Gabriel
その日は偶然、外に出たかった。 眠れない夜は何度もあったし、その理由もその日ごとに変わっていた。それらしいものと言えば、例えば相部屋の相手のいびきが五月蝿かったり、宿の下の階でいつまでも騒いでいる連中のせいであったり、単に寝苦しかったり、戦闘の時のことがなかなか忘れられなかったり、漠然とした不安のせいであったりした。 そしてその日は一番重い気分になりやすい、どうしようもない苛立ちと焦りのせいで、安らかな気持ちで寝ることなどできなくなってしまったのだ。 これらのことを誰かに話すつもりはなかったし、話してもどうにもならないことだと思った。悩み事を誰かに言うと気が楽になるなんていうのは、単なるその場しのぎのことだと、アキラは考えていたからだ。 ではそんな気持ちをどう落ち着かせるかと言うと、ひたすら眠くなるのを待つしかない。悩み事を一時的に放置できるほどの睡魔に襲われたことは数少ないが、思い詰まっても自分だけではどうにもならないことを実感すると、どうにか気分を紛らわせることができる。それが現状だった。 しかし、その日だけは、どうにもそれだけでは気持ちが治まりきらないような気がしたのだ。だから、深夜であることは百も承知で、宿から抜け出した。抜け出したと言っても言い換えれば単なる散歩である。夜中になったら急にモンスターが徘徊しているというわけでもないから、別に見つかっても構わないだろう。 心の中でそう自分に納得させ、上着を羽織るとゆっくりとドアノブを回して廊下に出た。隣には確かガラハドが寝ていたはずだが、むこうもむこうでちゃんと寝ているかどうかすら怪しい。まだパブが開いている時間だとすると、出て行って賭け事でもしているのだろう。しかし、それを自分が咎めても何の意味もない。自分達の金が減っていないならいいんじゃないか、と思いつつ、階段を下りていった。 外は満月らしい。自分の足音と呼吸音しか聞こえないフロントの窓から、優しく青味を帯びた闇が見えた。闇といっても、本当に黒いのはフロントの影の部分であり、薄く光が差し込んでいる窓の外のほうが明るい。 チキュウにいた頃は、夜に街を走ると、たまにその不自然な感覚に気付いたこともあった。それを見て、外じゃなくて家のほうが「黒い」んだなと考えたこともある。しかし、屈託ない人間の多いこの世界でも、それは同じなのだ。アキラがチキュウにいた頃の感傷など、まるで無視しているようだった。 ――別にいいけどな。 宿のドアを開けようとするも、鍵がかかっているらしい。当然だ。街にモンスターはいなくとも、ひったくりがいた以上、泥棒もいると考えるのが筋だろう。 仕方ない、寝よう。と、普段の彼なら思うはずだが、この日はどうしてか外に行きたかった。出て行くとしても誰もいない街中を一人でぐるりと回るだけなのに、外に出たくて仕方なかった。 薄く光が差し込む窓の一つから内鍵を外すと、そこから外に出た。こんな危なっかしいことは中学生以来だったが、その甲斐はあるような気がした。 そこは彼が予想していた通り、理想的な世界だったからだ。 人の気配がなく静まり返り、街の賑やかな通りには誰もいない。いるとすればそれは自分一人で、その自分は周囲のペースに流されることなく悠然と歩くことができる。 心なしか、自分が少し浮かれた足取りになっていることに彼は気付いた。それを恥じはしたが、しかしそんな自分を見る者はいない。笑う者もいない。ただ銀色の光を放つ満月の光を自分一人が受け止め、寝静まった街で自分一人の足音だけが響いていることに満足感と安堵を覚え、そして気持が安らいでいくのを感じた。 あの賑やかな連中といるのは慣れてきたが、あそこにいると静寂とは程遠くなってしまう。チキュウにいた頃は、大勢の中にいても独りでいる気がして、それを吹き飛ばすためにもツーリングを趣味にしていたが、今はどこに行っても見知った誰かがいる。それはそれで悪くないことかもしれないが、そんな状態では自分一人の世界が築ける場所がない。そうなると、疲れてしまうのも事実だった。 そして、今ここは、誰がどう見ても、彼一人の世界なのだ。優しい紺色の闇をまとった空は、人口のものでは到底作り出せない清楚な光の粒たちを輝かせている。そしてその空の端には、少し小ぶりの銀盤のような満月が穏やかな白い光を放つ。 美しい世界だった。静かではあるが凛とした空気を持ち、優しいが全く甘さを感じさせない、薄く張り詰めた空気は、彼の身には心地よかった。 いつも外がこんな感じなら、皆が寝静まる時間に起きて散歩するのもいいと考えながら、オルハイと表記してある噴水の辺りに来ると、眼前の光景に唖然とした。 そこに女性がいたからである。 ただの女性ではない。まるで月の女神のような、白い簡素なドレスに身を包んだ女性だった。 まず目を惹いたのが髪だった。質量のある髪は白銀に輝いているが、その色は銀と特定していいのか分からないほど淡い。錬金所で銀の延べ棒を練成した時に、純銀のあまりの輝きに目を細めた経験があるが、あれとはまた違い、もっと上品な銀色だ。どんなものかと言うと、丁度空に浮かぶ月の表面のような、淡く優しく、強い光に対し霞んでしまいそうな、脆い白銀の輝きである。派手でもでしゃばっているのでもない、控えめでありながら楚々とした輝きを放つ銀の髪だった。その輝きを持つ髪を青い布で軽く一まとめにして、前に垂らしている。それがまた白い月の光を受けて、髪が放つ光と同調するかのように静かに輝いている。 そして次に、雪が染み込んだような白い肌に目がいった。月の光もあるから青白く見えるのかもしれないが、それにしたって白い。絹や真珠だって薄く色があるのに、この人の肌は月光自体のような白さを持つ。しかしその肌の白さには、病弱なのだろうかという思いや、不気味だと思わせるものは全く感じない。血が確かに通じている証拠に、頬は薄化粧をしたようにほのかに赤く、唇も淡い朱色に輝いている。それらがより一層彼女の白い肌を引き立てて、アキラは、初めて見たどこまでも白く透き通るような肌に呆然としていた。 そのひとを彩る色ばかりではない。かたち自体も、洗練されたような美しさを持っていた。 まるで細筆で一書きしたような柔らかな線を描く柳眉に、はっきりとした二重の瞼は白銀の睫毛を収めて静かに佇んでいる。すっきりとした鼻筋の先にある鼻は小さく、薄く開けられた柔らかそうな唇も、かたちのよい顎も少し小さい。男の手で包み込める大きさの顔の下には、華奢な首が体と顔を繋いでいる。首から肩にかけての線は髪と外套が邪魔しているものの細く感じられ、黒の毛皮の外套の奥に佇む、布越しにある二の腕から手首にかけての線も、まるで洗練されているかのような微妙な妖しさを持つ。白い簡素なドレスに包まれた胴体もまた、女性的な美しさを持つ。胸は目を見張るとは言わないもののそれなりの豊かさを持ち、腹部は細いドレスに少し余裕ができるほど細い。しかし腰まわりは胸元と同じくらいにしっかりと肉付いていた。ドレスから見える脚線は肉感的な色香とは程遠いが、それでも思わず見惚れるほど見事なものだった。 しかし、女性自身からは何の色気も感じないのが不思議だった。確かに美しく、何の文句のないほど丁寧な体のつくりをしていると言うのに、欲情を煽るものなど少しも感じられない。ただただ清楚で美しく、見惚れるばかりだった。 そしてその美しいひとはゆっくりと目を開けた。それだけのことなのに、まるで月の光に打ち震え、蛹から成虫へと変化を遂げた青い燐粉を持つ蝶のように、神秘的に見える。 そして白銀の長い睫毛に縁取られて現れたのは、どのような喩えも追いつかないほど優しい青の瞳だった。美しいことは美しいが、無機質なサファイヤなどの、ただ深く美しい色合いであるだけではない。その瞳の青には確実に、何らかの感情が篭められているのが分かる。それは何かというと、恐らく優しさや、愛情や、慈しみや、そういった、宗教では美徳とされる感情。しかし、そこには宗教的なきな臭さや近づき難い印象はない。こちらの心を奪うのではなく包み込んでしまうような、甘い光を持つ青だった。 茫然としながらその女性を見るアキラもまた、まるで夜の月が眼前の女性を引き立てる装飾品の一つではないかと思うほど、一瞬にしてその女性に魅了されていた。同行している数多くの可愛らしく美しい少女達を見慣れていて、そしてその少女たちに振り回されることは多々あっても、魅かれることはなかった彼が、だ。 ゆっくりと目を開けた女性は、アキラを見ると、挨拶するかのように微笑んだ。その笑みのおかげで先程の神秘性が薄れ、少し世話好きそうな雰囲気を見せる。 「こんばんは。いい月ね」 聞こえてきた声は柔らかく、まるで水晶の鈴が鳴っているような、澄んでいて落ち着いた声だった。 「・・・・こんばんは」 実に素直に挨拶を返してしまう。いつもの彼なら、頷くか相槌を打つ程度のはずなのに。 「急に失礼かもしれないけれど、宿屋はどこにあるのか教えてもらってもいいかしら」 彼女の唇から出てくる言葉は、なめらかで心地よい調べを持つ。短い言葉であると言うのに、アキラは懐かしい子守唄でも聴いているような心地になっていた。 「いいけど・・・・・あんたは・・・・」 何なんだ、と訊きそうになって、思わず自分の口を塞ぐ。何者でも誰でもなく、何とはそれこそ急に失礼な発言である。そしてそのひとは、まるで自分の考えを見抜いているように苦笑した。 「一応、旅みたいなものをしているの。名前も名乗っておいたほうがいいかしら」 ああ、とやっとの思いで頷く。女性がこちらを向いて、髪の一房を持ち上げる仕草や、瞳と同じくらい優しそうな表情を見せ、そして歌うような声を聞かせるだけで、彼は甘い香りの湯に体全体を浸らせているような感覚に陥るのだ。つまり、上せてしまいそうになっているわけだが。 しかし、次に出した彼女の言葉に、彼の神経は一瞬にして甘い夢のような気持ちから覚める。 「プラティセルバのリトル・スノー」 そんな馬鹿な、この女は冗談を言っているのだと、最初は思った。そして次に、その女性に掴みかかろうとした。が、彼女の表情は変わらない。それどころか、自分が急に怪訝な顔をしていることに驚いているらしかった。そしてそれを見ると、アキラにまた違う考えが浮かんだ。きっと同性同名の、単なるきれいな女なのだ。そうだ、そうに決まっている。でなければ、自分の名前をあっさりと言うものか。 自分をこの世界に召喚した元凶の女の名前を、アキラは一時たりとも忘れることはなかった。理由はと言われれば、恨みと断定できる。リトル・スノーという女がチキュウから召喚されルネージュ国を治めていたせいで、再びリトル・スノーに国を治めてほしいと考えた馬鹿な神官たちが自分をこんなところに連れてきたのだ。その女さえ召喚されなければ、自分はチキュウで、退屈だが生死に関わることのない生活を送っていただろう。全ては、その女のせいなのだ。 だからこの美しいひとからその名前が出た瞬間、一瞬にしてこの女性こそがリトル・スノーなのかと思ってしまった。馬鹿馬鹿しい。その女は長い間行方知れずなのだ。こんなところを『リトル・スノー』がのこのこと一人で歩いていれば、ネバーランドの住民が治しようのないほど間抜けであるという話になるが、そう間抜けな人物は、アキラは数えるほどしか見たことがない。むしろ自分より勘がいい者が多い。となれば、同性同名の、単なる『リトル・スノー』というきれいな人物が自分の目の前にいるだけの話になる。なにせ、とても有名な女王らしい。その名前にあやかって、立派に育ってほしいと考える親がいたところで不思議はない。 その考えに納得すると、アキラは自分を冷静にさせるために大きく息を吐いて、少し笑った。自分を安心させるための笑みだった。 「・・・・・俺はアキラ。宿なら俺達が泊まってるところがあるから、そこでいいなら教える」 「構わないわ。ありがとう」 アキラの笑みに対するお返しなのか、感謝の笑みすら眩しいくらいに美しい。心なしかアキラは自分が浮かれているような気がしているものの、なるべく冷静な態度でいようとした。美人にのぼせ上がってしまうことなど、彼の性格上ありえないと言ってもいいことだからだ。 けれど、そのひとは抜群に美しいだけではない。彼のあとをついて行く位置や、歩き方や、その表情に品の良さと慎ましやかな性格が滲み出ている。いつか逢った魔族と人間のハーフの美女は、わがままなハーフエルフが大人しくなるほどの憧憬の対象になっているらしいが、あの自信と言い態度と言い、どうも好きになれない。女性の色気というものを匂うほど撒き散らしているような気がして、確かに美しいが少し気が引けるのだ。しかし後ろを歩いている彼女は違う。自らの美に気付く様子もなく、利用する様子もなく、清楚ではあるが人を惹きつけてやまない何かを漂わせている。だが、その何かは男を欲情的に煽るものではない。一緒にいたい、守りたい、甘えたいと思わせるような、初々しい恋愛感情に似たものを誘う空気だ。 そして、後ろに粉雪の精霊のような女性を連れながら宿に着いた彼は、そこで少し迷った。 自分がどうやって宿から出て行ったかを考え、そして次にフロントが消灯している今の時間ではこの女性が宿に泊まる方法がないのではないか、ということを考えた。 そして、自分一人では何とかなるだろうと考えていた現状を、何故か彼は素直に口に出した。 「・・・・・俺、ここの窓から外に出たんだけど・・・・・、あんたはどうするんだ?」 それを言われた女性は、ちょっと目を見開いた。次に、朝焼けの空にも似た瞳が少し笑う。 「ちゃんと営業時間になってからまた来ることにするわ。教えてくれてありがとう」 「え・・・・・・」 どうやって朝まで時間を過ごすつもりなのだろうか。こんな華奢な女性が夜の街を歩くのは、それこそ危険ではないだろうか。 そう考えた彼の意思がわかっていたのか、女性はまた少し笑う。 「朝日が昇るのはもう一刻ぐらいでしょう?街を隅から隅まで見て回れば、きっともう開いてるはずだから…」 それでも危ないことには変わりない。少し慌てたアキラに、それでも女性は微笑を宿したままだった。 「わたしは一人で旅をしているの。ある程度なら魔法も使えるから、大丈夫」 やんわりとではあるが、強固な意思で微笑む女性の言葉に、アキラは渋々ではあるが納得した。何より、この女性が夜のうちにこの街に入ってきたのなら、それまでにモンスターに会っていてもおかしくはない。それでも無事にこうしてここまでいるのならば、それなりの腕を持っているのではないか。そして、モンスターを追い払える腕があるのならば、変質者やひったくりや追い剥ぎに遭っても何とかなる。 そう納得すると、アキラは浅く頷いて女性と別れた。女性は礼儀正しく頭を下げると、彼が窓の内側に入るのを見た後で別の方角に消えた。 朝日が昇るのはもう一刻。 美しい調べのような声を思い出しながら、アキラはふとそんな時間だったのかと少し驚いた気持ちでいた。自分は少し眠ってから思い悩んでいたらしい。眠れないでいた時間があまり長く感じられなかったからだ。 そして、彼は一息吐くと、そのまま階段を上った。朝日が昇り、あの髪が太陽の光に照らされるところを見るのは目の保養になるだろう。しかし、それは昼間あの女性と偶然でも会えれば見ることが出来る。それが昼間での小さな楽しみのようなものだ。 自分の寝台のある部屋に帰ってきて、その音に気付きもしないで太平楽に寝ているシロのだらしない寝顔の横を通り、毛布の中にもぐりこむ。外の冷たい外気とは違い、こちらもひんやりとしてはいるものの、すぐに自分の体温で温かさを取り戻す。 予想より早く現れた睡魔に身をゆだねながら、アキラはふと気が付いた。 ――楽しみが持てるほどの余裕なんて、いつから出てきたんだ? この世界でもチキュウでも、寝ることはあまりいいものとは思えなかった。チキュウにいたときは、目が覚めたら、またつまらなくて長い一日を過ごさねばならないことにうんざりしていた。そしてこの得体の知れない世界に来てからは、明日も無事に寝ることが出来るだろうか、いつになったら帰れるのだろうか、ずっとここで暮らさねばならないかもしれないという数々の不安が重くのしかかり、まともに寝ることができたのはこの数ヶ月のうちに何回ともない。 けれど、いつの間にか起きている間は、騒がしい自称『仲間』たちのおかげで――いや、せいで、と言ってもいいかもしれない――不安に怯えることもなくなった。そして今は、寝た後の楽しみまで持てるようになってきている。 呑気になったもんだな俺も――そう思いながら、重い瞼を目に被せ、安らかな息をつきながらアキラは眠り始めた。 そしてこの時だけは、これから一ヶ月におけるもう一人の異界の魂に穏やかでない感情を持っていない、唯一の時間でもあることを、彼はまだ知らない。 |