The saint's mother of silvery snow

 

「なに。いつもあんなことしてたの?」

 呆れ果てたリューンエルバの言葉に、タオルを頭に乗せなおすヒロが横目で反応した。

「なにがだ?」

「かくれんぼよ。二人共別にどうも思ってないってことは、過去にそういうことを何度かしてたってこと?」

 ああ、とヒロが浅く頷けば、髪を洗っていたリトル・スノーは苦笑を浮かべる。

「別にそんなに頻繁にあったことではありませんけど、似たようなことならありましたよ。公式でルネージュに行くと手続きが面倒だからって言って、お忍びで城まで潜り込んできて…」

 何度もそんな経験があったのか、ヒロはそれを聞くと、今まで旅の一同には見せたことがない、幼く拗ねたような表情を見せた。

「仕方ないだろ。公式訪問は同盟ぐらいの理由しか許されない。遊びに行くなんて論外だ。けどスノーに会いたい時は会いたい。…そうなれば、お忍びで直接スノーの部屋に行くしかないからな」

「けどルネージュとネウガード…もしくはムロマチとは、かなりの距離があるはずですわ。一体、どうやって…」

 石鹸の泡で自分の体をマッサージするイグリアスが遠慮がちにそうリトル・スノーとヒロを見ると、二人はまったく表情を変えることもなく答える。

「高位魔族には大した距離じゃない」

「ある程度魔力がある者は空を飛べるんです」

「は?」

 イグリアスの驚愕の言葉と同時に、リューンエルバはヒロを見る。そんなことを聞いたことがないからだ。

「それ本当?」

「嘘を言ってどうする。もともと魔族は下っ端でも魔力を持ってるから、補助魔法の開発が頻繁だ。その時に、本人の質量を越える魔力を持っている奴はコツさえ掴めば飛べることが分かった。他にも瞬間移動的な魔法もあるがな、あれは陣を組むのに面倒だから、わたしはしない」

 淡々と述べるヒロの目は、確かに嘘をついているとは思えない。それどころか、そんなことも知らないのか、とでも言うような表情なのだ。しかし、当然ながら一時大戦と比べると格段に全体的に魔力が劣る第二次大戦の余波を味わっただけの彼らでは、そんなことは知りもしない。人間は地上を這いまわるしかなく、空を羽ばたくことができない変わりに、速い足や羽となる機械を造り、それを利用してきたのだ。そしてそれが当然だった。

「本当に高位魔族だけが使えるものでしたから、恐らく、後世にまでその方法が伝わらなかったのでしょう」

 そうリトル・スノーは小さく破顔したが、それだけが今の大陸住民に飛行の魔術が伝わらなかった要因とは言えない。それほどの魔力を持ち、同時にその魔力を操れるだけの器や集中力がないものが多いことが、大きな理由だった。

 そして、それに気付いているのかいないのか、何でもないように説明するヒロとリトル・スノーはやはり現代の武将達と比べると、持つ魔力の桁が違うのだと思い知らされる。

 優秀な生徒を何人も見て来て、彼らに希望を覚えたイグリアスとリューンエルバが、小さく絶望的な吐息をつくのも仕方がないことだった。今の戦と言っても小規模で、危機感に欠けるところもあるからであろう。部隊を小分けにせず、国同士で戦い、次があるのかどうかも分からないほど犠牲の大きい戦争ではない。その緊張と、絶対的な力を持つ強敵がいた時代は過ぎ去った。世界の危機を危惧する者はおらず、自らの卑小な欲望にのみ戦渦を起こす者ばかりだ。そして力の要となる希望を持つ若い芽は、学園都市に入るものの厳しいシステムにより大半が輝きを失う。

 しかし、一次大戦時は恐らく、もっと多くの者が希望を持ち夢を持ち、自ら戦争に身を投じたのだろう。そして過半数が無残に夢を叶えずに死んでいった。その犠牲の上で、彼女たちのような神に差別されたものは更なる緊張と強い思いを持ってして戦に挑む。――背負うものはどれだけ重いか。今の軟弱な武将たちとの違いは、数ある要因の中でも確実にそこにあった。

「それで…聞きたいことと言うのは、あれだけでいいんですか?」

 静かに考えていたリューンエルバに訊ねるリトル・スノー。もう既に湯船の中に体を滑り込ませており、濁り湯から見える湯より白い肌は今はばら色に火照っている。

「ううん。もちろん他にもあるけど、とりあえず前に言ったことの答えは、聞かせてほしいわ」

 彼女はわかりました、と頷く。彼女の番犬であるヒロは、勿論と言うべきか、なんのことだとは聞かなかった。どうせ、テラスの下に隠れていた時に聞き耳を立てていたのだろう。

「ミュウ、さんでしたね・・・・・。あの子はわたしに直接関係がある子ではありません」

「それは当然でしょうね。なら、あの子のおじいさまに?」

「ええ」

 あっさりと頷いたリトル・スノーではあるが、ミュウはシフォンとは遠縁と思っていたので、それを聞いて少し納得した思いでいた。遠縁であるだけの子どもに、シフォンが天魔の剣を背中に抱かせるとは思っていなかったからだ。

「・・・・・・シフォンさまには、結果的には感謝もしています。けれど、手放しで感謝できる存在ではありません。そして彼がああなってしまった原因である天魔剣が彼女の背中にあって・・・・・少し、どうしようか迷ってしまったんです」

 どうしようか。その意味を問い質す必要などなかった。何より、ヒロもミュウのそれを見たときに、少々手荒なことをした。

「あの子はシフォンさまのようにならない予感はします。けれど必要以上に力のあるものは、いらないものまで呼んでしまう。それを、原因である天魔剣の力を借りずに振り払うことができるのか…それが、彼女に抱く不安です」

 リューンエルバは浅く頷く。けれど、彼女の口元は明るかった。

「それなら杞憂ね。あの子、結構しぶといんだもの。自分の力でどうにかするって意地張ってるところもあるし。――それに、ミュウちゃんには仲間がいるわ」

 リューンエルバは、大魔王ジャネスを倒した三勇者リーダーの人柄など知らない。けれど、ミュウなら知っている。当然のように明るく輝き、とても簡単に絶望から希望を生み出す少女。まるで太陽のように、あらゆるものの力となり希望となり夢となる。そんな力を持っていて、本人にはまるでその自覚のなく、絶望も孤独も振り払う。そんなことができる、自ら光を放つような純粋な少女なのだ。奇妙なしがらみなど、本人も気付いていないうちに突き破ってしまいかねない。

 そして、そんな彼女に惹かれた者はとても多い。惹かれたとは言っても、光り輝く彼女に心酔するわけではないのだ。彼女を支え、彼女を更なる高みに揚げるために傍にいる。そのためには、少々彼女が辛い思いをしたとしても仕方がない。そう無意識に考えている者ばかりが、彼女を慕うのだ。

「・・・・そうですか」

 リューンエルバの言葉の裏にある信頼を感じ取ったのか、リトル・スノーは少し微笑む。タオルで自分の髪を包み込んだイグリアスが、表情を緩めた彼女の方を向いた。

「スカーフェイス君だったかしら…私は、学園在住時にちらっとしか見たことけど…」

「そうそう。あの子もミュウちゃんと仲良くなりかけたんだけど。それから急に行方くらましちゃって…。心配かけさせられたもんだわ」

 苦いため息を吐くリューンエルバに、くすくすとリトル・スノーは笑う。その笑みは皮肉というよりも、微笑ましいと思っているらしい笑い方だった。それは母親のように心配したリューンエルバが微笑ましいのか、それとも何も分かっていない子どものように心配をかけさせながら平然としているスカーフェイスが微笑ましいのか。

「わたしの彼を見る目が違うと仰るんなら、それは意外だからです。だって、ウェイブ様がお子さんを作るとは思いませんでしたもの」

 その言葉にヒロが足を滑らせた。無論、彼女のこけた場所は浴槽であるため、隣にいたリューンエルバに飛沫が掛かったのは当然のこと、向かいにいたリトル・スノーにも、背中に急に大量の湯をかけられたことになるイグリアスも、全員が被害を受けた。

 しかし、加害者のヒロはもっと悲惨だった。浴槽の中で足を滑らせたせいで、何の準備もなしに濁り湯の中に体全体を沈めることとなり、鼻にも喉にも目にも、容赦なく湯が入り込んでくる。素早く顔を出したものの、かなり激しく咳き込んで、数分間はくしゃみと咳を繰り返していた。

 そして、もう真っ赤になってしまった鼻を啜りながら――無論、くしゃみも咳も、他の三人が浴槽以外の場所でするようにさせたが――、不自然に潤んだ目でリトル・スノーの方を見る。

「・・・・・あの朴念仁に、子どもだと・・・・・?」

 凝視と言ってもいいほどの疑わしげな目を向けるヒロだが、リトル・スノーはけろりとした顔で頷く。

「ええ。あの波動は間違いなくウェイブ様のものよ。ヒロは何も感じなかったの?」

 逆に何でもないように訊かれて、ヒロはあんぐりと口を開ける。その表情には明らかに戸惑いが見られ、本当に戸惑っているような、自分が何を聞いたのか未だに判断が付かない子どものような目でリトル・スノーとリューンエルバを見た。

「・・・・・・一応、なんとなく懐かしい気配だと思った。知ってる何かと近いけど、あのガキが作り出しているのは拒絶の空気だ。あいつは不動だ。・・・・・ものが、全然違う」

 まだ混乱しているらしい言い方に、しかしリトル・スノーは穏やかな表情で頷く。

「そうね。わたしも彼の空気を感じたときには一瞬間違いかと思ったの。けど、それなら、彼を見たときにあの方の気配が思い出されるのはどうしてかしら」

 淡々と述べるリトル・スノーの言葉に、ヒロは棒でも飲み込んだような顔になって、それから洗い場でくたりと腰を抜かした。どうやら、その事実は余程彼女にとって衝撃的なことだったらしい。

 だからと言って――あることに気が付いたイグリアスが気まずそうな表情であさっての方向を向きながら静かに浴槽の中に入り込むが、それに対し遠慮がないのがリューンエルバだった。

「ねえヒロ」

「・・・・・・・」

 無論、ヒロから返事はない。放心状態に近い。それでも、リューンエルバは敢えて声をかけることを止めようとはしなかった。

「見えてるわよ?」

 それを聞いて、ヒロは我に返ったらしい。

 自分の股間部分をしっかりと手で覆うと、そのままずぶずぶと浴槽に入っていく。湯で顔の半分が見えなくなったところで、リトル・スノーが困ったような笑みを口元に作り、リューンエルバに向き合う。

「それで、他に訊きたいことはありませんか?」

 むしろ、ようやく今から「何を訊きたい」とでも言うかのような言い方だった。

 当然ながらリューンエルバもそういう差し障りのない問題以外の訊きたいことがあって、彼女を風呂場まで誘ったのだ。そうねえ、と気軽に呟いたリューンエルバの目は、険悪ではないがひっそりと鋭さを増していった。

「わたしに直接関係あることじゃないの。ただ、今まで話を聞いてて、ちょーっと気になったことなんだけどね?アキラ君のことで」

 同じ異界の魂で、自らのことを不完全なものと名乗る、不安定な少年。

 リトル・スノーは静かに彼の感情の変化を思い出しながら、浅く頷いた。

「アキラ君に、元に戻る方法を教えてくれって言われたとき、貴女はすぐにその条件を答えた。何故そう言えるの?貴女はまだこの世界にいて、この世界と繋がりを持つ冥界にいたのに」

 何故、異界チキュウに戻ろうとしなかったのか。何故、この世界に留まり続けるのか。しかし何故、異界への帰還方法を知っているのか。

 三つの問いが裏付けされた、事実上一つの問いに、リトル・スノーは表情を変えず答えた。

「わたしの持つ力に帰還に関する知識も含まれていましたから。彼は自分しか知らない素振りをしていましたけど、わたしも知っていました。そして、わたしはその条件が満たされるように努力しました。――けれど、その条件がある意味で満たされたとき、わたしはチキュウに何の憧憬も抱いていませんでした」

 彼女がチキュウで得ていたものは、孤独と、絶望と、苦痛と、悲しみ。長い長い道のりを、ただ傍に誰もおらず、たった一人で歩かねばならない過酷な状況。そしてそれが、当然のものであると周囲に知らされる状況。

 しかし彼女がこの世界で得たものは、愛情と、友情と、未来と、ひと時の楽しみ。無論のことながら苦しみ、傷付き、死にたいと思うときもあった。こんな世界に来なければいいと思ったときは数知れない。けれど、チキュウでただ惰性の如く、腐るように堕ちていくよりは、もっとずっと輝かしく、精一杯に自分の一生を終えることができた。自らの誇りをかけて、自己満足ではあるが、達成できるものがあった。

 その痛みと喜びをひっそりと思い出しながら、リトル・スノーは小さく微笑む。本当に、自分はこの世界で生きるために、チキュウで生きてきたのだと何度も思わされる。どちらも無駄ではない。どちらの世界もなくても、今の自分はいなかった。

「彼?」

 訝しげなイグリアスに、リトル・スノーは頷く。

「歴史書の類には書いていませんでしたか?もう一人、ルネージュ公がおられましたけど――ほとんど彼がわたしを召喚したも同然でしたから」

 ああ、と教官二人は頷く。そう言えば、召喚した魔王ジャドウと――彼女は結局のところ恋仲だったのだ。そういう意味では、「条件がある意味で満たされる」とは、分かりやすく言えば――

「えーっと・・・・・召喚主と召喚者の条件達成に、ある意味満たされるっていうのは、その・・・・・・」

 最早、条件などどうでもいい。彼女が帰りたいと言えば、魔王はそれを承諾するしかない。彼女の願いなど、無碍には断れない。そういう、情熱的で耽美な感情が、魔王とこの異界の魂の間には、芽生えていたと言うことか?そう言えば、拉致未遂の伝説も残っている。あれは一種の駆け落ちに似たようなものだったのか?

 それを想像して少し頬が赤くなった教官二人に対し、別の意味で頬が赤くなっていたヒロが胸が悪いと言わんばかりの顔をする。

「けったくそ悪いな。あの愚兄がそこまで盲目的になるか?」

「さあ。けど多分・・・・・・」

 微笑を浮かべたまま、リトル・スノーは瞼を閉じる。まるで、ある可能性を慈しむように。

「わたしが世界を制圧して、否応なしにチキュウに帰ってしまうことになったら、あのひとはまたわたしを召喚しようとするでしょうね。何年でも犠牲にして」

 断定的なその言葉に、ヒロは少々気分を悪くしたらしい。そこまで彼女に言わせるほど、彼女と兄の仲は確実なものだったのだと思わされて。そう――彼女があの男に命をかけて封印したように、それに値するほど、あの男も彼女を愛した。そうでなければあの気位の高い男が魔王軍設立時に彼女をルネージュから奪おうとしたり、戦の波に乗じてルネージュには敢えて手を付けなかったことも納得がいく。

「そこまで想ってる自信があるくせに、おまえ達は結局何もしなかったんだな」

「そんなことないわよ?」

 意外そうに返答するリトル・スノー。それに、むしろヒロが意外そうに彼女のほうを見た。

「じゃあ何をした?逢ったときが数年ぶりの再会じゃなかったのか?」

 それを訊かれて、彼女は困った顔をした。むしろ、自分が失言したという顔である。あからさまに視線をヒロからそらし、言い訳を考える。

「まあそうだと言えばそうだけど・・・・」

「何だ。前に会ってたのか?」

「ええ、まあ・・・・・・・」

「別に悪いことじゃないんだろ?会ってたぐらいで怒るほど、わたしは短気じゃない」

 嘘つき。と言い返したくなったリューンエルバである。でなければ寝起きの悪い彼女を起こすときに自分が痛い目に合うことはなかったはずだ。

「ならいいけど・・・・」

 さすがに後味の悪い言葉を返されては、ヒロの方も顔が立たない。むっとして彼女を見返すが、それでもリトル・スノーの顔色は冴えない。

「・・・・・・・そこまで信用ないものなんだな、わたしは」

「だって・・・・・詳しいこと知ったら、ヒロ、ぜったいに怒るもの」

 ヒロがそこまで譲歩したと言うのに、リトル・スノーの方も頑として譲らない。その、少し気まずい雰囲気が流れる中、話の流れを戻そうと、敢えて明るい口調で――しかし明るく話せるほど軽い話題ではないのだが――リューンエルバが二人の間に割って入る。

「それで?次の質問に移っていーい?」

「ええ、どうぞ」

 リトル・スノーの気遣いを窺わせる声に、リューンエルバはヒロの厳しい視線を浴びながら口を開く。

「じゃあ訊くけど――伝承によるところでは、貴女は未来と真実を見れるのよね」

「はい」

「けど――私達の、心も読める?」

 彼女の声色は慎重だった。リトル・スノーの洞察力が優れているせいからなのかは知らないが、彼女はどうも冷静すぎる。切羽詰ったアキラに対し、自分達でも少し気を使って言葉を探すのに、彼女は態度を乱すこともなく的確にアキラの矛盾を突いた。――自分達や仲間が彼の心の矛盾をついたところで、あそこまで彼を怒らせることも、あそこまで彼の立場を知らしめることもなかったろうに。まるで、彼の心理を手にとるように分かっていたかのように。

 しかしそれも、読心術に優れていれば当然なのかもしれない。彼女のように人を平静にすることのできない容姿を持ち、外交能力に優れているのならば、別にそんな能力がなくとも――

「ええ。そうですよ」

 しかしリトル・スノーは、あっそりとそれを認めた。内心やはりかと肩の力を落とし、そうだったのかと吐息をつく。

「言葉の意味から分かると思いましたけど――真実と言っても、この大陸の歴史の真実でもあり、誰かの心の真実でもあります。だから、人の心も読めることになります」

 まあ、その理屈は分からないでもない。それで成る程、とイグリアスは内心密かに頷いた。

 冥界王の小鳥が、彼女に欲情しても彼女の前ではその想いを心の中でも表に出してもならない――そんなことを言っていたのは、彼女がその性欲に孕んだ心すら読めてしまうから。それを回避するために、彼女の前では純粋を装えなどという無理なことを言ったのか。まあ、イグリアスにはそれが困難なことなのか簡単なのか分からないが。

「その点からすれば、あの子達はとても素直です。自らの思いを純粋に形作り、それを表し、自分の感情をコントロールすることに慣れています。当然のことかもしれませんけど、それは出来ない人には難しいことだから」

 まるで教育者のようなその重みのある言葉に、扱いの難しい年齢の若者を教育する立場の二人が心の中で深く同意する。と同時に、幾人かの問題児でも、彼女にとってはまだ可愛いほうなのだろうかと思った。それに答えるように、リトル・スノーは二人に笑う。――少し、苦いものが混ざった笑み。

「まだ教育というものが根付いていない時代は、言ってみれば誰も精神上の手助けしてくれないまま成長する場合が多々あるんです。――歪んでしまった心を正常と思ったまま、大人になっていく人が少なくなかった頃ですから」

 それは誰のことだったのか。無論、彼女は語ろうとしない。

 それでも、おおよそではあるが予想の付く何人かを思い浮かべ、ヒロは重い吐息をついた。彼女の心配は、ヒロのような性格の人物からすれば杞憂も甚だしい。歪んだ魔族なり人間なりは、そのまま放置していればよかった。それに気付くのは本人であり、それをどうするかは本人が決めればよいと思っている。だから、彼女のような考えは、彼女にとって骨折り損なのではないかとしか思えない。もう、過ぎてしまったことなのに、そんなことを未だに気にしているのだから、ため息を吐くほかにないのだ。

「もうそろそろ、上がったほうがいいんじゃないか」

 ため息のついでにそう呟くヒロに、他の三人は思い出したように頷いた。

「ああ、そういえば」

「そうですね。もうそろそろ上がりましょうか」

「次の子たち混んでなきゃいいけど」

 それぞれそんなことを言いながら湯から上がる。

 そして、先頭のイグリアスが脱衣所のドアを開けた時、脱衣中らしい三人の少女が目を丸くしてこちらを見ていた。

「なっ」

 タルナーダが髪留めを解きながら顔を赤くする。

「え」

 ホルンが靴下を折りたたみながら硬直する。

「…!」

 グリューネルトが動揺して繊細なレースの塊を竹篭の中に仕舞い込む。

 無論、少女たちは教官たちが入っているらしいということは承知だった。しかし、彼女たちが何を話していたかは知らないし、知るつもりもない。風呂場というのは共有はしているものの、一緒に入っている者とのプライヴェートな空間でもあるからだ。

 それでも彼女達は赤面し、硬直した。教官たちが自分達と鉢合わせになることを充分承知の上で。

 その理由はと言えば、実に簡単である。教官たちの入浴に、ある人物が連れ添っているとは思いもしなかったからだ。

「・・・・・・スノー」

 無論、それは誰かと言うと、心地よい温度の湯に長時間浸かり、真白の肌が艶やかな薔薇色に変化した、異界の魂その人である。

「なに?」

 硬直している三人をほぼ無視して、バスタオルで体の水滴を拭うヒロに、同じく薄いタオルから、分厚くて獣の皮のように柔らかい木綿のバスタオルに身を包んだリトル・スノーが不思議そうな顔をする。

「お前のそれはどうやって着るんだ?」

 顎で彼女の着替え一式が入っている竹篭を指す。すると、彼女はちょっと微笑む。

「秘密。見てれば分かるでしょうけど、色々とこつがあるの」

 そう言って、形としてはごく一般的ではあるものの、まるでナハリかシルヴェスタの職人が、ムロマチの絹を用いて一針ずつ丁寧に仕上げていったかのような繊細で上品なレースに縁取られた純白の下着を手にする。

 それを見ただけで、硬直していた生徒たちはのぼせ上がらんばかりに全身を赤くして、自分の脱衣を中断してしまう。

 もう既に服を着て、スリットのベルトを締めているリューンエルバが、ふと視界に入った白い肌――視線をリトル・スノーの背中に集中させる。

「それにしてもきれいな肌ねえ。王宮生活の時は、マッサージは欠かさずにしてたの?」

 下着を着け終え、純白のドレスを着るために髪を大きく纏め上げたリトル・スノーが浅く頷く。

「ええ。王宮生活はそういうものです。わたしがいらないと言っても、それをする専門の係りの人を路頭に迷わせるわけには行きませんから」

 彼女は自分では勿体無いほどの贅沢だったと言うようにそんなことを言ったが、実際の王宮生活を愉しむ王族の女性などそれの比ではない。数十人の侍女を連れ、一般家庭の家並の浴室で、ありとあらゆる飽くなき美の追求を重ねる。最高級の石鹸で軽く体を洗い、適当な温度の湯に浸かり、香油を数滴垂らして簡単に筋肉の疲れを落とすマッサージだけのものなど、王族の典型的な女性から見れば考えられないほど質素な入浴であろう。

「いいわねえ。温泉もいいけど、そういうちょっと贅沢なお風呂っていうのも入ってみたいかも」

 うっとりと目を瞑ってため息をつくリューンエルバだが、それを聞かされた生徒たちの方はそうはいかない。美貌というには少々積極性に欠けるが、それでも充分美しいと断言できる女神のような女性が、肌を露わにして間近でいるのだ。その気がなくても、全ての淑女の手本となりえるひとの肌を見るだけで、彼女たちは自分でもおかしいくらい緊張していた。

「けど出来ないものではないでしょう?その手の日用品は、昔に比べてかなり安くなってると思いますけど」

「まあ一人でなら出来そうだけど、他の人にやってもらうっていうのが贅沢なの。ヒロはあんまりそういう経験なさそうだけど」

「五月蝿い黙れ」

 それが図星なのか、それとも単にそう思われていることへの反発か、ヒロが白いワンピースを被ったままの姿勢で呟く。ワンピースとは言っても、胴体の部分は前方がくり抜かれており、上半身を隠す布地は肩と首しかない。その上に地が紫で赤の装飾が施されているストラを着れば、ヒロのいつもの格好となる。つまり、この中で最も困難なヒロの着替えの完了が近いということだ。

 そして、その短い会話の間に、リトル・スノーは着替えを完了したらしく、厚みのあるハイネックのドレスが白い肌と入れ替わっていた。

「短気は駄目よ、ヒロ」

 そう短く、諭すような言葉を投げるものの、注意された張本人は明らかに反抗的な表情でリューンエルバを指差す。

「あいつのせいで短気になったんだ。まずあいつから注意しろ」

 しかし、リトル・スノーも譲らない。静かに首を振って、意外にも厳しい口調で告げた。

「もともとヒロは短気なの。挑発されるとすぐに怒るんだから。もう少し落ち着きなさい」

 頼みの綱とでも言うのか、彼女にとって唯一完全に信頼できる存在からの手痛い態度に、ヒロは少し打ちひしがれたような顔をすると、途端に拗ねたような幼い表情になる。

「それは無理だ。もともとわたしはこういう性格なんだよ。おまえも分かってるだろう?」

「ええ勿論。けれど、別の方向性を既に諦めて、そういう言い訳で逃げるのはよくないと思うわ」

 ぴしゃりと言い返されると、ヒロは何も言えなくなったらしい。むう、とやけに可愛らしい唸り声を上げると、降参したように彼女から目をそらした。

「分かった。ああいう言い逃れは今度から止めておく」

「そう。嬉しいわ」

 口調は気軽ではあるものの、本当に嬉しそうに微笑むリトル・スノーに、反省したと言ったはずのヒロがまた睨みを利かせた。しかし、それは彼女に対する悔し紛れの抵抗でもあり、同時に助言のためでもあった。

「けど、それを言うんならお前もそういうことは止めておけ。ここの奴らはわたしほどお前に対する免疫がないんだ。一週間もたたない内に腑抜けが出る」

 具体的にどう言うことかということと、免疫だの腑抜けだのという言葉の繋がりが分からなかったらしい。リトル・スノーは少し困ったような顔をして、そっと相手を見た。

「そういうことって言われても…わたしはただ、普通に忠告をしたつもりだけど…」

 どうやら、忠告の方法が悪いと感じたらしい。無論、彼女の言いたいことはヒロも分かっているし、彼女が自分の言いたいことの意味を取り間違っているも分かっている。それに対し、ヒロはため息を吐くと、浅く首を振って彼女を促した。

「そうじゃない…まあ、それはどうでもいいから、とっとと行くぞ。お前がいると脱げないらしい」

「え・・・・?」

 事実、教官たちのことは覚悟していても、異界の魂が同席していたことは全くの予想外だった少女たちは、未だにそれぞれの脱衣を完了させていない。完全な硬直は解けたものの、それでも各自、自分の平常心を保とうと必死になってうずくまったり深呼吸したりしている。脱衣に気をまわすほどの余裕は、まだないのだ。

 それを見てどう思ったのか、何となく、何かを諦めたような寂しさのある笑みを浮かべて、リトル・スノーは三人に謝った。

「お邪魔をしてごめんなさいね」

 そうして、音も立てずドアが閉められる。

 中にいた少女三人が、平常心を取り戻してくると同時に、小さく曖昧な罪悪感に囚われたのは、ほんの数分後の話である。

 

 真夜中を回るほんの数分前、薄暗いロビーで三人の男女がそれぞれに酒を嗜んでいた。その三人しかいないのは、彼らが酒を飲んでいる場所が宿屋であることと、もう他の面々は早々に切り上げたからである。

「で、どうする」

 宿屋の親父が作ってくれたギムレット片手に苦い表情で呟いたマックスに、ギブソンを水の如く口に運ぶリューンエルバが目で訊ねる。意味は無論、

「何が?」

 それに、顔より苦い声を出して、彼はため息を吐いた。

「問題と思ってないんだな。リーエは」

「恐らくね。まあ私も、無理に騒ぎ立てるようなことではないと思うけど」

 ミモザを少しずつ嗜みながら呟くイグリアスに、マックスは呆れたと言わんばかりの目を向ける。

「お前までその調子か?一番最悪な調査結果が今更出てきて、おまけにアキラはむくれるわ、他の奴らはのぼせるわ…これが問題じゃなくてどうなる」

「落ち着きなさい。確かに彼女が現れてしまったことは最悪なパターンではあるけど、私達が最悪と考えた状況と違うわ」

 無骨なランプの灯に透明な酒をかざしながら、リューンエルバが同じくゆったりとした口調で呟く。

「そうよお。あなたたちが考えてた『最悪のパターン』って言うのは、ルネージュ公国の神官達が、女王さまの召喚に成功することでしょ?彼女が今ここにいるのは、鵜呑みにするなら冥界王――あの鳥のせいだもの。それにその目的は大陸制覇でないことだけは分かってる。それで今は充分じゃないの?」

「私もその意見に賛成だわ。それに彼女はこちらの心を見透かすことが出来る。態度から見るに、恐らく普段は見ないように抑えているみたいだけど、彼女を無闇に疑ったり訝しんだりすることは止めた方がいいわ」

 低くそう告げるイグリアスの横顔を見て、マックスはため息を吐くしかない。その目は冷静で、いつもの彼女と何ら変わりがないのだ。かの寒国の女王に魅了されたのではなく、客観的に事実を述べているのだということがよく分かる。

「――しかし、それにしたって、今日、あの女王さまが顔を見せただけでもかなりの影響があるんだぞ。それがよくない方向に転ぶ可能性は大いにある」

「・・・・・・・」

 女性教官の二人が押し黙る。その可能性は無論考えているものの、それを予防する方法が浮かばない。

 少し遠慮がちに、リューンエルバが口を開いた。

「けど、彼女に近付かないようにしたら、それはそれで問題があると思うのよ。ミュウちゃん達なんか、明日から早速女王さまを遊びに連れて行くみたいだし…」

「そうね。さすがにべったりくっ付きすぎるような子には注意するけど、ある程度親しくなって、それで戦闘の際にも張り切るようになるならいいわ。けど、・・・・・・・」

 問題は、アキラ一人。

 アキラが異界の魂と知って、驚く者もいれば興味を持つ者もいたし、気にしない者もいれば羨ましがる者もいた。まあ、アキラは言い方は悪いが、その程度の反応で済んだのだ。けれど、彼女は違う。

 誰もがリトル・スノーに惹かれた。否、惹かれたと言うのは生ぬるい。むしろ心奪われたと言っても過言ではない。生徒のほとんどが彼女の姿に呆気にとられ、そして気になって仕方がないと言うように落ち着きのない行動をする者しかいなかった。彼女には、「異界の魂」と言う肩書き以上の魅力が備わっているのは分かっている。けれど、それと同時に彼女もアキラと同様、異界の魂なのだ。

 同じ異界の魂で、しかも自分がこの世界に呼ばれる元凶に対し、アキラが憎悪とも憧憬ともつかない感情を抱いていることは想像に容易い。

 彼女を憎悪一色の感情で見れる者などいやしない。アキラが正当に彼女を恨むことの出来る立場にいるのかもしれないが、それでも彼はきっと彼女を恨めない。けれど、自分と違う、自分より持てはやされている、彼女が憎くてたまらない。

 そこまで複雑な感情を、本気で抱いたことはないものの、三人はそんな立場を想像しただけでため息をつくしかない。

 確かにあの小鳥の言うように、ミュウを始めとする生徒達は善意を持って彼女に接し、甘えるだろう。しかし、それを見せ付けられ、同じ異界の魂であると言うのに蔑ろにされる、アキラはどうなり、どうするのか。

「・・・・一ヶ月ねえ。一週間でもやばそうなのに、そこまで持つかしら。アキラ君」

「元々不安定で、素直じゃないからな。最近やっとまともになってきたかもしれないって言うのに、なんたってこんなことに…」

 苛立つように拳を握るマックス。イグリアスが彼に向ける視線も暗い。

「けれど、今更それを言っても仕方ないわ。私達が彼に出来ることと言ったら、彼を見守ることだけだもの」

「まあな・・・・・・」

 アキラに対する無駄な介入が、諸刃の刃となる可能性は極めて高い。彼は気を使われることに対し敏感で、頑なに遠慮する割には、構ってくれる人が誰もいないと機嫌が悪くなる。

 そういう分かり難い性格の人間への対応は、適度に付き合うか少々強引に付き合せるかの二者択一で、強引な方は生徒達の十八番であった。しかし、今はその存在は除外していた方がいい。となれば、大人たちがアキラを見守ってやるしかないのだ。無駄に付き合わせると、自分の機嫌を取るためにいやいやながら付き合っているのかもしれないと疑われる。

「一番いいのが、アキラが女王に対するわだかまりを捨てることなんだがなあ・・・・・」

「そそ。それで皆と一緒に女王さまと付き合ってくれれば、かなりこっちは安心できるんだけどね」

 翌朝起きて、アキラがそうなっているはずがない。アルフリードやニヴァにからかわれるほど繊細な性格なのだ。今まで自分達でさえ遠慮していたのに、彼女にだけはそうなるはずなど絶対にない。

「・・・・・・ないもの強請りは、止めておきましょう」

 想像して虚しくなったのか、それとも明日からのことを考えると頭が痛くなったのか、イグリアスがそう呟くと、間にいる二人が大きく頷いた。

 空に浮かぶ満月は、昨日の静かな美しさを失い、まるで月よりも清らかな光りを放つ女性に嫉妬するように、濁った光を帯びていた。

 

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