんに言い負かしたゼロスを庇う者はいない。正しく自業自得だが、それを指摘する者もまたいなかった。
 ゼロスは墓穴を掘る趣味はない。ケイの笑みを含んだ指摘が暫く頭の中に響いたが、そんなことを気にする自分にらしくなさを感じて頭を振り払うと残りのサラミをかき集める。そこで、またしても邪魔が入った。
「あれ、ゼロス、もう酔っちゃった?」
 目だけを声のする方向に向けて、ゼロスはサラミを口の中に押し込む。酔っている自覚はなかったが、それならそれでいいかもしれないと半ば自棄気味に思いながら。
「なになに、それどうしたの?」
 遠慮もなく隣のテーブルでジョッキを配りながら首を伸ばしてこちらを見てくるリディアに、ゼロスはなかなか減らない麦酒を喉に流し込んだ後に包みの中を見せてやる。
「チビが寄越した。食うなら持ってけ」
「チビ? ああ、ブリジッテかぁ」
 本人が聞けば薬缶笛さながらの奇声を発しそうな会話だが、マイペースと言う点では共通している二人はお互い平気な顔を貫く。
「ブリジッテがゼロスにあげたんならそれはゼロスのもんだと思うけど? むしろ、それ貰ったってばれたらあたしブリジッテに怒られるかもだし」
「怒りゃしねえだろ。あいつ、こんなもん俺の顔に投げつけやがったんだぞ」
 それでも柔らかめのサラミだったので顔に跡など残らないが、これを投げつけられた痛みは忘れそうにない。不愉快に眉を吊り上げるゼロスに、リディアは空のジョッキを集めながらぐいと身を乗り出した。
「ええ!? ゼロスってばブリジッテに何言ったの!?」
「覚えてねえ」
 うわ無責任、とリディアが真顔で呟く。しかし実際に今のゼロスの頭にはケイとのやり取りの方が色濃く後を引いており、ブリジッテを怒らせてしまった言葉なんぞ綺麗さっぱり消えていた。
 しかしここでの唯一のゼロスの幸運は、それを素直に告白した相手がリディアであることだ。何せ彼女も又、彼と同じくらい後悔と縁の薄い性格である。
「まあそう言うときあるよね〜。あたしもよく理由わかんないけどアデル怒らせちゃったりするからさー」
「てめえ、それしかしてねえだろ」
 冷静な指摘を受けて、あははとリディアは笑顔を見せる。続いて片目を茶目っ気たっぷりに瞑ってぐっと親指を立てた。
「もっちろん! それわざと狙ってるし! 狙ってなくても怒らせるし!」
「……ひでえ女」
 あからさまに呆れた視線を受けてもリディアは強い。動揺するどころか自慢げに胸を張って、わざとらしく腰を捻る。
「ンフフ、悪女でしょ〜。とんでもないでしょ〜」
「ああそうだな。付き合い選べってあいつに言っとけ」
 本人としては悪女めいた動きかもしれないが、実際には単に腰をくねらせるだけのリディアにゼロスは落ち着いた言葉を投げかけると、彼女は何かに引っかかったらしい。いつものように笑顔に切り替えるも、少し、いつもよりも晴れ晴れとした印象を持つ。
「うんうん、言っとく言っとく!」
 それから一度空のジョッキをゼロスの方に掲げると、リディアはサイドテールを跳ねさせながら人波にするりと入っていく。その際、はっきりと彼に一言投げかけた。
「ゼロス、付き合い良くなったよね!」
 ケイと同じような衝撃を与えて言い捨てるものだから、ゼロスは再び一瞬だけ硬直してしまう。次の瞬間には、全くジョッキの中身も皿の中身も減っていないことに気が付いて、流石の彼も頭を手で覆ってしまった。
 先のケイの指摘も、間接的にゼロスの優しさを見出したと言っていたようなものだったのに。更に今度はリディアにも直接的な表現で同じことを言われてしまい、ゼロスは小さく吐息をつく。
 居たたまれない。自分はこの天幕や収穫祭に馴染みがない立場でいるはずなのに、馴染んでいるよと指摘されているような心持ちになってくる。そうでないはずなのに。ゼロスは、どんな依頼でも確実にこなす請負人は、荒んだ場末の酒場で、売られた喧嘩を全て買い、恨み辛みだけを背負いながらひたすらに生きてきたのに。
 けれど、ゼロスは素直だ。そこで変に格好を付ける自分が滑稽だとも思える客観性を持つ。つまり今、優しくなっただの付き合いが良くなっただのと言われて少なからず衝撃を受けている自分もまた、見苦しく見えてくる訳で。では、それらの指摘を受け入れるかと言われれば、それもまた気恥ずかしくもある。
「……なさけね」
 そう、情けない。今までの自分に固執して指摘された優しさやらを恥ずかしがる自分も、それらをありのままに受け入れることこそが正しいと頭でっかちに主張する自分も。
 かくりと肩の力を抜いて、ゼロスはジョッキを手に取り中身を喉の奥に送る。そんなことで悩むのは自分の性質ではない。その時々の思うがままに振る舞えばいいと、いつも通りの思考に切り替える。


 成る程、最初にそこだと指し示された先は一見すれば単なる崖の一部としか見えなかった。魔力の流れやモンスターの気配に集中してしまえば、崖に見える一枚岩の奥に広がる空間全てがこの付近で住民たちを苦しめていたモンスターどもの巣だと判断出来るのだが、これが入り口の時点で素人が見つけるのは難しかろう。
「案外、近くにありましたね」
 例の結晶が入った袋を安全な場所に隠し終えたらしいスノーが戻ってくると、背後を振り返り収穫祭の会場の方に視線をやる。空が本格的に暗くなりつつある現在、あちらの電飾や篝火はそこそこに距離があってもよく見えた。確かに近いと言えるかもしれないが、それにしたってデューザと合流してから十分前後は歩いている。別の足があるならそちらを使った方がいい距離だ。
「他の塊村を狙った方が早い、か?」
「いえ、恐らく移動時間はさして変わりません。問題は、どちらを狙うか、ですから」
 どちらとはどのどちらか。疑問を浮かべさせる物言いをしたスノーに男二人が視線を彼女に向けると、当事者は無言で手中にあるものを見る。光沢のある水色のスカートと生成りのブラウス、紺の刺繍が入ったエプロン姿の彼女の出で立ちと比較すると、両手で抱えられているそれは違和感のある色彩だった。
 茶色く汚れた襤褸切れだ。村から広場へ林の中に入って行くなら落ちていてもおかしくないものだと思うのだが、スノーの表情から導き出される見解は、そう軽々しいものではないらしい。
「女性ものの、上の肌着と思しきものです。この付近に埋められていました」
 丁度肩付近の箇所なのだろう。紐状に折られた布が半端に広がって糸が切れそうに頼りない肩紐と、その両端に縫いつけられた布の縁にある茶色く皺だらけになった質素なレースがそれらしい痕跡を残していた。
 スノーから遠いデューザにはわからないが、彼女に近いジャドウには肌着に何かを感じ取ったようだ。つまみ上げて軽く土を払うと、遠慮もなく告げる。
「血か」
 目を見張ることはないもののその一言で、デューザにですら概ねスノーの表情が深刻な理由が読み込めた。
「……ここのモンスターは人間を狙うのか」
 ヒトゲノムや異界の門でしか見ないようなモンスターであれば最早常識に近いが、逆はそれこそ滅多に聞かない。故にデューザにしては珍しく声に出してスノーに訊ねると、彼女は痛ましい顔もせずに頷いた。既に、そう言うものへと頭の中は切り替わっているのだろう。
「昨夜、食堂で伺いました。ここ数年、モンスターによるものと思われる墓荒らしが度々起こるそうです。それと、失踪者も年に数人か」
 モンスターによる墓荒らしと失踪。両方の事件を繋げてしまえば、この朴訥な土地に反する生臭ささが想定される。スノーが脳裏に描いた結末が推測の域を出なければ単なるこじつけでしかなかったのだが、つい先程、彼女自身が証拠を見つけてしまった訳だ。
「成る程な。貴様が討伐に乗り気の理由はそれか」
 大魔王たる魔族の男は、推理に確証など得なくても気にしていない顔で、口元に三日月型めいた笑みを浮かべる。今から繰り広げられる乱闘を心の底から楽しみにしているのか、それとも愛する女を趣味の悪い理由で茶化したいのか。どちらにせよ爽やかとは言い難い。
 反するスノーは凛とした表情を保ったまま、襤褸切れを男の手から取り戻すと覚悟を決めた顔でそれを握る。
「ここはモンスターにとっても肥沃な土地です。……飢えを凌ぎたいのであれば、わざわざ人間を襲う必要はありません」
「喰っていないものもいるかもしれない」
「ならばこの巣に集わなければ良い話でしょう。先程言った通りここは肥沃な土地なのですから、住処はここに限らないはず」
 無実にも拘らず敢えて人喰いモンスターの一派として汚名を被るモンスターはいないだろう、とのスノーの推測にやれやれとジャドウは軽く肩を竦める。律儀にも宙に浮いた甲冑でさえ軽く浮き上がってから、据えられた灰褐色の触手が蠢いた。
「……貴様の理屈はよくわかった。幾ら取り繕おうが、これからは俺の独断場であることもな」
「…………」
 見る間に血色の悪い手を黒い魔手へと変化させると、ジャドウは獰猛な笑みをスノーに向ける。彼女は微かに眉根を寄せて俯いたが、次に顔を上げた青い瞳に宿っていたのは、静かでありながらも強い覚悟を思わせる光だ。
「ええ、そうなります。あなたも、これからは……」
 スノーはデューザの方に振り向きもせず、けれど彼に向けて何かを言いかける。加減や同情を見せるな、とでも言いたいのか。そんなもの、選民意識が強く、更には同種であっても他者に対する執着が薄いヒトゲノムに投げるべき言葉ではない。
「貴様に指摘される必要はない」
 断言するデューザに、スノーはいえ、と口元にだけ笑みを浮かべる。
「深入りはしないよう、お願いします。暫くは、わたしも周囲を見る余裕がなくなるでしょうから」
「…………」
 似たようなことには違いない。だが彼らがそれを不安に思うだけの乱戦が待っているかもしれないと捉えれば、デューザとしてもそこそこに意義のある忠告だった。そう思った彼がスダルサナを握り直すと、仕草が相応の返答として受け取めたのだろう。スノーがジャドウに視線をやる。
 準備が整った合図を受け、切り込み隊長は彼らを見向きもせず口元に薄い笑みを刻む。けれどそれは、彼なりの返事なのだろう。何故ならば。
「――さて」
 ジャドウが一歩、岩へと近付くと同時に彼の足下から霜が発生した。巨大な障害物へと素早く伸びたそれは、岩と接触した瞬間、蛟が卵を飲むように丸ごと対象物を包み込む。
 突如として氷壁に変化したモンスターの玄関口を、侵入者は躊躇もせず踵から蹴り付ける。ぴちりと高いひび割れ音が周囲に響き、壁の表面に蜘蛛の巣めいた模様が入った途端、岩は硝子の如く砕け散った。
 岩の奥にはやはりと言うべきかモンスターが何匹かが待ち構えていたらしいが、石と氷の容赦ない破片を受けて無事でいられるはずがない。
 清々しい玄関口となった洞窟に入った三人が直後目にしたのは、モンスター側の切り込み部隊であるブラッディビーストたちが、透明もしくは灰褐色の破片を顔面に受け、ぶぎゃあぎゃおうとそれらしい悲鳴を上げて痛みにもんどりうっている姿だった。だが侵入者たちはそれをぼさっと眺めているほど間抜けではない。
 一匹のブラッディビーストが目を瞑ったまま適当な方向に逃げ出そうとすると、尻尾を引っ掴まれて軽く飛び上がる。侵入者だと判断して身を翻そうとした瞬間、温かくも濡れた何かが血塗れの鼻に掠れたと意識するとそれきりだ。それきり、黒豹のような獣は首をもがれ、そこから下を痙攣させて絶命した。
 もう一匹は身悶えしている最中であるにも関わらず額を綺麗にかち割られ、残りの二匹は同じく敵に気付く余裕もなく降って湧いた七色の光雨に毛皮と言わず胴体ごと焼かれいたぶられ貫かれる。一匹は顔の隙間から赤い血を噴水のように吹き出して、二匹は白い煙を棚引かせてから、ぐたりと地面に崩れ落ちた。
 瞬時にして単なる肉の塊と化したブラッディビーストであったものたちに、男性二人は見向きもせず一つも明かりのない奥へと歩を進めるが、後衛のスノーはそれに付き従わない。彼女の愛用品である月の賢者をモティーフにした杖から、白い羽が月を覆う小振りな杖に持ち替えてエクスプロージョンを唱える。彼女の声に違和感を抱いた二人が背後を振り向く頃には、紙を燃やす速度で美しい燐火が黒い屍肉を灰に変えていた。
 アルテミスロッド――にしてはステッキのような大きさだが確かに似た形状の杖――でスノーが空気に軌道を描くと、それに沿うかたちで魔力による風が男性二人側から彼女側へと一陣吹き抜けて、灰を洞窟から外らに払う。エプロンに染みすら作らず一連の行動をやってのけた彼女に、ジャドウは呆れた目を向ける。
「いつの間に……袋の中にでも潜ませたか」
 今彼らがいる玄関口はまだ広い方だが、これから先は恐らく明かりもなく狭い道が続くだろう。そうなればモンスターの屍はあらゆる意味で障害になるので、スノーの行いは決して無駄ではない。それどころか男性二人は感謝してもいいほどの気の利きようではある。問題は、その準備の良さだが。
「ええ。こう言う場所では必要になるでしょうから」
 スノーは使い終わった杖に青いリボンを巻き付けてから、エプロン紐にリボンの余りを括り付ける。いつの間にかそうやって携帯していたらしい。杖自体の見た目が女性向けであるためか、今のスノーの格好でも特に違和感がなかった。
「応用力が優れているのは今の魔術や技術力の利点ですね。お陰で長短程度の改造も素人で簡単に出来ますし、わたしが得意ではない炎や風の魔術も簡単且つ効率的に使えます」
 スノーはそう微笑むが、今までのそう短くないデューザの地上生活の中では既存の武器を独自に改造する人物は稀だ。少なくとも素人がやってのけて『簡単』と言える行為ではない。本当に素人が出来るのならはゼロスがコアを装備する際、武器屋の親父を悩ませたりそう安くない金額の交渉を行うことなく、自分でやってのけたことだろう。
 そしてまた現在ネバーランドで使用されているゾディア式魔術であっても、術者の得意ではない属性の魔術の使用は威力も落ちるし制御も難しい。のだが、スノーには効果の面でも使用感でもさして実感が湧かないようだ。土台の魔力が普通の術者と桁違いな上、それより以前の魔術は術者個人の魔力によって使えるものが決定され、秘薬でもない限りほぼ固定していたと聞くからそれに比べれば簡単なのだろう。
 しかしそれを聞かされたジャドウの方は同意する気はないらしい。眉間に皺を寄せて吐き捨てるように呟いた。
「下らん。千の命を引き潰してこその『魔術』だろうが。幾ら利便性に優れていようと、小手先ばかりの技は『魔』ではない」
 辛酸な意見にスノーは小さく吐息をついて馴染みの杖を振り、ジャドウの肩の魔界獣がついと奥に動く。同時に行われはしたものの二人の動作はそれだけでしかないのだが、魔族の男性の頭の辺りから暗がりに潜む何かがぎぢ、と軋んだ悲鳴を漏らした。
 暗い洞穴の中にぽたりと黒い液体がジャドウの甲冑に滴り落ちる音が響き、触手がスノーの側に貫いた何かを放り投げる。子どもに遊び殺されたような無惨な姿のデスキラービーが、彼女の足下に転がった。
「それでもこのような場では最適ですよ。小回りが利くのは、わたしの性にも合っています」
「俺には合わんな。魔術の効果そのものが生温い。殺しには不向きだ」
 流石に一体だけは『処理』をする気にはならないらしく、スノーはデスキラービーの遺体の横を通り抜けて前衛二人に歩み寄る。
 デューザは気にせず前を向き直り、ジャドウは暫しスノーがやって来るのを待ってから自然が作り上げた通路を進行する。視線の先には相変わらずの暗がりだ。地面も平坦とは言い難く、二足歩行では少々辛い。
「そもモンスター退治自体が俺の性に合わん。昨今のモンスターどもの手応えは、一昔前の人間以下だ」
「……あまり感心できる比較対照ではありませんね」
 それでも三人は悠々と進む。先程までいた林を歩くのと同じような早さと気負いのなさで、闇の中を躓きもせず動揺もせず自然体のまま。低い羽音や唸り声を耳にし、暗闇から不気味に浮かび上がる幾つもの目らしき光を目にしても、表情一つ変えず。否、否。
「だがまあ……」
 ジャドウは笑う。甲冑以外は幾らか一般的な魔族男性らしい地味な格好であるはずなのに、やはり浮かべる表情には大魔王と呼ぶに相応しい威圧感を持って。残酷に、今まさに牙を剥いて侵入者たちを待ちかまえていた獣どもよりも血を渇望する表情で、赤い瞳を静かにゆっくりと細める。
 デューザは前を見据える。油断なく、否この男が油断などすることはないのだけれどそれでもやはり隙を見せず。未だ彼の手が触れてもいないはずのブレイカーが、彼の戦意を表明するかのように鋭く輝く。
 スノーは表情を打ち消す。可憐な村娘の格好がよく似合う彼女の青い瞳は透明度を増し、いよいよもって人工に磨き上げられた宝石のように澄んだ青に変化する。が、その色から受ける印象は神秘的だの美しいだのの評価を通り越して、何か不気味な、底知れないもののようで――。
「暇を潰すには丁度いい」
 言って、ジャドウが眼前の一つ目に向かって飛びかかる。デューザのスダルサナが闇を切り裂き、スノーの魔弾が無慈悲に煌めく。
 こうして彼らにとっての『仕事』が、今ようやく始まった。

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